門司・関門海峡旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「九州鉄道記念館」が思ったよりも楽しくて時間がかかってしまいました。その後は「三宣楼」という古い料亭だった建物の見学です。少し前まではここで実際にふく料理をいただけたようですが、その後中止になっていました。経営は「春帆楼」だったので、本店を予約してあったのでここで食事するつもりはありませんでした。ところが行ってみるとカフェは営業していましたし、パンフレットには料理のメニューも載っていました。坂の登り口の左右には元々料亭や料理屋だったであろう建物がいくつも残されていました。現在は閉店されている中華料理店のファサードは往時を感じさせる素晴らしいものでした。石炭の時代も終わり、門司港の栄華も過ぎ去ったような感じがしました。昭和6年の1931年に建てられた「三宜楼(さんきろう)」はかつて門司港を代表する高級料亭でした。大手企業や銀行の社交場として利用され、昭和初期には門司港料亭のトップ3に数えられていました。延べ床面積1200平方メートル以上、部屋数も20室以上ある木造3階建ての大規模な建造物で、現存する料亭建築としては九州最大級だそうです。坂を上がった後にも急な階段があり、登り切った入り口の門をくぐると、その格式の高さを感じます。扉を開けるとボランティアの男性が応対してくれて、資料室に通されました。簡単な歴史と見どころを説明を受けた後は自由に見学するとこが出来ますが、その規模の大きさには驚きました。部分的に修復工事が行われているようですが、これだけの規模の建物を直すとなるとかなりの金額が必要になります。多分3億から5億くらいかかるのではないかと想像しました。ここも30分ほどの見学時間を考えていましたが、じっくり見学したら1時間が過ぎていました。カフェで休憩も考えましたが、おなかもすいてきたので先を急ぐことにします。<br /><br />

クリスマスの爆弾低気圧のリベンジ北九州の旅(5)高台の三宣楼で古き良き門司港の栄華を感じ、小樽の海陽亭を思い出す。

4いいね!

2023/02/01 - 2023/02/01

997位(同エリア1336件中)

kojikoji

kojikojiさん

この旅行記のスケジュール

この旅行記スケジュールを元に

「九州鉄道記念館」が思ったよりも楽しくて時間がかかってしまいました。その後は「三宣楼」という古い料亭だった建物の見学です。少し前まではここで実際にふく料理をいただけたようですが、その後中止になっていました。経営は「春帆楼」だったので、本店を予約してあったのでここで食事するつもりはありませんでした。ところが行ってみるとカフェは営業していましたし、パンフレットには料理のメニューも載っていました。坂の登り口の左右には元々料亭や料理屋だったであろう建物がいくつも残されていました。現在は閉店されている中華料理店のファサードは往時を感じさせる素晴らしいものでした。石炭の時代も終わり、門司港の栄華も過ぎ去ったような感じがしました。昭和6年の1931年に建てられた「三宜楼(さんきろう)」はかつて門司港を代表する高級料亭でした。大手企業や銀行の社交場として利用され、昭和初期には門司港料亭のトップ3に数えられていました。延べ床面積1200平方メートル以上、部屋数も20室以上ある木造3階建ての大規模な建造物で、現存する料亭建築としては九州最大級だそうです。坂を上がった後にも急な階段があり、登り切った入り口の門をくぐると、その格式の高さを感じます。扉を開けるとボランティアの男性が応対してくれて、資料室に通されました。簡単な歴史と見どころを説明を受けた後は自由に見学するとこが出来ますが、その規模の大きさには驚きました。部分的に修復工事が行われているようですが、これだけの規模の建物を直すとなるとかなりの金額が必要になります。多分3億から5億くらいかかるのではないかと想像しました。ここも30分ほどの見学時間を考えていましたが、じっくり見学したら1時間が過ぎていました。カフェで休憩も考えましたが、おなかもすいてきたので先を急ぐことにします。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
タクシー ANAグループ 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 「九州鉄道記念館」の先へ進むと急な坂があり、その突き当りに目指す「三宜楼(さんきろう)」が見えました。

    「九州鉄道記念館」の先へ進むと急な坂があり、その突き当りに目指す「三宜楼(さんきろう)」が見えました。

  • 元々は飲み屋街だったのかそんな雰囲気の残る通りです。夜に来たらまた違った雰囲気なのだろうと思いましたが、夜遊びはしませんでした。

    元々は飲み屋街だったのかそんな雰囲気の残る通りです。夜に来たらまた違った雰囲気なのだろうと思いましたが、夜遊びはしませんでした。

  • 栄町銀天街から桟橋通りを横切って三宜楼坂へ向かうこの通りは「三宜楼」の栄華時代を感じさせるスポットで、かつて門司港の繁華街として賑わった場所のようです。元々古い料理屋さんだった建物はキッチンバーなどに変わって営業を続けているようです。

    栄町銀天街から桟橋通りを横切って三宜楼坂へ向かうこの通りは「三宜楼」の栄華時代を感じさせるスポットで、かつて門司港の繁華街として賑わった場所のようです。元々古い料理屋さんだった建物はキッチンバーなどに変わって営業を続けているようです。

    twin-t グルメ・レストラン

  • 最後の急な登りの左側に何やら雰囲気の違った店がありました。

    最後の急な登りの左側に何やら雰囲気の違った店がありました。

  • 「萬龍」と看板が残った中華料理店のようですが、営業していないようです。昭和22年以来68年間営業していました、残念なことに2015年2月末に閉店してしまったようです。営業していたら予定を変えてでも内部を見てみたい店でした。

    「萬龍」と看板が残った中華料理店のようですが、営業していないようです。昭和22年以来68年間営業していました、残念なことに2015年2月末に閉店してしまったようです。営業していたら予定を変えてでも内部を見てみたい店でした。

    中華料理 龍 グルメ・レストラン

  • 赤い浮出文字が時代を感じさせます。その左右にはガラスケースに収められた玉を持つ獅子と子供を連れた獅子が見えます。時代を感じさせるウエスタンドアの押扉も開かれる日が来るのでしょうか。

    赤い浮出文字が時代を感じさせます。その左右にはガラスケースに収められた玉を持つ獅子と子供を連れた獅子が見えます。時代を感じさせるウエスタンドアの押扉も開かれる日が来るのでしょうか。

  • 「山東粉」は緑豆春雨の意味ですが、春雨のチャンポンは初めて見ました。「地瓜」は台湾の九份にある有名な団子の地瓜圓と同じようです。2月の下旬には台北から台湾北部を訪ねるので九份で久しぶりに食べられればと思います。

    「山東粉」は緑豆春雨の意味ですが、春雨のチャンポンは初めて見ました。「地瓜」は台湾の九份にある有名な団子の地瓜圓と同じようです。2月の下旬には台北から台湾北部を訪ねるので九份で久しぶりに食べられればと思います。

  • 店は閉店されていますが植木や金魚の手入れはされているようです。張り紙には近所に店名を「龍」と変えて営業を続けていると案内されていました。

    店は閉店されていますが植木や金魚の手入れはされているようです。張り紙には近所に店名を「龍」と変えて営業を続けていると案内されていました。

  • 三宜楼坂をようやく登り切れそうです。

    三宜楼坂をようやく登り切れそうです。

  • 建物は関門海峡に向かって大きく開口部が設けられているように見えます。早く中からの眺めを見てみたくなります。

    建物は関門海峡に向かって大きく開口部が設けられているように見えます。早く中からの眺めを見てみたくなります。

  • 坂を上り切ったところからさらに石段を上ると、ようやく門が見えてきました。

    坂を上り切ったところからさらに石段を上ると、ようやく門が見えてきました。

    三宜楼 名所・史跡

  • 立派な玄関を開けて声をかけるとボランティアの男性が中へ通してくれました。先に1人の男性が見学していましたが、入れ替わりになり妻と2人で見学することが出来ました。

    立派な玄関を開けて声をかけるとボランティアの男性が中へ通してくれました。先に1人の男性が見学していましたが、入れ替わりになり妻と2人で見学することが出来ました。

  • 昭和6年の1931年に現在の場所に建築された建物は、門司港が横浜や神戸と並ぶ貿易港として栄えていた当時、出光興産の創業者である出光佐三(いでみつさぞう)など政財界の要人たちの情報交換の場として大いににぎわった場所だそうです。

    昭和6年の1931年に現在の場所に建築された建物は、門司港が横浜や神戸と並ぶ貿易港として栄えていた当時、出光興産の創業者である出光佐三(いでみつさぞう)など政財界の要人たちの情報交換の場として大いににぎわった場所だそうです。

  • 出光佐三は伝馬船という小型の船に軽油タンクと計量装置を取り付けて、海上で漁船に直接給油できるようにし、同業者から”海賊”と呼ばれた人物です。岡田准一主演の映画は見ていましたが、その舞台は下関と門司であったと改めて思いました。

    出光佐三は伝馬船という小型の船に軽油タンクと計量装置を取り付けて、海上で漁船に直接給油できるようにし、同業者から”海賊”と呼ばれた人物です。岡田准一主演の映画は見ていましたが、その舞台は下関と門司であったと改めて思いました。

  • 展示室にあった料亭時代の器は特に素晴らしいものではなく、料亭用に50客とか100客単位で納められた大量生産のもののようです。

    展示室にあった料亭時代の器は特に素晴らしいものではなく、料亭用に50客とか100客単位で納められた大量生産のもののようです。

  • 面白かったのは古い献立の内容で、ここに並ぶ器はその献立に合わせて並べられたようです。もう少し上手に並べればとも思ってしまいます。

    面白かったのは古い献立の内容で、ここに並ぶ器はその献立に合わせて並べられたようです。もう少し上手に並べればとも思ってしまいます。

  • 展示室の天井は吹き抜けに改造されていました。2階の床が取り払われていて、ガラス戸や引き戸が見えています。この場所は元々は厨房だった場所で、3階までダムウェーターの跡が残されていました。

    展示室の天井は吹き抜けに改造されていました。2階の床が取り払われていて、ガラス戸や引き戸が見えています。この場所は元々は厨房だった場所で、3階までダムウェーターの跡が残されていました。

  • ボランティアガイドさんは自慢げに「こんな時代に料理を上げ下げする仕組みがあったのです。」とおっしゃっていましたが、江戸時代の初期に建てられた祖父の生まれた家にもあるので言葉に詰まりました。

    ボランティアガイドさんは自慢げに「こんな時代に料理を上げ下げする仕組みがあったのです。」とおっしゃっていましたが、江戸時代の初期に建てられた祖父の生まれた家にもあるので言葉に詰まりました。

  • ガイドさんによると衣装的な見どころとして下地窓や欄間は部屋ごとに変化を持たせたようで「それぞれ見比べてください。」と見送られました。山の形は表玄関の階段の脇にありました。

    ガイドさんによると衣装的な見どころとして下地窓や欄間は部屋ごとに変化を持たせたようで「それぞれ見比べてください。」と見送られました。山の形は表玄関の階段の脇にありました。

  • 廊下と玄関ホールの下地窓は雨と稲妻を表しているようです。

    廊下と玄関ホールの下地窓は雨と稲妻を表しているようです。

  • 廊下と和室の間の下地窓は三つ葉の形でしょうか。これだけのものを造るには木組みの状態から柱の間にヌキを貫通させ、縦横に細く加工した竹を使って格子状に編み込んで下地にしていく小舞を組んでから塗り壁を仕上げねばならないという手間のかかるものです。

    廊下と和室の間の下地窓は三つ葉の形でしょうか。これだけのものを造るには木組みの状態から柱の間にヌキを貫通させ、縦横に細く加工した竹を使って格子状に編み込んで下地にしていく小舞を組んでから塗り壁を仕上げねばならないという手間のかかるものです。

  • 玄関ホールと裏玄関ホールの間には松をかたどった下地窓。

    玄関ホールと裏玄関ホールの間には松をかたどった下地窓。

  • まずは階段を上って2階の座敷から見学します。この階段も欅の厚いムク板が使われているようです。

    まずは階段を上って2階の座敷から見学します。この階段も欅の厚いムク板が使われているようです。

  • 2階配膳室と廊下の下地窓は蝙蝠でしょうか?

    2階配膳室と廊下の下地窓は蝙蝠でしょうか?

  • 百畳敷の大広間の見学をします。ここで思い出したのが小樽の「海陽亭」という料亭のことです。小樽も北海道の有数の金融都市であった時代があり、現在も銀行だった建物が数多く残されています。

    百畳敷の大広間の見学をします。ここで思い出したのが小樽の「海陽亭」という料亭のことです。小樽も北海道の有数の金融都市であった時代があり、現在も銀行だった建物が数多く残されています。

  • 母方の祖父や親せきが京都で陶器を造っていることもあり、昔からのご縁がありました。そのため何度か小樽の店にも伺ったことがあります。現在は店は閉められていて、昨年の夏に小樽へ行った際も外観だけ見させてもらいました。もう昔のような宴会は大きなホテルで行う時代に変わってしまったのが残念です。

    母方の祖父や親せきが京都で陶器を造っていることもあり、昔からのご縁がありました。そのため何度か小樽の店にも伺ったことがあります。現在は店は閉められていて、昨年の夏に小樽へ行った際も外観だけ見させてもらいました。もう昔のような宴会は大きなホテルで行う時代に変わってしまったのが残念です。

  • 大広間の北側と南側には同じデザインの下地窓があります。

    大広間の北側と南側には同じデザインの下地窓があります。

  • 三宣楼の扁額は北村李軒という方の筆によるものです。李軒は高松市に生まれました南画家で、20歳で裁判所に勤務しますが、後に京都の今尾景年の門下生となり、画家としての道を歩み始めます。21歳で細谷立斎氏に入門し、明石の立斎邸と高松を往復する日々が始まります。その後は明石に定住し昭和36年81歳で没するまで旺盛な創作活動を続けました。

    三宣楼の扁額は北村李軒という方の筆によるものです。李軒は高松市に生まれました南画家で、20歳で裁判所に勤務しますが、後に京都の今尾景年の門下生となり、画家としての道を歩み始めます。21歳で細谷立斎氏に入門し、明石の立斎邸と高松を往復する日々が始まります。その後は明石に定住し昭和36年81歳で没するまで旺盛な創作活動を続けました。

  • 座敷の外廊下からは関門海峡がきれいに見えたのだと思いますが、現在は背の高い建物が増えてしまったようです。表側はガラス窓が1枚だけで、雨戸もないようでした。

    座敷の外廊下からは関門海峡がきれいに見えたのだと思いますが、現在は背の高い建物が増えてしまったようです。表側はガラス窓が1枚だけで、雨戸もないようでした。

  • 天井の和風のシャンデリアのデザインは擬宝珠のついた橋の欄干と流れる水になっています。

    天井の和風のシャンデリアのデザインは擬宝珠のついた橋の欄干と流れる水になっています。

  • 乳白の球形の照明も周囲に蝶なのか猪の目がデザインされた枠が回されています。床の間の正面は火灯窓になっています。

    乳白の球形の照明も周囲に蝶なのか猪の目がデザインされた枠が回されています。床の間の正面は火灯窓になっています。

  • 下地窓のデザインも凝ったものでしたが、書院の引き戸の意匠も凝ったものです。

    下地窓のデザインも凝ったものでしたが、書院の引き戸の意匠も凝ったものです。

  • 床の間に掛けられた軸も興味深いものでした。北九州市の博物館に寄託とあったので写しなのだと思います。

    床の間に掛けられた軸も興味深いものでした。北九州市の博物館に寄託とあったので写しなのだと思います。

  • 上から隠元禅師の詩偈で、中段は木庵性瑫、下が即非如一の筆によるものです。いずれも黄檗宗の禅僧で、中国黄檗山に登り隠元隆琦からその法を受けています。昨年の秋には萬福寺へ精進料理を食べに行ったこともあり、何か縁のようなものを感じました。<br />

    上から隠元禅師の詩偈で、中段は木庵性瑫、下が即非如一の筆によるものです。いずれも黄檗宗の禅僧で、中国黄檗山に登り隠元隆琦からその法を受けています。昨年の秋には萬福寺へ精進料理を食べに行ったこともあり、何か縁のようなものを感じました。

  • 今回は門司の旅と言いながら下関の「春帆楼本店」へふくを食べに来たのも大きな目的でした。この「三宣楼」でも数年前には「春帆楼」のふくが食べられる「三宜楼茶寮」が営業していましたが、現在は閉店してしまっています。

    今回は門司の旅と言いながら下関の「春帆楼本店」へふくを食べに来たのも大きな目的でした。この「三宣楼」でも数年前には「春帆楼」のふくが食べられる「三宜楼茶寮」が営業していましたが、現在は閉店してしまっています。

  • 面白かったのがお座敷遊び指南のポスターです。「金毘羅舟々」や「虎拳」が紹介されています。子供の頃から♪金毘羅舟々、追い手に帆かけて、シュラシュシュシュ♪と歌は知っていましたが、実際に遊びとして知ったのは京都の上七軒でした。水上勉のエッセーにも出てきた勝喜代さんとか芸子さんのことを思い出しました。

    面白かったのがお座敷遊び指南のポスターです。「金毘羅舟々」や「虎拳」が紹介されています。子供の頃から♪金毘羅舟々、追い手に帆かけて、シュラシュシュシュ♪と歌は知っていましたが、実際に遊びとして知ったのは京都の上七軒でした。水上勉のエッセーにも出てきた勝喜代さんとか芸子さんのことを思い出しました。

  • 「虎拳」はあまり遊んだことはありませんが、囃子歌から「とらとら」とも呼ばれ、虎が老母を襲い、和藤内がその虎を破って、老婆は自分の息子の和藤内に勝つという三すくみの遊びです。近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」から誕生した拳遊びですが、京都では和藤内ではなく加藤清正だったと思います。

    「虎拳」はあまり遊んだことはありませんが、囃子歌から「とらとら」とも呼ばれ、虎が老母を襲い、和藤内がその虎を破って、老婆は自分の息子の和藤内に勝つという三すくみの遊びです。近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」から誕生した拳遊びですが、京都では和藤内ではなく加藤清正だったと思います。

  • 廊下側の窓の建具も桟の幅が狭くデザインされ、古いものが良く残されていると思います。

    廊下側の窓の建具も桟の幅が狭くデザインされ、古いものが良く残されていると思います。

  • 百畳の間には立派な能舞台があり、天井は組み上げ格天井になっています。この能舞台だけは祖父の家のものより立派だと思いましたが、2階にあるので床下はどうなっているのだろうかと疑問が生じます。通常であれば床下は土間で甕が埋められているはずです。

    百畳の間には立派な能舞台があり、天井は組み上げ格天井になっています。この能舞台だけは祖父の家のものより立派だと思いましたが、2階にあるので床下はどうなっているのだろうかと疑問が生じます。通常であれば床下は土間で甕が埋められているはずです。

  • ガラス戸の桟が一部失われているのはご愛敬ですが、細かい細工が素晴らしいです。

    ガラス戸の桟が一部失われているのはご愛敬ですが、細かい細工が素晴らしいです。

  • 2階奥の座敷が個人的には一番気に入った部屋です。

    2階奥の座敷が個人的には一番気に入った部屋です。

  • 赤松の床柱から落とし掛けにも同材が使われ、松の枝に見立てた下地窓が仕立てられていました。

    赤松の床柱から落とし掛けにも同材が使われ、松の枝に見立てた下地窓が仕立てられていました。

  • その座敷の脇には1階へ下りる階段と3階へ上がる階段があります。ここも火灯窓のような衣装が施されています。このような遊びを見ていると大阪の天王寺の「鯛よし百番」を思い出します。あそこまでのジャパニーズ・バロックではありませんが、この建物の意匠については全く知りませんでした。<br />鯛よし百番:https://4travel.jp/travelogue/11723795

    その座敷の脇には1階へ下りる階段と3階へ上がる階段があります。ここも火灯窓のような衣装が施されています。このような遊びを見ていると大阪の天王寺の「鯛よし百番」を思い出します。あそこまでのジャパニーズ・バロックではありませんが、この建物の意匠については全く知りませんでした。
    鯛よし百番:https://4travel.jp/travelogue/11723795

  • 3階まで上がってきました。ここの手摺りは擬宝珠を設えた寺院建築のようです。

    3階まで上がってきました。ここの手摺りは擬宝珠を設えた寺院建築のようです。

  • 3階の座敷は松や梅の意匠の施された部屋が並びます。

    3階の座敷は松や梅の意匠の施された部屋が並びます。

  • 中央に通る廊下の天井は細かい網代になっています。中心をずらした意匠が心憎いです。

    中央に通る廊下の天井は細かい網代になっています。中心をずらした意匠が心憎いです。

  • 電話室には8番という番号が振られていました。これは門司港で8番目に電話を敷いたということになります。それだけお金に余裕があったのだということです。現在は改修工事でなくなってしまいましたが、京都の祖父の家にも同じような電話ボックスがありました。

    電話室には8番という番号が振られていました。これは門司港で8番目に電話を敷いたということになります。それだけお金に余裕があったのだということです。現在は改修工事でなくなってしまいましたが、京都の祖父の家にも同じような電話ボックスがありました。

  • 中を覗いてみるとちゃんと電話機が置いてありました。これは復元されたものだと思います。

    中を覗いてみるとちゃんと電話機が置いてありました。これは復元されたものだと思います。

  • 主廊下から脇へも廊下が伸びています。ここは俳句の間へつながっています。

    主廊下から脇へも廊下が伸びています。ここは俳句の間へつながっています。

  • その入り口にある巨大な下地窓には驚かされます。

    その入り口にある巨大な下地窓には驚かされます。

  • 花の花弁に合わせて下地が組まれています。

    花の花弁に合わせて下地が組まれています。

  • 床の間には高浜虚子がこの部屋で詠んだといわれる句がかかっていました。

    床の間には高浜虚子がこの部屋で詠んだといわれる句がかかっていました。

  • 「風師山 梅ありとうふ 登らばや」風師山 はこの「三宣楼」の建つ高台の裏にある標高362メートルの山です。

    「風師山 梅ありとうふ 登らばや」風師山 はこの「三宣楼」の建つ高台の裏にある標高362メートルの山です。

  • 「谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまゝ」は杉田久女(すぎたひさじょ)は長谷川かな女や竹下しづの女とともに近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた人物です。久女の代表作のこの句は英彦山で詠まれました。高浜虚子に師事しながら「ホトトギス」を除名されたことでも知られています。

    「谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまゝ」は杉田久女(すぎたひさじょ)は長谷川かな女や竹下しづの女とともに近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた人物です。久女の代表作のこの句は英彦山で詠まれました。高浜虚子に師事しながら「ホトトギス」を除名されたことでも知られています。

  • 表の廊下からは門司港駅と線路が見えました。昭和初期であれば高いビルも無く、関門海峡の絶景が眺められたのでしょう。

    表の廊下からは門司港駅と線路が見えました。昭和初期であれば高いビルも無く、関門海峡の絶景が眺められたのでしょう。

  • ガラス張りで明るい外廊下ですが、昭和の時代の暖房器具では寒かったのではないかと思えました。実際自分の子供の頃の冬の寒さは現在とは違い、けた違いに寒かったように思えます。

    ガラス張りで明るい外廊下ですが、昭和の時代の暖房器具では寒かったのではないかと思えました。実際自分の子供の頃の冬の寒さは現在とは違い、けた違いに寒かったように思えます。

  • すべての部屋の改修が済んでいるわけではなく、一部の部屋は閉ざされたままになっていました。祖父の家は3年をかけて一度解体して修理しました。文化財の指定があったので費用の負担は大きくなかったと聞いていますが、同じくらいの規模のこの建物も全面修理するのは大変だと思います。

    すべての部屋の改修が済んでいるわけではなく、一部の部屋は閉ざされたままになっていました。祖父の家は3年をかけて一度解体して修理しました。文化財の指定があったので費用の負担は大きくなかったと聞いていますが、同じくらいの規模のこの建物も全面修理するのは大変だと思います。

  • 3階からは小さな階段があり、屋上へ上がれるようになっています。残念ながらこの階段を上ることはできませんでした。

    3階からは小さな階段があり、屋上へ上がれるようになっています。残念ながらこの階段を上ることはできませんでした。

  • 代わりに屋上の写真が展示してありました。

    代わりに屋上の写真が展示してありました。

  • 3階の廊下と和室の間の下地窓は半分開け放たれていました。そうするとのぞいてみたくなるのが人情です。

    3階の廊下と和室の間の下地窓は半分開け放たれていました。そうするとのぞいてみたくなるのが人情です。

  • 鋭角に切り取られた部屋はまた不思議な雰囲気を漂わせています。この部屋も修理されていないようです。

    鋭角に切り取られた部屋はまた不思議な雰囲気を漂わせています。この部屋も修理されていないようです。

  • 昔の日本建築にしては窓や開口部の多さが目立ちます。構造上問題ないのだろうかと心配になるほどです。

    昔の日本建築にしては窓や開口部の多さが目立ちます。構造上問題ないのだろうかと心配になるほどです。

  • 大きな火灯窓の廊下側にはガラス戸が嵌め込まれています。扉を開けたら人が通れるほどの大きさがあります。

    大きな火灯窓の廊下側にはガラス戸が嵌め込まれています。扉を開けたら人が通れるほどの大きさがあります。

  • 小舞委の武組の美しい下地窓です。通常はこれくらいの意匠ですが、この建物の下地窓の多さは異様です。

    小舞委の武組の美しい下地窓です。通常はこれくらいの意匠ですが、この建物の下地窓の多さは異様です。

  • いくつかの部屋は現在も「三宣楼茶寮」で使われているようです。それぞれが個室になった料亭建築なのでゆっくり過ごせそうです。

    いくつかの部屋は現在も「三宣楼茶寮」で使われているようです。それぞれが個室になった料亭建築なのでゆっくり過ごせそうです。

  • 谷崎潤一郎の「陰影礼賛」という言葉が思い出させるような天気の具合だったように思います。門司港で唯一天気があまり良くなかった日ですが、小雨が降っていてちょうどよいと感じました。

    谷崎潤一郎の「陰影礼賛」という言葉が思い出させるような天気の具合だったように思います。門司港で唯一天気があまり良くなかった日ですが、小雨が降っていてちょうどよいと感じました。

  • 置いてあったパンフレットには「喫茶KAITO(海人)」とありましたが、予約をすればお昼の御膳もいただけるようです。

    置いてあったパンフレットには「喫茶KAITO(海人)」とありましたが、予約をすればお昼の御膳もいただけるようです。

  • こんな部屋で食事するのも洒落ていたかもしれません。

    こんな部屋で食事するのも洒落ていたかもしれません。

  • ガイドさんの説明によると創業者の三宅アサの三宅家は文化や芸能に造詣が深く、百畳の間の16畳の舞台では能や踊り、長唄などが披露されたそうです。三宅アサの姪で芸妓「小まめ」は京舞井上流名取で、伝統技芸持者にも認定され、三宜楼との絆は長く続いたそうです。さまざまな芸術家や文化人が訪れたと伝えられ、記録に残るところで、出光興産創業者の出光佐三、喜劇俳優の古川ロッパ、俳人の高浜虚子などが訪れました。

    ガイドさんの説明によると創業者の三宅アサの三宅家は文化や芸能に造詣が深く、百畳の間の16畳の舞台では能や踊り、長唄などが披露されたそうです。三宅アサの姪で芸妓「小まめ」は京舞井上流名取で、伝統技芸持者にも認定され、三宜楼との絆は長く続いたそうです。さまざまな芸術家や文化人が訪れたと伝えられ、記録に残るところで、出光興産創業者の出光佐三、喜劇俳優の古川ロッパ、俳人の高浜虚子などが訪れました。

  • 江戸時代末期に生まれた三宅アサという女性は遅くとも明治39年の1906年頃には営業を始めていたとされますが、一代で商売を大きくし、現存の「三宜楼」は昭和6年の1931年に建てられています。それから6年後の日中戦争が勃発した昭和12年頃は三宜楼は繁盛の頂点にあったようですが、アサは83歳で生涯を閉じています。

    江戸時代末期に生まれた三宅アサという女性は遅くとも明治39年の1906年頃には営業を始めていたとされますが、一代で商売を大きくし、現存の「三宜楼」は昭和6年の1931年に建てられています。それから6年後の日中戦争が勃発した昭和12年頃は三宜楼は繁盛の頂点にあったようですが、アサは83歳で生涯を閉じています。

  • アサの没後は三宜楼は親族に引き継がれましたが、料亭としては昭和30年の1955年頃に廃業しています。その後、アサの孫にあたる男性が1階の数間だけを使って住んでいましたが、平成16年の2004年にその男性が亡くなり、遺族は建物の相続を放棄しました。建物と土地の所有者が別々だったため、平成17年の2005年に地主側は建物の解体を前提に土地を売りに出してしまいます。価格は約3600万円で解体と消滅の危機に瀕していましたが、これを知った地元の有志は急遽「三宜楼を保存する会」を結成して買取を考えます。

    アサの没後は三宜楼は親族に引き継がれましたが、料亭としては昭和30年の1955年頃に廃業しています。その後、アサの孫にあたる男性が1階の数間だけを使って住んでいましたが、平成16年の2004年にその男性が亡くなり、遺族は建物の相続を放棄しました。建物と土地の所有者が別々だったため、平成17年の2005年に地主側は建物の解体を前提に土地を売りに出してしまいます。価格は約3600万円で解体と消滅の危機に瀕していましたが、これを知った地元の有志は急遽「三宜楼を保存する会」を結成して買取を考えます。

  • 地主との交渉の末に当初の約半額の1700万円で土地を譲ってもらえることになり、建物は無償で譲渡を受け、平成19年の2007年には、「三宜楼を保存する会」が所有権を取得することが出来たそうです。

    地主との交渉の末に当初の約半額の1700万円で土地を譲ってもらえることになり、建物は無償で譲渡を受け、平成19年の2007年には、「三宜楼を保存する会」が所有権を取得することが出来たそうです。

  • 建物の状態は特に基礎部分の傷みが酷く、活用するためには修復に加え耐震補強も必要になりました。保存の方法に至っては市民の力だけでは手に余り、「三宜楼を保存する会」は土地と建物を市に寄付する代わり、保存策を検討してほしいと嘆願します。ただし「運営には市民が自ら携わる」、「建物の活用策として、飲食店を誘致して収益を得ることや、一部を見学スペースとして公開する」などの提案を付けて北九州市に支援を求めました。

    建物の状態は特に基礎部分の傷みが酷く、活用するためには修復に加え耐震補強も必要になりました。保存の方法に至っては市民の力だけでは手に余り、「三宜楼を保存する会」は土地と建物を市に寄付する代わり、保存策を検討してほしいと嘆願します。ただし「運営には市民が自ら携わる」、「建物の活用策として、飲食店を誘致して収益を得ることや、一部を見学スペースとして公開する」などの提案を付けて北九州市に支援を求めました。

  • 紆余曲折を経てようやく本格的な改修工事開始に漕ぎ着けたのは平成25年の2013年に入ってからで、保存修理工事に着手してやっと本体工事を終えました。市に寄贈てから改修オープンまでに7年を費やしました。

    紆余曲折を経てようやく本格的な改修工事開始に漕ぎ着けたのは平成25年の2013年に入ってからで、保存修理工事に着手してやっと本体工事を終えました。市に寄贈てから改修オープンまでに7年を費やしました。

  • 改修費が膨らんだために全面改修は断念せざるを得なかったようで、傷みのひどい厨房部分などは取り壊し、3階は「俳句の間」以外は使用禁止として、未改修のまま残しました。それでも総事業費は2億円近くに上ったそうです。同じくらいの規模の祖父の家が一度解体して全面改修して3年がかりで3億掛かったことを考えると、高台という立地のハンディもあったのではないかと思いました。

    改修費が膨らんだために全面改修は断念せざるを得なかったようで、傷みのひどい厨房部分などは取り壊し、3階は「俳句の間」以外は使用禁止として、未改修のまま残しました。それでも総事業費は2億円近くに上ったそうです。同じくらいの規模の祖父の家が一度解体して全面改修して3年がかりで3億掛かったことを考えると、高台という立地のハンディもあったのではないかと思いました。

  • 「三宣楼」という建物を見学しながら小樽の「海陽亭」のことや京都の祖父の家のことなど、いろいろな思いが湧き上がってくる時間でした。

    「三宣楼」という建物を見学しながら小樽の「海陽亭」のことや京都の祖父の家のことなど、いろいろな思いが湧き上がってくる時間でした。

  • ようやく玄関まで戻ってきました。ボランティアガイドのおじさんにお礼を言って、寄付箱に少額ですがお金を入れました。今後の保存を考えると有料にしても良いのではないかと思いました。

    ようやく玄関まで戻ってきました。ボランティアガイドのおじさんにお礼を言って、寄付箱に少額ですがお金を入れました。今後の保存を考えると有料にしても良いのではないかと思いました。

  • 妻は昭和17年生まれの元気なおじさんに小さなプレゼントをいただいて大喜びでした。

    妻は昭和17年生まれの元気なおじさんに小さなプレゼントをいただいて大喜びでした。

  • この建物がいつまでも残ることを願いつつ「三宣楼」を後にしました。そろそろおなかも空いてきました。

    この建物がいつまでも残ることを願いつつ「三宣楼」を後にしました。そろそろおなかも空いてきました。

この旅行記のタグ

4いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP