2019/01/05 - 2019/01/05
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しにあの旅人さん
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日本書紀編その一、冒頭を再掲します。
日本書紀景行天皇40年の条にこうあります。
「日本武尊(ヤマトタケル)は上総(かみつふさ)から移って陸奥国(みちのくのくに)に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った」(宇治谷孟・全現代語訳日本書紀・講談社学術文庫。以降「現代語訳日本書紀」と表記します)
「爰日本武尊則從上總轉入陸奧國時大鏡懸於王船從海路𢌞於葦浦横渡玉浦至蝦夷境」
漢文36文字です。
私たちはこの36文字をたよりにヤマトタケルの房総の足跡を辿ろうと思います。
記紀にヤマトタケルの東征といわれる物語があります。私たちはこれを5世紀半ばから7世紀にかけての、房総を旅した大丈夫(ますらを)たちの物語と考えました。後世(720年)、日本書紀の作者は、このますらをたちを一人の英雄に昇華させ、ヤマトタケルと名付けたのではないか。
これが私たちの旅の前提です。簡単に言えば、ヤマトタケルは一人ではない、ということです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
これまで、「海路?於葦浦」(海路から葦浦(あしうら)に回った)という書紀の記述にしたがい、ヤマトタケルたちの、海路から現在の鴨川市江美吉浦にいたる道筋を辿りました。また古代の旅人の辿った道筋を想像する手がかりとして、ヤマトタケルの名を残す内陸の神社も訪ねました。
ヤマトタケルを祀る神社は黒丸が海岸線、緑が内陸です。
古代の旅人を支えたであろう、10世紀以前に創建されてことが確実な古い神社(式内社)は、赤が海岸線、ピンクが内陸です。
恐縮ですが、詳細は以下をご覧になってください。
「日本書紀編その一、房総海の路序章」
https://4travel.jp/travelogue/11418839
「日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社」
https://4travel.jp/travelogue/11423588
「日本書紀編その三、房総海の路・式内社-安房国から長狭国葦浦まで」
https://4travel.jp/travelogue/11423588
「日本書紀編その四、房総陸の路・熱田神社、下立松原神社」
https://4travel.jp/travelogue/11428536
「日本書紀編その五、房総陸の路・長狭街道、高蔵神社、大井神社」
https://4travel.jp/travelogue/11431129
「日本書紀編その六、房総陸の路・莫越山神社2社」
https://4travel.jp/travelogue/11433245
「日本書紀編その七、房総玉浦、陸路か海路か」
https://4travel.jp/travelogue/11439092 -
黒はヤマトタケルを祀る神社、赤は式内社です。
海路のヤマトタケル、陸路のヤマトタケルは、葦浦(江美吉浦)で合流しました。これから書紀が言う「横渡玉浦至蝦夷境、玉浦(たまうら、または、たまのうら)を横切って蝦夷の支配地に入った」に従い、房総の旅の後半を辿ります。
「日本書紀編その七」で述べたように、古代のますらを、ヤマトタケルは葦浦からは陸路をとったと、私たちは確信しています。目的地はまず、昔の伊甚国(いじみのくに)、現夷隅郡(いすみぐん)一宮町の玉前(たまさき)神社、現茂原市本納(ほんのう)の橘樹(たちばな)神社、そして飯岡の玉崎(たまさき)神社、玉浦、つまり九十九里浜北端、ヤマトタケルを祀る最後の神社です。
☆☆☆
江美吉浦を出て、最初のヤマトタケル由来の神社は、勝浦の瀧口神社です。同名の神社が2社あります。御宿よりの海岸線、国道128号線に沿った部原の瀧口神社。勝浦市内で大多喜街道(国道273号線)に入り、宿戸の瀧口神社。
江美吉浦から安房小湊までは、現在の128号線もほぼ海岸沿いを通ります。約18キロです。浜辺も連なり、比較的通りやすかったでしょう。しかし128号線が小さい岬の根元をカットしている場合は、岬の先端を回る旧道と思われる道があります。したがって、距離は18キロよりはるかにあったと思います。
安房小湊-勝浦は約13キロですが、トンネルが13カ所有り、とても古代に道があったとは思えません。現代だから最短距離に道路を作れるのです。古代は峠を越えるか、岬にそって迂回するしかなく、江美吉浦-安房小湊よりはるかに大変。 -
部原の瀧口神社。一の鳥居。
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二の鳥居。
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拝殿。
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千葉県神社庁によれば、延暦(えんりゃく)元年(782年)8月13日御鎮座とあります。延喜式内社ではありません。創始は景行天皇41年(111年)となっています。伝説であり、史実とは思えませんが、古い神社ということでしょう。
ご祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
神社社記によれば、東征の途上この地にヤマトタケルが立ち寄りました。「里人が尊の功徳を崇奉して」この地に御狩神社という祠をたて、延暦元年(782年)8月12日に社殿が建てられた。藤原時宣(詳細不明)という人物が嘉祥2年(849年)に書き残した文書にこうあるそうです。
古代の旅人が、長狭から伊甚に向かうときに拠点としたという伝承をもとに、日本書紀成立後ヤマトタケルを祭神とした、きわめてはっきりした例だと思います。
神社社記によると、嘉祥(かじょう)初年(848年)5月、吉備武彦(きびの・たけひこ)、大伴武日連(おおともの・たけひの・むらじ)も合わせて祀ったとあります。二人とも日本書紀に名前のある、ヤマトタケルの東征に従った人物です。
残念ながら七掬脛(ななつかはぎ)が祀られておりません。ヤマトタケルに料理人、つまりコックとして同行しました。なぜ日本書紀が専属コックの名を記録したのか分かりませんが、当時はその必要がある人物だったのでしょう。 -
本殿。社殿は新しいものです。
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海を見下ろす高台にありました。
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目前の海です。
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上記の写真の撮影は2018年10月28日のものです。19年1月5日、初詣と御朱印をいただきに再訪しました。そのときに宮司さんと話ができました。
若い宮司さんによると、後述の宿戸の瀧口神社以外にも、鴨川に同名の神社が2社、いすみ市に1社があるそうです。この地方の古い神社は9世紀ごろ、祭神が書き換えられて形跡があるそうなので、同名神社を含め、かつてはヤマトタケルをご祭神とする神社はもっとあったかもしれません。
この地方には、ヤマトタケルに由来する地名がいくつもあり、大蛇退治を物語る琵琶曲もあります。
この日奥様は白い作務衣、3才くらいのお嬢さんは白い上着に緋のズボン、巫女さんのいで立ちでした。 -
宿戸の瀧口神社にやってきました。
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御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)。
千葉県神社庁によれば「創立年代は古く不詳だが、『御祭神此の地に来たり給い宿を求め給う』により宿止の名があり、のちに宿戸となったという」
勝浦市内より国道273号線をたどり、約5キロ内陸です。部原の瀧口神社より直線で約4キロです。
海沿いではなく、現在の県道85号線に相当する、内陸の路を通って玉前神社に向かう路があったかもしれません。 -
ここの狛犬さんはハチマキをしていました。阿も、
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吽も。
地元の方に愛されているのですね。柴又トラさんみたいでかわいい。
☆☆☆
私たちは、古代の旅人の、伊甚国の玉前神社を目指した海沿いのルートを辿りたいと思います。
現在の国道128号線はトンネルと切り通しで、御宿からいすみまでほぼ直線ですが、古代はいくつも小さい峠を越えるか、山を海沿いに迂回するか、いずれにしても困難な路です。
いすみ市に入って、平野が広がろうとするところに、諏訪神社があります。ここからは玉崎神社までずっと平地です。旅人もほっとしたことでしょう。 -
諏訪神社。
遅くとも弘安2年(1279年)にはこの地に鎮座されているそうです。
御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)
お諏訪様ですから当然です。
「日本武尊が東征の折、東国平定を祈って上総国小沢村鴨山に、建御名方神を祀り・・・」と由緒にあります。
勝浦の瀧口神社に続き、外房を北上したヤマトタケルの伝説がありました。
この神社の前を何回も車で通りましたが、「神社があるな」とは思ったくらいでした。ところが今回、妻が「神社だ、行ってみよう」
由緒を調べるまで、ヤマトタケルの伝説に由来することは知りませんでした。妻のカン、たいしたものです。なにかひらめいたのかな。
多かれ少なかれ、女は男よりカンが鋭い。しかも妻は九州生まれですから、卑弥呼の末裔、その血が濃いようです。 -
境内のこの巨木から見ると、この神社は相当古い。嵐などで倒木したものは別にして、神社の樹木は伐採されることはありません。神様に刃を向けるなど、とんでもないことです。
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樹齢どのくらいでしょうか。1279年という記録に残る現神社の鎮座年代より古そうです。
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国道128号線の向こうに鳥居が見えます。
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手前が128号線です。鳥居の向こうの丘の麓に外房線が走ります。
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反対側から。
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鳥居前の道路。
なぜこの鳥居と道路にこだわるかというと、かつての御宿と夷隅郡間の道路の位置の見当がつくからです。128号線は1953年に開通しました。それ以前は諏訪神社の鳥居前のこの道路が御宿と夷隅郡を結んでいたのでしょう。現代ですと由緒のある神社の神域を断ち切って道路を通そうとしたら、えらい反対運動が起こりますが、当時ならできたかもしれない。
さらに想像をたくましくすると、古代の長狭国と伊甚国を結ぶ路も、このあたりです。鳥居から外房線の線路まで160メートルくらいです。線路は丘陵の麓を走ります。この間のどこかに古代の路はあったと考えられます。
☆☆☆
この旅行記には、わずかに史実に基づいた創作が入ります。妻の入れ知恵がおおきい。
ヤマトタケルの一行は、今はそのお名前を知ることができない、この神社の前身にたどり着いて、一休みします。
七掬脛(ななつかはぎ)が用意したお弁当を食べます。
吉備武彦(きびの・たけひこ)が「皇子、今日のうちに玉崎神社まで参りましょう」と言います。玉崎神社は当時なんと呼ばれたのでしょう。ここから約18キロあります。
大伴武日連(おおともの・たけひの・むらじ)はもう立ち上がって、荷物を運ぶ人々に指示を出しています。
「えー、うっそー、また歩くのかよ」ヤマトタケルは、剣を杖にしぶしぶ立ち上がるのでした。
タケル君はすぐ調子にのるヤツで、ついこの間大言壮語して走水で海神を怒らせたし、伊勢では神宮の建設予定地探しに忙しい伯母さんのヤマト姫に泣きを入れたり、女々しいのです。
「ごめんね、家来の一人もつけてやりたいけれど、今土地探しで人手不足なのよ、せめてこれをあげるわ」と言ってヤマト姫がくれたのが、杖にしている天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、その後静岡で名前がかわって草薙の剣(くさなぎのつるぎ)なのでした、なんてね。 -
前述の玉崎神社は、よみかたは同じ「たまさき」でも、一宮の上總一宮玉前神社とは異なります。いすみ市岬町の中原堰(なかはらぜき)という池の近くにあります。
御祭神は、
豊玉毘売命(トヨタマヒメノミコト)
火遠理尊(山幸彦)(ホオリノミコト)
鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズノミコト) -
千葉県神社庁によれば、大同2年(807年)に大宮地区に創建、その後遷座を繰り返し現在位置に鎮座したのは1707年だそうです。807年以降は存在が確認できる神社ということです。一宮の玉前神社の元宮という説もあるそうです。つまりこの神社の方が創建は古い。
古代に和泉浦に上陸した物部氏が創建したという伝承もあるそうです。 -
和泉浦は太東崎の南、御宿まで広がる長さ約4.5キロの浜辺です。湾曲した浜は、まさに「浦」です。中央の河口が夷隅川です。このどこかに古代の玉崎神社はあったことになります。
ただし、玉浦(現在の九十九里浜)が古代には現在より10キロほど内陸にあったように、和泉浦も海岸線はかなり内陸にあったと思います。 -
和泉浦北端より太東崎。灯台が見えます。夷隅川の河口南です。このあたりは、古代は間違いなく海です。
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現在の玉崎神社は左の丘にあります。和泉浦の夷隅川河口まで直線3.4キロ、夷隅川まで1.4キロです。古代の海岸線はこの丘あたりかもしれません。
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玉崎神社境内、本殿より一段高い塚の上に、琴平神社。
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不思議なたたずまいでした。
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この神社は、玉崎神社がこの地に遷座する前よりここに鎮座していたと言われます。
以下は完全な空想です。物部氏が和泉浦に創建した神社とは、ここではないか。つまりもとに戻った。
琴平神社の祭神は大物主神(おおものぬしのみこと)、大黒様のことです。その土地の地の神様という意味もあるそうです。琴平神社は海上交通の守り神です。創建したのが物部氏かどうかは別として、太古ここに住み着いた海人族の守り神として創建され、後年琴平神社の名を冠したという説はいかがでしょうか。 -
玉前神社。
上総一宮です。 -
ご祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)
父は豊玉彦命(とよたまひこのみこと、竜宮城の竜神)、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妻で、神武天皇の母。
姉は豊玉姫(とよたまひめ)、山幸彦の妻です。
日本神話のなかで、最も有名な女神様の一人です。美人がお参りすると焼き餅を焼くそうです。 -
拝殿と本殿。つい最近修復され、漆黒の漆塗り、見事な社殿です。
延喜式神名帳(927年成立)には2861社が記載されており、そのうちの226の大社の1社です。その創建は927年をはるかに遡るのは間違いありませんが、永禄年間(16世紀なかば)の戦火により、記録が焼失し、詳細が分かっておりません。 -
このあたりは律令制以前伊甚国(いじみのくに)といわれました。現在の茂原市の一部、長生郡の一部、夷隅(いすみ)郡を支配していました。夷隅川、一宮川流域ということです。
この夷隅郡、古代では伊甚郡は、伊甚国造伊甚稚子(いじみの・わくご)のチョンボでヤマト朝廷に没収されるという事件がおきました。
現在のこの地域には、上總(かずさ)12社祭りというお祭りがあります。以下はいすみ市ホームページからの引用です。
「釣ヶ崎の祭典
この祭礼は、9月13日上総一宮の玉前神社をはじめ、例祭が斎行される。これにともない、神輿神幸祭には一宮町東浪見の釣ヶ崎海岸に各社の神輿が集まり、古来よりの伝統的な行事を受け継いでいる。
祭りの由来
「裸祭り」(神輿を担ぐ姿が裸に近い)の名前で親しまれ、秋の風物詩となっているこの祭りは、記録によれば約1200年の歴史がある。由来は、玉前神社の祭神玉依姫命の一族が房総半島に上陸したゆかりの場所(玉前神社の祭神は、海に漂着した玉という説がある)釣ヶ崎(一宮町東浪見)で再会することに始まった、といわれている。一宮町を中心に、近隣5市町村の広域から神輿が集まり、房総の代表的な「海のまつり」として県指定無形民俗文化財となっている。」 -
玉前神社HPより。
釣ケ碕海岸に集合した12社の神輿です。同社によれば、この祭りは「平城天皇の御代・大同二年(807)創始」となっています。
前述の玉崎神社は12社の1社です。 -
大原町ホームページより。
大原にも、例年9月23、24日大原はだか祭りという同じようなお祭りがあります。旧大原町の18の神社から十数基の神輿が集まり、御宿の海岸で海に突進する「汐ふみ」という行事が中心です。起源は江戸時代といわれていますが、12世紀頃に一部の神社で同様の祭りが行われていた形跡があるそうです。
前述の諏訪神社も18社の1社です。
このようにこの地域は古くから神社が人々の生活に根付いていた歴史があるのです。
☆☆☆
伊甚国造伊甚稚子(いじみの・わくご)のチョンボによる伊甚郡没収事件。日本書紀が安閑天皇(27代天皇)元年(534年)4月の事件として記述しています。
「内膳卿膳臣大麻呂(かしわでの・つかさのきみ・かしわでの・おみ・おおまろ)が勅命をうけて使いを遣わし、真珠を上總の夷隅にもとめさせた。夷隅の国造らは、京に出てくることが遅く、長らくたてまつることがなかった」(宇治谷孟・全現代語訳日本書紀)
膳臣大麻呂は激怒して、京にやっと出てきた伊甚稚子を縛り上げます。伊甚稚子は完全にテンパって、こともあろうか天皇の後宮に逃げ込み、鉢合わせした春日皇后は驚いて失神してしまいます。
重ね重ねの大変な重罪です。伊甚稚子は恐れ入り、夷隅郡を屯倉(みやけ、天皇の直轄地)として春日皇后に献上して罪を許してもらうことになりました。
これが史実かどうかは不明だそうです。しかし安閑天皇は継体天皇の息子で、一般的に継体天皇以降の天皇は実在したと見なされ、書紀の記述も歴史的信憑性が高いとなっています。この面白い事件は史実であってもおかしくない。
ヤマト朝廷が地方の国に介入して、直轄領を増やしていった例はほかにもあるそうです。夷隅郡がその後屯倉になったのは史実です。つまり6世紀前半にヤマト朝廷は房総の端っこの地方豪族にイチャモンをつけ、領地を没収できるほどの力があったということです。
ところで、伊甚稚子はたしかにドジですが、伊甚からヤマト盆地まで時間がかかるのは当たり前です。これまでにいろいろお話ししたように、伊甚から外房沖の海路をとり、大事な献上物を安房まで運ぶなど、危なくてできません。現在の茂原から房総半島を横切って天羽の駅まで運ぶか、外房の海岸沿いの陸路を辿るしかないのです。大変な時間がかかります。
「天羽からは官道の東海道だ。一級国道ではないか。それなのに遅れてけしからん」と膳臣大麻呂は思った。天羽に至るまでの地方の道路事情など興味なかったのです。
中央政府が地方の実情にうといのは、いつの時代でも同じのようです。
「現在の茂原から房総半島を横切って天羽の駅まで運ぶ」
え、房総横断、そんなの聞いてないよ、と思われたでしょう。このルートはヤマトタケルの辿った第3の路として、次回取り上げます。
☆☆☆
妄想に基づく創作です。創作部分では妻の文章チェックに熱が入ります。
ヤマトタケル一行は玉崎神社を出て、橘樹神社に向かいます。路は間違いなく上総の丘陵の麓を辿ります。この時代の九十九里平野はまだ海です。茂原は、藻の茂る湿地帯。麓の路は上総丘陵に沿って、途中くの字に曲がります。現在の茂原公園の近くです。
ヤマトタケル一行は東に藻の湿地帯、西は丘に挟まれた細い路を辿っていきます。道案内人がふっと立ち止まり、指さして申します。
「走水への路」
細い踏み跡のような路が西に走り、その先の木立の陰で、10人ほどの旅人の一団が休んでいました。疲れ切った様子です。そのうちの一人、指導者と思われる貴人は、どこかヤマトタケルに似ていました。
ヤマトタケル一行が橘樹神社の鳥居の前に着いたとき、その前に立っていたのは忍山宿禰 (おしやまの・すくね)、そのかたわらに美しい娘がいました。ヤマトタケルは驚いて声を上げます。乙橘姫にうり二つなのです。
案内人が言いました。
「忍山宿禰様の愛媛(兄媛、えひめ、長女)です」
乙橘姫は彼女の妹でした。
妻「乙橘姫に姉がいたの?」
私「ムニャムニャ・・・」
妻「キモイわね、この文章」
☆☆☆ -
上総二宮橘樹神社。
千葉県神社庁によると、ご祭神は、
弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
忍山宿禰(おしやまのすくね、弟橘媛命の父)
今回はこの鳥居の前までとします。
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