2018/11/23 - 2018/11/23
3867位(同エリア28790件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記217冊
- クチコミ225件
- Q&A回答18件
- 232,137アクセス
- フォロワー73人
私たちは房総のヤマトタケルの足跡を追って、横と縦の旅を続けます。現在の房総のヤマトタケルゆかりの地を訪ね歩くのが、横。
古代への想像の旅が、縦。
縦の旅は、日本書紀の記述と史実に矛盾しなければ、なにをどう想像しようと自由、と思っております。妄想と言うべきでしょうか。
縦の旅は写真を撮ってくるわけにはいきません。したがって、文章での説明がくどくど続きます。4Travelの旅行ブログらしからぬものですが、おつきあい頂ければ幸いです。
いろいろ旅の前提があります。恐縮ですが、詳細は
「日本書紀編その一、房総海の路序章」
https://4travel.jp/travelogue/11418839
「日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社」
https://4travel.jp/travelogue/11423588
「日本書紀編その三、房総海の路・式内社-安房国から長狭国葦浦まで」
https://4travel.jp/travelogue/11423588
をご覧になってください。
なおこれから私たちが訪れる神社は、房総の小さな神社で、記紀などの文献には登場しません。神社の創立年代は、歴史的、考古学的事実と矛盾しない限り、神社の由緒を尊重します。神武元年創立などというのは、西暦紀元前660年となり、考古学的事実ととても整合しません。しかし古墳時代後期、飛鳥時代、つまり6,7世紀以降であれば、その神社のもとになった何らかの祭祀の場所が築かれたと考えてもおかしくないと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
その二、その三で、海路、海沿いの路経由で、ヤマトタケルを含む古代のますらをが、葦浦、現在の鴨川市江美吉浦までたどり着く道筋を追いました。
日本書紀は「海路から葦浦(あしうら)に回った」と書いています。でも房総の内陸にもヤマトタケルを祀る神社はあります。また、古代の旅人の助けになったであろう古い式内社が、内陸にもあるのです。
黒まるは海沿い、緑まるは内陸のヤマトタケルを祀る神社。
赤印は海沿い、ピンク印は内陸の式内社です。論社はいずれも式内社とします。
日本書紀とは別ルートを取った別のヤマトタケルの足跡を追います。
9月9日、県道188号沿線、大貫という集落近くの熱田神社を目指します。
カーナビをたよりに千葉県神社庁のHPが教えてくれた住所、南房総市千倉町大1441番地に着きました。ナビ子の無慈悲な通告が流れます。「目的地に到着しました。案内を終了します」ナビ子はうちのカーナビ。
大貫の集落内ではありますが、周囲に神社らしきものはありません。
途方にくれる私。こういうとき私はすぐにめげます。「パスするかな」
と、妻が・・・
人通りもない道、探しあぐねていると、道に面した家の庭に人影。静かなこのあたりにはカラスの鳴き声くらいしか聞こえません。車が通ることさえ珍しいのに、その車が止まり、見知らぬ人間が降りてきたのですから、驚かれたと思います。
そして、観光地でも有名神社でもない、多分その地区の氏神様の場所を聞いてくるのですから、そのご婦人はずいぶん奇妙な思いをもたれたと思います。 -
「あの森、あの森が神社ですよ」と指さされると、車通りを渡ったむこうにたしかに森があります。お礼を言って車に戻るとき、気づけばご婦人は網戸を洗っていらっしゃいました。もう夏も終わるのです。
教えられたとおりに道路を横切り、細い道を進みます。道は田の中をくねくねうねりながら続いてゆきます。田働きしている人が腰を伸ばして私たちの車を見ています。私たちが土地者でないことがすぐに分かるほど、平和な静かな土地柄なのでしょう。 -
ありました。
「結構立派!」ほっとする私。 -
鳥居があります。一の鳥居ということです。かつては大きな神社だったのでしょう。
-
二の鳥居。
-
本殿です。
-
間違いありません。
-
ご祭神は、
日本武尊(やまとたけるのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
大山咋尊(おおやまくいのかみ、山の神、農耕治水の神)
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
元々のご祭神は日本武尊で、ほかの神様は明治41年に近くの神社より合祀したものです。
千葉県神社庁によれば、養老元年(717年)9月15日の創立と伝えられるそうです。717年からご祭神は日本武尊です。
石段を下りて、作法通り鳥居に一礼して、私たちは熱田神社を去りました。
☆☆☆
しかしどうにも腑に落ちないことがあります。なぜ、だれが、このような山間部にヤマトタケルを祀る神社を創ったのか。
このあたりは、古代はどんなところだったのでしょう。
県道188号は館山と南房総市千倉をほぼ東西に結び、山間部を走ります。館山から大貫まで約8キロ、大貫から東に進み、現在の千倉港まで約5キロです。
房総半島の先端部分を横断する道路で、JR内房線のもうひとつ海よりを通ります。館山から千倉に向かうときの最短ルートです。このあたりは大貫という地域ですが、熱田神社以外にも、7世紀末-8世紀初頭創建と伝えられる小松寺という寺院があります。
千倉方向に約3キロで千倉の下立松原神社があります。論社ですが、式内社です。10世紀以前に造られたことが確実な古い神社ということです。
私たちは、式内社は古代ではその地方の文化、政治の拠点だと思っています。
古代も大貫には同じような陸路があったと想像します。
大貫から館山方向3キロくらいは現在でもほとんど人家がありません。古代は、館山近くの湊をでると、下立松原神社までおそらくほぼ無人であったのではないでしょうか。 -
出典はWikipedia「近代以前の日本の人口統計」中の
澤田吾一「奈良町時代民政経済の数的研究」富山房1927年
725年の推定です。安房は、大体現在の館山市、南房総市、鴨川市、勝浦市、鋸南町に相当します。人口は現在の約4分の1です。5市町の面積合計は約671平方キロメートルですから、1平方キロメートルあたりの人口密度は約52.3人となります。豊島区が東京都一の人口密度だそうです。21、881.5人。北海道稚内市が、49.7人です。
当時の安房は、式内社が6社もある現館山市、アワビの産地としての沿岸部に、人口は集中していたと想像できます。山間部はどうだったでしょうか。
千葉県全体では現在の約28分の1です。だいたいこんなものとすると、現在の5市町の28分の1は、約5.297人となります。1平方キロメートルあたりの人口密度は約7.9人です。ほぼ無人。
強引な計算ですが、山間部の人口を想像する手がかりにはなると思います。
南房総の風景の特徴は、照葉樹林です。近年は開発と植林でかなりの樹林が失われました。しかし鴨川、勝山などには自然のままの照葉樹林が残っています。東日本で、照葉樹林が大地を覆っているのは、南房総だけなのです。 -
常緑で、背が高く、葉が広い、クスノキ、タブノキ、シイなどです。このように山肌をびっしりと覆い、地肌など見えません。山を緑色の雲が覆っているようです。
-
まるでブロッコリーです。
-
冬でも葉が落ちないので森の中は暗く、見通しは全くききません。
グーグルマップの航空写真で南房総を見ると、JR内房線、県道86号、白浜から千倉までの海岸に囲まれたほぼ四角形の地域は全域が山林です。南房総の山は高くはありませんが、谷が細かく入り込み、森は深いのです。
古代、南房総は、樹高20メートルを越す照葉樹が鬱蒼と茂り、巨大なブロッコリーのように大地をびっしりと覆っていたのです。
森は生き物です。魔物なのです。
「もののけ姫」の森が照葉樹林です。
☆☆☆
8世紀の初めに、だれが、なぜこのような無人の山中にヤマトタケルを祀る神社を創ったのでしょう。
11月23日、もう一度熱田神社行ってみることにしました。 -
あの鳥居が見えてきました。2度目のお参りです。懐かしい思いがします。
-
再びやってきました。
-
一の鳥居をくぐります。
-
二の鳥居。
-
2ヵ月たちました。季節はもう晩秋、本殿前は銀杏の落ち葉に覆われていました。
養老元年(717年)創立といわれます。しかし、その前からここにはなにか祭祀の場所があったはずです。神社がなんのゆかりもないところにいきなりできるはずがありません。
ふと、おもいつきました。もしかすると、この路を旅して、行き倒れた旅人を祀る何かがあったのではないか。
鬱蒼とした照葉樹林が山野を覆っていました。道は獣道と見分けがつかず、道に迷い、日が暮れ、急に天候が変わったら、危ない。その行き倒れた旅人を慰めるための祠のようなものが創られ、717年、旅人を祀る神社になり、後年書紀のヤマトタケルを知っただれかが、山野を跋渉した勇気ある、しかし不運な旅人たちにヤマトタケルの名を冠した。そのひとは、下立松原神社の神官でしょうか。
これが私たちの勝手な想像です。 -
銀杏は太古から姿を変えていません。神社が創られたときも、同じ形の葉がこうして敷きつめられていました。
「人も、馬も、道行き疲れ死に々けり。旅寝かさなるほどの かそけさ」釈迢空「海やまのあいだ」(以下の短歌も同じ) -
サザンカも日本の固有種。花が落ち、実生して、何代も代を変えて、神社を彩ってきました。
「ひそかなる心をもりて をわりけむ。命のきわに、いうこともなく」 -
柿も古くから日本に自生していました。神社の前を通り過ぎる旅人を見守ってきたことでしょう。
「邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓」 -
手水の石は、いつからここにあるのでしょう。
-
かつてこのお社の上にも空を覆う、クスノキがあったかもしれません。
-
青空に屋根のシルエットは昔も今も同じ。
-
柿、晩秋のしるしでした。
-
サザンカが花盛りです。
-
しめ縄の紙垂(しで)が、
-
縄は古いのに、
-
新しいのです。どなたか、神社をお守りしている方がいるのです。
-
神社にお別れを告げます。
-
よいお参りをさせていただきました。
一足先に車に戻った妻のところに、軽トラに乗った男性がやってきました。
降りてきたのは日焼けしたおじさん。
ギョッ! 思わず身構える私。というのも、以前旅行したモロッコで、知らないとはいえ宗教的(?)何かを、単なる野次馬でのぞこうとして、しかられたことがあります。
無人の神社、きちんと神様にご挨拶したつもりではありますが、表から裏まで歩き回り、写真を撮りまくっているのは、地元の人からすると、アヤシイかもしれませんね。
でもおじさん、にこやかに話しかけてくださいました。
ヤマトタケルの神社を巡っているとお話しして、「ここのご祭神も」と言うと、「えーっ、そんな昔のことは知らない」ですと。
「ここらの人はこの神社のことは大貫様、下立松原神社のことは千倉様と呼んでいるよ」
ああ、やっぱりね。土地神様なんだ。土地神様だからこそ、何百年という長い間、こんなに浄らかに守られてきたのだ。
おじさんはニコニコと源頼朝が旗揚げしたときのこととか話して、「今小松寺でご開帳をしているから行くといいよ」と耳寄りな情報をくれて去って行きました。
なんだか秋の夜長の一晩、酒を酌み交わし、この土地のあれやらこれやら聞かせてもらいたいと思った、人なつかしいおじさんでした。 -
「延喜式内社下立松原神社」とあります。
10月に訪ねた下立松原神社を再訪しました。熱田神社を過ぎて千倉に向かうと、この神社に迎えられます。現在の県道188号線とほぼ同じルートで、館山と千倉を結んでいたであろう、古代の路の終点です。古代千倉の文化と政治の中心であったと想像します。
ヤマトタケルを含む古代の旅人は、鬱蒼たる照葉樹林の山野を超えて、この神社にたどり着いたとき、ほっと安堵のため息をついたことでしょう。
熱田神社の後、どうしてもこの神社を再びお参りしたくなりました。古代の旅人の思いを少しでも感じ取れるのではないかと思います。
延喜式神名帳に「下立松原神社」とあり、白浜の同名の神社と論社として式内社の地位を争いました。今は白浜の神社のほうが遥かに規模も大きく、立派です。しかし私たちは両方とも式内社であっていいと思います。
社伝では創建は神武元年となっているそうです。つまり伝説ということです。ご祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)です。安房開拓の祖といわれる忌部氏の祀る神様の一柱です。同じ忌部氏の神を祀る安房神社と同系です。文献上安房神社は8世紀以前に創建されたことが確認されているので、同じ頃ではないかと想像します。
創建当時は、祭神は忌部氏の神々ではなく、土地の豪族の氏神であったことでしょう。 -
バス停「牧田郵便局」が参道の入り口です。県道187号線に面します。
-
千倉の駅近くなのに無人で静かです。
-
木立の奥に、
-
本殿への階段が見えてきます。
-
小さな本殿です。
-
これは本殿を守るための覆い、覆屋だそうです。中は確認できませんでした。左隣は神輿殿です。
-
見事な二本杉にしめ縄が張り巡らされていました。樹齢600年の杉だそうです。
-
末社御霊(みたま)神社。これも覆屋です。
-
杉の木立と四柱を祀る末社。
-
木漏れ日が美しかった。
-
境内のせんだんの実です。見事な青空でした。
広い境内に杉が林立する、小さいけれど美しい神社でした。
この旅を始める前は、御朱印を求めて諸国の一宮を回っていました。しかし、こうしたどのガイドブックにも載っていないような神社を訪れるようになって、初めて日本の神社の美しさに触れました。町なかの神社がきれいに掃き清められているのは当然ですが、山中の神社にもゴミ一つありません。どなたかがお守りしているのです。
お守りする人の心の清らかさが、神社の美しさとなるのでしょう。
古代のますらを、そのひとりヤマトタケルは、こうして千倉まできました。下立松原神社で疲れを休めたら、千倉の湊に行き、そこから船で、葦浦(あしうら)、現在の安房鴨川の江美吉浦で待っている別のヤマトタケルと合流することになります。
でも、まだ船にのるわけにはいきません。
もうひとつヤマトタケルが通ったであろう路があるのです。
そのヤマトタケルは今、金谷の金谷神社、あるいは安房勝山の加知山神社を出ました。これから長狭街道を東に向かいます。
金谷神社、加知山神社については、
「日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社」
をごらんください。
https://4travel.jp/travelogue/11423588
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
ヤマトタケルの旅日本書紀編2018年
-
前の旅行記
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その三、房総海の路・式内社-安房国から長狭国葦浦まで
2018/10/10~
館山・南房総
-
次の旅行記
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その五、房総陸の路・長狭街道、高蔵神社、大井神社
2018/11/23~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その一、房総海の路序章-走水
2018/10/10~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その二、房総海の路・ヤマトタケルを祀る神社
2018/10/10~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その三、房総海の路・式内社-安房国から長狭国葦浦まで
2018/10/10~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その四、房総陸の路-熱田神社、下立松原神社
2018/11/23~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その五、房総陸の路・長狭街道、高蔵神社、大井神社
2018/11/23~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その六、房総陸の路・莫越山神社2社
2018/11/23~
館山・南房総
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その七、房総玉浦、陸路か海路か
2018/12/18~
銚子・九十九里・白子
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その八、房総玉浦、瀧口神社、玉前神社、橘樹神社
2019/01/05~
銚子・九十九里・白子
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その九、房総横断、木更津から茂原まで
2019/01/13~
木更津
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その十、橘樹神社
2019/01/19~
茂原
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その十一、北総・老尾神社、飯岡玉崎神社
2019/01/23~
九十九里
-
七十路夫婦 ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その十二、終章・なぜ房総か
2019/01/27~
九十九里
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (4)
-
- はるたまさん 2018/12/01 20:08:38
- 楽しく読ませて頂きました
- こんばんは。
ヤマトタケルシリーズのその4がアップされたという事は、白内障の手術は無事におえられたのですね。
術後の経過はいかがでしょうか。
今回も楽しく読ませて頂きました。
奥様が大活躍でしたね。
今回、照葉樹林のお話がありましたけど、
それで納得した事があります。
以前、鋸山のロープウェイに乗った時に、
「南総里見八剣伝!独特の雰囲気だなぁ」と思ったのですがその理由がわかりました。
イギリスにいらっしゃった時の旅行記も拝見しました。
とても勉強になりました。
季節外れに暖かい日が続きますが
朝晩は冷えこみが強くなってきました。
お身体にお気をつけてお過ごし下さい。
- しにあの旅人さん からの返信 2018/12/01 20:16:59
- Re: 楽しく読ませて頂きました
- 白内障、右目は終わりました。白が白く見えるので、多分うまくいったと思います。もうしばらくたってみないと結果はわからないそうです。来週今度は左です。
ヤマトタケル続編読んでいただいて有難うございます。
妻にはもう直接文章を書いてもらうことにしました。そっちの方が面白い。完全に共作です。ついでにカメラも渡して2人で撮りまくってきました。おかげさまで、写真の数には困りません。
-
- ももであさん 2018/12/01 20:03:55
- Z軸妄想
- シニアの旅人さん こんばんは♪
「森友」問題のように、こと国政となると現代の財務省ですら
都合が良いよう文書改ざんするのが国の大事なお仕事
ましてや古事記、日本書紀の時代ともなればフィクションは
堂々とまかり通っていたのでしょうかね。
それで大和朝廷が天皇の威光を示し、国を統一するために
全国各地に、朝廷印の架空のヒーローを送り込んだ...。
九州:クマソタケルくん、出雲:イズモタケルくん、そして
関東:ヤマトタケルくん
何れも出来すぎたヒーローっぽいモテそうなお名前
ついでに彼らを祀るヒーロー神社を全国展開しよう(^^)
これで民衆はメロメロ。そして朝廷を讃えた...。
な~んて、縦横を超えてZ軸で妄想してみました♪
ももであ
- しにあの旅人さん からの返信 2018/12/02 06:30:07
- Re: Z軸妄想
- 東征のヤマトタケルはまったくヒーローぽくないです。走り水で最愛の恋人は亡くしちゃうし、あちこちで「弟橘姫恋しいよ」と女々しく言うし、最後は故郷をめのまえにして能褒野で死んじゃうし。肝心のエゾでもはなばなしい戦さはなしで平和解決。
書紀の編集者はNHK大河ドラマみたいな英雄活劇を注文したのに、出てきたのはメロドラマ。「このシナリオはボツ」って言われなかったのかな。内館まきこ級の、文句をつけられない大物ライターだったのかな。会長の友達とか。
こういうのを書いていると、妄想が楽しくて。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ ヤマトタケルの旅日本書紀編2018年
4
42