2019/01/27 - 2019/01/27
106位(同エリア387件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記250冊
- クチコミ253件
- Q&A回答18件
- 302,127アクセス
- フォロワー77人
日本書紀景行天皇40年の条のヤマトタケルの東征では、房総通過後ヤマトタケルは蝦夷に入ります。蝦夷では「蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距」蝦夷の首領嶋津神・國津神たちが、竹水門に屯して防ごうとした」(日本書紀全現代語訳・宇治谷孟)
竹水門(たけのみなと)がどこにあるか、いろいろ学説があるようですが、房総ではありませんので、この旅行記では訪れません。しかしこの北総玉浦の北端からどの路を通って蝦夷に向かったのか、せっかくここまで来たので、北総を離れるまでヤマトタケルを見送ろうと思います。
もとより書紀には一語も道筋は書かれておりません。最後の空想の旅におつきあい下さい。
恐縮ですが、これまでの詳細は以下をご覧になってください。
「日本書紀編その一、房総海の路序章」
https://4travel.jp/travelogue/11418839
「日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社」
https://4travel.jp/travelogue/11423588
「日本書紀編その三、房総海の路・式内社-安房国から長狭国葦浦まで」
https://4travel.jp/travelogue/11423588
「日本書紀編その四、房総陸の路・熱田神社、下立松原神社」
https://4travel.jp/travelogue/11428536
「日本書紀編その五、房総陸の路・長狭街道、高蔵神社、大井神社」
https://4travel.jp/travelogue/11431129
「日本書紀編その六、房総陸の路・莫越山神社2社」
https://4travel.jp/travelogue/11433245
「日本書紀編その七、房総玉浦、陸路か海路か」
https://4travel.jp/travelogue/11439092
「日本書紀編その八、房総玉浦、瀧口神社、玉前神社、橘樹神社」
https://4travel.jp/travelogue/11442651
「日本書紀編その九、房総横断、木更津から茂原まで」
https://4travel.jp/travelogue/11449103
「日本書紀編その十、橘樹神社」
https://4travel.jp/travelogue/11452018
「日本書紀編その十一、北総・老尾神社、飯岡玉崎神社」
https://4travel.jp/travelogue/11455060
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
現在の霞ヶ浦。
-
古代の 香取の海と椿の海
出典:関東地方整備局ホームページ
(http://www.ktr.mlit.go.jp/kasumi/kasumi00131.html)
記載した地名などは私たちが独自に記入したものです。
現在の霞ヶ浦は、古代は香取の海と呼ばれ、現在よりはるかに広い内海でした。香取神宮は現在利根川まで直線約1.4キロですが、古代は直接香取の海に面しておりました。北浦から1.7キロの鹿島神宮も内海に接しておりました。
椿の海は現在の北総東庄町、旭市、匝瑳市にまたがって広がっていて、ヤマトタケルの時代は一面の湖でした。
干拓されたのは江戸時代初期です。1668年に開始され、1671年には完成しました。それ以降干潟八万石と言われる水田になりました -
千葉立東庄県民の森という公園があります。
そこの案内板に椿海古図があります。
関東地方整備局の地図や、この地図でも湖から九十九里浜に向かう川があり、現在の旭市の近くの玉浦で海に注いでいたようです。現在の東庄県民の森は古図の右上、東庄郡と書かれたあたりでしょう。川を小舟で遡り椿の海を渡り、東庄県民の森あたりで船を下りると、4.5キロくらいで現在の利根川です。古代の香取の海はもっと近かったでしょう。
古代は、波の静かな川、湖、内海なら、水路の旅は陸路よりはるかに楽でした。 -
公園の展望台から一面の水田が見渡せます。ここがかつての椿の海でした。
-
地平線の向こうは玉浦でした。
-
東側に八丁堰という池が残されています。椿の海の名残です。椿の海は水深数メートルだったので、この水面がかなたの台地の麓まで広がっていたのです。
-
想像してみて下さい。この湖面を、ヤマトタケルを乗せた小舟がこちらに向かってきます。
今の八丁堰、椿の海北端の丘の麓で船を降ります。 -
現在の県道74号線に相当する小路を香取の海に向かいます。
香取の海の浜辺からはまた船です。現在の成田線下総豊里の駅近くでしょうか。
香取の海の南岸は今の利根川だったようです。ただし、利根川が現在のように銚子で太平洋に注ぐようになったのは、徳川幕府による大規模な利根川の流域東遷事業のあとで、17世紀のことです。古代は下総の台地の麓まで香取の海が迫っていました。 -
小見川大橋より約2キロ銚子寄りの堤防に来ました。
-
西方向、丘陵は下総台地。
-
丘陵まで1.5キロくらいです。
-
麓を成田線と国道356号線が通ります。
-
東方向、丘陵の向こうが香取神宮です。
-
現在の利根川。香取の海は丘の麓まで広がっておりました。
-
全体を俯瞰できる場所を探して、反対側の台地に回ってみました。国道356号の高台から。手前は利根川の支流黒部川です。ドローンがほしかった。
-
国道より銚子方向。
-
小見川大橋。
-
すぐ下が成田線の線路です。
-
香取方向。
これが全部香取の海だったのです。
香取の海を、船でヤマトタケルが向かったのは、香取神宮だと思います。
香取神宮と、対岸の鹿島神宮こそが、ヤマト朝廷の蝦夷、つまり関東以北の東国進出の拠点でした。
書紀は、ヤマトタケルの東征は蝦夷を目的としていたと語ります。そして内房、外房、北総を通って蝦夷に向かうのであれば、必ず香取神宮を目的地とし、ここで体制を整えて、蝦夷に入ったと考えます。 -
下総一宮、香取神宮。
-
ご祭神は、
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
常陸国風土記に神社名が記載され8世紀初めには確実に存在していました。おそらく前身は土地の豪族の祭祀の場所でしょう。その後ヤマト朝廷の支配下に入り、東国進出の拠点として、8世紀よりはるか前に栄えていたと思われます。 -
拝殿。黒漆塗りの堂々たるお社です。
-
さすが日本有数の古社です。
-
しかし私たちが香取神宮で見たかったものは別にありました。
-
香取の海の痕跡。
-
香取神宮が鎮座する「亀甲山(かめがせやま)」いわれる丘の麓まで、香取の海は迫っていました。その痕跡が少しでも残っていないかと。
桜馬場という見晴台から、すこし水田が見えました。残念ながらピントが全景の小枝にあってしまいました。このおぼろな風景から、かろうじてかつての香取の海を想像することにします。
ヤマトタケルは、ここから船で香取の海を渡り、蝦夷に旅立ったのです。
私たちの、房総の旅はここで終わります。
ただ・・・
日本書紀のヤマトタケルは、なぜわざわざ苦労して房総の陸路や海路でここまで来たのか。
私たちがずっともっていた疑問です。
香取神宮、鹿島神宮は、弥生時代、古墳時代からの土着の部族の祭祀の場所と考えられます。北総経由のヤマト朝廷との往来は古くからあり、その後ヤマト朝廷の権威を受け入れ、香取神宮や鹿島神宮が成立しました。
北総を通って香取の海の北に出て、ここまで来るルートは確立していたはずです。ヤマトタケルが蝦夷にいきたければ、ここを拠点に北に押し出せばいいだけです。
それではなぜ道のないところを無理に通ったのか。
「道のないところ」
これではないでしょうか。
ヤマトタケルは、すでに存在した道を苦労して通ったのではなくて、道そのものを造りにいった。だからこそ苦難でした。そして開いた道筋だったのです。
これまで見てきたように、陸路安房の山地は深い照葉樹林、外房の海沿いの路は峠の連続、あるいは岬を回る困難な路です。
また、外房の海路は、当時の船と航海術では通れないと推定しました。河村瑞賢によって、千石船という当時の大型船を用い、銚子から外房沖を通過、伊豆の下田を経由して江戸に至る航路が開発されたのは、1671年です。
「日本書紀編その七、房総玉浦、陸路か海路か」
https://4travel.jp/travelogue/11439092
長狭国葦浦(現在の安房鴨川江美吉浦)から香取の海にいたる航路を開こうと、外房沖という危険な海に乗り出したパイオニアもいたことでしょう。
それは失敗しました。
少なくない犠牲者をだしたことでしょう。港を出て戻らなければ、彼が遭難したかどうかすら分からないのです。
航路はひらかれなかったのです。航路というのは、発、着の湊、途中の避難湊に、倉庫や船の修理材料の準備などが整って、はじめて航路と呼べます。外房の沿岸にそんなものは1671年までありませんでした。
私たちの想像です。
ヤマトからこの地を訪れ、路の開発に成功したパイオニア、失敗して犠牲になったパイオニアの記憶が房総の各地に残りました。彼らを称える、悼むために祠が建てられました。その土地の開拓の神として祀られました。
8世紀の初め、日本書紀が成立しました。ヤマトタケルという英雄が房総を通ったという記述があります。
日本書紀を読むことのできる知識人がいた村では、その名を知るとまもなく、村人は自分たちの記憶、伝承にのこるパイオニアを祀る祠に、ヤマトタケルも共に祀りました。その後時がたち、パイオニアの名は忘れられ、だれもが知っているヤマトタケルだけが祭神として残ったのです。
ある村では、数百年、あるいは千年という時がたち、祠に祀る神の名はもはや村人に忘れられ、何々様などと地名で呼ばれるようになりました。その祭神は、昔ヤマトからこの地を訪れ、道を切り開いた強い貴人だという伝承だけがのこりました。ある日、村人はヤマトタケルの名を聞きました。ヤマトの、タケル、強い男。そうだ、あれはヤマトタケルだったのだ。そして、祠の神を改めてヤマトタケルと呼ぶようになりました。
館山市大貫の熱田神社では、地元の方はご祭神がヤマトタケルであることをご存知ありませんでした。大貫様と村落の名で呼んでおられました。
「日本書紀編その四、房総陸の路・熱田神社、下立松原神社」
https://4travel.jp/travelogue/11428536
古事記にはヤマトタケルの房総通過の道筋は記載されておりません。古事記は、いわば読み物として、ヤマト朝廷内部の人々に歴史を物語るという性質があります。歌謡がちりばめられた華やかな歌物語です。
どこを通ったなどという細かい事実には興味がないのです。
しかし日本書紀は歴史書です。
「日本武尊(ヤマトタケル)は上総(かみつふさ)から移って陸奥国(みちのくのくに)に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った」(宇治谷孟・全現代語訳日本書紀・講談社学術文庫)
「爰日本武尊則從上總轉入陸奧國時大鏡懸於王船從海路𢌞於葦浦横渡玉浦至蝦夷境」
このうち「そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った」は、全文削除しても
前後の意味の疎通に全く齟齬を生じません。
それなのに、日本書紀の作者は、ヤマトタケルに房総をわざわざ通らせているのです。それは、房総の道を切り開いたパイオニアを、この漢文37文字、とくに、「從海路𢌞於葦浦横渡玉浦至蝦夷境」(海路から葦浦(あしうら)に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った)をもって正史に記録し、後世の記憶に残したかった故ではないでしょうか。
パイオニアたちの最初の旅を6世紀としましょう。日本書紀の作者の望みは叶えられました。房総の各地にヤマトタケルの名は残りました。
1500年たちました。そのかすかな思いの糸をたぐる人々の列に、私たちも連なりました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
ヤマトタケルの旅日本書紀編2018年
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その一、房総海の路序章-走水
2018/10/10~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社
2018/10/10~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その三、房総海の路・式内社-安房国から長狭国葦浦まで
2018/10/10~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その四、房総陸の路-熱田神社、下立松原神社
2018/11/23~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その五、房総陸の路・長狭街道、高蔵神社、大井神社
2018/11/23~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その六、房総陸の路・莫越山神社2社
2018/11/23~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その七、房総玉浦、陸路か海路か
2018/12/18~
銚子・九十九里・白子
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その八、房総玉浦、瀧口神社、玉前神社、橘樹神社
2019/01/05~
銚子・九十九里・白子
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その九、房総横断、木更津から茂原まで
2019/01/13~
木更津
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その十、橘樹神社
2019/01/19~
茂原
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その十一、北総・老尾神社、飯岡玉崎神社
2019/01/23~
九十九里
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その十二、終章・なぜ房総か
2019/01/27~
九十九里
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
九十九里(千葉) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ ヤマトタケルの旅日本書紀編2018年
0
26