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ペテルゴフにあるピョートル大帝の夏の宮殿の観光の次はいよいよ待ちに待っていたエカテリーナ宮殿の観光です。<br />ペテルゴフから宮殿のあるプーシキンまでバス1時間でした。プーシキンまで例によって原野然とした野原の中を進みますが、サンクトペテルブルクからペテルゴフに行くまでのように林や原野ばかりでは無く所々に村があり、遠くには火力発電所や町の景色もみられました。<br />プーシキンの町の入り口には道路の両側に大きなエジプト門がありました。この門によってエカテリーナ宮殿の敷地に入ることを強く印象付けられました。<br />

嬉しい誤算続きのロシア旅行 8 ロマノフ王朝の栄華 エカテリーナ宮殿

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2018/05/27 - 2018/06/01

643位(同エリア1810件中)

ポポポ

ポポポさん

この旅行記スケジュールを元に

ペテルゴフにあるピョートル大帝の夏の宮殿の観光の次はいよいよ待ちに待っていたエカテリーナ宮殿の観光です。
ペテルゴフから宮殿のあるプーシキンまでバス1時間でした。プーシキンまで例によって原野然とした野原の中を進みますが、サンクトペテルブルクからペテルゴフに行くまでのように林や原野ばかりでは無く所々に村があり、遠くには火力発電所や町の景色もみられました。
プーシキンの町の入り口には道路の両側に大きなエジプト門がありました。この門によってエカテリーナ宮殿の敷地に入ることを強く印象付けられました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社
  • 5月30日旅行4日目午後の観光はプーシキンにあるエカテリーナ宮殿の観光です。<br />エカテリーナ宮殿がある場所は帝政ロシア時代「ツァールスコエ・セロー」と呼ばれていました。「ツァールスコエ・セロー」とは「皇帝の村」と言う意味、この村がプーシキンに変更されたのはソ連時代になってからです。<br />ソ連時代に命名された「プーシキン」という名はもちろんロシアの国民的詩人プーシキンにあやかってですが、実はエカテリーナ宮殿の近くにある学習院という学校にプーシキンが在籍していたことから命名されたそうです。<br />プーシキンに到着するまでバスの車中ではピョートル大帝の以降のロマノフ王家の説明やエカテリーナ宮殿の説明をガイドのオルガさんがして下さいました。<br />高校時代に世界史を学習してからはや何十年も経っていて、ロマノフ王家といっても初代のピョートル大帝とエカテリーナ女帝(2世)、ナポレオンと戦ったアレクサンドル1世や最後の皇帝であるニコライ2世しか知りません。<br />ロシア史はあまり興味がなかったので事前の勉強もしませんでした。(ロシアは音楽家や小説家の方にしか興味がありませんでしたので・・・。)<br />ロシアに来るまではエカテリーナ宮殿はエカテリーナ2世が建てたとばかり思っていたくらいですから、ガイドさんが説明される皇帝の名前がごちゃごちゃになって頭に入らない。エカテリーナ女帝って2世だけのことじゃなくて1世もいたんだ。<br />スウェーデンの洗濯女がエカテリーナ1世?ロシアの将軍の奴隷となりピョートル大帝に献上されて大帝の隠し妻になった?ピョートル大帝は相当惚れ込んだみたいだな。そんでもって大帝に王宮を造ってもらったのか?最後はロシアの第2代皇帝になった?無茶苦茶玉の輿の大出世物語や。ピョートル大帝さんもおもろいけどエカテリーナさんもうまいことやりおったな。なんて話が延々と続きまして、無知な私もおおよその筋書きが分かるようになりました。<br />ガイドのオルガさんはロシアの名門サンクトペテルブルク大学を卒業され、その大学でロシア国史を教えていらしたそうですから歴史にはとにかく詳しい。<br />でも余り詳しい話になると初心者の私には皇帝の名前がごっちゃになって分からなくなる。<br />そんなこんなであっという間にプーシキンの入口に着きましたわいなあ。<br />ペテルゴフを発ち、林の中や原野のような荒れ地を進んでプーシキンに到着しました。町の入口にはエジプトの門と呼ばれる門があります。<br />1829年にAdam Menelawsという人によって建てられた門で、当時はこの門を通って宮殿に進んだそうです。門は反対側の車窓だったので写真は撮り損ねました。<br />この門を潜るとすぐ宮殿があるわけでは無く、写真のような木立ちの中をかなり走りました。宮殿に近づくと写真の様な建物がいくつも見えてきて、やがて宮殿の近くの道路に駐車しました。<br />宮殿の入場は時間予約されていましたが早く着いたので待ち時間に宮殿の近くの土産物店で買い物タイムになりました。<br /><br />

    5月30日旅行4日目午後の観光はプーシキンにあるエカテリーナ宮殿の観光です。
    エカテリーナ宮殿がある場所は帝政ロシア時代「ツァールスコエ・セロー」と呼ばれていました。「ツァールスコエ・セロー」とは「皇帝の村」と言う意味、この村がプーシキンに変更されたのはソ連時代になってからです。
    ソ連時代に命名された「プーシキン」という名はもちろんロシアの国民的詩人プーシキンにあやかってですが、実はエカテリーナ宮殿の近くにある学習院という学校にプーシキンが在籍していたことから命名されたそうです。
    プーシキンに到着するまでバスの車中ではピョートル大帝の以降のロマノフ王家の説明やエカテリーナ宮殿の説明をガイドのオルガさんがして下さいました。
    高校時代に世界史を学習してからはや何十年も経っていて、ロマノフ王家といっても初代のピョートル大帝とエカテリーナ女帝(2世)、ナポレオンと戦ったアレクサンドル1世や最後の皇帝であるニコライ2世しか知りません。
    ロシア史はあまり興味がなかったので事前の勉強もしませんでした。(ロシアは音楽家や小説家の方にしか興味がありませんでしたので・・・。)
    ロシアに来るまではエカテリーナ宮殿はエカテリーナ2世が建てたとばかり思っていたくらいですから、ガイドさんが説明される皇帝の名前がごちゃごちゃになって頭に入らない。エカテリーナ女帝って2世だけのことじゃなくて1世もいたんだ。
    スウェーデンの洗濯女がエカテリーナ1世?ロシアの将軍の奴隷となりピョートル大帝に献上されて大帝の隠し妻になった?ピョートル大帝は相当惚れ込んだみたいだな。そんでもって大帝に王宮を造ってもらったのか?最後はロシアの第2代皇帝になった?無茶苦茶玉の輿の大出世物語や。ピョートル大帝さんもおもろいけどエカテリーナさんもうまいことやりおったな。なんて話が延々と続きまして、無知な私もおおよその筋書きが分かるようになりました。
    ガイドのオルガさんはロシアの名門サンクトペテルブルク大学を卒業され、その大学でロシア国史を教えていらしたそうですから歴史にはとにかく詳しい。
    でも余り詳しい話になると初心者の私には皇帝の名前がごっちゃになって分からなくなる。
    そんなこんなであっという間にプーシキンの入口に着きましたわいなあ。
    ペテルゴフを発ち、林の中や原野のような荒れ地を進んでプーシキンに到着しました。町の入口にはエジプトの門と呼ばれる門があります。
    1829年にAdam Menelawsという人によって建てられた門で、当時はこの門を通って宮殿に進んだそうです。門は反対側の車窓だったので写真は撮り損ねました。
    この門を潜るとすぐ宮殿があるわけでは無く、写真のような木立ちの中をかなり走りました。宮殿に近づくと写真の様な建物がいくつも見えてきて、やがて宮殿の近くの道路に駐車しました。
    宮殿の入場は時間予約されていましたが早く着いたので待ち時間に宮殿の近くの土産物店で買い物タイムになりました。

  • 写真右の建物は以前学習院と呼ばれていた建物で現在はプーシキン博物館、左はエカテリーナ宮殿の建物です。<br />宮殿入り口はアーチの手前を左に曲がりさらに右に曲がるとありますが、我々はその先をさらに左に曲がって琥珀博物館に入りました。名前は琥珀博物館でも内部は土産物店、一応博物館ですから珍しい琥珀の細工物などが多数展示されていました。琥珀の細工物は一部購入もできますが高いので見るだけです。<br />買う気が無かったので店の写真を撮りませんでしたが、結論から言うとこの店が一番良心的で安い店でした。<br />ガイドのオルガさんが懇意にしている店の様で、値引き交渉はオルガさんがしてくれていました。<br />ロシアの大多数の店では値札が付いていません。特に美術館や宮殿などの観光地のショップでは値札が付いないのでいちいち値段の確認が面倒です。<br />英語が通じない店もあります。この店は付けられていたので価格を把握し易かったです。<br />私はイースターエッグに絞っていたので安ければ買ってもいいかな程度の考えでした。<br />イースターエッグは通常販売している小型のものでは無く中型タイプ(かなり高い商品です。)の物が主でした。それでも小型タイプはモスクワの価格より3割程度安かったです。安かったのですが希望する赤色かピンク色の物がなかったのでここでは買いませんでした。<br />ちなみに内包物が多数入った琥珀のペンダントトップは3000円均一でしたから安い。琥珀を買いたい人はこの店がいいと思いますよ。<br />写真を撮っていないので店の名前が不明ですね、申し訳ありません。先ほどのように左、左と進めば見性あります。大きな店舗なので分かると思うのですが・・。<br />

    写真右の建物は以前学習院と呼ばれていた建物で現在はプーシキン博物館、左はエカテリーナ宮殿の建物です。
    宮殿入り口はアーチの手前を左に曲がりさらに右に曲がるとありますが、我々はその先をさらに左に曲がって琥珀博物館に入りました。名前は琥珀博物館でも内部は土産物店、一応博物館ですから珍しい琥珀の細工物などが多数展示されていました。琥珀の細工物は一部購入もできますが高いので見るだけです。
    買う気が無かったので店の写真を撮りませんでしたが、結論から言うとこの店が一番良心的で安い店でした。
    ガイドのオルガさんが懇意にしている店の様で、値引き交渉はオルガさんがしてくれていました。
    ロシアの大多数の店では値札が付いていません。特に美術館や宮殿などの観光地のショップでは値札が付いないのでいちいち値段の確認が面倒です。
    英語が通じない店もあります。この店は付けられていたので価格を把握し易かったです。
    私はイースターエッグに絞っていたので安ければ買ってもいいかな程度の考えでした。
    イースターエッグは通常販売している小型のものでは無く中型タイプ(かなり高い商品です。)の物が主でした。それでも小型タイプはモスクワの価格より3割程度安かったです。安かったのですが希望する赤色かピンク色の物がなかったのでここでは買いませんでした。
    ちなみに内包物が多数入った琥珀のペンダントトップは3000円均一でしたから安い。琥珀を買いたい人はこの店がいいと思いますよ。
    写真を撮っていないので店の名前が不明ですね、申し訳ありません。先ほどのように左、左と進めば見性あります。大きな店舗なので分かると思うのですが・・。

    リツェイ (学習院) 建造物

    現在はプーシキン博物館 by ポポポさん
  • ここはツアー客の入口門、宮殿の北側、建物の右袖口から入場します。個人の入場口はこことは別の場所にありました。<br />ツアー毎に入場時間が見眼られていて、時間になればそれぞれの団体のみに門が開かれます。<br />5月から観光シーズンなのか団体の入場口では多くのツアー客が入場を待っていました。<br />我々の入場時間は15時15分、門が開かれて中に入りました。

    ここはツアー客の入口門、宮殿の北側、建物の右袖口から入場します。個人の入場口はこことは別の場所にありました。
    ツアー毎に入場時間が見眼られていて、時間になればそれぞれの団体のみに門が開かれます。
    5月から観光シーズンなのか団体の入場口では多くのツアー客が入場を待っていました。
    我々の入場時間は15時15分、門が開かれて中に入りました。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 上空からみたエカテリーナ宮殿の全景。(ホームページより借用しました。)<br />左下の建物がプーシキン博物館で、その上の入口が団体客の入口。個人客の入口は宮殿中央の庭園側にありました。

    上空からみたエカテリーナ宮殿の全景。(ホームページより借用しました。)
    左下の建物がプーシキン博物館で、その上の入口が団体客の入口。個人客の入口は宮殿中央の庭園側にありました。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • エカテリーナ宮殿です。写真正面が本館、建物は本館の左右に建物が突き出したコの字型をしていました。<br />建物の中央が入場口です。<br />

    エカテリーナ宮殿です。写真正面が本館、建物は本館の左右に建物が突き出したコの字型をしていました。
    建物の中央が入場口です。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 午後からは逆光になっていましたが、宮殿は美しかったです。<br />エカテリーナ宮殿はピョートル大帝が二番目の妻である第二代ロシア皇帝エカテリーナ1世のためにドイツ人建築家を雇って夏用の避暑の離宮として1717年に建てた宮殿で、宮殿の名前は彼女の名前に由来します。<br />その後第四代ロシア皇帝アンナがロシア人建築家に命じて増築されました。<br />そして、第六代ロシア皇帝となったエリザヴェータ女帝は母(エカテリーナ1世)の時代に建てられた宮殿に不便さを感じ、当時冬宮(現エルミタージュ美術館)の建設に携わっていた宮廷付建築家バルトロメオ・ラストレッリに壮大なロココ様式に大改築するよう命じました。彼女は100㎏以上の金をファザードの化粧漆喰と屋根の上に建てられた多くの彫像を飾るために使用しました。<br />1752年5月に工事に着手し1756年7月全長325mの現行規模の宮殿が完成しました。有名な琥珀の間もこの時期にエリザヴェータ女帝が冬宮からこの宮殿に移設しています。<br />冬宮から移設した琥珀の間はサイズが小さすぎてエカテリーナ宮殿の部屋では隙間が生じました。<br />この琥珀の間を完成させたのがエカテリーナ2世です。エカテリーナ女帝はスコットランドの建築家チャールズ・キャメロンを招聘して古風な新古典主義の内装を宮殿の一翼に施し、庭園側に新古典主義建築と言われる冷水浴室、キャメロン・ギャラリー、垂れ庭園を造らせました。また庭園内にはいくつかの浴室も建てられました。<br /><br />

    午後からは逆光になっていましたが、宮殿は美しかったです。
    エカテリーナ宮殿はピョートル大帝が二番目の妻である第二代ロシア皇帝エカテリーナ1世のためにドイツ人建築家を雇って夏用の避暑の離宮として1717年に建てた宮殿で、宮殿の名前は彼女の名前に由来します。
    その後第四代ロシア皇帝アンナがロシア人建築家に命じて増築されました。
    そして、第六代ロシア皇帝となったエリザヴェータ女帝は母(エカテリーナ1世)の時代に建てられた宮殿に不便さを感じ、当時冬宮(現エルミタージュ美術館)の建設に携わっていた宮廷付建築家バルトロメオ・ラストレッリに壮大なロココ様式に大改築するよう命じました。彼女は100㎏以上の金をファザードの化粧漆喰と屋根の上に建てられた多くの彫像を飾るために使用しました。
    1752年5月に工事に着手し1756年7月全長325mの現行規模の宮殿が完成しました。有名な琥珀の間もこの時期にエリザヴェータ女帝が冬宮からこの宮殿に移設しています。
    冬宮から移設した琥珀の間はサイズが小さすぎてエカテリーナ宮殿の部屋では隙間が生じました。
    この琥珀の間を完成させたのがエカテリーナ2世です。エカテリーナ女帝はスコットランドの建築家チャールズ・キャメロンを招聘して古風な新古典主義の内装を宮殿の一翼に施し、庭園側に新古典主義建築と言われる冷水浴室、キャメロン・ギャラリー、垂れ庭園を造らせました。また庭園内にはいくつかの浴室も建てられました。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • こちらが正門入り口。ライトアップの照明があるので宮殿の夜景も見てみたいなー。<br />でも宮殿の観光が終わればサンクトペテルブルクへとんぼ返り。<br />又の機会にと思ってもどうも難しそう。

    こちらが正門入り口。ライトアップの照明があるので宮殿の夜景も見てみたいなー。
    でも宮殿の観光が終わればサンクトペテルブルクへとんぼ返り。
    又の機会にと思ってもどうも難しそう。

  • 正面入り口上空から見た宮殿の全景。後ろの庭園を含めると規模の大きな宮殿です。<br />(写真はホームページから借用)<br />

    正面入り口上空から見た宮殿の全景。後ろの庭園を含めると規模の大きな宮殿です。
    (写真はホームページから借用)

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 中央のキンキラキンのネギ坊主は宮廷礼拝堂,金色に輝き綺麗でした。宮殿左翼の建物が修復中だったのは残念でした。<br />

    中央のキンキラキンのネギ坊主は宮廷礼拝堂,金色に輝き綺麗でした。宮殿左翼の建物が修復中だったのは残念でした。

  • 宮殿の中央ファザードを斜め横から眺めたところです。<br />この宮殿は夏の避暑の宮殿として建てられたので夏の宮殿と呼ばれています。ペテルゴフにもピョートル大帝が建てた夏の宮殿がありますが、エリザヴェート女帝がこの宮殿をロココ様式に大改修した後は、この宮殿が夏の宮殿として利用されるようになりました。<br />

    宮殿の中央ファザードを斜め横から眺めたところです。
    この宮殿は夏の避暑の宮殿として建てられたので夏の宮殿と呼ばれています。ペテルゴフにもピョートル大帝が建てた夏の宮殿がありますが、エリザヴェート女帝がこの宮殿をロココ様式に大改修した後は、この宮殿が夏の宮殿として利用されるようになりました。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • しかしエカテリーナ2世の孫であるアレクサンドル1世が皇帝に即位すると、自分の避暑の宮殿として近隣にアレクサンドル宮殿を建設しました。<br />それ以降アレクサンドル1世はエカテリーナ宮殿を利用することは無く、その後の皇帝たちもアレクサンドル宮殿を利用したためエカテリーナ宮殿は空家然となってしまい増改築されることはありませんでした。<br />歴代皇帝から見向きもされなくなったエカテリーナ宮殿ですが、第二次世界大戦になると急に注目を集めるようになります。<br />ドイツ軍のバルバロッサ作戦が発動されるとドイツ軍の北方集団はレニングラードにむけて進撃を開始。当然進撃の途中にあるエカテリーナ宮殿は災禍を免れません。<br />そのためドイツ軍が国境を越えると宮殿内の宝物、陶磁器、絵画、調度品など全ての物が運び出されてシベリアに疎開したり、地中に埋められました。<br />唯一運び出せなかった宝物が琥珀の間の琥珀パネルでした。琥珀は石や鉱物ではないため環境の変化を受けやすく取り扱いがとてもデリケートだったのです。<br />ソ連政府は琥珀の持ち出しを諦めて琥珀を隠すために琥珀の隙間に綿を詰めダミーの壁を設けて隠しましたが、ドイツ軍に見破られてしまい琥珀のパネルは分割され持ち去られました。<br />その後は・・・。琥珀の間で説明したいと思います。<br />歴代ロシア皇帝に見向きもされ亡くなった宮殿が一躍脚光を浴びるようになったのはドイツ軍が持ち去った琥珀の間のお陰とも言えましょう。<br />復元されたエカテリーナ宮殿は世界遺産に組み込まれていますがアレクサンドル宮殿は世界遺産に指定されていませんし、観光ルートにも入っていません。<br />災い成して福となすとは正にエカテリーナ宮殿の事だと思います。<br /><br /><br />

    しかしエカテリーナ2世の孫であるアレクサンドル1世が皇帝に即位すると、自分の避暑の宮殿として近隣にアレクサンドル宮殿を建設しました。
    それ以降アレクサンドル1世はエカテリーナ宮殿を利用することは無く、その後の皇帝たちもアレクサンドル宮殿を利用したためエカテリーナ宮殿は空家然となってしまい増改築されることはありませんでした。
    歴代皇帝から見向きもされなくなったエカテリーナ宮殿ですが、第二次世界大戦になると急に注目を集めるようになります。
    ドイツ軍のバルバロッサ作戦が発動されるとドイツ軍の北方集団はレニングラードにむけて進撃を開始。当然進撃の途中にあるエカテリーナ宮殿は災禍を免れません。
    そのためドイツ軍が国境を越えると宮殿内の宝物、陶磁器、絵画、調度品など全ての物が運び出されてシベリアに疎開したり、地中に埋められました。
    唯一運び出せなかった宝物が琥珀の間の琥珀パネルでした。琥珀は石や鉱物ではないため環境の変化を受けやすく取り扱いがとてもデリケートだったのです。
    ソ連政府は琥珀の持ち出しを諦めて琥珀を隠すために琥珀の隙間に綿を詰めダミーの壁を設けて隠しましたが、ドイツ軍に見破られてしまい琥珀のパネルは分割され持ち去られました。
    その後は・・・。琥珀の間で説明したいと思います。
    歴代ロシア皇帝に見向きもされ亡くなった宮殿が一躍脚光を浴びるようになったのはドイツ軍が持ち去った琥珀の間のお陰とも言えましょう。
    復元されたエカテリーナ宮殿は世界遺産に組み込まれていますがアレクサンドル宮殿は世界遺産に指定されていませんし、観光ルートにも入っていません。
    災い成して福となすとは正にエカテリーナ宮殿の事だと思います。


    ツァールスコエ セロ 城・宮殿

    皇帝の村 by ポポポさん
  • 宮殿のファザード。<br />白い柱と薄いブルーが大変綺麗でした。プーシキンの天気も晴れて最高。この地域は晴れの日が年間で30日程度しか無いそうですから、晴れの日に観光できたなんて何と運が良いことか。<br />今回の旅行は毎日が晴天、一度も雨が降りません。本当にラッキーでした。

    宮殿のファザード。
    白い柱と薄いブルーが大変綺麗でした。プーシキンの天気も晴れて最高。この地域は晴れの日が年間で30日程度しか無いそうですから、晴れの日に観光できたなんて何と運が良いことか。
    今回の旅行は毎日が晴天、一度も雨が降りません。本当にラッキーでした。

  • 団体客は中央入り口を通り過ぎて宮殿入り口を目指します。

    団体客は中央入り口を通り過ぎて宮殿入り口を目指します。

  • 柱を支えているのはアトラス像。地球を抱えているのですがこの地球が殊の外小さい(笑)。

    柱を支えているのはアトラス像。地球を抱えているのですがこの地球が殊の外小さい(笑)。

    ツァールスコエ セロ 城・宮殿

    皇帝の村 by ポポポさん
  • エカテリーナ宮殿の中央入口。<br />宮殿の入口はここでは無く宮殿右奥にありました。

    エカテリーナ宮殿の中央入口。
    宮殿の入口はここでは無く宮殿右奥にありました。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 宮殿中央ファザードの上に掲げられているのはロマノフ王家の紋章「双頭の鷲」。

    宮殿中央ファザードの上に掲げられているのはロマノフ王家の紋章「双頭の鷲」。

  • 入り口を入るとまず手荷物検査がありました。A4版以上の大きさのカバンは持ち込めないためここでクリークに預けます。<br />1階にはトイレがあるので宮殿観光前に利用しておくといいでしょう。<br />1階の通路を移動し検札機を通って部屋の中に入りました。すると部屋に入る手前でニコライ2世の肖像画(写真)がお出迎え。<br />中の部屋では靴カバー(写真なし)を履きます。これは寄木造りが施された宮殿の床を傷めないためです。<br />白い階段を上って宮殿の観光開始です。荷物検査からここまでガイドさんの姿を見失わないように一同歩く、歩く。どこをどう歩いたのは全然記憶にありません。<br />この旅行記を記述するためどの部屋のどのあたりから観光が始まったのか理解できませんでしたが、エカテリーナ宮殿のホームページにある宮殿内の地図(plan of the palace)でやっと分かりました。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />ニコライ2世の肖像画が出迎えてくれました。

    入り口を入るとまず手荷物検査がありました。A4版以上の大きさのカバンは持ち込めないためここでクリークに預けます。
    1階にはトイレがあるので宮殿観光前に利用しておくといいでしょう。
    1階の通路を移動し検札機を通って部屋の中に入りました。すると部屋に入る手前でニコライ2世の肖像画(写真)がお出迎え。
    中の部屋では靴カバー(写真なし)を履きます。これは寄木造りが施された宮殿の床を傷めないためです。
    白い階段を上って宮殿の観光開始です。荷物検査からここまでガイドさんの姿を見失わないように一同歩く、歩く。どこをどう歩いたのは全然記憶にありません。
    この旅行記を記述するためどの部屋のどのあたりから観光が始まったのか理解できませんでしたが、エカテリーナ宮殿のホームページにある宮殿内の地図(plan of the palace)でやっと分かりました。







    ニコライ2世の肖像画が出迎えてくれました。

  • 宮殿は2階にある部屋を観光しました。まず階段を上がると庭園側の(南側の)通路を歩いて宮殿右袖の部屋から見学が始まりました。<br />写真は宮殿南のエカテリーナ公園側にある冷水浴室と垂れ庭園、キャメロン・ギャラリー。この部分はエカテリーナ2世の時代に造られました。

    宮殿は2階にある部屋を観光しました。まず階段を上がると庭園側の(南側の)通路を歩いて宮殿右袖の部屋から見学が始まりました。
    写真は宮殿南のエカテリーナ公園側にある冷水浴室と垂れ庭園、キャメロン・ギャラリー。この部分はエカテリーナ2世の時代に造られました。

  • 最初に観光したのがリヨンホール。音楽の間だそうです。<br />この部屋はまだ内部が修復されていません。エカテリーナ宮殿は建物の外装内装ともに復元され、最後まで未修復だった琥珀の間が2003年に復元されて完全復元されたとばかり思っていましたが、実際には未修復の部屋がまだ沢山ありました。

    最初に観光したのがリヨンホール。音楽の間だそうです。
    この部屋はまだ内部が修復されていません。エカテリーナ宮殿は建物の外装内装ともに復元され、最後まで未修復だった琥珀の間が2003年に復元されて完全復元されたとばかり思っていましたが、実際には未修復の部屋がまだ沢山ありました。

  • 音楽の間に相応しく豪華な装飾が施されたグランドピアノ。弾くのも恐れ多いような、そんな印象でした。<br />琥珀の間の琥珀パネルを除いてこれらは全てドイツ軍が侵攻してくる前に持ち出され疎開していたため無事でした。<br />エカテリーナ宮殿は宮殿の躯体や内装などは復元された物ですが、中に展示されている絵画や磁器や彫像、宝飾品などは大部分が当時の物だという事です。

    音楽の間に相応しく豪華な装飾が施されたグランドピアノ。弾くのも恐れ多いような、そんな印象でした。
    琥珀の間の琥珀パネルを除いてこれらは全てドイツ軍が侵攻してくる前に持ち出され疎開していたため無事でした。
    エカテリーナ宮殿は宮殿の躯体や内装などは復元された物ですが、中に展示されている絵画や磁器や彫像、宝飾品などは大部分が当時の物だという事です。

  • シャンデリアも当時の物です。

    シャンデリアも当時の物です。

  • 内装が施されていないため金色の調度品や群青色の壺類も地味に見えてしまいます。<br />

    内装が施されていないため金色の調度品や群青色の壺類も地味に見えてしまいます。

  • アラベスクの間、ロココ様式の装飾です。内装が修復されているのでこの部屋から豪華絢爛の幕が開きました。

    アラベスクの間、ロココ様式の装飾です。内装が修復されているのでこの部屋から豪華絢爛の幕が開きました。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 絨毯も豪華ですよ。美しい、綺麗。この絨毯も疎開したのでしょうか?<br />新しく作ったように感じましたが。

    絨毯も豪華ですよ。美しい、綺麗。この絨毯も疎開したのでしょうか?
    新しく作ったように感じましたが。

  • これだけの柄を織り込むには相当な月日がかかったんでしょうね。

    これだけの柄を織り込むには相当な月日がかかったんでしょうね。

  • アラベスクの間の天井です。天井はシンプルですが美しい。

    アラベスクの間の天井です。天井はシンプルですが美しい。

  • アラベスクの部屋。水色が基調のため爽やかな印象の部屋でした。

    アラベスクの部屋。水色が基調のため爽やかな印象の部屋でした。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 次の部屋は第三の控えの間。<br />ここからはキンキラキンの世界です。美しい、綺麗、豪華、すごいなどの言葉が連発される部屋が続きました。<br />この部屋が何故第三の控えの間というのかと言うと、大広間に入るまでに控えの間が三室あるんです。そして大広間に近くなるにつれて身分が高くなるという、そのように区分けしてあるんです。

    次の部屋は第三の控えの間。
    ここからはキンキラキンの世界です。美しい、綺麗、豪華、すごいなどの言葉が連発される部屋が続きました。
    この部屋が何故第三の控えの間というのかと言うと、大広間に入るまでに控えの間が三室あるんです。そして大広間に近くなるにつれて身分が高くなるという、そのように区分けしてあるんです。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 第三の間の様子。天気が良くて陽気がいいためか、とにかく観光客が多い。それも大部分が中国人観光客。中国人に世界中が席巻されているような感じに陥ります。<br />

    第三の間の様子。天気が良くて陽気がいいためか、とにかく観光客が多い。それも大部分が中国人観光客。中国人に世界中が席巻されているような感じに陥ります。

  • 第三の間の天井画。ガイドさんから絵の説明があったと思うのですが覚えていません。<br />海外旅行は若いうちにすべきですね。年を取ってからだと記憶力が衰えてしまって、ガイドさんから説明を受けても記憶に残らない。これでは折角の海外旅行が勿体ない。<br /><br />

    第三の間の天井画。ガイドさんから絵の説明があったと思うのですが覚えていません。
    海外旅行は若いうちにすべきですね。年を取ってからだと記憶力が衰えてしまって、ガイドさんから説明を受けても記憶に残らない。これでは折角の海外旅行が勿体ない。

  • 第三の控えの間。

    第三の控えの間。

  • 第三の控えの間。「皆さん次の部屋に行きますよ」と言うガイドさんの声で皆さん移動します。海外の団体さんもご一緒かな?

    第三の控えの間。「皆さん次の部屋に行きますよ」と言うガイドさんの声で皆さん移動します。海外の団体さんもご一緒かな?

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 次の部屋は第二の控えの間。身分が少し高い人です。どの程度の爵位の方々かは説明が無かったので私の想像で・・・。貴族の伯爵か子爵かな。<br />晩餐会用のセッティングがされていました。<br />この間は常に宮廷晩餐会が催される間ではないそうですが、宮廷晩餐会を催した様子を見てもらうために再現しているそうです。<br />

    次の部屋は第二の控えの間。身分が少し高い人です。どの程度の爵位の方々かは説明が無かったので私の想像で・・・。貴族の伯爵か子爵かな。
    晩餐会用のセッティングがされていました。
    この間は常に宮廷晩餐会が催される間ではないそうですが、宮廷晩餐会を催した様子を見てもらうために再現しているそうです。

  • 食卓に並べてある磁器はマイセンです。

    食卓に並べてある磁器はマイセンです。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 豪華な雰囲気が伝わってきます。

    豪華な雰囲気が伝わってきます。

  • 部屋の壁には巨大なデルフト焼のペチカが2基あります。<br />この宮殿は元々夏の避暑のために建てられた宮殿です。その宮殿にペチカがあるってことは、夏でも寒い時があるってことですよね。それともたまには冬の時期に使われることもあるのでしょうか。<br /><br />

    部屋の壁には巨大なデルフト焼のペチカが2基あります。
    この宮殿は元々夏の避暑のために建てられた宮殿です。その宮殿にペチカがあるってことは、夏でも寒い時があるってことですよね。それともたまには冬の時期に使われることもあるのでしょうか。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 大きなペチカ、これなら温かそう。

    大きなペチカ、これなら温かそう。

  • 通用口の金の装飾も豪華です。手抜き無しって感じ。

    通用口の金の装飾も豪華です。手抜き無しって感じ。

  • 第二の控の間から人がいなくなったので振り返って写真を一枚。この宮殿の中は観光客だらけなのでこんな瞬間はめったに無いのです。

    第二の控の間から人がいなくなったので振り返って写真を一枚。この宮殿の中は観光客だらけなのでこんな瞬間はめったに無いのです。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 窓際の通用口を通って次の部屋に行けますが、皆さん真剣にガイドさんの話絵を聞いている。私は写真を撮っているので注意散漫。<br />話の中身は全く覚えていません。ってか聞いてもすぐ忘れて記憶に残らない(泣)。

    窓際の通用口を通って次の部屋に行けますが、皆さん真剣にガイドさんの話絵を聞いている。私は写真を撮っているので注意散漫。
    話の中身は全く覚えていません。ってか聞いてもすぐ忘れて記憶に残らない(泣)。

  • 寄木作り模様の床も見事。

    寄木作り模様の床も見事。

  • 控えの間の天井画。ギリシア・ローマの神々です。

    控えの間の天井画。ギリシア・ローマの神々です。

  • 一部をアップにしましたがピンボケになってしまいました。

    一部をアップにしましたがピンボケになってしまいました。

  • はい、つぎ第一の控の間です。この隣が大広間、ってことはこの部屋に入れるのは皇族か貴族の中の公爵、侯爵でしょう。<br />内装はさらに豪華なのかなと思いましたが、豪華さは変わりません。

    はい、つぎ第一の控の間です。この隣が大広間、ってことはこの部屋に入れるのは皇族か貴族の中の公爵、侯爵でしょう。
    内装はさらに豪華なのかなと思いましたが、豪華さは変わりません。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 第一の控えの間。いずれ劣らず豪華絢爛です。

    第一の控えの間。いずれ劣らず豪華絢爛です。

  • 第一の控えの間。

    第一の控えの間。

  • 第一の控えの間の天井画。第二の控えの間と同じモチーフ。オリンポスの神々のようです。

    第一の控えの間の天井画。第二の控えの間と同じモチーフ。オリンポスの神々のようです。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 人が入らない写真を撮るのは難しい。この2人は我々のツアーのメンバーさん。<br />ガイドさんの話を聞かずに写真を撮りまくっているため、どうしても被写体に入ってしまう。

    人が入らない写真を撮るのは難しい。この2人は我々のツアーのメンバーさん。
    ガイドさんの話を聞かずに写真を撮りまくっているため、どうしても被写体に入ってしまう。

  • 次の部屋は・・・ジャジャーン、ついにやって来ましたエカテリーナ宮殿の大広間。<br />パリのベルサイユ宮殿を参考にして造られた広間で、所々に鏡がはめ込まれて奥行きを長く見せるように工夫されています。<br />奥行というよりも鏡に金色の光を反射させ、煌びやかに見せる工夫と言った方が正しのではないかと思います。<br />日本人漂流者大黒屋光太夫が帰国の許可を願うためにはるばるやって来て、エカテリーナ女帝(2世)に謁見した場所です。また井上靖原作の「おろしや国酔夢譚」の映画のロケ現場でもあります。<br />但しオリジナルの宮殿で無いのが残念至極。オリジナルだったらもっと興奮したかもしれません。<br />大黒屋光太夫は井上靖の著書「おろしや国酔夢譚」を読まれて知った方が多いと思いますが、この小説では帰国後の生活が不明瞭で推測の域を出ません。<br />正確な描写がなされているのは吉村昭の「大黒屋光太夫」です。これはある意味仕方が無い事で井上靖が執筆した時は資料が少なすぎたのです。<br />私は吉村昭の「大黒屋光太夫」を読みましたが実にリアルで帰国後の生活が生き生きと伝わりました。<br />吉村昭の小説「大黒屋光太夫」のあとがきには、執筆中の僥倖として井上靖が資料とした蘭学者桂川甫周の著書「北槎聞略」などの資料の他に新たな資料が見つかった事。その中には光太夫と伴に帰国した水夫磯吉の口述書も含まれており二人の帰国後の生活が具体的に判明したことが書かれていました。<br />大黒屋光太夫の小説を執筆していることを知っている郷土史家から新たな発見があったと吉村氏に連絡があり、資料が持ち込まれたそうです。これこそ光太夫と磯吉の帰国後の生活が具体的に分かる新発見だったそうです。<br />話はそれましたが、光太夫が帰国を実現するための重要な役目を果たしたのがロシア人キリル・ラスクマンです。<br />ラスクマンというとどこかで聞いた名前だなと思われる方も多いと思いますが、高校の日本史に必ず出てくるロシア人です。この人こそ光太夫達を日本に送り届けてくれた人で、さらには日本に交易を求めてロシア皇帝の国書を携えてきた人物です。<br />アダム・ラスクマンと言い、キリル・ラスクマンの二男です。エカテリーナ号に光太夫たちを乗せて日本の小樽に来航しました。<br />それでは簡単に光太夫とキリル(吉村昭の小説ではキリロ・ラスクマン)について紹介します。<br />大黒屋光太夫は伊勢の国南若松村(現在の鈴鹿市)に生まれた船頭です。<br />1783年1月紀州藩の御用米や和紙他の積み荷を乗せた神昌丸の船頭として伊勢の白子浜の港を出港し駿河沖で暴風雨に遭い難破。漂流してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。出港時総勢17名いたに乗組員たちは飢えと過酷な環境下で次々と亡くなり10名に減少。この島にはロシアの毛皮商人たちが来ていました。帰国する彼らをロシア船が迎えに来たのですが船は難破して沈没してしまいました。<br />そこで迎えの船を待つよりも自分たちで船を作って脱出することを計画し、ロシア人を乗せてカムチャッカに上陸。その後は海を渡ってオホーツク、ヤクーツクと移動したもののその間に4名が死亡、残るは6名でした。凍てつく冬のシベリア、ヤクーツクの自然は過酷です。それでも雪の中をソリはひた走りやっとの思いでイルクーツクに到着したのです。この辺りの冬のシベリアの過酷な描写は実にリアルで身につまされます。<br />さて、ここイルクーツクは光太夫にとって運命の地、ここで運命の人キリル・ラスクマンに出会いました。。<br />キリル・ラスクマンは陸軍中佐で大学教授、高名な鉱物学者であり植物学者、幅広い人脈を持つ人物で内務・商務大臣や陸軍中将、宮廷内でエカテリーナ女帝に近しい人物や女帝にも知遇を得ていた人物です。清廉潔白な誠実な人柄で帰国を願う光太夫たちに同情するとともに帰国が叶うよう惜しみなく尽力してれくれました。<br />また学者であるキリルは光太夫から日本の気候や風土、植物などの情報を入手しました。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    次の部屋は・・・ジャジャーン、ついにやって来ましたエカテリーナ宮殿の大広間。
    パリのベルサイユ宮殿を参考にして造られた広間で、所々に鏡がはめ込まれて奥行きを長く見せるように工夫されています。
    奥行というよりも鏡に金色の光を反射させ、煌びやかに見せる工夫と言った方が正しのではないかと思います。
    日本人漂流者大黒屋光太夫が帰国の許可を願うためにはるばるやって来て、エカテリーナ女帝(2世)に謁見した場所です。また井上靖原作の「おろしや国酔夢譚」の映画のロケ現場でもあります。
    但しオリジナルの宮殿で無いのが残念至極。オリジナルだったらもっと興奮したかもしれません。
    大黒屋光太夫は井上靖の著書「おろしや国酔夢譚」を読まれて知った方が多いと思いますが、この小説では帰国後の生活が不明瞭で推測の域を出ません。
    正確な描写がなされているのは吉村昭の「大黒屋光太夫」です。これはある意味仕方が無い事で井上靖が執筆した時は資料が少なすぎたのです。
    私は吉村昭の「大黒屋光太夫」を読みましたが実にリアルで帰国後の生活が生き生きと伝わりました。
    吉村昭の小説「大黒屋光太夫」のあとがきには、執筆中の僥倖として井上靖が資料とした蘭学者桂川甫周の著書「北槎聞略」などの資料の他に新たな資料が見つかった事。その中には光太夫と伴に帰国した水夫磯吉の口述書も含まれており二人の帰国後の生活が具体的に判明したことが書かれていました。
    大黒屋光太夫の小説を執筆していることを知っている郷土史家から新たな発見があったと吉村氏に連絡があり、資料が持ち込まれたそうです。これこそ光太夫と磯吉の帰国後の生活が具体的に分かる新発見だったそうです。
    話はそれましたが、光太夫が帰国を実現するための重要な役目を果たしたのがロシア人キリル・ラスクマンです。
    ラスクマンというとどこかで聞いた名前だなと思われる方も多いと思いますが、高校の日本史に必ず出てくるロシア人です。この人こそ光太夫達を日本に送り届けてくれた人で、さらには日本に交易を求めてロシア皇帝の国書を携えてきた人物です。
    アダム・ラスクマンと言い、キリル・ラスクマンの二男です。エカテリーナ号に光太夫たちを乗せて日本の小樽に来航しました。
    それでは簡単に光太夫とキリル(吉村昭の小説ではキリロ・ラスクマン)について紹介します。
    大黒屋光太夫は伊勢の国南若松村(現在の鈴鹿市)に生まれた船頭です。
    1783年1月紀州藩の御用米や和紙他の積み荷を乗せた神昌丸の船頭として伊勢の白子浜の港を出港し駿河沖で暴風雨に遭い難破。漂流してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。出港時総勢17名いたに乗組員たちは飢えと過酷な環境下で次々と亡くなり10名に減少。この島にはロシアの毛皮商人たちが来ていました。帰国する彼らをロシア船が迎えに来たのですが船は難破して沈没してしまいました。
    そこで迎えの船を待つよりも自分たちで船を作って脱出することを計画し、ロシア人を乗せてカムチャッカに上陸。その後は海を渡ってオホーツク、ヤクーツクと移動したもののその間に4名が死亡、残るは6名でした。凍てつく冬のシベリア、ヤクーツクの自然は過酷です。それでも雪の中をソリはひた走りやっとの思いでイルクーツクに到着したのです。この辺りの冬のシベリアの過酷な描写は実にリアルで身につまされます。
    さて、ここイルクーツクは光太夫にとって運命の地、ここで運命の人キリル・ラスクマンに出会いました。。
    キリル・ラスクマンは陸軍中佐で大学教授、高名な鉱物学者であり植物学者、幅広い人脈を持つ人物で内務・商務大臣や陸軍中将、宮廷内でエカテリーナ女帝に近しい人物や女帝にも知遇を得ていた人物です。清廉潔白な誠実な人柄で帰国を願う光太夫たちに同情するとともに帰国が叶うよう惜しみなく尽力してれくれました。
    また学者であるキリルは光太夫から日本の気候や風土、植物などの情報を入手しました。






    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 光太夫はイルクーツクでキリルの人脈に触れることで多くの友人ができました。光太夫に同情したキリルは帰国の嘆願書をロシア語に翻訳してイルクーツク総督府を通じて政府に提出しますが、日本語学校の教師にし帰化させようと目論む政府により却下されます。<br />それでも帰国を強く願う光太夫は諦めません。再び嘆願書がキリルによって総督府に提出されましたが、政府の回答は「ノー」でした。<br />では直接エカテリーナ女帝にあてて嘆願書を渡そうと女帝に近しい人物あてにして嘆願書を出したのですが、これは2か月も3か月たっても返事がありません。<br />この手紙はイルクーツク総督が握りつぶしていたのですから届くはずがありません。<br />ついに業を煮やしたキリルが最後の手段に訴えます。直接女帝に直訴しようというのです。光太夫は驚きます。日本では訴えの中身がどうであろうと直訴は御法度、直訴しただけで打ち首です。<br />光太夫はキリルに訴えます。「私のことで貴方が死罪になるのは困る。直訴は取りやめよう。」と。笑ってキリルは答えます。「貴方のお国ではそうかもしれないがロシアでは直訴はいつもあること、何も心配することはない。」と。<br />キリルは自分のソリに光太夫を乗せて帝都ペテルブルグに向かいました。光太夫たちがペテルブルグに到着するとエカテリーナ女帝はツァールスコエ・セローへ出かけていました。<br />二人は再びツァールスコエ・セローに向かいました。そしてキリルは知己の商人宅に逗留し、女帝に拝謁するための根回しを行いました。。<br />そしてついに1791年5月28日この大広間でエカテリーナ2世に謁見が叶ったのでした。<br />謁見の様子は北槎聞略には次のように記述されています。<br /><br />

    光太夫はイルクーツクでキリルの人脈に触れることで多くの友人ができました。光太夫に同情したキリルは帰国の嘆願書をロシア語に翻訳してイルクーツク総督府を通じて政府に提出しますが、日本語学校の教師にし帰化させようと目論む政府により却下されます。
    それでも帰国を強く願う光太夫は諦めません。再び嘆願書がキリルによって総督府に提出されましたが、政府の回答は「ノー」でした。
    では直接エカテリーナ女帝にあてて嘆願書を渡そうと女帝に近しい人物あてにして嘆願書を出したのですが、これは2か月も3か月たっても返事がありません。
    この手紙はイルクーツク総督が握りつぶしていたのですから届くはずがありません。
    ついに業を煮やしたキリルが最後の手段に訴えます。直接女帝に直訴しようというのです。光太夫は驚きます。日本では訴えの中身がどうであろうと直訴は御法度、直訴しただけで打ち首です。
    光太夫はキリルに訴えます。「私のことで貴方が死罪になるのは困る。直訴は取りやめよう。」と。笑ってキリルは答えます。「貴方のお国ではそうかもしれないがロシアでは直訴はいつもあること、何も心配することはない。」と。
    キリルは自分のソリに光太夫を乗せて帝都ペテルブルグに向かいました。光太夫たちがペテルブルグに到着するとエカテリーナ女帝はツァールスコエ・セローへ出かけていました。
    二人は再びツァールスコエ・セローに向かいました。そしてキリルは知己の商人宅に逗留し、女帝に拝謁するための根回しを行いました。。
    そしてついに1791年5月28日この大広間でエカテリーナ2世に謁見が叶ったのでした。
    謁見の様子は北槎聞略には次のように記述されています。

  • 5月28日、陸軍元帥ウォロンツォフから漂流人を連れて参るようキリルに命令が伝えられた。光太夫は天にも昇る心地でキリルに伴われ、白灰色のフランス仕立ての羅紗服で出かけた。<br />宮中の広間は35m四方ほどで、赤と緑の大理石で飾られ、皇帝の左右には侍女が50人程控えていた。さらに、執政以下の官人400人程が2列に分かれて威儀堂々と並んでおり、気後れして進みかねていると「御前まで進み出よ」と促された。<br />光太夫は毛織の笠を左わきにはさみ、おじぎしようとしたが「すぐに進み出よ」と命じられたため笠と杖を置いて皇帝の前ににじり寄り、かねてから教えられたとおり左足を折り、右足の膝を立て、手を重ねて差し出せば、女帝は右手を伸ばして指先を光太夫の手のひらの上にそっと乗せられた。<br />光太夫は3度皇帝の手に口をつけた。これが外国人としては初めての皇帝への拝謁の礼だったという。<br />光太夫が退くと、皇帝は願状を取り出させてご覧になり「ベンヤシコ(かわいそうに)」と声高に言われた。それから皇帝は、海上での艱苦や亡くなった者たちのこと等を質問され、詳しくお答え申し上げたところ「オホ、ジャルコ」と仰せになった。これは死者を悼む言葉だった。<br /><br />こうして謁見は終わりましたが光太夫は再び皇帝にこの広間で謁見しています。<br />それは同年の10月20日のこと。すでに9月29日に帰国の許可が伝えられていましたが光太夫は再び宮中に召され、皇帝手ずから嗅煙草入れを与えられました。<br />さらに11月8日には純金製のメダル(表にはエカテリーナ2世の肖像、裏にはピョートル大帝の像が彫られ、天蓋色(そらいろ)の紐で首にかけるもの。特別勲功のあった平民に贈られるものです。)、フランスの職人を招いて作らせた特注品の時計と金か150枚が与えられました。<br />光太夫と一緒に帰国する2人の水主やロシアに残る2人の水主にもそれぞれ銀貨や贈り物がさずけられました。<br />こうして光太夫達は帰国するのですが、キリルに会うまでの艱難辛苦の末にエカテリーナ2世に謁見が叶うこの下りは実に感動的でドラマチックです。<br />大黒屋光太夫の物語を知ってこの広間を観光するのとそうでないのでは感動の度合いに大きな差が生じるのではないでしょうか。<br />なお、ガイドさんの話では、光太夫は女帝の贈り物の返礼に脇差や紋付羽織袴、裃などを献上していますが、これらの品々はサンクトペテルブルクの博物館に今も展示されているそうです。<br />さて、写真は大広間の全景。とても広いです。天井画は3場面に分かれて描かれているロシアの勝利。<br />光が反射して見にくいのですがスケールの大きな絵でした。<br /><br /><br />

    5月28日、陸軍元帥ウォロンツォフから漂流人を連れて参るようキリルに命令が伝えられた。光太夫は天にも昇る心地でキリルに伴われ、白灰色のフランス仕立ての羅紗服で出かけた。
    宮中の広間は35m四方ほどで、赤と緑の大理石で飾られ、皇帝の左右には侍女が50人程控えていた。さらに、執政以下の官人400人程が2列に分かれて威儀堂々と並んでおり、気後れして進みかねていると「御前まで進み出よ」と促された。
    光太夫は毛織の笠を左わきにはさみ、おじぎしようとしたが「すぐに進み出よ」と命じられたため笠と杖を置いて皇帝の前ににじり寄り、かねてから教えられたとおり左足を折り、右足の膝を立て、手を重ねて差し出せば、女帝は右手を伸ばして指先を光太夫の手のひらの上にそっと乗せられた。
    光太夫は3度皇帝の手に口をつけた。これが外国人としては初めての皇帝への拝謁の礼だったという。
    光太夫が退くと、皇帝は願状を取り出させてご覧になり「ベンヤシコ(かわいそうに)」と声高に言われた。それから皇帝は、海上での艱苦や亡くなった者たちのこと等を質問され、詳しくお答え申し上げたところ「オホ、ジャルコ」と仰せになった。これは死者を悼む言葉だった。

    こうして謁見は終わりましたが光太夫は再び皇帝にこの広間で謁見しています。
    それは同年の10月20日のこと。すでに9月29日に帰国の許可が伝えられていましたが光太夫は再び宮中に召され、皇帝手ずから嗅煙草入れを与えられました。
    さらに11月8日には純金製のメダル(表にはエカテリーナ2世の肖像、裏にはピョートル大帝の像が彫られ、天蓋色(そらいろ)の紐で首にかけるもの。特別勲功のあった平民に贈られるものです。)、フランスの職人を招いて作らせた特注品の時計と金か150枚が与えられました。
    光太夫と一緒に帰国する2人の水主やロシアに残る2人の水主にもそれぞれ銀貨や贈り物がさずけられました。
    こうして光太夫達は帰国するのですが、キリルに会うまでの艱難辛苦の末にエカテリーナ2世に謁見が叶うこの下りは実に感動的でドラマチックです。
    大黒屋光太夫の物語を知ってこの広間を観光するのとそうでないのでは感動の度合いに大きな差が生じるのではないでしょうか。
    なお、ガイドさんの話では、光太夫は女帝の贈り物の返礼に脇差や紋付羽織袴、裃などを献上していますが、これらの品々はサンクトペテルブルクの博物館に今も展示されているそうです。
    さて、写真は大広間の全景。とても広いです。天井画は3場面に分かれて描かれているロシアの勝利。
    光が反射して見にくいのですがスケールの大きな絵でした。


    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 天井画ロシアの勝利の一部分。この天井画はだまし絵になっており、そのだまし絵というのは絵に描かれた柱の部分。<br />柱を描くことで天井をさらに高く見せようとしています。さらに近くに寄れば寄るほど柱が長く見えてくるから不思議。目の錯覚なのですがどうしてそう見えるのか分からない。<br />

    天井画ロシアの勝利の一部分。この天井画はだまし絵になっており、そのだまし絵というのは絵に描かれた柱の部分。
    柱を描くことで天井をさらに高く見せようとしています。さらに近くに寄れば寄るほど柱が長く見えてくるから不思議。目の錯覚なのですがどうしてそう見えるのか分からない。

  • 部屋に展示してあったエカテリーナ宮殿の全体模型。

    部屋に展示してあったエカテリーナ宮殿の全体模型。

  • 大広間を出ると中央階段がありました。一階からこの階段を上がって、先に大広間を見学するコースが多いようですが、我々は宮殿の南から北に歩いて見学するコースだったため、この階段は上りませんでした。<br />写真は東側回廊の様子。大広間が混雑しないように入る時間が制限されています。そのため入り口前で待っている人々。でも時間制限されても大広間は観光客だらけでした。<br />壁に飾ってある磁器は中国製と古伊万里の磁器。王室で購入された磁器なので鍋島藩用窯で焼かれた古伊万里の最高級品「色鍋島」だと思います。<br />もしそうならマニア垂涎物の逸品なのでスゲー値段が付く代物かも。<br />

    大広間を出ると中央階段がありました。一階からこの階段を上がって、先に大広間を見学するコースが多いようですが、我々は宮殿の南から北に歩いて見学するコースだったため、この階段は上りませんでした。
    写真は東側回廊の様子。大広間が混雑しないように入る時間が制限されています。そのため入り口前で待っている人々。でも時間制限されても大広間は観光客だらけでした。
    壁に飾ってある磁器は中国製と古伊万里の磁器。王室で購入された磁器なので鍋島藩用窯で焼かれた古伊万里の最高級品「色鍋島」だと思います。
    もしそうならマニア垂涎物の逸品なのでスゲー値段が付く代物かも。

  • 中央階段を正面から写した写真です。ここからは北側の各部屋の観光です。

    中央階段を正面から写した写真です。ここからは北側の各部屋の観光です。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 東側の窓際にあるのは「目覚める天使」像。これは上の写真をアップしたものです。写真を撮った側には「眠れる天使」像があったのですが有名な像とは露知らず写真には撮っていません。

    東側の窓際にあるのは「目覚める天使」像。これは上の写真をアップしたものです。写真を撮った側には「眠れる天使」像があったのですが有名な像とは露知らず写真には撮っていません。

  • 次は肖像画の間。写真はホームページから引用しました。<br />南側の各部屋はとても豪華でした。それに比べると北側の部屋は質素な印象を受けて拍子抜けしてしまったのかあまり写真を撮っていません。<br />そのためホームページに写真が掲載されている部屋はその写真を引用して説明していきます。<br />なお、「白の主食堂」という部屋は皇帝一家が食事をする部屋だそうですが、この部屋には死んだ鳥の絵がいくつも飾ってありました。余りにグロテスクで私の趣味に合わないため写真は撮っていません。他の方の旅行記には必ずと言っていいほど載せてありますので興味がある方はそちらを見られるか、ホームページで見て下さい。<br />なお他に2、3室とロマノフ王家の方々の肖像画がある部屋は未修復の部屋なので写真は撮りませんでした。部屋自体が小さいため多くの観光客が写真に入り込むので写さなかったというのも理由の一つです。<br />さて、この肖像画の部屋にはエカテリーナ1世(スウェーデンの洗濯女とロシアのガイドさんからは呼ばれていました。)と彼女の娘エリザヴェータの肖像画がありました。(写真はホームページから借用)<br />

    次は肖像画の間。写真はホームページから引用しました。
    南側の各部屋はとても豪華でした。それに比べると北側の部屋は質素な印象を受けて拍子抜けしてしまったのかあまり写真を撮っていません。
    そのためホームページに写真が掲載されている部屋はその写真を引用して説明していきます。
    なお、「白の主食堂」という部屋は皇帝一家が食事をする部屋だそうですが、この部屋には死んだ鳥の絵がいくつも飾ってありました。余りにグロテスクで私の趣味に合わないため写真は撮っていません。他の方の旅行記には必ずと言っていいほど載せてありますので興味がある方はそちらを見られるか、ホームページで見て下さい。
    なお他に2、3室とロマノフ王家の方々の肖像画がある部屋は未修復の部屋なので写真は撮りませんでした。部屋自体が小さいため多くの観光客が写真に入り込むので写さなかったというのも理由の一つです。
    さて、この肖像画の部屋にはエカテリーナ1世(スウェーデンの洗濯女とロシアのガイドさんからは呼ばれていました。)と彼女の娘エリザヴェータの肖像画がありました。(写真はホームページから借用)

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • エカテリーナ1世の肖像画です。<br />この部屋は肖像画のみで見学は短時間に終わったのですが、宮殿観光の最後に説明された歴代ロシア皇帝の部屋には写真がないため、エカテリーナ1世はこの間で簡単に説明します。<br />エカテリーナ1世はスウェーデン領リヴォニアの貧しい農家の娘として生まれ、幼くして両親を失い地元のドイツ人牧師に養育されました。名前はマルタ・スカヴロンスカヤ、洗濯場で働く洗濯女でした。<br />リヴォニアとは現在のラトビアからエストニアに跨る地域。そのため彼女の出身地をラトビアとかエストニアとか記述されている文献が多いのですが、当時はいずれも北方の大国スウェーデンの領地でしたからガイドさんが「スウェーデンの洗濯女」と表現するのも間違いではありません。<br />ただ自国の皇帝にまでなった女性をそのように軽蔑したような言い回しで表現することに驚きました。<br />ガイドのオルガさんは「この女性はロマノフ王家によそからやってきた身分卑しい洗濯女、後々この女性が大きくロシアの歴史に関わって来るので皆さんこの女性をを忘れないように。スウェーデンの洗濯女と覚えておいて下さい。」と言われました。<br />インパクトのある言葉なので、全く予備知識の無い私にもすぐ記憶できました。バスの中でも予備知識としてオルガさんから説明があったはずですが、この時は全部忘れていました。<br />さて、このエカテリーナ1世の物語は究極の玉の輿物語なんです。当時の常識として皇后が皇帝になることはありません。ましてや欧州全域の王家でも農民の娘が皇后になるなんて「アリエヘン」話なんです。<br />当時ロシアはスウェーデンと戦闘状態にあり北方戦争の真っ只中、マルタの住む場所はロシア軍に占領されました。マルタは捕虜として連れ去られ司令官の妾にされます。次に軍団司令官のシェレメーチェフ元帥の妾となり、その次はピョートル大帝の寵臣メーンシコフの召使いとして連れて行かれます。ここでも妾としての生活が続きますが、ある時ピョートル大帝の目にとまり見初められました。そこでメーンシコフはマルタをピョートル大帝に献上、マルタは大帝に大変気に入られました。正教会に改宗し名前もエカテリーナと改名して秘密結婚、後に正式に結婚して2番目の妻に、その後皇后になりました。<br />1番目の妻は大帝に嫌われてすでに修道院に送られていました。1番目の妻との間にはアレクセイという皇太子がいましたが、反逆罪で死刑判決を受け獄死しています。過酷な拷問が影響したそうです。<br />こうしてエカテリーナが皇帝になる環境が整った所でピョートル大帝が崩御しました。皇太子アレクセイには男子の子(後のピョートル2世)がいましたが、エカテリーナと近しいメーンシコフや軍人の一部が後継者にはエカテリーナを支持。<br />エカテリーナ側についた近衛連隊が元老院を抑えている間にエカテリーナ1世として即位、ここにロシアで初めての女帝が誕生しました。<br />しかし所詮はメーンシコフらが実権を握る傀儡政権に過ぎず、自身は酒と愛人に溺れる日々を過ごして2年後に崩御しました。<br />ロマノフ王朝はそれまで100パーセントロシア人の血が引き継がれてきました。<br />エカテリーナ1世がピョートル大帝の妻になることによって初めて外国人の血が混じりました。その事もロシア人には衝撃だったようです。<br />エカテリーナ1世は肖像画を見て頂くと分かるように決して美人ではありません。スマートでも無く、むしろ骨太で太っていて色も黒かったそうです。しかし健康でたくましく野営地の生活も苦にしない姿にピョートル大帝は惹かれたそうです。また再三激昂するピョートル大帝をなだめることができたのもエカテリーナ1世だったので大帝の臣下から認められていたようです。<br />中年以降は深酒が影響してか美貌も衰え大帝に疎まれることも多くなったそうです。その頃から大帝の寝所には若い娘が夜毎はべるようになりましたが念願の男子は生まれませんでした。<br />エカテリーナ1世が皇位を継ぐようにすべてが動いていたとしか思えませんが、こうして玉の輿に乗ったロシア初の女帝が誕生しました。<br />(写真はホームページより借用)<br /><br />

    エカテリーナ1世の肖像画です。
    この部屋は肖像画のみで見学は短時間に終わったのですが、宮殿観光の最後に説明された歴代ロシア皇帝の部屋には写真がないため、エカテリーナ1世はこの間で簡単に説明します。
    エカテリーナ1世はスウェーデン領リヴォニアの貧しい農家の娘として生まれ、幼くして両親を失い地元のドイツ人牧師に養育されました。名前はマルタ・スカヴロンスカヤ、洗濯場で働く洗濯女でした。
    リヴォニアとは現在のラトビアからエストニアに跨る地域。そのため彼女の出身地をラトビアとかエストニアとか記述されている文献が多いのですが、当時はいずれも北方の大国スウェーデンの領地でしたからガイドさんが「スウェーデンの洗濯女」と表現するのも間違いではありません。
    ただ自国の皇帝にまでなった女性をそのように軽蔑したような言い回しで表現することに驚きました。
    ガイドのオルガさんは「この女性はロマノフ王家によそからやってきた身分卑しい洗濯女、後々この女性が大きくロシアの歴史に関わって来るので皆さんこの女性をを忘れないように。スウェーデンの洗濯女と覚えておいて下さい。」と言われました。
    インパクトのある言葉なので、全く予備知識の無い私にもすぐ記憶できました。バスの中でも予備知識としてオルガさんから説明があったはずですが、この時は全部忘れていました。
    さて、このエカテリーナ1世の物語は究極の玉の輿物語なんです。当時の常識として皇后が皇帝になることはありません。ましてや欧州全域の王家でも農民の娘が皇后になるなんて「アリエヘン」話なんです。
    当時ロシアはスウェーデンと戦闘状態にあり北方戦争の真っ只中、マルタの住む場所はロシア軍に占領されました。マルタは捕虜として連れ去られ司令官の妾にされます。次に軍団司令官のシェレメーチェフ元帥の妾となり、その次はピョートル大帝の寵臣メーンシコフの召使いとして連れて行かれます。ここでも妾としての生活が続きますが、ある時ピョートル大帝の目にとまり見初められました。そこでメーンシコフはマルタをピョートル大帝に献上、マルタは大帝に大変気に入られました。正教会に改宗し名前もエカテリーナと改名して秘密結婚、後に正式に結婚して2番目の妻に、その後皇后になりました。
    1番目の妻は大帝に嫌われてすでに修道院に送られていました。1番目の妻との間にはアレクセイという皇太子がいましたが、反逆罪で死刑判決を受け獄死しています。過酷な拷問が影響したそうです。
    こうしてエカテリーナが皇帝になる環境が整った所でピョートル大帝が崩御しました。皇太子アレクセイには男子の子(後のピョートル2世)がいましたが、エカテリーナと近しいメーンシコフや軍人の一部が後継者にはエカテリーナを支持。
    エカテリーナ側についた近衛連隊が元老院を抑えている間にエカテリーナ1世として即位、ここにロシアで初めての女帝が誕生しました。
    しかし所詮はメーンシコフらが実権を握る傀儡政権に過ぎず、自身は酒と愛人に溺れる日々を過ごして2年後に崩御しました。
    ロマノフ王朝はそれまで100パーセントロシア人の血が引き継がれてきました。
    エカテリーナ1世がピョートル大帝の妻になることによって初めて外国人の血が混じりました。その事もロシア人には衝撃だったようです。
    エカテリーナ1世は肖像画を見て頂くと分かるように決して美人ではありません。スマートでも無く、むしろ骨太で太っていて色も黒かったそうです。しかし健康でたくましく野営地の生活も苦にしない姿にピョートル大帝は惹かれたそうです。また再三激昂するピョートル大帝をなだめることができたのもエカテリーナ1世だったので大帝の臣下から認められていたようです。
    中年以降は深酒が影響してか美貌も衰え大帝に疎まれることも多くなったそうです。その頃から大帝の寝所には若い娘が夜毎はべるようになりましたが念願の男子は生まれませんでした。
    エカテリーナ1世が皇位を継ぐようにすべてが動いていたとしか思えませんが、こうして玉の輿に乗ったロシア初の女帝が誕生しました。
    (写真はホームページより借用)

  • 第6代ロシア皇帝エリザヴェータの肖像です。<br />エカテリ―ナ1世の次女として生まれ皇帝に即位しました。国政には興味がない皇帝でしたが文化事業には熱心でモスクワ大学を創設したのもこの皇帝です。<br />エカテリーナ宮殿をロココ調の建物に建て替えたのもこの皇帝です。<br />(写真はホームページより借用)

    第6代ロシア皇帝エリザヴェータの肖像です。
    エカテリ―ナ1世の次女として生まれ皇帝に即位しました。国政には興味がない皇帝でしたが文化事業には熱心でモスクワ大学を創設したのもこの皇帝です。
    エカテリーナ宮殿をロココ調の建物に建て替えたのもこの皇帝です。
    (写真はホームページより借用)

  • 次はロマノフ王朝の間。<br />中央にある肖像画は右がピョートル大帝、左は誰か分かりません。説明はありましたが覚えていない。<br />左の衣装はエリザベータ女帝の衣装。上の肖像画で描かれている衣装と同じ衣装です。<br />右端にはエカテリーナ2世の絵がありましたが写真には写っていません。

    次はロマノフ王朝の間。
    中央にある肖像画は右がピョートル大帝、左は誰か分かりません。説明はありましたが覚えていない。
    左の衣装はエリザベータ女帝の衣装。上の肖像画で描かれている衣装と同じ衣装です。
    右端にはエカテリーナ2世の絵がありましたが写真には写っていません。

  • エリザヴェータ女帝の衣装(複製)です。

    エリザヴェータ女帝の衣装(複製)です。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 中央はピョートル大帝の肖像画。服装は狩の衣装です。<br />寄木細工の家具がありますが食器の収納ケースかな?よく分かりません。

    中央はピョートル大帝の肖像画。服装は狩の衣装です。
    寄木細工の家具がありますが食器の収納ケースかな?よく分かりません。

  • エカテリーナ2世の絵。<br />このブルーの壁紙の部屋はまだ未修復の部屋です。まだこのように未修復の部屋が全体の1/3残っているそうです。<br />

    エカテリーナ2世の絵。
    このブルーの壁紙の部屋はまだ未修復の部屋です。まだこのように未修復の部屋が全体の1/3残っているそうです。

  • アレクサンドル1世の肖像画と彼が使用した家具。<br />アレクサンドル1世って剥げてたんですね。知りませんでした。<br />ソ連の大作映画「戦争と平和」では長身のイケメン俳優さんがアレクサンドル1世を演じていましたが、アウステルリッツ三帝会戦ではナポレオンに敗れ、ボロジノの会戦でも負け、ロシアの大地を蹂躙され、心ならずもモスクワをナポレオンに渡してしまったのでストレスで禿げたのかもしれませんね。<br />

    アレクサンドル1世の肖像画と彼が使用した家具。
    アレクサンドル1世って剥げてたんですね。知りませんでした。
    ソ連の大作映画「戦争と平和」では長身のイケメン俳優さんがアレクサンドル1世を演じていましたが、アウステルリッツ三帝会戦ではナポレオンに敗れ、ボロジノの会戦でも負け、ロシアの大地を蹂躙され、心ならずもモスクワをナポレオンに渡してしまったのでストレスで禿げたのかもしれませんね。

  • ニコライ1世の部屋<br />ニコライ1世の肖像画と4人の息子たち。一番右は後に皇帝となったアレクサンドル2世。<br />この部屋には武器と軍服と磁器が展示されていました。さらにその先にはアレクサンドル3世の部屋もあったのですが写真がないので次の部屋に進みます。<br />

    ニコライ1世の部屋
    ニコライ1世の肖像画と4人の息子たち。一番右は後に皇帝となったアレクサンドル2世。
    この部屋には武器と軍服と磁器が展示されていました。さらにその先にはアレクサンドル3世の部屋もあったのですが写真がないので次の部屋に進みます。

  • 次が有名な琥珀の間。(Wikipediaから借用しました。)<br />この部屋のみ写真撮影は禁止です。隣の部屋から写した写真が結構ありますが我々は隣室からも写真は撮りませんでした。部屋の中央にある両開きの扉から入場したので、隣室から写したとしてもは琥珀の間に溢れる観光客ばかり写ったと思います。<br />この部屋は自由には入れません。入口に待機している係員の指示で中に入りました。と言うのもこの部屋は常時観光客で一杯になるため、入場者を係員が制限しているんです。なのでここは係員の指示に従いましょう。<br />この琥珀の間は2003年に完全復元されたと言われており、そのように書籍等にも記述されています。さらに全ての壁が琥珀で覆われていて豪華絢爛の部屋だとガイドブックや旅行記に書かれています。<br />確かに豪華絢爛で素晴らしい部屋です。でも全ての壁が琥珀で覆われているという記述は間違いです。現地に行かれて注意深く見られたらその通りだと納得されるはずです。<br />もしガイドさんがオルガさんでなかったら、全て「琥珀で覆われているんですよ。素晴らしいでしょうで終わっていたと思いますが、オルガさんはそうでは無く実に詳しい方でした。<br />ではまず琥珀の間の歴史から。<br />琥珀の間はプロイセン王フリードリヒ・ヴェルヘルムが好奇心旺盛なピョートル大帝を喜ばせようと贈った金と琥珀で装飾された部屋が元になっています。<br />贈られたピョートル大帝は組み立て方が分からず琥珀の部屋は放置されました。<br />時が過ぎ、冬宮の建築に取り掛かっていたエリザヴェータ女帝が謁見の間の装飾に使用することを思いつき冬宮に琥珀の間が設置されました。<br />その後琥珀の間はエリザヴェータがお気に入りのエカテリーナ宮殿に移され設置されましたがここで問題が発生、エカテリーナ宮殿の間取りが冬宮に設置されていたパネルよりも大きかったのです。<br />これを手掛けたのがエカテリーナ2世、金メッキの装飾や貴石や色大理石を琥珀に取り混ぜ、足りない部分には仮パネルを埋め込みました。仮パネルは逐次新たに作られたパネルと交換され琥珀の間が完成しました。<br />琥珀の間が殊の外お好きであったエカテリーナ女帝は、彼女の許しを得なければ誰も入れなかったという話も残されています。<br />時は流れて第二次世界大戦、バルバロッサ作戦が発動されて1941年9月エカテリーナ宮殿はドイツ北方軍集団に占領されました。ドイツ軍によって琥珀の間の装飾はパネルに分解され、運ばれて1941年10月14日にケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に到着しました。分解された琥珀パネルはケーニヒスベルク城内で組み立てられて展示公開されました。<br />1944年8月イギリス戦略爆撃機隊が大挙ケーニヒスベルグに来襲、この爆撃で市内の主だった建物はほとんど崩壊したと言われています。<br />ケーニヒスベルグ城も標的になり城は焼け落ちてしまい、その時に琥珀の間は消滅したと言われています。<br />一方ドイツ軍は琥珀の間を大切に保管し、上記の空襲に際しては司令部が解体した琥珀の間をケーニヒスベルグの地下に運び守ったという証言がドイツ美術史家のアルフレッド・ローデから出されています。<br />しかしソ連軍が1945年4月にケーニヒスベルグを占領した時琥珀の間は消えていました。<br />そのためソ連軍が占領前におこなった赤軍の砲撃で破壊されたとの説もあります。<br />いずれにしても忽然と消えた琥珀の間は今もどかに眠っていると宝探しをしているトレジャーハンターがいます。<br />彼らに光を与えたのが2000年4月にドイツから琥珀の間のモザイクの一部がロシアに返還されたことです。このモザイクは復元された琥珀の間の一部として使用されました。<br />この琥珀のモザイクは1997年以ドイツ当局がある公証人から没収したもので、琥珀の間の略奪に参加したドイツ将校の一人が公証人に一時的に預けた物だそうです。琥珀の間は何処かに今も確かに眠っている。誰がこのお宝を発見するのでしょうか。<br />次は琥珀の間で使用されている琥珀について。ロシアは琥珀の一大産地である飛び地のカリーニングラード(旧ケーニヒスブルグ)を領有しており、ここから産出される琥珀で復元をおこないました。<br />琥珀の間に使用された琥珀は乳白色と褐色、赤色で高価なのは乳白色の琥珀。赤色は天然ではほとんど産出量されないため熱を加えて加工した琥珀です。<br />琥珀の間は全て琥珀で埋められている訳では無く、パネルに空白の部分があります。その部分は貴石や色大理石で埋められていました。<br />その部分を指摘して教えてくれたのがガイドのオルガさんです。「皆さん、琥珀の間は全て琥珀で出来いるんじゃないですよ。皆さん、ここを見て下さい。ここは琥珀ではありません。色大理石でできています。ここもそうですよ。」と。<br />琥珀の間は全て琥珀で出来ているのではなく、3色の琥珀と貴石・色大理石と金で出来ているのです。<br /><br /><br />

    次が有名な琥珀の間。(Wikipediaから借用しました。)
    この部屋のみ写真撮影は禁止です。隣の部屋から写した写真が結構ありますが我々は隣室からも写真は撮りませんでした。部屋の中央にある両開きの扉から入場したので、隣室から写したとしてもは琥珀の間に溢れる観光客ばかり写ったと思います。
    この部屋は自由には入れません。入口に待機している係員の指示で中に入りました。と言うのもこの部屋は常時観光客で一杯になるため、入場者を係員が制限しているんです。なのでここは係員の指示に従いましょう。
    この琥珀の間は2003年に完全復元されたと言われており、そのように書籍等にも記述されています。さらに全ての壁が琥珀で覆われていて豪華絢爛の部屋だとガイドブックや旅行記に書かれています。
    確かに豪華絢爛で素晴らしい部屋です。でも全ての壁が琥珀で覆われているという記述は間違いです。現地に行かれて注意深く見られたらその通りだと納得されるはずです。
    もしガイドさんがオルガさんでなかったら、全て「琥珀で覆われているんですよ。素晴らしいでしょうで終わっていたと思いますが、オルガさんはそうでは無く実に詳しい方でした。
    ではまず琥珀の間の歴史から。
    琥珀の間はプロイセン王フリードリヒ・ヴェルヘルムが好奇心旺盛なピョートル大帝を喜ばせようと贈った金と琥珀で装飾された部屋が元になっています。
    贈られたピョートル大帝は組み立て方が分からず琥珀の部屋は放置されました。
    時が過ぎ、冬宮の建築に取り掛かっていたエリザヴェータ女帝が謁見の間の装飾に使用することを思いつき冬宮に琥珀の間が設置されました。
    その後琥珀の間はエリザヴェータがお気に入りのエカテリーナ宮殿に移され設置されましたがここで問題が発生、エカテリーナ宮殿の間取りが冬宮に設置されていたパネルよりも大きかったのです。
    これを手掛けたのがエカテリーナ2世、金メッキの装飾や貴石や色大理石を琥珀に取り混ぜ、足りない部分には仮パネルを埋め込みました。仮パネルは逐次新たに作られたパネルと交換され琥珀の間が完成しました。
    琥珀の間が殊の外お好きであったエカテリーナ女帝は、彼女の許しを得なければ誰も入れなかったという話も残されています。
    時は流れて第二次世界大戦、バルバロッサ作戦が発動されて1941年9月エカテリーナ宮殿はドイツ北方軍集団に占領されました。ドイツ軍によって琥珀の間の装飾はパネルに分解され、運ばれて1941年10月14日にケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に到着しました。分解された琥珀パネルはケーニヒスベルク城内で組み立てられて展示公開されました。
    1944年8月イギリス戦略爆撃機隊が大挙ケーニヒスベルグに来襲、この爆撃で市内の主だった建物はほとんど崩壊したと言われています。
    ケーニヒスベルグ城も標的になり城は焼け落ちてしまい、その時に琥珀の間は消滅したと言われています。
    一方ドイツ軍は琥珀の間を大切に保管し、上記の空襲に際しては司令部が解体した琥珀の間をケーニヒスベルグの地下に運び守ったという証言がドイツ美術史家のアルフレッド・ローデから出されています。
    しかしソ連軍が1945年4月にケーニヒスベルグを占領した時琥珀の間は消えていました。
    そのためソ連軍が占領前におこなった赤軍の砲撃で破壊されたとの説もあります。
    いずれにしても忽然と消えた琥珀の間は今もどかに眠っていると宝探しをしているトレジャーハンターがいます。
    彼らに光を与えたのが2000年4月にドイツから琥珀の間のモザイクの一部がロシアに返還されたことです。このモザイクは復元された琥珀の間の一部として使用されました。
    この琥珀のモザイクは1997年以ドイツ当局がある公証人から没収したもので、琥珀の間の略奪に参加したドイツ将校の一人が公証人に一時的に預けた物だそうです。琥珀の間は何処かに今も確かに眠っている。誰がこのお宝を発見するのでしょうか。
    次は琥珀の間で使用されている琥珀について。ロシアは琥珀の一大産地である飛び地のカリーニングラード(旧ケーニヒスブルグ)を領有しており、ここから産出される琥珀で復元をおこないました。
    琥珀の間に使用された琥珀は乳白色と褐色、赤色で高価なのは乳白色の琥珀。赤色は天然ではほとんど産出量されないため熱を加えて加工した琥珀です。
    琥珀の間は全て琥珀で埋められている訳では無く、パネルに空白の部分があります。その部分は貴石や色大理石で埋められていました。
    その部分を指摘して教えてくれたのがガイドのオルガさんです。「皆さん、琥珀の間は全て琥珀で出来いるんじゃないですよ。皆さん、ここを見て下さい。ここは琥珀ではありません。色大理石でできています。ここもそうですよ。」と。
    琥珀の間は全て琥珀で出来ているのではなく、3色の琥珀と貴石・色大理石と金で出来ているのです。


  • この写真は1931年1月に撮影した琥珀の間のカラー写真です。これがドイツ軍に略奪される前のオリジナルの写真。(写真はWikipediaから借用しました。)<br /><br /><br /><br /><br />

    この写真は1931年1月に撮影した琥珀の間のカラー写真です。これがドイツ軍に略奪される前のオリジナルの写真。(写真はWikipediaから借用しました。)




  • 琥珀の間の写真、部屋自体は小さな部屋でした。(写真はホームページから借用)<br />この部屋の入口は3か所、写真中央の開き扉と左右の扉。我々は中央の開き扉から入場しました。<br />上のオリジナルの琥珀の間の写真と比較すると復元された琥珀の間はオリジナルの部屋の写真を参考に造られたことが分かります。<br />しかし明らかにオリジナルと異なる部分があります。比較すればすぐ分かることですが、それは琥珀の色が違うことです。年数が経っているので写真は色あせしていると思いますがそれにしてもオリジナルは赤の琥珀が少ない。上の写真では赤は黒く映っていると思います。天然の赤い琥珀はとても珍しくそうそう簡単に産出されません。熱を加えて人工的に色を変化させるそうですが、琥珀の間が作られた時期ロシアではこの製法は伝わっていませんでした。<br />ドイツではすでにこの製法を習得していたそうですからプロイセン王から送られた琥珀には赤が含まれていたと考えられます。<br />エカテリーナ宮殿に琥珀の間が設置され、エカテリーナ女帝によって追加補修された部分は褐色か乳白色の琥珀のみで赤色の琥珀はなかったはず。<br />そう考えるとよりオリジナルに近付けるには大多数の琥珀を褐色の琥珀にして仕立てるべきではなかったかと思います。<br />オルガさんからはこの点に付いて何ら説明はありませんでした。復元の過程において赤色の琥珀の方が豪華だから赤に決められたのかもしれません。<br />琥珀の間の復元は琥珀のパネルそのものが紛失し、視覚的資料がほとんど残っていないため困難を極めたそうです。24年をかけた復元作業は2003年に完成しました。出来上がった琥珀の間は豪華絢爛で大変美しいものです。褐色の部屋より赤色の部屋の方が美しいかもしれません。<br />それにロシアでは「赤い」という言葉は「美しい」と言う意味。その言葉も反映させているのかもしれません。<br />ただ残念だったのは見学の時間が少なかった事。この部屋はとにかく混み合っていたので各ガイドは短時間で切り上げるように指示されているようでした。どの団体も手短に切り上げていましたから・・・。<br /><br />

    琥珀の間の写真、部屋自体は小さな部屋でした。(写真はホームページから借用)
    この部屋の入口は3か所、写真中央の開き扉と左右の扉。我々は中央の開き扉から入場しました。
    上のオリジナルの琥珀の間の写真と比較すると復元された琥珀の間はオリジナルの部屋の写真を参考に造られたことが分かります。
    しかし明らかにオリジナルと異なる部分があります。比較すればすぐ分かることですが、それは琥珀の色が違うことです。年数が経っているので写真は色あせしていると思いますがそれにしてもオリジナルは赤の琥珀が少ない。上の写真では赤は黒く映っていると思います。天然の赤い琥珀はとても珍しくそうそう簡単に産出されません。熱を加えて人工的に色を変化させるそうですが、琥珀の間が作られた時期ロシアではこの製法は伝わっていませんでした。
    ドイツではすでにこの製法を習得していたそうですからプロイセン王から送られた琥珀には赤が含まれていたと考えられます。
    エカテリーナ宮殿に琥珀の間が設置され、エカテリーナ女帝によって追加補修された部分は褐色か乳白色の琥珀のみで赤色の琥珀はなかったはず。
    そう考えるとよりオリジナルに近付けるには大多数の琥珀を褐色の琥珀にして仕立てるべきではなかったかと思います。
    オルガさんからはこの点に付いて何ら説明はありませんでした。復元の過程において赤色の琥珀の方が豪華だから赤に決められたのかもしれません。
    琥珀の間の復元は琥珀のパネルそのものが紛失し、視覚的資料がほとんど残っていないため困難を極めたそうです。24年をかけた復元作業は2003年に完成しました。出来上がった琥珀の間は豪華絢爛で大変美しいものです。褐色の部屋より赤色の部屋の方が美しいかもしれません。
    それにロシアでは「赤い」という言葉は「美しい」と言う意味。その言葉も反映させているのかもしれません。
    ただ残念だったのは見学の時間が少なかった事。この部屋はとにかく混み合っていたので各ガイドは短時間で切り上げるように指示されているようでした。どの団体も手短に切り上げていましたから・・・。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 次の間が絵画の間。南北の壁一面に絵画が飾られていました。このような部屋はイタリア、マッジョーレ湖のボッロメオ宮殿にもありましたが規模はこちらの宮殿の方が遥かに大きいです。<br />但し背景が黒い絵が多いので壁自体は暗い印象でした。

    次の間が絵画の間。南北の壁一面に絵画が飾られていました。このような部屋はイタリア、マッジョーレ湖のボッロメオ宮殿にもありましたが規模はこちらの宮殿の方が遥かに大きいです。
    但し背景が黒い絵が多いので壁自体は暗い印象でした。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 絵画の間の天井画。

    絵画の間の天井画。

  • 反対側の壁に飾られた絵画。

    反対側の壁に飾られた絵画。

  • 次の間からロマノフ朝皇帝の間。<br />ピョートル大帝からニコライ2世まで各皇帝の肖像画と愛用品。日常使用していた家具などが展示されていましてた。<br />各部屋は内部装飾が施されていません。写真はその内の一室。誰の部屋か分かりませんが、いずれもこのように殺風景な部屋でした。<br />このコーナーでオルガさんから「スウェーデンの洗濯娘」の話が始まったのです。ここにはロマノフ王家の人物が分かるように系図もありました。<br />オルガさんは系図も使用しながら各皇帝の説明をされましたが、ここまで宮殿の各部屋を見てくると男性の皇帝の名前がごっちゃになって、誰がどの後の皇帝か分からなくなりました。<br />オルガさんの説明も右耳から左耳へと心地いいように抜けて行きました。そのためここは全く記憶がありません。<br />

    次の間からロマノフ朝皇帝の間。
    ピョートル大帝からニコライ2世まで各皇帝の肖像画と愛用品。日常使用していた家具などが展示されていましてた。
    各部屋は内部装飾が施されていません。写真はその内の一室。誰の部屋か分かりませんが、いずれもこのように殺風景な部屋でした。
    このコーナーでオルガさんから「スウェーデンの洗濯娘」の話が始まったのです。ここにはロマノフ王家の人物が分かるように系図もありました。
    オルガさんは系図も使用しながら各皇帝の説明をされましたが、ここまで宮殿の各部屋を見てくると男性の皇帝の名前がごっちゃになって、誰がどの後の皇帝か分からなくなりました。
    オルガさんの説明も右耳から左耳へと心地いいように抜けて行きました。そのためここは全く記憶がありません。

  • 次はアレクサンドル1世の書斎。

    次はアレクサンドル1世の書斎。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • アレクサンドル1世の書斎。

    アレクサンドル1世の書斎。

  • 最後の観光客したのが緑の食卓の間です。写真では暗い感じですが実際はもっと明るくきれいでした。<br />この部屋はロココ様式です。<br />

    最後の観光客したのが緑の食卓の間です。写真では暗い感じですが実際はもっと明るくきれいでした。
    この部屋はロココ様式です。

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 古代ローマ風のレリーフと壁画が美しかったです。

    古代ローマ風のレリーフと壁画が美しかったです。

  • 緑の食卓の間

    緑の食卓の間

    エカテリーナ宮殿 城・宮殿

    現在も修復中の宮殿です。 by ポポポさん
  • 宮殿内の各部屋を結ぶドアを明け放つとこんな素敵な景色になっていました。<br />2階の見学を終えて階段を降り1階へ。

    宮殿内の各部屋を結ぶドアを明け放つとこんな素敵な景色になっていました。
    2階の見学を終えて階段を降り1階へ。

  • 1階の長い通路の壁には宮殿の絵画がありました。<br />この絵は戦禍を受ける前の絵。

    1階の長い通路の壁には宮殿の絵画がありました。
    この絵は戦禍を受ける前の絵。

  • こちらは第二次世界大戦の戦禍を受け炎上する宮殿。

    こちらは第二次世界大戦の戦禍を受け炎上する宮殿。

  • ドイツ軍が撤退した後の宮殿の写真。まだ燃えている部屋があります。<br />大黒屋光太夫がエカテリーナ2世と謁見した大広間も焼失してしまった。

    ドイツ軍が撤退した後の宮殿の写真。まだ燃えている部屋があります。
    大黒屋光太夫がエカテリーナ2世と謁見した大広間も焼失してしまった。

  • 戦争は何とも惨いものですね。<br />歴史的建造物の無残な姿。

    戦争は何とも惨いものですね。
    歴史的建造物の無残な姿。

  • 作成中の琥珀パネルの様子。<br />1階の通路を進んで行くと何店ものショップが並ぶところに出てきました。その先が宮殿の入口でトイレもありました。ここで40分自由行動、買い物をしたい方はこの時間にどうぞとのこと。再集合の場所は入り口近くのソファーがある場所でした。<br />ショップは何店もありますがいずれも値札がないので金額が分かりません。<br />いちいち店員に商品を指差して金額を聞かないといけないので非常に面倒でした。<br />ロシアでは英語が通じないと聞いていましたが、ここのショップではカタコト英語で通じました。<br />私はイースターエッグに決めていたので大きさ毎の値段を確認しましたが、ここにのショップは田舎の割に高い。宮殿の観光の前に行った琥珀博物館(土産物店)の方がずっと安いです。琥珀博物館の土産物店では買おうかと随分迷ったのですが、気に入った色のイースターエッグがなかったので見送りました。しかしこんなことなら買っておけば良かったかも。<br />それと色違いではありますが宿泊しているホテルのショップに同じサイズのものがありました。こちらの方が遥かに安いのでホテルで買うのもありかなと、この時点で考えを変えました。<br />さて、集合時間10分前に集合場所に行くとトラブル発生。集合時間になっても2人組の男性客が現れないのです。<br />しばらくすると男性から添乗員さんに連絡が来ました。添乗員さんの携帯に連絡が入ったそうで、その後全員が揃いました。<br />聞けばタバコが吸いたくなったので宮殿の外に出たそうです。煙草を吸い終わって宮殿の中に入ろうとしたら鍵がかかっていて中に入れなくなったそうです。<br />外から窓ガラスをたたいても反応が無いので慌てたそうです。<br />この男性、今回のツアーで唯一お騒がせな社長さんでした。(同行の男性が<br />から社長、社長とよばれていた。)同行の男性が色々と世話を焼きアドバイスをしていたのですが、今回は2人一緒に外に出てしまったので2人ともアウト。<br />行きの飛行機の中からトラブルが発生し添乗員さんがため息をついていた男性でしたが、これで懲りたのか以降は大人しくなりました(笑)。<br /><br /><br />

    作成中の琥珀パネルの様子。
    1階の通路を進んで行くと何店ものショップが並ぶところに出てきました。その先が宮殿の入口でトイレもありました。ここで40分自由行動、買い物をしたい方はこの時間にどうぞとのこと。再集合の場所は入り口近くのソファーがある場所でした。
    ショップは何店もありますがいずれも値札がないので金額が分かりません。
    いちいち店員に商品を指差して金額を聞かないといけないので非常に面倒でした。
    ロシアでは英語が通じないと聞いていましたが、ここのショップではカタコト英語で通じました。
    私はイースターエッグに決めていたので大きさ毎の値段を確認しましたが、ここにのショップは田舎の割に高い。宮殿の観光の前に行った琥珀博物館(土産物店)の方がずっと安いです。琥珀博物館の土産物店では買おうかと随分迷ったのですが、気に入った色のイースターエッグがなかったので見送りました。しかしこんなことなら買っておけば良かったかも。
    それと色違いではありますが宿泊しているホテルのショップに同じサイズのものがありました。こちらの方が遥かに安いのでホテルで買うのもありかなと、この時点で考えを変えました。
    さて、集合時間10分前に集合場所に行くとトラブル発生。集合時間になっても2人組の男性客が現れないのです。
    しばらくすると男性から添乗員さんに連絡が来ました。添乗員さんの携帯に連絡が入ったそうで、その後全員が揃いました。
    聞けばタバコが吸いたくなったので宮殿の外に出たそうです。煙草を吸い終わって宮殿の中に入ろうとしたら鍵がかかっていて中に入れなくなったそうです。
    外から窓ガラスをたたいても反応が無いので慌てたそうです。
    この男性、今回のツアーで唯一お騒がせな社長さんでした。(同行の男性が
    から社長、社長とよばれていた。)同行の男性が色々と世話を焼きアドバイスをしていたのですが、今回は2人一緒に外に出てしまったので2人ともアウト。
    行きの飛行機の中からトラブルが発生し添乗員さんがため息をついていた男性でしたが、これで懲りたのか以降は大人しくなりました(笑)。


  • 全員揃ったところで宮殿の外へ。<br />宮殿に沿って進み、突き当りを左折。冷水浴室やキャメロン・ギャラリーの側を歩いてエカテリーナ公園に出てきました。

    全員揃ったところで宮殿の外へ。
    宮殿に沿って進み、突き当りを左折。冷水浴室やキャメロン・ギャラリーの側を歩いてエカテリーナ公園に出てきました。

  • エカテリーナ宮殿とエカテリーナ公園内のフランス庭園。<br />西側入り口の方よりもこちら東側の宮殿の方が綺麗でした。多分フランス庭園がマッチしているからだと思います。

    エカテリーナ宮殿とエカテリーナ公園内のフランス庭園。
    西側入り口の方よりもこちら東側の宮殿の方が綺麗でした。多分フランス庭園がマッチしているからだと思います。

    エカテリーナ公園 広場・公園

    エカテリーナ宮殿の横に広がる広い公園 by ポポポさん
  • 宮殿とフランス庭園。<br />観光客が並んでいる場所が個人観光客の入口。こちらは大行列でした。<br />

    宮殿とフランス庭園。
    観光客が並んでいる場所が個人観光客の入口。こちらは大行列でした。

    エカテリーナ公園 広場・公園

    エカテリーナ宮殿の横に広がる広い公園 by ポポポさん
  • ガイドブックにはエカテリーナ宮殿はツアーで観光した方が入りやすいと書いてありましたがその通りです。<br />実はこの行列、こんなものではありません。フランス庭園を囲むように延々と続いていました。いったい何時間待てば入れることやら。

    ガイドブックにはエカテリーナ宮殿はツアーで観光した方が入りやすいと書いてありましたがその通りです。
    実はこの行列、こんなものではありません。フランス庭園を囲むように延々と続いていました。いったい何時間待てば入れることやら。

  • この様にフランス庭園の側には入場を待つ個人観光客の方々の列がもっと奥まで続いていました。<br />現在はまだ5月です。観光シーズンの6~8月ではどこまでこの行列はつづくのでしょうか?<br /><br />エカテリーナ宮殿の旅行記はこれで終了です。ご覧いただき有難うございました。次回はエカテリーナ庭園からサンクトペテルブルクの観光です。<br />アップまで今しばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。<br /><br />

    この様にフランス庭園の側には入場を待つ個人観光客の方々の列がもっと奥まで続いていました。
    現在はまだ5月です。観光シーズンの6~8月ではどこまでこの行列はつづくのでしょうか?

    エカテリーナ宮殿の旅行記はこれで終了です。ご覧いただき有難うございました。次回はエカテリーナ庭園からサンクトペテルブルクの観光です。
    アップまで今しばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。

    ツァールスコエ セロ 城・宮殿

    皇帝の村 by ポポポさん
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