2011/05/20 - 2012/05/20
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jijidarumaさん
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皆さま、暑中お見舞い申し上げます。
世の中は相変わらずコロナ禍、オリンピックと騒がしく、暑さの中、疲れる毎日です。
さて、現代史における「3人の巨悪」といえば、中国の毛沢東、ソ連のスターリン、そしてナチス・ドイツのヒトラーでしょう。
かつてドイツで駐在員生活を過ごしました。
1970年代、1980年代、時にナチスのヒトラーに関するニュースを見かける事もありましたが、まだDeutsche Wiedervereinigung東西ドイツの再統一(1990年10月3日)に至っていなかった時期でもあり、デュッセルドルフの会社内でも、知人にもかつてのナチス党員の存在がありえたし、旧ドイツ地域(植民地や戦後の領地の再線引き)からの引き揚げ者や東独地域に関係者がいる人も多く、ヒトラー、ナチス、ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)、東独について、気軽に語る環境ではなかったように思います。
その後、定年を迎えたドイツ感傷旅行で、町や村を訪ねると、反ナチ・ヒトラー運動に加担した人々を知る機会がありました。
写真はクリープシュタイン城の財宝を隠した城主Heinrich Graf von Lehndorff-Steinort(=ポーランド語Sztynortシュティノルト)ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵の写真と、彼は反ナチ運動メンバーの一人として、ベルリン・Gedenkstaette Ploetzensee プレッツェンゼーで絞首刑の刑に処された。その執行の場である。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
イチオシ
以下はそれを纏めた旅行記グループです。
【1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち】
≪1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件の実行者:クラウス・シュタウフェンベルク伯爵≫
https://4travel.jp/travelogue/10872284
≪1944年7月20日:映画・ワルキューレ作戦Operation ”Walkuere“について≫
https://4travel.jp/travelogue/10873685
≪1944年7月20日:”反逆者”シュタウフェンベルグ伯爵夫人と子供たちのその後≫
https://4travel.jp/travelogue/10874582
≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち≫
(古城ホテル シュロス ロダースレーベン)
https://4travel.jp/travelogue/10871148
≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟≫
https://4travel.jp/travelogue/10965241
≪番外編:ハン・ミュンデン:ヒトラー暗殺未遂事件に関与し、処刑された一人の弁護士≫
https://4travel.jp/travelogue/11609006
≪番外編:総統アドルフ・ヒトラーにも愛称!があったとは!≫
(総統大本営「ヴォルフシャンツェ(狼の巣)」)
https://4travel.jp/travelogue/11703486
・・・
写真はオルデンブルク大公家の居城・博物館で:Gegen Hunger und Verzweiflung waehlt Hitler 飢えて絶望したら、ヒトラーを選ぼう(ポスター) -
イチオシ
【かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅】
期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間
5月20日(金);快晴、25℃、179km(前半6日間計1,191km)
<Schloesserland-Sachsenザクセンの古城群を巡る>
ザクセンの古城群は、好みとしてはとりわけMuldeムルデ川沿いの古城群が魅力的である。
この為に、Burg Gnandsteinグナンドシュタイン城に2泊して、一帯を走った。
Schloss Rochlitzロッホリツ城、Burg Kriebstein クリープシュタイン城、Schloss Nossenノッセン城、Schloss Colditzコルディッツ城、Burg Gnandsteinグナンドシュタイン城の5つの古城をこの日は見て回った。
(ノッセン城の後に、計画で入れていた、もう一つの城Burg Mildenstein ミルデンシュタイン城は時間的に無理が生じ、今回見送りにした)
≪Burg Kriebsteinクリープシュタイン城≫
入場料・撮影料Euro15.5、 12:20~13:15
D-09648 Kriebstein 、Kriebstein
http://www.burg-kriebstein.de/
ザクセン州で最も美しい城と称されているクリープシュタイン城はヴァルトハイムのZschopau (Freiberger Muldeの支流である)上流3kmの険しい崖の上に立っている。
後期ゴシック様式の宝石とも称される古城は周辺の森に囲まれ、魅力満点な姿を見せる。城郭の中心に高さ45mの居住塔があり、これを囲むようにして各棟があるのは大変珍しい。従って、他の城に見るような独立した天守閣は無い。
写真はザクセン州で最も美しい城と称されているBurg Kriebsteinクリープシュタイン城 -
イチオシ
オリジナル家具、色彩ゆたかな木の天井、暖炉、肖像画の数々、ゴシック様式の広間、騎士の広間、宝物庫、礼拝堂、祭壇、クリープシュタインの間に見られる宗教画のシーンなど、見るべきものは多い。ロッホリツ城よりも入場料が倍したのもうなずける。
この古城訪問に先立ち、「隠されていた宝石類」の事前学習していた。
改修中に居住塔の煙突の中から、隠されていた宝石類が発見された事を知っていたので、博物館の係員に聞くと、彼は博物館の出入り口に鍵をかけてから、私共を別室のGrosser Festsaal大宴会場の広間に案内し、部屋の鍵を開けて、室内にあるゴブランのかかった壁を指して、あそこにあった!と言った。
クリープシュタイン城は最初、この城の独特の伝説に魅了された。
≪古城伝説:Die Sage von der treuen Frau von Kriebsteinクリープシュタイン城の貞淑なる妻≫
https://4travel.jp/travelogue/10868161
しかもこの城には財宝伝説があったから、更に興味を持った。。
≪1986年、クリープシュタイン城で城主が隠した宝物が発見された。≫
https://4travel.jp/travelogue/11699250
写真はクリープシュタイン城:財宝発見の場所 -
さらに前述の財宝にからんで【Schatz von Kriebsteinクリープシュタイン城の財宝】(Wiki)にて、クリープシュタイン城の城主が反ナチ運動メンバーの一人として刑死したとも書いた。
(発見された財宝については下記のような背景があった)
第二次世界大戦の終わりに、ソ連軍にレーンドルフ家の貴重な財産を奪われないように、Heinrich Graf von Lehndorff-Steinortハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯は東プロイセンの居城シュタイノールト城から彼の貴重な財産の一部を輸送し、ザクセンのクリープシュタイン城に保管した。
その一部は暖炉の中で壁に囲まれていた。
写真はクリープシュタイン城:円天井の財宝展示室 -
ハインリヒ・レーンドルフ伯爵は1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した為、1944年9月4日に処刑された。
そしてナチス政府は反逆者レーンドルフ家の財産を収用してしまった。
戦後、移動可能な財産のほとんどは賠償金としてソ連に持っていかれた。
ただ、暖炉の中に隠されていた銀、磁器、金、大きなタペストリーなどはそのまま発見されることなく、そのまま40年以上の時が過ぎた。
1995年から、発見された財宝はクリープシュタイン城の博物館で、円天井の間に展示されている。
それはまた、「ヒトラーに対する抵抗運動の英雄」であったハインリヒ・フォン・レーンドルフ伯の最初で唯一の記念碑となった。
写真はクリープシュタイン城の発見された財宝の一部 -
ザクセンの古城群の旅で、「財宝話」や「伝説のクリープシュタイン城の貞淑なる妻」と共に、「1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち」を知ることとなりました。
刑死したハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵、その妻、娘達、従妹、反ナチ運動メンバーの仲間たち、回顧録などなど、広がる関係も多く纏まりにくいものでしたが、旅行記とは少々異なる形で書いています。
暑い中、読みにくい所はご容赦頂いて・・・。
写真はクリープシュタイン城の発見された財宝の一部 -
ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵に関連した事は
①ハインリヒ伯はプロイセン騎兵大将であったHeinrich Graf von Lehndorffハインリッヒ・フォン・レーンドルフ伯の孫でした。
②Die Liste der Personen des 20. Juli 1944、 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関係者リストにその名前がある。
③Schloss Steinortシュタイノールト城は16世紀の初めから1945年まで、東プロイセン(現在はポーランド領)の貴族レーンドルフ家の居城でした。
といったことがある。
写真はSchloss Steinortシュタイノールト城と、ヒトラーの総統大本営の最重要拠点*Wolfsschanzヴォルフスシャンツェ(狼の巣)はこんなに近い距離にあった。
*因みにヒトラーは第二次大戦中、ヨーロッパ各地に総計18の「Fuehrerhauptquartier (FHQ) 総統大本営」を建設していた。中でも最も重要なWolfsschanzヴォルフスシャンツェ(狼の巣)があり、ここでヒトラー暗殺未遂事件が起こった。狼の巣はポーランドのKetrzynケントシン(東プロイセンのRastenburgラステンブルク)の東約8kmの森林の中である。 -
イチオシ
シュタイノールト城から、75年前にヒトラー暗殺未遂事件が起こったヒトラーの総統大本営「ヴォルフシャンツェ(狼の巣)」までわずか20kmです。
写真は現在のSchloss Steinortシュタイノールト城の美しい景観 -
【クリープシュタイン城に財宝を隠した城主は『ワルキューレ』作戦実施の反ナチ運動メンバーとして歴史に名を残した。】
クリープシュタイン城の財宝を隠した城主Heinrich Graf von Lehndorff-Steinort(=ポーランド語Sztynortシュティノルト)ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵は珍しい事に、Wikiで検索しても人物写真や人物画が残っていなかった。それで、その後もいろいろと探した。
すると、嬉しいことにハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵の最後の手紙(長文)のことが出て来た。
また、次の写真のような伯爵自身や家族の写真を見つける事が出来たのだ。
そして、戦後の彼の家族の様子も分かって来た。
これらの序だけ拙訳乍ら、ご紹介してみたい。
写真は東プロイセン・レーンドルフ伯の居城Schloss Steinortシュタイノールト城:レーンドルフ伯の貴重な財産の一部はクリープシュタイン城に移動させた。 -
<Wiki=>Weblinks:SoundWords >
https://www.soundwords.de/ でこうしたものが見つけた。
Mein Geliebtestes!
私の最愛の人へ!
Ein zum Tode Verurteilter nimmt Abschied von seiner Frau
死刑判決を受けた男が妻に別れを告げる。
Der letzte Brief von Heinrich Graf von Lehndorff-Steinort an seine Frau ・・・ geschrieben mit gefesselten Haenden am 3. September 1944, am Vorabend seiner Hinrichtung.
ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵から妻への最後の手紙は、彼の処刑の前夜1944年9月3日に手錠をかけられた手で書かれた。
ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵が35歳で刑死した後、残されたGottliebe Graefin von Kalneinゴットリーベ・カルネイン伯爵夫人(1913~1993年、享年79歳)と4人の娘(Marie Eleanoreマリー・エレノア、Veruschkaヴェルーシュカ、Gabrieleガブリエレ、Catharina(=Katharina)カタリーナ)がいたことが判明した。
尚、娘達については後述した。
写真はハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵 -
ハインリヒ・フォン・レーンドルフ伯は第二次大戦の独ソ戦(バルバロッサ作戦)でドイツ中央軍集団司令官*Fedor von Bockフェードア・フォン・ボック陸軍元帥の指揮下にいた陸軍将校・中尉でした。
1941年10月、ベラルーシのミンスク州ボリソフで起こった7,000人のユダヤ人の虐殺は、レーンドルフ伯がナチス政権に対する軍事的抵抗に加わる決定的な理由となった。
(第二次世界大戦中、ボリソフは1941年7月から1944年7月までナチス・ドイツに占領され、町のほとんどが破壊された。町の周囲に建設された6つの強制収容所でパルチザンなど33,000人以上が殺害されたと云う)
写真は中央左にFedor von Bockフェードア・フォン・ボック陸軍元帥と、中央右にハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト中尉
*Fedor von Bockフェードア・フォン・ボック陸軍元帥は数々の武勲をあげた軍人である。
第二次大戦の独ソ戦で中央軍集団司令官としてミンスク、スモレンスクを攻略し、12月には隷下部隊はモスクワ前面30kmに迫ったが、ソ連軍の激しい反撃と猛烈な寒波によって攻撃は頓挫、ヒトラーによって司令官を解任された。
前線後方で繰り広げられるユダヤ人大量虐殺に抗議し、軍上層部へ担当将校の処罰を要請したこともあるが、黙殺されて成果はなかった。
だが、甥にあたるトレスコウ陸軍少将から反体制グループへの参画を打診されるが、これは拒否している。 -
予備役の中尉であったレーンドルフ伯はKoenigsbergケーニヒスベルクにおける『Walkuereワルキューレ』作戦実施のWiderstandskaempfer反ナチ運動メンバーと防衛地区I(東プロイセン)のVerbindungsoffizier連絡官を務めた。
(ケーニヒスベルクは中世後期から1945年まで東プロイセンの中心であった都市であり、ドイツ語で「王の山」という意味を持つ。現在はロシア連邦のKaliningradカリーニングラードに名を変えた)
レーンドルフ伯はドイツ国防軍から休暇を取り、レーンドルフ伯の居城シュタイノールト城で大きな役割を果たした。
*ヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将、*ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵、*ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉(トレスコウ陸軍少将の副官)ら(*後述)を迎え、馬車などの乗り物の間や、城の後ろにあった古い樫の木の立つ庭園でヒトラーに対する暗殺計画を協議したと云う。
写真は城主であったハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵と子供たち(上の二人:マリー・エレノア、ヴェルーシュカ)・・・彼が良き夫、そして子供たちの良き父であった様子が見て取れます。 -
イチオシ
1944年7月20日にヒトラーに対する暗殺未遂事件が、居城シュタイノールト城から凡そ20km南西にある「Fuehrerhauptquartier*Wolfsschanz(=ポ―ランド語 Wilczy Szaniec) 総統大本営ヴォルフスシャンツェ (狼の巣):東部戦線を担当した総統大本営の一つである」で起こった翌日、ハインリヒ・フォン・レーンドルフ伯は逮捕された。
ハインリヒ・フォン・レーンドルフ伯は1944年9月3日に人民法廷で死刑判決を受け、翌4日に絞首刑に処せられた。
かつてのベルリン・プレッツェンゼー刑務所の場所に立つプレッツェンゼー記念館に、「ヒトラーに対する抵抗運動の英雄」として、その名を顕彰されている。
写真はハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵の写真、彼は反ナチ運動メンバーの一人として、ベルリン・プレッツェンゼーで絞首刑の刑に処された。その執行の場には花冠が供えられている。 -
*長女のMarie Eleanore Graefin von Lehndorff-Steinortマリー・エレノア・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵夫人:"Nonaノナ"(1937年~2018年)は2度結婚した。
最初にシュタイノールト伯爵と同様にヒトラー暗殺計画に関与して刑死した外交官、弁護士Hans Bernd von Haeftenハンス・ベルント・フォン・ヘフテンの息子Jan van Haeftenジャン・ヴァン・ヘフテン(企業家、1931年~2017年)と結婚した。1957年~1973年の結婚生活で2人の息子を授かった。
(お互いに反逆者の娘、息子としてひっそりとした生活をしていたのだろうが、縁があったのか・・・)
次に結婚したのはWolf-Siegfried Wagnerヴォルフ・ジークフリート・ワーグナー(1943年~)で、ヴォルフはヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーの曾孫であったWieland Wagnerヴィーラント・ワーグナーの息子である。
オペラ演出・監督、舞台美術家、建築家だった。
写真はGottliebe Graefin von Lehndorff mit ihren Toechtern 1949年、生き延びたゴットリーベ・フォン・レーンドルフ伯爵妃と4人の娘達・・・中でも後述した様に次女と四女はその才能を発揮しているようだ。 -
『Operation Valkyrieワルキューレ作戦』(独語ではOperation Walkuere オペラツィオーン・ヴァルキューレ)は、
ドイツ国防軍の国内予備軍が第二次世界大戦中に立案した国内予備軍の結集と動員に関する命令である。
作戦名はリヒャルト・ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』に登場する北欧神話の女神ヴァルキューレに因むと云うが、ドイツ流の作戦名は面白い。
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際に起こったクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らによるクーデターに利用された作戦として知られている。
レーンドルフ・シュタイノールト伯の長女マリー・エレノアの義父になった上述の外交官、弁護士ハンス・ベルント・フォン・ヘフテンは『ワルキューレ作戦』の中心人物シュタウフェンベルク大佐の副官であったWerner von Haeftenヴェルナー・フォン・ヘフテン陸軍中尉の兄である。
ヒトラー暗殺が失敗した事が発覚し、直ちにシュタウフェンベルク大佐と共にヴェルナー・フォン・ヘフテン陸軍中尉等は国内予備軍司令部の中庭で銃殺刑に処された。
戦後、国内予備軍司令部のあったベントラー街はシュタウフェンベルク街へ改名され、ここに「ヒトラー抵抗運動の記念館」が開設されている。
暗殺計画に関与した将校達が射殺された中庭には手を鎖でつながれた若者のブロンズ像が象徴として置かれている。
写真はHans Bernd von Haeften&Werner Karl von Haeftenハンス(1905年~1944年)とヴェルナー(1908年~1944年)・ヘフテン兄弟 -
兄ハンスも計画に加担したとして7月23日に逮捕され、8月15日にベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処された。
戦後の1957年、ベルリン・シャルロッテンブルク北区で、ヘフテン兄弟を顕彰して大通りの一つにその名が冠された。
ドイツではこうした顕彰方法がある。
また、外交官ハンス・ベルント・フォン・ヘフテンの妻Barbara von Haeftenバーバラ・フォン・ヘフテン(1908年~2006年)はワイマール共和国外相Julius Curtiusユリウス・クルティウス(1877~1948年)の娘で、1930年9月、ハンスと結婚した。
彼女は戦後、以下のような夫の回想録を出している。
『Write Nothing about Politics』「政治について何も書いてはならない」
A Portrait of Hans Bernd von Haeftenハンス・ベルント・フォン・ヘフテンの人物像
写真はHans Bernd von Haeften外交官ハンス・ベルント・フォン・ヘフテン -
・・・
『Write Nothing about Politics』「政治について何も書いてはならない」
A Portrait of Hans Bernd von Haeftenハンス・ベルント・フォン・ヘフテンの人物像 by Barbara von Haeftenバーバラ・フォン・ヘフテン作
(Paperback ・ Illustrated, May 1, 2018)
1944年7月20日以降、毎年のように反ナチ・ヒトラー抵抗運動について出版された。しかし、私の夫、Hans Bernd von Haeftenハンス・ベルント・フォン・ヘフテンに関しては出版された本の何処にもその記述が無かった。
私はハンスが政治的にも活動的であった事をもっと明らかにすべきと思った。
この為、私はハンスに関して、ハンスが行った様々なことを出来るだけ取集し、記録しようとしている。
1936年から、Gestapoゲシュタポ(秘密国家警察)による常時その監視下にあり、彼はいくつかの個人的な手紙を除いて、文書を自宅に全く置いていなかった。
私達の家が1933年に初めてゲシュタポに捜索される危険にあった時以来、私達は自分たちの周りに何も置かないという、自分たちの決まりにしたのだ・・・。
写真はReichsaussenministerワイマール共和国外相Julius Curtiusユリウス・クルティウス夫妻と娘達(1930年撮影) -
夫の回想録で、バーバラの夫ハンス・ベルント・フォン・ヘフテンの人生、つまり弁護士であり、外交官でもあり、反ナチ・ヒトラー抵抗運動のメンバー(Kreisau Circle クライザウ・サークル)であったことを書いている。
1944年7月20日、クラウス・シュタウフェンベルク大佐とその副官ヴェルナー・ヘフテン中尉(夫ハンスの弟)は携行カバンに時限爆弾を隠し持ち、総統大本営・狼の巣でヒトラーの暗殺攻撃を行った。
1944年7月20日のヒトラー暗殺計画にハンスも加担したとして7月23日に逮捕され、8月15日にベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処された後、バーバラも逮捕され、刑務所で数ヶ月間、囚人として過ごした。
クライザウ・サークルのメンバーはヒトラーの暗殺後、新しい政府が政権を取って代わるための様々な広大な計画を作っていた。
バーバラの伝記は、個人的な手紙やはっきりした記録を活用することで、ヒトラー政権の悲惨な結果からドイツを救うことに苦闘した、並みはずれた人達の人生や政治的な活動を明らかにしている。
同時にその事はバーバラ・ヘフテンの知識や反ナチ・ヒトラー抵抗運動に参加していたことに光を当てることとなった。
・・・
写真はハンス・ベルント・フォン・ヘフテンの妻バーバラの回想録
『Write Nothing about Politics』「政治について何も書いてはならない」
A Portrait of Hans Bernd von Haeftenハンス・ベルント・フォン・ヘフテンの人物像 -
東プロイセンのシュタイノールト城は、レーンドルフ・シュタイノールト伯爵一族の何世紀にもわたった歴史と共に在った。
4姉妹の母はゴットリーベ・フォン・カルネイン伯爵夫人(1913年~1993年)で、夫の隠したクリープシュタイン城の宝物やその他の旧家族所有の財産の返還申請を行い、返却に成功した。
また、処刑前に獄中で書かれた夫の手紙を大事に残していたが、それを後に公表した。
写真はder Spiegelシュピーゲル誌 :中央にゴットリーベ・フォン・レーンドルフ伯爵妃と、左右に4人の娘達 -
*次女Veruschka(あるいは Veraヴェラ)は Gottliebe Anna Graefin von Lehndorff-Steinortヴェルーシュカ・ゴットリーベ・アンナ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵夫人と称する。
ヴェルーシュカ(1939年~)はハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵夫妻の4姉妹の中でも個性的な人生を歩んだように思われる。
ドイツの一流のモデル、女優、画家、写真家と多才で、1960年代に人気のあったアーティストとして成功した。
ヴェルーシュカは東プロイセンのシュタイノールト城で育った。
ヴェルーシュカが5歳のとき、彼女の父親は7月20日事件でアドルフ・ヒトラーを暗殺しようとしたとして処刑された。
彼の死後、残りの家族は第二次世界大戦が終わるまでSS(ナチス親衛隊) の労働収容所で過ごした。反乱者の家族として、彼女の家族は家や財産を失い、1944年8月26日から幼い3姉妹は6歳の姉マリー・エレノア、5歳のヴェルーシュカ、20ヶ月の妹ガブリエレと共に、Bad Sachsaバート・ザクサ のBorntalボルンタールにあったKinderheim養護施設(再教育の家)に収容され、1944年12月に母の元に戻る事が出来た。
ヴェルーシュカは13の学校に通ったと云う。
写真はVeruschka Mein Leben Gebundeneヴェルーシュカ 束縛(隷属)された我が人生 -
『Kinder des 20. Juli 1944』
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関与者(20名)の子供たち46名は
Bad Sachsaバート・ザクサ のBorntalボルンタールにあったKinderheim養護施設(再教育の家)に1944年から1945年まで収容されていた。
1945年5月04日 、アメリカ人によって町長に任命された Willy Mueller ヴィリー・ミュラーは収容所の子供たちに次のように語ったと云う。
「Ihr braucht Euch Eurer Vaeter nicht zu schaemen, denn sie waren Helden.彼らは英雄だったので、あなたの父親を恥じる必要はありません」と言った。
1944年10月中旬から徐々に子供たちは母親や親戚に戻りはじめ、遅くとも1945年11月10日まで帰還は完了した。
因みに、主な加担者の子供たちの記録を見ると、
レーンドルフ・シュタイノールト伯爵の3姉妹マリー・エレノア6歳、ヴェルーシュカ5歳、ガブリエレ20ヶ月、
クラウス・シュタウフェンベルク伯爵・大佐の長男Bertholdベルトルト10歳、次男Heimeranハイメラン8歳、三男Franz-Ludwigフランツ・ルートヴィヒ6歳、長女Valerieヴァレリエ3歳の4人、
及びシュタウフェンベルク伯爵・大佐の兄のベルトルト・シュタウフェンベルク伯爵の長男Alfredアルフレッド6歳、長女Elisabethエリザベート5歳の2人、
ヘニング・トレスコウ陸軍少将の長女Uta ウタ13歳、次女Adelheidアーデルハイト4歳の2子、
アダム・ツー・ゾルツ男爵の長女Anna-Verenaアンナ・ヴェレナ2歳、Clarita クラリータ9ヶ月の2人がいた。
Bad Sachsaバート・ザクサ はハルツ山地の南周縁部に位置する。現在は人口7千人のKurortクアオルト(保養都市)で、ゲッティンゲンの東約 50 km にあたる。
http://www.bad-sachsa-geschichte.de/
写真はVeruschkaヴェルーシュカは一流のモデルだった。 -
写真はドイツのモデル、女優、画家、写真家と多才であった次女Veruschkaヴェルーシュカ(2013年ベルリン映画祭)
*三女Gabriele Pauline Agnes Graefin von Lehndorff-Steinortガブリエレ・ポーリン・アグネス・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵夫人(1942年~)はArmin Edler Herr Und Freiherr Von Plothoアーミン・エドラー・フォン・プロトー男爵と結婚した。 -
*四女Catharina(=Katharina) Graefin von Lehndorff-Steinortカタリーナ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵夫人(1944年~)は、Henrik Kappelhoff Wulffヘンリック・カッペルホフ・ヴルフと結婚。
ハンブルク在住のGuerteldesignerinベルトデザイナーになっている。
カタリーナは父の死後数ヶ月して、SS(ナチス親衛隊)の労働収容所で母が生んだから、父の事は直接知らない。
写真はCatharina Graefin von Lehndorff カタリーナ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵夫人 -
ベルトデザイナーのレーンドルフ伯爵夫人のブランドは1968年に設立されたハンブルクブランドである。
ハンザ同盟の都市ハンブルクに出来た小さな工場で、カタリーナ伯爵夫人は高品質のレザー、汎用性の高いクラス、応用・実用化で作られたユニークなベルトをデザインした。
写真はカタリーナ・フォン・レーンドルフ伯爵夫人のブランド:ベルト作品 -
創造性、規律、そして率直さで、彼女はいくつかのユニークなベルトから長年にわたって彼女の名誉あるファッションレベルに至っている。
公正な技量、妥協のない職人技、優れた品質を備えた高級皮革製品のトップを長く維持しているのだ。
https://vonlehndorff.com/pages/ueber-uns
写真はカタリーナ・フォン・レーンドルフ伯爵夫人のブランド:ベルト作品 -
イチオシ
【75 Jahre Hitler-Attentatヒトラー暗殺未遂事件から75年】
2019年7月17日 Tagesspiegelターゲスシュピーゲル
(記事:Judith Leisterジュディス・ライスター)
(Der Tagesspiegelターゲスシュピーゲルは1945年に西ベルリンで設立されたドイツ連邦共和国の高級日刊紙である。
戦後間も無い1945年9月27日に米軍の認可の下で初刊が発行される。当時の西ベルリンは英米仏の管轄に置かれており、その管理下で発行された。
1948年までは、西ベルリンのみならず、東ベルリンや周辺のブランデンブルク地方でも販売されていた。ターゲスシュピーゲルは月曜日から日曜日まで発行されており、一日平均14万部販売されている)
写真は東プロイセン・レーンドルフ伯の居城シュタイノールト城の俯瞰 -
Wo Graf Lehndorff durchs Fenster floh
レーンドルフ伯爵が窓から逃げ出した場所:
総統大本営ヴォルフスシャンツェ (狼の巣)近郊の反ナチスの場所Masurenマズーレン(ポーランド語でMazuryマズールィ)では、ドイツ人とポーランド人が、かつて反ナチス政権への協議(密議)の出会いの場であったシュタイノールト城支援に立ち上がっている。
コウノトリが空を悠々と飛び、4匹の幼鳥のくちばしが見える大きな巣に餌を運んでいた。シュタイノールト城の塔にあるコウノトリの巣からは、古城のファサードとテーピングされた窓がまだほぼ堅牢に見えるはずだ。
共産主義時代には、2つの湖の間に立つ館(城)はまだ農場としての役割を持っていた。東欧圏の崩壊後、城は荒廃し、床が引き裂かれ、城内の金属はお金に変わり、1階ではアマツバメを焼いた様子も見て取れたという。
2009年、ドイツ・ポーランド文化保護記念碑保護財団(DPS)のポーランドの姉妹組織が、館(城)の建物を購入した時、1944年7月20日にヒトラーに対する暗殺未遂事件に加担したハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵の旧家の天井が崩れ落ち、地下室には水が溜まっている状況だった。
写真はSchloss Steinortシュタイノールト城内、ここの窓から伯爵たちは逃げた。 -
「シュタイノールト城はこの地域にとって宝石と言えましょう」と、2009年に他の家族と共にレーンドルフ協会を設立したハインリヒ・フォン・レーンドルフの孫、Verus von Plothoヴェルス・フォン・プロトは言います。
一族に連なる人々は「文化に興味を持つ人々を引き付けるだろう」城で、この地を研究と思い出の場所にしたいと考えている。
ハインリヒ・フォン・レーンドルフ伯爵に関する事、伯爵が反ナチスの抵抗への道を歩んだ事、500年の歴史をもった古城の事、それらを包含した展示場を作るべく議論されている。
ヴェルス・フォン・プロトはまた、東西の学識・知識の大学も考えられると言う。彼はシュタイノールト城の修復後、絵画、書籍、貴重品など、この城のかつての文化財が、リューネブルクにある東プロイセン州立博物館からシュタイノールトに戻ってくることを望んでいる。
シュタイノールト城から、75年前にヒトラー暗殺未遂事件が起こったヒトラーの総統大本営「ヴォルフシャンツェ(狼の巣)」までわずか20kmです。
この地域はすでに歴史的観光の目的地になっているのです。
ただ、シュタイノールトは重要と思われているが、これまでのところ、反ナチス抵抗者の出会いの場所としてほとんど知られていない。
それは下シレジア地方にあるHelmuth James Graf von Moltkeヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵家のモルトケ邸(Schloss Kreisauクライザウ城)も似たようなもので、Dark Tourismダークツーリズム・・災害被災跡地、戦争跡地など、人類の死や悲しみを対象にした観光・・・では競合する面がある。
更に、シュタイノールトが置かれた状況は複雑です。レーンドルフ協会にはお金が不足しているだけでなく、城の周りの領域は他の地主の持ち物であった。
その観光計画は、記念碑の保護と歴史と調整する必要があるからです。
(中略)
"Das Attentat muss erfolgen, coute que coute"
「我々は(クーテ・ケ・クーテ)何としても暗殺を実行しなければならない」
ゲシュタポが逮捕に駆けつけると、ハインリヒ・レーンドルフ伯爵は沼地に向かって逃げた。
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当時、レーンドルフ伯はドイツ国防軍から休暇を取り、居城シュタイノールト城で大きな役割を果たした。
*ヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将、*ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵、*ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉(トレスコウ陸軍少将の副官)ら(*後述)を迎え、馬車などの乗り物の間や、城の後ろにあった古い樫の木の立つ庭園でヒトラーに対する暗殺計画を協議したと云う。
写真はSchloss Steinortシュタイノールト城のObere Diele階上の廊下 -
ベルリンで有名なブランデンブルク門の建築家Carl Gotthard Langhansカール・ゴッタルド・ラングハンス(1732~1808年)はシュタイノールト城内の庭園にTeehausテーハウス(茶屋)を設計して建てているが、現在、この建物はイラクサに囲まれて、荒廃寸前である。
写真はTeehauses in Steinortシュタイノールト城内の茶屋 (2010年) -
・・・(レーンドルフ協会は2018年よりこの改装の寄付金集めをしているが、2020年現在も予定額には未達の様子だ)
https://www.langhans-gesellschaft.org/unsere-projekte/teehaus/
レーンドルフ協会の長年のメンバーであるGeorg Gietzゲオルク・ギーツは、携帯電話の懐中電灯を点け、小さな下ごしらえ用キッチンに入り込み、花を描いたオリジナルタイルを見せてくれた。
写真はシュタイノールト城内の茶屋をデザインし建てたカール・ゴッタルド・ラングハンスの肖像画 -
レーンドルフ伯が仲間とヒトラーに対する暗殺計画を協議した頃、ナチス政権の外相*Joachim von Ribbentropヨアヒム・フォン・リッベントロップと彼の取り巻きは、近くのヒトラーの総統大本営「ヴォルフシャンツェ(狼の巣)」は出来上がっていたのだが、自分たちの為にレーンドルフのシュタイノールト城を収用し、その四分の一にしてしまった。
リッベントロップはシュタイノールト城の滞在をより快適にしょうと、ベルリンから浴槽を飛行機で運ばせようとまでしたと云う。
リッベントロップはまた、テーハウス(茶屋)で食事をした話も残る。
残された写真の中に、リッベントロップと白いドレスを着たブロンドの女の子レーンドルフ夫妻の娘たちが写っている。リッベントロップは2匹のポニーを持つ子供たちの御機嫌を取っていたと云う。
(*Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentropウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(1893年~1946年)はドイツの実業家、政治家でヒトラー内閣の外務大臣。最終階級は親衛隊名誉大将。
ニュルンベルク裁判で絞首刑に処せられた)
写真はヨアヒム・フォン・リッベントロップの滞在中、レーンドルフ夫妻と娘たちとの写真が残っている。 -
そしてレーンドルフ協会の長年のメンバー、ギーツはシュタイノールトの荒野の真ん中につながる道を指し示した。
「ゲシュタポが、暗殺未遂事件の翌日に逮捕に来たとき、レーンドルフ伯はシュタイノールト城の1階の窓から飛び降りて沼地に向かって逃げた」と。
同じ日にレーンドルフ伯は捕まり、Koenigsbergケーニヒスベルクを経由してベルリンに連行された。だが、レーンドルフ伯は8月8日に再び脱走した。
Mecklenburgメクレンブルクで再逮捕され、ベルリン・プレッツェンゼーの人民法廷で裁判を受けた後、9月4日に35歳で絞首刑に処された。
写真はシュタイノールト2009年、ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯顕彰碑の除幕式で:左から4姉妹のCatharina、Vera、 Eleonore、 Gabriele。 -
レーンドルフ伯の妻Gottliebe von Lehndorffゴットリーベ・フォン・レーンドルフ伯妃は妊娠中であったが、SS(ナチス親衛隊)の労働収容所に収容され、そこで4女のCatharina(=Katharina)カタリーナを生んだ。
3人の子供たち(Marie Eleanoreマリー・エレノア、Veruschkaヴェルーシュカ、Gabrieleガブリエレ)は、母と別れてBad Sachsaバート・ザクサにあったNS-Kinderheim Borntalボルンタール養護施設(再教育の家)に送られ、そこで新しい名前が与えられ、ひどい扱いを受けたと云う。
その後、ハインリヒの従妹の*Marion Graefin Doenhoffマリオン・グレーフィン・デーンホフは子供たちを母親と一緒に連れ戻す手助けをすることができた。
ゴットリーベ伯爵夫人が、ハインリヒが刑死してから数ヶ月後に生まれたばかりのカタリーナと他の3人の娘を抱きしめることができた時、彼らは祖国の裏切り者として扱われ、すべての財産を失っていた。
彼女らの新しい生活も質素で、控えめな生活がスタートした。
写真はハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯:Gedenkstein im Park von Schloss Steinortシュタイノールト城の庭園に立っている顕彰碑(2009年) -
*Marion Hedda Ilse Marion Grefin von Doenhoff マリオン・ヘッダ・イルゼ・グレーフィン・フォン・デーンホフ(1909年~2002年)は、東プロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア・カリーニングラード)から約20kmのところにあるSchloss Friedrichstein フリードリヒシュタイン城を中心とする所領を有する貴族の家系に8人兄弟姉妹の末子として生まれた。
デーンホフ家はドーン家、ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵のレーンドルフ家と並ぶ東プロイセンの地主貴族(ユンカー)であり、始祖はヴェストファーレンの古貴族であったことが確認されている。
ドイツの著作家、ジャーナリストで、反ナチ運動の一環としてヒトラー暗殺計画に参加した。
次兄ディーターはレーンドルフ家のカーリーンと結婚した。
カーリーンの兄ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵は従ってマリオンの義兄であり、従兄にあたる。
1946年のハンブルクの『Die Zeitディー・ツァイト』紙(週刊発行される全国紙でドイツの高級紙として知られる)創刊に参加し、政治問題担当、編集長、経営責任者として同紙上で東側諸国との和解を訴え続けた。
ソ連軍の東プロイセン侵攻に伴う住民の避難・逃亡とその後の苦難を描いた『もう誰も口にしない名前』(邦題『喪われた栄光 ― プロシアの悲劇』)のほか、冷戦期に執筆した東西和解に関する著作物によりドイツ出版協会平和賞など多くの賞を受賞した。
デーンホフは2002年に92歳で亡くなるまで『ディー・ツァイト紙』の経営責任者を務めた。(Wiki)
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写真はハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵の従妹Marion Graefin Doenhoffマリオン・デーンホフ伯爵夫人 -
ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯はレーンドルフ伯爵家の本拠シュタイノールト(現ポーランド)所領を1936年に相続し、同所領最後の所有者である。
1944年7月20日にクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が敢行したヒトラー暗殺計画(7月20日事件、ヴァルキューレ作戦)の舞台の一つ、OKH Mauerwald マウアーヴァルト陸軍総司令部(現ポーランドのマメルキ)はシュタイノールト所領内にあり、ハインリヒはこの暗殺計画に加担していた。
(1930年代、 Loetzenレッツェン(ポーランド語でギジツコ)にはケーニヒスベルクに本部を置いた軍事1区の支部があり、軍事部隊が何隊か駐屯した。総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」や陸軍総司令部もレッツェン近郊に置かれ、職員、工兵、警備兵が駐在した。
今もレッツェンの北およそ10kmのマウアーヴァルト地域に陸軍総司令部の掩体壕が残されている )
シュタウフェンベルク伯を中心とするこうした有力貴族の反ナチ運動において、マリオン・デーンホフは主に連絡係を担当し、重要文書の伝達のために東プロイセンとベルリンの間を行き来した。
シュタウフェンベルクらの処刑後、仲間が次々と逮捕・処刑され、マリオンもゲシュタポに逮捕された。だが、彼女は、厳しい尋問を受けた後に釈放された。
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写真はデーンホフ伯家の居城Schloss Friedrichsteinフリードリヒシュタイン城・1860年頃の絵画 -
マリオン・デーンホフは、1944年のあの日から50年も経った1994年に初めてベルリンで出版した著書『Um der Ehre willen・・・ Erinnerungen an die Freunde vom 20. Juliウム・デア・エーレ・ウィレン名誉のために・・・1944年7月20日の友の思い出』を書いている。
マリオンの友人の7つの肖像画と、ヒトラーに対する暗殺の試みを計画することの動機を説明している。
全体主義独裁政権に反対する事で、自分の命を危険にさらし、一族や家族をも巻き込んでしまう危険があったにもかかわらず。
7つの肖像画は以下の7人である。
Albrecht Graf von Bernstorffアルブレヒト・フォン・ベルンストルフ伯爵、
Axel von dem Busscheアクセル・フォン・デム・ブッシェ、
Fritz-Dietlof Graf von der Schulenburgフリッツ・ディートロフ・フォン・デア・シューレンブルク伯爵、
Helmuth James Graf von Moltkeヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵、
Peter Graf Yorck von Wartenburgペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵、
ihr Cousin Heinrich Graf Lehndorff従兄のハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵、
Adam Freiherr von Trott zu Solzアダム・フォン・トロット・ツー・ゾルツ男爵。
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写真はMarion Graefin Doenhoffマリオン・グレーフィン・フォン・デーンホフ:『Um der Ehre willen:Erinnerungen an die Freunde vom 20. Juli
名誉のために・・・1944年7月20日の友の思い出』(1994年) -
写真はMarion Graefin Doenhoffマリオン・デーンホフ伯爵夫人(右端)と*Helmut Schmidtヘルムート・シュミット西ドイツ首相(左から2人目)とロキ夫人(3人目)・・・1982年だから首相当時であろう。
*Helmut Heinrich Waldemar Schmidtヘルムート・ハインリヒ・ヴァルデマー・シュミット(1918年~2015年)氏は、西ドイツの政治家。言論人・文化人でもあった。ハンブルクの生まれでそのことに誇りを持ち、現在もハンブルク市民に「卓越したハンザ人」と敬愛されている。
ドイツ社会民主党 (SPD) 所属。第5代連邦首相(在任:1974年~1982年)・・・前任者はWilly Brandtヴィリー・ブラントで、後任者は東西ドイツの再統一を果たした立役者Helmut Kohlヘルムート・コールである。
その他国防相(1969年~1972年)、経済財務相(1972年)、財務相(1972年~1974年)、外務大臣(臨時、1982年の2週間)を歴任。
1983年、シュミットはドイツ随一の高級オピニオン紙である週刊新聞『ディー・ツァイト』の共同編集者に就任し、1985年にはその経営代表責任者となった。
大戦中の1942年に幼馴染のハンネローレ・グラーザー(愛称「ロキ」)とルター派教会で結婚。愛妻家であった。(Wiki) -
<マリオン・グレーフィン・フォン・デーンホフの作品集>
Um der Ehre willen:Erinnerungen an die Freunde vom 20. Juli
『名誉のために・・・1944年7月20日の友の思い出』(1994年)
Kindheit in Ostpreussen
『東プロイセンの子供時代』(1998年)
Namen、die keiner mehr nennt: Ostpreussen・ Menschen und Geschichte
『もう誰も口にしない名前』(邦題『喪われた栄光 ・プロシアの悲劇』)(2009年)
Erinnerungen eines alten OSTPREUSSEN
『かつての東プロイセンの思い出』(2013年)
写真はマリオン・デーンホフ伯爵夫人のプロフィールのある10ユーロ硬貨 (2009年、生誕100年記念) -
様々な人の思いがいろいろな形で世に残された。
1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校によるヒトラー総統暗殺未遂事件についてはここで簡単ながら書いておこう。
ヒトラーは第二次大戦中、ヨーロッパ各地に総計18の「Fuehrerhauptquartier (FHQ) 総統大本営」を建設していた。
中でも最も重要なWolfsschanzヴォルフスシャンツェ(狼の巣)があり、1944年7月20日、ここでクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐がヒトラー総統を爆殺しようとした事件が起こった。
狼の巣はポーランドの Ketrzynケントシン(東プロイセンのRastenburgラステンブルク)の東約8kmの森林の中である。
クラウス・シュタウフェンベルク大佐の計画に加担したハインリヒ・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵の居城、シュタイノールト城からヒトラーの総統大本営「ヴォルフシャンツェ(狼の巣)」までわずか20kmの距離だった。
写真はヒトラー総統大本営の配置地図 -
写真は1940年6月、建造中の総統大本営・ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)で撮影されたヒトラー総統(前列中央)とその幕僚たち。・・・彼らは(狼の巣)で事件が起こるとは思ってもいなかっただろう。
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写真は総統大本営・ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)の配置図・・・様々な軍事施設、宿舎、掩体壕などが配置されていた。
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ドイツ陸軍国内予備軍参謀長・参謀大佐・そして暗殺実行者、クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、ヒトラー暗殺未遂事件を起した1944年7月20日の5日前に、Hitlerヒトラー総統、Keitelカイテル元帥に会っている。
シュタウフェンベルク大佐が、このようにヒトラー総統の身近に行けた事にも驚くが、陸軍国内予備軍参謀長・参謀大佐の職は高いものだったのだろう。
写真は総統大本営・ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)にて:
左から長身のシュタウフェンベルク大佐、総統副官プットカマー海軍少将、空軍連絡官ボーデンシャッツ空軍大将(後ろ向きの人物)、中央にヒトラー総統、右に*ヴィルヘルム・カイテル元帥
*Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keitelヴィルヘルム・ボーデヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル元帥(1882年~1946年)はドイツの軍人。
第二次世界大戦中に国防軍最高司令部(OKW)総長を務め、総統アドルフ・ヒトラーを補佐した。
終戦時にはソ連に対する降伏文書にドイツ軍を代表して調印した。戦後、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けて刑死(絞首刑)した。 -
【Operation Walkuere オペラツィオーン・ヴァルキューレ】
英語でワルキューレ作戦という。
ドイツ国防軍の国内予備軍が第二次世界大戦中に立案した国内予備軍の結集と動員に関する命令である。
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際に起こったクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らによるクーデターに利用された作戦として知られている。
作戦名はリヒャルト・ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』に登場する北欧神話の女神ヴァルキューレに因む。
写真は映画Operation Walkuere オペラツィオーン・ヴァルキューレ=ワルキューレ作戦のポスター(トム・クルーズ主演・・・*隻眼(せきがん)、隻腕(せきわん)の英雄を演じた)
*1943年1月1日に参謀中佐(Oberstleutnant i.G.)に昇進した。
1943年2月3日、北アフリカ戦線のチュニジアの第10装甲師団に主席参謀将校(Ia)として配属する旨の人事異動が通達された。
同師団は1942年11月にアルジェリアとモロッコに上陸した米英軍と戦っていた。念願の前線勤務となったが、2ヶ月後の4月7日には乗っていた車がイギリス軍機に機銃掃射されて重傷を負った。
スファックス近くの野戦病院へ移送され、ここで右手の手首から上、また左手の薬指と小指を切断した。また左目も摘出せねばならなかった。
(左目、右腕、左手の指二本を失っていた)
この後、シュタウフェンベルクは船でリヴォルノへ移送され、そこから病院列車でミュンヘンの陸軍病院へ送られた。そこで3ヶ月間の入院生活を送ったと云う。 -
ドイツ陸軍国内予備軍参謀長・参謀大佐、ヒトラー暗殺未遂事件の実行者Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(1907年~1944年)は気さくで率直で魅力のある人物だったので、人が集まり、会話や会議においても自然に中心になり、主導権を握る事が多かったという。つまりリーダーの素質を持っていた。
1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校による、ヒトラー暗殺事件;その指揮を執ったクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐の“爆弾による暗殺”は、会議室で爆発したものの、様々な要因からヒトラーは無事で、爆殺は失敗に終わった。
日付が替わった7月21日、大佐ら4名は早々とベルリン・ベントラー街(国防省)中庭で銃殺刑に処せられた(現在、この地に顕彰碑が残る)。
兄であった法律家Berthold Schenk Graf von Stauffenbergベルトルト・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(1905年~1944年)と共に、かつてのベルリン・プレッツェンゼー刑務所の場所に立つプレッツェンゼー記念館に、「ヒトラーに対する抵抗運動の英雄」として、その名を顕彰されている。
写真はクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵 -
Werner von Haeftenヴェルナー・フォン・ヘフテン(1908年~1944年)はベルリン大学で法学を学び、ハンブルクの銀行にインハウスローヤーとして務めた。
第二次世界大戦が始まると予備役中尉としてドイツ陸軍に応召した。
1942年冬に東部戦線で重傷を負い、回復した後に国内予備軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐の副官となった。
1944年7月20日にヘフテン中尉は総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」(狼の巣)へと向かうシュタウフェンベルク大佐に同行した。
彼はヒトラーの作戦会議室に爆弾を仕掛け、爆発させることに成功した。
(暗殺は、プラスチック爆弾を2個用意、起爆装置を作動させるスプリングを針金で締め付け、それを硫酸で10分間で溶かす時限装置を使い、爆発させる。その爆弾を入れた鞄を持ち歩き、暗殺実行可能と判断したら爆弾を作動させる予定だった)
事件後、彼らはヒトラー政権転覆計画を成就させるためにベルリンに戻るが、ヒトラーが爆発から生き延びたことを知らなかった。
彼らはベルリンのベンドラー街の国内予備軍司令部に戻り、反乱鎮定計画「ヴァルキューレ作戦」を利用したクーデターを行う。
所が、ヒトラー総統の生存が伝えられたためにクーデターは失敗した。
同日深夜、シュタウフェンベルク大佐、ヘフテン中尉は共謀者のフリードリヒ・オルブリヒト将軍、アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐と共に、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム将軍によって逮捕された。
写真はWerner von Haeftenヴェルナー・フォン・ヘフテン陸軍中尉 -
午後0時32分、爆弾の起爆装置を作動させた鞄を持って、シュタウフェンベルクが会議場に入った時には、すでに作戦会議は始まっていた。午後0時37分頃、爆弾入り鞄を作戦会議場の巨大なテーブルの下に押し入れ、ベルリンへ電話をかける名目で会議場を後にした。
午後0時42分、轟音と共に爆弾は炸裂し、会議室は破壊された。
写真はヒトラー暗殺未遂事件1944年7月20日:爆弾の爆発後の会議室の立ち位置・・・爆弾が入ったカバンは四角(長方形の会議卓の下に置かれていた)、ヒトラーは青、死者は赤丸。頑丈な会議卓の木製脚部のお蔭で、ヒトラーは爆風の影響が少なかったと云われている。 -
事件直後にヒトラーは暗殺計画関係者の追及を行い、逮捕、処罰を行った人数は4000名にに及んだ。
写真はヒトラー暗殺未遂事件1944年7月20日:爆弾爆発後の惨状・・・数人の側近が死亡、参席者全員が負傷したが、ヒトラーは奇跡的に打撲と火傷、鼓膜を損傷したが症状としては軽症で済み、生き残っていた。 -
写真はAdolf Hitler's Bunker in Wolfsschanze狼の巣と称したヒトラー総統用のコンクリート製大型掩体壕(ブンカー、えんたいごう)が今も残る。
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写真は総統大本営・ヴォルフスシャンツェ(狼の巣):Gedenktafel_Stauffenberg-Attentatシュタウフェンベルク伯爵等のヒトラー暗殺未遂事件の記念碑
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彼らは即決の軍法会議で死刑の判決を受け、7月21日に国内予備軍司令部の中庭で銃殺刑に処された。
銃殺の順番がシュタウフェンベルク大佐に回ってきた際、彼の前にヘフテン中尉は庇うようにして立ちふさがり、先に射殺されたという。
シュタウフェンベルク大佐らの遺体は制服と勲章を着けたままベルリン市内の教会に埋葬されたが、翌日Heinrich Himmlerハインリヒ・ヒムラー(親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官、内務大臣)の命により遺体は掘り起こされ、制服と勲章を剥奪された上で焼却され遺灰は野に撒かれた。
戦後、国内予備軍司令部のあったベントラー街はシュタウフェンベルク街へ改名され、ここにヒトラー抵抗運動の記念館が開設されている。
<Gedenkstaette Deutscher Widerstand Berlin
ベルリン・ドイツ抵抗運動記念館>
Der Bendlerblock 、Stauffenbergerstrasse 13 - 14
ここはヒトラーに抗した人々を記念した博物館である。
ベルリンのドイツ抵抗運動記念館はかつて軍の旧最高司令部でした。
1944年7月20日にヒトラー暗殺・クーデターの試みがあった歴史的場所にある。
1953年、この栄誉の館はナチス抵抗運動追悼所となり、2階の常設展示では、5,000枚以上の写真と、26のテーマに分かれた記録を展示している。
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暗殺計画に関与した将校達が射殺された中庭には手を鎖でつながれた若者のブロンズ像が象徴として置かれている。
写真はベルリンのドイツ抵抗運動記念館と銃殺刑が行われた中庭、記念像 -
ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵は1944年9月3日に人民法廷で死刑判決を受け、翌4日にベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処せられたことは先に述べたが、彼はAttentat vom 20. Juli 1944、1944年7月20日のドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチ党政権に対するクーデター未遂事件に関与したドイツ人将校の一人である。
写真はベルリン・Gedenkstaette Ploetzensee プレッツェンゼー顕彰記念碑・・・ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵はじめクライザウ・サークルのメンバーもその名を顕彰されている。プレッツェンゼー記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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Attentat vom 20. Juli 1944、1944年7月20日のドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチス党政権に対するクーデター未遂事件に関与した人たちが、絞首刑にされた刑場跡は、現在、その英雄行動を顕彰する記念碑になっている。
写真はベルリン・Gedenkstaette Ploetzensee プレッツェンゼー顕彰記念碑 -
Schlesienシュレージエン(シレジア地方)の下シレジア地方にあるHelmuth James Graf von Moltkeヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵家のモルトケ邸のことをSchloss Kreisauクライザウ城という。
「Kreisauer Kreis クライザウ・サークル」と称された反ナチ・ヒトラー運動の中心メンバーが、ここで謀議を行ったと云う。
写真はSchloss Kreisauクレイザウ城 -
「Kreisauer Kreis クライザウ・サークル」と称された反ナチ・ヒトラー運動の中心メンバーは以下の人達である。
彼らは人民法廷にかけられて、いずれも処刑された。
*Helmuth James Graf von Moltkeヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵(1907年~1945年)は法律家。
反ナチ運動に参加し「Kreisauer Kreis クライザウ・サークル(Schloss Kreisauクライザウ城・モルトケ邸=ポーランド語でKrzyzowaクシジョウバ)」の中心人物となる。ヘルムート・フォン・モルトケは貴族や外交官など比較的地位が高い反ナチ的な人々を集めた会合を開いていた。
メクレンブルクの古い貴族モルトケ家の出身であるモルトケ伯爵家はシュレージエン地方クライザウ(現在のポーランド領)の荘園領主であった。
ドイツ帝国初代参謀総長(大モルトケ)や第一次世界大戦で参謀総長を務めた(小モルトケ)などが係累にいる。
クライザウ・サークルの中で、モルトケはナチスに反対する一方で、ヒトラー暗殺計画には反対していた。
Volksgerichtshof人民法廷ではモルトケ伯のクーデター計画への関与は証明されなかったが、「ヒトラー後」に堕落したドイツを樹立しようとモルトケらが画策したのは死刑に値するとされ、1945年1月11日に死刑判決を受けた。
ヒトラー暗殺計画の中心メンバーとして、1月23日にはベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑となった(37歳)。
子供たちに送った手紙には、「ナチスが政権を握って以降、その犠牲を和らげ、道を変えようと努めてきた。私は自分の良心、そして男としての務めに従った」と抵抗運動参加への動機が書かれている。
写真はヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵(1945年1月) -
*Adam Freiherr von Trott zu Solzアダム・フォン・トロット・ツー・ゾルツ男爵(1909年~1944年)はヘッセン州の北東部にあるBebraベブラの町のImshausenイムハウゼンに所領を持っていたプロイセン貴族であった。
プロイセンの国務大臣だった父が引退生活に入ると、アダムは1922年4月、ハン・ミュンデンのギムナジュームに入った。
その後、法律家になるため、ミュンヘン大学やゲッティンゲン大学、ベルリン・フンボルト大学、更に英国のオックスフォード大学に学んだ。
アダムは最初からナチス政権の反対者であり、遅くとも1939年からナチス政権の転覆を検討していたという。
アダムはヘルムート・モルトケ伯爵を中心としたKreisauer Kreisクライザウ・サークル(シュレージエン地方クライザウにモルトケ邸があった所で、反ナチグループを称したもの)の中核的メンバーになった。
彼はまた、将来において、自由で共通なヨーロッパを組織するための構想をひろく、様々に考えていた。
アダムはクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(暗殺実行者・陸軍大佐)と緊密に協力し、1944年7月20日の総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチ党政権に対するクーデター未遂事件に関与した。
8月26日、35歳の時、ベルリン・プレッツェンゼー刑務所で密かに処刑された。
写真はアダム・フォン・トロット・ツー・ゾルツ男爵(1943年)
彼の顕彰碑がハン・ミュンデンのギムナジュームにある。
(ナチス抵抗運動を称賛する動きが出て、これに関与し、処刑された人々を闘士としてその栄誉を顕彰する事となった。第二次大戦後しばらく経ってからだが)
尚、付け加えれば、マリオン・デーンホフが『名誉のために・・・1944年7月20日の友の思い出』で描いたPeter Graf Yorck von Wartenburgペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵(1904年~1944年)はアダム同様にクライザウ・サークルの中核に属していた。彼も弁護士であった。
ヴァルテンブルク伯爵家はプロイセン元帥のルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵を祖とするプロイセン貴族の家柄で、シュレージエン地方クライン・エルスの荘園領主である。
ペーター・ヴァルテンブルク伯爵は1944年7月20日に実行されたヒトラー暗殺計画失敗の後、数日して逮捕された。
1944年8月8日には早々とベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑となった(39歳)。 -
*Robert Karl von Tresckowヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将(1901年~1944年)は、父親が代々軍人を輩出したプロイセン王国の貴族の出身であった。
1943年3月13日、ヒトラーが東部戦線視察を行った際に爆殺を企て、失敗している。 (実行役シュラーブレンドルフの項参照)
早くからヒトラー暗殺計画の首謀者の一人であり、1944年7月20日のシュタウフェンベルク大佐のクーデター失敗が伝わると、翌日トレスコウは前線に出て、手榴弾を爆発させ自決した(享年43歳)。
写真はヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将 -
*Fabian von Schlabrendorffファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ(1907年~1980年)は弁護士、ドイツ国防軍中尉、反ナチ運動家。
ヒトラー暗殺計画のメンバーで、第二次大戦後まで生き延びた数少ない人々のうちの一人である。
第二次世界大戦中の1942年以降、東部戦線でトレスコウ少将の副官として、反ヒトラー派のルートヴィヒ・ベック、カール・ゲルデラー、ハンス・オスター 、フリードリヒ・オルブリヒトの間の連絡役を務めた。
1943年3月13日、ヒトラーがスモレンスク前線視察を行った際、トレスコウはヒトラーの搭乗機に爆弾を仕掛ける計画を行った。
実行役がシュラーブレンドルフで、トレスコウから預かった爆弾の仕掛けられたリキュール瓶を搭乗機に持ち込んだ。しかしながらロシアの寒気と雷管に欠陥があったため爆弾は動作せず、計画は失敗に終わった。
爆弾は翌日彼によって密かに回収され計画が明るみに出ることはなかった。
1944年7月20日にクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が実行犯となったヒトラー暗殺計画が失敗に終わり、軍や政府内の反ヒトラー派の検挙が始まった。シュラーブレンドルフも同年8月17日に逮捕されて、ベルリンのゲシュタポの監獄に拘束され、訊問と拷問を受けたが、決して口を割らなかった。
シュラーブレンドルフは、1945年2月に人民法廷で裁判を受けることとなっていた。しかし、1945年2月3日に法廷はアメリカ軍機の爆弾の直撃を受け、裁判官ローラント・フライスラーが死亡。フライスラーはシュラーブレンドルフのファイルを抱えたままの姿で発見された。
シュラーブレンドルフの裁判は、1945年3月にフライスラーの後任ヴィルヘルム・クローネによって行われ、シュラーブレンドルフは放免された。
1945年の3月から5月まで、シュラーブレンドルフはザクセンハウゼン、フロッセンビュルク、ダッハウといった強制収容所に収容された後、連合軍の手に渡らないようにチロルへ移送されたが、ドイツが降伏した後の5月になり、アメリカ軍によって解放された。
ニュルンベルク裁判の期間中は、アメリカ軍の戦略諜報局の顧問を務めた。
1946年、軍部内の反ヒトラー抵抗運動に関する最初の書物となる手記を刊行。
戦後は弁護士として活動し、1955年から2年間は新設されるドイツ連邦軍の人事審査委員を務めた。1967年にはドイツ連邦共和国功労勲章を受章した。
1967年から1975年まで西ドイツの連邦憲法裁判所の裁判官を務める。
写真はファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ -
ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフは
『The Secret War Against Hitler (Der Widerstand, Dissent & Resistance in the Third Reich』
「ドイツ第三帝国に対する不同意(異議)と抵抗」)という著作(1965年初版)を残した。
作品の要約を訳すと:
ファビアンはヒトラー暗殺計画のメンバーで、第二次大戦後まで生き延びた数少ない人々のうちの一人である。
「ドイツ第三帝国に対する不同意(異議)と抵抗」の中で、ファビアンの学生時代である1920年代から彼の反ナチス活動は始まり、ヒトラーが台頭してきた頃、さらに戦争に突入した時代、最後に1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に関与するに至る・・・かつて自らが歩んだ道を辿っている。
ファビアンは第二次世界大戦中に見られた、反ナチス抵抗運動のリーダー達の二重生活(表では恭順(きょうじゅん:おとなしく命令に従う)し、裏では抵抗をするという意味だろう)や、反ナチス共謀者達が行った無益な秘密会合、そして、軟弱で、芯が無く、揺らぎやすかったドイツの将軍連中から政治的、軍事的支援を求めたリーダー達の努力を鮮明に描いている。
写真はファビアン・フォン・シュラーブレンドルフが残した『The Secret War Against Hitler』 (Der Widerstand, Dissent & Resistance in the Third Reich「ドイツ第三帝国に対する不同意(異議)と抵抗」)という著作(1965年初版) -
その他にも、
Antje Vollmerアンチェ・ヴォルマー(1943年~)女史は、
『Doppelleben二重生活』の題名でHeinrichハインリヒ、Gottliebeゴットリーベ・レンドルフ伯夫妻を描いた作品を2010年に出版している。
『Doppelleben二重生活』
HitlerヒトラーとRibbentropリッベントロップに対する反ナチス運動・抵抗者であったハインリヒ、ゴットリーベ・レンドルフ伯夫妻を描いた作品。
フランクフルト・アム・マイン2010年版
(尚、二重生活とは「表では恭順(きょうじゅん:おとなしく命令に従う)し、裏では抵抗をするという意味だろう)
反ナチス運動・抵抗者に関する興味(作品を書く)はいまだに衰えていないということのようだ。
・・・・・
写真はDoppelleben二重生活: Heinrich und Gottliebe von Lehndorff im Widerstand反ナチス運動・抵抗者であったハインリヒ、ゴットリーベ・レンドルフ伯夫妻 -
Antje Vollmerアンチェ・ヴォルマー(1943年~)は、ドイツのプロテスタント神学者、ジャーナリスト、作家、政治家。
1994年から2005年までドイツ連邦議会の副大統領を務めた。
写真はアンチェ・ヴォルマー(2013年)
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ドイツのヒトラーやナチスの存在は多くの国や人にとって、もちろんドイツ国民にとっても大禍でありました。
勝敗が決した時、本来ヒトラーやナチスが歴史に埋没しそうですが、あまりにその存在が大きく、現代史で消し去るわけにいかなかった。
しかもドイツ人は敗者でもありましたから、その精神バランスを取る為に、ナチスに対する抵抗運動の闘士たちを、ドイツの生き残った人達は自らに免罪符をえるように、闘士たちを称え、その名をドイツ各地で顕彰碑や広場・通り・学校名などに残したように思えます。
シュタウフェンベルグ伯爵・陸軍大佐などが行った反ナチス運動・抵抗運動を称賛することは素晴らしく、ドイツの良心として、もちろんそうあるべきでしょう。
が、同時にかつてヒトラー政権を救世者の如くに迎えた沢山の人々がいた時代もあった事はドイツの歴史の現実です。
オルデンブルク大公家の居城・博物館で「Gegen Hunger und Verzweiflung waehlt Hitler 飢えて絶望したら、ヒトラーを選ぼう(ポスター)」といった写真は、かつての人々の現実を教えてくれています。
たとえ、それが第一次大戦後のドイツの過大な戦後賠償や、大インフレという国民が苦しんだ日常生活の反動があったといえども。
ドイツの旅ではこの問題をしばしば思い、思考の迷路に陥ります。
(2021年7月31日Wiki等参照・訳、編集・追記)
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