2009/04/17 - 2009/05/01
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jijidarumaさん
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“北バイエルン;フランケン地方とオーバープファルツ地方を巡る”
:フランケンワイン、ボックスボイテル街道、古城街道;フランケン・シュヴァイツの古城群、陶磁器・ガラス街道、マイン、ペグニッツ、ナーブ、レグニッツ川を巡る:
期間 : 2009年4月17日(金)〜5月1日(金)15日間の旅
【バンベルクの旧市庁舎にある銘板】
2009年4月19日(日):
フランケンワインの産地にある小さな古城ホテルSchloss Zeilitzheimツァイリッツハイム城を出発し、71kmを走って、バンベルクに至った。
久しぶりにバンベルクの町を巡り、レグニッツ川の川巡りをしてから、橋上にある美しい旧市庁舎を写真に撮ろうと行ってみた。
そして旧市庁舎(通路に面した)の壁に銘板が填め込まれているのに気付いた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
そこにはClaus Philipp Maria Schenk Graf von Stauffenberg クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の行為を顕彰していた。
【クラウス・シュタウフェンベルク伯爵 参謀本部付き大佐。彼は1944年7月20日の行為の故にドイツ人のレジスタンスのシンボルである】・・・と。
シュタウフェンベルク伯爵(1907年11月15日 〜1944年7月21日)はヒトラー暗殺未遂事件の実行者の一人。第二次世界大戦中のドイツ陸軍大佐。
バンベルクの観光客は多いが殆どの人は気付かぬままに歩き去って行く。
写真はクラウス・シュタウフェンベルク伯爵が所属した第17騎兵連隊の将校時代 -
だが、大変印象的なことに、ドイツの旅行中もホテルで見るTVで、再三にわたり、ナチス政権と第二次大戦の回顧番組を流しているのである。
とりわけ、シュタウフェンベルク大佐がヒトラー暗殺・ワルキューレ作戦を失敗した原因を事細かに(例えば、ドイツは今もってこの事件の事を繰り返してTVで放映しています。なぜあの暗殺が成功しなかったのかと・・・その時と同じような実験設備を再現して、爆破シーンを見せていました。)、ドイツ人的に検証していく番組もあって、興味深いものであった。
先ごろ、この事件をテーマにトム・クルーズ主演の米映画;ワルキューレ作戦Operation „Walkuere“が日本でも上映された。 (後記参照)
写真はバンベルクの旧市庁舎とレグニッツ川 -
【古城街道:グライフェンシュタイン城はシュタウフェンベルク伯爵家の居城】
4月20日(月):
Fraenkische Schweizフレンキッシェ・シュヴァイツは南がNuernbergニュルンベルク・西にBambergバンベルク・東はBayreuthバイロイト・そして北のマイン川上流の渓谷の間にある、緑豊かな、美しい高原地帯である。
文字通り<フランケン地方のスイス>と呼ばれ、低い山の連なる丘陵(標高300mから600mほどの山や丘陵が連なる地域)には時には切り立った断崖をもった岩山や渓谷も多く、起伏に富んだ地形になっているので、スイスに重ね合わせてドイツ人はこう呼んでいる。ドイツの地図を見ると、XXX・シュヴァイツという地名が見られる。即ち、ザクジシェ・シュヴァイツ、メルキシェ・シュヴァイツ、メクレンブルギシェ・シュヴァイツ、ホルシュタイニシェ・シュヴァイツなど、「Schweiz (スイス)」は19世紀の人々が、山、谷、岩に富んだ場所に対して、憧れを持って好んで用いたと云う。
<フランケン地方のスイス>の風景を好んだドイツ人は「ドイツ魂の隠れ家」と呼び、当時から保養の地としてきた。
写真は反対側からのバンベルクの旧市庁舎とレグニッツ川 -
さて、フランケンのスイス地方のHeiligenstadtハイリゲンシュタッド(聖なる町)郊外にSchloss Greifensteinグライフェンシュタイン城はある。
山上の城は青空と山の緑に挟まれ、実に良い感じだった。
300年以上のLindenallee リンデンアレー“菩提樹の小道”が長々と続く道をまっすぐ行くと城門に至る。3台の車が駐車していたので、博物館は見られるかと思ったが、残念ながら休館中でした。何やら工事もしているようだ。
城門の呼び鈴には水曜日から開館とある。誰かいるかもしれないと呼び鈴を押し、幸いにも城の案内書を頂けた。
この300年を越える歴史を持つ、Grafen von Stauffenbergシュタウフェンベルク伯爵家の城は、現在も一族が城主として住んでいる。
写真は山上のグライフェンシュタイン城 -
城の起源ははっきりしない。
1172年、城と共にSchluesselberger一門のEberhard de Grifensteinの名前が最初に文献に記されている。
16世紀に農民戦争で破壊されたが、再建された。
城は最も場所の良い、岩壁上に建てられているが、バンベルグの司教領主(シュタウフェンベルク一族)に帰属した際、城は荒れ果てていたと云う。
バンベルク司教領主(1683〜93年)Marquard Sebastian Schenk von Stauffenbergマーカード・セバスチャン・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクは1691年グライフェンシュタイン城を購入し、この城の大修理を3年で行い、バロック様式の城に改装した。
尚、彼はバンベルクのSchloss Seehofゼーホフ宮殿を建てている。
以来、シュタウフェンベルク家の城として、今日に至っている。
写真は“菩提樹の小道” -
城へは石橋があり、城門が遮っている。中庭には90mの深い井戸、17世紀の礼拝堂、塔、城内には紋章と共に、収集された武器や、狩猟の獲物などが展示されていると云う。
http://www.schloss-greifenstein.de/
写真は1880年当時のグライフェンシュタイン城 -
≪フランケンの古城グライフェンシュタイン城とワルキューレ作戦 ≫
先日来、この春のフランケン地方の旅に出るにあたり、各地のHPなどを見ている。
古城街道沿いで、古くから、岩山を利用した要害堅固な城が築かれて、中世にはフランケン地方のスイスにおいては170を数える様々な城郭があった。
現在でも居住し、あるいは居住が可能である古城は39も残っているそうである。
その内、24の古城は絶壁の上に聳え、しばしば絵画的なジュラ山地上に、岩山の上に君臨している。
それらの城はフレンキッシェ・シュヴァイツの風景の中に点在し、魅力的な”フランケン・スイスの宝石”として呼ばれている。
写真はグライフェンシュタイン城の冬景色 -
その古城の一つにSchloss Greifenstein グライフェンシュタイン城がある。
ここのHPを読んでいると、
von dort stammte uebrigens der Hitler-Attentaeter Graf Schenke von Stauffenbergとあった。訳してみると、
”ついでの話だが、ここの一門からヒットラー暗殺未遂者のClaus Schenke von Stauffenberg伯爵(ここの城主の甥にあたる)が出ている。”・・・と書かれていた。
写真はHeiligenstadtハイリゲンシュタッド(聖なる町)・Map -
どこかで聞いた名である。そう、3月20日から日本でも上映される、ハリウッド映画【ワルキューレValkyrie(英語)】の主人公・ドイツ軍大佐クラウス・シュタウフェンベルグの名前である。先日もこの役を主演したトム・クルーズが来日して、映画の宣伝に努めていたのをTVでもみた。
1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校による、ナチス・ドイツ総統ヒトラー暗殺事件の歴史と、その指揮を執った実在の将校シュタウフェンベルク大佐を描いたものである。爆弾による暗殺は様々な要因から、爆発したものの、ヒトラー総統は無事で、結果は失敗に終わった。
事件後のヒトラー派による、弾圧は激しいもので、暗殺に関わった軍関係者などは徹底的に糾明され、大佐は銃殺刑に処せられる。
写真はClaus Stauffenbergシュタウフェンベルク伯爵とHitlerヒトラー総統&Keitelカイテル国防軍最高司令部総長(後に元帥になったが、ナチ党員でもなく、ただの一度も実戦指揮の経験が無かった、唯一の陸軍元帥。ニュルンベルク裁判で絞首刑となる。)・・・彼を重用したヒトラーは側近の疑問に答えて、カイテル元帥についてコメントを残した・・・「それはあの男が犬のように忠実だからだ」。 -
戦後、シュタウフェンベルク伯爵はナチス・ドイツに対する抵抗運動の英雄として賞賛され、ベルリンの銃殺が行われた国内予備軍司令部のあったベンドラー街はシュタウフェンベルク街へ改名される事となる。
ここに記念館*が開設され、ヒトラー抵抗運動の5,000を越える写真や文書が展示されている。また、暗殺計画に関与した将校達が銃殺された司令部の中庭には手を鎖でつながれた若者のブロンズ像が象徴として置かれている。
*Gedenkstaette Deutscher Widerstand Berlin
ベルリン・ドイツ抵抗運動記念館
Der Bendlerblock 、Stauffenbergerstrasse 13 - 14
写真は戦後、切手になったシュタウフェンベルク伯爵 -
この映画に対する<ドイツの反応>は、シュタウフェンベルク大佐は反ナチ運動の英雄であり、敬虔なカトリック信者として知られていたこともあって、ヨーロッパ各国が宗教法人として認めていない、サイエントロジーの信者・広告塔と見られているトム・クルーズがドイツ国民の英雄である、大佐の役を演じることには、国民の間に強い反発があったと云われる。
ドイツの政治家も不快感を示し、シュタウフェンベルクの長男であるベルトルト(戦後、ドイツ連邦軍で陸軍大将になった。)も「クルーズ氏が父を演じると聞いた時には冗談かと思った。彼が演じる父を見たいと思わない。父とは関わらないでほしい。」と拒絶感をあらわにした・・・と伝えられている。
映画を見てみたいと思った。(後記参照)
XXX
写真は銃殺刑のあった場所に立つ記念の銅像 -
私はヒトラー暗殺未遂事件の事は見聞きしていましたが、中心人物のシュタウフェンベルク大佐のことは殆ど知りませんでした。
彼は1943年4月、アフリカ戦線のチュニジアで負傷し、左目、右腕、左手の指二本を失っていたと云います。
貴族の出身で軍歴も見事なものですから、ドイツ国軍でのエリートであった事は否めません。元来、文学を志した大佐が、軍人になり、ヒトラー政権下の中で、その事に違和感を持たざるを得なかった背景があったようです。
戦後のドイツとしてはヒトラー政権に抵抗した人々、それも軍人が・・・レジスタンスの英雄がいた事を声高く、言う必要もあったのでしょう。
ヒトラー暗殺計画はヒトラーの政権奪取後、単独犯及び組織的なものを含めて、少なくとも43回企てられたそうです。
ドイツの敗戦の10か月前に起こったこの暗殺事件が、計画どおりに爆弾入りのカバンが置かれていたら・・・もう少し早めに戦いも終わり、ドイツの美しい町・村の景観も残っていただろうと云われています。
写真はClaus Stauffenberg ・Gedenkkranz im Bendler-Blockシュタウフェンベルクら銃殺された人物の名を刻んだプレート
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2014/04/03 12:05:47
- 充実した内容、ワルキューレ作戦
- jijidarumaさん おはようございます。
シュタウフェンベルク大佐の故郷のお城にいらしたのですね。
とても充実した内容の旅行記を興味深く拝見させていただきました。
表紙のシュタウフェンベルク大佐の碑、私もあれがバンベルクにあると知って2012年に行ってまいりました。
彼は、バンベルクの連隊に入隊し、この街で結婚式を挙げているほどバンベルクとは縁があったよう。
それに近郊にゼーホフ城というきれいなお城がありますが、そこを建てたバンベルク司教領主の名前が *****シェンク・フォン・シュタウフェンベルクと仰るそう。
大佐と関係があるのかどうか、私にはわかりませんでしたが・・。
続きは映画「ワルキューレ」のお話ですね。
楽しみにしています。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2014/04/03 14:41:36
- 充実した内容、ワルキューレ作戦
- himmelさん
コメントと拍手をありがとうございました。
さすが!
シュタウフェンベルク大佐の碑をベンベルクでしっかり見たのですね。
次回は映画「ワルキューレ」のお話を中心に書いてみたいと思います。
どうぞ宜しくお願いします。
さて、バンベルクはシュタウフェンベルク大佐の想い出多い土地であったようですが、生れたのはアウクスブルクとウルムとの間、Schloss Jettingen イェッティンゲン城にて生まれました。
彼の母は出産の際に偶々、ここに滞在していたと云う。
D-71131 Jettingen-Scheppach 、Schlossstrasse 6
そして、シュヴェービッシュ・アルプ地方、黒い森にも近い、その東に人口1800人のLautlingenラウトリンゲンの小さな村があります。
D-72459 Albstadt-Lautlingen
この村の中心に立つラウトリンゲン城は、かつてシュタウフェンベルグ伯爵一族が累代の居城とした所であり、シュタウフェンベルク大佐とその兄弟(彼は男兄弟3人の3番目)が幼児期や、青少年時代を過ごしています。
今は町の所有となった城には大佐の記念館が設けられており、城外にシュタウフェンベルグ礼拝堂が作られ、今も毎年7月20日(ワルキューレ作戦の日)には記念祭が催されるそうです。
彼らが子供の頃に親しんだ場所は父の公邸があった王都シュトゥットガルト、ラウトリンゲン城、またイェッティンゲン城、アーメルディンゲン城、グライフェンシュタイン城といった親族の居城であったそうです。
ゼーホフ城も一族のバンベルク司教領主(1683〜93年)Marquard Sebastian Schenk von Stauffenbergマーカード・セバスチャン・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクが建てたものです。(この事は日記に追記させて頂きました。)
jijidaruma
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