2014/05/21 - 2014/05/21
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jijidarumaさん
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≪ドイツの春:北方二州を巡る旅≫
ドイツの春:北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅
期間:2014年05月09日~23日 15日間)
【1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟】
(上記の旅行記ご参照:2014/12/29に投稿した
https://4travel.jp/travelogue/11201918)
写真はGeorg Freiherr von Boeselagerゲオルク・ベーゼラーガー男爵
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
イチオシ
ノルトライン・ヴェストファーレン州のヴェストファーレン低地(ミュンスター平野)の南東端に、宗教都市Paderbornパーダーボルンの町がある。
その北西4kmの近郊にSchloss Neuhaus ノイハウス城(写真)が建っている。
ノイハウス城はヴェーザー・ルネサンス様式の宮殿で、宮殿はLippeリッペ川、Almeアルメ川そしてPaderパーダー川の合流点、半島のような地点にあるのだ。
≪Schloss Neuhaus ノイハウス城 ≫
D-33104 Paderborn 、Im Schlosspark 10
http://www.schlosspark-paderborn.de/
<ノイハウス城の歴史>
ノイハウスの名前が初めて歴史書に出てくるのは1036年頃である。
1257年、パーダーボルン司教により町の防衛拠点として城が建てられた。
1370年、ハンザ同盟に加盟したパーダーボルンの繁栄と共に力を付けてきた都市市民との抗争もあり、侯爵司教Heinrich von Spiegel zum Desenberg (Heinrich III)ハインリッヒ・シュピーゲル・デーゼンベルク(ハインリヒ3世)はパーダーボルンの町からノイハウスに自らの居城を移した。
ノイハウス城は地域のノイハウスの名を取ったもので、1524~1526年にかけウェーザー・ルネサンス様式で新たに建造された宮殿である。
パーダーボルン侯爵司教領はプロイセン王国に併合された1802年まで続いた。
ノイハウス城はプロイセン王国の軍事的施設として使用され、その後、1807~1813年の短い間、フランス帝国の衛星国であったKoenigreich Westfalenヴェストファーレン王国に属し、軍事的施設として使用された。
即ち、プロイセン王国から第二次大戦までの各時代を、騎兵部隊(甲騎兵連隊、軽騎兵連隊)の駐屯地の役目を果たしている。
更に士官乗馬学校として。
第二次大戦後の1945~1964年の間は占領国の英国陸軍(ライン軍団)の基地となった。
現在の城館は1967年に新しく開校されたRealschule実務学校に使用され、1994年にはノルトライン・ヴェストファーレン州庭園ショーがノイハウス城で行われるにあたり、城内外を整備改装された。
以来、夏の宮殿祭りなどが催されるようになった。
写真はSchloss Neuhaus ノイハウス城:正面・・・ノイハウス城は現在Realschule実科学校として利用されている。 -
≪ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟記念碑(ノイハウス城)≫
丁度やってきたこの学校の生徒である女の子二人に聞いてみると、この顕彰の事は知らないという。第二次大戦の敗戦から70年も経つと、ドイツでもこんなものかと思った。
尤も、日本に帰ってから調べたが、ノイハウス城のWikiやこの地区の歴史的建物・顕彰を見ても男爵兄弟については全く記述や画像も無かった。この事にいささか驚いた。
写真はSchloss Neuhaus ノイハウス城:横から -
イチオシ
ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟はErzbistum Magdeburgマグデブルク大司教の系譜に繋がる家の出で、1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件を起こした実行者・国内予備軍司令部参謀長・陸軍大佐Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、歴史にその名を遺した。
写真はSchloss Neuhaus ノイハウス城:校庭(かつての城の中庭)の一隅にゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟記念碑がある。 -
1944年7月18日、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は騎兵第31連隊の1200名を指揮し、東部戦線からベルリンに向かったという。
7月20日のシュタウフェンベルク大佐らの企てを支援するために軍を動かしたのだが、暗殺が失敗に終わったことを知り、兄弟は兵1200名を率いて元の東部戦線に戻った。
以前、シュタウフェンベルク大佐について書いた。
『その時、彼らが実戦部隊を保有しないで計画を実行したことに疑問を持った。クーデター派は直属の部隊を一個大隊すら握っていないで、国内予備軍の反乱鎮圧作戦=「ワルキューレ作戦」(占領地から数百万人の捕虜や労働者をドイツ国内へ連れて来ていたので、彼らが叛乱を起こした際の鎮圧する部隊)を利用して、政権奪取を図った。日本の226事件とは大きな違いだ。』・・・と。
実はここに実戦部隊が用意されていたわけである。
ベーゼラーガー騎兵団は抵抗運動の同志が信用できる、わずかな実戦部隊の一つでした。だからこそ、この部隊は反乱計画においても、鍵となる重要な役目を与えられていた。
写真はSchloss Neuhaus ノイハウス城:広大な庭園と遠景 -
1944年8月27日、ゲオルク男爵は戻った東部戦線のポーランド・ウォムジャ(ドイツ名Lomschaロムシャ)でソ連軍の狙撃手に撃たれて戦死。
弟のフィリップ男爵は生き残って、2008年5月1日、居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で死去した。
何故、この城にゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟の記念碑が建てられたかというのは、記念碑を読んでみると、男爵兄弟が当地の騎兵第15連隊に属し、ノイハウス城にあった士官乗馬学校で騎兵の訓練を受け、その後も、青年士官として軍務についていたことに由来するようだった。
Georg Freiherr von Boeselagerゲオルク・ベーゼラーガー男爵(1915~1944年)はドイツ国防軍の騎兵将校、優秀で、実に勇敢な軍人であった。
ベーゼラーガー騎兵団の創設という軍事政策上でも立派な功績を遺した。
東部戦線での戦死後、陸軍騎兵大佐に昇進。
ドイツ抵抗運動の歴史の中で、かの有名なバンベルクの大聖堂にある理想の騎士像(13世紀)“バンベルクの騎士” の再来*とも云われたクラウス・シェンク・シュタウフェンベルク大佐が最も知られた存在です。
(*シュタウフェンベルク大佐が入隊したのはバンベルク第17騎兵連隊であり、騎兵将校として育ち、勤務したのもこの地である。
また、ニーナ・レルヒェンフェルト男爵令嬢と知り合い、結婚式を挙げたのもバンベルクであった。後に英雄となった眉目秀麗な大佐を“バンベルクの騎士”の再来と称したのもバンブルク市民であれば、尤もなことかもしれない)
ゲオルク大佐が創設したベーゼラーガー騎兵団もまた良く知られていて、ゲオルク大佐は“ベーゼラーガーの騎士”と称されていると云う。
騎兵第15連隊:
1934年4月1日、ゲオルク男爵はパーダーボルンの騎兵第15連隊に入隊する。
騎兵教育後、1936年に陸軍騎兵少尉に任官、1939年には陸軍騎兵中尉に昇進。
1939~1941年、ポーランド及び西部戦線:
1939年、ポーランド出征で2級鉄十字勲章を授与される。
1940年、西部戦線出征で1級鉄十字勲章(Eiserne Kreuz I. Klasse)を授与される。
1941年、戦闘における勇敢な行為に対し、特に騎士鉄十字勲章を授与される。
1941年には陸軍騎兵大尉に昇進。
1941~1945年、対ソ戦線(奇襲攻撃作戦:1941年6月~12月バロバロッサ作戦):
1941年12月、奇襲攻撃作戦における指揮に対し、柏葉付騎士鉄十字勲章を授与される。
(途中略)
1943年6月1日、ゲオルグ男爵は陸軍騎兵少佐に昇進し、中央騎兵連隊司令官となる。
6月15日現在の中央騎兵連隊の規模は士官68名、軍属6名、兵下士官3163名、コサック兵716名、軍馬3016頭であったと云う。
1943年6月23日、ゲオルグ男爵は中央騎兵連隊司令官として、中央軍集団・参謀長ヘニング・トレスコウ少将に呼ばれ、パルチザン対策への具申を行う。
1943年10月、さらなる戦いで、負傷。
1943年12月1日、陸軍騎兵中佐に昇進。
1944年2月、新たに負傷した為、6月の時点でもいまだ軍務に戻ることができずにいた。
1944年6月、米英軍はノルマンディー上陸作戦を成功させ、東部戦線でもソ連軍の攻勢でドイツ軍中央軍は壊滅的打撃を受けて、ドイツの敗色は濃厚となっていた。
この祖国を救うには独裁者、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーを葬り去ることが必須だと、多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが考え、ヒトラーの退陣、最後には暗殺を企てるグループが出てきた。後にゲシュタポによって「Schwarze Kapelle黒いオーケストラ」の名で呼ばれるようになる。
1944年7月18日、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は共に1944年7月20日にヒトラー総統打倒の企ての同志として、男爵兄弟は騎兵第31連隊の1200名を指揮し、東部戦線からベルリンに向かった。
(詳細は次の章・フィリップ男爵の欄を参照)
1944年7月20日、クラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵らはヒトラー暗殺未遂事件いわゆる“ワルキューレ作戦”を起こしたが失敗した。
1944年8月27日にゲオルク男爵は東部戦線のポーランド・ウォムジャ(ドイツ名Lomschaロムシャ)でソ連軍の狙撃手に撃たれて戦死した。
ゲオルク男爵は戦死後、騎兵大佐に昇進し、柏葉付騎士鉄十字章に剣を加えられた。(剣付き柏葉章受章者は159名のドイツ軍人と、1名の日本軍人(*山本五十六元帥)の計160名のみである)
*この時はスルーしたが、山本長官が「剣付柏葉騎士鉄十字章」を授与された背景を知りたくて、その後以下のように纏めた(Wiki抜粋)
写真は柏葉付騎士鉄十字章を付けたゲオルク・ベーゼラーガー男爵 -
≪ベーゼラーガー騎兵団Reiterverband Boeselagerはベルリンへ前進せよ!≫
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したフィリップ・ベーゼラーガー男爵
生誕と騎兵第15連隊:
1917年、フィリップはWasserburg Heimerzheimハイメルツハイム水城で、父Freiherrn Albert von Boeselager (1883~1956) と母Gattin Freiin Maria-Theresia von Salis-Soglio (1890~1968)の9人の子供の5番目に生まれた。ドイツ国防軍の騎兵将校。
1936年には、フィリップ男爵は2つ上のゲオルク男爵と同様に、パーダーボルンの騎兵第15連隊に入隊する。
1938年9月、陸軍騎兵少尉に任官。
1939年には陸軍騎兵中尉に昇進。
フィリップ中尉はゲオルク男爵と同じ第15騎兵連隊にいたが負傷し、復帰した1942年7月からKlugeクルーゲ陸軍元帥・中央軍集団司令官のもとで参謀を補佐する士官になる。
この頃、参謀長Henning von Tresckowヘニング・トレスコウ少将とも面識ができ、ヒトラー総統打倒の企てのグループに入った。
1943年3月13日、中央軍集団・参謀長ヘニング・トレスコウ少将らはヒトラーの前線(in Smolenskスモレンスク)視察の機会をとらえ、ヒトラー暗殺計画(「閃光」作戦の3案)を立てた。ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟が志願して実行したが失敗に終わった。
1943年5月、フィリップ男爵は大尉に昇進し、中央騎兵連隊第I大隊長となった。
≪“Zurueck in die alten Loecher”あるいは “Alles in die alten Loecher全てが古い穴の中(元の木阿弥・・・元の悪い状態に戻ること=>ヒトラー総統暗殺は失敗)”≫
ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は共に1944年7月20日にヒトラー総統打倒の企ての同志でした。
フィリップ男爵は3Kavallerie-Brigade騎兵旅団=6 Schwadronen騎兵中隊=1200人を擁した。“ワルキューレ作戦”決行日前の1944年7月18日に1200名の騎兵を率いて、兄のゲオルクと共に、ベルリンに向かった。
ヒトラーの暗殺成功後、直ちに大物側近のヒムラー、ゲッペルスを捕えるために。
当初、騎兵旅団は東部戦線のBrest-Litowskブレスト・リトフスク(現ベラルーシ)方向に馬を走らせた。
その後、ワルシャワに貨物自動車で運び、ワルシャワからベルリンには飛行機を利用することにして、ベルリンの国家保安本部を占拠することにしていた。
この時、1200名の騎兵"Reiterverband Boeselagerベーゼラーガー騎兵団(1943年1月設立)"の内で、作戦の秘密を知っていたのはわずか二人の騎兵大尉だけだったそうです。
“全てが古い穴の中(元の木阿弥・・・元の悪い状態に戻ること=>ヒトラー総統暗殺は失敗)”という伝言が同志Robert Bernardisロベルト・ベルナルディス中佐(ドイツ国防軍の参謀本部・8月8日絞首刑、後にオーストリア人のシュタウフェンベルクと称された)からもたらされたのは、36時間の強行軍をした後でしたが、フィリップ男爵は帰還命令を出し、200 km先の東部戦線に引き返したのです。
二人の騎兵大尉を除く、残りの兵は何かを疑うことはあったかもしれませんが、フィリップ男爵は兵たちからこの事で告発されることはなかった。
・・・・・
1944年7月27日、フィリップ男爵は騎士十字章を授けられた。
さらに8月8日、第41騎兵連隊(第4騎兵旅団)の連隊長に補された。
1944年10月フィリップ男爵は陸軍騎兵少佐に昇進。
1945年4月16日、フィリップ少佐は第3騎兵師団第31騎兵連隊長となる。
第3騎兵師団はオーストリア南端のBad Gleichenbergバート・グライヒェンベルク地域に後退して、退路を確保しつつ戦い続けた。
1945年5月1日、ヒトラーの死が部隊に伝えられた。
降伏の地はオーストリアのグラーツ周辺で、幸いなことにソ連軍ではなくアメリカ軍に降伏することができた。
1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件を起こした実行者・陸軍大佐クラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、フィリップ男爵も歴史にその名を遺したのである。
写真は騎士鉄十字章を付けたPhiripp Freiherr von Boeselagarフィリップ・ベーゼラーガー男爵 -
<ドイツ騎士鉄十字章の等級>
第二次世界大戦の緒戦ポーランド侵攻の頃にはヒトラーはこの戦争が長期化するとは考えていなかったため、騎士鉄十字章に等級を設けてはいなかった。
しかし戦争が長引く中で騎士鉄十字章受章後の勲章が必要になり、騎士鉄十字章がいくつかの等級に細分化されるようになった。
1940年6月3日に柏葉付騎士鉄十字章、
1941年6月21日に柏葉・剣付騎士鉄十字章、
1941年7月15日に柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章、
1944年12月29日に金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章が制定された。
写真は騎士鉄十字章
①ドイツ騎士鉄十字章
騎士鉄十字章の受章にあたっては一級鉄十字章(Eisernen Kreuzes I. (erster)Klasseはプロイセン及びドイツが四度の戦争で制定した軍事功労賞であり、最下級の鉄十字章二級鉄十字章の上位に位置した。四度の戦争・・・ナポレオン戦争、普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦・・・の何れに於いても制定されている)を受章している必要があった。
一級鉄十字章を受章した者が更に戦功を挙げた場合に騎士鉄十字章が授与された。一級鉄十字章の総受章者は約30万人いたのに対し、騎士鉄十字章は7,313名とかなり数が限られていたため、騎士鉄十字章を受章した者はドイツ社会から英雄視された。外国人は合計44名に授与された。 -
写真は柏葉付騎士鉄十字章
山本長官は連合艦隊司令長官就任(後に海軍大将)の半年後、1940年(昭和15年)2月9日 - ドイツ②「柏葉付騎士鉄十字章」(882名のドイツ軍人と9名の外国人に)を授与された。
(昭和19年3月 31日、フィリピンで戦死した古賀 峯一(こが みねいち、1885年~1944年)連合艦隊司令長官(海軍大将、山本長官の後任)も柏葉付騎士鉄十字章を授与されている。従って、日本人は2名となっている)
陸軍大国のドイツが好んだのは、日本陸軍ではなく、海軍軍人だったことが不思議でもあるが、太平洋戦争で真珠湾攻撃という華々しい戦果を為した海軍が好まれたのだろうか。 -
写真は剣付・柏葉付騎士鉄十字章
山本長官は 1943年〈昭和18年〉4月18日)に連合艦隊司令長官として前線視察の際、ブーゲンビル島(パプアニューギニア)の上空で米軍機により撃墜されて戦死した。
この時、日独伊は三国同盟中で、山本長官の死を悼み、1943年5月27日付でドイツより名誉ある③「剣付柏葉騎士鉄十字章」(没後叙勲)を授与された。
この勲章は上記したように騎士鉄十字章の5等級の内3段階目にあたり、受賞者はドイツ国全体でも160名しかおらず、外国人受賞者は山本長官のみである。
また、山本が騎士鉄十字章の外国人受賞者としては単独で最高位となっている。 -
写真は柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章
また、その上位に④「柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章」がある。
ドイツ軍人の27名だけである。中で有名なのは<砂漠のキツネ>と云う異名で知られたロンメル元帥がいる。 -
写真は黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章
さらに⑤「黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章」があった。
全軍で最も勇敢な軍人、12人のみに授与されると定められていた。12という数字はキリストの最後の晩餐に因むという。第二次大戦中の制定もあってか、授与されたのはドイツ急降下爆撃機のパイロットだったハンス・ウルリッヒ・ルーデル空軍大佐ただ一人でした。 -
*山本五十六元帥(旧姓高野、養子に入った山本家は旧長岡藩家老職を務めた名家)は、太平洋戦争という勝機の少ない戦いに反対しながら、戦争を指揮主導した悲劇的な指揮官であったが、幕末の戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩を率いて敗死した家老・河井継之助(かわい つぎのすけ、1827年~1868年)と同様の立場になっている。
(〒940-0056 新潟県長岡市呉服町1-4-1 山本五十六記念館)
(*jijidaruma曰く、日独伊三国同盟には、30代で米国駐在・ハーバード大留学、40代で米国日本大使館駐在武官も務めた体験から、山本長官は終始反対したそうだから、歴史の巡り合わせは皮肉なものと云って良いかもしれない)
写真は山本五十六連合艦隊司令長官(1884年~1943年)1941年頃 -
写真は古賀峰一連合艦隊司令長官(1885年~1944年)
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写真は山本元帥の国葬(1943年6月)
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(〒940-0053 新潟新潟県長岡市長町1甲-1675-1 河井継之助記念館(生家跡)
写真は山本元帥に絡み、同じ長岡人の河井継之助を載せた。
2022年10月21日Wiki/Hp参考、編集・追記)
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