2018/10/10 - 2018/10/11
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しにあの旅人さん
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その一で、古代のますらをの上總上陸、その二でヤマトタケルを祀る神社を相浜まで辿りました。
詳細は
「日本書紀編その一、房総海の路序章」
https://4travel.jp/travelogue/11418839
「日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社」
をごらんください。
https://4travel.jp/travelogue/11423588
私たちは、古代の旅を追うときに、神社をたよりにします。神社が現代まで続く、その時代の証人だと思うからです。
神社については、延喜式神名帳という927年に成立した、いわば神社の戸籍台帳があります。延喜式神名帳に記載されるほどの神社は、10世紀初頭において、すでにそれなりに古い由緒をもっています。その他のより古い国史や文献に記載があれば、創建はさらに遡ります。
古代、千葉県の各地に有力豪族が成立し、大小の古墳を作りました。今に残る神社の原型は、そうした有力豪族の氏神を祀ったものでしょう。その後ヤマト朝廷の成立にしたがい、ヤマトの神々に氏神が置き換えられ、現在にいたります。
そういう古い神社は、千葉県では原型の成立が4世紀から6世紀の古墳時代に遡ると考えます。さらに想像を飛躍させれば、縄文、弥生期の、祭祀にまで、ルーツがあるのではないでしょうか。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
黒まるはヤマトタケルを祀る神社。
赤い印の神社は、古い歴史のある式内社です。
「その二」で相浜神社まで古代のますらをの海路の足跡を辿りました。野島崎を回って、現在の千倉港近くの湊にたどりつき、海岸近くの高家神社、下立松原神社あたりで疲れを休めたのではないか、という想像でした。
じつは私たちは、このコースは海の路といっても、海岸沿いの陸路をとることもあったのではないかと思っています。
とくに悪天候で洲崎や野島崎が海路を回れないとき、現在の257号線のような、海岸沿いの路をとったのではないか。
狭い地域に式内社が6社あります。式内社とは前述のように延喜式神名帳(927年)に記載がある神社で、古い神社ということです。延喜式に記載があっても、それに相当する神社が現在では複数ある場合は論社といいますが、すべて式内社と考えます。
安房国では、式内社は洲崎神社から高家(たかべ)神社まで、現在の257号線にほぼ沿って連続しています。内陸の莫越山(なこしやま)神社も式内社ですが、ここではカウントしません。
これが古代の安房国の幹線道路です。この狭い場所にこれだけ式内社があるということは、古代においてここは文化、経済が繁栄していたことの証拠でしょう。
にぎやかで物資の豊富なこの街道では、海路でここまで来た旅人も陸路を選んだことでしょう。 -
洲崎(すのさき)神社です。安房国一宮となっております。
ご祭神は
天比理乃命(あめのひりのめのみこと)
相殿神 天太玉命(あめのふとだまのみこと)、天富命(あめのとみのみこと)
阿波開拓をした忌部氏の氏神です。
創建は不明ですが、古代の神社リストである延喜式神名帳(927年)に記載されておりますので、それ以前に創建された古い神社です。
続日本後紀(869年)にも記載があるそうで、創建はそれ以前に遡ります。 -
本殿前より見下ろす階段。
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一の鳥居のまえに現在の257号線が通っています。
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257号線近くより階段を見上げます。
この神社は背後が山で、この方向以外アクセスはありません。257号線から海岸まで約200メートルですから、古代の路は、9世紀後半には洲崎神社の近くを通っていたことが分かります。古代のますらをも、現在の257号線とほぼ同じルートを辿ったということです。
その旅人はどんな姿であったでしょう。勇ましいもののふのいで立ちかな、いやきっとそうではなく、ここまでの旅路の灰燼にまみれ、疲れ切って足を引きずっていたのではないでしょうか。
でもここまで来れば、旅人の疲れを休める家々が神社の周囲にあったはずです。 -
洲宮(すのみや)神社。式内社(論社)です。現在の257号線より直線で約3キロ内陸です。
安房国一宮を洲崎神社と争ったという記録があります。
主祭神 天比理乃命(あまのひりのめのみこと)
相殿神 天鈿女命(あめのうずめのみこと)、天富命(あめのとみのみこと)
忌部氏ゆかりの神々です。 -
今は洲崎神社にくらべて素朴な村の神様という感じでしたが、とてもきれいに整備されていました。周囲の山の木立は深く、かつては広大な神域をもった神社であったと思われます。
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安房神社。安房国一宮。
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主祭神 天太玉命(あめのふとだまのみこと)忌部氏(斎部氏)祖神
相殿神 天比理刀命(あめのひりとめのみこと)后神 -
清らかな、それでいて堂々たるお社でした。
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落ち葉を焚いていました。夕方でした。お参りする人は私たちだけでした。
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本殿の後ろは山でした。
忌部氏以前、土地の豪族の氏神を祀っていたころは、この山がご神体だったかもしれません。
ヤマトタケル、あなたがここを訪れたとき、社殿はこの位置ではなかったかもしれない。でもこの神域のどこか。あなたは、あなた時代の作法に従い、崇敬の念を表し、これまでの旅の無事を感謝し、これからの旅の無難を祈った・・・
忌部(いんべ)氏の手になる『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)によれば、忌部氏遠祖の天富命(あめのとみのみこと)が安房に上陸し、安房神社を創建したとなっていますが、神武天皇神代の神話で、史実とは考えません。
ウィキペディアによれば、「古代に神郡(一郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)を持った数少ない神社の1つ」 全国に9神郡しかなかったそうです。この神郡の人事についての記録が続日本紀文武天皇4年(700年)の条にあるので、それ以前に安房神社は成立していたことになります。
いずれにしても古い神社です。この地方の有力豪族である安房国造、大伴氏の氏神を祀る神社として古くからあったと考えます。
安房は朝廷に干しアワビを献上する伝統があったそうで、大伴氏がこれを取り仕切っていたようです。
この地方は古代の文化、経済の中心として、大いに栄えていたのです。 -
下立松原神社。式内社(論社)
祭神
天日鷲命(あめのひわしのみこと
天照大神(あまてらすおおみかみ)
高皇産霊神(たかみむすびのみこと)
天太玉命(あめのふとだまのみこと 忌部氏の祖神))
大麻彦命(おおあさひこのみこと)
忌部氏系です。 -
私たち以外だれもいませんでした。
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長い参道、無人です。
野島崎まで直線約2キロ、海岸線まで約1キロです。長尾川という川の河口で、小さな入り江です。船を着けるにはよかったかもしれません。 -
千葉県 南房総市白浜町 滝口1728番地
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下立松原神社は、南房総市千倉町に論社があります。
南房総市千倉町牧田193。
場所は高家神社の近くです。 -
かつて白浜町の下立松原神社と式内社の地位を争ったことがあるそうですが、いまは小さな村の神社でした。しかし林の中の広い神域は、式内社の雰囲気をもっていました。
現在の千倉港まで直線で約2キロです。 -
高家神社。
祭神
磐鹿六雎命(いわかむつりのみこと 尊称:高倍の神)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
料理の神様の神社です。 -
「たかべ」と読みます。
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南房総市南朝夷164。
宮司さんとお話しできました。現在の位置に社殿が建てられたのは江戸時代初めです。それ以前はどこにあったのか記録がないそうですが、いずれにしてもこの境内のどこかであったことは間違いありません。 -
長狭に向かう安房国最後の式内社です。
古代のますらを、その一人である私たちのヤマトタケルも、この地で、旅の疲れを休めたのではないでしょうか。
古代の船旅は、葦浦(現在の江美吉浦)目指して、再び船出です。 -
「海路から葦浦(あしうら)に回った。」という日本書紀の中継点、葦浦が近づきました。なぜ葦浦が吉浦に変わったかについては、「日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社」をご覧下さい。
吉浦海岸付近です。 -
道の駅オーシャンパークより吉浦方面。吉浦海岸はこの岩礁の向こうでまだ見えません。
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地図にある駐車場です。
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駐車場からみた吉浦海岸。岩礁です。
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和田浦方面、つまり館山の方向です。
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道の駅方面。やはり岩礁です。
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岩礁に打ち付ける波はこんな感じです。現代の吉浦海岸には古代のますらをの船は接岸できなかったでしょう。
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江美吉浦漁港。ここなら、なんとかたどり着けたのではないでしょうか。
「浦」とは湾曲した砂浜をいうそうです。 -
三方を岬や岩礁に囲まれて、小さい入り江ですが、船を泊めるには吉浦 ではここが最適とおもいます。
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今はコンクリートに覆われていますが、古代は砂浜だったのでしょう。
古代のますらを、その一人ヤマトタケルは、こうして上總からみちのくに向かう中継点にたどり着きました。 -
律令制以前のこの地域の国造(くにのみやつこ)の支配地域を、神社マップに重ねてみました。領域はきわめておおざっぱです。そもそもはっきりしておりません。
安房国を出て、長狭(ながさ)国造の支配領域に入ります。高家神社から長狭国を縦断して、伊甚(いずみ)国の上総国一宮玉前(たまさき)神社まで現在の国道128号で約76キロですが、この間式内社が1社もありません。
古墳時代今の千葉県には多数の古墳がありました。しかし長狭、伊甚の南部には、皆無ではないにしても、古墳が非常に少ないのです。千葉県の古墳時代の終わりは6世紀後半ですから、そのころまでこの地域には古墳を作る有力豪族が存在しなかったと想像できます。
加えて、927年の延喜式神名帳に記載された神社もありません。
駐車場で、吉浦の岩礁を見つめながら妻が言いました。
「つまり、長狭から伊甚南部には、ほとんど人が住んでいなかった」
ありえる。
「あるいは、住んでいたのは、ヤマト文化とは別の文化をもつ人だった」
するどい妻の指摘です。たしかに、そのどちらかと考えるしかありません。
「道が都とこの地方を結ぶ経済ルートだとしたら、古代のビジネスマンはここに来る必要はないわね」
しかしそれでも道は続いています。
ヤマトタケルは、なぜ、何を求めて、進んでいったのでしょう。
「『若者たち』の旋律が聞こえてきそう」
2番の歌詞なんて、乙橘姫を失ったヤマトタケルそのものです。
江美吉浦で私たちは前進を一時ストップします。
別のヤマトタケルが、別の道を通ってここに向かっているので、合流する予定です。
書紀が内房から海路江美吉浦に向かったと言ってはいますが、房総の内陸にもヤマトタケルを祀る神社はあるのです。
「日本書紀編その四、房総陸の路」に続きます。
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