2016/08/25 - 2016/08/25
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blumentalさん
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毎年夏に夫婦で行く海外旅行も5回目、今回はドイツ中央辺りを東西に移動することを計画。
観光4日目、ライプツィヒの次はルターシュタット・ヴィッテンベルク(長いからヴィッテンベルク)の観光です。ここではルター関連の建造物が世界遺産に登録されています。翌年(2017年)の宗教改革500年記念に向けてあちこちで工事をしていました。
旅行の日程は以下の通り:★印がこの旅行記です。
8月21日(日) 11:00関空~16:35パリ経由18:15~19:45ミュンヘン着(ミュンヘン泊)
8月22日(月) オーバーアマガウ、エッタール、ミュンヘン(ミュンヘン泊)
8月23日(火) ザルツブルク(ミュンヘン泊)
8月24日(水) アイゼナハ、ゴータ(アイゼナハ泊)
8月25日(木) ライプツィヒ、
★ ヴィッテンベルク(アイゼナハ泊)
8月26日(金) エアフルト、ナウムブルク、ヴァイマール(アイゼナハ泊)
8月27日(土) ボン、ケルン(ボン泊)
8月28日(日) ゾースト、ミュンスター(ボン泊)
8月29日(月) リューデスハイム、マインツ(マインツ泊)
8月30日(火) 11:45フランクフルト~13:00アムステルダム14:40~(機内泊)
8月31日(水) 8:50関空着
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 鉄道
- 航空会社
- KLMオランダ航空
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ライプツィヒ中央駅です。ライプツィヒ観光後、11:15発のICでヴィッテンベルクに向かいました。
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ヴィッテンベルク駅に11:46到着。西側出口から出てみると、星形のテントみたいな屋根。これが駅舎かと、ちょっと驚き。
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駅周辺の航空写真がありました。駅舎らしきものは線路の東側、星形のテントは西側ですね。
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駅周辺は工事中です。翌年(2017年)に控えた宗教改革500年記念に向けて整備しているんでしょうね。
このまま線路沿いのアム・ハウフトバーンホフ通りAm Hauptbahnhofを南に進みます。 -
突き当りを西へ。曲がり角にはルターアイヒェ(ルターのカシの木)Luthereicheの公園があります。
ここは1520年12月10日にルターが民衆の面前で教皇レオ10世からの破門警告状を焼いた場所らしいです。ルターがこのカシの木を植えたり、登ったりしたわけではありません。植えられたのは1830年。
でも1883年(ルター生誕400年)以降、ドイツ各地にルターアイヒェが植えられており、約120か所にあります。ナチス政権が始まった1933年(ルター生誕450年)には、ヒトラーアイヒェHitler-Eicheの名で植えられました。 -
コレギーン通りCollegienstr.を西へ。
すぐ左手にあるのはアウグステウムAugusteum。1504年設立のアウグスティヌス修道院でしたが、1524年ザクセン選帝侯フレデリック3世は建物をルターに譲渡しました。 -
アウグステウムの前に観光バスが停まっていますね。この建物の奥(南側)がルターハウスLutherhausです。ちらっと覗いてみましたが外装は修復中でした。
ここで道は二股に分かれており、我々は教会の尖塔が見える右のミッテル通りMittelstr.を進みました。 -
目抜き通りのすぐ裏側になる通りですが、空き家のような放置された家がいくつか見えます。世界遺産に指定されて20年たっても、まだ東ドイツの雰囲気がそのまま。
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すぐ横には廃墟となった建物が、取り壊されずにそのままの状態で。
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教会の尖塔というのは、歩く時の目標となります。ですから、尖塔を隠すような高い建物のない街並みはありがたいです。
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聖マリエン市教会Stadtkirche St. Marien。
1187年の文献に登場するこの町で一番古い教会。1412-39年の建設で、ほぼ現在の姿に。この教会も世界遺産に登録(1996年)。 -
翌年(2017年)の宗教改革500周年に向けて、2010年から大改修工事が始まり、塔の改修は昨年夏に終わったそうです(良かった)。
(左)南東側から。(右)北東側から。 -
教会北側の広場でお目にかかったのはヨハネス・ブーゲンハーゲン(1485-1558)の像(1894年作)。彼はルターの片腕ともいえる改革者。ルターの伴侶はメランヒトンだけではありません。
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ルターの訳した聖書はドイツ中部・南部で使われている高地ドイツ語で書かれていたため、低地ドイツ語を使うドイツ北部では十分に意味が通じていませんでした。ルターの聖書をさらに低地ドイツ語に翻訳し、ドイツ北部からバルト海沿岸、そして北欧へと伝導していったのがこの人です。
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教会内は結構な人だかり。いくつかの見学グループが混在しているようです。特に内陣には人がぎっしり。
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身廊にはガイドの説明を聴いている年配者のグループがいます。
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祭壇前で説明を受けていたグループが移動してくれました。訪問者みんながカメラを向けているように、この祭壇がこの教会の目玉です(幸運にも祭壇画は修復されたばかりのようです)。
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イチオシ
主祭壇は宗教改革祭壇Reformations-Altarと呼ばれ、ルーカス・クラーナハ父子による祭壇画があります(1547年作)。
3連画の中央パネルが「最後の晩餐」で、右下のワインを受け取っている黒服の使徒がルター、ワインを渡している赤服の給仕がクラーナハです。
右パネルにはブーゲンハーゲンが、左パネルにはメランヒトンが描き込まれています。 -
祭壇前から拝廊側を撮るのに勇気が要りました。ガイドの説明を受けている人がみんなこっちを見ているような気がして。
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パイプオルガン(1983年作)。
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こちらは説教壇。ルターもここで何度も説教しています。
プロテスタントに改宗後の教会の初代監督(カトリックの司教に相当)は、ヨハネス・ブーゲンハーゲンです(在職1533-58)。 -
内陣の手前にあった脇祭壇。
ルターが1525年にカタリナ・フォン・ボラと結婚したのはこの教会です。ルター41歳、カタリナ26歳でした。 -
教会から路地を西に抜けるとマルクト広場Marktplatzです。広場の北側にはルネサンス様式の市庁舎Rathaus Wittenberg(1541年完成)。
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広場に立つ二人の像。一人はマルティン・ルター(1483-1546)、ヴィッテンベルク大学神学教授。宗教改革の中心人物。
この像はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(在位1797-1840)の命によって1821年に建てられました。この記念碑を第1号として、19世紀後半ドイツのあちこちでルター像の製作が流行しました。 -
そしてもう一人はフィリップ・メランヒトン(1497-1560)、ヴィッテンベルク大学ギリシア語教授。ルターに共鳴し、ルターの思想を体系化しました。彼の右手には彼が執筆した「アウグスブルク信仰告白」。
ルターと対を成すように建てられていますが、こちらは1865年の完成。最初からペアで作られたわけではありません。 -
彫刻でも絵画でも、ルターは気難しい顔で描かれていますが、この人はいつも口元に笑みを浮かべているように描かれています。不気味な微笑みです。
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この市庁舎、2000年に市政が新市庁舎に移転しているので、厳密には旧市庁舎です。
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広場の東側には聖マリエン市教会。
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市庁舎入り口の彫刻と宗教改革500年記念2017の垂れ幕。
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イチオシ
広場の南西の角にある「ヴィッテンベルクの地球儀」Wittenberger Weltkugel。直径2mのこの地球儀は2014年10月から公開されており、来年2017年5月の宗教改革世界博覧会の開幕までの時間がカウントダウンされていました。
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イチオシ
同じ撮るなら日本のある側を。太平洋上に市庁舎と市教会が映っています。
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広場の南側。ここから西方向にシュロス通りSchlossstr.が伸びています。
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シュロス通りを西に。左手にクラーナハ薬局。通りの先には城教会。
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シュロス通りには水路が引かれています。水路に沿って植栽されています。
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ドイツならペチュニアかゼラニウムが定番だと思うのですが、この水路沿いにはツルハナナスが並んでいました。
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あの塔は城の塔なのか、教会の塔なのか、そればかり考えて歩いていました。
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イチオシ
ヴィッテンベルク城Schloss Wittenbergは、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(在位1486-1525)が同地にあった古い城を取り壊して、1490-1515年に再建した選帝侯の居城です。
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城の北翼を占めるのが城教会Schlosskircheです(1503-11年建設)。
七年戦争時の1760年に教会は焼失、内部はほとんど失われました。再建は1883-92年です。
聖マリエン教会が市教会であるのと区別するため、城教会と呼ばれています。別名、宗教改革教会Kirche der Reformation。これも世界遺産。 -
この塔はもとは城の塔(天守閣)でしたが、宗教改革の記念碑として1885-92年にネオゴシック様式のドーム屋根をつけた教会の塔として改装再建されました(高さ88m)。
塔にはルターによる讃美歌 "Ein feste Burg ist unser Gott"(神はわがやぐら)の碑文がついています。 -
宗教改革500周年を控え、2013年以降、城は広範囲に改装復元されているようです。ここだけでなくこの町のいろんな場所でお化粧直しが進められています。
小学生の見学グループが通り過ぎます。ここは歴史の勉強には絶好の場所ですね。 -
塔の向こうに行って城の西側を見たかったのですが、あいにく城の改修工事でふさがれていました。教会部分の改修工事だけでも終わっているのを良しとしなければ(昨年夏までは教会は閉まっていたようです)。
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今回手に入れた絵葉書です。城と旧市街風景(写真下が西)。
城の付属教会といえば、城が主で教会がおまけですが、注目度からいうと、ここでは教会が主で城がおまけのような存在です。 -
イチオシ
こちらは教会の北側入り口。この教会で最も注目されているのはここ。
1517年10月31日、ルターが「95か条の論題」95 Thesenを貼り出した教会の扉なんですが、片側が開いているんで47.5か条だけしか撮れません。 -
扉の上のキリストの両側にいるのはルターとメランヒトンです。
当時の扉は木製でしたが、1760年に七年戦争で焼けてしまい、現在の扉は青銅で再現されたもの。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位1840-61)が、1858年11月10日(ルターの誕生日)にこの扉を寄贈しました。彼は、逮捕されていたグリム兄弟を復職させたり、ケルン大聖堂の建築再開、ホーエンツォレルン城の再建など、ドイツ観光好きにとって、大変ありがたいことをたくさんしています。 -
1502年にヴィッテンベルク大学が設立され、1507年からここは大学教会。ルター教授にとってここは自分の大学の掲示板みたいなもの。ここに討論を投げかける文書を貼りだす行為は特別なことではありません。
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但し、討論を申し入れた者は同じ文書を上司に送る義務があります。ルター教授は、上司のマインツ大司教に書簡を送りますが、まさか上司も悪の一味だったとは! そして書簡は黒幕(ローマ教皇)の手にわたり、やがてルターの身に。。。(ドラマにありそうなパターン)。きっと、こんな感じで宗教改革に発展してしまったんでしょうね。
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教会に入ってみると、えらく奇麗なんで少しがっかりです。
ルターの16世紀を期待して来たのですが、全然イメージと異なります。宗教改革の始まった教会なんで、てっきりプロテスタント教会の見本みたいな内装かと勝手に思い込んでいました。 -
七年戦争で教会は焼失していましたが、1883年のルター400歳の誕生日に、ネオゴシック様式で教会の再建が始まりました(1892年完成)。
ですからルターの時代とは全く異なる教会になっているんですね。 -
内陣上部です。身廊には円形燭台が2つぶら下がっていました(撮影の邪魔)。
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主祭壇です。祭壇の前には、この城と教会を建て、ルターを援護したザクセン選帝侯フリードリヒ3世が埋葬されています。
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主祭壇の彫刻。キリストの左右にいるのはペテロとパウロでしょうか。
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後陣のステンドグラス。
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内陣に向かって左の柱にメランヒトン、右の柱にルターの像があります。
ルターは1546年に、メランヒトンは1560年にこの教会に埋葬されました。 -
どこだったか、別の壁にもルターの銅板がありました。
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拝廊とパイプオルガン(外函は1893年作)。
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拝廊側のステンドグラス。
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天井には網目模様に加え、細かい装飾が見られます。
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さて、教会を出て駅に向かいます。シュロス通りを東に。
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シュロス通りを振り返って。
城教会の見納め、実にユニークな外観の塔でした。 -
マルクト広場の南西の角にクラーナハ薬局Cranach Apothekeがあります。
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ルーカス・クラーナハ(1472-1553)はここに工房を構え、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の御用絵師を務めました。彼は薬局や出版社の経営の他、1537-44年にヴィッテンベルクの市長にもなっています。
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クラーナハ薬局の前はマルクト広場全景が撮れる、いい撮影スポットでした。
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広場の南側にある靴屋の建物はとても立派ですね。
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広場から東に伸びるコレギーン通りを通って帰ります。通りには人が増えてきたようです。
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コレギーン通りから西を振り返って。
特に目立つ建物はありません。ここらが一番賑やかな所でしょうか。 -
コレギーン通りから西を振り返って。
目抜き通りですので、壁は綺麗に塗られています。落ち着いた街並みっていう感じです。 -
ガイドツアーによる人だかりは、ヴィッテンベルク大学(1502年設立)の前です。1817年ハレ大学と合併してマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクになりました(すごい名前)。
大学自体はハレにあり、現在ここはロイコレア財団の運営するコンベンションセンターです。 -
ルター教授が書簡をマインツ大司教に届けたことから、当時この大学は異端者育成の場だと批判を浴びたそうです。
ヴィッテンベルク大学で学んだ人で、最も有名な人はハムレットでしょうか(架空の人物ですが)。 -
大学の東隣にあるのはメランヒトンの家Melanchthonhaus。落ちそうな屋上のプレート(飾り?)の奥は切妻屋根になっているようです。これがなかったら、全くの平凡な建物に見えます。
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コレギーン通りを振り返って。
メランヒトンの家の前を観光集団が通過。この町ではこの様なガイド付き観光グループをたくさん見かけました。何かのツアーコースに組み込まれているのでしょうか。 -
再びルターアイヒェの前を通過、駅に向けて通りを北へ。結局、ルターの家もメランヒトンの家もクラーナハの家にも入りませんでした。
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そしてヴィッテンベルク駅。やはり奇妙な屋根です。日陰で真っ暗ですが、今日は日差しが強いんでありがたい。
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駅にこんな写真が掲示されていました。工事完成後のイメージですね。
なるほど、こんな風に整備されたこの町に、来年はたくさんの人が押しかけるんでしょうね。 -
ヴィッテンベルク14:12発のICでライプツィヒ中央駅14:43着。
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午前中の女房との約束で、中央駅構内のショッピングセンターをぶらぶら歩きすることに。
ショッピングセンターの名前はプロメナーデン Promenaden。1997年の駅構内大改装で造られた、フロアー3階分の大商業施設です。 -
ライプツィヒ市街にはまだ見残しがあるのに...と心の中でつぶやきながら、女房に付き合ってあちこちをうろうろ。
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どこをどう巡ったか記憶にありません。
とにかく、ライプツィヒ16:35発のICEでアイゼナハに戻りました(17:47着)。 -
こちらはアイゼナハのルター像(カールス広場)。
ヴィッテンベルクのルターは聖書を開いていましたが、こちらのルターは脇に抱えています。 -
夕食はカールス広場から少し西に歩いた所にあるレストランKartoffelhausで。
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夕食後の帰り道、20:00のニコライ教会とニコライ門。我々のホテルはニコライ門のすぐそばです。
明日はエアフルトとナウムブルクを目指し、今日と同じ路線を走ります。
(エアフルト)https://4travel.jp/travelogue/11745022
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