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【かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅】<br />期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間<br />目的地: <br />2005年以来、数年ぶりにお会いするSさんご夫妻をブレーメンに、最初に訪ねるのをかわきりに、旧東ドイツの地域である、ザクセン・アンハルト州、ブランデンブルク州、ベルリン州(特別市)、ザクセン自由州、テューリンゲン自由州の各州を順次、巡る旅である。<br />とりわけ、今まで訪れる事のなかったザクセン・アンハルトの古城群、ザクセンの古城群を見て回り、しかも、エルベ川沿いのザクセンワイン街道、二つの川ザーレ・ウンシュトルートの川沿いの急斜面に広がる、ドイツ13番目、最北のワイン産地である、ザーレ・ウンシュトルート・ワイン街道を楽しむ予定である。<br /><br />写真はLutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの市庁舎、ルターの銅像。<br />

世界遺産“Lutherstadt ルターの町“には大きな銅像が立ち、宗教改革者ルターの偉大さを示している。

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2011/05/18 - 2011/05/18

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jijidaruma

jijidarumaさん

【かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅】
期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間
目的地:
2005年以来、数年ぶりにお会いするSさんご夫妻をブレーメンに、最初に訪ねるのをかわきりに、旧東ドイツの地域である、ザクセン・アンハルト州、ブランデンブルク州、ベルリン州(特別市)、ザクセン自由州、テューリンゲン自由州の各州を順次、巡る旅である。
とりわけ、今まで訪れる事のなかったザクセン・アンハルトの古城群、ザクセンの古城群を見て回り、しかも、エルベ川沿いのザクセンワイン街道、二つの川ザーレ・ウンシュトルートの川沿いの急斜面に広がる、ドイツ13番目、最北のワイン産地である、ザーレ・ウンシュトルート・ワイン街道を楽しむ予定である。

写真はLutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの市庁舎、ルターの銅像。

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • 【世界遺産“Lutherstadt ルターの町“には大きな銅像が立ち、ルターの偉大さを示している】<br /><br />今回の旅は宗教改革者ルターの足跡をたどります。<br />そしてその足跡の広さに驚く。<br /><br /><5月18日(水);快晴、26℃暑い一日、239 km><br /><br />起床7:00、朝食8:30~9:00、Hotel Bayrisches Hausを9:30に出発 ->B1・L?(フェリーでCaputhに)・B2・A10・A9・B187  88km 11:10 Lutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルク着;市内観光~13:30->B187・A9・B100(Halle)・B80 110km (Schloss Seeburg)->B80 13km 16:10 Lutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベン着;市内観光~17:00 ->B180 24km (Querfurt) ->L? 4km 17:30 Querfurt/ Lodersleben着。夕食;ロダースレーベン・Landhotel Quernetalにて18:15~19:15。<br /><br />写真はドイツ全図・・・今回の旅の行程(赤線)

    【世界遺産“Lutherstadt ルターの町“には大きな銅像が立ち、ルターの偉大さを示している】

    今回の旅は宗教改革者ルターの足跡をたどります。
    そしてその足跡の広さに驚く。

    <5月18日(水);快晴、26℃暑い一日、239 km>

    起床7:00、朝食8:30~9:00、Hotel Bayrisches Hausを9:30に出発 ->B1・L?(フェリーでCaputhに)・B2・A10・A9・B187  88km 11:10 Lutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルク着;市内観光~13:30->B187・A9・B100(Halle)・B80 110km (Schloss Seeburg)->B80 13km 16:10 Lutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベン着;市内観光~17:00 ->B180 24km (Querfurt) ->L? 4km 17:30 Querfurt/ Lodersleben着。夕食;ロダースレーベン・Landhotel Quernetalにて18:15~19:15。

    写真はドイツ全図・・・今回の旅の行程(赤線)

  • *起床7:00、快晴で気持ちよく朝食(8:30~9:00)を済ませ、Hotel Bayrisches Hausホテル バイエルンハウスを9:30に出発した。<br /><br />写真はポツダムで三泊したHotel Bayrisches Haus古城ホテル バイエルンハウスの2階建ての丸太小屋。こちらの二階にグルメレストランRestaurant Friedrich Wilhelm(ミシュラン1星)があった。<br /><br />【③④⑤Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Haus古城ホテル バイエルンハウス】<br />D-14471 Potsdam 、Im Wildpark 1 / Elisenweg 2<br />Tel:+49 (0)331 ? 5505 ? 0 ? Fax: +49 (0)331 ? 5505 ? 560<br />5星・全41室。<br /><br />Comfortzimmer im Garten- oder Waldhaus <br />私共の部屋は本棟の左奥にある別棟のWaldhausバルトハウス252室(1階)でした。<br /> Euro80X3=240 朝食代は別・Euro25X3X2=150 合計Euro390 (46,265円)<br />このホテルは5星で、朝食代は一人Euro25もしていました。予約したBooking comのホテルへのコメントを読むと、朝食代が高い、高いとのコメントが多かった。<br />http://www.bayrisches-haus.de/<br />グルメレストランRestaurant Friedrich Wilhelmはミシュラン1星 ・<br />Gault Millau 16点 、全独ランク138位。<br /><br />Berlinベルリンから三十数kmの近郊、世界遺産の町・Potsdamポツダムの森の中に、珍しい歴史的なホテルがある。<br />歴史的な王侯の館(バイエルン地方に見られる独特の民族的な建物)であったので、古城ホテルの範疇に入れたが、普段、私共が思い浮かべる古城ホテルのような、城郭の名残は全くない。今まで滞在してきた古城風のスタイルとは勿論違っている。<br /><br />ポツダムの西部に位置するホテルは、Sanssouci Parkサンスーシ公園にあるNeues Palaisノイエスパレス新宮殿から車で10分の距離にある。<br />Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Hausルレ・シャトーホテル(加盟)・バイエルンハウスのエレガントで広々とした客室には上品な布地が用いられ、木製家具とイタリア産大理石のバスルームが備わっている。<br />ホテルは本棟のWildparkresidenz(ビルトパークレジデンツ・動物園のレジデンツ)、Gartenhaus(ガルテンハウス・庭園小屋)、Jagthaus(ヤーグトハウス・狩猟小屋)、そして私共部屋があるWaldhaus(バルトハウス・森の小屋)とあり、呼び名も森の中のホテルらしい名前が付いている。多分、私共のバルトハウスの部屋が一番安い。<br />グルメレストラン Friedrich Wilhelm&quot;フリードリヒ・ヴィルヘルム&quot;(ミシュラン1星、火曜から土曜まで営業なので、私共の日程では17日(火)のみがチャンス。)で、夕食を予約している。<br />公園の端、ホテルへの入口に立っているレストランは郷土料理のAlte Foersterei&quot;古いフォレステライ&quot;である。<br />館内のL’Oasis Beauty &amp; Spa(ビューティー&amp;スパ)では、スイミングプール、サウナ、スチームバスを併設しており、美容トリートメントとマッサージもできる。<br /><br />・・・・・<br />

    *起床7:00、快晴で気持ちよく朝食(8:30~9:00)を済ませ、Hotel Bayrisches Hausホテル バイエルンハウスを9:30に出発した。

    写真はポツダムで三泊したHotel Bayrisches Haus古城ホテル バイエルンハウスの2階建ての丸太小屋。こちらの二階にグルメレストランRestaurant Friedrich Wilhelm(ミシュラン1星)があった。

    【③④⑤Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Haus古城ホテル バイエルンハウス】
    D-14471 Potsdam 、Im Wildpark 1 / Elisenweg 2
    Tel:+49 (0)331 ? 5505 ? 0 ? Fax: +49 (0)331 ? 5505 ? 560
    5星・全41室。

    Comfortzimmer im Garten- oder Waldhaus
    私共の部屋は本棟の左奥にある別棟のWaldhausバルトハウス252室(1階)でした。
    Euro80X3=240 朝食代は別・Euro25X3X2=150 合計Euro390 (46,265円)
    このホテルは5星で、朝食代は一人Euro25もしていました。予約したBooking comのホテルへのコメントを読むと、朝食代が高い、高いとのコメントが多かった。
    http://www.bayrisches-haus.de/
    グルメレストランRestaurant Friedrich Wilhelmはミシュラン1星 ・
    Gault Millau 16点 、全独ランク138位。

    Berlinベルリンから三十数kmの近郊、世界遺産の町・Potsdamポツダムの森の中に、珍しい歴史的なホテルがある。
    歴史的な王侯の館(バイエルン地方に見られる独特の民族的な建物)であったので、古城ホテルの範疇に入れたが、普段、私共が思い浮かべる古城ホテルのような、城郭の名残は全くない。今まで滞在してきた古城風のスタイルとは勿論違っている。

    ポツダムの西部に位置するホテルは、Sanssouci Parkサンスーシ公園にあるNeues Palaisノイエスパレス新宮殿から車で10分の距離にある。
    Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Hausルレ・シャトーホテル(加盟)・バイエルンハウスのエレガントで広々とした客室には上品な布地が用いられ、木製家具とイタリア産大理石のバスルームが備わっている。
    ホテルは本棟のWildparkresidenz(ビルトパークレジデンツ・動物園のレジデンツ)、Gartenhaus(ガルテンハウス・庭園小屋)、Jagthaus(ヤーグトハウス・狩猟小屋)、そして私共部屋があるWaldhaus(バルトハウス・森の小屋)とあり、呼び名も森の中のホテルらしい名前が付いている。多分、私共のバルトハウスの部屋が一番安い。
    グルメレストラン Friedrich Wilhelm"フリードリヒ・ヴィルヘルム"(ミシュラン1星、火曜から土曜まで営業なので、私共の日程では17日(火)のみがチャンス。)で、夕食を予約している。
    公園の端、ホテルへの入口に立っているレストランは郷土料理のAlte Foersterei"古いフォレステライ"である。
    館内のL’Oasis Beauty & Spa(ビューティー&スパ)では、スイミングプール、サウナ、スチームバスを併設しており、美容トリートメントとマッサージもできる。

    ・・・・・

  • 写真は古城ホテル バイエルンハウスの朝食・・・朝食の間(8:45~9:30)はホテル本棟のロビーから、一段下がった所にある。

    写真は古城ホテル バイエルンハウスの朝食・・・朝食の間(8:45~9:30)はホテル本棟のロビーから、一段下がった所にある。

  • ホテルを出て、少し行くと、Havelハーフェル川流域の西にあるTempliner Seeテンプリナー湖とSchwielowseeシュビーロー湖の間にフェリーがあった。<br />大きな観光船らしき船が、目の前を行く。<br /><br />写真はTempliner Seeテンプリナー湖とSchwielowseeシュビーロー湖の間にフェリーが運航していた。

    ホテルを出て、少し行くと、Havelハーフェル川流域の西にあるTempliner Seeテンプリナー湖とSchwielowseeシュビーロー湖の間にフェリーがあった。
    大きな観光船らしき船が、目の前を行く。

    写真はTempliner Seeテンプリナー湖とSchwielowseeシュビーロー湖の間にフェリーが運航していた。

  • ゆっくりと行き来するフェリーを待って、車と2人分Euri2.5を払ってCaputhカプートに渡った。<br /><br />数台の車と自転車の人たちを乗せると、向こう岸にはあっという間に着いた。<br />そこからアウトバーンA10に出るまで、国道の左右が森で気持ちの良い緑の中を走る。<br /><br />写真はTempliner Seeテンプリナー湖とSchwielowseeシュビーロー湖の間にフェリー

    ゆっくりと行き来するフェリーを待って、車と2人分Euri2.5を払ってCaputhカプートに渡った。

    数台の車と自転車の人たちを乗せると、向こう岸にはあっという間に着いた。
    そこからアウトバーンA10に出るまで、国道の左右が森で気持ちの良い緑の中を走る。

    写真はTempliner Seeテンプリナー湖とSchwielowseeシュビーロー湖の間にフェリー

  • 写真は1996年に世界遺産に登録されたLutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの紋章

    写真は1996年に世界遺産に登録されたLutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの紋章

  • 写真はとLutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベン(いずれもザクセン・アンハルト州に属す)の紋章

    写真はとLutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベン(いずれもザクセン・アンハルト州に属す)の紋章

  • 写真はWittenbergヴィッテンベルク:宗教改革者Lutherルターの自画像(ルーカス クラナハ作)

    写真はWittenbergヴィッテンベルク:宗教改革者Lutherルターの自画像(ルーカス クラナハ作)

  • ルター42歳で、1525年6月13日に修道女Katharina von Boraボラ家のカタリーナと結婚した。<br />これを記念し、1994年から、ヴィッテンベルクの町は毎年6月に“Luthers Hochzeitルターの結婚式” という中世祭りを開催しているそうだ。パンフレットを見ると、結婚式を含めて、16世紀当時の“中世祭り”の様子がうかがわれる。<br />今年は6月17日~19日(金土日の3日間)、来年は6月8日~10日(金土日)に開催される。人出も10万人と、観光客も多く集まるようだ。<br /><br />来る2017年は宗教改革500年の記念の年なので、ルターの結婚式祭りは当然として、ドイツの各地でいろいろと記念の催しが持たれるのでしょう<br /><br />写真はWittenberg:Luthers Hochzeitルターの結婚式(ここでは2010年の日程)のイベントが毎年、催される。

    ルター42歳で、1525年6月13日に修道女Katharina von Boraボラ家のカタリーナと結婚した。
    これを記念し、1994年から、ヴィッテンベルクの町は毎年6月に“Luthers Hochzeitルターの結婚式” という中世祭りを開催しているそうだ。パンフレットを見ると、結婚式を含めて、16世紀当時の“中世祭り”の様子がうかがわれる。
    今年は6月17日~19日(金土日の3日間)、来年は6月8日~10日(金土日)に開催される。人出も10万人と、観光客も多く集まるようだ。

    来る2017年は宗教改革500年の記念の年なので、ルターの結婚式祭りは当然として、ドイツの各地でいろいろと記念の催しが持たれるのでしょう

    写真はWittenberg:Luthers Hochzeitルターの結婚式(ここでは2010年の日程)のイベントが毎年、催される。

  • 【Lutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの観光】<br />11:10~13:30<br /><br />世界遺産(アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造:1996年)<br />Marktplatzマルクト広場とRathaus市庁舎、Stadtkirche St.Marien聖マリエン市教会、Lutherhalleルター会館、Schlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg)、Cranachhausクラナハの家(1505~47年)。<br /><br />ヴィッテンベルクの旧市街の環状線Hallesche Strasseハレ通りに入り、11:10に公園傍の旧市街駅の駐車場に到着した。<br /><br />旧市街の外壁、掘割であった辺りを歩いて、旧市街に入る。<br />まず、目に入るのはマルクト広場周辺の景観だ。旧市庁舎、市教会であり、ルターと弟子のメランヒトンの銅像である。<br /><br />写真は旧市街の外郭からSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenbergヴィッテンベルク城)を望む。

    【Lutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの観光】
    11:10~13:30

    世界遺産(アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造:1996年)
    Marktplatzマルクト広場とRathaus市庁舎、Stadtkirche St.Marien聖マリエン市教会、Lutherhalleルター会館、Schlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg)、Cranachhausクラナハの家(1505~47年)。

    ヴィッテンベルクの旧市街の環状線Hallesche Strasseハレ通りに入り、11:10に公園傍の旧市街駅の駐車場に到着した。

    旧市街の外壁、掘割であった辺りを歩いて、旧市街に入る。
    まず、目に入るのはマルクト広場周辺の景観だ。旧市庁舎、市教会であり、ルターと弟子のメランヒトンの銅像である。

    写真は旧市街の外郭からSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenbergヴィッテンベルク城)を望む。

  • 私共はカトリックや、プロテスタントには縁遠いのですが、今回の旅は宗教改革者ルターの足跡をたどります。<br /><br />その足跡の広さに驚いていますが、一方で、それによって引き起こされた新旧キリスト教徒の争いでもある「30年戦争(1618年~48年)」の影響が、更に広範囲だったことを巡る町々の歴史で知らされました。<br />何度もドイツの旅をしていると、自然にテーマを持って回ることになります。<br />古城めぐりとルターにも拘った旅はこの旧東独では外せないテーマでした。<br /><br />ルターの町Wittenbergヴィッテンベルクはなかなか良い町で、街中を歩くのは楽しいものです。日差しの強い中、旧市街を周りましたのでけっこう陽に焼けました。<br /><br />ルターが宗教改革運動を始めた事で知られる小さな町、ヴィッテンベルクはいわゆる「95ヶ条の論題」が提示された町であり、ルターの活動を語る上で最も重要な中心地である。<br />ルターハウスや聖マリエン市教会、城付属聖堂はルター記念物の一部で、1966年にユネスコ世界遺産に登録された。<br /><br />写真はLutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの市庁舎、ルターの銅像

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    私共はカトリックや、プロテスタントには縁遠いのですが、今回の旅は宗教改革者ルターの足跡をたどります。

    その足跡の広さに驚いていますが、一方で、それによって引き起こされた新旧キリスト教徒の争いでもある「30年戦争(1618年~48年)」の影響が、更に広範囲だったことを巡る町々の歴史で知らされました。
    何度もドイツの旅をしていると、自然にテーマを持って回ることになります。
    古城めぐりとルターにも拘った旅はこの旧東独では外せないテーマでした。

    ルターの町Wittenbergヴィッテンベルクはなかなか良い町で、街中を歩くのは楽しいものです。日差しの強い中、旧市街を周りましたのでけっこう陽に焼けました。

    ルターが宗教改革運動を始めた事で知られる小さな町、ヴィッテンベルクはいわゆる「95ヶ条の論題」が提示された町であり、ルターの活動を語る上で最も重要な中心地である。
    ルターハウスや聖マリエン市教会、城付属聖堂はルター記念物の一部で、1966年にユネスコ世界遺産に登録された。

    写真はLutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの市庁舎、ルターの銅像

    アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルターの記念建造物群 史跡・遺跡

    ドイツの町々に宗教改革者ルターの実に大きな銅像が立っているが、いささか大きすぎの感がある。 by jijidarumaさん
  • <Marktplatzマルクト広場とAltes Rathaus旧市庁舎><br /><br />大きなルターとメランヒトンの銅像の立つ広場は広々としている。以前の銅像の写真では二人の像は頭上に雨風を防ぐ、立派な石作りの覆いがあったが、この日の銅像は取り払われていた。<br /><br />銅像の後方に立つ、ルネサンス様式の旧市庁舎は白のファザード、赤茶色の屋根のすっきりした建物だ。<br /><br />それにしてもかつて社会主義政権であった旧東ドイツの各地にルターの大きな銅像が立っているのも、面白いなと思う。<br /><br />写真はヴィッテンベルク:大きなルターの銅像・・・他の町でも見るルター像は大きい。

    イチオシ

    <Marktplatzマルクト広場とAltes Rathaus旧市庁舎>

    大きなルターとメランヒトンの銅像の立つ広場は広々としている。以前の銅像の写真では二人の像は頭上に雨風を防ぐ、立派な石作りの覆いがあったが、この日の銅像は取り払われていた。

    銅像の後方に立つ、ルネサンス様式の旧市庁舎は白のファザード、赤茶色の屋根のすっきりした建物だ。

    それにしてもかつて社会主義政権であった旧東ドイツの各地にルターの大きな銅像が立っているのも、面白いなと思う。

    写真はヴィッテンベルク:大きなルターの銅像・・・他の町でも見るルター像は大きい。

  • 写真はヴィッテンベルク:ルターの弟子のPhiltpp Melanchthonフィリップ・メランヒトンの銅像

    写真はヴィッテンベルク:ルターの弟子のPhiltpp Melanchthonフィリップ・メランヒトンの銅像

  • <Stadtkirche St.Marien聖マリエン市教会 ><br />マルクト広場の教会でルターが説教を行ったそうだが、双頭の塔を持った町最古の建物でクラナハの祭壇画が中央にあった。<br />キリストの磔の像の前で、宗教改革の説教をしているシーンが印象的だ。<br /><br />写真はヴィッテンベルク:Stadtkirche St.Marien聖マリエン市教会

    <Stadtkirche St.Marien聖マリエン市教会 >
    マルクト広場の教会でルターが説教を行ったそうだが、双頭の塔を持った町最古の建物でクラナハの祭壇画が中央にあった。
    キリストの磔の像の前で、宗教改革の説教をしているシーンが印象的だ。

    写真はヴィッテンベルク:Stadtkirche St.Marien聖マリエン市教会

    聖マリエン市教会 文化遺産

    ヴィッテンベルクの聖マリエン市教会で宗教改革者ルターが説教を行った。その場面を傑作クラナハの祭壇画で見る。 by jijidarumaさん
  • 写真はStadtkirche St.Marien聖マリエン市教会:クラナハの祭壇画・宗教改革の説教をしているルター(上部)

    写真はStadtkirche St.Marien聖マリエン市教会:クラナハの祭壇画・宗教改革の説教をしているルター(上部)

  • 写真はStadtkirche St.Marien聖マリエン市教会:クラナハの祭壇画・キリストの磔の像の前で、ルターが宗教改革の説教をしているシーンが印象的だ。(下部)

    イチオシ

    写真はStadtkirche St.Marien聖マリエン市教会:クラナハの祭壇画・キリストの磔の像の前で、ルターが宗教改革の説教をしているシーンが印象的だ。(下部)

  • 写真は聖マリエン市教会:日本語の説明書

    写真は聖マリエン市教会:日本語の説明書

  • 写真は聖マリエン市教会:日本語の説明書

    写真は聖マリエン市教会:日本語の説明書

  • <Lutherhalleルター会館><br />ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)は1502年にヴィッテンベルク大学を創設し、1508年にアウグスティノ会の修道士マルティン・ルターを同大学の哲学教授およびヴィッテンベルク城内教会の説教師に任命した。<br /><br />ここは元々ヴィッテンベルク大学兼修道院であった建物で、大学教授となったルターが妻と6人の子供たち家族と共に過ごした住居である。現在は博物館となっているが、中庭をのぞいただけ、暫し、ここで休憩だ。<br /><br />写真はヴィッテンベルク:Lutherhalleルター会館

    <Lutherhalleルター会館>
    ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)は1502年にヴィッテンベルク大学を創設し、1508年にアウグスティノ会の修道士マルティン・ルターを同大学の哲学教授およびヴィッテンベルク城内教会の説教師に任命した。

    ここは元々ヴィッテンベルク大学兼修道院であった建物で、大学教授となったルターが妻と6人の子供たち家族と共に過ごした住居である。現在は博物館となっているが、中庭をのぞいただけ、暫し、ここで休憩だ。

    写真はヴィッテンベルク:Lutherhalleルター会館

    アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルターの記念建造物群 史跡・遺跡

    ドイツの町々に宗教改革者ルターの実に大きな銅像が立っているが、いささか大きすぎの感がある。 by jijidarumaさん
  • 写真はヴィッテンベルク:Lutherhalleルター会館のヴィッテンベルク大学兼修道院であった建物

    写真はヴィッテンベルク:Lutherhalleルター会館のヴィッテンベルク大学兼修道院であった建物

  • 写真はヴィッテンベルク:旧市庁舎・マルクト広場周辺の景観

    写真はヴィッテンベルク:旧市庁舎・マルクト広場周辺の景観

  • コレギエン通りを戻り、シュロス通りとエルベ通りとの交差した両側に立っている建物がルカス・クラナハの家がある。<br /><br /><Cranachhausクラナハの家(1505~47年)><br />Schlossstrasse 1<br />市長、薬局の店主であり、宗教改革の画家であるルカス・クラナハの家は博物館やお店になっていた。<br /><br />写真はヴィッテンベルク:ルカス・クラナハの家

    コレギエン通りを戻り、シュロス通りとエルベ通りとの交差した両側に立っている建物がルカス・クラナハの家がある。

    <Cranachhausクラナハの家(1505~47年)>
    Schlossstrasse 1
    市長、薬局の店主であり、宗教改革の画家であるルカス・クラナハの家は博物館やお店になっていた。

    写真はヴィッテンベルク:ルカス・クラナハの家

  • 先ほど、旧市街の外郭からSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenbergヴィッテンベルク城)を望んだ。88mの教会塔は車を停めた所からも、町の周辺からも良く見える。<br />シュロス通りを旧市街の西の端まで行くと、かつての城と教会がある。<br /><br /><Schlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenbergヴィッテンベルク城) ><br />来る2017年はルターの宗教改革500年になると云う。<br />500年前の1517年10月31日、ルターの意見書「95ヶ条の論題」が教会堂(大学付属聖堂とも呼ばれる)の扉に貼られた。<br />マインツの大司教が売りだした“免罪符”に疑問を投げかけた意見書が貼られた、当時の扉は木像であったので、7年戦争の最中の1760年に焼失し、現存するブロンズの扉や建物は19世紀に再建されたものである。<br /><br />無宗教の私共にはどのようなものか、分からないのですが、当時の宗教と社会体制の権威者であったカトリックのマインツの大司教が発行した免罪符なるものに疑問を呈した事はたいへんな事であったろうと想像はできる。<br /><br />写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂の堂内<br /><br />

    先ほど、旧市街の外郭からSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenbergヴィッテンベルク城)を望んだ。88mの教会塔は車を停めた所からも、町の周辺からも良く見える。
    シュロス通りを旧市街の西の端まで行くと、かつての城と教会がある。

    <Schlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenbergヴィッテンベルク城) >
    来る2017年はルターの宗教改革500年になると云う。
    500年前の1517年10月31日、ルターの意見書「95ヶ条の論題」が教会堂(大学付属聖堂とも呼ばれる)の扉に貼られた。
    マインツの大司教が売りだした“免罪符”に疑問を投げかけた意見書が貼られた、当時の扉は木像であったので、7年戦争の最中の1760年に焼失し、現存するブロンズの扉や建物は19世紀に再建されたものである。

    無宗教の私共にはどのようなものか、分からないのですが、当時の宗教と社会体制の権威者であったカトリックのマインツの大司教が発行した免罪符なるものに疑問を呈した事はたいへんな事であったろうと想像はできる。

    写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂の堂内

    アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルターの記念建造物群 史跡・遺跡

    ドイツの町々に宗教改革者ルターの実に大きな銅像が立っているが、いささか大きすぎの感がある。 by jijidarumaさん
  • 舟形の天井を持った聖堂内は新教らしく、全体に質素で、立派で目立つのはパイプオルガンだ。<br /><br />写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂のパイプオルガン

    舟形の天井を持った聖堂内は新教らしく、全体に質素で、立派で目立つのはパイプオルガンだ。

    写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂のパイプオルガン

  • 主祭壇の領域には宗教改革の支援者・推進者であったザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢王)と、弟の選帝侯ヨハン(ゆるがざる王)の墓があり、青銅の墓碑銘が置かれている。<br /><br />写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂の主祭壇

    主祭壇の領域には宗教改革の支援者・推進者であったザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢王)と、弟の選帝侯ヨハン(ゆるがざる王)の墓があり、青銅の墓碑銘が置かれている。

    写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂の主祭壇

  • 写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) 堂内の宗教改革を支援した王侯の紋章飾り

    写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) 堂内の宗教改革を支援した王侯の紋章飾り

  • 聖歌隊席の左右にはザクセン選帝侯賢王・ゆるがざる王の二人の立像が埋め込まれ、更に後方左右に膝をつき祈る二人の見事な大理石像が見られる。<br /><br />写真はヴィッテンベルク:ザクセン選帝侯賢王の大理石像

    聖歌隊席の左右にはザクセン選帝侯賢王・ゆるがざる王の二人の立像が埋め込まれ、更に後方左右に膝をつき祈る二人の見事な大理石像が見られる。

    写真はヴィッテンベルク:ザクセン選帝侯賢王の大理石像

  • 写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) の舟形の天井

    イチオシ

    写真はヴィッテンベルク:Schlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) の舟形の天井

  • 写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢王)と、弟の選帝侯ヨハン(ゆるがざる王)の墓

    写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢王)と、弟の選帝侯ヨハン(ゆるがざる王)の墓

  • 中央手前に新ゴシック古典主義で作られた青銅の洗礼盤(1832年)も置かれていた。<br /><br />さすがにザクセン選帝侯の建てた教会だけに、選帝侯たちが聖堂の中心で、ルターは脇役の立場に見える。<br /><br />写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :新ゴシック古典主義で作られた青銅の洗礼盤

    中央手前に新ゴシック古典主義で作られた青銅の洗礼盤(1832年)も置かれていた。

    さすがにザクセン選帝侯の建てた教会だけに、選帝侯たちが聖堂の中心で、ルターは脇役の立場に見える。

    写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :新ゴシック古典主義で作られた青銅の洗礼盤

  • 祭壇に向かって行くと、宗教改革の立役者ルターとメランヒトンの墓が主祭壇の前方に門番のような形で、右・左に置かれていた。<br /><br />写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :宗教改革の立役者ルターの墓

    祭壇に向かって行くと、宗教改革の立役者ルターとメランヒトンの墓が主祭壇の前方に門番のような形で、右・左に置かれていた。

    写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :宗教改革の立役者ルターの墓

  • 写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :宗教改革の立役者メランヒトンの墓

    写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :宗教改革の立役者メランヒトンの墓

  • 写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :ルターの立像

    写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :ルターの立像

  • 写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :ザクセン選帝侯賢王の立像

    写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :ザクセン選帝侯賢王の立像

  • 写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :日本語の説明書

    写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :日本語の説明書

  • 写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :日本語の説明書<br /><br />昼食;Lutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの駐車場で <br />13:15~13:30 <br /><br />聖堂から戻って、公園のベンチで座って食べようかと思ったが、意外に住民が座っていて、場所がない。<br />仕方なく、レンタカーの車内で、ホテルから持参したパンやバナナを食べた。<br />

    写真はSchlosskirche城付属聖堂 (Schloss Wittenberg) :日本語の説明書

    昼食;Lutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルクの駐車場で 
    13:15~13:30 

    聖堂から戻って、公園のベンチで座って食べようかと思ったが、意外に住民が座っていて、場所がない。
    仕方なく、レンタカーの車内で、ホテルから持参したパンやバナナを食べた。

  • 次の町はKasselカッセル とHalleハレの中間にある人口26千人のルターの町・アイスレーベンである。<br />ヴィッテンベルクからは123kmと距離もある。ハレを訪れることなく、通過し、途中で停まった駐車場は湖水を見下ろす所(Suesser See愛らしい湖)でした。<br />湖水の対岸には古城が見えた。<br />地図で見るとSchloss Seeburgゼーブルク城とある。<br />帰国して調べてみたら、なかなか良さそうな古城ホテルだった。<br />周辺はブドウ畑もあるように見えた。<br />今夜の宿は決まっていたが、この古城ホテルには気がつかなかったのだ。<br /><br />参考;Schloss Seeburgゼーブルク城<br />D-06317 Seeburg 、Schlossstrasse 18 <br />http://www.seeburg-schloss.de/<br /><br />写真はSchloss Seeburgゼーブルク城の遠望

    次の町はKasselカッセル とHalleハレの中間にある人口26千人のルターの町・アイスレーベンである。
    ヴィッテンベルクからは123kmと距離もある。ハレを訪れることなく、通過し、途中で停まった駐車場は湖水を見下ろす所(Suesser See愛らしい湖)でした。
    湖水の対岸には古城が見えた。
    地図で見るとSchloss Seeburgゼーブルク城とある。
    帰国して調べてみたら、なかなか良さそうな古城ホテルだった。
    周辺はブドウ畑もあるように見えた。
    今夜の宿は決まっていたが、この古城ホテルには気がつかなかったのだ。

    参考;Schloss Seeburgゼーブルク城
    D-06317 Seeburg 、Schlossstrasse 18
    http://www.seeburg-schloss.de/

    写真はSchloss Seeburgゼーブルク城の遠望

  • B80を13km走ると、ルターシュタット・アイスレーベンの町に入った。<br />16:10の到着だ。<br />ドイツはどこの町も同じようにマルクト広場・市庁舎がセットになっているので分かりやすい。<br />要するにマルクト広場の標識に向かって行けば良いのだ。<br /><br />写真はアイスレーベン:マルクト広場のルターの銅像前で

    B80を13km走ると、ルターシュタット・アイスレーベンの町に入った。
    16:10の到着だ。
    ドイツはどこの町も同じようにマルクト広場・市庁舎がセットになっているので分かりやすい。
    要するにマルクト広場の標識に向かって行けば良いのだ。

    写真はアイスレーベン:マルクト広場のルターの銅像前で

    観光案内所 (アイスレーベン) その他の観光・遊ぶ

    ルターシュタット・アイスレーベンにはルターの生家、ルター晩年の家がある。 by jijidarumaさん
  • 【Lutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベンの観光】<br />16:10~17:00<br /><br />Luthers Sterbehausルター晩年の家、聖アンドレアス教会、マルクト広場・市庁舎、Martin Luthers Geburtshausルターの生家などがある。<br />つまり、この町はルターの生誕地であり、彼が最期を迎えた地でもある。<br /><br />写真はマルクト広場のルターの銅像・・・16世紀後半のマルクト広場にも当然ながらルターの大きな銅像が立ち、周囲で子供たちが遊ぶ。

    イチオシ

    【Lutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベンの観光】
    16:10~17:00

    Luthers Sterbehausルター晩年の家、聖アンドレアス教会、マルクト広場・市庁舎、Martin Luthers Geburtshausルターの生家などがある。
    つまり、この町はルターの生誕地であり、彼が最期を迎えた地でもある。

    写真はマルクト広場のルターの銅像・・・16世紀後半のマルクト広場にも当然ながらルターの大きな銅像が立ち、周囲で子供たちが遊ぶ。

  • 写真はEislebenアイスレーベンの古図・1650年頃<br /><br />・・・・・・・・・・・<br /><br />【世界遺産“Lutherstadtルターの町“と、“Bund der Lutherstaedteルター都市同盟”について】<br /><br />宗教改革は近世ヨーロッパ史上の一大事件であり、社会体制が変革するなどといった事はそうそうあるわけではないから、すごい事です。新旧どちらに正義があるかは別にして、すさまじい宗教戦争の幕開けともなった。<br />とことん徹底して戦うところは、宗教改革によって巻き起こった、騎士戦争、農民戦争、30年戦争(たとえばマグデブルクの戦い)などの新旧キリスト教徒による様々な戦いに見てとれる。<br />その影響は主戦場になったドイツの各地に大きな爪痕を残している。<br /><br />中心人物であったMartin Lutherマルティン・ルターの足跡をたどる上で、重要な町(Eislebenアイスレーベン 、Wittenbergヴィッテンベルク)が1996年に世界遺産に登録された。<br />“Lutherstadtルターの町“はLutherstadt Eisleben 、Lutherstadt WittenbergとMansfeld-Lutherstadtマンスフェルト・ルターシュタットの三つを言う。<br /><br />また、“Bund der Lutherstaedteルターに関連する諸都市の連盟“が 1993年に Wormsヴォルムス(同地のルター記念碑建立125周年の時)で結成されている。 <br />Eislebenアイスレーベン 、Wittenbergヴィッテンベルク と共にWormsヴォルムス 、Augsburgアウグスブルク、Coburgコーブルク、Eisenachアイゼナハ、Erfurtエアフルト、Halleハレ (Saaleザーレ)、Heidelbergハイデルベルク、Magdeburgマグデブルク、Marburgマーブルク、Nordhausenノルトハウゼン、Schmalkaldenシュマルカルデン、Speyerシュパイアー、Torgauトルガウ、Zeitzツァイツの16都市である。<br />ルターが活躍し、影響を与えた範囲に驚く。 <br /><br />・・・・・・・・・・・・・・

    写真はEislebenアイスレーベンの古図・1650年頃

    ・・・・・・・・・・・

    【世界遺産“Lutherstadtルターの町“と、“Bund der Lutherstaedteルター都市同盟”について】

    宗教改革は近世ヨーロッパ史上の一大事件であり、社会体制が変革するなどといった事はそうそうあるわけではないから、すごい事です。新旧どちらに正義があるかは別にして、すさまじい宗教戦争の幕開けともなった。
    とことん徹底して戦うところは、宗教改革によって巻き起こった、騎士戦争、農民戦争、30年戦争(たとえばマグデブルクの戦い)などの新旧キリスト教徒による様々な戦いに見てとれる。
    その影響は主戦場になったドイツの各地に大きな爪痕を残している。

    中心人物であったMartin Lutherマルティン・ルターの足跡をたどる上で、重要な町(Eislebenアイスレーベン 、Wittenbergヴィッテンベルク)が1996年に世界遺産に登録された。
    “Lutherstadtルターの町“はLutherstadt Eisleben 、Lutherstadt WittenbergとMansfeld-Lutherstadtマンスフェルト・ルターシュタットの三つを言う。

    また、“Bund der Lutherstaedteルターに関連する諸都市の連盟“が 1993年に Wormsヴォルムス(同地のルター記念碑建立125周年の時)で結成されている。
    Eislebenアイスレーベン 、Wittenbergヴィッテンベルク と共にWormsヴォルムス 、Augsburgアウグスブルク、Coburgコーブルク、Eisenachアイゼナハ、Erfurtエアフルト、Halleハレ (Saaleザーレ)、Heidelbergハイデルベルク、Magdeburgマグデブルク、Marburgマーブルク、Nordhausenノルトハウゼン、Schmalkaldenシュマルカルデン、Speyerシュパイアー、Torgauトルガウ、Zeitzツァイツの16都市である。
    ルターが活躍し、影響を与えた範囲に驚く。 

    ・・・・・・・・・・・・・・

  • 写真はアイスレーベンの市庁舎

    写真はアイスレーベンの市庁舎

  • Luthers Sterbehausルター晩年の家に向かって歩いて行くと、靴屋の壁にレリーフがはめ込んであったので読んでみると、Richard Wagnerワーグナーがかつて滞在したとある。歴史ある町は有名人に事欠かないようだ。<br /><br />写真はアイスレーベン:靴屋はかつてワーグナーが滞在した家だ。

    Luthers Sterbehausルター晩年の家に向かって歩いて行くと、靴屋の壁にレリーフがはめ込んであったので読んでみると、Richard Wagnerワーグナーがかつて滞在したとある。歴史ある町は有名人に事欠かないようだ。

    写真はアイスレーベン:靴屋はかつてワーグナーが滞在した家だ。

  • ルター晩年の家は栄光あるルターにしては小さな家である。この家の前にルターが最後に説教をしたと云う聖アンドレアス教会があり、ルターは説教の最中に倒れた。<br />びっくりしたのはこの場所で、韓国人グループのツアーに出くわした事です。日本人には会ったことは無かったですが・・・。<br /><br /><Luthers Sterbehausルター晩年の家><br />ルターは死の1か月近く前に生まれた町であるアイスレーベンに居を定めた。<br />生まれ故郷の領主達の争いを仲介するためであったとされているが。<br />1546年2月にその家で没した。ほぼ当時のまま現存する最期を迎えた家は博物館となっている。<br /><br />写真はアイスレーベン:ルター晩年の家は博物館だった。

    ルター晩年の家は栄光あるルターにしては小さな家である。この家の前にルターが最後に説教をしたと云う聖アンドレアス教会があり、ルターは説教の最中に倒れた。
    びっくりしたのはこの場所で、韓国人グループのツアーに出くわした事です。日本人には会ったことは無かったですが・・・。

    <Luthers Sterbehausルター晩年の家>
    ルターは死の1か月近く前に生まれた町であるアイスレーベンに居を定めた。
    生まれ故郷の領主達の争いを仲介するためであったとされているが。
    1546年2月にその家で没した。ほぼ当時のまま現存する最期を迎えた家は博物館となっている。

    写真はアイスレーベン:ルター晩年の家は博物館だった。

  • Luthers Geburtshausルターの生家は戻り道にあった。<br />マルクト広場から少し先になる。一度火事で焼失したと云う。<br />ドイツ語圏最古の博物館と云う生家は小さな庭園・ルターの胸像もある大きめの建物だ。傍に観光局もあり、パンフレットをもらって、帰った。<br /><br /><Martin Luthers Geburtshausルターの生家> <br />ルターは父ハンス・ルターと母マルガレータの次男として、ザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。<br />ルター(1483年11月10日~1546年2月18日)は生後9ヶ月目にマンスフェルトに転居したため、生家にいた期間はほとんどなかったと云う。<br />現存する家は17世紀末に再建されたもの。<br /><br />写真はMartin Luthers Geburtshausルターの生家

    Luthers Geburtshausルターの生家は戻り道にあった。
    マルクト広場から少し先になる。一度火事で焼失したと云う。
    ドイツ語圏最古の博物館と云う生家は小さな庭園・ルターの胸像もある大きめの建物だ。傍に観光局もあり、パンフレットをもらって、帰った。

    <Martin Luthers Geburtshausルターの生家>
    ルターは父ハンス・ルターと母マルガレータの次男として、ザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。
    ルター(1483年11月10日~1546年2月18日)は生後9ヶ月目にマンスフェルトに転居したため、生家にいた期間はほとんどなかったと云う。
    現存する家は17世紀末に再建されたもの。

    写真はMartin Luthers Geburtshausルターの生家

  • 参考;<br /><Mansfeld-Lutherstadtマンスフェルト・ルターシュタット><br />この町はアイスレーベンの北西10kmにある。現在の人口は1万人。<br />マンスフェルト伯家の居城、Schloss Mansfeldマンスフェルト城がある。<br />マンスフェルトは銅や銀の鉱山と共に発展した町で、ルターの父は精錬所の工場長をしていたと云う。<br />ルターは生まれた翌年にはアイスレーベンからマンスフェルトに移り、その幼年期を家族と共に過ごした(1484~1496年)。<br />現在、Elternhaus von Martin Luther両親の家は博物館になっている。<br /><br />残念ながら、時間が無くて訪問は省略してしまった。<br /><br />写真はMansfeldマンスフェルトの古図・1650年

    参考;
    <Mansfeld-Lutherstadtマンスフェルト・ルターシュタット>
    この町はアイスレーベンの北西10kmにある。現在の人口は1万人。
    マンスフェルト伯家の居城、Schloss Mansfeldマンスフェルト城がある。
    マンスフェルトは銅や銀の鉱山と共に発展した町で、ルターの父は精錬所の工場長をしていたと云う。
    ルターは生まれた翌年にはアイスレーベンからマンスフェルトに移り、その幼年期を家族と共に過ごした(1484~1496年)。
    現在、Elternhaus von Martin Luther両親の家は博物館になっている。

    残念ながら、時間が無くて訪問は省略してしまった。

    写真はMansfeldマンスフェルトの古図・1650年

  • 18時前にはホテルにチェックインしたいと思っていたが、アイスレーベンからB180を南下し、24kmでQuerfurtクエルフルトに至った。<br />この町の行政区の一つになるLoderslebenロダースレーベンに古城ホテルがあり、ここから、村道を4km行った所だ。<br />村内の標識にSchlossシュロスとあり、これに沿って行くと、古城ホテルがあった。<br />17:30にテレジアンイエローに塗られた、バロック様式の古城ホテルの中庭に駐車すると、園丁のようなごっつい方がやってきて、名前を聞かれた。<br />早速、握手し、見た目よりは優しく、親切な彼に荷物の搬入を手伝ってもらう。<br /><br /><⑥Pension Schloss Lodersleben 古城ホテル シュロス ロダースレーベン><br />D-06268 Querfurt/ Lodersleben 、Strasse des Friedens 36<br />Tel:+49( 0)34771-24580 <br />Barockzimmer (Kategorie B) は103号室(1階)<br />Euro75+(9.5X2=19) 合計Euro 94(現金払い)*(11,092円)<br />全20室。但し、Garni朝食のみで、夕食は出前を依頼できる(一人Euro5手数料あり)。<br />http://www.schloss-lodersleben.de/<br /><br />Lutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベンから南22km(30分)。Naumburgナウムブルクから北西36km、Leipzig ライプツィヒの西90km、1時間、Magdeburgマグデブルクから100km南、1時間半の距離にある。<br />小さな町の一地区に6泊目の宿・古城ホテルがある。<br />ロダースレーベン城の歴史を読んでいたら、こんな事が書かれていた。<br /><br />ロダースレーベン城の歴史;<br />1740年、ダンケルマン家により築城された。<br />19世紀、ウンシュトルート谷出身の偉大な歴史家Leopold von Rankeレオポルト・フォン・ランケが城の住人であった。<br /><br />1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件にFritz-Dietlof Graf von der Schulenburgフリッツ・ディートロフ・グラーフ・フォン・デア・シュレンブルク(行政官;1944年8月10日絞首刑)、Friedrich-Werner Graf von der Schulenburg(外交官;1944年11月10日絞首刑)が関与した為に、Schulenburgシュレンブルク伯がロダースレーベン城を捨て、国外亡命した後、1945年、城は難民の宿泊所になり、1970年代は学校等に使用されたと云う。<br /><br />(Schulenburgシュレンブルク伯爵家は、Salzwedelザルツヴェーデルの近郊を流れる、イェーツェ川沿いに13世紀、シュレンブルクの小さな居城をもっていた一族である。<br />プロイセン-ブランデンブルク貴族として、その多くがプロイセンの職業軍人になり、軍での高い地位を得ている。他方、宮廷大臣や大司祭になった人物もいる。)<br /><br />前述した行政官フリッツ・ディートロフ・グラーフ・フォン・デア・シュレンブルクはBerthold Schenk Graf von Stauffenbergベルトルト・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルク(ヒトラー暗殺未遂事件の実行者・陸軍大佐Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の兄・法律家)と共に処刑された。<br /><br />フリッツ・ディートロフ・グラーフ・フォン・デア・シュレンブルクの言葉; <br />&quot;我々は、名状しがたい悲惨さからドイツを守る為に、この行動をとった。 私は、この事が事由で、自らが絞首刑にされることを後悔していない。“<br />?Wir haben diese Tat auf uns genommen, um Deutschland vor einem namenlosen Elend zu bewahren. Ich bin mir klar, dass ich daraufhin gehaengt werde, bereue meine Tat aber nicht .“<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />写真は古城ホテル シュロス ロダースレーベン<br />

    18時前にはホテルにチェックインしたいと思っていたが、アイスレーベンからB180を南下し、24kmでQuerfurtクエルフルトに至った。
    この町の行政区の一つになるLoderslebenロダースレーベンに古城ホテルがあり、ここから、村道を4km行った所だ。
    村内の標識にSchlossシュロスとあり、これに沿って行くと、古城ホテルがあった。
    17:30にテレジアンイエローに塗られた、バロック様式の古城ホテルの中庭に駐車すると、園丁のようなごっつい方がやってきて、名前を聞かれた。
    早速、握手し、見た目よりは優しく、親切な彼に荷物の搬入を手伝ってもらう。

    <⑥Pension Schloss Lodersleben 古城ホテル シュロス ロダースレーベン>
    D-06268 Querfurt/ Lodersleben 、Strasse des Friedens 36
    Tel:+49( 0)34771-24580 
    Barockzimmer (Kategorie B) は103号室(1階)
    Euro75+(9.5X2=19) 合計Euro 94(現金払い)*(11,092円)
    全20室。但し、Garni朝食のみで、夕食は出前を依頼できる(一人Euro5手数料あり)。
    http://www.schloss-lodersleben.de/

    Lutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベンから南22km(30分)。Naumburgナウムブルクから北西36km、Leipzig ライプツィヒの西90km、1時間、Magdeburgマグデブルクから100km南、1時間半の距離にある。
    小さな町の一地区に6泊目の宿・古城ホテルがある。
    ロダースレーベン城の歴史を読んでいたら、こんな事が書かれていた。

    ロダースレーベン城の歴史;
    1740年、ダンケルマン家により築城された。
    19世紀、ウンシュトルート谷出身の偉大な歴史家Leopold von Rankeレオポルト・フォン・ランケが城の住人であった。

    1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件にFritz-Dietlof Graf von der Schulenburgフリッツ・ディートロフ・グラーフ・フォン・デア・シュレンブルク(行政官;1944年8月10日絞首刑)、Friedrich-Werner Graf von der Schulenburg(外交官;1944年11月10日絞首刑)が関与した為に、Schulenburgシュレンブルク伯がロダースレーベン城を捨て、国外亡命した後、1945年、城は難民の宿泊所になり、1970年代は学校等に使用されたと云う。

    (Schulenburgシュレンブルク伯爵家は、Salzwedelザルツヴェーデルの近郊を流れる、イェーツェ川沿いに13世紀、シュレンブルクの小さな居城をもっていた一族である。
    プロイセン-ブランデンブルク貴族として、その多くがプロイセンの職業軍人になり、軍での高い地位を得ている。他方、宮廷大臣や大司祭になった人物もいる。)

    前述した行政官フリッツ・ディートロフ・グラーフ・フォン・デア・シュレンブルクはBerthold Schenk Graf von Stauffenbergベルトルト・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルク(ヒトラー暗殺未遂事件の実行者・陸軍大佐Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の兄・法律家)と共に処刑された。

    フリッツ・ディートロフ・グラーフ・フォン・デア・シュレンブルクの言葉; 
    "我々は、名状しがたい悲惨さからドイツを守る為に、この行動をとった。 私は、この事が事由で、自らが絞首刑にされることを後悔していない。“
    ?Wir haben diese Tat auf uns genommen, um Deutschland vor einem namenlosen Elend zu bewahren. Ich bin mir klar, dass ich daraufhin gehaengt werde, bereue meine Tat aber nicht .“

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    写真は古城ホテル シュロス ロダースレーベン

  • 以下に参考に載せたルターの銅像(ポーズは異なるが)の写真がある。<br />ドイツの旅に順次したもので、アイスレーベンの古図の所で書いた“Bund der Lutherstaedteルター都市同盟”のメンバーの一部である。<br /><br />写真は2011.05.21.ドレスデン:*Frauenkircheフラウエン教会(聖母教会)をバックに立つルターの銅像(ノイマルクト広場)。<br /><br />*Frauenkircheフラウエン教会(聖母教会)<br />第二次大戦の末期に米英軍の爆撃を受けて見る影も無いほどに被災したドレスデンの町は戦後の復興の中で営々と建物の再建・修復に尽力してきたという。<br />その再建の代表とも言うべきFrauenkirche聖母教会は瓦礫の山から以前の姿に戻すという修復が続けられたもので、ドイツの人の忍耐強さには定評があるが、驚くべきはザクセン人魂である。<br />ザクセンのプロテスタント教会である聖母教会は“石の釣り鐘”と称する直径25mの大ドームが特徴的だが、1945年2月連合軍の空襲で破壊されてしまった。戦後、この廃墟は戦争と破壊のモニュメントとなっていたが、瓦礫から掘り出したオリジナルの部材を、コンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む作業を行い、「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」とも言われた教会再建は、2005年10月に60年ぶりに漸く完了した。<br />大勢の信者・観光客に交じって、中に入った。プロテスタント教会にしては、豪華な大祭壇があり、その後背にパイプオルガンが位置し、丸天井も、周囲の壁も綺麗に装飾されていた。<br />ひょっとして今はカトリックなのか?全体に印象は宗教施設と言うよりコンサートホールのように思えた。

    以下に参考に載せたルターの銅像(ポーズは異なるが)の写真がある。
    ドイツの旅に順次したもので、アイスレーベンの古図の所で書いた“Bund der Lutherstaedteルター都市同盟”のメンバーの一部である。

    写真は2011.05.21.ドレスデン:*Frauenkircheフラウエン教会(聖母教会)をバックに立つルターの銅像(ノイマルクト広場)。

    *Frauenkircheフラウエン教会(聖母教会)
    第二次大戦の末期に米英軍の爆撃を受けて見る影も無いほどに被災したドレスデンの町は戦後の復興の中で営々と建物の再建・修復に尽力してきたという。
    その再建の代表とも言うべきFrauenkirche聖母教会は瓦礫の山から以前の姿に戻すという修復が続けられたもので、ドイツの人の忍耐強さには定評があるが、驚くべきはザクセン人魂である。
    ザクセンのプロテスタント教会である聖母教会は“石の釣り鐘”と称する直径25mの大ドームが特徴的だが、1945年2月連合軍の空襲で破壊されてしまった。戦後、この廃墟は戦争と破壊のモニュメントとなっていたが、瓦礫から掘り出したオリジナルの部材を、コンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む作業を行い、「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」とも言われた教会再建は、2005年10月に60年ぶりに漸く完了した。
    大勢の信者・観光客に交じって、中に入った。プロテスタント教会にしては、豪華な大祭壇があり、その後背にパイプオルガンが位置し、丸天井も、周囲の壁も綺麗に装飾されていた。
    ひょっとして今はカトリックなのか?全体に印象は宗教施設と言うよりコンサートホールのように思えた。

  • 写真は2013.10.27.Wormsヴォルムス:Lutherdenkmalルターの記念碑像・・・ヴォルムスは宗教改革者としてその名を残したマルティン・ルターゆかりの宗教都市で、ルター都市同盟のメンバーである。<br /><br />【1521年、ヴォルムス宗教会議と1868年、マルティン・ルターの銅像の建立】<br />宗教改革者マルティン・ルターの銅像は1521年、ヴォルムス宗教会議に出頭したマルティン・ルターを記念して、1868年にドイツのヴォルムスに建てられたものである。<br />そのルター像の台座にはドイツ語で、【Hier stehe Ich. Ich kann nicht anders. Got hilffe mir. Amen! 我ここに立つ、我こうするより他なし、神よ助けたもう、アーメン】と記されている。<br />皇帝カール5世により、帝国議会に召集され、カール5世に対してルターが言った言葉だと云う。<br /><br />ルター像を中心に周りには、宗教改革の先駆者たち、フランスのPierre Valdoピエール・ヴアルドー、イギリスのJohn Wyclifジョン・ウイクリフ、チェコのJan Husヤン・フス、イタリアのGirolamo Savonarolaジロラモ・サヴォナローラの像も立っている。<br /><br />四隅に宗教改革派の神学者であったJohann Reuchlinヨハン・ロイヒリーンとPhiltpp Melanchthonフィリップ・メランヒトン、宗教改革を支援したPhilipp des Grossmutiger von Hessenヘッセンの寛容方伯フィリップ、ルターを庇護したザクセン選帝侯フィリップ覧侯の彫像がある。<br /><br />また、それぞれの中間にある女性像は、平和の棕櫚(しゅろ)を手にしたアウクスブルク、抗議をするシュパイアー、悲嘆に暮れるマクデブルクの三つの都市を象徴したものだそうだ。<br />其々の都市の歴史を知れば、この象徴の意味が分かるのだろう。<br /><br />アクセスは中央駅からWilhelm Leuschner Str.ヴィルヘルム・ロイシュナー通りを行った先の公園にある。<br /><br /><Reichstag zu Wormsヴォルムス帝国議会=ヴォルムス宗教会議><br />ヴォルムス帝国議会=ヴォルムス宗教会議は1521年、神聖ローマ皇帝カール5世が召集し、宗教改革者ルターを喚問した議会である。<br />マルティン・ルターが自説の撤回を拒否したため異端と断定し、カール5世はルターを追放するヴォルムス勅令に署名した。<br /><br />1517年10月31日、マルティン・ルターは『九十五ヶ条の論題(ろんだい:Thesenテーゼン)』という文書をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだし、宗教改革に乗り出した。カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判した文書を発表したのが宗教改革の発端になったとされている。<br />その主張は、農民層だけでなく、ドイツの諸侯にも受け入れられて、ルター派の勢力は急速に拡大した。それに対して、1519年、神聖ローマ帝国皇帝選挙をフランス王フランソワ1世と争って皇帝となったカール5世はドイツの各領邦、諸侯、高位聖職者の支持を確保する必要があり、当時ドイツ各地で問題となっていたルター派と教会の対立を調停する必要に迫られた。<br />そこで、ウォルムス帝国議会を招集して新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターを喚問し、その教説の撤回を迫った。ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し、最後に【我ここに立つ、我こうするより他なし、神よ助けたもう、アーメン】と云ったという。<br />帝国議会はルターを異端と断定して追放し、その著作の販売・購読を禁止する決定を行い、カール5世の名によって「ヴォルムス勅令」として発布された。<br /><br />後に新旧キリスト教徒の争い(宗教的・政治的諸戦争)、「Dreißigjähriger Krieg 30年戦争(1618年~48年)」が起こり、ドイツ国内はもとより、ヨーロッパ中を巻き込んだ戦いとなった。<br /><br />・・・・・<br />

    写真は2013.10.27.Wormsヴォルムス:Lutherdenkmalルターの記念碑像・・・ヴォルムスは宗教改革者としてその名を残したマルティン・ルターゆかりの宗教都市で、ルター都市同盟のメンバーである。

    【1521年、ヴォルムス宗教会議と1868年、マルティン・ルターの銅像の建立】
    宗教改革者マルティン・ルターの銅像は1521年、ヴォルムス宗教会議に出頭したマルティン・ルターを記念して、1868年にドイツのヴォルムスに建てられたものである。
    そのルター像の台座にはドイツ語で、【Hier stehe Ich. Ich kann nicht anders. Got hilffe mir. Amen! 我ここに立つ、我こうするより他なし、神よ助けたもう、アーメン】と記されている。
    皇帝カール5世により、帝国議会に召集され、カール5世に対してルターが言った言葉だと云う。

    ルター像を中心に周りには、宗教改革の先駆者たち、フランスのPierre Valdoピエール・ヴアルドー、イギリスのJohn Wyclifジョン・ウイクリフ、チェコのJan Husヤン・フス、イタリアのGirolamo Savonarolaジロラモ・サヴォナローラの像も立っている。

    四隅に宗教改革派の神学者であったJohann Reuchlinヨハン・ロイヒリーンとPhiltpp Melanchthonフィリップ・メランヒトン、宗教改革を支援したPhilipp des Grossmutiger von Hessenヘッセンの寛容方伯フィリップ、ルターを庇護したザクセン選帝侯フィリップ覧侯の彫像がある。

    また、それぞれの中間にある女性像は、平和の棕櫚(しゅろ)を手にしたアウクスブルク、抗議をするシュパイアー、悲嘆に暮れるマクデブルクの三つの都市を象徴したものだそうだ。
    其々の都市の歴史を知れば、この象徴の意味が分かるのだろう。

    アクセスは中央駅からWilhelm Leuschner Str.ヴィルヘルム・ロイシュナー通りを行った先の公園にある。

    <Reichstag zu Wormsヴォルムス帝国議会=ヴォルムス宗教会議>
    ヴォルムス帝国議会=ヴォルムス宗教会議は1521年、神聖ローマ皇帝カール5世が召集し、宗教改革者ルターを喚問した議会である。
    マルティン・ルターが自説の撤回を拒否したため異端と断定し、カール5世はルターを追放するヴォルムス勅令に署名した。

    1517年10月31日、マルティン・ルターは『九十五ヶ条の論題(ろんだい:Thesenテーゼン)』という文書をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだし、宗教改革に乗り出した。カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判した文書を発表したのが宗教改革の発端になったとされている。
    その主張は、農民層だけでなく、ドイツの諸侯にも受け入れられて、ルター派の勢力は急速に拡大した。それに対して、1519年、神聖ローマ帝国皇帝選挙をフランス王フランソワ1世と争って皇帝となったカール5世はドイツの各領邦、諸侯、高位聖職者の支持を確保する必要があり、当時ドイツ各地で問題となっていたルター派と教会の対立を調停する必要に迫られた。
    そこで、ウォルムス帝国議会を招集して新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターを喚問し、その教説の撤回を迫った。ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し、最後に【我ここに立つ、我こうするより他なし、神よ助けたもう、アーメン】と云ったという。
    帝国議会はルターを異端と断定して追放し、その著作の販売・購読を禁止する決定を行い、カール5世の名によって「ヴォルムス勅令」として発布された。

    後に新旧キリスト教徒の争い(宗教的・政治的諸戦争)、「Dreißigjähriger Krieg 30年戦争(1618年~48年)」が起こり、ドイツ国内はもとより、ヨーロッパ中を巻き込んだ戦いとなった。

    ・・・・・

  • 写真は2019.09.25.ハノーファー:マルクト教会南側に立つルターの記念像(現在の像)<br /><br />教会南側にLutherdenkmalルターの記念像が立つのに気が付いた。多くの町で見るルターの像はいずれも大きいが、ここのルター像も3mほどの大きさだ。<br />1900年当時の古い写真には3つの像(次の写真)が残っている。<br /><br />今の像はどういう経緯か、ルターだけの像になってしまっている。<br />調べてみると、第二次大戦中(1939年~1945年)の1941年、3つの銅像は兵器製造の目的で溶かされる予定だったと云う。それを何とかルター像だけはハンブルクに移送し、戦後ハノーファーに戻したそうだ。<br />マー、どうせなら3つの銅像を再建しても良かったように思えるが。

    写真は2019.09.25.ハノーファー:マルクト教会南側に立つルターの記念像(現在の像)

    教会南側にLutherdenkmalルターの記念像が立つのに気が付いた。多くの町で見るルターの像はいずれも大きいが、ここのルター像も3mほどの大きさだ。
    1900年当時の古い写真には3つの像(次の写真)が残っている。

    今の像はどういう経緯か、ルターだけの像になってしまっている。
    調べてみると、第二次大戦中(1939年~1945年)の1941年、3つの銅像は兵器製造の目的で溶かされる予定だったと云う。それを何とかルター像だけはハンブルクに移送し、戦後ハノーファーに戻したそうだ。
    マー、どうせなら3つの銅像を再建しても良かったように思えるが。

  • 写真はハノーファー:マルクト教会南側に立つ*ルターの記念像(1900年当時の古い写真)<br /><br />*1900年当時の古い写真には3つの像が残っている。<br />宗教改革者ルター像は3m以上の高さのSockel台座の真ん中に立ち、彼の両側に低い姿勢で、①エリザベート宗教改革公爵夫人が左に、右には②エルンスト1世・告白公が椅子に座っているものだ。<br />いずれもルターの宗教改革に大いに尽くした者だ。<br /><br />①Elisabeth von Calenberg-Goettingen 、Herzogin von Braunschweig-Lueneburgエリザベート・カレンベルク・ゲッティンゲン、ブランシュヴァイク・リューネブルク公爵夫人(1510年~1558年)は「die Reformationsfuerstin宗教改革公爵夫人」と呼ばれた。<br />ブランデンブルク選帝侯の娘だったエリザベート1525年、15歳の時、彼女は40歳のHerzog Erich I. von Calenberg-Goettingenカレンベルク・ゲッティンゲン公爵エーリヒ1世の二人目の妻として結婚しました。エリザベート公爵夫人は学者として神学者であり、多才な作家として、彼女は出版物の中でルターの教えを支持し、公爵夫人としても、ブランシュヴァイク・リューネブルク公国での宗教改革に寄与した。<br /><br />②Herzog Ernst I. zu Braunschweig-Lueneburgブラウンシュヴァイク・リューネブルク公エルンスト1世(1497年~1546年、「 der Bekenner告白公」と呼ばれた)は初期宗教改革におけるプロテスタント派の指導的諸侯で、宗教改革に大いなる功績をあげた。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />(2023年8月27日Wiki・HP参考、手持ち資料参考、訳・編集・追記)<br /><br />

    写真はハノーファー:マルクト教会南側に立つ*ルターの記念像(1900年当時の古い写真)

    *1900年当時の古い写真には3つの像が残っている。
    宗教改革者ルター像は3m以上の高さのSockel台座の真ん中に立ち、彼の両側に低い姿勢で、①エリザベート宗教改革公爵夫人が左に、右には②エルンスト1世・告白公が椅子に座っているものだ。
    いずれもルターの宗教改革に大いに尽くした者だ。

    ①Elisabeth von Calenberg-Goettingen 、Herzogin von Braunschweig-Lueneburgエリザベート・カレンベルク・ゲッティンゲン、ブランシュヴァイク・リューネブルク公爵夫人(1510年~1558年)は「die Reformationsfuerstin宗教改革公爵夫人」と呼ばれた。
    ブランデンブルク選帝侯の娘だったエリザベート1525年、15歳の時、彼女は40歳のHerzog Erich I. von Calenberg-Goettingenカレンベルク・ゲッティンゲン公爵エーリヒ1世の二人目の妻として結婚しました。エリザベート公爵夫人は学者として神学者であり、多才な作家として、彼女は出版物の中でルターの教えを支持し、公爵夫人としても、ブランシュヴァイク・リューネブルク公国での宗教改革に寄与した。

    ②Herzog Ernst I. zu Braunschweig-Lueneburgブラウンシュヴァイク・リューネブルク公エルンスト1世(1497年~1546年、「 der Bekenner告白公」と呼ばれた)は初期宗教改革におけるプロテスタント派の指導的諸侯で、宗教改革に大いなる功績をあげた。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2023年8月27日Wiki・HP参考、手持ち資料参考、訳・編集・追記)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • Rolleiguyさん 2023/08/28 11:07:36
    行ってみたい街
    jijidarumaさん、こんにちは。
    ルター縁の街の案内を大変興味深く拝見しました。丁度、NHKのカルチャーでドイツの街を紹介するクラスを受講しているのですが、2回にわたってルターの足跡を辿りつつ、当時の社会の話などもあってなかなか充実しており、是非行ってみたいものだと
    思っていた矢先でしたので、猶更関心を抱いて拝見しました。アイスレーベン、ヴィッテンベルク、ヴァルトブルクなどはまだ行ったことがないので、もう少し勉強してから実現したいと思っています。クラスでは魔女に詳しい講師から、Hexeは女ばかりではないと聞いて、益々興味がわいて来ました。贖宥状には有効期間があることも初めて知りました。10日間しかないものの写真も見ましたが、金額によってはもっと長かったのでしょうかね。まだまだ夏は終わりそうもありませんね。どうぞご自愛ください。
    Rolleiguy

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2023/08/28 16:57:31
    Re: 行ってみたい街
    Rolleiguyさん、
    今日は。いつもありがとうございます。
    NHKでドイツについて受講されておられる由、まだまだ知識欲は衰えませんね。何よりなことで、見習わねばと思います。

    さて、2011年は旧東独を主体に走りましたので、実は盛りだくさんでしたが、今まで系統立てて旅行記をあげていませんでした。ここでは古城、伝説、ヒトラーといった興味のある案件ごとに適宜書いたものでした。
    今回の宗教改革者ルター関連都市のアイスレーベン、ヴィッテンベルクの旅行記にご興味を頂き誠にありがたく思います。
    ルター関連都市は何処も魅力的な所ばかりで、今後もお楽しみですね。

    Hexe、いわゆる【魔女狩り】の対象は女が多かったようですが、男もおりました。以下の二つの伝説が思い出されます。主人公は男です。

    ≪古城伝説:呪われたレンベック城Fluch ueber Schloss Lembeck≫
    2014年10月18日~20日(2泊)
    Schloss Lembeck古城ホテル レンベック城 
    D-46286 Dorsten-Lembeck 、Schloss 1

    ドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州の北部にあたるMuensterlandミュンスターラントを訪れた。ミュンスターラントには157の水城があるそうで、その内から幾つかのドイツを代表する水城も訪ねる事にしている。
    ミュンスターラントを訪ねるにあたり、かつて見学したものの、宿泊した事が無かった古城ホテル レンベック城に2泊する事にした。

    さて、魔女マニアの人や魔女を忌み嫌う人たちにより魔女狩りが行われた17、18世紀は、レンベックの人々にも害を及ぼし、彼らを不安や恐怖に陥れたと云います。
    それは城の水濠の合流する場所である水車用の池で、レンベック流の「魔女の水たまり」Hexenkolkヘクセンコルクと称した恐ろしい“水吟味(魔女であることを証明すると云う)”が行なわれました。

    この時の神意裁判(Gottesurteilゴッテスウルタイル神の裁き)では、17世紀の初めに行われ出したものだが、ある高齢のZauberer魔法使いを水に沈めたと云う。
    魔法使いは水に沈まず、彼は有罪(魔女である)と見なされ、レンベック城の地下牢獄・「Deifskellerダイフスケラー」の中に投獄されました。
    魔法使いはそこに、7年もの間囚われていて、衰弱して行ったとみられていたが、魔法使いはしぶとく、復讐をした。
    魔法使いはレンベック城の城主を呪い、祟り、城主の家系には相続人たる男児が長い間、生まれなかったと云う。

    XXX

    ≪Die Sage von Schloss Hirschornヒルシュホルン城の伝説≫
    2012年5月26日(1泊)
    Schloss Hirschhorn古城ホテル ヒルシュホルン城
    D-69434 Hirschhorn am Neckar 、Schlossstr. 39-45 

    さて、歴史のあるヒルシュホルン城には幾つか伝説として、今に至るまで伝わる話がある。以下に、4編の伝説の一つを掲載する。

    ≪Der Hexenturm魔女の塔≫
    ヒルシュホルン城の中心に天守閣が立っています。
    以前はこの天守閣を“望楼”(見晴らし台)と呼んでいましたが、いろいろな伝説が言い伝えられた所為で、名前が“魔女の塔”と変った。

    或る伝説では昔々、一人の男がHexerei魔法を使うとされ、この塔に監禁されていました。
    あらゆる手段をもってしても、男が鉄の扉を、厚い壁を通りぬけて、逃げ去ってしまうと思われていました。
    その心配していた通り、男が人間どもに理解できない術で逃げ去ってしまうと、人々は否定しがたい魔法を見せつけられたと思ったそうです。
    この日から、“望楼”の名は“魔女の塔”となったのです。

    XXX

    ほんとに今年は酷暑続きで、今も残暑と言ってもピンとこないです。
    先日、志賀高原に孫娘の吹奏楽コンサートを聴きに参りましたが、長野も35℃、高原も30℃と少し歩くと汗だくになったものです。
    少々長くなりました。それではまた、御元気でお過ごしください。
    jijidaruma

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