2019/08/09 - 2019/08/09
1位(同エリア162件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2019/08/09
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ジェロニモス修道院東門
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サンタマリア教会
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ジェロニモス修道院西門
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パイプオルガン
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聖母マリアの礼拝堂
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王室礼拝堂
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主祭壇
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ヴァスコダガマ石棺
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回廊
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食堂
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この旅行記スケジュールを元に
ジェロニモス修道院は、ポルトガルのリスボンのベレン地区にある修道院です。「ジェロニモス修道院とベレンの塔」として世界遺産に指定されてます。大航海時代の富をつぎ込んで建築されたマヌエル様式の最高傑作ともいわれる修道院です。
この修道院の元となった礼拝堂では、キリスト騎士団の修道士が航海の安全を支援をしていました。
そしてPraia do Restelo ( レステロ港)は、安全な停泊と風の恵みを受けた場所にある港だったのです。
1496年、マヌエル1世(1469-1521年)は修道院を建設する許可を求めて請願しました。
サンタ・マリア・デ・ベレン修道院の基礎は、1496年にキリスト騎士団が所有していた付属の建物でした。
実はこのベレン地区の近くに、Ermida do Restelo(エルミダ・ド・レステロ)があります。
ここはヴァスコ・ダ・ガマと彼の部下の乗組員が1497年に東洋への遠征の出発前に祈りの夜を過ごした場所・・・とされる庵(隠れ家/隠者の共同体)です。
ただ、この時すでに荒廃していました。
1498年サン・ジェロニモ騎士団から寄付がありました。
そして1499年にジェロニモスからの土地と建物の物質的な所有、また修道院の維持管理と工事のための寄付がありました。
1502年にマヌエル1世によって航海の安全を祈願して着工されました。
1513年から1545年の間に、マヌエル1世はベレンの新しい修道院の土地と建物を取得し、そして1514年3月20日、最初はサンタ・マリア・デ・ベレン教会を建設するための石積みの発掘、輸送、組み立てなどを始めました。
最初のブロックは1516年に到着し、教会の基礎を構築するために使用されました。
こうして1517年に、修道院に新しい礼拝堂が建設されました。
この修道院はマヌエル様式の建築の集大成でもあります。
ジェロニモス修道院は、1907年以来国定の史跡に指定され、1983年に、ベレンの塔とともにユネスコによって世界遺産に指定されました。
また2007年7月7日、ポルトガルの7つの驚異の1つに選ばれました。
(ついでに Ermida do Restelo (Capela de Sao Jeronimo)サン・ジェロニモ礼拝堂)も1943年以来、国定史跡に指定されています。現在こちらは、洗礼と結婚式などで人気があります。)
【旅程】
8月2日(金)
羽田14時05分発→フランクフルト18時45分着
ルフトハンザ航空LH717便(11時間40分)
↓
フランクフルト21時00分発→バルセロナ23時00分着
ルフトハンザ航空LH1138便(2時間)
8月3日(土)
バルセロナ市内観光
カサ・バトリョ→カサ・ミラ→サンパウ病院→サグラダ・ファミリア→カタルーニャ広場→カテドラル
↓
タラゴナ
ラス・ファレラス水道橋
↓
バレンシア
8月4日(日)
バレンシア観光
ラ・ロンハ
ラ ・マンチャ地方
クエンカ市内観光
↓
ラ・マンチャ地方
カンポ・デ・クリプターナ
↓
マドリッド
8月5日(月)
マドリッド市内観光
プラド美術館
↓
トレド観光
カテドラル→サント・トメ教会
マドリッド
↓
8月6日(火)
コルドバ観光
花の小径→メスキータ
↓
グラナダ
アルハンブラ宮殿
8月7日(水)
グラナダ市内観光
カテドラル
↓
ミハス
↓
セビリア
フラメンコショー鑑賞
8月8日(木)
セビリア市内観光
スペイン広場→カテドラル→ムリーリョ公園→アルカサル→カテドラル→ヒラルダの塔→黄金の塔
↓
エヴォラ歴史地区観光
ディアナ神殿→ロイオス教会→カテドラル→サン・フランシスコ教会
↓
リスボン
8月9日(金)
ロカ岬
↓
ジェロニモス修道院●
↓
ベレンの塔→発見のモニュメント
↓
シントラ観光
シントラ王宮
↓
リスボン
8月10日(土)
リスボン発7時15分→フランクフルト11時15分着
ルフトハンザ航空LH1173便(3時間)
↓
フランクフルト18時10分発→
8月11日(日)
羽田12時15分着
ルフトハンザ航空LH716便(11時間05分)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 徒歩
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この通りはトラムも走ります。私たちは右から左に向かって横断しました。
ちなみに本来の旅程は、こちらには、ロカ岬の後で来ました。
都合上、順番を変えました。 -
目の前に修道院が見えてきました。
修道院は元々海(テージョ川)に近いのですが、昔はそれ以上に近いようでした。
そして川岸から右方向にはベレンの塔が、桟橋から突き出しているように見えました。
これについて記述のある文献には出会ってないのですが、1枚の絵を見るとそのように見えます。それが↓の絵です。 -
Vista do Mosteiro e Praia de Belem
(ベレン修道院と海岸の眺め)1657年
Filipe Lobo(フィリペ・ロボ)の絵です。
Museu Nacional de Arte Antiga 国立古美術館に所蔵されています。
この美術館は4月25日橋より先のテージョ川沿いにあります。
wikipediaより -
こちらは1755年以降に描かれたものです。
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お天気は芳しくありませんが、多くの人が修道院に向かっていました。
今回の旅行の中では1番の混雑かもしれません。
初日に行ったバルセロナのサグラダ・ファミリアは予想通り混んでいましたが、それ以外は思ったより混んでいませんでしたので‥‥‥。 -
Mosteiro dos Jeronimos(ジェロニモス修道院)の
Mosteiro de Santa Maria (サンタ・マリア修道院)
Convento de Santa Maria (別名)(サンタ・マリア修道院)
私はMosteiroとConventoの違いがよくわからないので、ちょっと調べてみると次のとおりでした。
【Mosteiro】
修道院は、住居、祈り、および修道女と修道女のコミュニティのための建物で,都市構造の外に建てられている。
僧院、同一の信仰を持つ出家修行者僧が、共同生活を行うための施設。
儀式の実施、聖典の学習、信仰物品の製作などを集団生活しながら行う。各僧院で定めた規則の下、鐘などの鳴らし物で時間を管理しながら、厳格に一日が進行する。
【Convento】
ラテン語の修道院からの「修道院」という用語は、「集会」を意味し、もともと市民が行政または正義の目的で集まったローマの集会に由来(法的修道院)
女子修道会のcloisterと同じく男女のいずれの修道会をも指す言葉だったが、次第にnunneryに代わって女子修道会を指すようになった。
↑
これだと尚更わかりにくいです。(-_-;)
ただ、ジェロニモス修道院付属サンタ・マリア教会が一番わかりやすく、通常はこのように呼ばれています。 -
この修道院は1502年から建設が始まりました。
実は1496年、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見する前に、マヌエル1世がキリスト騎士団の古い礼拝堂の代わりに大修道院を建設する許可を与えるよう司教に請願しました。
そして1502年1月6日、建設が開始しました。
Diogo de Boitaca(ディオゴ・デ・ボイタカ)、Joao de Castilho(ジョアン・デ・カスティリョ)、Diogo de Torralva (ディオゴ・デ・トラルバ)そして最後にJeroimo de Ruao(ジェロニモ・デ・ルアン)によって建設されました。
全景を写真に納めたかったのですが、かなり横に広がっていたので、こんな写真になってしまいました。
パノラマ撮影にすれば良かったです。 -
こちらは南門のファサードです。
サンタ・マリア教会があります。
目の前の中央に見えるのは、イエスを抱いた聖母マリアの像です。
この教会は聖母マリアに捧げられました。
また聖母マリアの周りは天使たちが囲んでいます。
更に天使たちの外側を囲んでいるのは、聖人たち、高位聖職者たちで24人いるようです。
Joao de Castilho(ジョアン・デ・カスティリョ)によって設計されました。
高さ32メートル、幅12メートル、2階建てです。 -
天正遣欧少年使節団もここにやってきました。
彼らは他にも巡ってきましたが、このファサードの前に立って驚き、感銘を受けたそうです。(1584年8月)
私も同じ月に行きました。
確かに海洋国家ポルトガルを代表するような威風堂々たる建築です。
しかも1657年のFilipe Lobo(フィリペ・ロボ)の絵にも、このマリア像は描かれていました。 -
この半円形のティンパヌムには、聖ジェロニモス(聖ヒエロニムス)の生涯の2つの場面が描かれています。
左:ライオンの足から棘を取り除いた場面
右:砂漠での聖人の体験の場面
tympanum(ティンパンヌム)とは仏語ではtympan(タンパン)、ギリシア語ではtympanon(テュンパノン)です。
建物の入口の上にあって半円形か三角形をしています。
まぐさとアーチによって区画された壁面です。彫刻などによって装飾されています。
そしてその真下の入口の中央に見えるのが、エンリケ航海王子です。
またキリスト騎士団の十字架があります。 -
この修道院は、ポルトガルの後期ゴシック様式でマヌエル様式の建築物ですが、ここリスボンでは最も有名な建築の1つです。
1983年に同じくベレン地区にあるベレンの塔とともに、ユネスコの世界遺産に登録されました。
Estilo Manielino(マヌエル様式)とは、15世紀後半から16世紀にポルトガルで流行した建築様式です。ここジェロニモス修道院やベレンの塔やトマールのキリスト修道院などが有名です。
ポルトガルでは他でも見ました。リスボンに来る前に立ち寄ったエボラでも見ました。
この名前はポルトガル王のマヌエル1世にちなんでいます。 -
マヌエル様式の特徴は、海外交易によって築かれた巨万の冨を象徴するかのような過剰装飾です。
イスラム様式のほかに、海草やロープ、鎖、貝殻、天球儀など海洋、新大陸、そしてキリスト教の象徴がデザインに取り入れられています。
この写真の円柱も単なる柱ではなく椰子の木をモチーフにしているようです。その椰子の木から天井部分への広がりが、なんとも壮大です。 -
天井の梁といい、柱といい複雑な装飾がいかにも後期ゴシックを思わせます。
2階部分にキリストの磔刑の像が見えます。
Manuel I(マヌエル1世)について
1469年5月31日誕生 ー 1521年12月13日没
先王ジョアン2世が推進した中央集権化政策を継承しました。偶然が重なって王位につき、その後はヴァスコ・ダ・ガマのインド航路の発見などに恵まれ、ポルトガルの黄金期を築き上げたことから「 Manuel The Fortunate(幸運王マヌエル)」などと称されて、絶対王政を確立しました。
海外交易によって豊かになったので、宮廷に芸術家や科学者などを招いて、パトロンとして活動を支えました。その中でアフリカやアジアなどに生息する珍しい動物や珊瑚や海に関連したロープなどをモチーフとした装飾が過剰なほどに施された文様を取り入れるようになりました。これがマヌエル様式です。この独自の建築は、後の19世紀になってから、このように呼ばれるようになりました。
ついでにマヌエル1世ですが、彼は即位した年、1495年にキリスト騎士団長となりました。
実はこのキリスト騎士団ですが・・・・、元を辿るとテンプル騎士団でした。
フランス王フィリップ4世は1314年、テンプル騎士団のジャック・ド・モレーたちの最高指揮者を生きたまま火あぶりにしました。
これで壊滅したかに見えましたが、実は皆さんも「ダヴィンチ・コード」などでご存知のように、脈々と受け継がれていきました。
その中に、ここポルトガルで・・・・
Real Ordem dos Cavaleiros de Nosso Senhor Jesus Cristo(主イエス・キリスト王立騎士団)でしたが、これが1318年にディニス1世(ポルトガル王)によって創設されました。
テンプル騎士団について書くと長くなりますので、省略させていただきます。 -
こちらは西門です。
扉の上に描かれているのは、キリスト生誕にまつわる物語です。
・中央には「キリスト降誕」の場面
・左にあるのは天使ガブリエルがマリアに妊娠を告げ、それを受け入れる「受胎告知」の場面
・右には、マギの礼拝→東方三博士の礼拝の場面
・扉の左部分に描かれているのは、マヌエル1世(守護聖人の聖ジェロニモスと)の祈りの像
・右部分には王妃マリア(守護聖人の洗礼者ヨハネと)の祈りの像です。
これらは、フランス人の彫刻家である Nicolau Chanterene(ニコラウ・シャントレーヌ)の彫刻です。 -
扉の向こうのサンタ・マリア教会内部は薄暗いのですが・・・・。
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こうやって見ると柱1つとって見ても、かなり複雑で重厚な文様が描かれていることがわかります。
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暗闇の中にステンドグラスから明かりがさします。
キリストが十字架を背負っているように見えます。 -
祭壇の手前にはパイプオルガンがあります。
建物の古さに比べると、パイプオルガンは新しく見えました。 -
この柱は椰子の木をモチーフにしていて、かなり複雑な装飾が施されています。
これがマヌエル様式なのでしょう。 -
この礼拝堂には聖母マリアの像があります。
ピンク色の衣を纏って、儚げで美しいお姿です。 -
上部にある薔薇窓だったでしょうか・・・差し込む陽ざしが殊の外に明るいです。
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反対方向です。王家の霊廟があります。
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大理石の象が石棺を支えています。
教会に象というのは、ちょっと不思議な感じですが、これはインド象でしょうか。
交易によってもたらされた物でしょうか。本物の象牙のようです。
象はこの荷の重さに、下を向いて耐えているように見えるのは私だけでしょうか・・・。 -
メインチャペルの内陣です。
キリストの生涯を描いた祭壇画です。
Lourens de Salzedo(ローレンス・サルセード)の作品です。 -
上部の祭壇画は、キリストの受難を表しているようです。
左はゴルゴダに十字架を背負って歩くイエス・キリスト(個人的にはこのキリストの姿は少しふっくらして見えるのですが・・・・。)
中央は、降架されたキリストで、痛々しいです。
右は衣服を身につけていませんが、十字架のような物持っているようです。ただし足元を見ると屋内のようです。ローマ総督のピラトの屋敷でしょうか。そこで鞭打たれたはずです。 -
このステンドグラスの中央に描かれているのは、マヌエル1世です。赤いローブを身に纏っています。
そして後ろにはヴァスコ・ダ・ガマも描かれています。 -
細かいというよりも複雑で重厚ないかにもマヌエル様式という感じの装飾です。
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聖母子のようです。
船が下に描かれているようですので、おそらく海運国家ポルトガルですが、聖母子が旅の安全を見守ってくれているようにも見えます。
ただ、その帆船に描かれた十字が「キリスト騎士団」を表しているようです。 -
エンリケ航海王子は1452年にこの礼拝堂の建設と水パイプラインのサービス、長老院の住宅と農業生産用の土地を発注しました。
大事な人を忘れていました。
Infante Dom Henrique(エンリケ王子)です。(1394年3月4日-1460年11月13日)
(66歳没)
Infante de SagresもしくはO Navegador航海王子と呼ばれています。
自分自身は航海には出ていないものの、大航海時代の幕開けを切った人物であり、海洋国家としてのポルトガルの創始者となった人物でもあります。
父はポルトガル王ジョアン1世、母はフィリパ・デ・レンカストレです。
父はDinastia de Avis(アヴィス王朝)を築いたJoao 1(ジョアン1世)です。
Ordem Militar de Avis(アヴィス騎士団)の総長でもありました。
この騎士団の元祖はテンプル騎士団でした。
この時代背景は、13世紀のレコンキスタによって、ポルトガルは北部、中部、南部地域と3分されていきました。そんな中1348年に黒死病が広まっていき、ポルトガルでは感染が拡大し、人口が2/3に減少しました。特にリスボンやコインブラの被害は大きく、その後は黒死病を恐れる貴族や地主による教会・修道院への土地の寄進などするようになっていきました。
後にジョアン1世の息子であるエンリケ王子はキリスト騎士団を、弟のフェルナンド王子はアヴィス騎士団を受け継いでいきました。
ちなみにエンリケ航海王子は、「Talant de bie faire」(成すことへの渇望)をモットーとした人物です。 -
ちょっと失礼します。
・・・と言うか、足元から写したのが微妙でした。
混んでいたため、写真を撮るタイミングが難しかったため、まずはこの一枚から。 -
Vasco da Gama(ヴァスコ・ダ・ガマ)の石棺です。
中央には「Caravel(カラベル船)」のレリーフがあります。
先程の石棺とともに彫刻家 Costa Motta(コスタ・モタ・ティオ)の作品です。
人が多くてあまり良い写真を撮れませんでした。
真横から撮りたかったのですが、ツアーでしたので他の皆さんに置いて行かれないよう諦めました。
ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃 - 1524年12月24日(インド・ゴア没))
ポルトガルの航海者、探検家としてアフリカ南岸を経てインドへ航海し、インド航路を発見した人物です。
ただヴァスコ・ダ・ガマの航海はコロンブスのように自分で未知の海域に向かったのとは反対で、事前に計画されていたもののようです。
しかも彼が司令官に任命されたのは、たまたまマヌエル1世らが候補者を選考していた折に、通りかかったので任命されたとも言われています。
これはちょっとショックです。単にラッキーだったのでしょうか・・・。
ただ彼の父の死去、兄の辞退等々色々あったようです。
そして南回りで向かった際に、 Bartolomeu Dias de Novais (バルトメロウ・ディアス(英語ではバーソロミュー・ディアズ))が途中まで水先案内人として同行しています。彼はご存知のように、最初に喜望峰を発見した探検家です。ですから、かなり心強かったのではないかと思います。
このような状況下で、1497年7月8日(土)観衆が見守る中、聖母修道院の修道士が執り行うミサの後、リスボンから出発したのです。
総勢170人の乗組員でした。
ただしこの中には黒人の給仕、水先案内人、また元死刑囚(特赦の恩恵を受け、そのために危険な任務を負うことになりました)が10数名いたそうです。
みんな命がけです。
これを思うと司令官に任命されたことが光栄な事とは、必ずしも思えません。しかも現在のクルーズ船で航海するのとは全然違います。未知の世界へ足を踏み入れることになるのです。これこそが冒険と言ってしまえばいいような・・・悪いような・・・・。
Ermida do Restelo(エルミダ・ド・レステロ)という庵(隠れ家)で、7月7日の夜祈りを捧げていたヴァスコ・ダ・ガマ・・・。
第1回、第2回、第3回の航海で、紆余曲折ありましたが、交易で胡椒、肉桂、蘇木、丁字、生姜などを得ました。
勿論失った物多かったのですが・・・。
また第3回の航海で病を患い、1524年12月25日(24日深夜説も)インドのコチンにて亡くなりました。
現地の聖フランシスコ修道院で葬儀が行われ、後に遺体はポルトガルに移されヴィディゲイラで埋葬され、その後ここに眠っています。
ちなみに棺に刻まれているのは、胡椒の実です。
インドへの大航海を物語っています。 -
石棺の足元の面です。
ところでヴァスコ・ダ・ガマもキリスト騎士団の高級幹部でした。
更にコロンブスも1492年10月サンタ・マリア号で新大陸に上陸した際に、他のニーニャ号、ピンタ号の帆には赤い十字(キリスト騎士団の象徴)が描かれていたそうです。
コロンブスは、キリスト騎士団の娘と結婚しています。
義父から地図と海図を手に入れることができたのだと言われています。 -
Luis de Camoes(ルイス・デ・カモンイス)の石棺
(1524年頃 ー 1580年6月10日)
ポルトガル最大の詩人と言われるルイス・デ・ カモンイス石棺の中央には、筆と竪琴のレリーフがあります。
彼は詩人であるだけでなく、軍人でもありました。インドの植民地ゴアでは、戦闘に参加しながら現地の歴史や慣習などを学びました。
そして執筆されたのが「Os Lusiadas」(ウズ・ルシアダス)
大航海時代をホメロスのような雄大な作風で書き上げたと言われています。
また、「Onde a terra acaba e o mar come a」(ここに地終わり 海始まる)という言葉は、「ウズ・ルシアダス」の第3詩20節から引用されているのです。
*このような石棺の上に像があるものを、Gisant(ジザン)と言います。
これはヨーロッパの他でもあります。
祈祷書を読んだり、祈りのポーズをとる横臥像や、線刻したタイプの物もあります。gesir(横たわる)から派生しているようです。
生前の職位や身分をあらわす衣服を身に纏った像になっています。
gisantというのは、フランス語です。ポルトガル語ではどういうかは、ちょっとわかりません。mentirosa???でしょうか・・・・。
一方Transi(トランシ)があります。これは14世紀後半から16世紀にかけて西ヨーロッパで流布したものですが、生前の姿ではなく死後の肉体の変化を絶妙に彫刻した墓像です。transireというラテン語から派生しているようです。(trans越えて とire行く)つまり「死にゆく」「通り過ぎる」という意味です。
生前本人が「死後〇〇日位経った姿を刻んでほしい」という遺言を残し、それを表したものです。現代の日本人には到底理解できないかもしれません。つまり蛆虫がはっている状態だったり、言葉では表しにくい状態です。
ちなみにパリのサン・ドニ大聖堂のLouis 12(ルイ12世)のジザンは胸に切開の痕があり、それを縫合した糸まで彫刻されてるようです。(心臓を取り出した跡です)
世の中の移ろいやすいルネサンス期、また中世の宗教観などもあるでしょう。
そして人間である以上避けられないのが「死」ですが、その歴史や文明や地域などによって死生観は様々です。 -
黄金の祭壇
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まさにポルトガルの黄金時代に築かれた祭壇です。
マヌエル1世の在位期間中に、ポルトガルの船団はマレーシアのマラッカ、中国の広東にまで達しました。
またブラジルから中国に至る海上ルートを独占しました。
その結果としてこのような富を集めた祭壇ができました。
心なしか十字架を背負うキリスト像も、ゴージャスな感じがします。 -
こちらは回廊です。
柱は勿論ですが、天井部分をよく見ると、船であったり十字架であったり様々なレリーフが、梁の連結部分に描かれています。 -
ショーケース内の展示物ですが、海外交易によって持ち帰られた磁器でしょうか・・・。
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中庭部分です。広々として開放感があります。
この回廊は55m四方になっているようです。 -
回廊に囲まれています。
よく見ると1階部分と2階部分では造りが違っていて、2重構造になっています。
1階は Diogo de Boitaca(ディオゴ・デ・ボイタカ)、そして2階はJoao de Castilho(ジョアン・デ・カスティリョ)によって建築されました。 -
これは2階から見た景色です。よく見ると十字になっています。
また別の見方として、チャハルバーグのようにも見えます。
つまり庭園を4つに分ける四分庭園の様式のようでもあります。
これは4つの川と4つに分かれた円は世界を表しているというものです。
これは「エデンの園」をまねたものです。
大航海時代の幕開けと関係のある、この修道院は様々な文化を融合した物が見られます。 -
回廊の装飾が本当に複雑で贅の限りを尽くしているように見えます。
巨万の富をこのようにマヌエル様式の芸術に変換させている感じです。
まるでレースの模様のような繊細であり大胆な装飾建築です。 -
Refeitorio
長方形の形をした食堂です。
長さは50m位あります。
当初は修道士たちは、ここで食事をしました。 -
食堂の入口付近の壁の上に掲げられた一枚の絵です。
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この修道院の守護聖人であるJeronimos(ジェロニモス)です。
ヒエロニムスと呼んだ方がわかりやすいかと思います。
聖ヒエロニムス(347-420年)は、西方カトリック教会の四大博士の一人です。ダルマティア(クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯)の生まれです。
ローマで学び、聖ダマスス法王の命で、ヘブライ語の原書を基にした聖書と、70人訳聖書のギリシア語版の、ラテン語への翻訳を担いました。
373年ごろアンティオキアで重病にかかり、神学の研究に生涯をささげることを決意して、シリアの砂漠で隠遁生活を送ってヘブライ語を学びました。
彼の翻訳したものは「Vulgat」(ウルガタ)と呼ばれています。
ヤコブス・デ・ウォラーギネの『黄金伝説』によると・・・・・。
ある夕方、ヒエロニムスが修道士たちと聖書の朗読をしていると、一頭のライオンが足を引きずりながら修道院に入ってきました。修道士たちは驚いて皆逃げ出しましたが、ヒエロニムスだけはまるで客人を迎えるようにライオンに近づきました。ライオンの足には茨のとげが突き刺さっていました。ヒエロニムスは修道士たちを呼び戻してライオンの手当をしてあげました。ライオンはその後も家畜のように修道院に住みついたと言います。
ご覧の絵も、ヒエロニムスが書きものをする中で、足元で寛いでいるのは犬ではなくライオンです。
ヒエロニムスのライオンのエピソードは中世ではよく知られた聖者伝説で、多くの絵画などに描かれています。
この他にもレオナルド・ダ・ヴィンチの絵にもあるように、「荒野の聖ヒエロニムス」などがありますが、足元にはライオンがいます。
聖ヒエロニムスは、四大ラテン教父の一人で、
聖アウグスティヌス、聖アンブロジウス、聖グレゴリウス1世と並びます。 -
食堂の窓です。一筋の光が入ってきます。
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Leonardo Vaz(レオナルド・ヴァス)と職人たち1517年によって1517年に建てられました。
このように食堂はアズレージョに囲まれています。
18世紀のものです。
このアズレージョには旧約聖書、新約聖書の物語が描かれています。
Joseph(ヨセフ)の物語とパンと魚の奇跡の話です。
*本来は「ヨセフの物語」ではありません。ヨセフはヤコブの息子です。
創世記第37章2節で明確にされてますが、これは「ヤコブの家族(ヤコブの子孫たち)」の物語です。その話の中心がヨセフです。ですがヨセフだけではなく、父のヤコブや家族たちが登場します。
*ヤコブはイスラエルの名を得て、ユダヤ人の祖となりました。 -
ヨセフは父のヤコブと母のラケルの間に生まれました。ただしラケルは後妻だったため、彼には10人の異母兄弟がいました。ちなみに自分の下に弟がいたので、全部で12人兄弟でした。これがイスラエルの12部族となります。
ヤコブは11人目のヨセフを誰よりも愛しました。(中略)
そのため他の異母兄弟たちに妬まれました。
そんなある日ヨセフは、自分が見た夢を兄弟たちに語りました。それが兄弟たちの妬みを買い、彼等はヨセフを殺そうとしました。そしてヨセフの長服を剥ぎ取りました。
でも長兄のルベンは、血を流してはいけない、手を下してはいけない。という事で、穴に落とす事になりました。こうしてヨセフは水のない穴に落とされてしまいました。
そしてたまたま通った隊商に売られてしまい、17歳だったヨセフは連れて行かれそうになっています。
また兄弟たちは、みんなで話し合っているような場面です。 -
穴に落とされたヨセフはどうなったかと言うと・・・
ミデアン人(古代パレスチナのセム系民族の1つ)の商人たちが通りかかった際に、ヨセフを穴から引き上げました。
そして彼等は、銀20シケルでイシマエル人に売りました。イシマエル人の隊商はらくだに香料と乳香と没薬を積んでエジプトへ向かっていました。
彼等はヨセフをエジプトに連れて行きました。
*アブラハムの息子のイサクとイシマエルのイシマエルのことです。アラブ人の先祖です。 -
その後、兄たちは羊の血をヨセフの服に着けて、それを両親に見せました。
父のヤコブと母のラケルに、ヨセフは獣に襲われて亡くなったと嘘を言いました。
服を広げて、両親に見せている場面が描かれています。 -
絵の後方にピラミッドが見えます。
これはエジプトのヨセフを表しています。父であるヤコブと抱き合っている様子です。 -
定かではありませんが、ヨセフがエジプトに連れて行かれて、奴隷として売られる場面ではないかと思います。
パロの廷臣で侍従長のポティファルに買い取られました。奴隷として買い取られました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もしくは、ヨセフの弟のベニヤミンでしょうか。
ヨセフは兄弟たちを試しました。「銀の杯」を盗んだ容疑でベニヤミンを奴隷にすると言って、兄たちを試しました。ただ、それに対して「その子が父のもとを離れれば、父は死んでしまいます。この子は帰らせてください。」と懇願しました。そこでヨセフは兄弟であることを明かし、兄弟はついに和解しました。
それを周囲で兄弟が見守っている場面かもしれません。 -
ヨセフは奴隷としてポティファル(王の廷臣で侍従長)に買い取られましたので、掃除や家畜の世話など・・・重労働でした。でもそんな中でも黙々と真面目に働きました。そしてその結果、主人のポティファルから信頼され、愛されて何年目かには全財産の管理を任せられる側近になりました
そんな中、ポティファルの夫人がヨセフを誘惑しているところです。
そしてその誘惑の手から逃れようとしている場面です。ただ、夫人に上着を掴まれて、上着を残してやっと逃げました。 -
夫人から逃れたヨセフでしたが、夫人は自分の要求を拒まれて、ヨセフが自分の所に入ってきたのだと嘘をついたのです。残念ながら上着が残されていました。
このことから、ポティファルはヨセフを捕らえて王の囚人がいる監獄に入れてしまいました。
鉄格子のようですので、その監獄の様子かと思います。
この監獄の中で、主はいつもヨセフと共におられ、彼に恵みを施して、監獄長の心にかなうようにされました。
そしてその折に、無実の罪で捕らえられた王の献酌官長と調理官長たちの夢の謎解きをしました。おそらくその様子かと思います。 -
エジプトのファラオ(王)であるパロは夢をみました。
醜いやせ細った雌牛が、肥えた七頭の雌牛を食いつくしてしまった夢です。
また、やせた穂が、太って実った7つの穂をのみつくしました。
パロは心が騒ぎ、人をつかわして、エジプトの全ての魔術師とすべてのの知識人をを呼んで、夢を話しましたが、解き明かせる人はいませんでした。
その時、給仕長がヨセフの話をしました。
エジプト全国に7年の大豊作があり、 その後7年の飢饉が起り、その飢饉は国を滅ぼすでしょう。ただしこの7年の飢饉に備えて、予め蓄えました。そして飢饉によって滅びることはありませんでした。
この絵は、ヨセフがパオに進言している場面と思います。 -
中央にいるのはファラオのようですが、この1枚だけが不明です。
ひょっとすると中央は宰相になったヨセフでしょうか。
ヨセフは最終的には兄弟と和解を果たします。
せめてこれらのアズレージョを撮った順番がわかれば、おそらく物語の順番になっているかと思うのですが、実はこの部屋には2度入って、それぞれ写真を撮ったのでわけがわからなくなってしまいました(汗) -
この絵はヒエロニムスの絵の下にありました。
これだけがヨセフの物語ではなく、新約聖書のパンと魚の奇跡の話です。
イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人に与えた話です。全ての人が食べて満腹し、パンくずと魚の残りだけで12の籠がいっぱいになりました。(マタイによる福音書 第14章 17-20)
おそらく・・・。 -
キリスト降誕の絵です。
馬小屋で生まれたばかりのイエスを囲んでいます。
この絵はジェロニモス(ヒエロニムス)の絵の反対側、つまり奥にありました。 -
この回廊は世界の建築の中でも傑作とされています。
Diogo de Boitaca (ディオゴ・ボイタカ)が設計をし
Joao de Castilho (ジョアン・デ・カスティリョ)、Diogo de Torralva (ディオゴ・デ・トラルヴァ)によって完成しました。
回廊の北側には、
Fernando Antonio Nogueira Pessoa(フェルナンド・アントニオ・ノゲイラ・ペソア)のお墓があります。ポルトガルの代表的な詩人です。
「ポルトガルの海」などがあります。
彫刻家のLagoa Henriques(ラゴーア・エンリケス)によるものです。 -
この2階の回廊は、また1階とは違うのですが、重厚な美しさはありますが、ただ夜は少し怖いかもしれません。ホラーにでもでてきそうな過剰な装飾に見えるのですが・・・。
-
Capela de Sao Jeronimo(ジェロニモス礼拝堂)
またはErmida do Restelo ですが、これは同じベレン地区にあります。
この小さな礼拝堂には、ここにあるジェロニモス修道院の回廊と同様のガーゴイルがあるそうです。 -
中庭から回廊方向を眺めて。
-
回廊の片隅でカメラを向けている人だかりができていました。
気になって近くに寄ってみると、何やら変な像があります。 -
獅子(ライオン)のようです。ちょこんと立っています。
ライオン(獅子)の泉です。
ここは食堂からも近く、昔はここで修道士たちは手を洗ったのだそうです。 -
今回の旅にはよくライオンが登場します。
アルハンブラ宮殿のライオンの噴水、そしてここジェロニモス修道院のライオンの噴水です。
面白いことにどちらも噴水でした。
しかもライオンなのに怖くありません。むしろユニークなお顔をしています。残念ながら可愛いとは言いにくいのですが。 -
ピエタのレリーフです。
サン・ピエトロ大聖堂のミケランジェロのピエタ像は有名ですが、このレリーフの聖母マリアは右手で涙を拭っているのでしょうか。小さなレリーフですが、本当に悲しみが伝わってきます。 -
確か柱廊だったと思いますが、大航海を担う船の必需品のロープと、小さなライオンの顔のようです。
-
このように回廊の柱には様々なレリーフが刻まていています。
アラベスクの模様、ロープ、錨、天球儀・・・・船、船具、海藻、貝殻、珊瑚など、熱帯植物などが描かれています。
所謂マヌエル様式のものです。 -
マヌエル一世のエンブレムの天球儀です。
-
写りが良くないのですが、受胎告知のようです。
左がマリアで、右が大天使ガブリエルのように見えます。 -
ジェロニモス(ヒエロニムス)
「荒野の聖ヒエロニムス」を表したレリーフのようです。
このモティーフはダ・ヴィンチも同名の習作を描いています。 -
航海に使われた道具のようにも見えますが、石工の道具にようにも見えます。
つまりフリーメイソンの象徴のような・・・。
何しろ元を辿れば、キリスト騎士団はこの黄金時代を築き支えていきました。
そのキリスト騎士団はテンプル騎士団が改編されたものです。 -
Vasco da Gama(ヴァスコ・ダ・ガマ)
インド航路を発見し、ポルトガルを黄金時代へと導きました。
胡椒などの香辛料で得た莫大な利益が得られ、その後も東方交易で得られた収益が、この修道院の建築に使われました。 -
おそらくInfante Dom Henrique(エンリケ航海王子)ではないかと思います。
-
太陽のように見えます。
-
ズームしてみると、やっぱり太陽のようです。
-
植物でしょうか。
拡大した割にわからないのですが、熱帯植物なのでしょうか。 -
ところで
Ermida de Restelo(庵(隠れ家礼拝堂)又は
Capela de Sao Jeronimo(ジェロニモス礼拝堂)について・・・
20世紀の前半には放置され、倉庫、ジプシーやホームレスの避難所、食肉処理場として散発的に利用されました。
その後身廊のアーチの修復などなどを行いました。
1943年以来、国定史跡に指定されています。
1992年6月1日、建物はポルトガル建築遺産研究所(ポルトガル建築遺産協会またはIPPAR)の管理下に移されました。
Mestre Boitaca
Mestre Rodrigo Afonso (メストレ・ロドリゴ・アフィンソ)によって建てられました。 -
Restelo Hermitage= Ermida do Restelo= Capela de Sao Jeronimoです。
ベレン地区の小さな丘の上にあります。
(Google Earthより) -
Ermida do Restelo(Capela de Sao Jeronimo(ジェロニモ礼拝堂))からTorre de Belem(ベレンの塔)までは、ご覧のように一直線です。
① ベレンの塔方向から、Ave.do Torre de Belem(トーレ・デ・ベレン通り)をまっすぐ進むと、Ave.do Restelo(レステロ通り)に突きあたります。
その先の公園にJardim Ducla Soares の十字架を持った像があります。
そしてその先にあります。地図上では一直線です。
②ジェロニモス修道院は、海よりに下った右のあたりです。
丘の上のErmida do Restelo(Capela de Sao Jeronimo(ジェロニモ礼拝堂))からのテージョ川の眺めも良さそうです。
おそらくこの立地は、それも考慮の上でしょう。
ちなみに私の勝手な推測です・・・・。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- sanaboさん 2020/06/28 22:42:48
- ジェロニモス修道院
- noelさん、こんばんは
ジェロニモス修道院は流石に贅を尽くしただけあり
見ごたえがあって圧巻でしたね!
ヨーロッパで数多くの修道院を訪れましたが、ジェロニモス修道院は
もっとも感銘を受け印象に残っているものかもしれません。
昔描かれた絵を観ると今よりもずっとテージョ川に近かったのですね。
歳月を経て、土砂が堆積していったのでしょうか?
そういえば、イタリアのピサも昔は海に面していたといいますよね。
ところでバスコ・ダ・ガマですが、彼が司令官に任命されたのは
マヌエル1世らが候補者を選考していた折にたまたま前を通りかかったから、
というお話をお聞きしとても驚きました。
ほかに手を挙げた探検家や航海者はいなかったのでしょうか?
結果的にインド航路を発見し歴史に名を残すことができましたけど
当時としては成功するかもわからないし、途中で命を落とすかもしれないし
どうか自分が指名されませんようにと願っていた人の方が
多かったのかもしれませんね(笑)
ヴァスコ・ダ・ガマやカモンイスのように石棺の上に像があるものを
Gisant(ジザン)というそうですね。初めて知りました。
ジザンはポルトガルやフランスなどでも何度か見かけたことがありますが
生前の姿ではなく死後の肉体の変化を彫刻したTransi(トランシ)という
ものは今まで見たことも聞いたこともありませんでした。
ちょっと怖いもの見たさで見てみたい気がします。
それにしてもnoelさん、よくご存じですね~!
食堂のアズレージョのお話も興味深かったですね。
私は訳もわからずとりあえず写真を撮ってきて、あとで調べて
お話の内容を知りましたが、きっとnoelさんは(目が節穴の私とは違い)
ちゃんと意味を理解されたうえでご覧になったことと思います。
そしてそして表紙のライオンちゃん♪ この獅子の泉もとても懐かしいです。
獅子の表情が何ともひょうきんというか、なんというか…
人間のようなほのぼのとした表情を見ていると笑ってしまいます。
作者の意図するところは何だったのでしょうね?(´艸`*)
回廊の柱に施された受胎告知の場面や「荒野の聖ヒエロニムス」の
レリーフなど、よく見つけられましたね。
Ermida de Resteloのことも勉強になりました。
noelさんの研究熱心な姿や情熱が伝わってくる素晴らしい旅行記を
大いに楽しませていただきました。
続編も楽しみにしていますね♪
sanabo
- noelさん からの返信 2020/06/29 20:43:51
- RE: ジェロニモス修道院
- sanaboさん、こんばんは
ジェロニモス修道院の旅行記、ご覧いただきありがとうざいます。
> ヨーロッパで数多くの修道院を訪れましたが、ジェロニモス修道院は
> もっとも感銘を受け印象に残っているものかもしれません。
sanaboさんのように、数多くの修道院を御覧になった方に、こんな風に言ってもらえるなんて、ジェロニモス修道院の方が聞いたら嬉しいでしょうね。
> 昔描かれた絵を観ると今よりもずっとテージョ川に近かったのですね。
> 歳月を経て、土砂が堆積していったのでしょうか?
> そういえば、イタリアのピサも昔は海に面していたといいますよね。
細かな経緯はわかりませんが、地形は徐々に変化したりするので、過去のものと比較するのも結構面白いです。
> ところでバスコ・ダ・ガマですが、彼が司令官に任命されたのは
> マヌエル1世らが候補者を選考していた折にたまたま前を通りかかったから、
> というお話をお聞きしとても驚きました。
> ほかに手を挙げた探検家や航海者はいなかったのでしょうか?
この話は少しばかり不明瞭な部分もあるようですが、他にも立候補していた方々はいたようですよ。
ただ、彼の身内が最有力候補だったということもあったのかと思います。
でも、そんな事で決めるのかと思うと、拍子抜けしてしまいますね。(笑)
> 結果的にインド航路を発見し歴史に名を残すことができましたけど
> 当時としては成功するかもわからないし、途中で命を落とすかもしれないし
> どうか自分が指名されませんようにと願っていた人の方が
> 多かったのかもしれませんね(笑)
sanaboさんのおっしゃるように、当時の航海は現在のように安全なものではなかったため、命がけだったようです。
確かに名誉なことではありますが、心の中では指名されないことを願ったり、もしかしたら、仮病もあったのかもしれません・・・。(推測ですが)
> ヴァスコ・ダ・ガマやカモンイスのように石棺の上に像があるものを
> Gisant(ジザン)というそうですね。初めて知りました。
> ジザンはポルトガルやフランスなどでも何度か見かけたことがありますが
おそらく私よりもsanaboさんの方が、数多くお目にかかっているかと思います。
ジェロニモス修道院は、かなり混雑してましたので、写真を撮るのも苦労しました。
そんなわけで、sanaboさんのように、わかりやすくて綺麗な写真は撮れなかったのが、残念です。ヴァスコ・ダ・ガマのジサンも足元から撮るなんて、私ぐらいかもしれません(汗)
> 生前の姿ではなく死後の肉体の変化を彫刻したTransi(トランシ)という
> ものは今まで見たことも聞いたこともありませんでした。
> ちょっと怖いもの見たさで見てみたい気がします。
> それにしてもnoelさん、よくご存じですね?!
いえいえ、私もそんなに昔から知っていたわけではありませんよ。
しかも、まだトランシは拝見してません。
骸骨ぐらいです。
中には目を覆いたくなるようなものもあるようです。
やはり、死生観の違いなのでしょう。
日本人には理解できないでしょう。私の亡くなった祖母がそんな事を知ったら、罰当たりな!と叱られてしまいそうです。(笑)
> 食堂のアズレージョのお話も興味深かったですね。
> 私は訳もわからずとりあえず写真を撮ってきて、あとで調べて
> お話の内容を知りましたが、きっとnoelさんは(目が節穴の私とは違い)
> ちゃんと意味を理解されたうえでご覧になったことと思います。
いえいえ、sanaboさんの旅行記も参考にさせていただきましたよ。
ありがとうございます。
ヨハネの物語は、キリスト教の信者の方ならご存知かと思います。
私はそうではないので、断片的に知っているだけです。
> そしてそして表紙のライオンちゃん♪ この獅子の泉もとても懐かしいです。
> 獅子の表情が何ともひょうきんというか、なんというか…
> 人間のようなほのぼのとした表情を見ていると笑ってしまいます。
> 作者の意図するところは何だったのでしょうね?(´艸`*)
確かに!
何を意図していたのでしょうね。
お世辞にも美しいとか可愛い・・・とは言えませんものね。
ただ、あれだけある修道院の中で、どうも脳裏から離れないので、表紙にしてしまいました。
> 回廊の柱に施された受胎告知の場面や「荒野の聖ヒエロニムス」の
> レリーフなど、よく見つけられましたね。
実はツアーの待ち合わせ場所が、ちょうどそのあたりだったんです。
添乗員に感謝すべきかもしれません。
> Ermida de Resteloのことも勉強になりました。
> noelさんの研究熱心な姿や情熱が伝わってくる素晴らしい旅行記を
> 大いに楽しませていただきました。
でも、元を辿れば、sanaboさんの旅行記の中で、ベレンの塔から、インスピレーションを受けてたんですよ。
> 続編も楽しみにしていますね♪
ありがとうございます。
旅行の順番は、ちょっとちぐはぐになってしまいますが・・・。
私もsanaboさんの続編が楽しみです!
どうぞよろしくお願いします。
noel
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