2018/10/10 - 2018/10/10
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しにあの旅人さん
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日本書紀景行天皇40年の条にこうあります。
「日本武尊(ヤマトタケル)は上総(かみつふさ)から移って陸奥国(みちのくのくに)に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った」(宇治谷孟・全現代語訳日本書紀・講談社学術文庫。以降「現代語訳日本書紀」と表記します)
「爰日本武尊則從上總轉入陸奧國時大鏡懸於王船從海路𢌞於葦浦横渡玉浦至蝦夷境」
漢文36文字です。
私たちはこの36文字をたよりにヤマトタケルの房総の足跡を辿ろうと思います。
記紀にヤマトタケルの東征といわれる物語があります。私たちはこれを5世紀半ばから7世紀にかけての、房総を旅した大丈夫(ますらを)たちの物語と考えました。後世(720年頃)、日本書紀の作者は、このますらをたちを一人の英雄に昇華させ、ヤマトタケルと名付けたのではないか。
これが私たちの旅の前提です。簡単に言えば、ヤマトタケルは一人ではない、ということです。
ヤマトタケルの房総上陸を語るとき、弟橘姫の悲劇から始めなければなりません。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 船 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
走水(はしりみず)港です。古代の東海道では走水駅といい、相模から上総に旅する旅人は、この港から上総に渡りました。
-
では上総のどこに着いたのでしょう。
現在の上総湊(かずさみなと)港の近くに天羽駅があったといわれています。こあたり一帯を古代律令制以降明治初年まで天羽郡とよびました。現在でも地名として残っています。 -
天羽を冠する高等学校があります。
-
中学校や、病院もありました。
上総湊港が古代どのようなものであったか、想像する手がかりもありません。しかし港としてふさわしい地形は昔も今も変わらないので、このあたりであったとしてもいいと思います。 -
富津岬を回って、現在の富津漁港の近くに大前駅がありました。潮流
や風で北に流されれば、ここに着いたこともあったでしょう。 -
現在の富津漁港は大きな港です。
大前駅の港がここにあったという証拠はありませんが、このあたりの港の方が南の富津岬に守られ、嵐を避けるにはよかったかもしれません。 -
富津岬先端より。右が旧天羽郡、左が富津漁港。
古代の旅人、いや、ますらをのひとりヤマトタケルも、弟橘姫と走水を船出します。 -
三浦半島南端、観音崎灯台の北側、走水神社です。
-
日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)を御祭神としてお祀りしています。以降神様としての日本武尊と弟橘媛命は出典のとおりに表記します。私たちの物語の主人公は、ヤマトタケルと弟橘姫です。
「船出の時、海を望んで大言壮語して『こんな小さい海、飛び上がってでも渡ることができよう』と言われた」(現代語訳日本書紀)
直線距離で約13キロです。晴れていれば上総国ははっきり見えます。ヤマトタケルがそう思ったのも無理はありません。
神社は港を見下ろす丘の上にあります。この丘のどこからか、海を見下ろしたのかもしれません。 -
航海が始まります。走水港です。この港のどこからか、船は出港しました。
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いきなり現在に時代がワープします。
現在の東京湾フェリーは走水より南へ直線約4.5キロの久里浜より出港し、富津市金谷に向かいます。約11キロ、40分の船旅です。
久里浜を出航します。 -
出港してしばらく、観音崎です。
-
観音崎灯台です。古代のますらをの船はこの岬の向こう側から、走水海峡の中央部に乗り出します。もはや観音崎が風を遮ることはなく、船は外洋からの風を南から受けることになります。
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海峡中央です。この日は曇でした。相模、上総の陸地は、もやにかすんではいましたが、はっきりと見えました。
水平線上かすかに富津岬が見えます。 -
船を除けば、ヤマトタケルが見た海と同じでしょう。
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かつては、ここは海の難所でした。現代はこうして大型船が通り、大島行きの水中翼船が時速80キロでフェリーの船首方向を横切ります。昔と違った意味で難所なのです。
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左端、親指のように突き出た東京湾観音が見えます。
古代の天羽駅、現代の上総湊港はこの写真の、多分中央あたりだと思います。ここまでくれば陸地が風を遮って、古代のますらをは、ほっと一安心したのではないでしょうか。 -
東京湾観音です。20倍の望遠で撮り、さらに拡大しています。工事中で足場に囲まれています。
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房総の陸が近づきます。
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現代の船旅、金谷はもうすぐです。
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海鳥が待ちます。
しかしながら、ヤマトタケルと弟橘姫の船旅は順調ではありませんでした。 -
海峡中央、
-
まだ富津岬が遠いころ、
「ところが海中に至って暴風が起こり、御船は漂流して進まなかった。そのとき皇子につき従っていた妾(おみな)があり、名は乙橘媛という。穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじおしやまのすくね)の女(むすめ)である。皇子に申されるに、『いま風が起こり、波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賤しい私めが皇子の身代わりに、海に入りましょう』と。そして言い終わるとすぐ波を押しわけ海にお入りになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。ときの人はその海を名づけて馳水(はしるみず)という。」(現代語訳日本書紀)
船は流されて富津岬を回り、現在の木更津に漂着したという伝説がありますが、日本書紀、古事記にこの記述はありません。 -
木更津市太田山公園にある「きみさらずタワー」です。ヤマトタケルと弟橘姫のモニュメントがあります。
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公園内の小さな橘神社。乙橘姫を祀ります。
木更津にヤマトタケル、弟橘姫を祭る神社が少なからずあることから、古代のますらをたちが走水海峡で難船して、このあたりに漂着したという事実は多くあったのではないでしょうか。木更津のヤマトタケルを祭る神社については、後の陸路編で改めて訪れます。
古代の東海道は現在の東京をとおりません。当時の東京は湿地帯で、人が通るどころか、人がまともに住めるところではありませんでした。走水駅から天羽駅への海路は、当時の日本の中央・大和から東国・みちのくへ行くメインストリートだったのです。
当時の造船技術、航海術からすれば、この海峡は海の難所でした。対岸を見ることができる、「ひとっとび」に渡れるように見える海峡は、実は沢山の遭難者をのみ込んだ魔の海だったのです。数多くの悲劇の舞台だったのでしょう。その多くの遭難者への哀惜の情が、愛する男のために我が身を犠牲にした弟橘姫という女に集約したのではないでしょうか。この地を旅した多くのますらをが、ヤマトタケルに昇華されたように・・・
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この旅行記へのコメント (6)
-
- ねんきん老人さん 2020/07/07 09:33:08
- 冷静なご考察に我が身を恥じます。
- しにあの旅人さん、お早うございます。
ヤマトタケルの家路についての検証を縷々拝読しましたが、今回は改めて木更津の「君去らず伝説」の起点である走水からの実踏録を拝読いたしました。
文献の紹介と併行して臨場感あふれるご夫妻の旅日記が楽しいだけでなく、ヤマトタケルという存在についての冷静なご考察に触れ、日ごろただ地元の言い伝えだけを根拠に一人の英雄を好きだ嫌いだと語ってきた我が身を恥じる思いがしました。
多くの人々の事跡が一人の人物の行動として集約される例は各地にありますが、なまじ「地元」であることで私自身が冷静さを失い、虚実はともかくとして一人の人間としての日本武尊を疑いもせずに今日に至っている浅学さに忸怩たる思いです。
己の根気が年々衰えていくのを自覚しながら、それをただ加齢のせいだと言い訳している自分を反省し、「読書・実踏」という勉強のありようを思い直しましたが、はて、その反省が続きますものやら・・・。
ありがとうございました。
ねんきん老人
- しにあの旅人さん からの返信 2020/07/09 06:45:23
- Re: 冷静なご考察に我が身を恥じます。
- おはようございます。
これはヤマトタケルシリーズの出発点でした。まさかあのとき、その後断続的に2年近く追いかけることになるとは思いませんでした。どんどん面白くなって止まりません。
調べるのはもともと好きなんですが、最近は紙の上で調べたことを確認しに旅行に行っているようなものです。観光旅行というより、調査旅行ですな。思いがけない発見がいっぱいです。
コロナ明けの飛鳥旅行では、雄略から推古くらいまでの宮の狭さにびっくらポンでした。房総の田舎の広めの農家の敷地と変わらない。そのお宮の跡地の上に今も人が住んでいます。
飛鳥地生えの人は「天皇はんはうちの下の階に住んでいらはりましたどすえ」とか、言いそうです。
一見は百聞より面白い。
今の家路シリーズの後、飛鳥のびっくらポン旅行記を始める予定です。
-
- 多良さん 2018/11/18 23:00:40
- もっと早くにお聞きしたかったのですが・・・。
- シニアの旅人さん、こんばんわ~♪
ご交流いただきありがとうございます!^^
実は、少しも詳しくないのですが、ワタシの在住する三重県には「ヤマトタケルのお墓のある神社」がございまして、それで、シニアの旅人さんの旅行記を見つけ、立ち寄らせていただきました。
その神社は「能褒野神社」と言います。
そして近くには「能褒野王塚古墳」がありまして「日本武尊御墓」と言われています。
・・・本当でしょうか?(汗)
多良
- しにあの旅人さん からの返信 2018/11/19 07:40:13
- Re: もっと早くにお聞きしたかったのですが・・・。
- 能褒野王塚古墳は、5,6年前に私たちもお参りしました。たいへん立派で、きれいにメンテナンスされていました。
これがヤマトタケルの御陵とされているのは、明治12年に当時の宮内省がそう決めたからで、学問的に認められてはいないそうです。三重県には昔からヤマトタケルの墓と言われるものが何カ所かあるそうです。
いずれにしてもヤマトタケルは、相当する実在の人物はいたとしても、伝説上の英雄です。そのお墓がどこかを厳密に考証してもあまり意味がないように思えます。地元の方が崇敬して、いつも清潔、掃除、メンテをしてくださるなら、複数あってもいいでしょう。伝説として、想像の糧になれば、そのほうが素晴らしいと思います。
私たちのヤマトタケルの旅も、最後は能褒野で終わらせようと思っています。いつになることやら。
-
- pedaruさん 2018/11/03 07:17:14
- 日本武尊
- シニアの旅人さん おはようございます
今朝は古代のロマンを味わせていただきました。シニアさんの解釈のもと、旅されたのですね。平易な解説で日本書紀に基づいて書かれました。
関東には吾妻と言う地名が多いですね。海の方向を望み、乙橘姫を偲び、我妻、と言ったと言う伝説が残っております。あがつま、あづま、などの呼称がありますね。
私の母の実家がある栃木県の片田舎でさえも、吾妻村とか吾妻郡などがあります。
大変興味のある旅行記をありがとうございました。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2018/11/03 09:44:08
- Re: 日本武尊
- コメントありがとうございます。全く自分勝手な解釈で日本書紀を楽しんでおります。学術論文ではないので、書紀の原文、史実と矛盾しなければ、何をどう空想しようと勝手、と開き直っています。旅行記の形式の創作ですね。
序章のあと、書紀の原文7文字を頼りに古代の房総、妄想の旅に出かけます。お付き合いいただければ幸いです。もうよそうとは言わないでください。
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