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本年もどうぞよろしくお願い致します。<br />今年最初の旅行記は、年末の28日から31日までの旅となりました。<br />琵琶湖湖畔に建つ琵琶湖ホテルからの朝日の写真を表紙に採用しました。<br />*****<br /><br />計画を始めたのは11月ごろから。<br />目的地は3泊という日程的には関西方面へ?と思い、<br />京都、奈良の定番の地でなく、琵琶湖周辺へ行ってみることになった。<br />千葉県、神奈川県で大友皇子にまつわる痕跡の地を追いかけていたので、<br />大津京があったとされる大津にはとても興味があった。<br /><br />そのような経過で大津に2泊、2日目からレンタカーを2日間予約し、<br />3泊目は京都泊、大晦日は早目に帰宅するという大まかな予定ができあがっていた。<br /><br />ところが出発の日が近づくとともに、近年にないくらいの寒波が襲来するとのニュースが。<br />流石にレンタカーは当初からスタッドレスタイアに替えていただいていたが、特に琵琶湖の東岸あたり、<br />彦根でも積雪が7~80センチになっていて<br />スタックしている車の渋滞ニュースにはビビってしまった。<br /><br />前日にレンタカーはキャンセル。電車の運行状況への対応は<br />現地に行ってから考えることにした。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

年末は寒波到来との予報の中、大津までとにかくやってきた。

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2021/12/28 - 2021/12/28

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旅行記グループ 壬申の乱を巡る旅

10

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mistral

mistralさん

本年もどうぞよろしくお願い致します。
今年最初の旅行記は、年末の28日から31日までの旅となりました。
琵琶湖湖畔に建つ琵琶湖ホテルからの朝日の写真を表紙に採用しました。
*****

計画を始めたのは11月ごろから。
目的地は3泊という日程的には関西方面へ?と思い、
京都、奈良の定番の地でなく、琵琶湖周辺へ行ってみることになった。
千葉県、神奈川県で大友皇子にまつわる痕跡の地を追いかけていたので、
大津京があったとされる大津にはとても興味があった。

そのような経過で大津に2泊、2日目からレンタカーを2日間予約し、
3泊目は京都泊、大晦日は早目に帰宅するという大まかな予定ができあがっていた。

ところが出発の日が近づくとともに、近年にないくらいの寒波が襲来するとのニュースが。
流石にレンタカーは当初からスタッドレスタイアに替えていただいていたが、特に琵琶湖の東岸あたり、
彦根でも積雪が7~80センチになっていて
スタックしている車の渋滞ニュースにはビビってしまった。

前日にレンタカーはキャンセル。電車の運行状況への対応は
現地に行ってから考えることにした。





旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦
交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄
旅行の手配内容
個別手配

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  • 2021年12月28日<br />大雪警報が発令されている中、朝9時過ぎの新幹線に乗り込んだ。<br />名古屋からは徐行運転をするとのアナウンスがあったが<br />京都には約30分の遅れ程度で到着、その後大津までやってきた。<br />湖西線などは当日は停まっていた。<br />

    2021年12月28日
    大雪警報が発令されている中、朝9時過ぎの新幹線に乗り込んだ。
    名古屋からは徐行運転をするとのアナウンスがあったが
    京都には約30分の遅れ程度で到着、その後大津までやってきた。
    湖西線などは当日は停まっていた。

  • 琵琶湖西岸にある大津の街は雪の気配もなかった。<br /><br />ホテルは琵琶湖に面した琵琶湖ホテル。<br />荷物を預けて出かけることにした。<br />京阪石山坂本線という路線が比叡山口と石山とを結び走っている。<br />この路線は(JRとは違って)滅多に運休しないそう。<br />ホテル近くから駅まで続く陸橋を移動中。

    琵琶湖西岸にある大津の街は雪の気配もなかった。

    ホテルは琵琶湖に面した琵琶湖ホテル。
    荷物を預けて出かけることにした。
    京阪石山坂本線という路線が比叡山口と石山とを結び走っている。
    この路線は(JRとは違って)滅多に運休しないそう。
    ホテル近くから駅まで続く陸橋を移動中。

  • ホテルからも徒歩圏にある<br />「びわ湖浜大津」駅は一帯の中心部のようで<br />2両編成の電車の線路が街なかを入り組んで走る。

    ホテルからも徒歩圏にある
    「びわ湖浜大津」駅は一帯の中心部のようで
    2両編成の電車の線路が街なかを入り組んで走る。

  • 近江神宮前駅にて下車。<br /><br />一帯は住宅街だが<br />神宮方向へ曲がる角が空き地になっていて<br />そこに志賀皇宮遺跡との碑が建っている。

    近江神宮前駅にて下車。

    一帯は住宅街だが
    神宮方向へ曲がる角が空き地になっていて
    そこに志賀皇宮遺跡との碑が建っている。

  • 案内板の説明によれば:<br />「大津宮の位置については錦織説、南志賀説、滋賀里説等があり、その位置については容易に明確にすることができませんでしたが、<br />昭和四九年にここ錦織二丁目で行われた発掘調査により、東西南北に整然と並ぶ大型の柱穴が十三基発見されました。 <br />この遺構は東西に細長い建物跡と推定され、発見された地層や建物の規模などから、宮に関連するものとしか考えられず、ここが大津宮の有力な候補地として注目されるようになりました。<br />その後、昭和五三年に、この建物跡の続きの部分を発掘調査したところ、さらに東に延びる柱列が発見されたことにより、この部分は、内裏南門と宮の中心を囲う回廊とこれにつながる柵の跡と判断され、この部分が大津宮のまさに中心部分であることが明らかになりました。」<br /><br />などとあって<br />この区画の発掘調査はまだ済んでいないようだが、発掘された周辺の<br />遺跡の状況から、ほぼこの地に宮があったことは間違いないようだ。<br />

    案内板の説明によれば:
    「大津宮の位置については錦織説、南志賀説、滋賀里説等があり、その位置については容易に明確にすることができませんでしたが、
    昭和四九年にここ錦織二丁目で行われた発掘調査により、東西南北に整然と並ぶ大型の柱穴が十三基発見されました。
    この遺構は東西に細長い建物跡と推定され、発見された地層や建物の規模などから、宮に関連するものとしか考えられず、ここが大津宮の有力な候補地として注目されるようになりました。
    その後、昭和五三年に、この建物跡の続きの部分を発掘調査したところ、さらに東に延びる柱列が発見されたことにより、この部分は、内裏南門と宮の中心を囲う回廊とこれにつながる柵の跡と判断され、この部分が大津宮のまさに中心部分であることが明らかになりました。」

    などとあって
    この区画の発掘調査はまだ済んでいないようだが、発掘された周辺の
    遺跡の状況から、ほぼこの地に宮があったことは間違いないようだ。

  • 史跡 近江大津宮遺跡 との立看板。<br /><br />「西暦六六七年、天智天皇は新羅・唐の連合軍と対戦し終わった後、 突然都を飛鳥から近江に移しました。 この近江に営まれた宮が大津宮です。 天智天皇は律令制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしましたが、遷都後わずか五年でこの世を去り、その後に起きた壬申の乱によって大津宮自体も廃墟となってしまいました。 <br />わずか五年五カ月の短命の都でした。<br />以下略<br /><br />ここに、長年追い求め続けられてきた大津宮の位置が確定され、昭和五四年に建物跡の見つかった部分が国の史跡に指定されました。その後に発見された宮関連の建物跡などの遺構がある場所も順次史跡に追加指定されています。」<br /><br />などと書かれた案内板がいくつか立っていて興味深い。<br />

    史跡 近江大津宮遺跡 との立看板。

    「西暦六六七年、天智天皇は新羅・唐の連合軍と対戦し終わった後、 突然都を飛鳥から近江に移しました。 この近江に営まれた宮が大津宮です。 天智天皇は律令制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしましたが、遷都後わずか五年でこの世を去り、その後に起きた壬申の乱によって大津宮自体も廃墟となってしまいました。
    わずか五年五カ月の短命の都でした。
    以下略

    ここに、長年追い求め続けられてきた大津宮の位置が確定され、昭和五四年に建物跡の見つかった部分が国の史跡に指定されました。その後に発見された宮関連の建物跡などの遺構がある場所も順次史跡に追加指定されています。」

    などと書かれた案内板がいくつか立っていて興味深い。

  • 1895年(明治28年)建立の志賀宮址碑<br /><br />文字はかすれていて殆ど読めなくなっているが、<br />「言い伝えによりここに大津宮があったので記念碑を建てる」<br />というような内容が書かれていた(そうだ。)<br />発掘によってその事が証明されたわけで、「伝承」されてきた事がらが<br />実は真実だったとの良い例となっている。

    1895年(明治28年)建立の志賀宮址碑

    文字はかすれていて殆ど読めなくなっているが、
    「言い伝えによりここに大津宮があったので記念碑を建てる」
    というような内容が書かれていた(そうだ。)
    発掘によってその事が証明されたわけで、「伝承」されてきた事がらが
    実は真実だったとの良い例となっている。

  • 「万葉集」に載る柿本人麻呂の挽歌の碑もそばにはあった。<br />壬申の乱後、廃墟と化した近江大津宮を歌ったものだそう。<br /><br />「玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生まれまし <br />神のことごと つがの木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを <br />天にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越え いかさまに <br />思ほしせめか 天ざかる 鄙にはあれど 石走る 近江の国の <br />さざなみの 近江の宮に 天の下 知らしめけむ 天皇の 神の尊の <br />大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言えども 春草の <br />茂く生いたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮所 <br />見れば悲しも」

    「万葉集」に載る柿本人麻呂の挽歌の碑もそばにはあった。
    壬申の乱後、廃墟と化した近江大津宮を歌ったものだそう。

    「玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生まれまし 
    神のことごと つがの木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを 
    天にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越え いかさまに 
    思ほしせめか 天ざかる 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 
    さざなみの 近江の宮に 天の下 知らしめけむ 天皇の 神の尊の 
    大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言えども 春草の 
    茂く生いたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮所 
    見れば悲しも」

  • 史跡近江大津宮錦織遺跡 第八地点<br />平成11年1月14日指定<br /><br />「・・・・・昭和四九年の発掘調査により、この第八地点の北に隣接する第一地点で内裏南門跡が発見され、ここ大津市錦織の地に大津宮があったことが確認されました。<br />第八地点は、まだ発掘調査は実施されていませんが、その位置関係から内裏南門の一部が存在するものと考えられます。 まさに大津宮中枢の入口にあたる重要な地点です。<br /><br />この第八地点の西を南北に走っている道路は、大津宮の南北中軸線にほぼ相当、西近江路と呼ばれた重要な交通路でした。 この道を北へ辿ると、大津宮と同時代、南滋賀町廃寺跡や崇福寺跡といった史跡を訪れることができます。<br /><br />平成19年3月<br />滋賀県教育委員会」

    史跡近江大津宮錦織遺跡 第八地点
    平成11年1月14日指定

    「・・・・・昭和四九年の発掘調査により、この第八地点の北に隣接する第一地点で内裏南門跡が発見され、ここ大津市錦織の地に大津宮があったことが確認されました。
    第八地点は、まだ発掘調査は実施されていませんが、その位置関係から内裏南門の一部が存在するものと考えられます。 まさに大津宮中枢の入口にあたる重要な地点です。

    この第八地点の西を南北に走っている道路は、大津宮の南北中軸線にほぼ相当、西近江路と呼ばれた重要な交通路でした。 この道を北へ辿ると、大津宮と同時代、南滋賀町廃寺跡や崇福寺跡といった史跡を訪れることができます。

    平成19年3月
    滋賀県教育委員会」

  • 史跡近江大津宮錦織遺跡 第2地点<br />との石碑

    史跡近江大津宮錦織遺跡 第2地点
    との石碑

  • 「この場所は、内裏南門推定地(第1地点)の真北約80メートルの場所にあり、政を執り行った内裏正殿のあった場所、つまり大津宮の中心的位置とされています。<br />・・・・・<br />この内裏正殿の建物は、道を挟んだ第7地点と第9地点まで広がっていたと考えられます。<br />滋賀県教育委員会」

    「この場所は、内裏南門推定地(第1地点)の真北約80メートルの場所にあり、政を執り行った内裏正殿のあった場所、つまり大津宮の中心的位置とされています。
    ・・・・・
    この内裏正殿の建物は、道を挟んだ第7地点と第9地点まで広がっていたと考えられます。
    滋賀県教育委員会」

  • 掘り返した折の写真が載せられているが<br />今はすっかり埋め戻されている。

    掘り返した折の写真が載せられているが
    今はすっかり埋め戻されている。

  • 「ここ第1地点では、一辺140~170センチメートルの方形の堀方を持つ東西棟の建物とそれに取りつく回廊、更に、回廊に直角に取り付いて北に伸びる塀などが見つかりました。東西棟の建物は内裏の南門、回廊は複廊と考えられています。複廊は古代の宮殿において、その中心となる施設を囲む回廊に用いられる廊の形式で、格式の高いものと考えられています。<br />  滋賀県教育委員会」

    「ここ第1地点では、一辺140~170センチメートルの方形の堀方を持つ東西棟の建物とそれに取りつく回廊、更に、回廊に直角に取り付いて北に伸びる塀などが見つかりました。東西棟の建物は内裏の南門、回廊は複廊と考えられています。複廊は古代の宮殿において、その中心となる施設を囲む回廊に用いられる廊の形式で、格式の高いものと考えられています。
      滋賀県教育委員会」

  • ここ迄の写真を撮影してきたのは<br />ほぼ中央にある「おうみじんぐうまえ」駅から<br />直ぐの赤い印の箇所のみ。<br />他にも広大な地点に遺跡は広がっている様子だったが<br />付近は民家が立ち並んでいる。

    ここ迄の写真を撮影してきたのは
    ほぼ中央にある「おうみじんぐうまえ」駅から
    直ぐの赤い印の箇所のみ。
    他にも広大な地点に遺跡は広がっている様子だったが
    付近は民家が立ち並んでいる。

  • 更に進み、小さなせせらぎを渡り

    更に進み、小さなせせらぎを渡り

  • 大津京の跡地に建つという近江神宮のご神域には<br />どうやら横手から入ったようだった。<br /><br />二の鳥居

    大津京の跡地に建つという近江神宮のご神域には
    どうやら横手から入ったようだった。

    二の鳥居

  • 手水舎

    手水舎

  • 天智天皇6年(667年)に同天皇が近江大津宮を営み、<br />飛鳥から遷都した由緒に因み、1940年(昭和15年、因みに<br />紀元2600年にあたるそう。)天智天皇を祭神として<br />創建された比較的新しいお社。

    天智天皇6年(667年)に同天皇が近江大津宮を営み、
    飛鳥から遷都した由緒に因み、1940年(昭和15年、因みに
    紀元2600年にあたるそう。)天智天皇を祭神として
    創建された比較的新しいお社。

  • 主祭神は天智天皇<br />別の御名は天命開別大神<br />(あめみことひらかすわけのおおかみ)<br /><br />奥には外拝殿が見えている。

    主祭神は天智天皇
    別の御名は天命開別大神
    (あめみことひらかすわけのおおかみ)

    奥には外拝殿が見えている。

  • 外拝殿より楼門を見る。<br /><br />小倉百人一首より <br />歌番号1 にのっているという天智天皇の歌。<br /><br />秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ<br />わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ<br /><br />(刈り取られた稲の見張り小屋で、ただ一人で夜を明かしていると、葺いてある屋根の苫の網目が粗いので、私の着物はぐっしょりと夜露で濡れ続けていることよ。)<br /><br />この第一首目の歌を詠んだ天智天皇に因み、毎年1月<br />競技かるたのチャンピオンを決める名人位、クイーン位決定戦<br />がここで行われているとのこと。

    外拝殿より楼門を見る。

    小倉百人一首より 
    歌番号1 にのっているという天智天皇の歌。

    秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
    わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ

    (刈り取られた稲の見張り小屋で、ただ一人で夜を明かしていると、葺いてある屋根の苫の網目が粗いので、私の着物はぐっしょりと夜露で濡れ続けていることよ。)

    この第一首目の歌を詠んだ天智天皇に因み、毎年1月
    競技かるたのチャンピオンを決める名人位、クイーン位決定戦
    がここで行われているとのこと。

  • その折には気づかないまま通り過ぎてしまったが、<br />境内には多くの方々の歌碑があったようだ。<br /><br />吟友の碑 として<br />大友皇子(弘文天皇) による漢詩「宴に侍す」の碑もあるようだ。<br /><br />皇明光日月 (皇明 日月とてり)<br />帝徳載天地 (帝徳 天地にみつ)<br />三才並泰昌 (三才 ならびに泰昌)<br />万国表臣義 (万国 臣義を表す)<br /><br />天子の威光は日月の如く輝き<br />天子の聖徳は天地に満ち溢る<br />天・地・人ともに太平で栄え<br />四方の国は臣下の礼をつくす<br /><br />江口孝夫氏、全訳注による「懐風藻」によれば<br />我が国に伝わっている漢詩の中で最も古いものだそう。<br />「ことばが宙に浮いてしまうようなところがなく、<br />わずか20語の漢字が、堂々として落ち着いている。<br />父天皇の隆昌と、己れの門地に誇りと喜びが漲っていた<br />ろう。天子の隆昌と宴に侍した喜びが、すなおに<br />伝わってくる作品である。」と江口氏は評価されている。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    その折には気づかないまま通り過ぎてしまったが、
    境内には多くの方々の歌碑があったようだ。

    吟友の碑 として
    大友皇子(弘文天皇) による漢詩「宴に侍す」の碑もあるようだ。

    皇明光日月 (皇明 日月とてり)
    帝徳載天地 (帝徳 天地にみつ)
    三才並泰昌 (三才 ならびに泰昌)
    万国表臣義 (万国 臣義を表す)

    天子の威光は日月の如く輝き
    天子の聖徳は天地に満ち溢る
    天・地・人ともに太平で栄え
    四方の国は臣下の礼をつくす

    江口孝夫氏、全訳注による「懐風藻」によれば
    我が国に伝わっている漢詩の中で最も古いものだそう。
    「ことばが宙に浮いてしまうようなところがなく、
    わずか20語の漢字が、堂々として落ち着いている。
    父天皇の隆昌と、己れの門地に誇りと喜びが漲っていた
    ろう。天子の隆昌と宴に侍した喜びが、すなおに
    伝わってくる作品である。」と江口氏は評価されている。







  • 内院回廊<br />新年の準備で忙しくされている巫女さん方の朱の袴が<br />ひと際目立っていた。

    内院回廊
    新年の準備で忙しくされている巫女さん方の朱の袴が
    ひと際目立っていた。

  • 外拝殿

    外拝殿

  • 内院回廊<br /><br />当日も赤ちゃん連れのお宮参りの家族が<br />多数参拝に見えていた。

    内院回廊

    当日も赤ちゃん連れのお宮参りの家族が
    多数参拝に見えていた。

  • 左手、奥にみえる本殿 (登録有形文化財)<br />1940年建立、「近江造」と言われる独特のものらしい。<br /><br />これから内拝殿にて赤ちゃんと若夫婦にご祈祷が執り行われる<br />ようだ。<br />

    左手、奥にみえる本殿 (登録有形文化財)
    1940年建立、「近江造」と言われる独特のものらしい。

    これから内拝殿にて赤ちゃんと若夫婦にご祈祷が執り行われる
    ようだ。

  • 外拝殿か?<br />

    外拝殿か?

  • 内拝殿 (登録有形文化財)<br />1940年建立<br /><br />初詣の参拝の準備が進んでいた。

    内拝殿 (登録有形文化財)
    1940年建立

    初詣の参拝の準備が進んでいた。

  • 日本で初めて水時計(漏刻)を飛鳥に設置した<br />天智天皇に因み<br />1941年の時の記念日には第一回漏刻祭が開催されたそう。<br /><br />都が明日香から近江大津宮へ遷都され漏刻も天智10年(671年)設置され、この地にも漏刻による響きが時を知らせていたそう。この地のどこかにその遺跡が埋もれていると思われるが、今だ未発見とのこと。

    日本で初めて水時計(漏刻)を飛鳥に設置した
    天智天皇に因み
    1941年の時の記念日には第一回漏刻祭が開催されたそう。

    都が明日香から近江大津宮へ遷都され漏刻も天智10年(671年)設置され、この地にも漏刻による響きが時を知らせていたそう。この地のどこかにその遺跡が埋もれていると思われるが、今だ未発見とのこと。

  • 自動車清祓所 (登録有形文化財)<br />旧大津裁判所本館車寄(1890年築)<br />1971年現在地に移築。

    自動車清祓所 (登録有形文化財)
    旧大津裁判所本館車寄(1890年築)
    1971年現在地に移築。

  • 近江神宮前駅に再び戻ってきた。<br />ここから再び乗車して「錦」駅まで向かう。<br /><br />無人駅が多いようで、ICカード用の機械が設置されている。

    近江神宮前駅に再び戻ってきた。
    ここから再び乗車して「錦」駅まで向かう。

    無人駅が多いようで、ICカード用の機械が設置されている。

  • ようこそ カルタの聖地へ、との看板が目をひく。<br />近江神宮がカルタの聖地と呼ばれていたことを<br />初めて知った。

    ようこそ カルタの聖地へ、との看板が目をひく。
    近江神宮がカルタの聖地と呼ばれていたことを
    初めて知った。

  • 錦駅下車後、google mapにて<br />石坐(いわい)神社(大津市西の庄)までやってきた。

    錦駅下車後、google mapにて
    石坐(いわい)神社(大津市西の庄)までやってきた。

  • 創祀年代は不詳。<br />社殿によると、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連が<br />その4代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を<br />神体山として祀ったのが起源とされる。<br />壬申の乱以降は表向きは八大竜王を祀っていたが、密かに天智天皇、<br />大友皇子、伊賀彩女宅子を祀ってきたそうだ。

    創祀年代は不詳。
    社殿によると、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連が
    その4代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を
    神体山として祀ったのが起源とされる。
    壬申の乱以降は表向きは八大竜王を祀っていたが、密かに天智天皇、
    大友皇子、伊賀彩女宅子を祀ってきたそうだ。

  • 壬申の乱の後、近江朝の神霊である天智天皇、大友皇子、皇子の母<br />宅子媛を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀する<br />ことが禁じられていた。<br />そこで、持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に<br />神殿を建て、御霊殿山の霊祠を遷すとともに、密かにお三方の<br />霊を祀り、この時から八大龍王宮とも石坐神社とも称したという。<br />王林は、今の錦駅付近で、昔は石坐野、後に石神町と呼ばれた地域。<br /><br />本殿は鎌倉時代の神社建築の貴重な事例として昭和32年、滋賀県<br />登録有形文化財に指定される。

    壬申の乱の後、近江朝の神霊である天智天皇、大友皇子、皇子の母
    宅子媛を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀する
    ことが禁じられていた。
    そこで、持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に
    神殿を建て、御霊殿山の霊祠を遷すとともに、密かにお三方の
    霊を祀り、この時から八大龍王宮とも石坐神社とも称したという。
    王林は、今の錦駅付近で、昔は石坐野、後に石神町と呼ばれた地域。

    本殿は鎌倉時代の神社建築の貴重な事例として昭和32年、滋賀県
    登録有形文化財に指定される。

  • 光仁天皇の宝亀4年、石坐神社に正一位勲一等が授けられ、<br />「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜り、近江朝の三神霊が<br />公式に石坐神社の祭神として認められたという。<br /><br />以来、当神社は彦坐王命を祀る八大龍王宮と<br />近江朝の三神霊を祀る正霊天王宮を合わせたものだそうだ。

    光仁天皇の宝亀4年、石坐神社に正一位勲一等が授けられ、
    「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜り、近江朝の三神霊が
    公式に石坐神社の祭神として認められたという。

    以来、当神社は彦坐王命を祀る八大龍王宮と
    近江朝の三神霊を祀る正霊天王宮を合わせたものだそうだ。

  • 祭神として<br />天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子(弘文天皇の母)<br />のお三方の名前も今では見られる。<br /><br />ずっとここで祀られてきたかと思いお詣りに行ったのだが、<br />そうではなく、敗軍の将を表立ってお祀りするわけには<br />行かなかった時もあったことを旅行記を書いていて<br />初めて知った。<br />

    祭神として
    天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子(弘文天皇の母)
    のお三方の名前も今では見られる。

    ずっとここで祀られてきたかと思いお詣りに行ったのだが、
    そうではなく、敗軍の将を表立ってお祀りするわけには
    行かなかった時もあったことを旅行記を書いていて
    初めて知った。

  • 神社からほど近くにあるという法傳院を探していたが<br />google map ではうまく連れていってもらえず<br />丁度裏手に当たる細い道をたどりウロウロしてしまった。<br />地元の方に伺い、やっと正面側に回ってきた。<br /><br />天智天皇御尊牌奉安 法傳寺 との碑が道路そばに<br />立っていた。

    神社からほど近くにあるという法傳院を探していたが
    google map ではうまく連れていってもらえず
    丁度裏手に当たる細い道をたどりウロウロしてしまった。
    地元の方に伺い、やっと正面側に回ってきた。

    天智天皇御尊牌奉安 法傳寺 との碑が道路そばに
    立っていた。

  • 道路からは一見すると普通のお家に入っていくようで<br />中に寺院があるようには見受けられない。<br />思い切って門をくぐると、右手にはお住まいがあって<br />足音を忍ばせながら本堂まで向かった。

    道路からは一見すると普通のお家に入っていくようで
    中に寺院があるようには見受けられない。
    思い切って門をくぐると、右手にはお住まいがあって
    足音を忍ばせながら本堂まで向かった。

  • 法傳寺本堂<br />天智3年(664年)天智天皇によって建立。<br />672年、壬申の乱で敗れた大友皇子を、子である與多王が<br />罪を許され住職となって弔ったそうだ。<br />以来、代々の大友一族によって守られてきたようだ。<br />祭壇には、天智天皇と大友皇子の位牌、大友皇子の像、<br />與多王の木造などが祀られているそう。<br />(天皇に背いた国賊としての大友皇子を祀っていることを)<br />「言うな、見せるな」という厳しい規律があったそうで、<br />公開されるようになったのはつい最近、約50年前に1300年祭<br />を行って以降のことだそう。<br /><br />(追記します。)<br />「その時歴史が動いた」平成18.2.8放送分に大友氏が実際に<br />出演されて語られています。<br /><br />又「にっぽん!歴史鑑定&lt;古代史ミステリー、日本書紀の真実>」<br />BS TBS 2019.3.4 放送分では、研究者の方が<br />日本書紀に書かれているように、疑心暗鬼になった大友皇子が<br />兵を集め始めたことから、大海人皇子は正当防衛の為に戦に臨んだ<br />ことが壬申の乱の発端ではなかったこと、<br />天智天皇の当初の構想では、大海人皇子に嫁がせた4人の娘との間に<br />生まれた皇子のいずれかが成長するまでの間、<br />天皇になった大友皇子の補佐としての役割を、大海人皇子に<br />託したかったのではないか、<br />などと語られています。<br />ただ、大海人皇子は補佐役では満足できなかった、また<br />鸕野讚良(うののさらら、後の持統天皇)は、我が夫が単なる<br />補佐役では満足できなかった、また我が息子が天皇につくこと<br />のみを望んだことが大きな誘因となった<br />と語られています。<br /><br />悲運の皇子がたどった運命を地元の方々は悲しみ<br />大友皇子を祀る御霊神社(3か所ほどあるそう)や戦の跡地の<br />保存などが行われていたことがわかり、<br />他所に落ち延びてきたという説を一方では支持しつつも<br />大津を歩いてみての成果もあって嬉しかった。<br /><br />

    法傳寺本堂
    天智3年(664年)天智天皇によって建立。
    672年、壬申の乱で敗れた大友皇子を、子である與多王が
    罪を許され住職となって弔ったそうだ。
    以来、代々の大友一族によって守られてきたようだ。
    祭壇には、天智天皇と大友皇子の位牌、大友皇子の像、
    與多王の木造などが祀られているそう。
    (天皇に背いた国賊としての大友皇子を祀っていることを)
    「言うな、見せるな」という厳しい規律があったそうで、
    公開されるようになったのはつい最近、約50年前に1300年祭
    を行って以降のことだそう。

    (追記します。)
    「その時歴史が動いた」平成18.2.8放送分に大友氏が実際に
    出演されて語られています。

    又「にっぽん!歴史鑑定<古代史ミステリー、日本書紀の真実>」
    BS TBS 2019.3.4 放送分では、研究者の方が
    日本書紀に書かれているように、疑心暗鬼になった大友皇子が
    兵を集め始めたことから、大海人皇子は正当防衛の為に戦に臨んだ
    ことが壬申の乱の発端ではなかったこと、
    天智天皇の当初の構想では、大海人皇子に嫁がせた4人の娘との間に
    生まれた皇子のいずれかが成長するまでの間、
    天皇になった大友皇子の補佐としての役割を、大海人皇子に
    託したかったのではないか、
    などと語られています。
    ただ、大海人皇子は補佐役では満足できなかった、また
    鸕野讚良(うののさらら、後の持統天皇)は、我が夫が単なる
    補佐役では満足できなかった、また我が息子が天皇につくこと
    のみを望んだことが大きな誘因となった
    と語られています。

    悲運の皇子がたどった運命を地元の方々は悲しみ
    大友皇子を祀る御霊神社(3か所ほどあるそう)や戦の跡地の
    保存などが行われていたことがわかり、
    他所に落ち延びてきたという説を一方では支持しつつも
    大津を歩いてみての成果もあって嬉しかった。

  • 錦駅から再び乗車し「唐橋前駅」で降りる。<br />駅からすぐの瀬田川にかかる瀬田唐橋を渡る。

    錦駅から再び乗車し「唐橋前駅」で降りる。
    駅からすぐの瀬田川にかかる瀬田唐橋を渡る。

  • 壬申の乱において最後の決戦となった舞台がこの唐橋。<br />その日は壬申または天武元年7月22日。<br />大海人皇子の軍の村国連男依(むらくにのむらじ おより)ら<br />の軍勢がこの橋の東側に到着。<br />近江朝の大友皇子の軍は瀬田川の西側に陣をかまえていた。<br />近江朝の将軍、智尊率いる軍勢は、橋の真ん中の板を三丈ほど切って<br />もし攻め込む者があれば、その板を落とそうと企てていた。<br />ところが大海人軍の勇敢な一人が、この板を踏んで渡り、射られながら<br />も敵陣に切り込んだ。<br />ほどなく、智尊は橋の畔で切り殺され、近江軍の蘇我赤兄、右大臣<br />中臣金は逃げおおせたが、大友皇子の元に最後に残ったのは数人の<br />舎人のみとなり、逃げきれずに山前で自害されたとされている。<br /><br />そのような激しい戦いの現場となった唐橋だった。<br />

    壬申の乱において最後の決戦となった舞台がこの唐橋。
    その日は壬申または天武元年7月22日。
    大海人皇子の軍の村国連男依(むらくにのむらじ おより)ら
    の軍勢がこの橋の東側に到着。
    近江朝の大友皇子の軍は瀬田川の西側に陣をかまえていた。
    近江朝の将軍、智尊率いる軍勢は、橋の真ん中の板を三丈ほど切って
    もし攻め込む者があれば、その板を落とそうと企てていた。
    ところが大海人軍の勇敢な一人が、この板を踏んで渡り、射られながら
    も敵陣に切り込んだ。
    ほどなく、智尊は橋の畔で切り殺され、近江軍の蘇我赤兄、右大臣
    中臣金は逃げおおせたが、大友皇子の元に最後に残ったのは数人の
    舎人のみとなり、逃げきれずに山前で自害されたとされている。

    そのような激しい戦いの現場となった唐橋だった。

  • もう少し早い時間だったら<br />唐橋から臨む一帯は夕日の名所だそうで<br />間に合わずちょっと残念だった。

    もう少し早い時間だったら
    唐橋から臨む一帯は夕日の名所だそうで
    間に合わずちょっと残念だった。

  • 橋の東側にやって来た。

    橋の東側にやって来た。

  • 明るい間だったら覗いてみたい<br />お店があちこちにある。

    明るい間だったら覗いてみたい
    お店があちこちにある。

  • 夕食は「蔓ききょう」というお店を予約してあった。

    夕食は「蔓ききょう」というお店を予約してあった。

  • 炭火割烹「蔓ききょう」という店名のとおり<br />元猟師さんから仕入れるジビエや近江牛、京野菜などの<br />素材の持ち味を生かした炭火焼きなどで<br />シンプルな調理が自慢の店。<br />シェフである女将さんも猟に出向かれるらしい。<br /><br />カウンター席を予約してあったが<br />一番の入店だったため、調理台の真正面の席に<br />案内された。<br />間にはアクリル板が立っている。

    炭火割烹「蔓ききょう」という店名のとおり
    元猟師さんから仕入れるジビエや近江牛、京野菜などの
    素材の持ち味を生かした炭火焼きなどで
    シンプルな調理が自慢の店。
    シェフである女将さんも猟に出向かれるらしい。

    カウンター席を予約してあったが
    一番の入店だったため、調理台の真正面の席に
    案内された。
    間にはアクリル板が立っている。

  • つき出しのえびいもの炊いたもの<br />もんごうイカ、ブリ、サーモンのお造りに続き<br /><br />琵琶湖名産のもろこの塩焼き<br />に続いて<br />滋賀県の地どりのレバームースがトーストに添えられて出てきた。

    つき出しのえびいもの炊いたもの
    もんごうイカ、ブリ、サーモンのお造りに続き

    琵琶湖名産のもろこの塩焼き
    に続いて
    滋賀県の地どりのレバームースがトーストに添えられて出てきた。

  • 滋賀県マキノの原木椎茸の天ぷら に続き<br /><br />焼き野菜の盛り合わせ <br /> 上の黒いのは焦がしたキャベツ<br /> 椎茸、マッシュルーム、アピオス、ネギなどなど<br />お皿に描かれているソースを絡ませて。<br /><br />近江牛(あまり扱いがない経産牛だそう)<br /> ただ柔らかいだけでない、滋味のかんじられるお肉。<br /> マルドン塩、エシャロット・もろみ、鮒ずしから<br /> 作った調味料にわさび、などと共にいただいた。

    滋賀県マキノの原木椎茸の天ぷら に続き

    焼き野菜の盛り合わせ 
     上の黒いのは焦がしたキャベツ
     椎茸、マッシュルーム、アピオス、ネギなどなど
    お皿に描かれているソースを絡ませて。

    近江牛(あまり扱いがない経産牛だそう)
     ただ柔らかいだけでない、滋味のかんじられるお肉。
     マルドン塩、エシャロット・もろみ、鮒ずしから
     作った調味料にわさび、などと共にいただいた。

  • 釜炊きのごはん<br />魚のあらでとった出汁から作った赤だし味噌汁<br />すぐきの漬物<br />鹿肉のそぼろ<br /><br />などなど美味しくいただきました。<br />ホテルまでの帰りも唐橋前駅から乗車、びわ湖浜大津まで<br />電車の待ち時間も大してなく<br />京阪石山坂本線、短区間とはいえなかなか活躍してくれました。<br /><br />他にも、訪問できなかった大友皇子を祀る「御霊神社」があったり、<br />近江朝のお膝元、大津では天智天皇、大友皇子にまつわる地は<br />大切にされている様子だった。<br /><br />翌日はJRの運行次第で、長浜の先まで出かけ十一面観音を<br />お詣りする予定にしていました。

    釜炊きのごはん
    魚のあらでとった出汁から作った赤だし味噌汁
    すぐきの漬物
    鹿肉のそぼろ

    などなど美味しくいただきました。
    ホテルまでの帰りも唐橋前駅から乗車、びわ湖浜大津まで
    電車の待ち時間も大してなく
    京阪石山坂本線、短区間とはいえなかなか活躍してくれました。

    他にも、訪問できなかった大友皇子を祀る「御霊神社」があったり、
    近江朝のお膝元、大津では天智天皇、大友皇子にまつわる地は
    大切にされている様子だった。

    翌日はJRの運行次第で、長浜の先まで出かけ十一面観音を
    お詣りする予定にしていました。

  • 2022.1.10ずっと読んでいた「額田女王」がやっと読み終わったので<br />追記しました。<br />井上靖氏の小説ですが、小説の最後は壬申の乱の終盤の大津宮の様子<br />などが描かれていて、陥落時はどうだったのか?など個人的な関心事も<br />了解できた想いでした。<br /><br />大友皇子の出陣前夜、王宮内に残った女人たちが全て大広間に集められた。<br />残された大海人皇子の妃たち、亡くなられた天智天皇の妃たち、それぞれの皇子、皇女たち、そして十市皇女、皇女の母 額田女王など。<br /><br />「合戦の勝敗というものは、人間には予測できない。天が知っているだけである。明日余は出陣する。勝敗はいっきに決まるだろう。、、、、、<br />兵火は恐らく、この、この王宮には及ばないだろう。、、、、、<br />案ぜられるのは、混乱がここを見舞うことであるが、それを防ぐに足る兵たちはここに配しておく。兵火が鎮まったら、人それぞれの立場で、、、、、、<br />己を見舞う運命に従順であって貰いたい。、、、、、<br />こんどの争乱には、ここにおる女人たちの誰一人も責任は持っていない。、、、、、<br />兵火鎮まるのを待って貰いたい。それも、もう長いことではない。」<br />と大友皇子は語り、すぐ席を立った。<br /><br />「(翌日の)近江の王宮がこの日ほどひっそりとしたことはなかった。大勢の妃たちは何人かの侍女たちにかしずかれながら、それぞれ己が居室に閉じ籠っていた。いかなる運命がやって来るか、その運命の近づいて来るのに耳を傾けている格好であった。」<br />

    2022.1.10ずっと読んでいた「額田女王」がやっと読み終わったので
    追記しました。
    井上靖氏の小説ですが、小説の最後は壬申の乱の終盤の大津宮の様子
    などが描かれていて、陥落時はどうだったのか?など個人的な関心事も
    了解できた想いでした。

    大友皇子の出陣前夜、王宮内に残った女人たちが全て大広間に集められた。
    残された大海人皇子の妃たち、亡くなられた天智天皇の妃たち、それぞれの皇子、皇女たち、そして十市皇女、皇女の母 額田女王など。

    「合戦の勝敗というものは、人間には予測できない。天が知っているだけである。明日余は出陣する。勝敗はいっきに決まるだろう。、、、、、
    兵火は恐らく、この、この王宮には及ばないだろう。、、、、、
    案ぜられるのは、混乱がここを見舞うことであるが、それを防ぐに足る兵たちはここに配しておく。兵火が鎮まったら、人それぞれの立場で、、、、、、
    己を見舞う運命に従順であって貰いたい。、、、、、
    こんどの争乱には、ここにおる女人たちの誰一人も責任は持っていない。、、、、、
    兵火鎮まるのを待って貰いたい。それも、もう長いことではない。」
    と大友皇子は語り、すぐ席を立った。

    「(翌日の)近江の王宮がこの日ほどひっそりとしたことはなかった。大勢の妃たちは何人かの侍女たちにかしずかれながら、それぞれ己が居室に閉じ籠っていた。いかなる運命がやって来るか、その運命の近づいて来るのに耳を傾けている格好であった。」

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この旅行記へのコメント (10)

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  • ryujiさん 2022/01/29 13:57:01
    タイトルの旅行記を拝見で~す!
     こんにちは、mistralさん。ご無沙汰しております。

     コロナ・オミクロン株の猛威の折、如何お過ごしでしょうか。 当方は、じ~と我慢の子で家の中でおとなしくしています。

     昨年の暮れに大津市へ行かれたのですね。 旅行記で近江京を見て興味を新たにしました。 勉強になりました、特に大津京錦織遺跡・・・、でしたね。 確か神宮駅の西?。 改めて人麻呂さんの長歌等をネットで確認しましたよ。 私は、2012.11に近江大津京(近江神宮)へ行きました。 もう懐かしさで胸いっぱいです、あの時は人麻呂さんの歌碑を写真に。(貴女様の神宮内の案内図⑪で~「淡海の海」を) そうそう天智天皇さんの「百人一首の歌碑」も見た、茶色ぽい歌碑だったけ?。

     旅行記の最期を行(くだり)、さすがmistralさんです。 弘文天皇及び額田王に関する事項、真骨頂ですよ!。

     素敵な旅行記をア・リ・ガ・ト・ウ。
                     ryuji

    mistral

    mistralさん からの返信 2022/01/29 19:41:42
    RE: タイトルの旅行記を拝見で?す!
    ryujiさん

    こんばんは。
    こころ温まるメッセージをありがとうございました。

    >  コロナ・オミクロン株の猛威の折、如何お過ごしでしょうか。 当方は、じ?と我慢の子で家の中でおとなしくしています。

    今、大変な猛威をふるっているオミクロン株ですね。
    今までとあまり変わることなく、私は日々の生活を送っております。
    2月には鹿児島にある(夫の実家の)お墓の墓じまいに参ります。
    こんな時ではありますが、以前から計画したことでもあり、やむを得ないです。

    >  昨年の暮れに大津市へ行かれたのですね。 旅行記で近江京を見て興味を新たにしました。 勉強になりました、特に大津京錦織遺跡・・・、でしたね。 確か神宮駅の西?。 改めて人麻呂さんの長歌等をネットで確認しましたよ。 私は、2012.11に近江大津京(近江神宮)へ行きました。 もう懐かしさで胸いっぱいです、あの時は人麻呂さんの歌碑を写真に。(貴女様の神宮内の案内図?で?「淡海の海」を) そうそう天智天皇さんの「百人一首の歌碑」も見た、茶色ぽい歌碑だったけ?。

    そんな以前にご訪問されておられたんですね。
    そうです、遺跡跡は神宮前駅の西にあたると思います。
    恐らく周辺住宅地を掘り起こしたら、今でも沢山の遺物が出てくることでしょうね。
    そんな地の上を歩いていることにも、感慨深い思いでした。
    人麻呂さんが、壬申の乱の後にその地を訪問され歌を残されていた、という事を知り、そのことに私は胸がいっぱいになりました。
    神宮内にあった歌碑、その折には気づかずに帰って来てしまったのは残念なことでした。

    >  旅行記の最期を行(くだり)、さすがmistralさんです。 弘文天皇及び額田王に関する事項、真骨頂ですよ!。

    ありがとうございます。
    今回大津に行ってみて良かったと思いました。
    近江を実際に歩いてみて、彼の地の空気感を感じられた気がいたします。
    冬の時期があれほどの積雪に見舞われることなど、想像していなかった私は愚かだったと思いました。なんと、レンタカーで蒲生野あたりにも行けたら良いな、なども思っていたのです。
    季節を変えてチャレンジしてみたいです。

    mistral
  • パルファンさん 2022/01/10 22:07:55
    目と鼻の先に
    mistralさん、こんばんは!

    先ずは2022年、年明けのご挨拶です。
    先行きは不透明ですが、皆さまにとって幸多き
    日々になること願っております。

    久しぶりに4トラにアクセスして・・
    驚いたよ!
    パルファンの家の直ぐ近くにいらっしてたんですからー
    写真はみんな身近で、ふむふむ・・

    それにしても、地元に居ながら中々回りきらない
    史跡をしっかり解説を入れて紹介されているのには
    さすがmistralさんです!

    ヨーロッパ旅行では好みが似通っていて、近親感を
    覚えていましたが、日本の古代にも造詣が深い!

    ここ近江は、古代のみならず日本の歴史の中心とも
    言える出来事が多々あったところ。
    海外に行けない今、地元を中心にした歴史物語に
    身をついやしている最近です~

    堪能させて頂いた旅行記、ありがとうございました。

    パルファン

    mistral

    mistralさん からの返信 2022/01/11 08:55:12
    RE: 目と鼻の先に
    パルファンさん

    こちらこそ!ご挨拶が送れました。
    本年もどうぞ宜しくお願い致します。

    > 久しぶりに4トラにアクセスして・・
    > 驚いたよ!
    > パルファンの家の直ぐ近くにいらっしてたんですからー
    > 写真はみんな身近で、ふむふむ・・

    そうだったんですね。
    パルファンさん、京都近くにお住まいとは思っていましたが、
    そんな近くの地に踏み込んでいたとは、私もびっくり。

    > それにしても、地元に居ながら中々回りきらない
    > 史跡をしっかり解説を入れて紹介されているのには
    > さすがmistralさんです!

    解説なんて、、、
    コメント、大丈夫だったかしら?
    身近な地は、なかなか旅行記には載せにくくて、後回しになりますよね。

    > ヨーロッパ旅行では好みが似通っていて、近親感を
    > 覚えていましたが、日本の古代にも造詣が深い!

    そうです、そうです、私も同感です。
    訪問先の傾向が似ていますよね。
    古代史、最近までは関心がなかったんです。
    それが、生まれ育った千葉県で、大友皇子にまつわる伝承などがあることに
    目が止まり、そこから興味を持つようになりました。
    コロナ禍で海外に出られない分、おあつらえむきだったんです。

    > ここ近江は、古代のみならず日本の歴史の中心とも
    > 言える出来事が多々あったところ。

    そうですね!
    数多くの戦禍をくぐり抜けてきた地ですね。

    > 海外に行けない今、地元を中心にした歴史物語に
    > 身をついやしている最近です?

    私も後ほど訪問させて頂きます。

    > 堪能させて頂いた旅行記、ありがとうございました。

    こちらこそ、コメントいただき嬉しかったです。

    mistral
  • salsaladyさん 2022/01/07 10:54:49
    ~新幹線からの富士山のご機嫌如何に~
    ☆同じ頃(我が家は野暮用で)新幹線の旅を経験されて。。。30分遅れでしたか?

    ☆12/26(日曜日)の往路はさして遅延を感じなかったけれど、翌日は朝から大変な混みようで、指定席など蹴飛ばして朝9:15ののぞみで帰京したのですが、約2時間遅れ❣

    ☆それでも当日着はありがたかった~今月に入って急に関東まで寒波が押し寄せた日1/6の午後は、ジム帰りの3時にはかなり雪が積もり始め、夏タイヤのmycarでは何が起こるかわからない~買い物もせず、ひたすら慎重に帰宅!

    ☆夕刻の電車の遅延や運行中止は働く人々の足を奪う酷い現実が待ってましたね。

    ☆都会人は実に天候の急変に弱い。そして旅の中身と全く無関係なコメントを寄せるアホナsalsaをお許し有れ。(1月に銀寿司を予約するつもりが、オープンは1/8と書かれていて急遽次男宅でのお好み焼き会に変更!まあ、安上がりですわね)~謝謝~

    mistral

    mistralさん からの返信 2022/01/07 15:53:49
    RE: ?新幹線からの富士山のご機嫌如何に?
    salsaladyさん

    コメントまで有難うございました。

    > ☆同じ頃(我が家は野暮用で)新幹線の旅を経験されて。。。30分遅れでしたか?

    salsaさんがご用事をすまされてお帰りになるころ、私たちは京都に向かったのでした。
    雪には弱い新幹線ですね。
    それでも私たちは30分遅れ程度ですんだのはラッキーなことでした。
    2時間遅れはさすがにきついですね。

    > ☆12/26(日曜日)の往路はさして遅延を感じなかったけれど、翌日は朝から大変な混みようで、指定席など蹴飛ばして朝9:15ののぞみで帰京したのですが、約2時間遅れ?
    >
    > ☆それでも当日着はありがたかった?今月に入って急に関東まで寒波が押し寄せた日1/6の午後は、ジム帰りの3時にはかなり雪が積もり始め、夏タイヤのmycarでは何が起こるかわからない?買い物もせず、ひたすら慎重に帰宅!

    金曜日の今日は、晴天になり、大通りはかなり順調に走れましたが、横道に入ると
    まだまだ雪が残っていて、要注意でした。
    因みに私の車も普通のタイヤのままです。

    > ☆夕刻の電車の遅延や運行中止は働く人々の足を奪う酷い現実が待ってましたね。
    >
    > ☆都会人は実に天候の急変に弱い。そして旅の中身と全く無関係なコメントを寄せるアホナsalsaをお許し有れ。

    旅の中身と大いに関係するのが、今回の旅行記でした。
    翌日は直前になるまで電車の運行がはっきりせず、結果的にはオーライとなりましたが
    それでも雪道を歩く際には、滑らないようにと身体全体が緊張するので、結構疲れました。

    (1月に銀寿司を予約するつもりが、オープンは1/8と書かれていて急遽次男宅でのお好み焼き会に変更!まあ、安上がりですわね)?謝謝?

    ご次男の新居にてのお好み焼き会、そちらも楽しそうで良かったことです。
    なによりも家で頂くお食事が一番楽しめることでしょう。

    本年も楽しい旅と、その後の旅行記のアップを、お互いに頑張りましょう。

    mistral
  • しにあの旅人さん 2022/01/07 08:26:21
    大友さん、夢の跡
    大津宮跡私たちもいきました。第1地点だったかな。片一方だけでした。住宅地の真ん中の空き地。なんじゃこれはと思いましたが、この旅行記で全貌が分かりました。
    他の地点も加えると、ちゃんと発掘していたのですね。

    短い期間の都だったので、藤原京や平城京に比べて、発掘も中途半端みたいです。敗者の都の悲しさでしょうか。でもこう家が建て込んでいては、大規模な発掘は無理ですね。恭仁京や紫香楽京は田んぼ、調査は楽だったでしょう。

    石坐神社は知らなかった。大友皇子、伊賀彩女宅子をお祀りする神社が大津にあるのですね。法傳寺も知らない。現代までひっそりとしなくてもいいと思うのですが。でもmistralさんのように共感をもって、探してまで来てくれる人がいて、大友さんや宅子さんもホットしていることでしょう。
    大津では大友さんは大切にされているそうで、よかった。

    夕暮れの瀬田の唐橋、幻想的です。2度行きました。
    壬申の乱の勇者、大分君稚臣ですね。昨年11月の九州旅行で、稚臣の故郷大分の大分社に行ってきました。稚臣が祀られていました。そのうち天武チルドレンの続編で取り上げる予定です。

    mistral

    mistralさん からの返信 2022/01/07 15:41:30
    RE: 大友さん、夢の跡
    しにあの旅人さん

    早速のコメント、有難うございます。

    > 大津宮跡私たちもいきました。第1地点だったかな。片一方だけでした。住宅地の真ん中の空き地。なんじゃこれはと思いましたが、この旅行記で全貌が分かりました。
    > 他の地点も加えると、ちゃんと発掘していたのですね。

    さすがしにあさんご夫妻!
    すでにご訪問済みだったんですね。
    結果的には敗者の都、僅か5年とちょっとの間でしたものね、
    都を遷す理由も、天智天皇にしましたら苦渋の決断?があったのかもしれません。
    周囲は住宅地となっていますので、立替などの折に急ぎ発掘、などしてきたのでしょう。

    > 短い期間の都だったので、藤原京や平城京に比べて、発掘も中途半端みたいです。敗者の都の悲しさでしょうか。でもこう家が建て込んでいては、大規模な発掘は無理ですね。恭仁京や紫香楽京は田んぼ、調査は楽だったでしょう。

    最近は、壬申の乱についての真実、を取り上げるテレビ番組もちらほらと見られるようですが(調べていて出会っていたのですが、今回旅行記にて追記しました。)大友家の佇まいが
    ひっそりとしたご様子でしたので、もっと堂々とされても良いようにも感じました。
    寺院の由緒などもなく、大友皇子との文字はどこにも見られなかったのです。
    伊勢原の寺院には、時折、訪ね歩いて参拝される方もおられるようでした。

    > 石坐神社は知らなかった。大友皇子、伊賀彩女宅子をお祀りする神社が大津にあるのですね。法傳寺も知らない。現代までひっそりとしなくてもいいと思うのですが。でもmistralさんのように共感をもって、探してまで来てくれる人がいて、大友さんや宅子さんもホットしていることでしょう。
    > 大津では大友さんは大切にされているそうで、よかった。

    悲運の皇子ということで、大津ではきっと今だに思い入れがあるのでしょう。

    > 夕暮れの瀬田の唐橋、幻想的です。2度行きました。
    > 壬申の乱の勇者、大分君稚臣ですね。昨年11月の九州旅行で、稚臣の故郷大分の大分社に行ってきました。稚臣が祀られていました。そのうち天武チルドレンの続編で取り上げる予定です。

    その方が、最初に橋を渡った方ですね。
    大分が故郷だったんですか。
    瀬田の唐橋、過去の歴史に想いを馳せながら渡ってみますと、一層幻想的に想えてきますね。

    九州編を楽しみにしております。
    我が家では鹿児島にご先祖のお墓がありまして、2月にはいよいよ墓じまいのために
    まいります。

    mistral
  • pedaruさん 2022/01/07 07:09:50
    旅の醍醐味
    mistralさん おはようございます。

    スポーツ グルメ エンタテイメント など多様な趣味で旅行をしますが、中でも歴史をたどる旅は特に興味をそそります。江戸以降の歴史も街歩きなどによって、たどることができますね。
    mistralさんが古代の歴史に思いを馳せて、古い都を尋ねられたのは素敵なことです。
    痕跡が僅かでも石碑に宮の跡などの印があったりすると、突然夢が広がります。
    朱の柱、柾葺きの屋根、官女の働き動く様、想像が膨らむのではありませんか?
    古代史は謎が多いだけに想像力が働きますね。
    4トラでも歴史の好きな、前日光さん、シニアの旅人さんなどいらっしゃいますが、
    旅行記の題材としてはA級ですね。

    pedaru

    mistral

    mistralさん からの返信 2022/01/07 15:25:43
    Re: 旅の醍醐味
    pedaruさん

    早速コメントをいただきまして、有難うございます。

    古代史につきましては、おっしゃるように確たる証拠も残っていない場合、
    研究者の方々はあれこれと解説をされておられますが、
    結末は確かなこととして残っていますが、そこに至る過程については
    それぞれが想像を働かせる余地があって、そこが楽しめる由縁となりますね。
    しにあの旅人さんは同じ県人会(?、と申しましたらpedaruさんもそうですね。)でもあり、私はファンの一人でもありますが、旅されるワールドは途方もない広がりがあって、私などはあちこちとふらふらしておりますのとは、大違いです。

    私は私の世界をのんびりと辿るのみです。
    もともとはロマネスク美術が好きでしたが、コロナ禍にあって、飛びたつこともできず地元を歩き始めましたら、壬申の乱で落ち延びてきた近江朝にゆかりの方々をお祀りする神社などに出会ったのがきっかけでしたが、
    そのおかげで興味が広がったのは良かったことです。

    まだまだ自由には海外には出かけられないことでしょう。
    今年一年もよろしくお願いいたします。
    pedaruさんの歩かれる(自転車で走られる)古い街の旅行記も楽しみに
    しております。

    mistral

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