2018/12/18 - 2018/12/18
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しにあの旅人さん
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日本書紀にヤマトタケルの東征といわれる物語があります。
海路のヤマトタケル、陸路のヤマトタケルは、葦浦(江美吉浦)で合流しました。これから書紀が言う「横渡玉浦至蝦夷境、玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った」に従い、房総の旅の後半を辿ります
恐縮ですが、詳細は以下をご覧になってください。
「日本書紀編その一、房総海の路序章」
https://4travel.jp/travelogue/11418839
「日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社」
https://4travel.jp/travelogue/11423588
「日本書紀編その三、房総海の路・式内社-安房国から長狭国葦浦まで」
https://4travel.jp/travelogue/11423588
「日本書紀編その四、房総陸の路・熱田神社、下立松原神社」
https://4travel.jp/travelogue/11428536
「日本書紀編その五、房総陸の路・長狭街道、高蔵神社、大井神社」
https://4travel.jp/travelogue/11431129
「日本書紀編その六、房総陸の路・莫越山神社2社」
https://4travel.jp/travelogue/11433245
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
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-
黒はヤマトタケルを祀る神社、赤は式内社です。
書紀の語る房総の経路は、「海路から葦浦に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った」とあります。海路をとったのは葦浦までで、以降は陸路と読むのか、これを全部海路と解するのか。私たちには外房の海の荒さを考えると、海路はとりたくてもとれなかったのではないかと思います。
陸路か海路か、この問題を考えていったら、話が面白くなって先に進まなくなりました。夏休みの自由研究を楽しんでいる小学生の気分です。
今回は、神社はでてきません。1回だけ、本題とは関係ない話につきあってください。 -
勝沼近くの海岸です。この日はサーフィンの大会でした。波に乗ろうとしているサーファーに較べると、波の大きさが分かります。
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波が崩れます。
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場所が変わります。釣ケ崎海岸です。
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この日は雨でした。
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天候に関係なく、この海岸の波はこんなものです。
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この日は晴天。釣ケ崎海岸は波が高くないと困るのです。2020年の東京オリンピックのサーフィン会場がここです。いつも波が高いから、会場に選ばれたわけです。
高い波は、サーファーにとってはうれしいでしょうが、この浜辺に船を乗り付ける必要がある場合は、あまり楽しくない。
江美吉浦から勝浦沖をまわり、九十九里浜に沿って飯岡まで、約120キロあります。
「日本書紀編その二、房総海の路」で、ヤマトタケルの船は準構造船と想像しました。この種の船は、帆走はおまけ、櫂でこぐのがメインです。
海洋考古学の茂在寅男博士によれば、「沿岸航法では半日航海して夜は着岸して休んだ」そうです。1日の航行距離は20-23キロ。速度は時速2キロ程度になります。
九十九里浜の北端飯岡まで6日かかります。途中嵐に遭遇しなくても5回は着岸して夜を過ごします。しかも湊などありません。入り江を見つけて、浜に船を引き上げなければなりません。
こういう写真のような波が普通の外房沖で、毎回無事に着岸できるでしょうか。
まして、途中天候が変わって浜や入り江に逃げ込むときは、どうなるのでしょう。入り江は、砂浜でなければならないのです。岩礁では、岩に打ちつけられて、船体は破壊されます。
☆☆☆
房総沖は現代でも海の難所です。
歴史的に知られた海難事故もあります。
1609年9月、スペイン船サンフランシスコ号が御宿の現在の岸和田海岸沖で座礁、沈没しました。 -
岸和田沖です。静かな海に見えます。
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これが荒れると恐ろしい海になります。
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静かな海でも、今のような科学的な天気予報があるわけでなし、突如何がおきるか分からない恐ろしさもあったことでしょう。
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「日西墨三国交通発祥記念之碑」より。
サンフランシスコ号はメキシコから太平洋を渡ってきた帆船です。373名が乗船していたというから、当時としてはかなりの大型船です。ガレオン船というタイプで、通常は3本マストで500から600トンといわれ、水密性に優れた甲板をもち、嵐には強いはずです。
1492年にアメリカ大陸に到達したコロンブスの旗艦サンタマリア号が、185容量トン、乗員約50人ですから、それよりかなり大きい。
ヤマトタケルの時代の、10人くらい乗ればいっぱいという準構造船とは比べものになりません。おまけにこの種の船は甲板をもちません。遊園地のボートと同じで、波をかぶれば船内は水浸しです。
サンフランシスコ号は、フィリピンの臨時総督の任務を終えたドン・ロドリゴが座乗し、当時のマニラを出航し、メキシコに向かいました。
ところが大嵐にあい、御宿沖まで流され、座礁、沈没したのです。 -
317名がこの浜に上陸しました。
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浜辺にたどりつくことができた人々は、村民に救助、保護され、その後メキシコに戻ることができました。しかし56名もの人々がこの海に散ったのでした。
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この事件の記念碑が御宿の海を見渡す高台に立っています。
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日西墨三国交通発祥記念之碑。
日本とスペイン、メキシコの直接交流を生むきっかけになったことから、1928年に建設されました。通称メキシコ記念塔といいます。
漁に生きる岸和田村民の救助活動は、領主に命じられたわけではなく、海に生きる人間同士の助け合いだったのです。そこには外国人に対する偏見も差別もありませんでした。このときの岸和田村民は純粋に人道的行動をとったのです。
日本人が本来外国人に対し、いかに寛大かという好例です。 -
当時の私たちの先祖の心意気に感激します。
海に落ちて体温が下がった遭難者を海女が抱いて素肌で暖めたとあります。この素朴な救助活動は、現代でも最も有効な方法だそうです。
外国人だから気持ち悪いとかいうことはなく、海の遭難者をどうすれば救えるかという経験と、救いたいという好意がすべてだったのでしょう。 -
1978年来日したメキシコのロペス大統領が御宿を訪れ、岸和田村民の救助活動に感謝の意を表されました。369年前の好意を忘れなかったメキシコ大統領の答礼は、こちらの誠意が通じたうれしさがあります。真心の通じない国、人もいますからね。
☆☆☆
海難事故の話を続けます。 -
時代は下り、1869年1月のことです。
熊本藩は、戊辰戦争最後の函館の戦いに、品川でアメリカ汽船ハーマン号を雇い、藩兵350人を援軍として送ることにしました。
ハーマン号は外輪船ではありますが蒸気船です。当時としては最大級の船でした。乗員80名。
1853年浦賀に来港し、徳川幕府に開港を迫ったペリー提督のサスケハナ号とほぼ同じ大きさで、全長71メートル、1734トン。通常は3本マストにより帆走します。荒天時は蒸気機関により、帆船よりはるかに機敏な操船ができるはずです。10ノットくらいは出たらしい。
その船が勝浦市川津沖で大嵐に遭遇しました。地元の漁師が「関東の鬼ヶ島」と呼ぶ難所で、座礁沈没します。430人中、アメリカ人乗組員20名を含む200人以上の死者をだしました。 -
遭難した海を見渡す丘に記念碑があります。
-
この海のどこにそんな暗礁があるのでしょう。
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この海が荒れ狂うことがあるなど信じられません。だから恐ろしいのです。だからこの沖をヤマトタケルたちは通ることができなかったのです。
房総沖は、変わりやすい気象と暗礁で、現代の船と原理的には同じ動力船でも一瞬にして飲み込んでしまうほどの、荒らぶる海なのです。
まして古代の小舟など。
☆☆☆
書紀の江美吉浦以降の記述は、「玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った」ときわめてあっさりしています。房総通過の部分は「玉浦を横切って」だけ。
玉浦を横切るのは陸路でしょうか、海路でしょうか。
その「玉浦」は現在の九十九里浜です。玉浦が九十九里浜と呼ばれるようになったのは、江戸初期だそうです。 -
太東崎より九十九里浜。
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白子町中里海岸より南の九十九里浜、太東崎。
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中里海岸より北の九十九里浜。
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中里海岸より浜辺と九十九里平野。地平線にうっすらと見えるのが上總の台地です。直線で海から約10キロ。
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この丘の麓まで海だったのです。
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標高20-30メートルの丘陵ですが、古代の海と陸の境界でした。
-
飯岡近くの北総台地より見下ろす九十九里平野。
この台地の下まで海が来ていたと思われます。
☆☆☆
現在の九十九里浜は南端太東崎から北端刑部岬まで約66キロの湾曲した浜辺です。しかし古代の玉浦は現在より約10キロ内陸にありました。
元禄時代つまり18世紀初頭では、県道30号線(飯岡一宮線)が波打ち際であったと言われています。現在より500メートル内陸です。
6世紀の古墳時代では、海はおそらく現在の国道128号線、東金からは126号線近くまで侵入していたと思われます。
九十九里南部の都市茂原は、古くは「藻原」と書きました。藻が茂る湿地帯であったからです。
本納の128号線のわずか内陸の橘樹神社には、走水で入水してヤマトタケルを救った乙橘姫の櫛が浜辺に流れ着いて、それを祀ったという伝説があります。「内房で遭難した人の櫛が外房に?」という話は別にして、神社から九十九里浜の浜辺まで10キロあります。櫛が流れ着くには遠すぎます。しかし古代の海は上總の丘陵の麓近くまできていたのです。つまり橘樹神社は波打ち際に建っていました。ですから伝説としておかしくない。
律令制以前、7世紀半ばまで、武社国(むさのくに)が、現在の山武市、芝山町、横芝光町のあたりにありました。武社国は古墳の宝庫です。下総台地といわれる標高30-40メートルの台地には大小800の古墳があるそうです。古墳銀座です。
ところが128号線、126号線より海より、いわゆる九十九里平野には古墳がない。理由は単純で、当時は海または湿地帯で、古墳など造りたくてもできなかったのです。
「玉浦」を浜辺の前の海とする説もあるそうです。しかし「浦」とは湾曲した浜辺をさす言葉です。九十九里浜は浜であるように、その前身の「玉浦」は海ではなく浦です。
太東崎から刑部岬にいたる、国道128号線、126号線のラインは、今の九十九里浜よりさらに湾曲しております。これが海岸線なら、まさに「浦」です。
九十九里浜の北の霞ヶ浦は湖ですので、その類推から「浦」は海という印象ですが、霞ヶ浦は砂州などによって出口をふさがれたラグーンでした。もともとは海の入り江で、浜辺の名でした。古代では、この湖水あるいは内海は「香取の海」(かとりのうみ)と呼ばれていました。
「浜」とは直線状の砂浜を指します。おそらく玉浦が九十九里浜と呼び名が変わったとき、直線状の砂浜だったのではないでしょうか。
☆☆☆
1500年くらいでそんなに海岸線が変わるものでしょうか。
九十九里浜は最近まで陸が海に進出していました。前述のように元禄時代から今まで500メートルくらい陸が海に進出しました。九十九里平野は海に向かって、広がっていたのです。
最近は一部の九十九里の浜辺は波に削り取られております。これは「浜欠け」と呼ばれています。
太東崎、刑部岬などの岩場の護岸工事が進み、砂の供給が絶たれたからだと言われております。岬から削り取られた砂が九十九里浜の浜辺を広げていたのですね。 -
この砂丘は8年前まではもっと波打ち際から離れていました。なだらかに浜辺に下っておりました。
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いまは台風の時など直接波が打ち寄せます。波に削られたあとが分かります。このままだと10年くらいで、この砂丘はなくなります。
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海水浴場の駐車場が危機に瀕することもあります。
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護岸工事はしております。この鉄板は数年前に打ち込まれたときは、1メートルくらいが砂浜から出ておりました。今は鉄板は大人の背の高さ以上あります。足下の砂浜が2メートルも波にさらわれたのです。10メートルほどの鉄板でしたが、このあと何年こうして砂を支えていられるか。
海水浴場ですから、今年の夏前には砂を波打ち際に重機でおろして、なだらかなスロープにしておりました。秋には砂のスロープの跡形もありません。
次の夏には、これだけ高さがあると、砂のスロープは無理かもしれません。 -
護岸工事をしていないところは、約10メートル波に削りとれています。
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駐車場のアスファルトが無残に散乱しています。浜欠けは南に向かって、延々と続いています。たった8年でこうなるのです。
変わった海の状況に従い、九十九里浜は今も増減を続けています。海が陸を削る早さがこれなら、逆に陸が海を埋めてゆくスピードも速いと思います。1500年前の玉浦の海岸線が今より10キロ内陸でもおかしくありません。
☆☆☆ -
「玉浦を横切って」というのがひっかかります。海を陸に沿って北上してある地点で西に向かう、つまり「横切る」
しかし、書紀の筆者の立ち位置からみると、筆者のまえで陸路を横切るとすれば「玉浦を横切って」でもいいのではないでしょうか。 -
九十九里浜も海が荒いというのは変わりません。古代の国道128号線、126号線に近い海岸線まで、この波が打ち寄せていたでしょう。古代の小舟が着岸できるような海ではなかったのです。
ですから、ヤマトタケルは、玉浦も海路ではなく、現在の国道128号線、126号線に近い陸路を通ったと考えます。
☆☆☆
どんな道だったでしょうか -
九十九里浜は砂丘が延々と続きます。
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その砂丘が雑草に覆われます。
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砂丘の道です。歩いてみました。草が生い茂ると、それほど歩きにくい路ではありません。
古代のますらを、私たちのヤマトタケルは、このような海沿いの道を北上したと思います。 -
砂丘とススキの原。
東京駅から高速バスで2時間の中里海岸には、こういう風景が広がります。
ここより10キロほど内陸ですが、古代の路の西側は、この風景と大差なかったでしょう。 -
季節が初冬であれば、上總の台地まで、一面のススキの原であったと想像します。
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陽がさせば、穂が銀色に輝いて・・・
-
ススキの原の向こうには、橘樹(たちばな)神社の鳥居が見えたでしょう。そこに向かって歩くのは、ヤマトタケル、従うのは吉備武彦(きびのたけひこ)、大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)、亦七掬脛(ななつかはぎ)。
東征のヤマトタケルは軍勢を引き連れておりません。
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この旅行記へのコメント (2)
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- mistralさん 2019/01/09 17:50:34
- 陸路を辿って?
- シニアの旅人さん
本年もどうぞよろしくお願い致します。
いつもご投票頂きまして有難うございます。
シチリアのご旅行の計画も進んでおられることでしょう。
さて、ヤマトタケルを旅する、
いつも興味深く拝読させていただいております。
今回の旅行記で、だんだん私が生まれ育った地へと
近づいて参りました。
はい、実家は千葉県旭市というところです。
古代の人々が九十九里浜を北上し、その浜から上陸した
かどうか?という説を、
あの荒い波が打ち寄せる浜辺から上陸することは難しいのでは、
と推測されておられまして
拝読しながら、確かにあの浜辺から上陸をはたすことは
大変そうに思った次第です。
今でしたらサーファーが喜ぶ大波ですが、古代の小舟では
大波にもてあそばれて沈没してしまいそうですね。
陸路をたどったのではないか、に私も一票を投じたい
と思います。
房総半島を事前に下調べされ、更に現地に何度か足を運ばれた上で
旅行記が仕上げられていることと想像致しております。
貴重な旅行記となっていますね。
今後もこのシリーズを
大変なことでしょうがお続けいただきたいです。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2019/01/09 20:44:32
- Re: 陸路を辿って?
- コメント有り難うございます。
旭のご出身ですか! このあと北総に回ります。椿の海がたしか現在の旭市だと思います。数百年前に消え去った湖水の面影を偲んできました。
今回も含め、旭は何度もドライブしました。お昼ご飯の時間がおしいので、妻とチョコボールを食べながらの旅でした。
九十九里陸路説、地元の方に納得いただいてうれしい。
今その7ですが、その10+終章の予定です。どんどん妄想の旅になりそうです。旅行記というより、調査旅行のレポートという感じです。始めちゃったので、やるしかないと。
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