2017/04/02 - 2017/04/27
94位(同エリア300件中)
さわ子さん
2017年春、羽田から全日本空輸でババはロンドンへ、ジジはミュンヘンへ別々に出発し、3日後にフランクフルトで合流しポルトガル、スペイン、ドイツと周り、フランクフルトから羽田に帰国しました。
この第15回目の旅行記は4月14日の後半でマドリッドのティッセン.ボルネミッサ美術館を訪問し、聖金曜日の山車の行進を眺めた記録です。
全体の旅程の概略です。
★ 4月 2~3日 ミュンヘン泊
★ 4日 ハイデルベルク泊
★ 5日 フランクフルト泊
★ 6~10日 リスボン泊
★ 10~12泊 ポルト泊
★ 13~17日 マドリッド泊
★ 18~19日 コルドヴァ泊
★ 20~21日 セヴィリャ泊
★ 22~23日 バルセロナ伯
★ 24~26日 フランクフルト泊
★ 27日 フランクフルトから羽田へ
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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プエルタ.デル.ソルの近くにあるサン.フェルナンド王立芸術アカデミーを出て、今日最後の美術館訪問になるティッセン.ボルネミッサ美術館に向かいます。アルカラ通りで地下鉄セヴィーリャ駅の少し東にあるラスカラトラバス教会です。かつてのコンセプシオン.レアル修道院の中で、唯一生き残った建物だそうです。
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アルカラ通りから南へセダセロス通りを歩き、カレーラ.デ.サン.ヘロニモ通りに出ました。通りはプラド大通り近くになると少し広くなり、コルテス広場に名前を変えます。写真の左側で、ファサードに列柱が並び、2頭のライオン像が入り口を守る新古典主義様式建物は、パラシオ.デ.ラス.コルテス(裁判所の宮殿)と呼ばれ1850年に完成しました。現在スペインの下院議会になっています。ティッセン.ボルネミッサ美術館はこの建物の先、通りの角にあります。
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ティッセン.ボルネミッサ美術館の特別展のバーナーが見えてきました。ドイツの画家ルーカス.クラナッハが描いた洗礼者ヨハネの首を持つサロメが見えます。
この美術館の起源はドイツに生まれた実業家のハインリヒ.ティッセン.ボルネミッサ.デ.カスゾン男爵が1920年代から始めた美術品収集です。その後息子のハンス.ハインリヒが収集活動を引き継ぎました。収集作品は当初家族の邸宅があったスイスのルガーノにありましたが、元ミス.スペインとの結婚の後、マドリッドの18世紀の建物であるビジャエルモーサ宮殿に移され、現在の美術館として1992年に開館しました。 -
美術館の入り口は、コルテス広場を左に曲がった建物の北側を更に左に廻ります。正面の建物は新館で、美術館に隣接して庭園が写真の右側にあります。美術館の入り口は左側の本館にあります。
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午後2時40分にティッセン.ボルネミッサ美術館に入りました。予約時刻の20分前です。新館1階で開催されている特別展は、「ブダペストからやってきたルネッサンスからアバン.ギャルドまでの傑作美術作品」のタイトルです。どこの美術館もそうですが、特別展での写真撮影は不可なので写真はありません。2013年秋に、エステルハージ家のコレクションが基となっているブダペスト国立西洋美術館を訪れているので、特別展の出品作品には3年半ぶりの再会になりました。
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30分の特別展の鑑賞を終えてティッセン.ボルネミッサ美術館の所蔵作品の鑑賞を始めます。この美術館は、プラド美術館と異なり作品の写真撮影は可です。いつものように最上階の3階から鑑賞を始めます。
これはフランドルの風景画家で人生の後半をイギリスで暮らしたヤン.シベレヒト(Jan Siberechts:1627-1703頃)の1672年頃の作品「浅瀬」です。画面はフランドル地方です。2人の頑強な田舎の女性が登場します。1人は徒歩で小川を渡り、もう1人はロバに乗って、牛と羊の群れを追い立てています。服の色が強調され、小川のほとりにある緑豊かな植物の灰緑色に対比される光が人物に降り注ぎ人物を明確にしています。左側の背景には、牧草地で行われる狩猟の二次的なシーンが含まれています。 -
こちらは、オランダかフランドル出身の画家マティアス.ストーム(Matthias Stom:1600頃-1652以降)が1633/39年頃にナポリ滞在していた時の作品で新約聖書からの主題「エマオの晩餐」です。テーブルの中央にローソクを置き、二人の弟子を左に配してキリストが座っています。ストームは、弟子達がキリストと分かって驚き、手を伸ばして彼に触れようとする瞬間を描いています。この奇跡の証人は、キリストの後ろにいてお椀を持ち、関心を持って見つめている少女です。光と陰の効果を最大限に引き出した作品です。ストームの作品で、この主題の8枚のパネルが知られています。
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フランドルのバロック期の画家で外交官でもあったピーテル.パウル.ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577-1640)の1606/11年頃の作品「ヴィーナスとキューピッド」です。この作品は失われているティチアーノ作品の模作です。ルーベンスはマドリッドの宮廷が所有する全てのティチアーノの作品を模写したそうです。
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これはワシントンのナショナル.ギャラリーのウェブサイトからの借画で、ティチアーノの1555年頃の作品「鏡とヴィーナス」です。この絵画がルーベンスが模写した作品に最も近いと考えられています。ティチアーノはその工房も含め、この題材で多くの作品を残しているそうです。
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同じルーベンスの1609/10年の作品「目を潰されるサムソン」です。題材は旧約聖書のサムソンの生涯のエピソードです。ペリシテ人は、サムソンの怪力の秘密を見つけ出し、彼を捕らえるために、デリラにサムソンを誘惑させました。誘惑されたサムソンはデリラに秘密を打ち明けました。サムソンがデリラの膝で眠っている間に男達を呼び、怪力の元である髪の毛の7つの錠を切り落とさせました。力を奪われたサムソンは、ペリシテ人に捕らえられ、目を潰されてガザに連れて行かれました。画面では、中央のサムソン、その左のデリラ、そして4人のペリシテ人が描かれています。
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こちらも同じルーベンスの1622年頃の作品「ルシファーと反逆天使を追放する聖ミカエル」です。この主題は対抗宗教改革の時代に復活しました。17世紀に、大天使聖ミカエルを使ってプロテスタントに対するカトリック教会の勝利を象徴するために使用されました。ルシファーはサタン(悪魔)の別名です。
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フランドルの風景画家ヨース.デ.モンペル(Joos de Momper:1564-1635)の仲間の作品ではないかと言われている画家の作品で「川の側の村の風景」です。この画家は作品に"iDM"の署名を残し、”モノグラムiDMのマスター"と呼ばれています。ヨース.デ.モンペルは、ピーテル.ブリューゲル長老の影響を受けた画家として知られています。この作品では、川辺での人々の活動を高い視点から眺め、前景にアースカラーを配置し、風景には緑と青の色調を配置しました。これらの色調は、遠くに後退するにつれて白っぽい色彩になっています。
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バロック期のフランドル出身の画家アンソニー.ヴァン.ダイク(Anthony van Dyck:1599-1641)の1627年の作品「十字架のキリスト」です。ヴァン.ダイクは、ルーベンスに続く世代の画家で、幼い頃からヴェネツィアの絵画、特にティチアーノの作品を崇拝していました。このパネルはアントワープのアウグスティヌス修道院のために制作されました。他の人物を全く伴わない十字架に架けられたキリスト像です。同じような作品が彼の工房や仲間達の作品として存在しているそうです。
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冬のシーンや月明かり、夕暮れの風景のスペシャリストであるオランダ黄金時代の画家アールト.ファン.デル.ネール(Aert van der Neer:1603-1677)の1650/55年頃の作品「凍った川でスケーターがいる冬のシーン」です。前景の低い土手では、大きな釣り罠や籠の横で人々が座って見守り、社交や会話をしています。あちこちに人気のある娯楽であるコルフ(現代のホッケーとゴルフの前身)のゲームでボールに取り組むグループがいます。遠くでは、馬が引くそりが氷を横切って進みます。左側の狭い土手に沿って、葉のない木の暗い枝と、ある町の切妻と尖塔が氷のような空気に浮かび上がります。
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ヴェネツィアで活躍し、主に風俗画を描いたイタリアの画家ピエトロ.ロンギ(Pietro Longhi:1702-1785)の1755年頃の作品「くすぐり」です。ロンギはヴェネツィアでこの街の裕福な階級の人々の生活や習慣を小さな画面に描く事を始めました。ここに描かれる単純なシーンは、習慣、服装、マナーを通して社会を記録する歴史的役割を果たしています。「くすぐり」はロンギのスタイルの特徴を示しています。シーンは、絵画が飾られている、アーティストの他の作品に見られる緑のダマスク織の壁を備えた室内で行われます。家具や装飾品は、ソファと左側の窓を覆う濃い緑色のカーテンだけです。こちらを向いた少女が眠っている若い男の顔を羽でくすぐり、2人のメイドがそれを見守っています。
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フィレンツェで活躍し風景画に特化したイタリアの画家ジュゼッペ.ゾッキ(Giuseppe Zocchi:1716/17-1767)の1741年頃の作品「サンタ.トリニータ橋近くのアルノ川」です。画面の右側では、小道のデコヴェレッリ通りから川沿いのルンガルノ.グイッチャルディーニ通りに、大きな貴族の馬車が出て来て右に曲がろうとし、通行人を驚かしています。右端の建物は現在のフレスコバルディ宮殿で、現在もこの外観を維持しています。手前のサンタ.トリニータ橋の奥にはヴェッキオ橋が見え、画面の左側には今でも目にする建物が並んでいます。
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上掲の写真の右側を拡大しました。
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ローマで長らくキャリアを積んだオランダの画家ガスパール.ファン.ウィッテル(Gaspar van Wittel:1652/53-1736)の1699年の作品「ローマのナヴォーナ広場」です。ファン.ウィッテルは、17世紀後半から18世紀初頭にローマで働いていた北欧の画家の1人でした。ナヴォーナ広場のこの眺めは、教皇イノセント10世による広場の改造に関係する3つの建築プロジェクトを特に際立たせています。左側にはボロミーニの設計で再建されたパンフィーリ家の宮殿とアゴーネのサンタニェーゼ教会が見えます。構図の中央、教会に面してベルニーニ作の四大河の噴水があります。ファン.ウィッテルの絵画は、近代都市を良く描写しています。彼の都会の眺望は、知覚と遠近法の構築の原則を反映していました。
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同じガスパール.ファン.ウィッテルの1700/18年頃の作品「ダルセナ、ナポリ」です。パネルはナポリ港の軍事部門の区画を表しており、左側に王宮、右側にカステル.ヌオーヴォがあり、両建物はまだ存在するアーチで繋がっています。そして遠くの丘にサン.マルティーノ修道院とサン.テルモ城が見えます。絵画の中の軍港には、現在も軍事施設があります。ファン.ウィッテルは、このナポリの港をテーマがお気に入りで、19点の作品を制作したそうです。
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画面の中央を拡大しました。遠景の丘の上に重なるように建っているサン.マルティーノ修道院とサンテルモ城が認識できます。
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左側を拡大しました。大きな帆走軍艦はオランダの国旗を掲げています。左端と右奥には、数隻のガレー船(主として人力で櫂(かい、オール)を漕いで進む帆船)が見えます。
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更に右側の拡大写真です。係留中の帆船も軍艦のようですが、最上段のマストが取り払われていて、修理中なのでしょうか。
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ヴェドゥータ(都市景観画)を得意とし、ヴェネツィアで活躍したイタリア人の画家カナレット(Canaletto:1697-1768)の1765年頃の作品「宮殿の内部にある列柱」です。このパネルは、ペンダントと呼ばれる42 x 32.5 cmの小さなサイズです。この作品は、同じ頃描かれサイスが131 x 93 cmと3倍以上の大きさがあるヴェネツィアのアカデミア美術館の作品と非常に似ていています。
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こちらはヴェネツィアのアカデミア美術館にある同じ構図で1765年に制作された「ポルチコの透視図」との題名の絵画です。2018年冬の旅で撮影したものですが、パネルの下半分だけです。良く見ると細部に差異が見えます。人物の配置はほぼ同じですが、容姿や服装が異なっています。
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アカデミア美術館のウェブ.サイトから全景を借画しました。全体の構図は同じですが、建物の細部が異なっています。カナレットの描く建物は、必ずしも特定の建物を正しく描いてはいないそうです。この建物もヴェネツィアで美術館になっているカ.ドーロを参考にしていると考える人もいます。
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同じカナレットの1765年頃の作品「聖マルコ大信者会館」です。このパネルも42 x 32.5 cmの小さなサイズです。画面には、聖マルコ大信者会館の南に向いたファサードを中央で右寄りに置いています。そのファサード前の広場には、立っておしゃべりをしている人もいれば、右側の噴水の近くでバナーを掲げている人もいます。桟橋の近くには、ポールを持った人物、トランプで遊んでいる二人がいます。一方、リオ.デイ.メンディカンティ小運河を跨ぐカヴァッロ橋の上では別の人物がいます。
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2016年冬の旅で、ヴェネツィアのアッカデミア美術館で撮影したパネルです。カナレットの息子のベルナルド.ベッロット(Bernardo Bellotto:1722-1780)の1740年頃の作品「リオ.デイ.メンディカンティ小運河と聖マルコ大信者会館」です。
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これは2007年秋の旅で撮影した現在はサン.ジョヴァンニとサン.パオロ病院になっている聖マルコ大信者会館と側の小運河です。絵画のヴェネツィアの景色と現在の姿を比べるのは楽しいものです。
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これもカナレットの1723/24年の作品「サン.ヴィオから望んだカナル.グランデ」の、パネル右端の拡大写真です。リオ.デ.サン.ヴィオ小運河の東側河口にあるカンポ.サン.ヴィオに面するバルバリゴ宮殿の西側壁面が描かれています。女性が宮殿の窓から身を乗り出しています。宮殿の西側壁面には、現在は消えて無くなっているボートの絵と碑文が見えます。運河の右岸にある建物群の屋根越しにサンタ.マリア.デッラ.サルーテ聖堂のドームが見えます。
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同じ部分を少し横に拡大しました。カンポで寛いでいる様な人々、カンポへ荷降ろしする小舟、宮殿横にはワインの樽を積んだ船も繋がれています。運河の右岸にある建物群の最奥には、海関のプンタ.デラ.ドガーナの特異な形の塔も見えます。
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これはカナレットの作品のパネル全景を示す、ティッセン.ボルネミッサ美術館のウェブサイトからの借画です。大運河の左岸で目立つ大きな建物は、コルネル宮殿の様です。
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風俗画と景観画を主に描いたドイツの画家アウグスト.アントン.ティシュバイン(August Anton Tischbein:1805-1867)の1858年の作品で「トリエステ」です。アントン.ティシュバインは、芸術家の家に生まれてイタリアにも旅行し、1838年から当時オーストリアの支配下にあったトリエステに住み、そこで亡くなりました。この美しい絵画は、トリエステの街、その港と周辺のパノラマ.ビューを描いています。街は海からの景色に見えますが、実際には北西海岸の陸地からの視点なので、海岸の正面は完全ではありません。街の建物、港、停泊する船など詳細に描かれています。手前の海上では、左に帆走軍艦、右に一団の漁船が停泊しています。
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こちらの写真は、絵画の全景を示すティッセン.ボルネミッサ美術館のウェブサイトからの借画です。
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フランスの写実主義の画家ギュスターヴ.クールベ(Gustave Courbet
:1819-1877)の1867年の作品「漁民の子供」です。この絵画の特別な魅力は3つあります。干潮時の穏やかなビーチと非常に多様な曇り空、1人か2人の休息者がいる急な海岸を組み合わせ、最終的に2人の明らかに貧しい子供たちを前景に見せている事です。素足でぼろぼろの服を着た子供たちは施しを求めているようです。赤毛の少女は、尊敬の態度であるかのように片手を胸に上げています。画家がやりたかったのは、社会問題と風景画を組み合わせ、ブルジョアの注意を引くことでした。 -
フランスの印象派の画家で主にセーヌ河畔の風景などを描いたスタニスラス.レピーヌ(Stanislas Lépine:1835-1892)の1875/80年頃の作品「セーヌ川のセーヴル橋」です。レピーヌは、パリ中心部の西方でブローニュの森の南にあるセーヴル橋を5点ほど描いています。
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アメリカの西部開拓時代の画家チャールズ.マリオン.ラッセル(Charles Marion Russell:1864-1926)の1888年の作品「クロウ族から馬を盗む準備をしているピーガン族」です。開放的な草原と遠くの雪に覆われた山々は、モンタナ南東部のクロウ族保護区の風景を示唆しています。クロウ族はピーガン族にとって昔からの敵でした。パネルはもっと横長だったので、右側に描かれていた襲撃されるクロウ族のキャンプが切れてしまいました。
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イギリス生まれでアメリカに移住した画家ジョン.ジョージ.ブラウン(John George Brown:1831-1913)の1881年の作品「タフなお客様」です。イギリスで貧困の中に育ったブラウンは、「貧しい人々の子供達や孤児達」の画家として有名でした。ニューヨークのホームレスの男の子達が、ボタン.ホールに着ける花束を10セント程で売る少女を冷やかすように囲んでいます。彼女の身なりで、中指に着けている大きな金の指輪が目立ちます。このパネルは縦長ですが、中央部のみの切り取った写真になってしまいました。
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こちらはティッセン.ボルネミッサ美術館のウェブサイトからの借画です、作品の全体を示しています。
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こちらもイギリスに生まれ25歳の時アメリカに移住したサミュエル.S.
カー(Samuel S. Carr:1837-1908)の1879/81年頃の作品で「海浜の子供達」です。この絵は、20 x 25.5 cmサイズの小さな作品です。画家のカーは、主に浜辺の情景を多く描いています。このパネルでは、広いバンドの麦わら帽子をかぶった少年が、二人の少女が見守る中、潮溜まりで横転したおもちゃの帆船を救出しようとして、ズボンの裾を丸めました。ピンクのサッシュが付いた白いドレスを着た若い女の子は、砂の城を建てたり砂遊びをするためのシャベルを持っています。 -
アメリカ写実主義の旗手の一人として知られるウィンスロー.ホーマー(Winslow Homer:1836-1910)の1869年頃の作品「海浜のシーン」です。場面には付随的な詳細がほとんどなく、遠近法は平坦に見えます。おそらく最も印象的な要素は、濡れた砂の上での子供たちの反射を強調することであり、その活気は実際の人物とは対照的です。このパネルは描き直されているようで、画面の右側に横向きの脚が薄く残っています。
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これはティッセン.ボルネミッサ美術館のウェブサイトからの借画です。上掲の写真は、この縦長のパネルの上部を切り落として人物とその水に映った影を中心に拡大しています。
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海洋画や肖像画を多く描いたアメリカ人の画家トーマス.バーチ(Thomas Birch:1779-1851)の1838/40年頃の作品「フィラデルフィアの冬の景色」です。イギリスに生まれ15歳の時にアメリカに移住したバーチは、おそらく冬の景色を描いたアメリカで最初の画家です。彼の絵画は、北欧の風景画の伝統から生まれています。
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アメリカの風景画家ジョージ.ヘンリー.デュリー(George Henry Durrie:1820-1863)の1863年の作品「ニューイングランドの秋、果実酒造り」です。画面には、リンゴと干し草の山、大人しそうな家畜、独特の下見板張りの旅籠があり、南北戦争の初期の理想的な田舎の生活を呼び起こしましす。デュリーは、風景画の中でも冬景色を多く描いていましたが、30歳半ば頃から収穫シーンを描きました。この作品は、画家が亡くなる直前の作品で、地元のニューヘブン紙に「彼の最高の作品」として歓迎されたそうです。
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バロック最後期のイタリアの画家ジョヴァンニ.バティスタ.ティエポロ(Giambattista Tiepolo:1696-1770)の1760年頃の作品「ソフォニスバの死」です。パネルのサイズは48.3 x 38.2 cmと小さめです。ソフォニスバの死は、17世紀以降の芸術において比較的一般的な主題で、第二次ポエニ戦争の終わりにさかのぼるエピソードです。画面の右側では、ソフォニスバが横にあるテーブルの上のお椀の中の毒を飲み死んでいきます。彼女のすぐ後ろにいる印象的な赤いガウンを着たメイドは、ソフォニスバの背中の後ろに大きなクッションを置きます。ソフォニスバの後ろのもう一人のメイドは、左側に立つ従者の方向に向いています。この人物は、右側の3人の女性像のバランスをとる要素として機能します。
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ジョヴァンニ.バティスタ.ティエポロの息子のジョヴァンニ.ドメニコ.ティエポロ(Giandomenico Tiepolo:1727-1804)の1765年頃の作品「ヘラクレスの神格化」です。このテーマは、天に昇る人物の他の同様のシーンと共に、特にバロック芸術で一般的に天井画に描かれる主題でした。楕円形のフォーマット内で、画家は凱旋車を構図の垂直軸の左側に配置しました。車には、勇気と力の象徴であるヘラクレスが座っており、彼の体はネメアの獅子の毛皮で覆われています。彼の側では、翼のある女性が彼の頭に冠を被せています。
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バロック期のイタリアの画家のジョヴァンニ.フランチェスコ.バルビエーリことグエルチーノ(Il Guercino (Giovanni Francesco Barbieri):1591-1666)の1640/41年頃の作品「井戸の側でのキリストとサマリアの女」です。場面は、聖ヨハネの福音書でのみ語られている物語に基づいていて、多くの画家がこの主題で作品を製作しています。
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Bartolomé Esteban Murillo Sevilla, 1617-1682
La Virgen y el Niño con santa Rosa de Viterbo hacia 1670
バロック期のスペインの画家バルトロメ.エステバン.ムリーリョ(Bartolomé Esteban Murillo:1617-1682)の1670年頃の作品「ヴィテルボのサンタ.ローザと聖母子」です。彼女が通常バスケットやドレスの襞に入れて持っているバラによってサンタ.ローザと識別されます。聖人、聖母と幼児キリストのグループは、真っ白なチュニックに身を包み、椰子の枝を持った4人の聖母殉教者を右側に伴っています。画面でサンタ.ローザの後方には、彼女が民衆に説教するシーンが補足的に描かれています。 -
フランスの画家セバスチャン.ブルドン(Sébastien Bourdon:1616-1671)の1653/57年頃の作品「聖エリザベスと幼い洗礼者聖ヨハネと聖家族」です。少し画面の上下と左右がカットされています。聖エリザベスは洗礼者聖ヨハネの母親です。聖家族の一人、聖ヨセフは左端に赤い衣装で地面に座っています。聖マリアと幼児キリストは、右側で黄色い衣装の聖エリザベスと十字架を持つ幼い聖ヨハネにより、左側ではチェラブ(天童)に囲まれています。そして周りには、幼児キリストに捧げるための野花を摘んでいます。
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バロック期のフランスの画家シモン.ヴーエ(Simon Vouet:1590-1649)の1640年頃の作品「エウロパの略奪」です。作品の主題と形式は、ヴーエが王室、貴族、裕福なブルジョアの住居を飾るために描いた一連の作品です。タイヤ王の娘であるエウロパと恋に落ちたジュピターは、真っ白な雄牛に変身し、エウロパが仲間と遊んでいる海岸で家畜の中に紛れ込みます。その美しさに魅了されたエウロパは雄牛に近づき、彼の角を花で覆いました。彼女が雄牛に乗った瞬間ジュピターは彼女と一緒に逃げ出し、水に飛び込みました。画面はこの瞬間を捉えているそうです。
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バロック期のイタリアの画家ミケランジェロ.メリージ.ダ.カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio:1571-1610)の1598/99年の作品「アレクサンドリアのサンタ.カテリーナ」です。驚くほど自然なポーズで描かれたサンタ.カテリーナの姿は、当時の有名な遊女であると特定されています。王女にふさわしいローブを身にまとい、高価な赤いダマスク織のクッションにひざまずいて、殉教者の属性である車裂きの刑に用いられた壊れた車輪、斬首に使われた剣、足元にある殉教の椰子の葉などに囲まれ鑑賞者を見つめます。シーンの劇的な照明は、カラヴァッジョに特徴的なキアロスクーロ効果を生み出しています。このパネルは、我々の訪問後の2018年に、洗浄が行われ鮮やかさが復元されています。
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カラヴァッジオから大きな影響を受けたイタリアの画家オラツィオ.ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi:1563-1639)の工房の1621/23年頃の作品で「ロトと娘達」です。このテーマは旧約聖書創世記から採られています。この父子がゾアルの街を去り、山の洞窟に移動した所の場面です。画家は、おそらく彼らが逃げ込んだ洞窟の外に3人の主要人物を大きく置きました。右側遠くで起こっている出来事を見ている彼の2人の娘の間で、酔っ払ったロットが眠っています。姉らしい一人は何かを指しています。ジェンティレスキは、その工房と共に、この場面の絵を幾つも描いています。このテーマのプロトタイプの作品は、ロサンゼルスの J.ポール.ゲティ美術館にあるそうです。
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バロック期の芸術でスペイン黄金時代を代表する画家ホセ.デ.リベーラ(Jose de Ribera:1591-1652)の1634年の作品「悔恨のサン.ジロラモ」です。このテーマは、ピエタのテーマのように、リベラが彼の経歴を通して何度も描いた聖人の人生からのエピソードの1つです。聖ジロラモの姿は、他の瞑想的な聖人やマグダラのマリアなどの女性の隠士と共に、対抗宗教改革の間に引き立てられました。対抗宗教改革は、これらの聖人の精神的なエピソードを悔い改めの完璧な例と見なし、大衆を敬虔な道に戻す要件になると考えていました。
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バロック期のイタリアの偉大な彫刻家ジャン.ロレンツォ.ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini:1598-1680)の1616/17年の作品「サン.セバスティアン」です。ローマの百人隊長であったセバスティアンは、ローマで兵士によって木の幹に縛られ、矢を浴びせられる拷問を受けました。聖イレーヌと仲間はセバスティアンが埋葬される場所に行きました。彼がまだ呼吸している事が分かり、彼の傷を治療することに決めました。この彫刻でのセバスティアンの姿は、矢を受けて死に掛かっている状態を等身大より少し小さく作られています。穏やかな表情、少し開けた口と目を閉じた顔の扱い、そして彼の体に正確に彫刻された静脈とまだ緊張した筋肉は、ベルニーニが生と死の間の瞬間について行った徹底的な研究を反映しています。
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スペインの画家で通称がエル・グレコ(El Greco:1541-1614)の1576年頃の作品「受胎告知」です。エル.グレコは多くの受胎告知の絵画を描いています。このパネルは、イタリアで最後に制作された作品の一つと考えられており、ヴェネツィアの影響がはっきりと認められます。聖母が大天使に耳を傾ける姿はヴェロネーゼに、光と彩色は、エル.グレコが賞賛したティチアーノに、人物の配置とカーテンの扱いは、ティントレットの作品を強く思い起こさせます。
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この作品は、彼の息子のホルヘ.マヌエル.テオトコプリが手助けしてエル.グレコが1608/14年頃に制作した「無原罪の御宿り」です。エル.グレコは「無原罪の御宿り」を3作品制作し、この作品は最後のものです。息子のホルヘ.マヌエル.テオトコプリは、背景の描画に貢献しているそうです。
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肖像画、風景画や寓話画を描いたフランドルの画家ルーカス.ファン.ファルケンボルフ(Lucas van Valckenborch:1535以降-1597)の1586年の作品「嬰児虐殺」です。彼はフランドルの画家の一族に生まれました。彼の作品は、典型的な高い視点を持つフランドル様式と自然の直接観察を組み合わせています。嬰児虐殺は、エジプトへの逃避の直後に起こったキリストの子供時代からのエピソードであり、聖マタイの福音書でのみ語られています。その記述によると、ヘロデはマギに嘲笑された事に腹を立て、将来のユダヤ人の王が生き残れないようにするために、ベツレヘムとその周辺の村で2歳未満のすべての男の子供を殺すように命じました。これらの嬰児は、最初のキリスト教の殉教者であると考えられています。
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パネルの右下部分を拡大しました。場面はベツレヘムではなく、この芸術家の作品の慣習であるネーデルラントの町に設定されています。雪に覆われた環境は、さまざまな場面でこの主題を描いたピーテル.ブリューゲルの作品に関連しています。
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主に宗教的な主題と肖像画で知られているルネサンス期のオランダの画家ヤン.モスタールト(Jan Mostaert:1475頃-1555/56)の1520/25年頃の作品「ハガルの追放」です。このテーマは旧約聖書から採られ、ハガルとその息子イシュマエルを送り出した瞬間のアブラハムのイメージです。この舞台裏には、物語が続くさまざまなエピソードがあります。左側には、アブラハムの妻サラが、彼女が扇動した追放の場面を玄関から見ています。右側には、ハガルの旅のさまざまな瞬間が描かれています。たとえば、水を飲ませた天使の姿や、遠くの丘の上で行われたイサク、アブラハム、サラの息子の犠牲のエピソードなどです。
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アントワープで活躍したフランドルの画家ヤン.デ.ビアー(Jan de Beer
:1475頃-1528以前)の1520年頃の作品で「聖母の誕生」です。デ.ビアーは、日常生活に必要なオブジェクトで満たされた豪華な内装のブルジョアの室内に場面を設定しました。画面で、助産師の1人の腕に、生まれたばかりの聖母がいて、ベッドに聖アンナが祈っているのが見えます。部屋中には、金属製の水差しやバスケットなど、独立した静物の要素のように扱われたオブジェクトで満たされています。特に印象的なのは、人物の体が引き伸ばされている事です。 -
オランダの画家マールテン.ファン.ヘームスケルク
(Maerten van Heemskerck:1498-1574)の1531年頃の作品「糸を紡ぐ女性の肖像」です。この女性はハーレム市議会の議員の夫人である事が認定されています。画面では、女性が前景に位置し、絵のすべてのスペースを埋めています。精巧に描かれた美しく華やかな糸車は印象的な要素であり、彼女の無地の暗い服は、人物が置かれている部屋に対してそのシンプルさで際立っています。 -
ルネサンス期のドイツの画家アルブレヒト.デューラー(Albrecht Durer
:1471-1528)の1506年の作品「ラビに囲まれた若いキリスト」です。このパネルはデューラーのヴェネツィア滞在中に描かれています。美しさと醜さ、若さと老いは、印象的で珍しい方法で対比されています。物語は、12歳のキリストがエルサレムの神殿で、ラビの間に座り彼らの話を聞きます。更に彼らに質問し、キリスト自身の返事で彼らを驚かせました。この構図では、キリストは指で彼の議論を補助するという表現力豊かなジェスチャーを使用します。これは神学的論争の一般的な慣習だそうです。 -
ドイツの画家ハンス.スース.クルムバッハ(Hans Suess Kulmbach
:1485頃-1522)の1510年頃の作品「ロザリオの三連祭壇画」です。この三連祭壇画の名前は、中央のパネルで、5つの神秘の十字架が並ぶ花の円形モチーフに由来しています。ロザリオのモチーフの中には、聖母子、天使、祝福された人物などに囲まれた十字架のキリストがあり、2人の天使がロザリオの輪を持ち上げて上部の構成を完了します。ロザリオ内の人物を一人一人眺めると、持ち物や容姿で誰かを判断する事ができます。三連祭壇画の左翼には聖母の神殿奉献が描かれ、右側には聖母の父のヨアキムと母のアンナの金門での出会いが描かれています。 -
中央パネルの下半分を拡大しました。ロザリオ内の最下段には女性の聖人達が並んでいます。ロザリオの下には地獄の様子が描かれています。
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ルネサンス.マニエリスム期のイタリアの画家ドメニコ.ベッカフーミ(Domenico Beccafumi)の1523/25年頃の作品「幼児の洗礼者聖ヨハネと聖家族」です。このトンドは、ルネサンス期に広く使用された円形の形式です。構成の中心は、幼児のキリストと一緒に前景に座っている聖母の三角形の図です。左側のサン.ジロラモは胸に石を持っており、右側の幼児の洗礼者ヨハネは繊細な十字架と巻物を持っています。色と光はどちらも注目すべき要素であり、マリアのために選ばれたトーンは鮮やかで強烈で、緑の裏地が付いたマントの青、ドレスのピンク、クッションの鮮やかな黄色などの印象的な並置をもたらします。
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ルネサンス期のイタリア画家ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini
:1431/36-1516)の1505/10年頃の作品「ヌンク.ディミティス(シメオンの歌)」です。ヴェロネーゼ、ティチアーノ、ジョルジョーネ、ティントレットらを生んだヴェネツィア派の第一世代を代表する画家であり、15世紀同派最大の巨匠です。このパネルの主題は聖ルカの福音書から採られ、奉献が行われる寺院に入る直前のシメオンと幼児キリストの出会いだと言われています。シメオンが幼児キリストを腕に抱いた時に発した言葉がヌンク.ディミティスだそうです。 -
ヴェネツィア派の画家ヴィットーレ.カルパッチョ(Vittore Carpaccio
:1465-1526)の1510年の作品「風景の中の若い戦士」です。カルパッチョは、ジョヴァンニ.ベッリーニの兄のジェンティーレ.ベッリーニに師事しました。描かれた戦士が誰なのか未だに議論が続いているそうです。画家のカルパッチョは、ヴェネツィアのアッカデミア美術館に展示してある連作9点の「聖ウルスラ物語」で有名です。 -
15世紀後半のフィレンツェで大人気のイタリアの画家ドメニコ.ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio:1448/49-1494)の1489/90年の作品「ジョヴァンナ.トルナブオーニの肖像」です。この見事なパネルは、15世紀のフィレンツェの肖像画の良い例です。当時の画家は古典的な指示に従いました。即ち、表情のないままにされた顔で性格を伝えることが期待されている間、体のプロポーションは理想化されました。この半身の肖像画では、人物は厳密な横顔で表示され、腕を曲げ手を握り締めています。背景には、私物がシンプルな建築フレーム内に表示されています。左側には人物が首から下げているペンダントと対になったペンダント、右側の上にはロザリオがぶら下げてあり、下には信心深さを示す祈祷書が置いてあります。
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頭部を拡大しました。繊細な描画が良く分かります。
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この絵画はフィレンツェにあるサンタ.マリア.ノヴェッラ教会のトルナブオーニ礼拝堂の壁を飾る、ドメニコ.ギルランダイオが1486/90年の間に制作したフレスコ画「ご訪問」の場面です。右側で完全に横を向いて真直ぐに立つ女性がジョヴァンナ.トルナブオーニだそうです。全身像として描かれていますが、彼女のポーズ、ドレス、アクセサリーは上掲のパネルと同じになっています。
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ルネサンス初期のイタリアの画家ピエロ.デッラ.フランチェスカ(Piero della Francesca:1415頃-1492)の1483年頃の作品「少年の肖像」です。人物は、ボリューム感を伝えるためにモデル化された淡い肌色の厳格な横顔になっています。黒の背景に対して胸に当たるライトの処理は、この効果に寄与します。人物はアクセサリーなしで描かれています。
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ルネサンス期のウンブリア派の画家ベネデット.ボンフィリ(Benedetto Bonfigli:1420頃-1496)の1455年頃の作品「受胎告知」です。ボンフィリは室内ではなく、湖のほとりにあるのどかな街の裏側を望むテラスに天使と聖マリアを配置しました。画家は、円光や天使の美しい翼などの神聖な要素を詳細に強調するだけでなく、着衣や空などのより普通の要素にも金を使用しました。例えば父なる神は、マリアの心に送る2つの小さな炎を持った聖霊の鳩の航跡にも使われています。
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ルネサンス初期のイタリアの画家コズメ.トゥーラ(Cosmè Tura
:1430頃-1495)の1470/75年頃の作品「パトモス島の福音記者ヨハネ」です。トゥーラは、イタリア北部の都市フェラーラ派を創設した画家として知られています。説教活動をした罪で、福音記者聖ヨハネはドミティアヌス皇帝によって追放され、無人のパトモス島に送られました。そこで一人暮らしをし、聖ヨハネの黙示録を書きました。ドミティアヌスの死後、彼はパトモス島を離れました。伝説によると、パトモス島にいた聖ヨハネの唯一の友は、くちばしでインク壺を持ち上げ、聖人が筆記する事ができる机として翼を広げたワシでした。ワシは聖ヨハネの最も特徴的な属性の1つです。 -
ルネサンス初期のイタリアの画家エルコレ.デ.ロベルティ(Ercole de' Roberti:1455/56-1496)の1480年頃の作品「コルキスを離れるアルゴナウタイ」です。ロベルティもフェラーラ派の画家です。この35 x 26.5cmの小さなサイズのパネルは、結婚用チェストの装飾画の一部でした。パネルは、神話のオウィディウスの変身物語のアルゴナウタイの章からのエピソードを描いています。このギリシャの英雄は、金羊毛を見つける任務でジェイソンに同行しました。グループの名前は、冒険中に彼らが乗船した船のアルゴス号に由来し、その船を作った人の名前でした。このパネルは、アイエーテース王の娘であるメデアを伴ったジェイソンが、ドラゴンに守られた金羊毛を捕らえ、メデアの助けを借りて一連の試練を生き延びてコルキスを去る瞬間を描いています。金羊毛は、ギリシア神話に出てくる秘宝のひとつで、翼を持つ金色の羊の毛皮の事だそうです。
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風俗画を多く描いたフランドルの画家ダフィット.テニールス2世(David Teniers II:1610-1690)の1650年頃の作品「村の祭日」です。テニールス2世は、村の祭りの主題を独特で個性的な方法を用いて定期的に描きました。これらの作品は、旅籠や居酒屋前の野外で楽しんでいる村人や農民を描いています。画家は画面の中に、2つの社会階級の人々がダンス、食事、飲酒、遊楽のために力を合わせている余暇のひと時を描写しました。
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風俗画や肖像画を手掛けたオランダの画家ヘラルト.ドウ(Gerrit Dou:1613-1675)の1658/65年頃の作品「窓の側で蝋燭に照らされる若い女性」です。ドウは、レンブラントの工房で3年間修行し、色彩の技能、明暗法(キアロスクロ)の効果を学びました。
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都市景観画で知られているオランダの画家ヘリット.ベルクヘイデ(Gerrit Adriaensz. Berckheyde:1638-1698)の1690年頃の作品「デン.ハーグのビネンホフの眺め」です。背景には、リダーザール(騎士のホール)の南西に向いたファサードがあります。左側には、フレデリック.ヘンリー王子のために1639-40年に建てられた知事の宮殿と、遠くに1685年に再建された1634年のビネンホフ門があります。リダーザールは金羊毛騎士団の本拠地で、騎士団の待ち合わせ場所、立法議員、大使や他の主要な高官のためのレセプション.ホールでした。
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これは2015年春の旅で撮影したビネンホフ内です。リダーザールのファサードは、付属の建物が取り払われてすっきりしています。両方の塔の頂部は少し形が変わっています。手前にあるウィレム2世(1227-1256)の噴水は1885年の完成だそうで、上掲の絵画には当然描かれていません。
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オランダの風景画家サロモン.ファン.ロイスダール (Salomon Jacobsz. van Ruysdael:1600頃-1670)作の「凍った川面にスケーターと馬橇が活動する冬景色」です。画面の右側の河岸には、尖塔と切妻の建物がある城壁に囲まれた街が見えます。凍った川では多数のスケーターと2台の精巧に彫られた馬そりが手前に見えます。左奥には跳ね橋と道路上の旅行者の小さなシルエットがあります。空には、氷のような霞とうねる雲があります。特に美しいのは、冬の空に浮かぶクールなピンクとレモンイエローの雲筋です。
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同じファン.ロイスダールの1663年の作品「フェリーと漁師がいるフェヒト川、遠くにあるニジェンロード城の眺め」です。フェヒト川は左から右に広がっています。左岸には背の高い木々が聳え立ち、数人の人物が、漁船を左側の岸に引き上げています。漁網は水面に浮かび、前景にはアヒルがいます。6人の人物と2頭の牛が川を渡る船に乗っています。更に後方には、帆を上げた船が入り江を静かに漂っています。遠くには、ニジェンロード城の輪郭、空にそびえるいくつかの尖塔、そして数隻の帆船が見えます。雲に満ちた青い空がシーンを完成させます。これはファン.ロイスダールのお気に入りの構図の一つでした。
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渡し船とニジェンロード城を拡大しました。ニジェンロード城は、アムステルダムの南南東の方向でユトレヒト寄りにあり、近くにアムステルからのフェヒト川が流れています。
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こちらもファン.ロイスダールの1645年の作品「漁師が働く川」です。この画家は、灰色、緑、黄色、黄土色、青の色調に重点を置いた限定されたパレットの使用を特徴とする、いわゆる色調絵画の代表の1人でした。ルイスダールはこの色調のアプローチを使用し、川のシーンをクールな色調で描き、川岸、帆船、または道端を基にした単純な構図を使用して構築しました。
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17世紀を代表するオランダの海景画家ウィレム.ファン.デ.ヴェルデ2世(Willem van de Velde II:1633-1707)の1672/73年の作品「グーレー.ロードのオランダ艦隊」です。この画家は父親に師事して研鑽し、父に習い海戦の直接の知識を得るために艦隊と一緒に航海しました。彼は荒れた海と穏やかな海の両方を描写し、軍艦から商船まで、彼の時代に活躍していたほぼすべての種類の船舶が含まれていました。彼の絵の正確さと詳細は、17世紀の造船の知識に非常に役立ちました。この絵は、ロッテルダムのマース河口の水路の1つであるハーリングヴリートの入り口にあるグーレーに駐屯しているオランダ艦隊を描いています。 左側の遠くには、教会塔が見分けられるグーデレーデの街がぼやけて見えます。
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人生のほとんどをフランスで過ごしたオランダの画家ヨハン.バルトルト.ヨンキント(Johan Barthold Jongkind:1819-1891)の1856年の作品「ロッテルダムの港の眺め」です。ロッテルダムの港は、当時北ヨーロッパで最も重要な港でした。絵の空間の配置は、17世紀のオランダの海景画の痕跡を残しています。船の暗い色調は、空の明るさと水の輝きに対して際立っています。ヨンキントは現代の風景画の発展にかなりの影響を及ぼし、マネは彼を「風景画の学校の父」と呼び、モネは、「私の真の先生」と呼ばせていたそうです。
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同じヨンキントの1857年の作品「デルフト近くの風車」です。ヨンキントが横長の「風景」形式を好んだので、縦長の構図で描かれたこの主題は彼の作品ではまれです。風車のある風景は、前世紀のオランダ絵画から受け継がれた主題でした。風車の左右には人々の日常の光景が描かれています。
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多くの風景画を描いたフランス印象派の画家カミーユ.ピサロ(Camille Pissarro:1830-1903)の1897年の作品「午後のサン.トノレ通り、雨の影響」です。ピサロは晩年、目の病の悪化によりパリなどの都市に住居を移し、ホテルの窓から"都市シリーズ"として絵の制作を続けました。題材の"サン.トノレ通り"を3点描いています。他の二つは、強力な朝の陽光で照らされた光景と、薄暗い夕暮れの光が街に影を落す光景です。サン.トノレ通りはパリの通りで、チュイルリー庭園やルーヴル美術館の北側走るリヴォリ通りの更に1本北側にあります。
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ポスト印象派のフランスの画家アンリ.ド.トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec:1864-1901)の1889年の作品「白いブラウスの赤毛」です。ロートレックは1884年にクリシー通りで見つけ、すぐに魅了された労働者階級出身の少女、カルメン.ゴーディンを描いています。彼女の赤い髪と白い肌は、彼女の無力でメランコリックな外観を高め、まさに彼が描写したいと思っていたタイプの若い女性でした。そのため、彼女はその後のいくつかの絵画のモデルとなりました。
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フランスの印象派の画家エドガー.ドガ(Edgar Degas:1834-1917)の1877/79年頃の作品「緑色の衣装の踊り子」です。この写真では、絵画の下部1/4がカットされています。ドガはバレーに魅せられていたので、彼が描く絵にはバレーが多く出てきます。この絵画では、鑑賞者があたかも歌劇場のボックス席から見下ろしているように描かれています。
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上流社交界の人々を描いた優雅な肖像画で知られるアメリカの画家ジョン.シンガー.サージェント(John Singer Sargent:1856-1925)の1880/82年頃の作品「ヴェネツィアの玉ねぎ売り」です。この絵はサージェントのイタリア旅行中に描かれていますが、多くの華麗な人々の肖像画とは異なる異色の作品になっています。モデルは、手を腰に当て、大きな玉ねぎを肩に掛けています。彼女の顔のオリーブ色の肌は、影の中での彼女の位置によってさらに暗くなり、彼女のスカートと玉ねぎの白とのコントラストを作り出しています。ヴェネツィアの大ざっぱに描かれた景色は、右上の彼女の後ろの窓から見ることができますが、サージェントは、街の最も慎ましい住民にすべての重点を置いています。
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アメリカの印象派の画家エドワード.ヘンリー.ポトハスト(Edward Henry Potthast:1857-1927)の1915年頃の作品「海辺の光景」です。30.5 x 40.6 cmの小さなパネルに描かれています。ポトハストは、公園やビーチでレジャーを楽しむ人々を描いた絵で知られています。彼の絵は、スペインの画家ホアキン.ソローリャの影響を受けています。
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アメリカの印象派を代表する画家ウィリアム.メリット.チェイス(William Merritt Chase:1849-1916)の1889年頃の作品「公園内の小道」です。左側の石積みは、一見日本の城の石垣のように見えます。場面はニューヨークのセントラル.パークです。石積みは、以前シスターズ.オブ.チャリティーの修道院であったマウント.セイント.ビンセントの基礎壁の残滓でした。絵の中の二人の登場人物は、画家の妻と娘だそうです。
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こちらもアメリカの印象派の画家フレデリック.カール.フリージキー(Frederick Carl Frieseke:1874-1939)の1912年頃の作品「ジヴェルニーの住居」です。パネルは27 x 35 cmの小さなペンダント.サイズです。24歳の時パリに移住し主にフランスで画家活動をしています。このフリージキーの家はクロード.モネが1883年に移住し、残りの生涯を過ごしたジヴェルニーにありました。
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アメリカの印象派の代表的画家の一人であるフレデリック.チャイルド.ハッサム(Childe Hassam:1859-1935)の1910年の作品「ロンダのプラザ.デ.ラ.メルセド」です。ロンダの町は海抜739メートルの岩がちな台地の上に位置するスペイン南部アンダルシアにあります。このパネルは、画家夫婦がロンダで滞在したホテルの窓からの眺めを描いているそうです。
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5時40分、美術館を出てプラド大通りを南に歩いています。前方にはレアルター広場があり、その中央に大きな円形の池に囲まれたネプチューンの噴水があります。この辺りのプラド大通りの中央には木々に覆われた細長い公園が造られています。
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見難いですが、レアルター広場の中央にあるネプチューンの噴水です。この噴水の周りはラウンドアバウトになっています。車はラウンドアバウトに入ると反時計回りに回り、目的の通りに出ます。イギリスのように、車が左側通行の国では時計回りに回ります。今はセマナ.サンタ(聖週間)の真っ只中です。夕方に行われるプロセシオン(宗教行列)のために、こちら側のプラド通りには、車は進入禁止になっています。
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前回の旅で、ホップ.オン.ホップ.オフの観光バスから写したネプチューンの噴水です。貝の形の戦車に乗ったネプチューン(海神)が見えます。
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プラド大通りを北西の方向に曲がり、ラス.コルテス広場に入りました。ラス.コルテス広場からレアルター広場の方向に振り返っています。遠くに見える双子の鐘塔はサン.ヘロニモ.エル.レアル教会です。
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ラス.コルテス広場からカレーラ.デ.サン.ヘロニモ通りを北西の方向に望んでいます。行列は、ラス.コルテス広場を左に曲がってプラド通りを行く様で、通りの正面に車の進入禁止の柵が設置してあります。
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大勢の人々がコルテス広場の両側に集まり始めました。
セマナ.サンタは、キリストの受難、つまり磔によって処刑された日からキリストが復活するまでの苦しみを思い、信者としての内省を行うための1週間で、曜日ごとに過ごし方が決まっているそうです。1週間の中でも、聖木曜日からの3日間は特に重要です。例えば、最後の晩餐の日の聖木曜日は、7つの教会を訪問してキリストを思い感謝する日です。キリストが磔にされた日の聖金曜日は、磔にされたキリストの苦しみを思って肉食を控えたり、食事を控えたりする日になっているそうです。キリストの遺骸が安置された日の聖土曜日は、ろうそくを灯して日曜日の復活祭を待ちます。そして聖日曜日は復活祭、キリストの復活を祝う日です。2017年聖週間は、4月9日の日曜日から4月16日の日曜日迄でした。 -
コルテス広場の西側先のカレーラ.デ.サン.ヘロニモ通りを望んでいます。こちらはコルテス広場の車止め柵の向こう側になりますが、歩道に人が集まっています。
セマナ.サンタの一週間は、曜日ごとにキリストの受難と復活にまつわる礼拝や宗教行列が執り行われます。太鼓や吹奏楽の音が町に響きわたる中、キリスト像やマリア像などの山車を信者たちが背負い、重々しい雰囲気で町を練り歩くプロセシオン(宗教行列)が独特です。 -
コルテス広場の南側のウェスティン.パレス.ホテル前にテレビ.カメラが陣取っています。しばらく広場で待ちましたが、すぐに行列が来る様でもなかったので、滞在するホテルに戻る事にしました。
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ラス.コルテス広場からプラド通りに入ってきました。これは良く見る絵付きの道路名の表示板です。描かれている絵は、ネプチューンの噴水があるレアルター広場の更に東に建つサン.ヘロニモ.エル.レアル教会の様に見えます。ところで日本語で簡単に「プラド通り」と訳されていますが、ホテルがある通りは"Calle del Prado"で、ティッセン.ボルネミッサ美術館やプラド美術館沿いにある広い大通りのプラド通りは"Paseo del Prado"になっています。
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午後6時5分、ホテルに戻ってきました。まだ太陽は沈みそうにはありません。
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ホテルの2階の部屋の小さなベランダから少し周りを眺めます。ベランダと言うより、掃き出し窓(床まである窓)の転落防止柵の様なものです。これは、ホテルの西側で南北に延びるエチェガライ通りの南の方向を望んでいます。右側の建物は、部屋の対面にある通りの西側の建物になります。
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上掲の建物の壁面にも道路名表示板が見えます。描かれている絵は道路名になった劇作家のホセ.エチェガライ.イ.アイサギレの肖像のようです。
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エチェガライ通りで、北の方向を望んでいます。
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こちらはホテルの南側を東西に延びるインファンテ通りの東の方向を望んでいます。左が通りの北側にあるホテルで、右は南側の建物です。
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これはインファンテ通りでホテルの部屋の真ん前にある通りの南側の建物です。我々の部屋は角部屋なので西側と南側に小さなベランダがありますが、景色はこの様に全く良くありません。チェック.インした時に、替えてもらおうとしましたが上の階の部屋も同じ様な周りの景色なのでそのままにしました。
ところがこれが正解で、後ほど珍しいものを見る事ができました。 -
午後7時前、テレビからこの様な映像が流れ始めました。聖金曜日のプロセシオン(宗教行列)が始まる様です。画面に「アラバルデロスのキリストの行列」との字幕が付いています。宗教者を前にして、山車(神輿)を担いでいる人々が待機している様です。担ぐ人々は。行進する際も腕を組んで山車の担ぎ棒を肩に載せているだけです。最前列左端の担ぎ手は女性のようです。
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大勢の観衆が王宮前に集まっています。これも字幕は「アラバルデロスのキリスト」の行列です。セマナ.サンタでは、太鼓や吹奏楽の音が町に響きわたる中、キリスト像やマリア像の山車を信者たちが背負い、重々しい雰囲気で町を練り歩く《プロセシオン Procesión》という行列が独特です。キリスト十字架刑の前夜と最後の晩餐とされる聖木曜日、キリストが十字架上で処刑されたとされる聖金曜日は特に重んじられ、人々の熱気は最高潮になります。スペインでは祝日にもなります。
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異様な感じですが、聖週間の宗教行列に参加するナザレノと呼ばれる長衣をまとい先のとがった長頭巾をかぶった宗教団体の人々です。長頭巾の色は白、紺など色々ある様です。頭もコーン型の長頭巾ではなく、目だけ出して頭を布で巻いたものもある様です。
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行列の行進が始まりました。王宮の建物の東側にある「王子の扉」からナザレノの集団を先頭に王室の警護隊が続きます。この警護隊の兵士達がアラバルデロスと呼ばれるようです。
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兵士の後の宗教者のグループに続いて十字架のキリスト像を載せた山車が出てきました。「アラバルデロスのキリスト」の行列の行進が始まりました。
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これが「アラバルデロスのキリスト」の十字架のキリスト像です。違う十字架のキリスト像なのかもしれませんが、キリストの腰巻が赤色の写真も見かけます。
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このテレビ画面では、左に「アラバルデロスのキリスト」の行列のキリスト像を担ぐ人々、右に「悲しみの聖母」の行列の模様が映っています。
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この山車が、我々が泊まっていたホテル前を行進して行った「許しのイエスの行列」です。この山車の行進予定の通り名で、我々の部屋の前のエチェガライ通り、インファンテ通りの名が字幕で出ています。勿論テレビを見ていた時は、字幕に注意はしていませんし、通りが我々のホテルの周りだとは全く理解していませんでした。
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午後8時35分、「アラバルデロスのキリスト」の行列は、王宮を出て南の方向にバイレン通り行進し、左に曲がって来てマヨール通りに入ったところです。
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夜10時半、ホテルの周りが騒々しくなり、吹奏楽が聞こえて来ました。全く予想もしていなかったのでジジババ共びっくりしました。部屋のベランダから下を見ると、宗教行列がプラド通りからエチェガライ通りに入って来ました。先頭は宗教者や宗教団体の人々の様です。
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ついで山車が運ばれてきました。山車の上では、右側のローマの兵士が見守る中、中央の処刑者が左で繋がれたキリストを鞭打ちしています。これが後で「許しのイエスの行列」だと分かりました。
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その後に吹奏楽を演奏する楽隊が続いています。
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山車は、エチェガライ通りから左にインファンテ通りに入るので、曲がろうとして向きを変えるのに頑張っています。どちらも狭い道路なので曲がるのが大変です。この山車ですが、前後に担ぎ棒が見当たりません。また担ぎ棒が前後に突き出ていれば、この様な狭い道での回転ができません。どうも担ぎ棒は山車の下にあるようです。3体の像が載っているので結構重いと思います。
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向きを変え終えた山車を拡大しました。この写真では、前後に1本づつ短い棒が見えますが。装飾のためなのか誰も担いでいません。
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インファンテ通りに入りました。楽隊も続きます。
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そして山車はインファンテ通りを東の方向に進んで行きます。
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ホテルの隣りの部屋の客や、右側のインファンテ通りの南側の建物からも行列を眺める住民がいます。
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この先インファンテ通りはレオン通りに突き当たります。どちらの方向に曲がるかは確認せずに窓を閉めました。この宗教行列がホテルの側を進むとは全く知りませんでした。もし部屋を変えていたら見物できなかったかもしれません。良い場面に出会ったと嬉しくなりました。
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旅行記グループ シニア夫婦のドイツ、ポルトガル、スペインゆっくり旅行27日
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