2018/05/27 - 2018/06/01
564位(同エリア1835件中)
ポポポさん
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旅行2日目はセルギエフ・ポサードにあるトロイツェ・セルギエフ大修道院の観光です。
トロイツェ・セルギエフ大修道院は聖セルギイが起こした修道院で、ロシア正教の中心的聖地、大本山とも言われている場所です。
「セルギエフ・ポサードの至聖三者聖セルギイ大修道院の建築群」として世界遺産にも登録されています。
ロシア正教の教会を観光するのは初めてなので期待に胸が弾み、ハイテンションになっていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
5月28日、旅行2日目。モスクワの空は快晴、雲一つない青空で絶好の旅行日和です。
寒くはありません。上着が一着あれば十分です。
今回のツアーは総勢22名、モスクワとセルギエフ・ポサードの現地ガイドさんはナディアさんという名前の若くてとても美人のガイドさんでした。
若い女性なので独身かと思っていましたが、2か月前に結婚されたばかりの新婚さんでした。
さて本日の観光はモスクワから北東の方向に70㎞ほどの所にあるセルギエフ・ポサードです。
モスクワ北東には12~13世紀に栄えた古都が点在しており、それらを繋ぐと環状になることから「黄金の環」と呼ばれています。
セルギエフ・ポサードの他にウラジーミル、スーズダリ、ヤロスラヴリなどがあります。
かつて、ここはロシアが国家として形成されていくまで諸公国の間で激動の歴史が繰り広げられた場所で、ロシアの政治・文化の中心地でした。 -
車窓左手に見えているのは「至聖教会」です。
古い由緒ある教会でしたが、第二次世界大戦中にドイツの目標とならないようソ連軍によって破壊されてしまいました。共産主義は無神論のため宗教が否定され、革命後は多くの教会が閉鎖されて聖職者や修道士・修道女たちは大弾圧を受け迫害されたり虐殺されたりしました。
第二次世界大戦で独ソ戦が始まると、スターリンは戦意発揚のため宗教権威を利用しようと弾圧の手を緩めましたが、ソ連崩壊までロシア正教会は暗黒の時代が続きました。
そんな中たとえ由緒ある教会といえども、共産党政権下ではただの建物に過ぎず完膚なきまでに破壊されてしまったそうです。
現在の建物は戦後再建されたものです。 -
モスクワ郊外の道路は大渋滞でした。今日に限ったことでは無く、いつも大渋滞するそうです。さらにいえばモスクワ市内も常に渋滞しているそうです。
写真のように右車線も左車線も大渋滞でノロノロ運転です。
モスクワではドーナッツ化現象が進んでいて、家賃や建物の安い郊外に新設のアパートやマンションが次々に建てられています。
若年層や子供一人世帯の夫婦層は郊外に住居を構えて車でモスクワに通勤するため、たちまち道路が渋滞になるそうです。
さらにモスクワ郊外にはダーチャと呼ばれる夏の別荘が国から無償で支給されているため、郊外で週末を過ごす人で金曜日と日曜日の夕方は大渋滞に陥るそうです。
さて、バスは渋滞に巻き込まれて遅々として進まないため、ガイドさんが日本語版の観光土産の紹介DVDを見せて下さいました。
ロシア土産として定番のマトリューシカ、ロシアが一大産地の琥珀、皇帝の贈り物として有名なイースターエッグです。
そのなかでマトリョーシカと琥珀を簡単に紹介します。
①マトリョーシカの発祥の地はこれから訪れるセルギエフ・ポサードです。
19世紀末、箱根のロシア正教会の避暑館に訪れたセルギエフ・ポサードのロシア人修道士が箱根の七福神の入れ子人形を購入して持ち帰りました。
これをまねて作らせたのがマトリョーシカです。
「マトリョーシカ」とは少女マトローナの名に由来しています。「マトローナ」とは母と言う意味で、この母子の2人がマトリョーシカの作り方を習ったんだそうです。
この人形はパリ万博に出品され受賞し、それ以後各地で作られるようになって現在ではロシアの定番の土産物となりました。
ではなぜこのような人形がセルギエフ・ポサードで作られるようになったのでしょうか?
セルギエフ・ポサードは聖セルゲイの不朽体を祀るロシアの聖地であり多くの信者が巡礼に訪れます。その土産としては木造の十字架程度しかありませんでした。そこで修道院ではもっと記念になる木造の玩具のようなものはないかと考えあぐねていた所、日本の入れ子人形をまねて人形を作ることを思いついたそうです。
映像にはマトリョーシカの製造工程の他に、セルギエフ・ポサードにあるマトリョーシカ博物館で展示されている修道士が箱根で購入し持ち帰った入れ子人形が紹介されていました。
次は琥珀です。ロシアの飛び地であるカリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)、カリーニングラードはポーランドとリトアニアに国境を接するバルト海に面した町です。ここはロシアの琥珀の一大産地で、カリーニングラード州全体で世界の琥珀の産出量の90%を占めると言われています。
ケーニヒスベルクの名の通り第二次世界大戦以前はドイツ領の飛び地でした。戦後処理においてケーニヒスベルクおよび北部の周辺の地域(現在のカリーニングラード州)はソ連領になりました。ちなみに南部はポーランド領になりました。
ここから産出された琥珀でエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」が復元されたことは夙に有名です。
琥珀の産地としてはポーランド、ロシア、リトアニアが有名です。私はポーランドとロシアの琥珀しか見ていませんが、おなじ値段ならはるかにロシアの方が高品質で安いと思いました。
基本的にロシアの琥珀は内包物が多いです。空気が沢山入っている琥珀などはざらにありますし安価です。映像では希少琥珀の紹介や採取現場や加工工程の紹介がありました。
琥珀は魅力がありますが妻からはイースターエッグを頼まれているので、値段次第だなと考えている所で、車の移動がスムーズになりました。 -
そうこうするうちにセルギエフ・ポサードに到着。町中を抜けてトロイツェ・セルギエフ大修道院に向かますが、遠くから大聖堂の姿が見えて来ました。
しかしながら大修道院の姿が見えるのは右車窓のみ。生憎私は左車窓に座っていたため指をくわえて見つめるばかり。右ガラス窓越しに写真を写そうとしても、ガラスに室内の景色が映り込んでしまい撮れません(泣)。
モスクワからバスでセルギエフ・ポサードに行く場合は絶対に右座席を確保すべし。左に座ると泣きますよ。
写真はトロイツェ・セルギエフ大修道院ではなく周囲の教会。左車窓では民家とこの程度の景色しか見れませんでした。 -
そこで全体の景色が分かるようにWikipediakaraから借用したのがこの写真。大修道院の中心部分です。
バスから見えたのはこの裏側からみた景色だと思います。大修道院の周りを大きく右回りに回って大駐車場に到着しました。セルギエフ ポサドのトロイツェ セルギー大修道院の建造物群 寺院・教会
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トロイツェ・セルギエフ大修道院です。正面は大修道院の入口門。
セルギエフ・ポサードとは「聖セルギイの町」と言う意味です。そしてトロイツェ・セルギエフ大修道院は「セルギエフ・ポサードの至聖三者聖セルギイ大修道院の建築群」として現在世界遺産に登録されています。
至聖三者聖セルギイ大修道院(トロイツェ・セルギエフ大修道院)は聖セルギイが至聖三者(三位一体)を記念して建てた木造教会が起源です。
その後聖セルギイの指導の下いくつかの建物が増築され発展していきました。さらに歴代皇帝の庇護や支援を受けていくつもの建物が建てられ大きく発展していきます。
女帝エカテリーナ2世の時代にはロシア正教会の中心的修道院として発展を遂げましたが、ロシア革命により事態は一変します。
宗教を否定する共産主義政権により修道院の全ての資産は国有化され、それと同時に修道院は閉鎖。聖職者や修道士・修道女は酷い弾圧を受けました。
またソビエト政府下で管理された修道院の聖器物は院外に持ち出されて売却され、四散してしまいました。
この様にして多くの貴重な文化財が失われ、海外に流れた物も多かったそうです。
第二次世界大戦で独ソ戦が勃発すると、スターリンは敗戦続きの将兵の士気を鼓舞するために宗教権威を利用しようとロシア正教会に対する弾圧を緩めました。
そして1945年に大修道院跡はロシア正教会に返還され、1960~1970年にかけて復元修理が行われました。
現在はロシア正教の一大宗教センターとして多くの巡礼者が訪れており、セルギエフ・ポサードもまた大修道院の門前町として発展を続けています。
修道院内では修道士が300人、神学生が700人生活しているそうです。至聖三者聖セルギイ大修道院 寺院・教会
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大修道院の真向かいにあるこの建物は土産物店とチケット売場。我々は大駐車場の側にあるトイレでトイレ休憩した後門の横で集合。その合間にガイドさんがチケットを買いに行きました。
2018年版の「地球の歩き方」には無料と書かれていますが、実際は有料でした。但し入場料のみ320P(ルーブル)。別に写真撮影料金が100P必要と旅行記などには書かれていましたが、これは要りませんでした。
写真は巡礼に訪れた女性の信者さんらしい。女性の信者さんはスカーフやストールで頭を覆うそうですが、我々観光客はそこまでしなくてもいいそうです。但し聖セルギイの不朽体が安置されているトロイツキー聖堂では、女性はストールか帽子で頭を覆わないといけませんでした。
男性は教会内部に入る時のみ脱帽です。 -
ここはロシア正教の宗教世界を存分に味わえる場所で大変お勧めです。
天気は願っても無いほどの快晴で雲一つありません。現地ガイドのナディアさんの話では、この時期にこれほどの青空は普通ないそうです。
5月のロシアはまだ春です。一日晴れれば後は曇と雨の繰り返しで、この様に晴れることは珍しいのだそうです。
今年は異常気象の影響で5月になると毎日天候は晴れ、早くも夏がやってきたような陽気をモスクワ中の人々が楽しんでいるそうです。
トロイツェ・セルギエフ大修道院がある場所は丘の上なので、風が吹くと寒いのですが修道院の中は寒くはなく過ごしやすかったです。
ここは大修道院の入口、大修道院を取り囲んでいる白い城壁は16世紀にイワン雷帝が建設の監督をして完成。1608年から10年続いたポーランドとリトアニアの3万の連合軍に包囲され、16か月持ちこたえました。至聖三者聖セルギイ大修道院 寺院・教会
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透き通るような青空。白い門に映えて美しかった。
ガイドの「ナディア」さんがチケットを購入して戻って来ました。それもイケメンの青年と一緒に・・・。美女と美男子の2人は絵になるなあと眺めていたら写真を撮るのを忘れてしまった。
この青年は修道院の修道士で本日の観光のガイドをしてくれるそうです。ここの大修道院では院内の観光は現地のガイドが同伴しないと観光できないそうです。
その時はフムフムと納得していましたが、個人で観光する時も現地のガイドさんが必要なのかどうか聞き忘れてしまいました。
多分個人は必要ないんじゃないかなと思うのですがどうでしょうか? -
入場門の上に描かれているのは「至聖三者(三位一体)」の絵です。
この元絵はリビリョフのイコン「至聖三者」。大修道院内のトロイツキー聖堂(至聖三者大聖堂)にありましたが現在はトレチャコフ美術館にあります。 -
リビリョフのイコン「至聖三者」。(Wikipediaから借用しました。)
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入場門の前に設置されていた大修道院内の案内図。
説明書きはロシア語と英語と中国語でした。わざわざ中国語の説明書きを入れるなんて、中国人観光客はそんなに多いの?
この疑問は中に入った途端に吹き飛びました。ここは中国の町かと思うくらいに中は中国人だらけ。
確かに我々が門の前でガイドさんを待っている時にも、中国人観光客が次々と中に入って行きました。 -
門には聖母子と聖人たちのモザイクが描かれています。
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では門を潜って中に入りましょう。
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入場門を振り返ると壁に「至聖三者」のイコンと聖人達のフレスコ画が描かれていました。
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次に現れたのはヨハネ生誕教会の門(聖なる門)。門の上部がヨハネ生誕教会になっています。
門の内部には聖セルギイの生涯が描かれていました。 -
教会部分のアップ。
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聖セルギイはラトジネの聖セルギイと呼ばれ、ロシアで最も尊敬されている聖人です。
1314年、貴族の家に生まれてバルテロマイと名付けられ、敬虔な両親の下で育てられました。幼いころから神の恩寵の働きを感じていたそうです。子供の頃から神と聖人たちを愛し、心を清めて絶えず神に祈り、労働し、休息の時は聖書を読んで過ごしました。
両親が亡くなると弟に財産を譲り、兄ステファンとともに深い森に移り住み庵と教会堂を建てて至聖三者(三位一体)の神に捧げました。これが至聖三者聖セルギイ大修道院の始まりです。
その後兄は森の厳しい生活に耐えきれず山を下り、セルギイは一人になってしまいました。
しかしセルギイは清貧を旨として、黙々と木を伐り、水を汲み、粉を挽き、着る物を縫いました。重労働や寒さや飢えにも耐え、精神はますます清らかになりました。
魂は神と伴にあり、森の動物たちとも親しく暮らしました。セルゲイは動物や鳥の言葉が理解でき話すこともできたそうです。
猛獣のクマでさえも彼を慕ってやって来たそうです。聖セルギイはクマと一緒の絵が多いのですが、これはこの様な逸話に基づくものです。描かれた絵はクマとパンを分け合っています。
セルギイの清貧ながらも正しい生活の噂は次第にロシアに広まり、セルギウスを慕う人々が現れて彼と伴に生活するようになりました。そして少しずつ修道共同体の形が整っていきました。 -
最初の数十年間はセルギイの共同体は貧しく、重労働を余儀なくされました。聖セルギイが耐え抜いた窮乏は筆舌に尽くしがたく、パンも小麦も粉も底をつき油も塩も食べ物が全くない時もあったそうです。
この絵はそのような忍耐時のお話です。
ある時修道院の食べ物が尽きてしまいました。3日も4日も何も食べずに過ごすようになって4日目の朝、飢えて疲れ切ったセルギイは弟子である長老の所にいって古い乾パンを分けてくれるように頼みました。
無償で貰う事を良しとしない聖セルギイは、以前から長老が修室に玄関を付けたいと言っていたことを思い出し、取り付け作業を始めました。
作業は朝から夕方までかかりやっと完成しました。仕事が終わると古い乾パンを受け取り、祈りの後食べ物を祝福して食べ始めました。
古い乾パンなのでカビが生えていたそうです。修道士たちはセルギイの口からカビがほこりのように漏れるのを見て「この人の忍耐はいかなるものだろうか」と感嘆し合ったそうです。 -
モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイを祝福する聖セルギイ。
当時ロシアはルーシ(現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシ)と呼ばれ諸侯が覇権を争う時代でした。
1236年にモンゴル帝国のバトゥが東ヨーロッパに侵攻。いわゆるバトゥの大征西でルーシ内の大公国を次々に侵略していきました。勢力の大きなキエフ大公国やウラジーミル・スズダーリ大公国も滅亡し、北方のノブゴロド公国を除く全てのルーシーがモンゴル帝国(キプチャクハン国)の支配下におかれました。
モンゴル人によるルーシーの支配は約240年に及び、モンゴルに対するロシア人の臣従をロシア人は「タタールのくびき」と呼んでいます。
タタールとはロシア人がモンゴルを指して呼んだ言葉です。
そのような状況下ロシアの諸侯はモンゴルに臣従しつつもキプチャクハン国の権威を利用して互いに派遣を争っていました。
聖セルギイはモンゴルの支配に対抗すべくロシア諸侯間の争いの調停を行いました。
時に1380年、聖セルギイから「神の祝福」を受けたモスクワ大公国のドミトリー・ドンスコイ率いるロシア軍はクリコヴォイの戦いで初めてモンゴル軍に勝利し、「タタールのくびき」から脱却する第一歩を踏み出しました。
さて、「地球の歩き方」ではこのクリコヴォイの戦いにおけるロシア側の勝利で「タタールのくびき」から脱することに成功したと書かれていますが、この記述は誤りです。
この戦いの後、勢力を盛り返したキプチャクハン国にドンスコイは敗れ、再びモンゴルの支配下に置かれています。
ロシアが「タタールのくびき」から脱却できたのはこれから100年以上も後のイワン3世の時代になってからでした。
モスクワのガイドさんも「タタールのくびき」から脱却したのは大公ドンスコイの勝利によってと説明されていましたが、ロシアでは対外戦争や条約等の歴史について正しく教育されていないことが多いのでこれはあてになりません。
ロシアでは国益にそぐわない歴史は教えられていないからです。
さて、この絵は聖セルギイがモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに「神の祝福」を与えている場面です。聖セルギイは祝福をあたえ、勝利を予告し、兵士の士気を高めました。
しかし、ドミトリー軍はモンゴルの大軍が間近に迫ると怖気づきました。無理もありません、ロシアの諸侯も兵士も一度もモンゴル軍に勝ったことがないのです。
その時セルギイの伝令が駆け付けてきて「勇気をもって進め。神は汝らに勝利を与える。」と大声で呼ばわりました。
モンゴルの大軍を見て萎縮していた兵士には精気がやどり、数においては遥かに敵が優勢だったにも拘わらずロシア軍が勝利したそうです。
聖セルギイはこれらの事からロシアの守護聖人として崇められるようになりました。
そしてこれ以降ロシアの諸侯や皇帝は、戦の前にトロイツェ・セルギエフ大修道院で「神の祝福」を受ける事が習わしになったそうです。 -
白い鳥の奇跡。神は奇跡のしるしを与え、森の小さな共同体が大いなる修道院となることを予告しました。その場面の絵です。
ある夜、セルギイが祈祷をしていた時、誰かが彼の名を呼ぶ声を聞きました。祈りを終えて窓を開けると眩しい光に照らされて、無数の白い鳥が修道院の空を弧を描きながら飛ぶ姿が見えました。
その時「御覧なさい、数多くの修道士たちが至聖三者の名の下で貴方から学ぶためにここに集まるでしょう。貴方に倣う者がこの鳥のように増える事でしょう。」という天の声が聞こえてきました。
そして予言は実現し、聖セルギイ亡き後多くの修道士がここに住み、多くの修道士が祈りと斎(ものいみ)の苦行を修めてロシアに次々と修道共同体(修道院)を築いていきました。また教会を修める主教となりました。
人々は聖セルギイの不朽体(死後も朽ちることなく残った遺体)の前で祈りを捧げ聖セルギイに神へのとりなしを祈りました。
やがてモスクワの貴族の援助によって修道院は石造りに建て替えられ、豪華な装飾が施され、比類なき建築群になりました。 -
ヨハネ生誕教会の門(聖なる門)を潜り抜けた所です。
門のアーチに描かれていたのは「至聖三者」の絵でした。 -
ヨハネ生誕教会の門を潜って正面異に見えてきたのがウスペンスキー大聖堂。
水色のタマネギ頭の塔と白亜の建物が美しい。
門を潜ってすぐ左に白い建物がありますが(写真には撮っていません。)、ここはショップです。
このショップの奥の部屋に本屋があり、そこではセルギエフ・ポサードのガイドブックや写真集や絵ハガキなどを売っているそうです。
ここのショップではパンが有名なんだそうです。黒パンなどは美味しいそうですが私が知ったのは帰国してからでした。
なおこのショップには日本語版のガイドブックがあります。買われた方の話ではA4版のガイドブック2冊で何と480p(日本円で864円)でした。
ハードカバーのしっかりした本で写真印刷も綺麗でした。これとほぼ同じ本がモスクワでは1冊日本円で訳1000円でしたから、こちらで求められる方が安いです。
ガイドさんに聞いた話では、物価はモスクワが一番高いので、同じ物なら断然田舎(モスクワやサンクトペテルブルク以外の町)で買うように勧められました。
マトリョーシカもセルギエフ・ポサードが一番安いそうです。
例えばロシアで定番の「アリョンカ・チョコレート」。ここでは63P(113円)でしたがこれがモスクワのスーパーでは115P(207円)でした。
スーパーでこの値段ですからいかにモスクワ物価が高いか想像できると思います。
なお。付加価値税は内税方式で18%でした。
話が脱線しましたが大修道院の観光に戻りましょう。至聖三者聖セルギイ大修道院 寺院・教会
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入口左手にあるのが大食堂教会((トラペザ聖堂またはトラペズナ聖堂)です。
この教会は聖セルギイの永眠後300年を記念して、1688年から1692年にかけて聖セルギイの名を冠したトラペザ聖堂が建てられました、
トラペザとは食堂の意味で建物の東側が教会、西側は食堂として使われました。
この食堂は中央に柱が無い広い室内空間を誇っていて、床面積は510㎡と当時ロシア最大の建物でした。
歴代の皇帝が修道院に巡礼に来たときは昼食会がここで催されたそうです。
若き日のピョートル大帝も17世紀末に政争に巻き込まれ、この修道院に逃れてきました。その時は皇帝の御成御殿としての役割を果たしたそうです。 -
教会の壁面には聖人の絵画が掲げてありましたがガイドさんの説明は絵画の周囲の装飾でした。これはブドウの装飾で、この教会の外壁は全てブドウの装飾で占められているそうです。
当時修道院ではブドウを栽培しワインを作っていたため、その名残でブドウを装飾に使用しているそうです。 -
絵をアップにしました。聖人を見つめているのは「至聖三者」です。
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大食堂教会の装飾はとても綺麗です。
外壁の柱もブドウ柄ですした。 -
柱に描かれたブドウ柄。
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窓枠の装飾もブドウ柄。この装飾が気に入って何枚も写真を撮ってしまいました。
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教会内部に入ります。最初の部屋は控えの間。
ここにはアダムとイブの楽園の園。この部屋の奥が聖堂の中央室です。 -
楽園を享受するアダムとイブ。
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楽園追放されるアダムとイブ。
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聖堂の中央室。天井画や壁面の装飾が豪華ですが、それ以上に驚いたのが中国人観光客の多さ。
控えの間も中央室も中国人だらけです。まるで中国国内の観光地に来たみたいでした。 -
正面には黄金のイコノスタシス、天井画も周囲の壁の装飾も素晴らしく、豪華な室内でした。
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床の装飾も素敵です。
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祈りの光が美しい。
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「至聖三者」のイコンです。このイコンは当修道院で重要なイコンなのだそうですが、何故重要なのかは忘れてしまいました。
最近は健忘症で集中して聞いていないとどんどん忘れてしまいます。ガイドさんが説明されたという事は覚えていますが、詳しい内容は忘却の彼方です。 -
イコン画の周囲は散りばめられた宝石で飾られていました。
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主祭壇には金色に輝く豪華なイコノスタシスがありました。
なお、これより先には入ることができませんでした。 -
多くの聖人のイコンが掲げられていました。
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イコノスタシス中央の門(王門)をアップにしました。門の右には聖人のイコン、左はイエスを抱く聖母マリアだそうです。
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主祭壇の左右には聖人の棺がありました。これは右側の棺です。
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聖人の棺の横には木の枝が飾られていましたが、これは聖霊降臨祭(五旬祭)で使用された物です。
昨日5月27日が今年の聖霊降臨祭で木や花を飾ってお祝いするそうですが、ここの修道院では木の枝を飾ってお祝いしたようです。
ガイドさんから木の名前も教えていただきましたが、何の木だったか忘れてしまいました。
もし昨日がセルギエフ・ポサードの観光であったなら、祭祀のため聖堂内には入れなかったでしょうから、今日が観光日でラッキーでした。 -
聖霊降臨祭を祝うために飾られた木の枝は主祭壇にむかって左にある聖人の棺の左右と、主祭壇に飾ってありました。
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主祭壇のイコノスタシスの前にも木の枝が飾られていました。
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主祭壇尾イコン。アップにしてみるとこれも「至聖三者」のイコンのようでした。
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主祭壇入り口の上部にはハリストス(キリストのこと)が描かれていますが、どんな場面が描かれているのかは不明。
ガイドさんの説明があったかどうかも覚えていません。 -
主祭壇入口と天井の様子。
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天井画とシャンデリア。教会内は薄暗いため写真では色合いが今一つですが、肉眼で見た天井画は非常に美しかったです。
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天井画の様子。
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一部分をアップにしました。
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実際は上のように見えるのですが、人物が逆さまなので反転してみたのがこの絵です。
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同じく天井画。ここは中央室の入口付近の絵です。
次はトロイツキー聖堂(至聖三者聖セルギイ修道院)の見学です。 -
大食堂教会(トラペザ聖堂)の外に出て教会のベランダをトロイツキー聖堂に向かって進むと見晴らしの良い場所にでます。
それはそこから写した鐘楼と広場の景色。
鐘楼の右には聖霊降誕教会、左にはトロイツキー聖堂があるのですが、私のカメラにはパノラマ撮影機能が付いていないので、これが限界でした。
ここからの眺めは非常に美しく、ガイドさんの一押しの撮影スポットだそうです。至聖三者聖セルギイ大修道院 寺院・教会
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少しズームにするとこんな感じになりました。それにしても空の青さが尋常ではありませんでした。
本当に雲一つなく、吸い込まれるような青さです。
5月にこんな青空になるのは極めて珍しいそうです。これも異常気象のなせる業、出国までこのような快晴続きの天気に恵まれたので、我々はとてもラッキーでした。 -
1740年に建てられた鐘楼です。5階建てで高さは88m、当時はロシア一の高さを誇っていました。クレムリンのウズベンスキー聖堂の鐘楼よりも高いのです。
1922年までに鐘楼に取り付けられた鐘の数は42個、有名な「鐘の王様」という大鐘もありました。
この鐘は1748年に鋳造され、重さは67トンで実際使われた鐘としては最大のものでした。
ロシア革命後の1930年、共産主義革命政府によってこの鐘は取り外され破壊されました。さらにいくつかの鐘が持ち出されたり破壊されてしまいました。
現在鐘楼には30数個の鐘がありますが、革命以前から残る鐘は13個しかありません。29個の鐘が革命政府の手で破壊されたか、持ち出されて処分されたのです。現在の「鐘の王様」は2004年以再び鋳造され、鐘楼に取り付けられました。重さは72トンもあるそうですよ。
見学の途中に突然鐘の音が鳴り響きました。
聖なる地で聞く鐘の音は、カトリックの教会で聞く鐘の音とは全く違っていて心が洗われるような、そして心地よい、そんな素敵な音色でした。
ツアー参加者全員鐘楼の方を向いて、鐘の音に聞き惚れていました。
なお、鐘楼の1階は土産物店でした。 -
金色の屋根のトロイツキー聖堂(至聖三者聖堂)。
1423年に聖セルギイの墓所の上に建てられた現存する最古の建物です。
聖堂の中には聖セルギイの不朽体と棺が祀ってあり、トロイツェ・セルギエフ大修道院で最も聖なる場所とされています。
そのため聖堂内では写真撮影も私語も禁止されています。聖堂に入るときには男性は脱帽、女性はストールで頭を覆うか帽子を被らなければいけません。
この聖堂は巡礼に訪れた信者さんの列が続いていました。
我々ツアー客は列に並ばず信者さんの列の側から聖堂内に入りました。そのため内陣にある聖セルギイの不朽体を見ることも棺に触ることもできませんでしたが、イコノスタシスやイコンを近くで見ることはできました。
特に「至聖三者のイコン」(複製、本物はトレチャコフ美術館にあり。)は良く見ておくように言われましたが、内陣は中国人の観光客で一杯ですし詰めの状態でした。
前に出てイコンを見るには中国人をかき分けて進まないといけません。添乗員さんとガイドさんが先達して通路を切り開いてくださいましたが、前で礼拝して出口に引き返したので正直イコンが何処にあったのかもイコノスタシスのイコン画も全く覚えていません。
印象に残っているのは静かに列を作って一歩ずつ歩まれる信者さんの真剣な眼差しでした。いくらすし詰め所状態とはいえ、聖堂内はしわぶき一つありません。
あの喧しい中国人団体客が、この聖堂の中では水を打ったように静かなのです。
中国は共産主義なので基本的には無神論です。そして国民も無神論者が多いと言われています。近年宗教の自由が認められるようになったとはいえ、宗教抑圧の調査報告では依然中国は宗教抑圧が過酷との報告が提示されています。
その中国人達がロシア正教信者の経験を見て感化されのかと思うくらいに静かに信者さんたちを見つめていました。
確かにあの時聖堂内は何か特別な、特殊な環境下に、不思議な空間に聖堂内が包まれていたような気がします。
私自身心の中に静かな感動が広がっていましたから。ここは何か心打たれるものがあります。それは聖堂内に限ってで、外に出ると一挙に現実に引き戻されたような感覚になりました。本当に不思議な感覚でした。
やはり聖なる地には違いないと今でも心の中で思っています。そしてあの感覚を忘れないようにと思い返すようにしています。
機会があればもう一度この聖堂を訪れたい・・・。トロイツキー聖堂 建造物
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トロイツキー聖堂。聖地と言われており、たくさんの信者さんが巡礼に訪れます。
聖セルギイは生前自分が作った樫の木の棺に納められて地中に30年間眠っていました。
1422年に墓が開かれると、棺の中には朽ちぬままの聖人の体、不朽体が発見されました。現在聖セルギイの不朽体がトロイツキー聖堂に安置されています。 -
トロイツキー聖堂と鐘楼。
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トロイツキー聖堂。
トロイツキー聖堂 建造物
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トロイツキー聖堂とゾシマ・サヴァチ教会。
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こちらは1477年に建てられた使徒への聖神降臨聖堂(ドゥホフスカヤ聖堂)、下が教会、上が物見台になっている珍しい教会です。
中には入りませんでした。至聖三者聖セルギイ大修道院 寺院・教会
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こちらは総主教館。総主教とはカトリックの教皇と同等の地位の方、正教会における最高位の聖職者のことです。
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右の建物は使徒への聖神降臨聖堂。1476年に建てられた教会で、使徒たちに聖神(聖霊)が降臨したことを記念して建てられました。
伝承ではこの聖堂は、古い木造のトロイツキー聖堂(至聖三者聖堂)が石造りのものに建て替えられた時に、古い木造の聖堂が移築された場所に建てられたのだそうです。
左の大きな聖堂はウズベンスキー大聖堂です。至聖三者聖セルギイ大修道院 寺院・教会
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ウズベンスキー大聖堂の前にあるこの赤い建物は泉の上の小聖堂です。
建物の内部には聖水が湧きだしており、これには次のような言い伝えがあります。
1644年、ウズベンスキー大聖堂の壁に亀裂が見つかり、基礎を固めるために溝を掘ったところ清水が湧き出ました。
ある日眼病を患った修道士がこの水で目を洗ったところ目が治りました。逆に修道院で働いていたある男は、癒しの力など信じないとうそぶいていたところ亡くなってしまいました。
またモスクワの総主教イオシフ(1642-1652年)もこの清水で癒しを受けました。こうしてこの水は奇跡の水、聖水として崇められ、泉の上に小聖堂が築かれました。
礼拝堂と呼ぶ場合もあるようです。 -
そしてこちらは聖水の泉。泉が湧き出る小聖堂に信者が多く集まるようになってから、1872年に小聖堂の井戸から聖水を引きこちらに別に泉を設けたものです。
信者さんはペットボトルを持ち寄り、流れ出る水を汲んでいました。
ガイドさんは「私は飲んでもどうもないけど、皆さんはどうなるか分からないので勧めません。飲まないように。」と言っていました。
泉の後ろに見えるのがオベリスク。
1792年当時の府主教プラトンによって記念碑として建てられました。
このオベリスクには4つの出来事を記念して楕円形の銅板が設置されています。
1、クリコヴァルの戦いで聖セルギイがロシア軍を助けたこと。
2、ポーランドとリトアニア連合軍により、修道院が16か月包囲されたこと
3、ポーランドの侵攻に対し修道院がロシアを助けたこと
4、近衛兵の反乱時、ピョートル1世を匿い助けたこと -
広場から見たトロイツキー聖堂周辺の様子。
至聖三者聖セルギイ大修道院 寺院・教会
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トロイツキー聖堂と聖水の泉。
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ウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)に入場します。ここも観光客が多いところです。
ウスペンスキー大聖堂とはカトリックの聖母マリア被昇天教会のことです。
この教会はロシア軍がタタールのカザン汗国に勝利したことを神に感謝してイワン雷帝によって建てられました。カザン汗国は長年ロシアを圧迫していたキプチャク汗国の最後に汗国でした。
この教会はモスクワのクレムリンにあるウズベンスキー聖堂をモデルにして建てられたもので1585年に竣工しました。
動乱やポーランド・リトアニアの侵攻のため聖堂内にイコンが描かれないままになっていましたが、1684年に35人のイコン画家によってドームと壁にフレスコ画が描かれました。
この作業には100日かかったそうです。
聖堂内には聖セルギイの棺とシベリアおよびアメリカで伝道の後、府主教となった聖インオケンティと聖マキシム・ゲレークの不朽体が安置されています。
塔の上のタマネギ頭はキリストを現す金色屋根を中心に、周囲を聖母マリアを現す青色屋根が取り囲んでいてカラフルでした。
なおタマネギ頭はろうそくを意味しています。 -
イコノスタシスは17世紀に作られたもので、近世ロシアの代表的画家シモン・ウシャコフの最高傑作と言われており、荘厳で見事なものでした。
さらにイコノスタシスの前にあるシャンデリアが、これまた見事でした。
聖堂内の天井や全ての壁という壁はフレスコ画で覆われていました。聖母マリアを記念して建てられた教会なのでフレスコ画のテーマは聖母マリアにちなんだものでしたが、圧巻は入り口の壁全体に描かれた「最後の審判」でした。 -
聖堂の中央の天井には「聖母マリアの昇天」が描かれていました。ズームで撮らなかったので見難いですが、聖母マリアが死に臨んで12使徒(トマスは除く)に囲まれて静かに昇天していく場面です。
伝承によれば、聖母マリアは晩年をイスラエルで過ごし、日々天国に入ることを望みながら平穏に暮らしていました。
ある日自分の死が近いことを悟ったマリアは、家の片付けをして持ち物を施し、静かに死の訪れを待ちましたが、ただ一つ彼女には残念なことがありました。
それはマリアが子とも友とも慕うイエスの直弟子である12使徒が宣教の旅に出ていて不在だったことです。
ところがマリアがいよいよ天国に召されるという時、トマスを除く全ての使徒達が帰ってきたのです。マリアは大変喜び、悲しむ使徒たちを慰めて皆に別れを告げて眠りにつき、天国に旅立ったということです。。 -
聖セルギイの不朽体が収められていた棺です。元々トロイツキー聖堂にあったものですが、現在はウスペンスキー大聖堂に置かれています。
聖セルギイは生前樫の木の棺を自分で作り、自分の修室に置いていました。そして死後その棺に納められて地中に30年埋葬されていたのですが、その棺が写真の棺です。
ガラスケースに入れられて保管されているため、ガラスに光が反射して見難いのですが確かに棺でした。しかも地中に30年も埋められていたにも関わらず朽ちることも無く、しっかりした作りのまま残っていたのには驚きました。 -
イコノスタシスとフレスコ画。柱や天井には聖人のフレスコ画が描かれていますが、この教会は聖母マリア様を記念した教会です。
ガイドさんからは案内がありませんでしたが、壁面に聖母マリア様の一生のフレスコ画がかかれていました。さらに聖母子のイコンもあったそうですが、それは見ていません。 -
堂内の聖人のフレスコ画。
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写真奥の壁には聖母マリア様の生涯が描かれていました。この絵はガイドさんの説明がなかったのですが、たまたま写真に写っていたものです。
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聖堂内は観光客で一杯でごった返していました。ウスペンスキー大聖堂の内部はトロイツキー聖堂とは違ってざわついていたため、トロイツキー聖堂のような聖なる印象は受けませんでした。
聖堂内の写真は人を入れないように写していましたが、この写真でいかに観光客で混雑しているかご理解いただけるのではないかと思います。 -
シャンデリアが豪華で素敵でした。実物はもっときれいです。イコノスタシスも金色で眩いくらいに輝いていました。
聖堂内が暗いため、ノーフラッシュの写真では本来の色が出ていませんでした。 -
ウスペンスキー大聖堂で最も華やかな場所はやはりこの部分。イコノスタシスと豪華なシャンデリア、フレスコ画で囲まれた空間は素晴らしかった。
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大聖堂入口の壁一面に描かれていたのは最後の審判。大聖堂の壁一面に描かれた天国と地獄、審判を待つ聖職者、貴族や王族から庶民に至るまで描かれた人々の姿はダイナミックでした。
ガイドさんはこの絵を紹介したくて、他の絵の説明は省略されたのではないかと思いました。
中央にいる人物がハリストス(イエス・キリスト)で、頭上に描かれた神の手が、持つ天秤で善悪が計られ、天国行きが地獄行きが決定されます。画面右は地獄をを、左は天国を表しています。
中央に描かれた緑色の蛇のようなものは何か?ガイドさんが説明されたのは記憶してしていますが何だったのかどうしても思い出せません。邪悪な物ではなかったと記憶していますが、何だったんだろう。
まあ、こうしてウスペンスキー大聖堂の観光は終了しました。 -
広場から眺めることができた教会です。奥の2つの教会はゾシマ・サヴァチ教会で右の赤い教会がスモレンスカヤ教会。
スモレンスカヤ教会はスモレンスクの聖母の奇跡のイコンを祀った教会です。
教会が建てられた場所は元調理場があった所でこの建物の外にスモレンスクの聖母のイコンがあったそうです。
1730年、修道院には腕の曲がった誦経者がいましたが、ある日彼の夢の中にこのイコンが現れて彼の腕が治りました。この奇跡を当時の皇女が聞き、奇跡のイコンを称えて教会を造るように命じました。
その教会がスモレンスク教会でした。 -
スペンスキー聖堂正面入り口の様子。鐘楼入口から写した写真です。
以降トロイツェ・セルギエフ大修道院の後編に続きます。
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