2018/10/10 - 2018/10/11
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しにあの旅人さん
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日本書紀景行天皇40年の条に、ヤマトタケルの東征の記述があります。
現在の千葉県内房、外房、九十九里浜経由で、蝦夷に遠征した物語です。
第12代景行天皇40年は西暦110年となりますが、古墳の考古学的調査によれば、強力なヤマト王権の成立は早くて4世紀後半だそうですから、年代が事実とは思えません。
現在の歴史学会では、実在が確実な天皇は継体天皇以降と考えられています。在位507年-531年。したがって、6世紀初頭以前の書紀の記述は、神話・伝説が混在し、そのままでは史実とは考えられません。
私たちはヤマトタケルの東征の物語は5世紀半ばから7世紀にかけてと想像しました。
下限は日本書紀成立の720年ですが、書紀はゴシップ週刊誌ではないので、リアルタイムの事件は扱わないでしょう。調査、資料収集に時間がかかるとして、丸めて7世紀いっぱいとします。
上限を5世紀半ばとするのは、ヤマトタケルは、戦さなしに房総を通過しているからです。
考古学上房総がヤマト朝廷の影響下に入ったのは、前方後円墳が多く造られるようになった5世紀半ばとするのが通説だそうです。すでにヤマトの威光が行きわたり、房総でヤマトタケルとことを構える豪族はもはやおりません。
出発前に景行天皇より「深謀遠慮をもって、良くない者はこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わずおのずから従うようにさせよ。言葉を考えて荒ぶる神を静まらせ、あるいは武を振るって姦鬼を打ち払え」と指示されています。つまり武力の行使を最低限にしろということです。
(引用は宇治谷孟・全現代語訳日本書紀・講談社学術文庫。以下日本書紀現代語訳については引用元を省きます。)
また帰路、ヤマトタケルは、能褒野(のぼの)で「神恩を被り皇威に頼って、背く者は罪に従い、荒ぶる神も自ずから従いました」と述懐しています。つまりこの遠征では、大規模な戦闘はありませんでした。ヤマト朝廷の威光が行き渡った時期と地域の話であるということです。
前述のように継体天皇以前の書紀の記述は歴史的信憑性に問題があるそうです。逆に言うと継体天皇以降の書紀の記述は、歴史的に事実である可能性が高いということになります。書紀では6世紀前半以降、房総における戦争の記述はありません。つまり房総では少なくとも大規模な武力紛争はなかったと考えていいと思います。
これが、ヤマトタケルの房総通過が5世紀半ばから7世紀という推測の根拠を補強すると思います。
なお、ここで古事記を持ち出すのは多少ルール違反ではありますが、ヤマトタケルは天皇の命令を受けて出征するときに叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)に、天皇は「軍隊も下さらずに」東征しろと命じた、と嘆いております。(新版言語訳付き古事記・中村啓信・角川ソフィア文庫)
古事記のヤマトタケルは日本書紀にくらべてずいぶん女々しい。
日本書紀でも、ヤマトタケルに従ったとされるのは、吉備武彦(きびのたけひこ)、大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)の2人、プラス亦七掬脛(ななつかはぎ)、彼は料理係です。軍勢を率いたという記述はありません。大事な事柄だけ書いたのでしょうか。でも料理係が軍勢より大事とは思えないのですが。
5世紀半ばから7世紀にかけて、ヤマトからこの地を多くの旅人、ますらをたちが訪れたでありましょう。2世紀半にわたりこの地を旅したますらをたちを、日本書紀の作者はヤマトタケルと呼んだのです。ですから、このヤマトタケルは、熊襲征伐で有名な征西のヤマトタケルとは別人であると私たちは考えます。
では、戦さもしていない、いってみればただの旅人がなぜ英雄なのか、
なぜますらをたちは蝦夷に行くのに房総を通ったのか。蝦夷に行くだけなら、官道があった下総経由の方が遥かに楽でした。
私たちは、その理由をほんの少しでも想像できたらいいなと思い、旅立ちます。
ヤマトタケルを含む古代のますらをは、上総国天羽駅、現在の富津市上総湊の近くに上陸したと仮定します。
詳細は「日本書紀編その一、房総海の路序章」をごらんください。
https://4travel.jp/travelogue/11418839
更新記録
2018ー11ー18 表紙写真変更
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
今回は書紀漢文原文7文字「從海路𢌞於葦浦」、「海路から葦浦(あしうら)に回った」という記述をたよりに、ヤマトタケルの足跡を辿ろうと思います。
日本語では「葦浦(あしうら)」の「あし」のように縁起の悪い音を含む地名は、逆の好字に置き換えられることが多くあります。「あしうら」が「よしうら(吉浦)」になったそうです。
現在の鴨川市吉浦だというのが、古代史の定説です。
これが今回の私たちのルートです。
海路というので、まず内房を陸沿いに航海し、房総半島の南端洲崎を回って、外房を吉浦まで行った、ということです。
どこをどう行ったという詳細を、日本書紀は語りません。
そこで私たちは、このルートの海沿いにある、ヤマトタケルを祀る神社と、古い歴史のある神社を地図上にプロットしました。見事に江美吉浦まで、海沿いに続いております。
洲崎神社、洲宮神社、安房神社など赤い印の神社はヤマトタケルを祀りませんが、このルートを語る上で重要なので、マークしました。
このコースは、天羽から内房、外房経由で香取神宮、鹿島神宮に至るルートです。そして当然みちのくに入ってゆきます。
古代のますらをもこの道を行き来したはずです。そうしたますらをが何らかの事情で各地に祭られ、あるいは言い伝えを残し、それが日本書紀の成立以降、ヤマトタケルの名を冠されることになったと、私たちは想像します。
日本書紀の、ヤマトタケルを語る36文字が、古代、中世の房総の知識人たちの興味を引き、想像をかき立てたのでないでしょうか。
137号を海沿いに南下します -
天羽を出て最初のヤマトタケル由来の神社は、金谷(かなや)神社です。金谷フェリーターミナルのすぐ近くです。国道127号に面しています。
-
千葉県神社庁金谷神社HPによれば、養老4年(720年)創建。
ご祭神は、当初、
豊受姫神(とようけひめのかみ)
金山彦神(かなやまひこのかみ)
でしたが、同HPは以下のように語ります。
「文明元年(1469年)7月金谷の沖から重量1.5トン、直径1.5メートルに及ぶ円鉄が引き上げられたことから、古代の大鏡と信じられ、日本武尊の御遺物として境内に祀り、日本武尊を合祀した。最近研究により砂鉄を原料に「たたら」製法による日本最古の塩釜であることが判明した。」 -
日本書紀の「そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回った。」という記述を根拠にしたものです。日本書紀が房総でも知識人には読まれていたということが分かります。
なにかあれば、それをヤマトタケルに結びつけようというのですから、この地でヤマトタケルがいかに民衆の心に深く根付いていたかを想像できます。 -
道路の向こうは漁港、そして海です。明るい神社でした
-
小さいけれどきれいに整備されていました。今も地元に崇敬されていることが分かります。
金谷神社
〒299-1681 千葉県富津市金谷4020
127号をさらに南下。 -
「郷社 加知山神社」とあります。
千葉県神社庁によれば、由緒は「往古は字天王塚に鎮座し、中古今の地に鎮座」とあり、不明です。字天王塚は特定できませんでした。
ご祭神は、
建速須佐之男(たけはやすさのお(のみこと))
日本武尊(やまとたける(のみこと))
など。 -
安房勝山駅の近くです。加知山が古名でしょうか。
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空蒼く、気持ちのいい神社でした。なぜか、内房のヤマトタケルゆかりの神社は、みな明るいのです。
〒299-2117 千葉県安房郡鋸南町勝山319 -
屋根に変わった飾りがありました。魔除けでしょうか。
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境内からこういうものが見えました。大黒山展望台だそうです。この山で、昔は船の入港を見張っていたのかもしれません。
ヤマトタケルの船は「大きな鏡を船に掲げて」いたのです。船は南下しています。その鏡が太陽を反射して眩しく光ったことでしょう。
海沿いの道を取るため、302号、257号と道路が変わります。 -
御瀧神社。257号の近くです。
〒294-0031千葉県館山市大賀389 -
巨木が茂ります。数百年はこのままということです。
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水の神、水波能売命(みずはのめのみこと)を祭神としています。
千葉県神社庁のHPには祭神の記載がなく、詳細、由緒不明です。とてもよく整備されていました。 -
南房総のタウン誌「第37回南総里見まつり」の祭り情報で、今回の旅行の途中偶然見つけました。日本武尊命(やまとたけるのみこと)も祭神となっています。
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境内の区民館です。
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自治会の施設と思われますが、よく整備されていました。地域の住民と結びついていることは、昔も今も同じでしょう。
ヤマトタケルがここで地元の漁師と酒盛りをした、という記録は残念ながらありません。 -
御瀧神社を出てすぐ、見物(けんぶつ)海岸というところです。洲崎方面です。
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富津方向。
内房の海は波穏やかです。これなら古代の船でも安心して航行できたことでしょう。外房の海とは違います。 -
洲崎直前、洲崎栄の浦漁港から洲崎灯台を見上げます。右が太平洋です。
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右が内房の海です。港の中と変わりません。
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洲崎栄の浦漁港から内房方向です。
「ヤマトタケル、
あなたはいつの時代のヤマトタケルでしょうか。もう洲崎神社はできていたのではないかしら。ここで船を下りて、洲崎神社で一休みして、陸の道を通って阿由戸の浜まで行った方がいいのではないかな。海も荒れてきているし」
でもヤマトタケルの船は浦を出て行きました。
洲崎灯台の左足下からお台場海浜庭園に入りました。 -
洲崎最先端です。右が内房、左が外房です。
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内房。
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外房。
海路内房から外房へ回航するとき、最初の難関は洲崎です。ここからいよいよ外洋に乗り出します。
当時の船が外洋を一気に鴨川まで航海したとは考えられません。房総沖は現在でも日本有数の海の難所なのです。黒潮が半島近くまで流れており、野島崎沖で東に旋回し、太平洋に乗り出します。これに捕まると、後年江戸時代、明治初期でも、帆船では伊豆大島くらいまで流されてしまいました。運が悪ければそのまま太平洋中央です。ましてヤマトタケル当時の小型船では、海岸に沿って、入り江を伝いながら進むしか方法はなかったでしょう。すると今度は海岸近くの岩礁に座礁の危険があるのです。
銚子から、房総半島を迂回して、一気に東京湾に入る航路が開発されたのは、なんと1670年のことです。いわゆる千石船、貨物の積載量150トンという、当時としては大型船を使います。それもまず伊豆の下田まで直行し、風を待って江戸湾にはいるというコースでした。
私たちは、ヤマトタケルの船というと、朱塗り、2本マスト、やぐらを備えた豪華な遣唐使船のようなものだと思っていました。しかし考えてみると、あれはいわば外国航路の超豪華船で、房総のようなローカル航路を航海していたはずがありません。多分瀬戸内海で建造するのでしょうが、それを海の難所紀州沖を回って房総まで回航できたか、はなはだ疑問です。
やはり古墳から出土した船型埴輪のような準構造船だったのではないでしょうか。 -
(この写真は、作者SaigenJiro氏が著作権を放棄し、法律上課される条件以外のいかなる条件も付することなく、あらゆる目的でこの著作物を利用することを許諾されています。)
長原高廻り2号墳出土船形埴輪です。埴輪として各部が誇張されており、実際の船はかなり異なると思います。この埴輪をモデルに実際の船を建造したところ、航行することはほとんどできなかったそうです。しかし、当時の船は、丸木舟とおなじ船底の上に舷側を貼り付ける準構造船でした。大体こんな感じのものではなかったでしょうか。
ヤマトタケルの時代はこれより下ります。またもっと下って、7世紀半ば(663年)の白村江の戦いには、ヤマト朝廷は大軍を船で送っております。第一波だけで1万人を170隻の船で運んだといいますから、1隻あたり60人くらいは乗船できた計算です。船の質はともかく、かなりの大型船を建造できたと思われます。走水を渡った船はこうした船であったかもしれません。
しかし私たちは、ヤマトタケルが房総沖を航海した船は、船形埴輪のような準構造船だったのではないかと思います。
ヤマトタケルが房総を経て蝦夷に入り、竹水門(たけのみなと)で蝦夷の首領に対決したとき、首領たちは「遥かに王船を見てその威勢に恐れ」戦わず降伏します。
「蝦夷らはすっかり畏まって、きものをつまみあげ波を分けて王船を助けて岸につけた」
この描写、埴輪のような準構造船を岸に引っ張り上げる様子が、ユーモラスに描かれていると思いませんか。何十人も乗れるような大型船だとこうはいきません。
九十九里浜には、昭和40年頃まで港がありませんでした。男も女も首まで海に入り綱を引いて、漁船を浜に引き上げていました。小関与四郎の写真集「九十九里浜」にその記録が残っています。浜に船を引き上げるというのは、実は大変な重労働なのです。「きものをつまみあげ」て船を岸に着けられるというのは、かなり小さな船です。
ヤマトタケルの船はなんとか洲崎を回りました。
静かな内房と異なり、波の荒い外房です。嵐の時には逃げ込める避難所が必要でした。その最初が現在の布良(めら)海岸ではないでしょうか。
布良は古くは阿由戸(あゆど)の浜と言われ、阿波の忌部氏一族がここに上陸し、安房開拓の礎を作ったという伝説が残っています。
布良の北が相浜ですが、そこにある相浜神社にヤマトタケルが祀られています。 -
相浜神社。
-
神社説明板より。古くからこの村でヤマトタケルが祭られていたことが分かります。「波除神社」「楫取神社」、いずれもこの地が海人にとって、どのような地であったかを語る神社の名前です。
千葉県神社庁HPには祭神の記載がありませんでした。しかし前述の御瀧神社やこの神社のように、現地に行ってみると、ヤマトタケルが祀られていることがあるのです。 -
ちいさいけれど、拝殿、本殿をもついい神社でした。
木立で海は直接見えませんが、丘の上の明るい神社です。
千葉県館山市相浜42
この神社から江美吉浦まで海沿いのヤマトタケルを祀る神社はありません。
しかし、古代のますらをが頼りにしたであろう、古い神社が続きます。日本書紀編その三で訪問します。
ヤマトタケルの海路の旅を続けます。
阿由戸(あゆど)の浜を出て、海路をとると、次の難関は野島崎です。 -
野島崎最先端です。
ヤマトタケル、
あなたもここに立ちましたか。
このような岩礁でしたでしょうか。もしかすると、難破した船の残骸が岩に打ち上げられていたかもしれない。
あなたの時代、死者の冥福を祈る作法がどのようであったか、分かりません。でもきっと、今の私たちのように、頭を垂れて「安らかに」と祈ったことでありましょう。 -
この日は穏やかな海でした。
-
しかしこの沖合は一度荒れると恐ろしい海になります。ここにつくられたのが、日本で2番目の洋式灯台であることがそれを物語ります。
-
野島崎灯台。
-
白浜、鴨川方面です。
-
洲崎方面。岩礁が露出しています。
-
こうした岩礁に囲まれているのです。
南房総は元禄大地震、関東大震災の時3から6メートル、海岸線が隆起したといいます。この地域の海岸はこうした岩礁を海面下に隠した危険な海でした。
ここを超えると、少なくとも西からの風は陸地が遮ってくれる、比較的穏やかな海です。次の避難場所は現在の千倉港あたりではなかったと思います。千倉港から内陸に直線数キロに高家(たかべ)神社、下立松原神社があります。式内社です。古くからこのあたりが開けていた証拠です。
しかも近接して二つもの式内社があるということは、かなりこの土地が人の集まる、暮らしやすい土地だったということでしょう。旅人はここにたどり着いて、ほっと安堵の息を吐いたのではないでしょうか。
「日本書紀編その三、房総海の路・式内社-安房国から長狭国葦浦まで
」に続きます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2018/11/18 07:48:03
- 日本武尊の行くところ
- シニアの旅人さん おはようございます
面白くて、つい引き込まれ、最後までじっくり読ませていただきました。
一見どうと言うこともない田舎の神社ですが、このようにルポルタージュ形式で旅をすると、貴重な神社に見えてくるから不思議です。
ヤマトタケルが立ち寄ったところ、それを祀った神社、興味は尽きません。
シニアの旅人さんの、特別企画に釘付けです。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2018/11/18 19:41:53
- RE: 日本武尊の行くところ
- ヤマトタケルシリーズを読んで頂いて有り難うございます。その3まで来ました。まだあと3回は続く予定です。
ご覧のように文章ドサリのブログで、ついてきてくれる人はいるのかなあと思っておりました。あきずに読んで頂ければうれしいです。
ルポルタージュというご指摘に目から鱗の心境です。旅行ブログということにこだわってなんとなく書きにくかったのですが、ルポルタージュと開き直ってしまえば、思う存分書けそうです。
有り難うございました。
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