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2017年春、羽田から全日本空輸でババはロンドンへ、ジジはミュンヘンへ別々に出発し、3日後にフランクフルトで合流しポルトガル、スペイン、ドイツと周り、フランクフルトから羽田に帰国しました。<br />第3回目の旅行記はジジがミュンヘンにあるアルテ.ピナコテク美術館を見学した記録です。<br /><br />全体の旅程の概略です。<br />★ 4月 2~3日    ミュンヘン泊 <br />★       4日      ハイデルベルク泊<br />★       5日          フランクフルト泊<br />★       6~10日    リスボン泊<br />★     10~12泊     ポルト泊<br />★     13~17日     マドリッド泊<br />★     18~19日     コルドヴァ泊<br />★     20~21日     セヴィリャ泊<br />★     22~23日     バルセロナ伯<br />★     24~26日     フランクフルト泊<br />★     27日           フランクフルトから羽田へ<br />

シニア夫婦のドイツ、ポルトガル、スペインゆっくり旅行27日 (3)ミュンヘンのアルテ.ピナコテク美術館に入りました(4月4日)

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2017/04/02 - 2017/04/27

977位(同エリア3045件中)

さわ子さん

2017年春、羽田から全日本空輸でババはロンドンへ、ジジはミュンヘンへ別々に出発し、3日後にフランクフルトで合流しポルトガル、スペイン、ドイツと周り、フランクフルトから羽田に帰国しました。
第3回目の旅行記はジジがミュンヘンにあるアルテ.ピナコテク美術館を見学した記録です。

全体の旅程の概略です。
★ 4月 2~3日   ミュンヘン泊 
★ 4日   ハイデルベルク泊
★ 5日 フランクフルト泊
★ 6~10日 リスボン泊
★ 10~12泊 ポルト泊
★ 13~17日 マドリッド泊
★ 18~19日 コルドヴァ泊
★ 20~21日 セヴィリャ泊
★ 22~23日 バルセロナ伯
★ 24~26日 フランクフルト泊
★ 27日 フランクフルトから羽田へ

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
旅行の手配内容
個別手配
  • 今日は市内だけの街歩きなので1日交通券を6.60ユーロで購入しました。今日の初仕事は昔の旅で使い残した350ドイツ.マルクをユーロへ交換する事です。街中で、昨日100番のバスで通ったフォン.デア.タン通りとルートヴィッヒ通りの交差点にあるドイツ連邦銀行バイエルン支社に行きました。中央駅から地下鉄U5線に乗り2駅先のオデオンシュトラッセ駅で降ります。朝8時でしたが受付で尋ねると、通貨の交換はバイエルン支社ではなくミュンヘン支店で受け付けているとの事で、支店への行き方を含めた支店のサービスの内容を説明したパンフレットを貰いました。それで、ここオデオンシュトラッセ駅から次発のU6線の地下鉄に乗り3駅目のミュンヒナー.フライハイト駅まで行き、市電23番に乗り換えて5駅目のアンニ.アルバース-シュトラーセ駅で降りるとミュンヘン支店は近くだそうです。

    今日は市内だけの街歩きなので1日交通券を6.60ユーロで購入しました。今日の初仕事は昔の旅で使い残した350ドイツ.マルクをユーロへ交換する事です。街中で、昨日100番のバスで通ったフォン.デア.タン通りとルートヴィッヒ通りの交差点にあるドイツ連邦銀行バイエルン支社に行きました。中央駅から地下鉄U5線に乗り2駅先のオデオンシュトラッセ駅で降ります。朝8時でしたが受付で尋ねると、通貨の交換はバイエルン支社ではなくミュンヘン支店で受け付けているとの事で、支店への行き方を含めた支店のサービスの内容を説明したパンフレットを貰いました。それで、ここオデオンシュトラッセ駅から次発のU6線の地下鉄に乗り3駅目のミュンヒナー.フライハイト駅まで行き、市電23番に乗り換えて5駅目のアンニ.アルバース-シュトラーセ駅で降りるとミュンヘン支店は近くだそうです。

  • アンニ.アルバース-シュトラーセ駅で23番の市電を降りました。ドイツ連邦銀行ミュンヘン支店には少し西に向かって歩く必要がありました。

    アンニ.アルバース-シュトラーセ駅で23番の市電を降りました。ドイツ連邦銀行ミュンヘン支店には少し西に向かって歩く必要がありました。

  • 今乗車してきた23番の市電です。この辺りでは、市電は道路ではなく専用軌道を走っています。これは家具店&quot;ゼクミューラー&quot;の広告が車体全面に描かれている車両です。

    今乗車してきた23番の市電です。この辺りでは、市電は道路ではなく専用軌道を走っています。これは家具店"ゼクミューラー"の広告が車体全面に描かれている車両です。

  • ドイツ連邦銀行ミュンヘン支店を見つけました。9時開店なので少し外で待ちました。既に4-5人の人々が待っていました。ここで旧貨幣のDMをEuroに交換して貰います。ユーロの紙幣や硬貨は2002年から流通し始め、同年中にドイツ.マルク貨幣の流通が終了しています。ドイツではドイツ.マルク貨幣からユーロ貨幣への交換は無期限、手数料無しで実施されています。交換レートは当初のレート、1ユーロ=1.95583ドイツ.マルクが使われます。銀行での手続きはパスポートを提示するだけで何の問題もなく簡単に終わりました。

    ドイツ連邦銀行ミュンヘン支店を見つけました。9時開店なので少し外で待ちました。既に4-5人の人々が待っていました。ここで旧貨幣のDMをEuroに交換して貰います。ユーロの紙幣や硬貨は2002年から流通し始め、同年中にドイツ.マルク貨幣の流通が終了しています。ドイツではドイツ.マルク貨幣からユーロ貨幣への交換は無期限、手数料無しで実施されています。交換レートは当初のレート、1ユーロ=1.95583ドイツ.マルクが使われます。銀行での手続きはパスポートを提示するだけで何の問題もなく簡単に終わりました。

  • 帰りは銀行前にあるこの停留所からシェルト.プラッツ行きの140番のバスに乗りました。

    帰りは銀行前にあるこの停留所からシェルト.プラッツ行きの140番のバスに乗りました。

  • バスの停留所フライリク.シュトラーセから見たドイツ連邦銀行ミュンヘン支店のモダンな建物です。

    バスの停留所フライリク.シュトラーセから見たドイツ連邦銀行ミュンヘン支店のモダンな建物です。

  • 140番のバスのシェルト.プラッツ終点から28番の市電に乗りアルテ.ピナコテク美術館に向かいます。この始発駅から7つ目の停留所が美術館前になります。

    140番のバスのシェルト.プラッツ終点から28番の市電に乗りアルテ.ピナコテク美術館に向かいます。この始発駅から7つ目の停留所が美術館前になります。

  • 市電の車内です。日本のバスや市電に比べ、掴まり棒などには衝撃吸収のためのクッションが巻いてありません。

    市電の車内です。日本のバスや市電に比べ、掴まり棒などには衝撃吸収のためのクッションが巻いてありません。

  • 市電の停留所ピナコテケンで下車しました。まだ開館時刻9時にはなっていません。

    市電の停留所ピナコテケンで下車しました。まだ開館時刻9時にはなっていません。

  • 停留所の北側にノイエ.ピナコテク美術館があります。今日は火曜日なので、こちらの美術館は定休です。

    停留所の北側にノイエ.ピナコテク美術館があります。今日は火曜日なので、こちらの美術館は定休です。

  • 南側にはアルテ.ピナコテク美術館があります。

    南側にはアルテ.ピナコテク美術館があります。

  • ノイエ.ピナコテクとアルテ.ピナコテクとの間の芝生地は彫刻の公園になっています。しかし彫刻の数は多くありません。

    ノイエ.ピナコテクとアルテ.ピナコテクとの間の芝生地は彫刻の公園になっています。しかし彫刻の数は多くありません。

  • 開館の10時になり入館しました。2017年春の時点では、館内の改装工事は完了してなくて、初期オランダ、初期ドイツ、イタリア.ルネサンス、ヴェネツィア、17世紀フランドル等の作品がある美術館西側の展示室は閉じていました。これから東側の2階展示室に上がります。

    開館の10時になり入館しました。2017年春の時点では、館内の改装工事は完了してなくて、初期オランダ、初期ドイツ、イタリア.ルネサンス、ヴェネツィア、17世紀フランドル等の作品がある美術館西側の展示室は閉じていました。これから東側の2階展示室に上がります。

  • 2階の東側階段ホールからの眺めです。長い階段が1階の中央にある玄関ホールから左右に設置されていますが、写真で向こう側の西側階段は閉鎖されているのが分かります。

    2階の東側階段ホールからの眺めです。長い階段が1階の中央にある玄関ホールから左右に設置されていますが、写真で向こう側の西側階段は閉鎖されているのが分かります。

  • アルテ.ピナコテクの南側には、映像科の大学とエジプト博物館の複合ビルがあります。この美術館の展示作品は、2019年春の旅の旅行記(29回目)で紹介していますので、今回は前回紹介していない作品をいくつか掲載します。

    アルテ.ピナコテクの南側には、映像科の大学とエジプト博物館の複合ビルがあります。この美術館の展示作品は、2019年春の旅の旅行記(29回目)で紹介していますので、今回は前回紹介していない作品をいくつか掲載します。

  • 先ず美術館の東翼端にあるフランス絵画の展示作品です。<br />バロック時代のフランスの画家ニコラ.プッサン(Nicolas Poussin:1594-1665)の<br />「アポロとダフネ」です。プッサンは、29歳から他界するまで、途中2年間のパリの生活を除き、ローマに住んでいました。彼は古典主義的で深い思想的背景をもった歴史画や宗教画を多く描いています。アポロとダフネは古代ギリシャ神話の物語で、愛の神エロスの金の矢で川の精ダフネに恋するよう仕掛けられたアポロは、ダフネを追いかけ回します。そしてダフネの父親の助けを得て、アポロに捕まる前にダフネは月桂樹になってしまいその難を逃れます。

    先ず美術館の東翼端にあるフランス絵画の展示作品です。
    バロック時代のフランスの画家ニコラ.プッサン(Nicolas Poussin:1594-1665)の
    「アポロとダフネ」です。プッサンは、29歳から他界するまで、途中2年間のパリの生活を除き、ローマに住んでいました。彼は古典主義的で深い思想的背景をもった歴史画や宗教画を多く描いています。アポロとダフネは古代ギリシャ神話の物語で、愛の神エロスの金の矢で川の精ダフネに恋するよう仕掛けられたアポロは、ダフネを追いかけ回します。そしてダフネの父親の助けを得て、アポロに捕まる前にダフネは月桂樹になってしまいその難を逃れます。

  • 「アポロとダフネ」でまず思い出すのは、イタリアの彫刻家ジャン.ロレンツォ.ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini:1598-1680)の1622/25年の作品です。これは2014年秋の旅でローマのボルゲーゼ美術館で撮影した写真です。手のひらや足先から木の枝が伸び始めています。この美術館は3回目の訪問で、ようやく写真撮り放題になりました。

    「アポロとダフネ」でまず思い出すのは、イタリアの彫刻家ジャン.ロレンツォ.ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini:1598-1680)の1622/25年の作品です。これは2014年秋の旅でローマのボルゲーゼ美術館で撮影した写真です。手のひらや足先から木の枝が伸び始めています。この美術館は3回目の訪問で、ようやく写真撮り放題になりました。

  • スウェーデン女王クリスティーナの宮廷画家を務めたフランスの画家セバスチャン.ブルドン(Sebastien Bourdon:1616-1671)の作品2点です。神話画、宗教画、肖像画、景観画など幅広いジャンルで作品を残しています。<br />これは1637年頃の作品「ローマの石灰窯」です。この絵は、画面右側奥のチェチリア.メテッラの墓とサンタンジェロ城によって認識される景観と、人気のある粗野なローマのストリート.ライフの情景を組み合わせたものです。チェチリア.メテッラの墓は、 ローマ郊外のアッピア街道沿いの州立公園内にある紀元前1世紀に建てられた古代ローマの墓廟です。

    スウェーデン女王クリスティーナの宮廷画家を務めたフランスの画家セバスチャン.ブルドン(Sebastien Bourdon:1616-1671)の作品2点です。神話画、宗教画、肖像画、景観画など幅広いジャンルで作品を残しています。
    これは1637年頃の作品「ローマの石灰窯」です。この絵は、画面右側奥のチェチリア.メテッラの墓とサンタンジェロ城によって認識される景観と、人気のある粗野なローマのストリート.ライフの情景を組み合わせたものです。チェチリア.メテッラの墓は、 ローマ郊外のアッピア街道沿いの州立公園内にある紀元前1世紀に建てられた古代ローマの墓廟です。

  • 石灰が売買されている場面を拡大しました。<br />古代の建物の廃墟からの材料も焼成される石灰窯は、ローマに住んでいたオランダの芸術家を通じて、地中海地域からの好奇心として絵画に登場しました。 この絵画で、1636年から永遠の都ローマに住んでいたブルドンは、そのような作品を手掛けました。白い石灰の周りに石灰を扱う商人や貧しい人々が劇的な夕方の空の下に集まっています。

    石灰が売買されている場面を拡大しました。
    古代の建物の廃墟からの材料も焼成される石灰窯は、ローマに住んでいたオランダの芸術家を通じて、地中海地域からの好奇心として絵画に登場しました。 この絵画で、1636年から永遠の都ローマに住んでいたブルドンは、そのような作品を手掛けました。白い石灰の周りに石灰を扱う商人や貧しい人々が劇的な夕方の空の下に集まっています。

  • これは1650年頃の作品で「アンドロメダの救出」です。主人公のペルセウスが、アンドロメダ王女が生贄に捧げられた海のモンスターを殺したところです。彼は今、モンスターの血が付いた手を洗っています。アモールは、現在は窮地に立たされているアンドロメダを、彼女が花嫁となるペルセウスに導きます。ペルセウスがメデューサの頭を置いた水生植物が、サンゴに変わって行くのを海の妖精は不思議そうに見ています。このテーマは、オウィディウスの「変身物語」から来ています。制作のアイデアは、ニコラ.プッサンの絵に基づいています。

    これは1650年頃の作品で「アンドロメダの救出」です。主人公のペルセウスが、アンドロメダ王女が生贄に捧げられた海のモンスターを殺したところです。彼は今、モンスターの血が付いた手を洗っています。アモールは、現在は窮地に立たされているアンドロメダを、彼女が花嫁となるペルセウスに導きます。ペルセウスがメデューサの頭を置いた水生植物が、サンゴに変わって行くのを海の妖精は不思議そうに見ています。このテーマは、オウィディウスの「変身物語」から来ています。制作のアイデアは、ニコラ.プッサンの絵に基づいています。

  • ペルセウス、アモール、アンドロメダを拡大しました。

    ペルセウス、アモール、アンドロメダを拡大しました。

  • 肖像画家として一世を風靡したフランスの画家ジャン=マルク.ナティエ(Jean-Marc Nattier:1685-1766)の作品2点です。<br />これは1744年の作品で「愛する人達」です。この画家は優美にして繊細なタッチで、当時流行していた神話の人物に扮したモデルを描いた作品を多く残しています。

    肖像画家として一世を風靡したフランスの画家ジャン=マルク.ナティエ(Jean-Marc Nattier:1685-1766)の作品2点です。
    これは1744年の作品で「愛する人達」です。この画家は優美にして繊細なタッチで、当時流行していた神話の人物に扮したモデルを描いた作品を多く残しています。

  • こちらは1746年の作品「フローラに扮したバリオン侯爵夫人」です。ジャン=マルク.ナティエは、人気のある肖像画家でした。彼は、多くの女性、特にすべてのルイ15世の娘たちを、寓話的で神話的な絵画にして彼女達を不滅にしました。バリオーニ家の公爵夫人アンジェリーク.ルイーズ.ソフィーは、超自然的な存在に変身したようです。ナティエは彼女の理想的で調和のとれた顔の特徴を生かし、寛大な姿を強調する繊細なローブを着せています。さまざまな花が彼女を花と春の女神フローラとしています。

    こちらは1746年の作品「フローラに扮したバリオン侯爵夫人」です。ジャン=マルク.ナティエは、人気のある肖像画家でした。彼は、多くの女性、特にすべてのルイ15世の娘たちを、寓話的で神話的な絵画にして彼女達を不滅にしました。バリオーニ家の公爵夫人アンジェリーク.ルイーズ.ソフィーは、超自然的な存在に変身したようです。ナティエは彼女の理想的で調和のとれた顔の特徴を生かし、寛大な姿を強調する繊細なローブを着せています。さまざまな花が彼女を花と春の女神フローラとしています。

  • フランスのロココ美術を代表する画家フランソワ.ルモワーヌ(Francois Lemoine:1688-1737)の1730年頃の作品「ハンティング.パーティー」です。狩りの最中に、優雅な人々のグループが外で食事をするために集まています。ルモワーヌは、彼の主人公に歴史的な架空の衣装を着せています。モチーフとスタイルはどちらも、オランダのバロック絵画から「狩りの中断」の主題を刷新したジャン=アントワーヌ.ヴァトーの影響を反映しています。ルモワーヌは歴史画家でしたが、時々人気のある風俗画に目を向けました。おそらく後日制作された同じ主題の2番目のバージョンは、現在サンパウロのアルテ美術館にあります。

    フランスのロココ美術を代表する画家フランソワ.ルモワーヌ(Francois Lemoine:1688-1737)の1730年頃の作品「ハンティング.パーティー」です。狩りの最中に、優雅な人々のグループが外で食事をするために集まています。ルモワーヌは、彼の主人公に歴史的な架空の衣装を着せています。モチーフとスタイルはどちらも、オランダのバロック絵画から「狩りの中断」の主題を刷新したジャン=アントワーヌ.ヴァトーの影響を反映しています。ルモワーヌは歴史画家でしたが、時々人気のある風俗画に目を向けました。おそらく後日制作された同じ主題の2番目のバージョンは、現在サンパウロのアルテ美術館にあります。

  • フランスの画家ニコラ.ランクレ(Nicolas Lancret:1690-1743)の1735年頃の作品で「鳥籠(ボカージュの愛)」です。ボカージュとは、北フランス.南イングランド.アイルランド.オランダ.北ドイツの一部に特徴的な、森林と牧草地が混在する地形で、牧畜が主な土地利用となっている地域です。ランクレは、同じ工房で学んだアントワーヌ.ヴァトー(1684-1721)と共に、優雅な男女が集い、恋の戯れや遊びに興じる姿を題材にした&quot;雅宴画&quot;の普及に貢献しました。

    フランスの画家ニコラ.ランクレ(Nicolas Lancret:1690-1743)の1735年頃の作品で「鳥籠(ボカージュの愛)」です。ボカージュとは、北フランス.南イングランド.アイルランド.オランダ.北ドイツの一部に特徴的な、森林と牧草地が混在する地形で、牧畜が主な土地利用となっている地域です。ランクレは、同じ工房で学んだアントワーヌ.ヴァトー(1684-1721)と共に、優雅な男女が集い、恋の戯れや遊びに興じる姿を題材にした"雅宴画"の普及に貢献しました。

  • ロココ時代のフランスの画家ジャン=バティスト.パテル(Jean-Baptiste Pater:1695-1736)の1735年頃の作品「田園の宴」です。ここに描かれているのは農民の単純素朴な田舎の生活ではなく、ルイ14世治世下の浅薄な都会生活に対する失われた理想郷への切望です。着飾った恋人達や貴婦人達のファッションには、パテルの偉大な師のヴァトーの影響を見る事ができます。パテルは、アントワーヌ.ヴァトー(1684-1721)の弟子になり、&quot;雅宴画&quot;の画家としてヴァトーの画風を引き継ぎました。

    ロココ時代のフランスの画家ジャン=バティスト.パテル(Jean-Baptiste Pater:1695-1736)の1735年頃の作品「田園の宴」です。ここに描かれているのは農民の単純素朴な田舎の生活ではなく、ルイ14世治世下の浅薄な都会生活に対する失われた理想郷への切望です。着飾った恋人達や貴婦人達のファッションには、パテルの偉大な師のヴァトーの影響を見る事ができます。パテルは、アントワーヌ.ヴァトー(1684-1721)の弟子になり、"雅宴画"の画家としてヴァトーの画風を引き継ぎました。

  • 上流社会の肖像画や神話画などを描き、ロココを代表するフランスの画家フランソワ.ブーシェ(Francois Boucher:1703-1770)の作品3点です。<br />これは1735年頃の作品で「泉の辺りの休息」です。羊飼いの家族は、古代遺跡、松の木、糸杉のある地中海の風景に囲まれた井戸の側で休んでいます。この下に掲載する「田舎の牧歌」と一緒に、この絵はもともと4つの絵画からなる装飾的な一連の作品に属していました。他の作品は他の美術館に保存されています。それらは「市場からの帰還」と「満足した漁師」を描いている作品です。 一連の絵画は、ブーシェがイタリア滞在から戻った後に作成されました。

    上流社会の肖像画や神話画などを描き、ロココを代表するフランスの画家フランソワ.ブーシェ(Francois Boucher:1703-1770)の作品3点です。
    これは1735年頃の作品で「泉の辺りの休息」です。羊飼いの家族は、古代遺跡、松の木、糸杉のある地中海の風景に囲まれた井戸の側で休んでいます。この下に掲載する「田舎の牧歌」と一緒に、この絵はもともと4つの絵画からなる装飾的な一連の作品に属していました。他の作品は他の美術館に保存されています。それらは「市場からの帰還」と「満足した漁師」を描いている作品です。 一連の絵画は、ブーシェがイタリア滞在から戻った後に作成されました。

  • 「田舎の牧歌」です。ここでブーシェは小さな農場での夕食の準備を描写し、素朴な環境で愛と家族の喜びを描写するためにそれを使用しています。そうする事で、彼は17世紀からの田園風景描写の伝統や家畜の描き方への理解を示しています。若い女性達はすでにブーシェの後の牧歌的な絵画を仄めかしています。

    「田舎の牧歌」です。ここでブーシェは小さな農場での夕食の準備を描写し、素朴な環境で愛と家族の喜びを描写するためにそれを使用しています。そうする事で、彼は17世紀からの田園風景描写の伝統や家畜の描き方への理解を示しています。若い女性達はすでにブーシェの後の牧歌的な絵画を仄めかしています。

  • かわいい幼児達と羊を拡大しました。

    かわいい幼児達と羊を拡大しました。

  • こちらは1741年の作品で「川のある牧歌的な風景」です。慎重に構成され、流動的に描かれた風景がここに示されています。女性の羊飼いが木陰で羊の近くに座っています。 農民が橋を渡っています。 円形の寺院が遠くの高台にあります。この絵は、1697年に初演されたアポロの羊飼いへの愛情を描いたオペラ「イッセ」の舞台セットのデザインとして作成されたと推定されています。

    こちらは1741年の作品で「川のある牧歌的な風景」です。慎重に構成され、流動的に描かれた風景がここに示されています。女性の羊飼いが木陰で羊の近くに座っています。 農民が橋を渡っています。 円形の寺院が遠くの高台にあります。この絵は、1697年に初演されたアポロの羊飼いへの愛情を描いたオペラ「イッセ」の舞台セットのデザインとして作成されたと推定されています。

  • 人物、羊を拡大しました。

    人物、羊を拡大しました。

  • クロード.ジョセフ.ヴェルネ(Claude Vernet:1714-1759)の作品2点です。クロード.ヴェルネは、画家の家系に生まれ、息子や孫も画家になっています。彼は1734年から20年間パトロンの支援を得てローナに留学しています。<br />この絵は「夕暮れの川での漁獲」です。下に掲載する絵画の対作になっています。<br />

    クロード.ジョセフ.ヴェルネ(Claude Vernet:1714-1759)の作品2点です。クロード.ヴェルネは、画家の家系に生まれ、息子や孫も画家になっています。彼は1734年から20年間パトロンの支援を得てローナに留学しています。
    この絵は「夕暮れの川での漁獲」です。下に掲載する絵画の対作になっています。

  • こちらは1755年頃の作品で「日の出を迎えた東方の港」です。ローマで他の作品と共に依頼されたこの作品は、澄んだ朝の光の中での港の景色を描いています。漁師は海から戻ってきており、女性は要塞の門の前にある噴水の溜まりから水を汲んでいます。

    こちらは1755年頃の作品で「日の出を迎えた東方の港」です。ローマで他の作品と共に依頼されたこの作品は、澄んだ朝の光の中での港の景色を描いています。漁師は海から戻ってきており、女性は要塞の門の前にある噴水の溜まりから水を汲んでいます。

  • フランスの画家ジャン=バティスト.グルーズ(Jean-Baptiste Greuze:1725-1805)の1775年頃の作品で「時計の嘆き(衰弱する美徳)」です。宮廷風俗を描いた同時代の他の画家と違い,この画家は市民生活に題材を求めた風俗画を多く描き、当時は絶大な人気を誇っていました。

    フランスの画家ジャン=バティスト.グルーズ(Jean-Baptiste Greuze:1725-1805)の1775年頃の作品で「時計の嘆き(衰弱する美徳)」です。宮廷風俗を描いた同時代の他の画家と違い,この画家は市民生活に題材を求めた風俗画を多く描き、当時は絶大な人気を誇っていました。

  • フランスの画家ユベール.ロベール(Hubert Robert:1733-1808)の作品2点です。ロベールはイタリアで学び、都市景観画や奇想画と呼ばれる、実在の建物、古代遺跡、それに架空の遺跡などを描く風景画の作者として知られています。<br />この絵は、1773年の作品「公園の風景」です。「ローマの神殿の遺跡のある風景」との連作であり、噴水と古代の谷があり、そこに水が流れ込む流域を描いています。顕花植物の鉢は、これが公園にあることを示しています。 素朴な人物や優雅な人々が通りかかったり、休憩したり、散歩に出かけたりします。手前の右側の彫刻は、美徳の具現化と見なされているウェスタの処女です。

    フランスの画家ユベール.ロベール(Hubert Robert:1733-1808)の作品2点です。ロベールはイタリアで学び、都市景観画や奇想画と呼ばれる、実在の建物、古代遺跡、それに架空の遺跡などを描く風景画の作者として知られています。
    この絵は、1773年の作品「公園の風景」です。「ローマの神殿の遺跡のある風景」との連作であり、噴水と古代の谷があり、そこに水が流れ込む流域を描いています。顕花植物の鉢は、これが公園にあることを示しています。 素朴な人物や優雅な人々が通りかかったり、休憩したり、散歩に出かけたりします。手前の右側の彫刻は、美徳の具現化と見なされているウェスタの処女です。

  • 中央の人々を拡大しました。

    中央の人々を拡大しました。

  • 絵画の左側の大木に柱が掛かっていて、側で男の子が上を見上げています。

    絵画の左側の大木に柱が掛かっていて、側で男の子が上を見上げています。

  • 木の上にはもう一人の男の子が張り付いています。

    木の上にはもう一人の男の子が張り付いています。

  • これは1773年頃の作品「ローマの神殿の遺跡のある風景」です。「公園の風景」と更に4点の作品と共に、この絵はある部屋を飾るために描かれたと思われる連作の一枚でした。どちらの絵も実際の風景である印象を与えません。この絵の寺院の遺跡はローマのパンテオンを明確に参照していますが、建物は特徴的な方法で変えられ、クイリナーレ広場の有名な「馬と調教師」などの像が追加されています。

    これは1773年頃の作品「ローマの神殿の遺跡のある風景」です。「公園の風景」と更に4点の作品と共に、この絵はある部屋を飾るために描かれたと思われる連作の一枚でした。どちらの絵も実際の風景である印象を与えません。この絵の寺院の遺跡はローマのパンテオンを明確に参照していますが、建物は特徴的な方法で変えられ、クイリナーレ広場の有名な「馬と調教師」などの像が追加されています。

  • 神殿の前の「馬の調教師」の2体の像を拡大しました。

    神殿の前の「馬の調教師」の2体の像を拡大しました。

  • これは2011年冬の旅でクイリナーレ通りから撮影したクイリナーレ広場のディオスクーロイの噴水です。オベリスクの両側に2セットの「馬と調教師」の像が置かれています。これらの彫刻は、ギリシャの作品をローマで4世紀にコピーしたものだそうです。クイリナーレ広場は、イタリア大統領官邸になっているクイリナーレ宮殿前の広場です。オベリスクの後方は旧クイリナーレの厩舎で現在は歴史博物館になっています。

    これは2011年冬の旅でクイリナーレ通りから撮影したクイリナーレ広場のディオスクーロイの噴水です。オベリスクの両側に2セットの「馬と調教師」の像が置かれています。これらの彫刻は、ギリシャの作品をローマで4世紀にコピーしたものだそうです。クイリナーレ広場は、イタリア大統領官邸になっているクイリナーレ宮殿前の広場です。オベリスクの後方は旧クイリナーレの厩舎で現在は歴史博物館になっています。

  • 神殿前の人々を拡大しました。

    神殿前の人々を拡大しました。

  • フランスの画家兼デザイナーのルイ.ローランド.トリンケッセ(Louis-Rolland Trinquesse:1746頃-1800)の1774年の作品「ミュージカル.エンターテインメント」です。この絵はコンサートのシーンを描いていますが、実際には肖像画です。 二人の女性は楽器を演奏しています。若い男性がそれを聞いています。薄手のドレスを着た女性は、作曲家のフランソワ.エティエンヌ.フランメリーの妻であるマリアンヌ.フランメリーだと考えられています。ピアノの女の子は男性と長い視線を交わしています。背景の彫刻は謙虚さを擬人化したものであり、集まりの控えめな性格を強調しています。トリンケッセはブルジョア出身で、多数のブルジョアジーや貴族の肖像画を多く手がけています。

    フランスの画家兼デザイナーのルイ.ローランド.トリンケッセ(Louis-Rolland Trinquesse:1746頃-1800)の1774年の作品「ミュージカル.エンターテインメント」です。この絵はコンサートのシーンを描いていますが、実際には肖像画です。 二人の女性は楽器を演奏しています。若い男性がそれを聞いています。薄手のドレスを着た女性は、作曲家のフランソワ.エティエンヌ.フランメリーの妻であるマリアンヌ.フランメリーだと考えられています。ピアノの女の子は男性と長い視線を交わしています。背景の彫刻は謙虚さを擬人化したものであり、集まりの控えめな性格を強調しています。トリンケッセはブルジョア出身で、多数のブルジョアジーや貴族の肖像画を多く手がけています。

  • スイスの画家ジャン=エティエンヌ.リオタール(Jean-Etienne Liotard:1702-1789)の1753/56年の作品で「早朝の食事」です。1753年から1756年のロンドン滞在中に描かれた作品です。左端にメイドが画面に割り込むように描かれています。これは、19世紀にジャポニズムが登場して初めて用いられるようになった手法(とりわけドガによって)を予感させます。フランスからスイスに亡命した父を持つリオタールは、ジュネーブやパリで学び、ヨーロッパ各地を旅し絵を描いています。

    スイスの画家ジャン=エティエンヌ.リオタール(Jean-Etienne Liotard:1702-1789)の1753/56年の作品で「早朝の食事」です。1753年から1756年のロンドン滞在中に描かれた作品です。左端にメイドが画面に割り込むように描かれています。これは、19世紀にジャポニズムが登場して初めて用いられるようになった手法(とりわけドガによって)を予感させます。フランスからスイスに亡命した父を持つリオタールは、ジュネーブやパリで学び、ヨーロッパ各地を旅し絵を描いています。

  • スペイン絵画1点です。<br />バロック期のスペインの画家フランシスコ.デ.スルバラン(Francisco de Zurbarán y Salazar:1598-1664)の1660年頃の作品「恍惚の聖フランチェスコ」です。アッシジの聖フランチェスコは天国に向かっており、内面の宗教的体験に打たれています。左手が頭蓋骨を触っています。この絵の伝統的テーマはイタリアで始まり、スペインに広まりました。スルバランは、フランシスコ会の改革命令であるカプチンの習慣を身に着けている聖人を描いています。柔らかく描かれた輪郭と拡散光の使用は、この絵が後期の作品であることを示しています。

    スペイン絵画1点です。
    バロック期のスペインの画家フランシスコ.デ.スルバラン(Francisco de Zurbarán y Salazar:1598-1664)の1660年頃の作品「恍惚の聖フランチェスコ」です。アッシジの聖フランチェスコは天国に向かっており、内面の宗教的体験に打たれています。左手が頭蓋骨を触っています。この絵の伝統的テーマはイタリアで始まり、スペインに広まりました。スルバランは、フランシスコ会の改革命令であるカプチンの習慣を身に着けている聖人を描いています。柔らかく描かれた輪郭と拡散光の使用は、この絵が後期の作品であることを示しています。

  • オランダ美術の黄金時代の画家ヘンドリック.コルネリスゾーン.フローム(Hendrick Cornelisz Vroom:1562-1640)の1630年の作品「アムステルダムの港」です。横長の画面の左半分を拡大しています。手前の小型の帆船は、沿海用の商船のようです。

    オランダ美術の黄金時代の画家ヘンドリック.コルネリスゾーン.フローム(Hendrick Cornelisz Vroom:1562-1640)の1630年の作品「アムステルダムの港」です。横長の画面の左半分を拡大しています。手前の小型の帆船は、沿海用の商船のようです。

  • こちらは右半分の拡大写真です。手前の帆船は、外洋で戦う戦闘艦です。

    こちらは右半分の拡大写真です。手前の帆船は、外洋で戦う戦闘艦です。

  • この写真は、上掲2枚の絵画の全体図で、アルテ.ピナコテク美術館のウェブ.サイト、https://www.sammlung.pinakothek.de/<br />から借画しました。後方の港の中には、無数の帆船が描かれています。

    この写真は、上掲2枚の絵画の全体図で、アルテ.ピナコテク美術館のウェブ.サイト、https://www.sammlung.pinakothek.de/
    から借画しました。後方の港の中には、無数の帆船が描かれています。

  • 風景画を得意としたオランダの画家エサイアス.ファン.デ.フェルデ(Esaias van de Velde:1587-1630)の1618年の作品「凍ったお堀での遊び」です。オランダの新しい写実的な風景画の初期の作品の一つです。

    風景画を得意としたオランダの画家エサイアス.ファン.デ.フェルデ(Esaias van de Velde:1587-1630)の1618年の作品「凍ったお堀での遊び」です。オランダの新しい写実的な風景画の初期の作品の一つです。

  • オランダの風景画家サロモン.ファン.ロイスダール(Salomon van Ruysdael:1602-1670)の1660年頃の作品で「田舎道の望楼」です。中央部を拡大した写真になっています。

    オランダの風景画家サロモン.ファン.ロイスダール(Salomon van Ruysdael:1602-1670)の1660年頃の作品で「田舎道の望楼」です。中央部を拡大した写真になっています。

  • この写真は絵画の全体で、アルテ.ピナコテク美術館のウェブサイト、<br />https://www.sammlung.pinakothek.de/から借画しました。

    この写真は絵画の全体で、アルテ.ピナコテク美術館のウェブサイト、
    https://www.sammlung.pinakothek.de/から借画しました。

  • オランダの画家ピーテル.デ.ブロウト(Pieter de Bloot:1601/02-1658)の1635年の作品「農民の楽しみ」です。粗末な酒場で飲み、暴言を吐き、そして喧嘩するボロボロの服を着た陽気な農民を描いた絵画は、町に住む購入者を楽しませました。同時に鑑賞者に、余りにも無作法な生活態度の結果を警告していました。デ.ブロウトはロッテルダムで生まれ、亡くなっています。主に風景や風俗画、特に田園風景や農民の主題を描いています。彼はまた定期的に宗教的な主題も描きました。

    オランダの画家ピーテル.デ.ブロウト(Pieter de Bloot:1601/02-1658)の1635年の作品「農民の楽しみ」です。粗末な酒場で飲み、暴言を吐き、そして喧嘩するボロボロの服を着た陽気な農民を描いた絵画は、町に住む購入者を楽しませました。同時に鑑賞者に、余りにも無作法な生活態度の結果を警告していました。デ.ブロウトはロッテルダムで生まれ、亡くなっています。主に風景や風俗画、特に田園風景や農民の主題を描いています。彼はまた定期的に宗教的な主題も描きました。

  • ここからバロック期のフランドルの画家ピーテル.パウル.ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577-1640)の作品10点です。<br />これは1614年の作品で「弓を削るキューピッド」です。この作品は、下に掲載したイタリアの画家パルミジャニーノ(Parmigianino:1503-1540)の80年前の作品を手本に制作されています。

    ここからバロック期のフランドルの画家ピーテル.パウル.ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577-1640)の作品10点です。
    これは1614年の作品で「弓を削るキューピッド」です。この作品は、下に掲載したイタリアの画家パルミジャニーノ(Parmigianino:1503-1540)の80年前の作品を手本に制作されています。

  • これが手本になったパルミジャニーノの1533/35年の作品「弓を削るキューピッド」です。2013年秋の旅でウィーンの美術史美術館で撮影した写真です。<br />

    これが手本になったパルミジャニーノの1533/35年の作品「弓を削るキューピッド」です。2013年秋の旅でウィーンの美術史美術館で撮影した写真です。

  • よく見ると弓を削る天使の足下にいる二人に天使が大きく異なっています。こちらはルーベンスの作品です。

    よく見ると弓を削る天使の足下にいる二人に天使が大きく異なっています。こちらはルーベンスの作品です。

  • こちらが元本のパルミジャニーノの作品です。

    こちらが元本のパルミジャニーノの作品です。

  • これは1615年の作品の「カバとワニの狩猟」です。このルーベンスによる大きなパネルで、3頭の猟犬を連れたカバとワニの狩猟人達を描いています。真っ黒な獣は、写真の真ん中から見る人に向かって飛び出し、その口は恐ろしく鋭い歯を大きく開いています。後ろから横から、3人の騎馬者が馬を押し上げ、噛む犬に囲まれた黒い怪物に槍を突き刺します。狩り人は、明らかにヨーロッパ人ではなく東方人です。ルーベンスは対角線のドラマを使用して、即時性と動きの感覚を高め、アクションの中心に注目を集めました。このカバとワニ狩りの絵は、マクシミリアン1世が古いシュライスハイム宮殿の装飾のために依頼した4連の狩猟絵画の1つです。

    これは1615年の作品の「カバとワニの狩猟」です。このルーベンスによる大きなパネルで、3頭の猟犬を連れたカバとワニの狩猟人達を描いています。真っ黒な獣は、写真の真ん中から見る人に向かって飛び出し、その口は恐ろしく鋭い歯を大きく開いています。後ろから横から、3人の騎馬者が馬を押し上げ、噛む犬に囲まれた黒い怪物に槍を突き刺します。狩り人は、明らかにヨーロッパ人ではなく東方人です。ルーベンスは対角線のドラマを使用して、即時性と動きの感覚を高め、アクションの中心に注目を集めました。このカバとワニ狩りの絵は、マクシミリアン1世が古いシュライスハイム宮殿の装飾のために依頼した4連の狩猟絵画の1つです。

  • これは1616/17年頃の作品で「キリストとマグダラのマリア」です。キリストは罪人の一団と話をしてます。ひざまずく女性は、キリストへの愛で知られるマグダラのマリアです。左端で十字架を支える男は、イエスと共に十字架につけられた罪人の一人です。彼は自分の罪について悔恨を示しました。彼の隣には、頭に冠をかぶった、キリストの祖先であるダビデ王がいます。旧約聖書では、彼は彼の部下の一人の妻であるバトシェバを恋し、彼女と結婚するために彼女の夫を殺させました。やがて彼は自分が罪を犯し、神に赦されたことに気づきました。緑の服を着ているのは、イエスを知る事を3回否定した使徒ペテロです。キリストがペテロの否定を予言していた事をペテロが思い出したのは、雄鶏が鳴いた時でした。

    これは1616/17年頃の作品で「キリストとマグダラのマリア」です。キリストは罪人の一団と話をしてます。ひざまずく女性は、キリストへの愛で知られるマグダラのマリアです。左端で十字架を支える男は、イエスと共に十字架につけられた罪人の一人です。彼は自分の罪について悔恨を示しました。彼の隣には、頭に冠をかぶった、キリストの祖先であるダビデ王がいます。旧約聖書では、彼は彼の部下の一人の妻であるバトシェバを恋し、彼女と結婚するために彼女の夫を殺させました。やがて彼は自分が罪を犯し、神に赦されたことに気づきました。緑の服を着ているのは、イエスを知る事を3回否定した使徒ペテロです。キリストがペテロの否定を予言していた事をペテロが思い出したのは、雄鶏が鳴いた時でした。

  • これは1617年頃の作品で「最後の審判」です。イエスが一番上にあり、イエスの右側には母親の聖母マリア、左側には十戒が描かれた石板を持つモーセがいます。絵の左側(イエスの右側)には祝福された人々が立ち上り、右側では人々が地獄に堕ちています。絵の下手では、死者、死にかけている人々、そして復活したばかりの人々が見えます。

    これは1617年頃の作品で「最後の審判」です。イエスが一番上にあり、イエスの右側には母親の聖母マリア、左側には十戒が描かれた石板を持つモーセがいます。絵の左側(イエスの右側)には祝福された人々が立ち上り、右側では人々が地獄に堕ちています。絵の下手では、死者、死にかけている人々、そして復活したばかりの人々が見えます。

  • これは1618年頃の作品で「アマゾネスの戦い」です。両軍は橋の上で衝突しています。左側からギリシャ軍がアマゾネス軍を追い詰め、勝利を間近にしています。緊張感に満ちた主題は、迅速で流動的な絵画のスタイルに対応しています。力強い筆使いを使用して、ルーベンスは川からの水のしぶき、流れる馬のタテガミ、そして攻撃の準備をしている戦士の動きの強さを捉えました。アマゾネスは、ギリシア神話に登場する女性だけの部族です。

    これは1618年頃の作品で「アマゾネスの戦い」です。両軍は橋の上で衝突しています。左側からギリシャ軍がアマゾネス軍を追い詰め、勝利を間近にしています。緊張感に満ちた主題は、迅速で流動的な絵画のスタイルに対応しています。力強い筆使いを使用して、ルーベンスは川からの水のしぶき、流れる馬のタテガミ、そして攻撃の準備をしている戦士の動きの強さを捉えました。アマゾネスは、ギリシア神話に登場する女性だけの部族です。

  • これは1617/19年頃の作品で「2人のサテュロス」です。サテュロスは、ギリシア神話に登場する半人.半獣の精霊であす。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシアの牧羊神パーンとしばしば同一視されました。「自然の豊穣の化身、欲情の塊」として表現されます。

    これは1617/19年頃の作品で「2人のサテュロス」です。サテュロスは、ギリシア神話に登場する半人.半獣の精霊であす。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシアの牧羊神パーンとしばしば同一視されました。「自然の豊穣の化身、欲情の塊」として表現されます。

  • こちらは1619年頃の作品でルーベンスの友人であったヤン.ブリューゲル(父)(1568-1625)との合作の「フローラル.リース(花輪)のマドンナ」です。この絵の中でヤン.ブリューゲルは得意な花輪を描いています。幼子を支える聖母マリアの前には珍しく揺り籠が描かれています。

    こちらは1619年頃の作品でルーベンスの友人であったヤン.ブリューゲル(父)(1568-1625)との合作の「フローラル.リース(花輪)のマドンナ」です。この絵の中でヤン.ブリューゲルは得意な花輪を描いています。幼子を支える聖母マリアの前には珍しく揺り籠が描かれています。

  • これは1621年の作品「ライオン狩り」です。ルーベンスは、この作品の制作後、次のように述べました。「大作が完成した。全て自分自身の手で制作した。これが1番良い事だ。ライオン狩りの絵である・・・・・」と書きました。この絵はルーベンスの数多い狩猟作品の中でも傑出した作品です。起っている出来事を躍動的な感情に移し替え、闘争の勝敗が決定した瞬間のアクションに全意識が集約されています。

    これは1621年の作品「ライオン狩り」です。ルーベンスは、この作品の制作後、次のように述べました。「大作が完成した。全て自分自身の手で制作した。これが1番良い事だ。ライオン狩りの絵である・・・・・」と書きました。この絵はルーベンスの数多い狩猟作品の中でも傑出した作品です。起っている出来事を躍動的な感情に移し替え、闘争の勝敗が決定した瞬間のアクションに全意識が集約されています。

  • これは1625年頃の作品「ローマ人とサビニの和解」です。伝説によると、ローマ人は新しく建てられた都市ローマの人口を増やすためにサビニの女性を誘拐しました。結果として生じた戦争は、女性が自分たちと子供たちを父親と夫の軍隊の間に割り込ませる事によって終結をみました。サビニの女たちの誘拐は絵画の一般的なモチーフになりました。戦争を終わらせる女性はそれほど頻繁ではありませんが、それでも再び現れるモチーフです。女性は子供を腕に抱き、髪を乱し、2つの戦う軍隊の真っ只中で和平を要求します。

    これは1625年頃の作品「ローマ人とサビニの和解」です。伝説によると、ローマ人は新しく建てられた都市ローマの人口を増やすためにサビニの女性を誘拐しました。結果として生じた戦争は、女性が自分たちと子供たちを父親と夫の軍隊の間に割り込ませる事によって終結をみました。サビニの女たちの誘拐は絵画の一般的なモチーフになりました。戦争を終わらせる女性はそれほど頻繁ではありませんが、それでも再び現れるモチーフです。女性は子供を腕に抱き、髪を乱し、2つの戦う軍隊の真っ只中で和平を要求します。

  • これは1635年頃の作品「メレアグロスとアタランテ」です。ギリシャ神話の有名な女狩人であるアタランテと、カリドンのオイネウス王の息子であるメレアグロスは、王が彼女の名誉のために生贄を献げなかった事の罰として狩りの女神アルテミスから送られたカリドンの獰猛な猪の狩猟に参加させられました。この絵では、メレアグロスが殺したイノシシの頭を彼の最愛の女性アタランタに見せているシーンを描いています。キューピッドは求愛するメレアグロスと躊躇するアタランタの間の仲介者です。

    これは1635年頃の作品「メレアグロスとアタランテ」です。ギリシャ神話の有名な女狩人であるアタランテと、カリドンのオイネウス王の息子であるメレアグロスは、王が彼女の名誉のために生贄を献げなかった事の罰として狩りの女神アルテミスから送られたカリドンの獰猛な猪の狩猟に参加させられました。この絵では、メレアグロスが殺したイノシシの頭を彼の最愛の女性アタランタに見せているシーンを描いています。キューピッドは求愛するメレアグロスと躊躇するアタランタの間の仲介者です。

  • オランダの画家ヘラルト.ファン.ホントホルスト(Gerard van Honthorst:1592-1656)の1625年の作品「ふしだらな学生達」です。この構図は光源を中心とし、そこから劇のような鮮やかで、活気に満ちた様子が生まれています。ホントホルストは、ユトレヒトのカラヴァジェスキー(イタリアのカラヴァッジョの様式に従った画家のグループ)に属し、同じような絵をたくさん描いているので、イタリアでは&quot;夜のゲラルド&quot;という異名をとっていました。

    オランダの画家ヘラルト.ファン.ホントホルスト(Gerard van Honthorst:1592-1656)の1625年の作品「ふしだらな学生達」です。この構図は光源を中心とし、そこから劇のような鮮やかで、活気に満ちた様子が生まれています。ホントホルストは、ユトレヒトのカラヴァジェスキー(イタリアのカラヴァッジョの様式に従った画家のグループ)に属し、同じような絵をたくさん描いているので、イタリアでは"夜のゲラルド"という異名をとっていました。

  • レンブラント.ファン.レイン(Rembrandt van Rijn:1606-1669)の1635/39年の作品「埋葬」です。この絵は、オランダ総督、オラニエ候フレデリック.ヘンドリック(1584-1647)のために描かれたキリストの生涯に関する7枚シリーズの一枚です。7枚シリーズの内、「割礼」が失われ残りの6枚がこの美術館に展示してあります。

    レンブラント.ファン.レイン(Rembrandt van Rijn:1606-1669)の1635/39年の作品「埋葬」です。この絵は、オランダ総督、オラニエ候フレデリック.ヘンドリック(1584-1647)のために描かれたキリストの生涯に関する7枚シリーズの一枚です。7枚シリーズの内、「割礼」が失われ残りの6枚がこの美術館に展示してあります。

  • この写真は絵画の全体で、アルテ.ピナコテク美術館のウェブサイト、<br />https://www.sammlung.pinakothek.de/から借画しました。

    この写真は絵画の全体で、アルテ.ピナコテク美術館のウェブサイト、
    https://www.sammlung.pinakothek.de/から借画しました。

  • 展示してあったイタリア絵画4点です。<br />これはイタリアの盛期ルネサンス期の画家ラファエロ.サンティ(Raffaello Santi:1483-1520)の1507年頃の作品で「テンピの聖母」です。ラファエロのフィレンツェ時代の終わりに制作されてものと考えられています。<br />&quot;テンピ&quot;は、この絵の制作を頼んだフィレンツェのテンピ家の名から採られています。

    展示してあったイタリア絵画4点です。
    これはイタリアの盛期ルネサンス期の画家ラファエロ.サンティ(Raffaello Santi:1483-1520)の1507年頃の作品で「テンピの聖母」です。ラファエロのフィレンツェ時代の終わりに制作されてものと考えられています。
    "テンピ"は、この絵の制作を頼んだフィレンツェのテンピ家の名から採られています。

  • バロック期に活動したイタリアの画家グイド.レーニ(Guido Reni:1575-1642)の1620/21年の作品で「鞭打ちの後のキリスト」です。

    バロック期に活動したイタリアの画家グイド.レーニ(Guido Reni:1575-1642)の1620/21年の作品で「鞭打ちの後のキリスト」です。

  • これは同じグイド.レーニの1638/39年の作品「聖母の被昇天」です。絹地に描かれたこの作品は、イタリア北部にあるモデナのサンタ.マリア.デッリ.アンジョーリ兄弟教会の主祭壇画として委託されました。小教区の財政問題のため、この絵は完成後わずか19年で、ボローニャの未知の人物に販売されました。古典的な雰囲気に包まれたボローニャ派バロック絵画の典型で、カラヴァジェスキーのヴェリズモ(真実主義)とは対照的です。この画家の厳格な古典的な後期スタイルは、特に19世紀に高く評価されました。

    これは同じグイド.レーニの1638/39年の作品「聖母の被昇天」です。絹地に描かれたこの作品は、イタリア北部にあるモデナのサンタ.マリア.デッリ.アンジョーリ兄弟教会の主祭壇画として委託されました。小教区の財政問題のため、この絵は完成後わずか19年で、ボローニャの未知の人物に販売されました。古典的な雰囲気に包まれたボローニャ派バロック絵画の典型で、カラヴァジェスキーのヴェリズモ(真実主義)とは対照的です。この画家の厳格な古典的な後期スタイルは、特に19世紀に高く評価されました。

  • 昇天する聖母を支える天使達を拡大しました。

    昇天する聖母を支える天使達を拡大しました。

  • 都市景観画や奇想画、風俗画を描いたイタリアの画家フランチェスコ.グアルディ(Francesco Guardi:1712-1793)の1784/89年の作品「ジュデッカ運河のレガッタ」です。描かれている景色は、地平線まで伸びるジュデッカ運河に沿って東から見たものです。左岸にはジュデッカ島が見え、右岸には旧海の税関のドガーナ.ディ.マーレとその後方のサンタ.マリア.デッラ.サルーテ聖堂のあるカナル.グランデの入り口が見えます。画家の見晴らしの良い場所は、サン.マルコ運河の比較的高いところにあると考えられます。

    都市景観画や奇想画、風俗画を描いたイタリアの画家フランチェスコ.グアルディ(Francesco Guardi:1712-1793)の1784/89年の作品「ジュデッカ運河のレガッタ」です。描かれている景色は、地平線まで伸びるジュデッカ運河に沿って東から見たものです。左岸にはジュデッカ島が見え、右岸には旧海の税関のドガーナ.ディ.マーレとその後方のサンタ.マリア.デッラ.サルーテ聖堂のあるカナル.グランデの入り口が見えます。画家の見晴らしの良い場所は、サン.マルコ運河の比較的高いところにあると考えられます。

  • ここからはフランドル絵画の展示作品です。<br />これは不明のフランドルの芸術家の1556年の作品「海の戦い」です。多くの海景画や海戦の作品のように、横長のパネルを使っています。

    ここからはフランドル絵画の展示作品です。
    これは不明のフランドルの芸術家の1556年の作品「海の戦い」です。多くの海景画や海戦の作品のように、横長のパネルを使っています。

  • パネルの左側を拡大しました。沿岸近くでの海戦なのか、画面の左手に沈められた船の乗組員が陸上に泳ぎ着いています。

    パネルの左側を拡大しました。沿岸近くでの海戦なのか、画面の左手に沈められた船の乗組員が陸上に泳ぎ着いています。

  • ヤン.ブリューゲル(父)(Jan Brueghel the Elder:1568-1625)の1598年の作品「ゴルゴタの丘への道」です。 ピーテル.ブリューゲル(父)の次男ヤンは静物画、特に花の絵を得意として「花のブリューゲル」と通称されています。父ブリューゲルが没した時、長男のピーテル.ブリューゲル(子)は5歳、次男のヤン.ブリューゲル(父)は1歳であって、両名は父から直接絵画の手ほどきを受けたわけではありません。

    ヤン.ブリューゲル(父)(Jan Brueghel the Elder:1568-1625)の1598年の作品「ゴルゴタの丘への道」です。 ピーテル.ブリューゲル(父)の次男ヤンは静物画、特に花の絵を得意として「花のブリューゲル」と通称されています。父ブリューゲルが没した時、長男のピーテル.ブリューゲル(子)は5歳、次男のヤン.ブリューゲル(父)は1歳であって、両名は父から直接絵画の手ほどきを受けたわけではありません。

  • 画面の左側を拡大しました。聖母マリアを中心に女性達が集まっています。

    画面の左側を拡大しました。聖母マリアを中心に女性達が集まっています。

  • これはピーテル.ブリューゲル(父)(Pieter Brueghel the Elder:1525/30-1569)の1564年の作品の「十字架を担うキリスト」です。2013年秋の旅でウィーンの美術史美術館で撮影しました。聖母マリアは画面の右下隅に描かれています。

    これはピーテル.ブリューゲル(父)(Pieter Brueghel the Elder:1525/30-1569)の1564年の作品の「十字架を担うキリスト」です。2013年秋の旅でウィーンの美術史美術館で撮影しました。聖母マリアは画面の右下隅に描かれています。

  • こちらはピーテル.ブリューゲル(子)(Pieter Brueghel the Younger:1564-1637/38) の1617年の作品です。長男のピーテル.ブリューゲルは、地獄の絵を多く描いたという事で「地獄のブリューゲル」と通称される画家で、父の模作を多く製作しています。2013年秋の旅でブタペストの西洋美術館で撮影しました。

    こちらはピーテル.ブリューゲル(子)(Pieter Brueghel the Younger:1564-1637/38) の1617年の作品です。長男のピーテル.ブリューゲルは、地獄の絵を多く描いたという事で「地獄のブリューゲル」と通称される画家で、父の模作を多く製作しています。2013年秋の旅でブタペストの西洋美術館で撮影しました。

  • これはピーテル.ブリューゲル(子)(Pieter Brueghel d. J.:1564-1637)の1630年頃の作品「農民の婚宴」です。

    これはピーテル.ブリューゲル(子)(Pieter Brueghel d. J.:1564-1637)の1630年頃の作品「農民の婚宴」です。

  • ドイツの画家ハンス・ロッテンハンマー(Hans Rottenhammer d.A.:1564-1625)の1595/96年の作品「羊飼いたちの礼拝」です。この写真は、イタリアのマニエリスムであるパルミジャニーノの作品に基づいており、聖ルカの福音書 2:19 におけるメシアの誕生についての羊飼いの宣言を示しています。福音書は「しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」と書いています。パルミジャニーノの作品は、下記のイギリスのロイヤル.アカデミーのウェブ.サイトで見る事がdきます。<br />https://www.royalacademy.org.uk/art-artists/work-of-art/adoration-of-the-shepherds

    ドイツの画家ハンス・ロッテンハンマー(Hans Rottenhammer d.A.:1564-1625)の1595/96年の作品「羊飼いたちの礼拝」です。この写真は、イタリアのマニエリスムであるパルミジャニーノの作品に基づいており、聖ルカの福音書 2:19 におけるメシアの誕生についての羊飼いの宣言を示しています。福音書は「しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」と書いています。パルミジャニーノの作品は、下記のイギリスのロイヤル.アカデミーのウェブ.サイトで見る事がdきます。
    https://www.royalacademy.org.uk/art-artists/work-of-art/adoration-of-the-shepherds

  • 2時間半ほどアルテピナコテクで絵画の鑑賞後、美術館近くでいつも入るレストランの&quot;Brasserie Tresznjewski&quot;で昼食を摂りました。

    2時間半ほどアルテピナコテクで絵画の鑑賞後、美術館近くでいつも入るレストランの"Brasserie Tresznjewski"で昼食を摂りました。

  • 次の宿泊地のハイデルベルクに出発するのに少し時間の余裕があったので、旧市街の中心地の市庁舎前のマリエン広場やレジデンツ前のマックス.ヨーゼフ広場を散策します。市電でカールス.プラッツまで戻り、このカールス門をくぐりノイハウザー通りを東に歩いてマリエン広場に向かいます。1960年代頃までこのカールス門をくぐりノイハウザー通り、マリエン広場、旧市庁舎のトンネルを通って市電が走っていました。

    次の宿泊地のハイデルベルクに出発するのに少し時間の余裕があったので、旧市街の中心地の市庁舎前のマリエン広場やレジデンツ前のマックス.ヨーゼフ広場を散策します。市電でカールス.プラッツまで戻り、このカールス門をくぐりノイハウザー通りを東に歩いてマリエン広場に向かいます。1960年代頃までこのカールス門をくぐりノイハウザー通り、マリエン広場、旧市庁舎のトンネルを通って市電が走っていました。

  • カールス門前から後ろに振り返ります。右手に裁判所の歴史的建物、中央は化学工業を営むグローバル企業のデグサ.ヒュルス社のビル、その左奥にホテル、複合商業ビルです。

    カールス門前から後ろに振り返ります。右手に裁判所の歴史的建物、中央は化学工業を営むグローバル企業のデグサ.ヒュルス社のビル、その左奥にホテル、複合商業ビルです。

  • カールス門をくぐって直ぐ左手の百貨店のカールシュタットのスポーツ商品店の角にこの「修道院の小僧の噴水」があります。彫像の土台に&quot;1895年製作&quot;の表記があります。

    カールス門をくぐって直ぐ左手の百貨店のカールシュタットのスポーツ商品店の角にこの「修道院の小僧の噴水」があります。彫像の土台に"1895年製作"の表記があります。

  • マリエン広場にやってきました。広場の北側にある市庁舎が右側に見えます。中央左寄り遠くに聖母教会の双子の鐘楼も見えています。市庁舎は、1909年に完成したネオゴシック様式の建物です。建物正面で少し中央から左に寄った塔には、ドイツ最大の仕掛け時計グロッケンシュピールが設置してあります。この建物の空爆の被害は不思議にも小さな規模に収まりました。

    マリエン広場にやってきました。広場の北側にある市庁舎が右側に見えます。中央左寄り遠くに聖母教会の双子の鐘楼も見えています。市庁舎は、1909年に完成したネオゴシック様式の建物です。建物正面で少し中央から左に寄った塔には、ドイツ最大の仕掛け時計グロッケンシュピールが設置してあります。この建物の空爆の被害は不思議にも小さな規模に収まりました。

  • 市庁舎建物の東の角を左に曲がり北の方向に歩いて行くとマックス.ヨーゼフ広場に至ります。この広場の北側に写真の左側に見えるレジデンツ、東側で写真の正面にバイエルン国立歌劇場があります。

    市庁舎建物の東の角を左に曲がり北の方向に歩いて行くとマックス.ヨーゼフ広場に至ります。この広場の北側に写真の左側に見えるレジデンツ、東側で写真の正面にバイエルン国立歌劇場があります。

  • バイエルン国立歌劇場の南側の通りはマキシミリアン通りで、前日訪れたマクシミリアネウム前まで繋がっています。

    バイエルン国立歌劇場の南側の通りはマキシミリアン通りで、前日訪れたマクシミリアネウム前まで繋がっています。

  • こちらはレジデンツの正面です。今回は街の散策だけで、どこの名所にも入っていません。<br />それで付録として、ミュンヘンを過去に訪れた際に写した写真を紹介します。

    こちらはレジデンツの正面です。今回は街の散策だけで、どこの名所にも入っていません。
    それで付録として、ミュンヘンを過去に訪れた際に写した写真を紹介します。

  • まず2010年春の旅行の記録です。<br />宿泊していた中央駅横のインターシティ.ホテルから東へカールス広場、ここを南にリンクを通ってゼントリンガー門まで市電を乗り換えて到着しました。これから旧市街中心のマリエン広場に向かいます。ここはゼントリンガー門の前です。

    まず2010年春の旅行の記録です。
    宿泊していた中央駅横のインターシティ.ホテルから東へカールス広場、ここを南にリンクを通ってゼントリンガー門まで市電を乗り換えて到着しました。これから旧市街中心のマリエン広場に向かいます。ここはゼントリンガー門の前です。

  • ゼントリンガー門をくぐり後ろを振り返ります。この門は、城郭都市時代に城壁の門として機能した門で現在も残る三つの門の一つです。他の二つは、イザール門とカールス門です。

    ゼントリンガー門をくぐり後ろを振り返ります。この門は、城郭都市時代に城壁の門として機能した門で現在も残る三つの門の一つです。他の二つは、イザール門とカールス門です。

  • 門から続くゼントリンガー通りです。今から訪れるアザム教会は通りの左側の建物群の中に完全に嵌まり込まれています。少し前面が道路に出っ張っているバロック様式の豪華なファサードから何とか教会であると判断する事ができます。ファサードも西側ではなく南東に向いています。

    門から続くゼントリンガー通りです。今から訪れるアザム教会は通りの左側の建物群の中に完全に嵌まり込まれています。少し前面が道路に出っ張っているバロック様式の豪華なファサードから何とか教会であると判断する事ができます。ファサードも西側ではなく南東に向いています。

  • アザム教会に入りました。この教会は、アザム兄弟により私的な礼拝堂として1746年に完成しました。しかし批判を受けて公共の教会に変更し、特に7つの告解室を設置し若者向けの告白教会にしました。そのため、このアザム教会の正式名は、聖ヨハネ.ネポームク教会になりました。建物は南ドイツの後期バロック様式で建てられました。アザム兄弟の兄コスマス.ダミアン.アザム(Cosmas Damian Asam:1686-1739)は画家で建築家、弟エギド.クィリン.アザム(Egid Quirin Asam:1692-1750)は左官と彫刻家でした。天井画は兄が描いています。<br />入り口を入って内陣を望んでいます。

    アザム教会に入りました。この教会は、アザム兄弟により私的な礼拝堂として1746年に完成しました。しかし批判を受けて公共の教会に変更し、特に7つの告解室を設置し若者向けの告白教会にしました。そのため、このアザム教会の正式名は、聖ヨハネ.ネポームク教会になりました。建物は南ドイツの後期バロック様式で建てられました。アザム兄弟の兄コスマス.ダミアン.アザム(Cosmas Damian Asam:1686-1739)は画家で建築家、弟エギド.クィリン.アザム(Egid Quirin Asam:1692-1750)は左官と彫刻家でした。天井画は兄が描いています。
    入り口を入って内陣を望んでいます。

  • 教会は幅8m、奥行き22mの小さい建物です。丁度、子供達のために説教が行われていたので教会内をウロウロして写真を撮るのは止めました。

    教会は幅8m、奥行き22mの小さい建物です。丁度、子供達のために説教が行われていたので教会内をウロウロして写真を撮るのは止めました。

  • 内陣の最上部には三位一体の祭壇が飾られています。この祭壇を囲む4本の捻り柱は、ローマのサン.ピエトロ大聖堂内で聖ペトロの墓の天蓋を支える、彫刻家ベルニーニが製作した柱を参考にしているそうです。

    内陣の最上部には三位一体の祭壇が飾られています。この祭壇を囲む4本の捻り柱は、ローマのサン.ピエトロ大聖堂内で聖ペトロの墓の天蓋を支える、彫刻家ベルニーニが製作した柱を参考にしているそうです。

  • 入り口近くの柱に掲げられた碑文に添えられた骸骨の彫刻です。

    入り口近くの柱に掲げられた碑文に添えられた骸骨の彫刻です。

  • アザム教会を出てゼントリンガー通りを北東の方向に歩いて行きマリエン広場の東端に達しました。市庁舎の時計塔を見上げています。仕掛け時計が動くのは11時という事で今回はパスしました。

    アザム教会を出てゼントリンガー通りを北東の方向に歩いて行きマリエン広場の東端に達しました。市庁舎の時計塔を見上げています。仕掛け時計が動くのは11時という事で今回はパスしました。

  • マリエン広場の東方向に旧市庁舎と付属するタルブルク塔、その右奥に精霊教会が僅かに見えています。タルブルク塔も含め旧市庁舎の建物は空爆で外壁を残して全壊し、タルブルク塔は残骸が倒壊しそうだったので戦中に爆破されました。戦後タルブルク塔は1974年に新たに建設されていますが、その外観は戦前の外観とかなり異なっています。旧市庁舎は、残っていた外壁を使って再建されています。戦前には尖塔と旧市庁舎の1階に市電や自動車が通るトンネルが造られていました。旧市庁舎のもう一つのトンネルは歩行者用だったそうです。

    マリエン広場の東方向に旧市庁舎と付属するタルブルク塔、その右奥に精霊教会が僅かに見えています。タルブルク塔も含め旧市庁舎の建物は空爆で外壁を残して全壊し、タルブルク塔は残骸が倒壊しそうだったので戦中に爆破されました。戦後タルブルク塔は1974年に新たに建設されていますが、その外観は戦前の外観とかなり異なっています。旧市庁舎は、残っていた外壁を使って再建されています。戦前には尖塔と旧市庁舎の1階に市電や自動車が通るトンネルが造られていました。旧市庁舎のもう一つのトンネルは歩行者用だったそうです。

  • マリエン広場の東側にある1861年に開店した百貨店ルートヴィヒ.ベックの本店です。壁面の絵の装飾が目を引きました。戦前の建物は空爆で全壊し、新たな建物の外壁の幾何学的な形はルネッサンスの要素に基づいており、エレガントな顧客に布のベールを提示する商人も描かれています。

    マリエン広場の東側にある1861年に開店した百貨店ルートヴィヒ.ベックの本店です。壁面の絵の装飾が目を引きました。戦前の建物は空爆で全壊し、新たな建物の外壁の幾何学的な形はルネッサンスの要素に基づいており、エレガントな顧客に布のベールを提示する商人も描かれています。

  • マリエン広場の南東にあるペーター教会に入りました。ミュンヘンで最も古い教会と言われていています。この教会も空爆を受け大きく損傷していますが、ほぼ完璧に復元されているようです。教会は左右の側廊の中央に身廊を配置し、小さな翼廊を持っています。

    マリエン広場の南東にあるペーター教会に入りました。ミュンヘンで最も古い教会と言われていています。この教会も空爆を受け大きく損傷していますが、ほぼ完璧に復元されているようです。教会は左右の側廊の中央に身廊を配置し、小さな翼廊を持っています。

  • 復元作業の最後になった、2000年に完成した天井のフレスコ画です。

    復元作業の最後になった、2000年に完成した天井のフレスコ画です。

  • 右側の側廊です。側廊の天井のフレスコ画は、まだ復元されていません。

    右側の側廊です。側廊の天井のフレスコ画は、まだ復元されていません。

  • 左側の側廊です。

    左側の側廊です。

  • マリエン広場から歩行者専用のノイハウザー通りをカールス広場に向かう右側にあるフラウエン教会に入ります。聖母大聖堂とも呼ばれていて、後期ゴシック様式で建設され1494年に奉献された長さ109 m、幅40 mの大きな建物です。身廊の左右に側廊がありますが、翼廊はありません。双子の鐘楼を持ち、北の塔の高さは98.57m、南の塔の高さは98.45mだそうです。教会に入ると、左右に八角形の装飾が無い柱が11本立っていて側廊との境界になっています。

    マリエン広場から歩行者専用のノイハウザー通りをカールス広場に向かう右側にあるフラウエン教会に入ります。聖母大聖堂とも呼ばれていて、後期ゴシック様式で建設され1494年に奉献された長さ109 m、幅40 mの大きな建物です。身廊の左右に側廊がありますが、翼廊はありません。双子の鐘楼を持ち、北の塔の高さは98.57m、南の塔の高さは98.45mだそうです。教会に入ると、左右に八角形の装飾が無い柱が11本立っていて側廊との境界になっています。

  • 右側廊にある&quot;聖母の犠牲の礼拝所&quot;です。三連祭壇画は、ミュンヘン大聖堂の磔刑のマスターと呼ばれる不明の画家の作品です。窓のステンドグラスも一見の価値がありました。

    右側廊にある"聖母の犠牲の礼拝所"です。三連祭壇画は、ミュンヘン大聖堂の磔刑のマスターと呼ばれる不明の画家の作品です。窓のステンドグラスも一見の価値がありました。

  • フラウエン教会の壁面には、縦長でステンドグラスで飾られた窓が、左右側廊にある多数の礼拝所に付いています。

    フラウエン教会の壁面には、縦長でステンドグラスで飾られた窓が、左右側廊にある多数の礼拝所に付いています。

  • 側廊に掲げられていた墓碑の一つです。ドイツの聖職者、翻訳者、そして精神的な著作の著者であったフィリップ.ドベライナー(1535-1577)の墓碑です。

    側廊に掲げられていた墓碑の一つです。ドイツの聖職者、翻訳者、そして精神的な著作の著者であったフィリップ.ドベライナー(1535-1577)の墓碑です。

  • ノイハウザー通りを更に進むと聖ミカエル教会が同じ側にあります。この教会は、1597年にイエズス会の教会として奉献されました。アルプスの北にある最大のルネッサンス様式の教会です。

    ノイハウザー通りを更に進むと聖ミカエル教会が同じ側にあります。この教会は、1597年にイエズス会の教会として奉献されました。アルプスの北にある最大のルネッサンス様式の教会です。

  • 聖顔布を捧げる天使の像を見つけました。聖顔布は、キリストが十字架を背負いゴルゴダの丘に向かう途中、ヴェロニカという女性がキリスト の顔を流れる血と汗を布で拭った際、その顔が奇跡的に刻印されたという起源をもつ布です。

    聖顔布を捧げる天使の像を見つけました。聖顔布は、キリストが十字架を背負いゴルゴダの丘に向かう途中、ヴェロニカという女性がキリスト の顔を流れる血と汗を布で拭った際、その顔が奇跡的に刻印されたという起源をもつ布です。

  • ファサードの裏側にあるパイプ.オルガンです。

    ファサードの裏側にあるパイプ.オルガンです。

  • ノイハウザー通りに面したファサードです。この教会のウェブサイト https://www.st-michael-muenchen.de からの借画です。

    ノイハウザー通りに面したファサードです。この教会のウェブサイト https://www.st-michael-muenchen.de からの借画です。

  • 百貨店の&quot;オーベルポリンガー&quot;Oberpollinger&quot;のノイハウザー通りに面したファサードの3連の切妻屋根です。この百貨店は、ベルリンにあるカー.デー.ヴェー(KDW)系列でドイツ南部で最大の売り場面積を誇っています。建物は1905年にネオルネッサンス様式の歴史主義のスタイルで建てられています。切妻の屋根の二つに帆船の飾りが見えます。

    百貨店の"オーベルポリンガー"Oberpollinger"のノイハウザー通りに面したファサードの3連の切妻屋根です。この百貨店は、ベルリンにあるカー.デー.ヴェー(KDW)系列でドイツ南部で最大の売り場面積を誇っています。建物は1905年にネオルネッサンス様式の歴史主義のスタイルで建てられています。切妻の屋根の二つに帆船の飾りが見えます。

  • 2010年春の旅では、この後アルテピナコテク美術館を訪れ、再度マックス.ヨーゼフ広場に戻っています。広場の東側にあるバイエルン国立歌劇場のファサードです。現在の建物は、1925年に2番目の国立劇場として完成したものです。柱廊玄関と三角形のペディメントにネオグレックの特徴を取り入れ、コリント式の柱で支えられた入り口を備えています。1943年の空爆で建物は壁面を残して全壊し、ファサード前面でコリント式の柱で支えられたペディメントは崩れ落ち失われています。

    2010年春の旅では、この後アルテピナコテク美術館を訪れ、再度マックス.ヨーゼフ広場に戻っています。広場の東側にあるバイエルン国立歌劇場のファサードです。現在の建物は、1925年に2番目の国立劇場として完成したものです。柱廊玄関と三角形のペディメントにネオグレックの特徴を取り入れ、コリント式の柱で支えられた入り口を備えています。1943年の空爆で建物は壁面を残して全壊し、ファサード前面でコリント式の柱で支えられたペディメントは崩れ落ち失われています。

  • ミュンヘン.レジデンツに入りました。ここはヨーロッパの有力なバイエルン王国ヴィッテルスバッハ王家の王宮でした。1385年シュテファン3世によって建設が開始され、その後ヴィッテルスバッハ家の宮殿として増改築を繰り返して現在の姿となりました。第2次大戦では大規模な空爆を受け、宮殿の殆どの屋根と天井が破壊され宮殿内部が大きく損傷しています。<br />ここは、古代の彫刻が飾られたアンティクヴァリウムです。アルブレヒト5世(1550-1579)の骨董品コレクションのために1568年から1571年の間に建てられました。&quot;古典作品ホール&quot;と訳されるアンティクヴァリウムは、アルプスの北にある最大のルネッサンス.ホールです。その後1586年から1600年に祝典や宴会の大広間に改造されています。この写真は、北西の方向から南東の方向を望んでいます。ホールの左側は泉の中庭です。

    ミュンヘン.レジデンツに入りました。ここはヨーロッパの有力なバイエルン王国ヴィッテルスバッハ王家の王宮でした。1385年シュテファン3世によって建設が開始され、その後ヴィッテルスバッハ家の宮殿として増改築を繰り返して現在の姿となりました。第2次大戦では大規模な空爆を受け、宮殿の殆どの屋根と天井が破壊され宮殿内部が大きく損傷しています。
    ここは、古代の彫刻が飾られたアンティクヴァリウムです。アルブレヒト5世(1550-1579)の骨董品コレクションのために1568年から1571年の間に建てられました。"古典作品ホール"と訳されるアンティクヴァリウムは、アルプスの北にある最大のルネッサンス.ホールです。その後1586年から1600年に祝典や宴会の大広間に改造されています。この写真は、北西の方向から南東の方向を望んでいます。ホールの左側は泉の中庭です。

  • ホールの左側を拡大しました。多数の彫刻が陳列してありますが、殆どは胸像です。祝典や宴会の大広間に改造された際に、ヴォールト天井や柱にグロテスク様式の装飾が施されました。美術において「グロテスク」は、花飾りと小さく幻想的な人間や動物とを織り交ぜたアラベスクの装飾的な配置であり、通常はある種の建築構造の周辺に対称的なパターンとして配置されます。

    ホールの左側を拡大しました。多数の彫刻が陳列してありますが、殆どは胸像です。祝典や宴会の大広間に改造された際に、ヴォールト天井や柱にグロテスク様式の装飾が施されました。美術において「グロテスク」は、花飾りと小さく幻想的な人間や動物とを織り交ぜたアラベスクの装飾的な配置であり、通常はある種の建築構造の周辺に対称的なパターンとして配置されます。

  • こちらはホールの右側を拡大した写真です。このホールは2階建ての1階ですが、2階にあった図書館は床も空爆で大きく損傷し、このホールの屋根も部分的に抜け落ちていました。

    こちらはホールの右側を拡大した写真です。このホールは2階建ての1階ですが、2階にあった図書館は床も空爆で大きく損傷し、このホールの屋根も部分的に抜け落ちていました。

  • ホールを歩いて来て、南東の方向から北西の方向を望んでいます。ホールの右側が泉の中庭です。

    ホールを歩いて来て、南東の方向から北西の方向を望んでいます。ホールの右側が泉の中庭です。

  • 見覚えがある城だと思ったら、去年の2009年秋に行った北部イタリアの都市トレントのグオンコンシリオ城を描いた絵でした。

    見覚えがある城だと思ったら、去年の2009年秋に行った北部イタリアの都市トレントのグオンコンシリオ城を描いた絵でした。

  • その時撮影したブオンコンシリオ城です。

    その時撮影したブオンコンシリオ城です。

  • ここは2階に上がって写した皇帝の階段ホールです。マクシミリアン1世の治世下に建設された初期バロック様式の宮殿の代表的な部屋へは、1616年頃に完成した宮殿の北翼にある豪華な内装の大階段から入ります。その華麗さは、ヴィッテルスバッハ家の輝かしい祖先を称えています。空襲後の写真を見ると、天井はほぼ完全に抜け落ちていますが、ここに見える彫像や赤大理石の柱はほぼ無傷で残っています。

    ここは2階に上がって写した皇帝の階段ホールです。マクシミリアン1世の治世下に建設された初期バロック様式の宮殿の代表的な部屋へは、1616年頃に完成した宮殿の北翼にある豪華な内装の大階段から入ります。その華麗さは、ヴィッテルスバッハ家の輝かしい祖先を称えています。空襲後の写真を見ると、天井はほぼ完全に抜け落ちていますが、ここに見える彫像や赤大理石の柱はほぼ無傷で残っています。

  • 同じ皇帝の階段ホールで、階段からホールに移動して写しています。

    同じ皇帝の階段ホールで、階段からホールに移動して写しています。

  • ここは皇帝の大広間です。当時の宮殿内で最大かつ最も重要な祝典の部屋であり、最高の儀式用の場所です。

    ここは皇帝の大広間です。当時の宮殿内で最大かつ最も重要な祝典の部屋であり、最高の儀式用の場所です。

  • 皇帝の大広間で窓と反対側の壁面を拡大しました。オランダの職人が製作した大きなタペストリーが掛かっています。

    皇帝の大広間で窓と反対側の壁面を拡大しました。オランダの職人が製作した大きなタペストリーが掛かっています。

  • ここは1607年に奉献されたライヘ礼拝堂で、マクシミリアン1世とその妻の私的な祈りの場でした。その高い格式を維持するために、礼拝堂は色付きの大理石と金色のレリーフで特に美しく装飾されていました。壁は大理石を模したパネル、芸術的なシーンや花の装飾を示す鮮やかな色のスタッコ大理石の象眼細工で覆われ、光沢のある磨かれた表面のおかげで本物の大理石のように見えます。

    ここは1607年に奉献されたライヘ礼拝堂で、マクシミリアン1世とその妻の私的な祈りの場でした。その高い格式を維持するために、礼拝堂は色付きの大理石と金色のレリーフで特に美しく装飾されていました。壁は大理石を模したパネル、芸術的なシーンや花の装飾を示す鮮やかな色のスタッコ大理石の象眼細工で覆われ、光沢のある磨かれた表面のおかげで本物の大理石のように見えます。

  • ライヘ礼拝堂の右側の壁面です。&quot;ライヘ&quot;とはドイツ語で&quot;豊潤&quot;という意味だそうです。

    ライヘ礼拝堂の右側の壁面です。"ライヘ"とはドイツ語で"豊潤"という意味だそうです。

  • 金色の装飾が豪華なライヘ礼拝堂の天井です。

    金色の装飾が豪華なライヘ礼拝堂の天井です。

  • 宮殿の1階にある1730年に完成した先祖伝来のギャラリーです。このギャラリーは、皇帝カール.アルブレヒトが建設を指示し、ヴィッテルスバッハ家から最後のババリア王ルートヴィヒ3世までの100人以上の肖像画が収められています。

    宮殿の1階にある1730年に完成した先祖伝来のギャラリーです。このギャラリーは、皇帝カール.アルブレヒトが建設を指示し、ヴィッテルスバッハ家から最後のババリア王ルートヴィヒ3世までの100人以上の肖像画が収められています。

  • レジデンツの見学を終えてホテルに戻って行きます。ここは夕方のマリエン広場です。左手に市庁舎の建物が写っています。

    レジデンツの見学を終えてホテルに戻って行きます。ここは夕方のマリエン広場です。左手に市庁舎の建物が写っています。

  • 2017年の旅に戻ります。午後3時になり次の宿泊地のハイデルベルクにECで向かいます。ホテルで預けていたスーツケースを受け取りミュンヘン中央駅に来ました。少し時間があったので駅のプラットホームを散策しました。たまたまオーストリア鉄道の国際列車レール.ジェットが停車していました。これからウィーンに戻るのでしょう。このレールジェットには2013年秋の旅でウィーンからブタペストまで乗車した懐かしい列車です。電気機関車が使われている最近の列車は、プッシュ.プル方式と言って客車を牽引するだけでなく、客車を後ろから押すようになっています。そのため連結された客車の最後尾が運転室付きの列車制御客車になっていて、こちらが先頭、機関車が最後尾で走る事もできます。ヨーロッパに多い、終端駅(テルミニ)で列車の進行方向が変わる際に機関車の前後の付け替えが不要になります。

    2017年の旅に戻ります。午後3時になり次の宿泊地のハイデルベルクにECで向かいます。ホテルで預けていたスーツケースを受け取りミュンヘン中央駅に来ました。少し時間があったので駅のプラットホームを散策しました。たまたまオーストリア鉄道の国際列車レール.ジェットが停車していました。これからウィーンに戻るのでしょう。このレールジェットには2013年秋の旅でウィーンからブタペストまで乗車した懐かしい列車です。電気機関車が使われている最近の列車は、プッシュ.プル方式と言って客車を牽引するだけでなく、客車を後ろから押すようになっています。そのため連結された客車の最後尾が運転室付きの列車制御客車になっていて、こちらが先頭、機関車が最後尾で走る事もできます。ヨーロッパに多い、終端駅(テルミニ)で列車の進行方向が変わる際に機関車の前後の付け替えが不要になります。

  • これと同じ型の客車に乗車したのですが、扉を挟んで右側の客室と左側のビュッフェが一体となった合造車です。

    これと同じ型の客車に乗車したのですが、扉を挟んで右側の客室と左側のビュッフェが一体となった合造車です。

  • ミュンヘン中央駅の地上メイン.ホールには11番から26番まで16線のプラットホームが並んでいます。この列車は、ドイツ鉄道の高速列車ICEの第3世代車両として2000年に営業運転を開始したICE 3系高速鉄道車両です。日本の新幹線と同じ動力分散方式を採用しています。いわゆる電車方式の列車です。

    ミュンヘン中央駅の地上メイン.ホールには11番から26番まで16線のプラットホームが並んでいます。この列車は、ドイツ鉄道の高速列車ICEの第3世代車両として2000年に営業運転を開始したICE 3系高速鉄道車両です。日本の新幹線と同じ動力分散方式を採用しています。いわゆる電車方式の列車です。

  • この写真で右側の列車は、ドイツ鉄道の車体傾斜式のICE T系高速電車です。ICE 3と同様の動力分散方式を採用しています。車体傾斜機構はイタリアのペンドリーノと同じフィアット社の技術を用いています。この車両と良く似た外観でディーゼル機関を用いた高速列車ICE TD系があります。ICE TD系列の車両も車体傾斜機構を採用しています。

    この写真で右側の列車は、ドイツ鉄道の車体傾斜式のICE T系高速電車です。ICE 3と同様の動力分散方式を採用しています。車体傾斜機構はイタリアのペンドリーノと同じフィアット社の技術を用いています。この車両と良く似た外観でディーゼル機関を用いた高速列車ICE TD系があります。ICE TD系列の車両も車体傾斜機構を採用しています。

  • 前掲の写真の左側の車両を拡大しました。この車両が運転室付きの列車制御客車です。主にIC(インター.シティ)やEC(ユーロ.シティ)に使われている列車です。一度走ると前面の窓ガラスには虫などが付着するので水で掻き落としています。<br />午後3時47分発のECに乗車しハイデルベルクに移動します。

    前掲の写真の左側の車両を拡大しました。この車両が運転室付きの列車制御客車です。主にIC(インター.シティ)やEC(ユーロ.シティ)に使われている列車です。一度走ると前面の窓ガラスには虫などが付着するので水で掻き落としています。
    午後3時47分発のECに乗車しハイデルベルクに移動します。

  • 午後6時44分にハイデルベルク中央駅に到着し、駅横のホテル.イビスにチェック.インしました。シングルの部屋です。ビジネス.ホテルに等しい部屋です。窓側から入り口扉方向を写しています。

    午後6時44分にハイデルベルク中央駅に到着し、駅横のホテル.イビスにチェック.インしました。シングルの部屋です。ビジネス.ホテルに等しい部屋です。窓側から入り口扉方向を写しています。

  • ベッドの隅から窓側を望んでいます。窓の横に小さな作り付けの机が見えます。

    ベッドの隅から窓側を望んでいます。窓の横に小さな作り付けの机が見えます。

  • バスルームです。バスタブは無く、シャワーのみです。

    バスルームです。バスタブは無く、シャワーのみです。

  • 少しイデルベルク中央駅前を散策しました。

    少しイデルベルク中央駅前を散策しました。

  • 今回の2017年春の旅では、ハイデルベルク訪問は単に駅前に宿泊するだけなので、市内の観光はしていません。それで2000年春に訪れた際に撮影した街の様子を紹介します。<br />上掲の写真で高層ビルの前にあるキリンを模したような巨大な造形物で、「3本足の馬」だそうです。

    今回の2017年春の旅では、ハイデルベルク訪問は単に駅前に宿泊するだけなので、市内の観光はしていません。それで2000年春に訪れた際に撮影した街の様子を紹介します。
    上掲の写真で高層ビルの前にあるキリンを模したような巨大な造形物で、「3本足の馬」だそうです。

  • ネッカー川に沿ってハイデルベルク旧市街の東端まで歩いてみました。Sバーンで中央駅から2番目のハイデルベルク.アルトシュタット駅近くです。この建物は現在カルチャー.ハウスの&quot;カールストルバーンホフ&quot;で、旧駅舎の建物を使っています。

    ネッカー川に沿ってハイデルベルク旧市街の東端まで歩いてみました。Sバーンで中央駅から2番目のハイデルベルク.アルトシュタット駅近くです。この建物は現在カルチャー.ハウスの"カールストルバーンホフ"で、旧駅舎の建物を使っています。

  • ネッカー川対岸の街並みです。ネッカー川はここから西北に流れマンハイムでライン川に合流します。この川には多くの船が通行しています。

    ネッカー川対岸の街並みです。ネッカー川はここから西北に流れマンハイムでライン川に合流します。この川には多くの船が通行しています。

  • 水位が変わる河川や運河、水路の間で船を上下させるための設備である&quot;閘門&quot;がこの近くにありました。この閘門で1艘のバージ、シュレジン号が船体を下げています。

    水位が変わる河川や運河、水路の間で船を上下させるための設備である"閘門"がこの近くにありました。この閘門で1艘のバージ、シュレジン号が船体を下げています。

  • ドイツ国旗を掲げたシュレジン号が閘門を出ました。船名のシュレジン(Schlesien)は、第2時大戦後にポーランドに併合された旧ドイツ帝国東南部の地域です。

    ドイツ国旗を掲げたシュレジン号が閘門を出ました。船名のシュレジン(Schlesien)は、第2時大戦後にポーランドに併合された旧ドイツ帝国東南部の地域です。

  • 砂を運んでいるバージがネッカー川下流から閘門に向かっています。

    砂を運んでいるバージがネッカー川下流から閘門に向かっています。

  • 閘門近くにあるカールス門からハウプト通りに入り西に向かいます。通りから南の丘にあるハイデルベルク城を見上げています。

    閘門近くにあるカールス門からハウプト通りに入り西に向かいます。通りから南の丘にあるハイデルベルク城を見上げています。

  • ハイデルベルク市庁舎の南にあるコルンマルクトの広場です。その広場の中央には、1718年に製作された、いわゆるコーンマルクトのマドンナと呼ばれる3つの噴水鉢があるマリアの像があります。南東の後方の丘にはハイデルベルク城が見えています。

    ハイデルベルク市庁舎の南にあるコルンマルクトの広場です。その広場の中央には、1718年に製作された、いわゆるコーンマルクトのマドンナと呼ばれる3つの噴水鉢があるマリアの像があります。南東の後方の丘にはハイデルベルク城が見えています。

  • マルクト広場から南の方角の丘の上に、慢性精神障害者のための施設公益法人聖トーマスの瀟洒な建物が見えています。

    マルクト広場から南の方角の丘の上に、慢性精神障害者のための施設公益法人聖トーマスの瀟洒な建物が見えています。

  • ハウプト通りを西の方向に歩き続け、市庁舎、精霊教会、大学博物館の前を通り過ぎ、テアター通りとの交差点の先からハウプト通りを振り返りました。中央左寄り遠くに精霊教会の鐘楼、右寄りに大学博物館隣りの建物の角にある出窓式の塔が見えています。

    ハウプト通りを西の方向に歩き続け、市庁舎、精霊教会、大学博物館の前を通り過ぎ、テアター通りとの交差点の先からハウプト通りを振り返りました。中央左寄り遠くに精霊教会の鐘楼、右寄りに大学博物館隣りの建物の角にある出窓式の塔が見えています。

  • ハウプト通りから再びネッカー川辺に出て西の方向からアルテ.ブリュッケ(古橋)を望みます。アーチ形の橋脚の間から遠くの閘門が見えています。閘門を通って来たバージがこちらに向かっています。

    ハウプト通りから再びネッカー川辺に出て西の方向からアルテ.ブリュッケ(古橋)を望みます。アーチ形の橋脚の間から遠くの閘門が見えています。閘門を通って来たバージがこちらに向かっています。

  • アルテ.ブリュッケの下流で一つ先にあるテオドール.ホイス橋を渡ってネッカー川の対岸から旧市街を望んでいます。画面の左端に精霊教会の鐘楼、左側遠くの丘にハイデルベルク城、中央右寄りに神聖な芸術と典礼の博物館の鐘楼が見えています。

    アルテ.ブリュッケの下流で一つ先にあるテオドール.ホイス橋を渡ってネッカー川の対岸から旧市街を望んでいます。画面の左端に精霊教会の鐘楼、左側遠くの丘にハイデルベルク城、中央右寄りに神聖な芸術と典礼の博物館の鐘楼が見えています。

  • この砂を運んでいるバージには船上で生活する家族がいるのか、ブランコが設置してあり、車も積んでいます。

    この砂を運んでいるバージには船上で生活する家族がいるのか、ブランコが設置してあり、車も積んでいます。

  • 実は1981年春にも家族でハイデルベルクを訪れています。ハイデルベルク城で写した写真3枚です。ハイデルベルク城は13世紀前半に建てられた推定されています。18世紀前半のハイデルベルクからマンハイムへの遷都の後、城は放置され廃墟と化しました。<br />これは、城郭の西側の城壁の展望台からネッカー川方向を望んだ背景の記念写真です。右隅の壊れた建造物はディッカー塔です。

    実は1981年春にも家族でハイデルベルクを訪れています。ハイデルベルク城で写した写真3枚です。ハイデルベルク城は13世紀前半に建てられた推定されています。18世紀前半のハイデルベルクからマンハイムへの遷都の後、城は放置され廃墟と化しました。
    これは、城郭の西側の城壁の展望台からネッカー川方向を望んだ背景の記念写真です。右隅の壊れた建造物はディッカー塔です。

  • 同じ場所から旧市街を見下ろしています。中央右寄りにネッカー川に架かるアルテ.ブリュッケ、その橋の袂のブリュッケナッフェ(ブリッジ.モンキー)の白い双子の塔、そして左側に精霊教会が見えています。

    同じ場所から旧市街を見下ろしています。中央右寄りにネッカー川に架かるアルテ.ブリュッケ、その橋の袂のブリュッケナッフェ(ブリッジ.モンキー)の白い双子の塔、そして左側に精霊教会が見えています。

  • これはプファルツ選帝侯オットー.ハインリヒにちなんで名付けられたオットハインリヒ館です。この宮殿は、ドイツの土地に初めて建設されたルネサンス建築であり、ドイツ.マニエリスムの重要な建築作品です。前面ファサードを残して宮殿は全壊しています。

    これはプファルツ選帝侯オットー.ハインリヒにちなんで名付けられたオットハインリヒ館です。この宮殿は、ドイツの土地に初めて建設されたルネサンス建築であり、ドイツ.マニエリスムの重要な建築作品です。前面ファサードを残して宮殿は全壊しています。

  • 当時は3歳と4歳の娘連れだったので、子供が楽しめる遊園地のメルヒェンパラディース.ハイデルベルクを訪れました。山の森の中に造られた遊園地です。コルンマルクト広場近くの乗り場から、ケーブルカーを1回乗り継いで海抜568mのケーニヒシュトゥールに登ります。1段目のケーブルカーの途中駅で降りればハイデルベルク城に行けます。これは遊園地の案内板です。

    当時は3歳と4歳の娘連れだったので、子供が楽しめる遊園地のメルヒェンパラディース.ハイデルベルクを訪れました。山の森の中に造られた遊園地です。コルンマルクト広場近くの乗り場から、ケーブルカーを1回乗り継いで海抜568mのケーニヒシュトゥールに登ります。1段目のケーブルカーの途中駅で降りればハイデルベルク城に行けます。これは遊園地の案内板です。

  • こちらはウェブサイトにある現在の遊園地の案内図です。当然の事ながら各種のアトラクションが刷新されているようです。

    こちらはウェブサイトにある現在の遊園地の案内図です。当然の事ながら各種のアトラクションが刷新されているようです。

  • 樹々に囲まれたエコな遊園地で、この芋虫のようなアトラクションは人力で動かしました。

    樹々に囲まれたエコな遊園地で、この芋虫のようなアトラクションは人力で動かしました。

  • こちらはコインを入れると電動で動きます。

    こちらはコインを入れると電動で動きます。

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