2011/05/20 - 2011/05/20
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jijidarumaさん
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以下はこちらの番外編から派生した。
≪番外編:財宝を隠した城主は『ワルキューレ』作戦実行の反ナチ・ヒトラー運動メンバーとして歴史に名を残した。≫
https://4travel.jp/travelogue/11701647
二つのレポートを読んでみて、ヒトラー暗殺未遂事件関与者の
子供たちの運命を知った。
同じテーマを書いていながら、二つのレポートでは日時や表現も
異なっている所もあったが、そのままを訳している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真は『Familie Stauffenberg:Hitlers Rache
シュタウフェンベルク家:ヒトラーの報復』
2018年7月9日 刊、Ursula Brekleウルズラ・ブレクル著・
(ニーナ・シュタウフェンベルク伯爵夫人と兄弟姉妹:長男Bertholdベルトルト 1934生、 次男Heimeranハイメラン1936生、三男Franz Ludwig フランツ・ルートヴィヒ 1938生、長女Valerieヴァレリエ1940生、 次女Konstanzeコンスタンツェ1945生)である
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
『Hitlers Rache an den Kindern der Widerstandskaempfer vom 20. Juli 1944。ヒトラーの報復:1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関与者の子供たちの運命は如何に!』
先の番外編で書いたように、
ヒトラー暗殺未遂事件関与し、Heinrich Graf von Lehndorff-Steinortハインリヒ・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵が刑死した後、生き残った家族は第二次世界大戦が終わるまでSS(ナチス親衛隊) の労働収容所で過ごした。
反乱者の家族として、彼の家族は家や財産を失い、母と離された幼い3姉妹(6歳の姉マリー・エレノア、5歳のヴェルーシュカ、20ヶ月の妹ガブリエレ)は1944年8月26日から、Bad Sachsaバート・ザクサ のBorntalボルンタールにあったナチスのKinderheim養護施設(再教育の家)に収容された。
母の元に戻る事が出来たのは1944年12月のことだ。
写真はハルツ山地のバート・ザクサ:ナチスの児童養護施設の夜はひどかったと云う。 -
①『Kinder des 20. Juli 1944・・・1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関与者の子供たち』の記録を読むと、
https://www.ndr.de/geschichte/chronologie/Sippenhaft-Hitlers-Rache-fuer-Attentat-am-20-Julili-1944,badsachsa136.html
http://www.bad-sachsa-geschichte.de/
ヒトラー暗殺未遂事件関与者(20名)の子供たち46名はBad Sachsaバート・ザクサ のBorntalボルンタールにあったKinderheim養護施設(再教育の家)に1944年から1945年まで収容されていた。
1944年10月中旬から徐々に子供たちは母親や親戚に戻りはじめた。
1945年4月30日にアドルフ・ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺して、ナチス独裁に終止符が打たれた。
1945年5月04日 、占領したアメリカ人によって町長に任命された Willy Mueller ヴィリー・ミュラーは収容所の子供たちに次のように語ったと云う。
「Ihr braucht Euch Eurer Vaeter nicht zu schaemen, denn sie waren Helden.彼らは英雄だったので、あなたの父親を恥じる必要はありません」と言った。
1945年5月8日、連合国に対し、ナチスドイツは降伏した。後年、ドイツ連邦共和国はこの日を「Ende des Zweiten Weltkrieges第二次大戦終戦の日」と称している。
子供たちの帰還は遅くも1945年11月10日まで完了した。
因みに、当時収容された、主な加担者の子供たちの記録を見ると、
レーンドルフ・シュタイノールト伯爵の3姉妹マリー・エレノア6歳、ヴェルーシュカ5歳、ガブリエレ20ヶ月、
クラウス・シュタウフェンベルク伯爵・大佐の長男Bertholdベルトルト10歳、次男Heimeranハイメラン8歳、三男Franz-Ludwigフランツ・ルートヴィヒ6歳、長女Valerieヴァレリエ3歳の4人、
及びシュタウフェンベルク伯爵・大佐の兄のベルトルト・シュタウフェンベルク伯爵の長男Alfredアルフレッド6歳、長女Elisabethエリザベート5歳の2人、
ヘニング・トレスコウ陸軍少将の長女Uta ウタ13歳、次女Adelheidアーデルハイト4歳の2子、
アダム・ツー・ゾルツ男爵の長女Anna-Verenaアンナ・ヴェレナ2歳、Clarita クラリータ9ヶ月の2人がいた。
Bad Sachsaバート・ザクサ はハルツ山地の南周縁部に位置する。
現在は人口7千人のKurortクアオルト(保養都市)で、ゲッティンゲンの東約 50 km にあたる。
バート・ザクサのボルンタールには1935年から1936年に建設された8棟の木造病棟からなる小児病院の敷地があった。
ブレーメンのある財団が街の子供たちに南ハルツの温泉を体験させるための施設を建設したが、この「子供レジャー施設」は当初の目的通りに機能しなかった。
1936年、この土地はナチ政府に接収され、療養所が設けられた。
1938年以来、ナチ政府がKinderheim児童養護施設を運営していた。1944年の晩夏には、施設は特別の目的の為、改装され、占有スペースが作られた。
元々は施設には200名を収容する予定だったと云う。
1944年7月20日の暗殺未遂事件以後、8月から9月にかけて暗殺者"Sippenhaft家族・親族"の子供 46人(生後1ヶ月から15歳まで)がここに収容され、ゲシュタポによる厳しい監視下に置かれた。
写真はハルツ山地Bad Sachsaバート・ザクサの周辺図 -
イチオシ
「私たちはIdentitaetアイデンティティを奪われました」
その少年はひとりぼっちだった。≪私の兄弟はずっと年上で、刑務所にいました。もちろん、母も私も其々一人でいた。私たちはアイデンティティを奪われていたので、それは悲惨な状況だった。ゲシュタポはセキュリティの面で子供にとって実存的に重要なもの全てを取り除いていた≫と、当時82歳になっていた彼(その少年)は、2019年に放送されたNDR (Norddeutscher Rundfunk北ドイツ放送)のドキュメンタリー番組「Hitlers Zorn ・・・ Die Kinder von Bad Sachsaヒトラーの怒り・・・バート・ザクサの子供たち」で、インタビューに答えて当時の事を語っている。
「75年後でさえ、見捨てられたトラウマはまだ深いです」
私は≪私が苦しんだFremdheit異様な時が心の中で凍結してしまうのを持っています≫と、*カール・フリードリヒ・ゲルデラーの孫であった16ヶ月の幼いCarl Goerdelerカール・ゲルデラーは4歳の兄Rainer Goerdelerライナー・ゲルデラー(1941年~、法律家)と共に養護施設に収容されていたが、2019年にNDRに彼の感情を前述のように説明した。
写真はCarl Friedrich Goerdelerカール・フリードリヒ・ゲルデラーの二人の孫:兄ライナーと弟カール -
写真はCarl Friedrich Goerdelerカール・フリードリヒ・ゲルデラー
*Carl Friedrich Goerdelerカール・フリードリヒ・ゲルデラー(1884年~1945年)は政治家(1930年~37年ライプツィヒ市長)。反ナチ運動家。ヒトラー暗殺計画に加担(成功後は新政府の首相と目されていた)して、1945年2月2日にプレッツェンゼー刑務所で処刑された。
二人の孫はUlrich Goerdelerウルリッヒ・ゲルデラー (1913年~2000年、弁護士、政治家)の子供。
ウルリッヒはヒトラー暗殺計画に加担した疑いで刑務所と強制収容所で9ヶ月を過ごし、その後、彼はSSの人質として南チロル(現イタリア)に送られ、Lake Braiesブレイズ湖で解放された。 -
1945年4月、ナチスはバート・ザクサの子どもたちを強制収容所に移送したいと考えていた。1945年2月中旬には18人だけが収容を継続し、すでに彼らの殆どを帰宅させていた。
終戦の少し前の1945年4月3日、18人はNordhausenノルトハウゼンからKZ Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所まで電車で運ばれる予定でした。しかし、前夜に爆弾攻撃で鉄道駅が破壊されてしまい、- 強制収容所に行く代わりに、子供たちはバート・ザクサに戻ったのでした。
残りの子供たちは数週間後にかろうじて死を逃れたのでした。
1945年4月、バート・ザクサはアメリカ軍により解放された後、子供の家は再びブレーメンの財団に返還されたが、しばらく後に売却された。2001年にオープンしたキャンプ場がある。
写真は1945年5月、米軍の捕虜となった直後のDornbergerドルンベルガー(左端帽子の人)、Braunブラウン(中央)等。 -
尚、1944年から1945年にWernher Freiherr von Braunヴェルンヘル・フォン・ブラウン男爵(1912年~1977年、現ポーランドのポーゼンの出身、物理学博士、ドイツの兵器V2ロケット開発の指導者)とWalter Robert Dornbergerヴァルター・ロベルト・ドルンベルガー(1895年~1980年、ロケット技術者。ドイツ国防軍少将。陸軍兵器局でV2ロケット開発の責任者を務めた)の兵器V2ロケット開発の秘密司令部がこの地に設けられた。
二人は1945年5月、チロル地方ロイッテでアメリカ軍の捕虜となった。戦後、アメリカ移住が許され、米国のロケット、ミサイル開発等に寄与した。
写真はPeenemuendeペーネミュンデの博物館に展示されるV-2(2001年) -
② 『Hitlers Rache an den Kindern der Widerstandskaempfer vom 20. Juli 1944。ヒトラーの報復:1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関与者の子供たちの運命は如何に!』
(Diplom-Paedagoge・Ursula Brekleウルズラ・ブレクル著)
https://www.sachsen-lese.de/index.php?article_id=701
<Das Leben im Kinderheim Bad Sachsaバート・ザクサの児童養護施設(再教育の家)での生活>
1944年8月3日、Posenポーゼン(ポーランド西部の町ポズナン)でGauleiterガウライター(ナチ党大管区指導者)への悪名高い秘密のスピーチで、内務大臣・Reichsfuehrer der SS 親衛隊全国指導者であったHeinrich Himmlerハインリヒ・ヒムラー(1900年~1945年)は述べている。
「ある家族が追放された(法律の保護外に置かれた)と通告された場合、その後、こう言われるだろう。その男はVerrat反逆(裏切り)をした。その家系の血は悪い。反逆(裏切り)者の血を根絶する必要がある。シュタウフェンベルク家は最後のGliedメンバーまで一掃されるだろう」と・・・。
写真は1942年夏の休暇で、ラウトリンゲン城で3人の子供たちと遊ぶニーナ夫人 -
(≪1944年7月20日:”反逆者”シュタウフェンベルグ伯爵夫人と子供たちのその後≫の中で、書いたことを引用すると、
・・・ヒトラー暗殺未遂事件後、ナチス政府の憎しみは事件関与者の中でも特に貴族に向い、その憎しみが最も向けられたのが事件の実行者シュタウフェンベルク伯爵家であった。
内務大臣ハインリヒ・ヒムラーは「シュタウフェンベルク伯爵家は一人残らず根絶やしにせねばならない」と言った。伯爵家の財産は全て接収され、シュタウフェンベルクの名を名乗ることまで禁じられた。
“反逆者”シュタウフェンベルクの夫人は敗戦までの間、強制収容所に入れられ、長男ベルトルトら幼かった子どもたちは児童施設に収容されている。
ニーナ夫人は同年8月17日に子供たちと切り離され、夫クラウスの母であるカロリーネと共に、Konzentrationslager Ravensbrueckラーベンブリュック強制収容所(1939年5月、ドイツ東部・メクレンブルク地方Fuerstenbergフュルステンベルク市の近くに建設)に収容された。
ニーナ夫人(1913年~2006年)は当時身重で、1945年1月に末娘・次女コンスタンツェを出産した。他の4人の子供たちはBad Sachsaバート・ザクサ(ゲッティンゲンから東に50km、ハルツの南部)にあったナチスの養護施設に送られ、再教育を受けた。1945年4月にバート・ザクサはアメリカ軍により解放され、8月になって漸くニーナ夫人は子供たちと再会できた)
写真はBad Sachsa1907年のバート・ザクサ・・・後にシュタウフェンベルク大佐の子供たち等が収容されていた、ナチスの児童養護施設があった。 -
ヒトラー暗殺未遂事件関与者は大人だけでなく、青年や子供だけでなく、幼児も家族・一族の全てが影響を受けることとなった。
彼らはGestapoゲシュタポに拉致され、両親や親戚には知られていない場所に連れて行かれました。ヒムラーのこの悪意ある方法は、罰として意図され、関与者のまだ生きている親族に対する心理的圧力を大いに与えることなった。
この種の集団的報復は、特に母親にとって受難と言っても良く、子供たちはまた、母親の投獄を体験し、母や兄弟たちと突然の別れで、ショックだった。
あるべき大事な家族関係は、彼らがその理由を認識することなく、壊れた。
彼らはハルツ南部の森の端に、牧歌的に位置するいくつかの建物で構成されたバート・ザクサの児童養護施設に収容され、全く分けの分からない状態にある自分を感じ、多くの子供たちにとって、精神の混乱を生じていた。
写真はBad Sachsaバート・ザクサ :村内に別れて立っていた児童養護施設 -
1944年8月から、様々な地域から46人の子供たちが徐々にバート・ザクサの児童養護施設にやってきた。最年長は15歳、最年少は幼児でした。
そこで彼らは厳しい孤立に陥り、監督なしに家や敷地内に出ることを許されなかった。ラジオも新聞も無かった。子供たちは学校に行くことが許されなかった。
さて、ここで疑問が生じます。 彼らは一日中何をしていたのか?
彼らは様々な遊びをし、手工芸をやり、運動をし、広大な敷地を歩いた。
子供たちの治療は非常にフレンドリーでした。
1944年10月8日までの最初の数週間、兄弟は性別と年齢層により分離され、異なる家に置かれた。
彼らはお互いに手を振るか、偶然会うことしかできなかった。
最悪なことに、彼らは両親の運命について何も知らなかったので、両親たちが何処でどのような状況で生きているのか、そして自分たちは家に帰れるかどうかも知りませんでした。
写真はBad Sachsaバート・ザクサ:Hausflur im Kinderheim児童養護施設内の廊下 -
多くの子供たちがHeimwehホームシックになっていた。
それで小さなカールが兄ライナー(前述したライプツィヒ市長カール・フリードリヒ・ゲルデラーの孫)に激しく泣いて、母のこと尋ねたので、兄は弟にツイ強く当たってしまったと云う。
「私は家が良い! 私は家が好き!」
これは、12歳の*Christa von Hofackerクリスタ・フォン・ホーファッカーが、バート・ザクサで書いた日記の中で書いたことである。
クリスマスになると、皆は再びホームシックになった。
クリスタは「“聖しこの夜の歌”の調子は全体がひどいものでした。私の隣にいた9歳の弟Alfred von Hofackerアルフレッド・フォン・ホーファッカーは驚いて涙を流していたのに、私は彼を慰めることも出来なかった」と。
写真は1944年初夏の頃、左からリゼロッテ、クリスタ、エバーハルト、父ツェーザー、アルフレッド、アンナ・ルイーズが並ぶ。 -
*Caesar von Hofackerツェーザー・フォン・ホーファッカー(1896 年~1944年)はドイツ空軍中佐の予備役だったが、従弟のクラウス・シュタウフェンベルク伯爵と共に、1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件に関与した。
同年12月20日にベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処された。
Ilse-Lotteイルゼ・ロッテ夫人と5人の子供(Eberhardエバーハルト、Anna-Luiseアンナ・ルイーズ、Christaクリスタ、Alfredアルフレッド、Liselotteリゼロッテ)がいた。
年下の12歳の妹クリスタ、9歳の弟アルフレッド、6歳の妹リセロッテの3人がバート・ザクサの児童養護施設に収容された。
写真はCaesar von Hofackerツェーザー・フォン・ホーファッカー -
誰も子供たちの名前を知ることを許されなかったし、子供たちは本名を使用することを禁じられていた。彼らは別名を与えられました。
当時、シュタウフェンベルクは「Meisterマイスター」と、ホーファッカーは「Frankeフランケ」、ゲルデラーは「Hofmannホフマン」などと呼ばれていた。
8歳の次男Axel Freytag von Loringhovenアクセル・フライターク・フォン・ローリングホーフェンはたまたま、シュタウフェンベルクの子供たち、いわゆる「祖国の反逆者(裏切り者)」と云われた子供たちが他にもいたことを知った。
子供たちはそれについてお互いに話し合い、アクセルがほんとの名を言って、代表して捕まり、一種の事例を作った。
アクセルは「Femegerichtフェメゲリヒト(中世の秘密刑事裁判)」に引き出され、脅されて、二度と本名を口にしないと約束しなければならなかった。
勿論、年長の子供たちにはこの事はほとんど影響を与えなかった。彼らは自分のアイデンティティを知っていたからだが。
写真はFreizeit unter Hitlerヒトラーの監視下の自由時間: 男女別々に分かれて遊んだ。 -
*Wessel Freiherr Freytag von Loringhovenヴェッセル・フライターク・フォン・ローリングホーフェン男爵(1899年~1944年)は、Kurlandクールラント(現ラトビア西部)出身の軍人。最終階級はドイツ国防軍参謀大佐・。
1937年以来の友人であるシュタウフェンベルク大佐の1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加担し、参謀本部陸軍部長の立場を利用して、シュタウフェンベルクが暗殺実行に使用するイギリス製の爆薬と信管を用意した。
同年7月26日、ゲシュタポによる逮捕の手が及ぶ直前に自殺した。
彼の妻Elisabethエリザベートは直後に逮捕・投獄された。4人の息子も母親と引き離されバート・ザクサの養護施設に収容され、同年10月に解放された。
写真はWessel Freiherr Freytag von Loringhovenヴェッセル・フライターク・フォン・ローリングホーフェン男爵 -
クリスタ・フォン・ホーファッカーは、もともと子供たちは約8週間の期間だけこの養護施設に滞在することになっていた事をコンタクトできた幼稚園の先生から聞いていた。つまり、「両親と大きな兄弟が殺されるまで」の期間だった。
「その後は大きな子は*Napolaナポラ(1933年ナチス政権獲得後に民族共同体教育施設として設けられた、中等教育レベルの寄宿学校(ギムナジウム)である。卒業生には大学入学資格が与えられた)へ、小さな子は馴染みのないSS家族に割り当てる事になっていた」と云う。
写真はSchlafsaal in Haus Nummer zwei 家屋ナンバー2の寝室 -
<シュタウフェンベルクの子供たちは『ヒトラーの報復』から生還した>
10月の初めに、ハインリヒ・ヒムラーは彼の方針を変更し、多くの子供たちが解放された。
残りの子供たちは一緒の家に引っ越すことができ、1944年のクリスマスには14人の子供だけがその家に住んでいた。
子供たちはシュタウフェンベルク兄弟の6人(2+4)に加え、3人のいとこのホーファッカー、*Lindemannリンデマンの娘10歳のMarie-Luiseマリー・ルイーズ、2人のゲルデラーの孫、2人の小さな女の子、*Bernardisベルナルディの娘6歳の長女Loreロアーと*Gehreゲーレの娘5歳の長女Renateレナーテの総数14人でした。
シュタウフェンベルク大佐の子供たちの叔母、Melitta Schenk Graefin von Stauffenbergメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人が1944年のクリスマスに、バート・ザクサの子供たちを訪問し、子供たちには大きな喜びとなった。
その結果、家族・一族、そして後に子供たちの母ニーナも、子供たちが住んでいた場所、そこで彼らが世話をされ、世話をしてきた事を知ったのです。
写真はメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人 -
*Melitta Schenk Graefin von Stauffenbergメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人(1903年~1945年)はAlexander Schenk Graf von Stauffenbergアレクサンダー・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(1905年~1964年、古代史家、作家)の妻。ドイツの女性飛行家でテストパイロットとして有名だった。
義弟シュタウフェンベルク大佐の1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加担したとされ、他のシュタウフェンベルクの一族メンバーと共に逮捕された。
彼女はテストフライト義務を続けることを約束して、9月2日に放免された。
1945年4月8日にアメリカの戦闘機により撃ち落とされ、42歳で死去した。
写真は子供たちと再会できずに亡くなったメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人 -
*Fritz Lindemannフリッツ・リンデマン(1894年~1944年)は、ドイツ軍野戦砲兵部隊の将軍。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加担し、逮捕の際に重傷を負い、病院で死去。
写真はGeneral der Artillerie砲兵部隊の将軍 Fritz Lindemannフリッツ・リンデマン -
*Ludwig Gehre (Henke)ルートヴィヒ・ゲーレ(ヘンケ、1895年~1945年)はドイツ軍大尉でした。
1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加担し、1944年11月2日、妻のハンナ・ゲーレはゲシュタポとの銃撃戦で致命傷を受けた。ルートヴィヒ・ゲーレは自殺を試みるも、重傷を負って逮捕され、KZ Flossenbuergフロッセンビュルク強制収容所(1938年5月、ニュルンベルクの北東120km、チェコ国境から5kmに建設)に送られ、絞首刑に処された。
写真はLudwig Gehre ルートヴィヒ・ゲーレ -
イチオシ
*Robert Bernardisロベルト・ベルナルディ(1908年~1944年)は、ドイツ国防軍の参謀本部の中佐。
オーストリアの反ナチ・ヒトラー運動者として知られている。
彼は1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加担し、ベルリン市外の軍事地区IIIでワルキューレ作戦を電話で発動した。作戦は失敗して、身柄を拘束され、同年8月8日、プレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処された。
ロベルトの妻Hermineヘルミーネは義母と共に、1944年8月27日にKZ Ravensbrueckラーベンスブリュック強制収容所(主に女性を収容した)に送られ、1944年10月6日に釈放。2人の子供はバート・ザクサに収容された。
写真はRobert Bernardisロベルト・ベルナルディ、映画ワルキューレ作戦の場面も右上に見える。 -
1945年の復活祭の月曜日、すべての子供たちはドイツ国防軍の工場用の車に乗せられてKZ Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所に連れて行かれた。
Nordhausenノルトハウゼンに向かう途中、低空飛行の敵機が撃ち、恐ろしい爆弾のあられも30分ほど続いた。
それで駅が使用できなくなり、子供たちは強制収容所よりもはるかに優れて安全だったバート・ザクサの児童養護施設に連れ戻された。
この間、子供たちの親族はKZ Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所(1937年7月にWeimarワイマールの北西7kmに建設された)に収容されていた。
1944年7月の事件発生以来、シュタウフェンベルク家の成人メンバー13人が逮捕・投獄された。
シュタウフェンベルク家一族の収容所生活はKZ Stutthofシュトゥットホーフ強制収容所(ナチスが1939年9月にDanzigダンツィヒ・・ポーランド名Gdanskグダニスクの東36kmほどのStutthofシュトゥットホーフ・・ポーランド名Sztutowoシュトゥトヴォに建てた強制収容所で、収容者の総数は約12万人、うち死者数は8万5000人とされている)に始まり、Danzig・Matzkau Strafvollzugslagerダンツィヒ・マツカウSS監獄刑務所(警察軍事刑務所、使用期間1942年~1944年)を経由して、ブーヘンヴァルト強制収容所まで続いた。
マツカウ刑務所では、ニーナ・シュタウフェンベルクの母Anna Freiin von Lerchenfeldアンナ・フライイン・フォン・レルヘンフェルト男爵夫人(1879年~1945年、享年66歳)がチフスに罹患して死亡した。
*ニーナ・シュタウフェンベルクの家系図
https://geneee.org/nina/von+lerchenfeld?lang=en
その後、一族の囚人たちはKZ Dachauダッハウ強制収容所(1933年3月にミュンヘンの北西15kmに創設)に移送された。更に1945年4月25日、彼らはバスに乗り、アルプスの方向に向かい、最初にDurchgangslager Reichenauライチェナウ・トランジット収容所(1941年夏に竣工)に収容された。
その後、DolomiteドロミテのNiederdorfニーダードルフで、彼らはついに幸運な偶然によって解放された。それは4月28日にハインリヒ・ヒムラーの命令で処刑される前であった。
・・・・・
写真は『Nina Schenk Graefin von Stauffenberg. Ein Portraetニーナ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人の人物像』
娘のKonstanze von Schulthessコンスタンツェ・フォン・シュルテス著
2008年刊 -
バート・ザクサの児童養護施設の副所長であるVerchヴェルチ嬢はシュタウフェンベルクの兄妹たちに『遅ればせながら、1945年1月27日に妹Konstanzeコンスタンツェが生まれていたこと』を教えた。
(コンスタンツェはブランデンブルク州Frankfurt an der Oderフランクフルト・アン・デア・オーデルにあったナチスの出産センターで誕生した。出産の為に母ニーナはラーベンスブリュック強制収容所から転所していた)
写真は2歳の妹コンスタンツェ -
イチオシ
ヴェルチさんは社交的で、子供たちは彼女を信用していた。戦後、彼女はバート・ザクサの町長に任命された Willy Mueller ヴィリー・ミュラーと結婚した。
1945年4月12日、米軍はバート・ザクサを占領した。新たに町長に任命された Willy Mueller ヴィリー・ミュラー(強制収容所から釈放されたばかりの旧社会民主党員)は演説を行い、子どもたちに皆さんは自由になったと伝えた。
Christa von Hofackerクリスタ・フォン・ホーファッカーは日記に「彼は口頭でこう伝えたのです。・・・そして今、貴女の名前は元の通りに使用できます。貴女の父は英雄だった。父を恥じる必要はありません!」と。
しかし、子供たちにとっては、ほとんどその生活は変わらなかった。
写真は『Familie Stauffenberg:Hitlers Rache
シュタウフェンベルク家:ヒトラーの報復』
2018年7月9日 刊、Ursula Brekleウルズラ・ブレクル著・
(ニーナ・シュタウフェンベルク伯爵夫人と兄弟姉妹:長男Bertholdベルトルト 1934生、 次男Heimeranハイメラン1936生、三男Franz Ludwig フランツ・ルートヴィヒ 1938生、長女Valerieヴァレリエ1940生、 次女Konstanzeコンスタンツェ1945生)である。 -
6月11日、シュタウフェンベルクの子供たちのGrosstante大叔母、Graefin Uexkuellユクスキュル伯爵夫人(1873年~1963年)がついに登場した。
彼女は長年ドイツRotkreuzoberin赤十字の看護婦監督(看護総婦長)であり、バスをチャーターすることができた。
ユクスキュル伯爵夫人はまた、ホーファッカー、ゲーデル、リンデマン家の子供たちも無事に自宅に送った。バート・ザクサで最後に残った子供たちでした。
ユクスキュル伯爵夫人はシュタウフェンベルクの子供たちを故郷Lautlingenラウトリンゲンに連れて帰った。バンベルクの母の実家は完全に破壊され、奪われていたからだ。
この時、母親のニーナ・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人は何処にいたのでしょう?ニーナは娘コンスタンツェを抱えて、オーバーフランケン・Hofホーフ近郊のTrogenトローゲンの小さな村で立ち往生していた。母娘がラウトリンゲンに帰れたのは7月の初めになってからだった。
シュタウフェンベルクの家族は再び一緒となった。
写真は大叔母Graefin Uexkuellユクスキュル伯爵夫人 -
*Alexandrine Graefin von Uexkuell-Gyllenbandアレクサンドル・グレーフィン・フォン・ユクスクル・ギレンバンド伯爵夫人(1873年~1963年)はDeutschen Roten Kreuz Oberinドイツ赤十字社の看護婦監督(看護総婦長)。
ドイツ赤十字社は2021年、創立100周年を祝った。
彼女の功労に対して、1920年に第一回フローレンス・ナイチンゲール記章を授与された。1953年にはドイツ連邦共和国功労十字勲章を授与された。
(尚、日本でも1920年(大正9年)に日本赤十字社病院看護婦監督の*萩原(はぎわら)タケ、同副監督の山本 ヤヲ、日本赤十字社奉天病院看護婦長の湯浅うめ の3人がナイチンゲール記章を授与されている。
萩原女史は私の母の年長の従姉になる)
https://redcross-nursing-history.jp/exhibition/nightingale.html
*『献身』萩原タケの生涯 森 禮子著、『聖女の道標』 夢酔藤山著
写真は Caroline von Stauffenbergカロリーネ・シュタウフェンベルク伯爵夫人
*Caroline von Stauffenbergカロリーネ・シュタウフェンベルク伯爵夫人(1875~1957年)はオーストリア・ハンガリー帝国陸軍(Gemeinsame Armee)中佐Alfred Richard August Graf von Uexkuell-Gyllenband アルフレート・リヒャルト・アウグスト・フォン・ユクスキュル・ギレンバント伯爵の娘であり、1904年5月30日にヴュルテンベルク王室侍従長Alfred Schenk Graf von Stauffenberg アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(1860年~1936年)と結婚した。子供にクラウスなど双子二組の四人兄弟が生まれた。
カロリーネの母Valerieヴァレリエの祖父はプロイセン参謀本部の創設者の一人であるプロイセン元帥August Graf von Gneisenauアウグスト・フォン・グナイゼナウ伯爵であった。 -
*Nikolaus Graf von Uexkuell-Gyllenbandニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵(1877~1944年)はクラウス・シュタウフェンベルグ伯爵の母方の叔父。経済人。
彼もヒットラー暗殺未遂事件に関与した罪でRottweilロットヴァイル刑務所に収容され、その後、ベルリンに送られ、1944年9月14日、プレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処された。
尚、ユクスキュル家はドイツ騎士修道会に参加して封土を得た男爵家で、13世紀まで遡るバルト・ドイツきっての名家である。ユクスキュルは現在のラトビアに属する。
シュタウフェンベルグ伯爵と共に、ニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵とIda Graefin von Uexkuell-Gyllenband イダ・ユクスキュル・ギレンバント伯妃の墓と記念碑もラウトリンゲンにある。
写真はNikolaus Graf von Uexkuell-Gyllenbandニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵(1939年)
ユクスキュル・ギレンバント伯爵家には3姉妹のアレクサンドルとカロリーネ、Caesar von Hofackerツェーザー・フォン・ホーファッカーの母であるAlbertine von Hofackerアルベルティン・ホッファッカーがいて、刑死したニコラウス伯爵は末弟である。
最後に残っていた子供たちはこの方々の係累なのだ。
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(2021年8月12日訳、編集・追記) -
写真はKZ Flossenburgフロッセンビュルク強制収容所
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写真はKZ Ravensbrueckラーベンスブリュック強制収容所(主に女性を収容した。1939年)
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写真はKZ Dachauダッハウ強制収容所(1945年の囚人棟)
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写真はKZ Stutthoシュトゥットホーフ強制収容所のゲート(現在)
ご参照・番外編:
枯れ死した『Goethe Eicheゲーテの樫の木』とブーヘンヴァルト強制収容所
https://4travel.jp/travelogue/11610597?lid=notice_vote_travelog
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2021/08/13 05:46:45
- その時の反逆者は英雄だった
- jijidarumaさん おはようございます。
ちょっと覗いたつもりが、はまってしまいました。長い文章にも拘らず、面白さに
最後までお付き合いさせていただきました。
こんなことがあっていいのか、まるで中世か。80年も経っていないのにこういう悲劇は
現代でもいつ起きても不思議はない、と戦慄しました。
ありがとうございました。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2021/08/13 12:40:02
- Re: その時の反逆者は英雄だった
- pedaruさん、
今日は。
雨が続き、ちょっと温度も低下して、ありがたいことです。
「番外編:1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関与者の子供たちの運命は如何に!」・・・の長い文章を早々とお読みいただきありがとうございました。
子供たちはともかくもそれにつながる大人たち、どうしてもその人物の背景を書かざるを得ず、いろいろな人物が出てきて混乱されたことでしょう。
このような時代があった事をご紹介できて良かったです。
今でもどこかの国で似たことが起きているのも事実ですから。
夏は暑さに負けぬように、扇風機だけの2階の部屋で、じっくりと「硬派」の
話を読み解き、番外編を書くのが良さそうです(^^)が、次から次に派生してくるのは喜ぶべきことなのか・・・。
コメントありがとうございました。
それではまた。
jijidaruma
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