2009/04/17 - 2009/05/01
24位(同エリア157件中)
jijidarumaさん
- jijidarumaさんTOP
- 旅行記524冊
- クチコミ589件
- Q&A回答105件
- 756,646アクセス
- フォロワー98人
期間 : 2009年4月17日(金)~5月1日(金)15日間の旅
(2009年04月03日)
1944年7月20日にドイツ国防軍将校によるヒトラー暗殺未遂事件が起きたが、この事について①事件に関与した人たち、②事件の実行者:クラウス・シュタウフェンベルク伯爵と書いてきました。下記の内容も時にダブル部分もありますが、ご容赦頂きたく思います。
【映画:1944年7月20日・ワルキューレ作戦Operation ”Walkuere“】
この作戦名のドイツ語Operation Walkuereオペラツィオーン・ヴァルキューレはリヒャルト・ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』に登場する北欧神話の女神ヴァルキューレに因むもので、ドイツ人らしい名前だ。
それはドイツ国防軍の国内予備軍が第二次世界大戦中に立案した国内予備軍の結集と動員に関する命令である。
ヒトラー暗殺を画策した国防軍将校たちはこの命令で、軍を動かし国家体制を掌握しようと考えたのである。
それはヴォルフスシャンツェ(“狼の巣”:ヒトラー総統大本営の一つ) において時限爆弾によるヒトラー暗殺事件を起こすと同時に、ベルリンの国内予備軍司令部は「SS・ナチスの武装親衛隊がヒトラー総統の逝去に乗じて反乱を起こした。」としてヴァルキューレ作戦を発動させるのである。
北バイエルンの旅に出る前の2009年04月03日(金曜日)にトム・クルーズ主演の米国映画・ワルキューレ作戦を見にいった。
18時35分開始の映画は金曜日なのに、観客はなぜか少ない。私どもに、中年のご夫婦、20代のカップル、年配の小父さん、中年の男性など10人にも満たない。
若い人は世界史を学んでいないとも聞くので、こうした映画はあまり興味を持たないのだろうか?!
写真はOperation ”Walkuere“トム・クルーズの大佐役
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
映画評論家の何人かの記事も読んでいたが、トム・クルーズ主演とこの映画の歴史的背景とに違和感があるようで、総じて諸手を挙げて推奨するというものではなかった。
しかし、見た感想は記事が的外れだと思えた。考えていた以上にヒトラー暗殺・国防軍将校たちの反逆行動を忠実に描ききったと思えた。クルーズも普段とは異なった役を良くこなしたといえようか。
映画の冒頭はヒトラー搭乗機爆破失敗や1943年4月のアフリカ戦線のチュニジアでClaus Schenke von Stauffenbergクラウス・シェンケ・フォン・シュタウフェンベルグ大佐がヒトラー政権への疑問を日記に書いている所が描かれる。このチュニジアで大佐が、左目、右腕、左手の指二本を失う重傷を負った、すさまじいシーンから映画は始まる。
http://www.imdb.com/title/tt0985699/
写真はトム・クルーズとシュタウフェンベルグ大佐 -
第二次世界大戦下のヒトラー・ドイツに対し、1944年6月、米英軍はノルマンディー上陸作戦を成功させ、東部戦線でもソ連軍の攻勢でドイツ軍中央軍は壊滅的打撃を受けて、ドイツの敗色は濃厚となっていた。
この祖国を救うには独裁者、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーを葬り去ることが必須だと、多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが考え、ヒトラーの退陣、最後には暗殺を企てるグループ(根強い階級的な侮蔑感・・・名門の貴族階級にある人達がオーストリア出身のヒトラー“伍長”に祖国ドイツが滅亡されるという危機感を持ったとも言えるか!)が出てきた。
後にゲシュタポによって「Schwarze Kapelle黒いオーケストラ」の名で呼ばれるようになる。
辛くも生き残った大佐が、そうした反ヒトラー組織に誘われて、危険な暗殺計画を起案し、自ら実行者となる。
スリリングな映画の筋は見ているものをぐいぐい引き込んでいく。
写真は映画ワルキューレ作戦Operation ”Walkuere“の一シーン -
父親は旧ヴュルテンベルク王国の名門貴族の出身で、母方の先祖にはプロイセン参謀本部の創設者の一人であるGraf August von Gneisenauアウグスト・フォン・グナイゼナウ伯爵がおり、シュタウフェンベルク大佐は曾孫にあたる。大学では文学を志した大佐が繊細な、心ある人であったのは想像できます。彼は結局、軍人になり、ヒトラー政権下で起こった、ユダヤ人襲撃事件(1938年11月の「水晶の夜」)でのナチスの行為を嫌悪し、ユダヤ人政策と宗教弾圧に反感をもったという。映画の中の冒頭でもナチ政権に賛同していない言動もあってか、アフリカ戦線に飛ばされた話もでてきます。
写真はWolfsschanzeヴォルフスシャンツェ“狼の巣”(総統大本営の一つ)の模型 -
1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校による、ヒトラー暗殺未遂事件はWolfsschanzeヴォルフスシャンツェ“狼の巣”(総統大本営の一つ)で起きた。
その指揮を執った国内予備軍参謀長シュタウフェンベルク大佐の“爆弾による暗殺”は実際に爆発し、爆弾の付近にいた将校や速記者だけが死亡・負傷し、ヒトラー自身は軽傷を負ったに過ぎなかった。
様々な要因から、ヒトラー総統の暗殺はもちろん、軍を動かし国家体制を掌握することも失敗に終わった。
日付が替わった7月21日、大佐ら4名は早々と銃殺刑に処せられる。
シュタウフェンベルク大佐の言葉が残っている。
「今こそ、何かがなされなければならない。その何かを敢えて行う者は自分が裏切り者としてドイツの歴史に残るであろうことを認識せねばならぬ。しかし、それを為さなかったら、自分自身の良心に対する裏切りとなるだろう。」
写真は爆弾の爆発後の部屋の惨状 -
XXX
“狼の巣”が建設された場所は東プロイセン州のRastenburgラステンブルク(現:ポーランド領ケントシン)の東約8kmの森林の中である。ラステンブルク周辺は東プロイセン時代から屈指の景勝地で、現在はポーランド・マズーリ湖沼地帯として知られている。
ここには居住棟、厚生棟(食堂・娯楽室・映画館など)、管理棟がおよそ40棟、コンクリート製の大型掩蔽壕(ブンカー)が7棟、小型のものが40棟もあった。ブンカーのコンクリートの厚さは6mから8mに達していたと云う。この他、鉄道引込線と飛行場が2ヵ所備えてあった。周囲は50mから150mの幅の地雷原に囲まれ、有刺鉄線は10kmに達し、面積は周囲の森林地帯を含め8平方kmに及んだ。警備する将兵は1944年時点で約2000名に達していたと云う。
写真は部屋の立ち位置図:ヒトラー青印、死亡者赤印、その他白印、時限爆弾入り書類カバンは机下右の□印 -
[ワルシャワ 2012年1月18日 ロイター電によると]
ポーランドで、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが総統大本営として使用した通称「狼の巣」を観光地として整備しようと、投資家を探す動きが出ている。
この施設はポーランド北東部ケントシン市の森林内にあり、現在は荒廃した状態となっている。「ワルキューレ作戦」として知られる1944年のヒトラー暗殺計画の舞台として有名で、2008年に公開されたトム・クルーズ主演の映画「ワルキューレ」で認知度を広げた。
施設は地元の森林当局が管理し、一般にも公開されているが、深い森の中に位置し、泥道を通らなければたどり着けないため、多くの観光客が訪れる場所ではないという。
地元の森林当局は現在、同施設を観光地として活用するための投資を募っており、その条件として、1年を通して営業できる博物館の整備などを求めている。
XXX
写真はHitlerヒトラーとイタリアのムッソリーニが現場視察に -
戦後、シュタウフェンベルク大佐らが銃殺刑に処せられた場所では毎年7月20日にドイツ連邦軍の忠誠宣誓式が行われる。ヒトラー政権下でドイツ軍人は「ドイツとドイツ民族の総統であるヒトラーに無条件の忠誠を誓う」と宣誓した。この宣誓をした為に多くの軍人はヒトラー暗殺計画に参画しなかったとされている。映画の中でも“忠誠宣誓”をしたのだから、反逆は許さぬ・・というシーンもある。
今日のドイツ連邦軍では特定の個人ではなく「ドイツ連邦共和国に忠誠を尽くし、ドイツ民族の自由と正義を守ることを誓う」と宣誓するという。
写真は室内への入口 -
戦後のドイツとしてはヒトラー政権に抵抗した人々、それも軍人がレジスタンスの英雄であった事を声高く、言う必要もあったのでしょう。
ヒトラー暗殺計画はヒトラーの政権奪取後、43回も企てられたそうです。
ドイツ敗戦の10か月前に起こった、この暗殺事件が成功していたら・・・もう少し早めに戦いも終わり、ドイツの美しい町の景観も昔のままに残っていただろうと云われています。
戦後のドイツ人にとって重荷となったユダヤ人虐殺もずっと少ない犠牲者で済んでいたであろう・・とも云われている。
(2009年04月07日)
写真は爆発後のヒトラー総統の破れたズボン -
(追記)
危機にあたっての軍人・政治家たちの人間模様もなかなか興味深いものでした。
それと当時の通信網(電話やテレタイプ)を利用した攻防も描かれていて、すごい緊迫感がありました。
不思議な事にクーデター派は直属の部隊を一個大隊すら、握っていないで、国内予備軍の反乱鎮圧作戦「ワルキューレ作戦」(占領地から数百万人の捕虜や労働者をドイツ国内へ連れて来ていたので、彼らが叛乱を起こした際の作戦を実行する鎮圧部隊)を利用して、政権奪取を図ったことです。
日本の226事件とは大きな違いがあります。
写真は掩蔽壕(ブンカー)跡 -
*爆弾あるいはピストルで、ヒトラー暗殺は可能か?
さて、私の疑問は、シュタウフェンベルク大佐があれほどヒトラーに接近できる立場にいたのに、なぜ爆弾で倒すことに拘ったのか・・です。
今のイスラム狂信派のようにシュタウフェンベルク大佐は自らの命と引き換えにとは、考えていなかったようだ。大佐の考えの中に自らは爆発の瞬間を回避しながら、ヒトラー以下、軍部の主要人物を一気に倒す事が頭にあり、この爆弾の手段に拘ったと思う。
写真は狼の巣の記念碑 -
つまり、シュタウフェンベルク大佐は生きてベルリンに戻り、作戦の陣頭指揮をとりたかった。さらにその後の政治・政権でしかるべき地位を得て、活動をしたかったように思えるのです。
ヒトラーは猜疑心も強く、さらにヒトラー暗殺計画がヒトラーの政権奪取後、43回も企てられたそうですから、司令部(狼の巣)の警戒は厳しかったのでしょう。
ただ、時限爆弾を書類カバンに隠し持って入れただけに、拳銃も隠し持てた可能性はあったかとも思われる。確かに身辺の警戒は厳重で、携帯した拳銃は会議の場には携行できませんでしたが。
写真は20.Juli_1944ワルキューレ作戦の関与者切手集 -
シュタウフェンベルク大佐自身はベルリンでの新政権樹立の為に戻る必要があったとしても、ヒトラーを倒せなかったのがこの作戦の失敗になったのですから、身を捨てて・・と、思うのは日本人的な後講釈でしょうか!
写真は上級大将(元陸軍参謀本部総長)ルートヴィヒ・ベック・・・ヒトラー打倒後に出来る新政権の大統領になる予定であった。 -
大佐は25歳でバンベルクの貴族の娘Nina Freiin von Lerchenfeldニーナ・レルヒェンフェルト男爵令嬢と結婚し、彼女との間に5人の子供をもうけている。
“反逆者”シュタウフェンベルクの夫人とその長男(後にドイツ連邦軍の大将)は敗戦までの間、強制収容所に入れられ、幼かった子どもたちは児童施設に収容され、末娘コンスタンツェは収容所で生まれている。夫人の妊娠したそぶりを映画で見せていたが、大佐本人が知っていたか・・・。
ニーナ夫人は大佐の分まで長生きし、余生をおくっていたドイツ南部バンベルクの北30kmのKirchlauterキルヒラウターで、2006年4月2日に92歳で死去した。
写真は国内予備軍一般軍務局局長・大将フリードリヒ・オルブリヒト -
写真は陸軍中尉(シュタウフェンベルク大佐の副官)ヴェルナー・カール・フォン・へフテン
-
写真はクラウス・シュタウフェンベルク伯爵とヘルムート・モルトケ伯爵の記念切手:シュタウフェンベルクとモルトケの生誕100年を記念する切手が2007年に発行された。
ヘルムート・モルトケ伯爵は
メクレンブルクの古い貴族・モルトケ家の一員である。ドイツ帝国初代参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケの甥の孫にあたり、弁護士であった。
モルトケのクーデター計画への関与は証明されなかったため、「ヒトラー後」に堕落したドイツを樹立しようとモルトケらが画策したのは死刑に値するとして絞首刑になった。
子供たちに送った手紙には、「ナチスが政権を握って以降、その犠牲を和らげ、道を変えようと努めてきた。私は自分の良心、そして男としての務めに従った」と抵抗運動参加への動機が書かれている。
モルトケはナチスに反対する一方で、ヒトラー暗殺計画には反対していた。 -
Gedenkstaette Deutscher Widerstand Berlinベルリン・ドイツ抵抗運動記念館
Der Bendlerblock 、Stauffenbergerstrasse 13 - 14
ここはヒトラーに抗した人々を記念した博物館である。ベルリンのドイツ抵抗運動記念館はかつて軍の旧最高司令部でした。1944年7月20日にヒトラー暗殺・クーデターの試みがあった歴史的場所にある。
1953年、この栄誉の館はナチス抵抗運動追悼所となり、2階の常設展示では、5,000枚以上の写真と、26のテーマに分かれた記録を展示している。
写真はかつての軍の旧最高司令部、今はベルリン・ドイツ抵抗運動記念館 -
ドイツの人々がどのようにナチス政権に抵抗したのか、どんな動機と目的を持っていたか、そしてナチス打破後をどうしようとしていたのか、多くの資料でそれを示している。
写真は中庭の銃殺された場所の銅像・記念碑 -
後代からみると、早い時期にナチス党の台頭を抑えるべきだったのでしょう。ドイツ人はこのナチス政権の誕生を、諸手を挙げて歓迎したのですから、今から思うと不思議です。
第一次大戦で負けたドイツが巨額の戦時賠償義務を負った事、超インフレに経済の壊滅、左翼陣営の活発化、社会不安増大といった諸々に、どん底感があったドイツ国民が反動化したのも分かる気がする。
抵抗運動をした人たちは比較的恵まれた環境に居た人であったようで、ヒトラー暗殺に失敗すると簡単につぶされてしまった。
それでもこの言葉にうたれます。
実行者シュタウフェンベルク大佐の言葉も残っている;
「今こそ、何かがなされなければならない。その何かを敢えて行う者は自分が裏切り者と してドイツの歴史に残るであろうことを認識せねばならぬ。しかし、それを為さなかったら、自分自身の良心に対する裏切りとなるだろう」
20世紀はドイツのみならず、世界中がたいへんな時代でした。良心、正義心で生きていけなかったようにも見えます。
写真は記念館の碑と花冠。 -
Auf der Gedenktafel steht folgendes geschrieben記念碑(上)に次のように書かれている:
HIER STARBEN FUER DEUTSCHLAND AM 20. JULI 1944:
GENERALOBERST LUDWIG BECK
GENERAL DER INFANTERIE FRIEDRICH OLBRICHT
OBERST CLAUS GRAF SCHENK VON STAUFFENBERG
OBERST ALBRECHT RITTER MERTZ VON QUIRNHEIM
OBERLEUTNANT WERNER VON HAEFTEN
1944年7月20日、ドイツの為に彼らはここで死んだ。
上級大将(元陸軍参謀本部総長)ルートヴィヒ・ベック
国内予備軍一般軍務局局長・大将フリードリヒ・オルブリヒト
ドイツ陸軍国内予備軍参謀長・参謀大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
オルブリヒト将軍の参謀長(シュタウフェンベルク大佐の後任)・参謀大佐フリードリヒ・アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム
陸軍中尉(シュタウフェンベルク大佐の副官)ヴェルナー・カール・フォン・へフテン -
写真はかつてのシュタウフェンベルグ大佐のオフィス
:2011年5月16日ベルリン・ドイツ抵抗運動記念館にて -
写真はシュタウフェンベルク伯爵達の銃殺刑のあった場所に立つ記念像
-
Diese Gedenktafel wurde eingelassen mit der Inschriftbp墓碑銘にこう記されている。:
IHR TRUGT DIE SCHANDE NICHT, IHR WEHRTET EUCH, IHR GABT DAS GROSSE EWIG WACHE ZEICHEN DER UMKEHR, OPFERND EUER HEISSES LEBEN FUER FREIHEIT, RECHT UND EHRE
抵抗した事を何一つ恥じる事は無い。自由、正義及び名誉の為、自らの尊い命を犠牲にしたことで、ナチス体制転換の象徴となり、彼らは偉大な、永遠なる守護人になった。
Direkt neben der Gedenktafel steht diese Statue zum Gedenken:
中庭に置かれた記念碑(上)傍にこの銅像(前の写真)がそれに向きあって立っている。 -
2012年5月22日(火)
A8に乗り、アウクスブルクを過ぎるとウルムとの間は長々とした距離が工事中(2015年9月まで時速80〜120km制限が続く。)だった。
51kmでイェッティンゲン・シェップパッハのイェッティンゲン城前に50分で到着した。
旅行前にシュタウフェンベルク伯爵がここで生まれたと知って、是非訪れてみたいと思った。
<Jettingen-Scheppachイェッティンゲン・シェップパッハ>
Mindelミンデル(ドナウの支流・78km)川が中央を流れる。人口6.7千人の町。
http://www.jettingen-scheppach.de/
≪Schloss Jettingen イェッティンゲン城≫
D-71131 Jettingen-Scheppach 、Schlossstrasse 6
http://de.wikipedia.org/wiki/Schloss_Jettingen
1480年にHans von Stain シュタイン家のハンスにより、当初、水城として築城された。
シュタウフェンベルク家はシュヴェービッシェ地方の古くからの貴族の一門であったが、1716年、その一族であったJohann Albrecht Freiherr Schenk von Stauffenbergヨハン・アルブレヒト・シェンケ・シュタウフェンベルク男爵がイェッティンゲンを所領とし、この城を居城としていた。その後、1747年からシュタウフェンベルク伯爵家が保有した。
1907年11月15日、この城で Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンケ・シュタウフェンベルク伯爵*(ヒトラー暗殺に関与したとして銃殺)が生まれた。
彼の母は出産の際に偶々、ここに滞在していたと云う。
写真はイェッティンゲン城 -
2000年に英国風の庭園がある城は売却され、Hieronymus Graf Wolff Metternichヒエロニムス・ヴォルフ・メッテルニッヒ伯爵が現在の城主である。
城門の前まで行ったものの、私有地の為、城門は固く閉ざされ、中を窺い知る事は出来なかった。写真を一枚、記念に撮っただけだ。
写真はイェッティンゲン城の庭園側 -
黒い森の東に人口1800人のLautlingenラウトリンゲンの小さな村がある。
ここのSchloss Lautlingenラウトリンゲン城はかつて一族が居城とした所で、クラウス・フォン・シュタウフェンベルグ伯爵一家が1942年の夏、休暇を過ごした写真がある。
ラウトリンゲン城は現在、村の所有になっているが、シュタウフェンベルグ礼拝堂が作られ、今も毎年7月20日(ワルキューレ作戦:ヒトラー暗殺実行作戦の日)には記念祭が催されるそうだ。
ラウトリンゲン城も訪れてみたいものだ。
XXX
写真はラウトリンゲン城
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち
-
前の旅行記
≪1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件の実行者:クラウス・シュタウフェンベルク伯爵≫
2009/04/17~
バイエルン州
-
次の旅行記
≪1944年7月20日:”反逆者”シュタウフェンベルグ伯爵夫人と子供たちのその後
2009/04/17~
バーデン・ビュルテンベルク州
-
≪1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件の実行者:クラウス・シュタウフェンベルク伯爵≫
2009/04/17~
バイエルン州
-
≪1944年7月20日:映画・ワルキューレ作戦Operation ”Walkuere“について≫
2009/04/17~
ベルリン州
-
≪1944年7月20日:”反逆者”シュタウフェンベルグ伯爵夫人と子供たちのその後
2009/04/17~
バーデン・ビュルテンベルク州
-
≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち≫
2011/05/13~
ザクセン・アンハルト州
-
番外編:財宝を隠した城主は『ワルキューレ』作戦実行の反ナチ・ヒトラー運動メンバーとして歴史に名を残した。
2011/05/20~
ザクセン州
-
番外編:総統アドルフ・ヒトラーにも愛称!があったとは!
2011/05/20~
ザクセン州
-
番外編:ヒトラーの報復・1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関与者の子供たちの運命は如何に!
2011/05/20~
ニーダーザクセン州
-
番外編:空を飛ぶ伯爵夫人メリッタ・シュタウフェンベルクは、索敵中の米軍機に撃墜され、無念の死を遂げた。
2011/05/20~
バイエルン州
-
番外編:ヒトラーが好んだWolfヴォルフは狼のことだが、Wulffヴルフも狼か!
2011/05/20~
ニーダーザクセン州
-
≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベ...
2014/05/09~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
-
番外編:ベーゼラーガー騎兵団の指揮官ゲオルク大佐は山本五十六元帥と同じ剣付柏葉騎士鉄十字章を授与された。
2014/05/21~
その他の都市
-
番外編:ハン・ミュンデン:ヒトラー暗殺未遂事件に関与し、処刑された一人の弁護士
2019/09/18~
ハン・ミュンデン
-
番外編:「ヴェストファーレンのローテンブルク」と称されるハンザ都市ヴァールブルクにも反ヒトラーの闘士がいた。
2019/09/29~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち
0
25