2017/07/14 - 2017/07/14
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旅人のくまさんさん
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新幹線を利用しての東海道の名城巡りです。旧東海道の城下町には、東から小田原、駿府、掛川、吉田、亀山などがありますが、今回は。東から三つの百名城を巡りました。最初は、新装なった小田原城です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、小田原城関連公式サイト)
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イチオシ
名古屋駅から新幹線のこだまに乗車してやってきた小田原駅前の光景です。小田原城の創設者、北条早雲の騎馬像です。『北条早雲(1456?~1519年)』は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖です。戦国大名の嚆矢で、『伊勢宗瑞(そうずい)』とも呼ばれています。下剋上で成り上がった武将ではなく、れっきとした出自が分かってきました。(同上)
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小田原駅の西口の玄関付近の光景です。鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは、傍系の遠い血縁関係にあるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため、伊勢氏流北条家は『後北条』と呼ぶようになりました。同じような理由で、『小田原北条氏』とも呼ばれます。(同上)
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姓を、伊勢から改めて北条を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代になってからのことです。自身は、北条早雲と名乗ったことはなく、生前の文の署名も『伊勢新九郎』や『伊勢宗瑞』などでした。諱は長らく不確定で、『長氏(ながうじ)』をはじめ、『氏茂(うじしげ)』、『氏盛(うじもり)』などとも伝えられてきましたが、現在では『盛時(もりとき)』が定説で、通称は『新九郎(しんくろう)』です。(同上)
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一介の素浪人から戦国大名にのし上がった『下剋上の典型とする説』が近代になって風聞され、通説とされてきました。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた、伊勢氏を出自とする考えが主流です。1950年代に発表された藤井論文以降の資料検証に基づく研究では、伊勢氏のうちで、山陽道に属する『備中国(びっちゅうのくに)』を所領した支流とされます。(同上)
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早雲は、備中荏原荘(現井原市)、または京都で生まれ、荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれます。)だったことが、ほぼ確定しています。室町幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、記載された史料の『伊勢新九郎盛時』なる人物が同一であることも決め手となりました。『伊勢新九郎盛時』は、北条早雲のことです。(同上)
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早雲に関する従来の説は、文献の解釈の違いによるところが大きかったようです。『備中伊勢氏』説は、史料が最も豊富で多岐にわたることが、出自解明に大きく寄与しました。近年の研究では、早雲の父の『伊勢盛定(生没年不詳)』は、室町幕府政所執事・伊勢貞親の妹婿で、8代将軍『足利義政(在位:1449~1474年)』の申次衆として重要な位置にいたことも明らかになりました。(同上)
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『申次』は、『奏者』とも呼ばれ、『申次衆(もうしつぎしゅう)』は、室町幕府の職名の一つでした。室町幕府6代将軍足利義教の頃には伊勢・上野・大舘・畠山の4氏出身者によって独占されていました。伊勢貞親(1417~1473年)失脚後に、跡を継いで政所執事となったのは、その子の『伊勢貞宗(1444~1509年)』です。伊勢盛時(早雲)とは、従兄弟にあたるとされます。(同上)
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盛時(早雲)は、若い頃に盛定の所領である備中荏原荘に居住したと考えられています。荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時」の署名の禁制が残されています。ただし、花押が後のものとは異なります。また、井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられています。備中荏原荘からは内藤氏、笠原氏、平井氏、山中氏、井上氏など後北条氏の家臣が出ています。(同上)
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応仁元年(1467年)に『応仁の乱』が起こりました。『応仁の乱』は、室町時代に、将軍の後継者争いがきっかけで起きた、日本で一、二を争うほどの大規模な内乱です。この内乱は11年続き、120年もの間日本で争いが多発した、戦国時代に突入していく原因にもなりました。 応仁の乱は、将軍の後継者争いだけでは説明がつかない、ややこしい背景を持つ争いでした。(同上)
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義忠は、しばしば父の伊勢貞親を訪れ、その申次を盛定が務めていました。その縁で盛定の娘で宗瑞の姉妹にあたる北川殿が義忠と結婚したようです。宗瑞(早雲)が素浪人とされていた頃は、北川殿は側室であろうとされていましたが、備中伊勢氏は、今川氏と家格において遜色ないため、近年では正室であったと見られています。文明5年(1473年)に北川殿は龍王丸(後の今川氏親:義元の父)を生んでいます。(同上)
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なお、伊勢氏との関係について、寛正6年(1466年)に発生した遠江国の今川氏の所領没収問題を巡り、貞親の実弟の伊勢貞藤(さだふじ:1432~1491年)が所領の没収と御料所化推進の中心人物でした。この処分に反発する今川義忠(1436~1476年)と伊勢盛定(生没年不詳:早雲の父)の対立が生まれたようです。(同上)
*写真は、『御用米曲輪の戦国時代のかわらけ』です。 -
伊勢貞藤は、細川勝元(1430~1473年)と対立して、応仁の乱では西軍に属しています。かつては宗瑞(早雲)の出自の有力説の1つに、貞藤の子とする説がありましたが、これらの事実とその後の宗瑞の経歴を考慮しますと、この説は成立しないと指摘されています。(同上)
*写真は、『御用米曲輪の戦国時代の建物跡』です。 -
宗瑞(早雲)は、将軍義政の弟の足利義視(よしみ:1439~1491年)に仕えたとされる説がありますが、近年有力視されている康正2年(1456年)生まれですと、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464~1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っています。(同上)
*写真は、『御用米曲輪の切石敷遺構』です。 -
宗瑞の、「伊勢新九郎盛時」の名は、文明13年(1481年)から文書に現れます。文明15年(1483年)に、第9代将軍『足利義尚(よしひさ:1465~1489年)』の申次衆に任命されました。長享元年(1487年)、奉公衆となりました。また、京で幕府に出仕している間、建仁寺と大徳寺で禅を学んでいます。(同上)
*写真は、『御用米曲輪の池』です。 -
『今川家家督争い』に関する説明です。文明8年(1476年)、今川義忠が遠江の塩買坂において西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にしました。しかし、遠江の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の斯波義良に属するものだと考察されています。義忠は同じ東軍と戦っていたことになります。(同上) *写真は、石垣と道案内標識の光景です。
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残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家督争いで家中が二分されました。これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の『上杉政憲(生年不詳~1487年?)』と家宰の『太田道灌(1432~1486年)』が兵を率いて駿河国に出兵しました。(同上) *写真は、『御用米曲輪の瓦積塀』です。
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小鹿範満と上杉政憲は血縁があり、道灌も史料に範満の「合力(ごうりき)」と記されています。龍王丸派にとって情勢は不利でした。北川殿の兄弟でもある宗瑞は駿河へ下り、「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させました。(同上)
*写真は、『御用米曲輪の土塁』です。 -
上杉政憲と太田道灌も撤兵させました。この時に宗瑞と道灌と会談したという話もあります。道灌も長尾景春の乱への対処のため、帰国を急ぐ必要がありました。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓いました。家督を代行した小鹿範満が駿河館に入り、龍王丸は北川殿と共に小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せました。(同上) 写真は、『御用米曲輪出土の三つ葉葵紋軒丸瓦』です。
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従来、この調停成功は宗瑞の知略による立身出世の第一歩とされていましたが、今日では幕府の命により駿河守護家今川氏の家督相続に介入すべく下向したものであるとの説が有力となっています。宗瑞は、今川氏の家督争いが収まると京都へ戻り、第9代将軍・義尚に仕えて奉公衆になっています。(同上)
*写真は、『御用米曲輪の蔵跡』です。 -
文明11年(1479年)、前将軍の義政は、龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出しています。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても小鹿範満は家督を戻そうとはしませんでした。このため北川殿は京都で将軍・足利義尚の奉公衆を務めていた宗瑞を頼ることになりました。(同上)
*写真は、『御用米曲輪』です。 -
長享元年(1487年)、駿河へ下向した宗瑞は、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めました。その時点で、太田道灌は主君の上杉定正に誅殺されて既に亡く、上杉政憲も都鄙和睦以降は足利政知の不興をかって不仲となっていて、範満を支持していた外部勢力はなくなっていました。(同上)
*写真は、『国指定史跡小田原城跡』です。 -
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長享元年(1487年11月、宗瑞は兵を起こし、館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺害しました。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となりました。これらの一連の動きは足利義尚や足利政知の承認を得ていたものと考えられています。(同上)
*写真は、再建された小田原城の白亜の天守の光景です。 -
宗瑞は、伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられました。通説である興国寺城拝領については史料の確認が取れないとして異論もあり、善得寺城、もしくはそのまま石脇城を居城とした説があります。また、駿河へ留まった宗瑞は若年で当主となった氏親の後見役を務めていたとみられ、守護代の出す「打渡状」を発行していることから、駿河守護代の地位にあったとも考えられています。(同上)
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また、同時期に堀越公方足利政知の直臣となって(恐らく奉公衆として)出仕し、伊豆国田中郷・桑原郷を所領として与えられています。しかし、延徳3年(1491年)4月の政知の死に伴い、5月には再び申次衆として室町幕府に復帰しました。この頃に幕府奉公衆小笠原政清(まさきよ:元続の祖父、元続の子・康広と細川氏家臣・小笠原秀清(少斎)の曽祖父にあたる)の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれています。なお、この時期に宗瑞が借金問題を抱えていたとする説があります。同上)
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文明13年(1481年)、備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆庄元資の家臣渡辺帯刀丞が宗瑞に金を貸したところ、翌年には訴訟に至ったというものです。この問題がどう決着したかは不明ですが、このことが駿河および東国下向となった一因の可能性があるようです。堀越公方・足利政知(1435~1491年)が亡くなり、その子茶々丸(11代将軍足利義澄の異母兄)が堀越公方を継ぎました。(同上)
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宗瑞は堀越御所を襲撃、勝利し伊豆国の統治を開始しました。従来の通説では宗瑞率いる伊勢氏が伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、荒廃した京都を捨てて、関東の沃野に志を立てたとされてきましたが、中央の政治と連動した動きを取っていることが近年の研究で分かってきました。(同上)
*写真は、小田原城天守のズームアップ光景です。 -
鎌倉公方・足利成氏(しげうじ:1438~1497年)が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を占領します。成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の関東管領山内上杉家と激しく戦いました(享徳の乱)。将軍義政は成氏に代わる鎌倉公方として異母兄の政知を送りますが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条を本拠に留まり、堀越公方と呼ばれました。(同上)
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文明14年(1483年)に成氏と幕府との和睦が成立(都鄙和睦)し、成氏が正式の鎌倉公方と認められました。それに伴い政知は幕府から伊豆一国の国主としての地位を与えられましたが、公方の権威は名実ともに失墜しました。政知には長男の茶々丸以外に、継室の円満院との間に清晃(のちの足利義澄)と、潤童子をもうけていました。茶々丸は素行不良のため廃嫡され、潤童子が堀越公方の後継でした。(同上)
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清晃は出家して京にいましたが、政知は勢力挽回のために日野富子や管領細川政元と連携して、この清晃を将軍に擁立しようと図っていたとの噂があったと、長享元年の興福寺別当尋尊の日記に残っています。なお、この計画に氏親と宗瑞が関与していたとする説もあります。(同上)
*写真は、先程の絵図の左側にあった小田原城縄張り図です。 -
延徳3年(1491年)に政知が没しますと、茶々丸が円満院と潤童子を殺害して堀越公方を継ぎました。延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っていますが、明応4年(1495年)の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっています。この間に早雲は出家したとみられています。(同上)
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