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旧東海道の名城巡りの小田原城城紹介の続きです。北条早雲(伊勢宗瑞)の略歴とともに紹介しました。早雲は、(享年88説)と(享年64説)がありますので、併記して紹介しました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、小田原城関連公式サイト)

2017初夏、旧東海道の日本百名城(3/14):小田原城(3):歴代城主、天守模型、出土品

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2017/07/14 - 2017/07/14

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旅行記グループ 2017夏、東海道の百名城巡り

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旅人のくまさん

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旧東海道の名城巡りの小田原城城紹介の続きです。北条早雲(伊勢宗瑞)の略歴とともに紹介しました。早雲は、(享年88説)と(享年64説)がありますので、併記して紹介しました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、小田原城関連公式サイト)

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  • 北条早雲(伊勢宗瑞)の紹介が続きます。権現山城での敗戦から体勢を立て直した宗瑞は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、『三浦義同(よしあつ:1415~1555年)』を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落としました。義同は嫡男の『義意(よしおき)』の守る三崎城に逃げ込みました。(同上)<br />*写真は、いつの時期の模型か確認していませんが、小田原城天守です。

    イチオシ

    北条早雲(伊勢宗瑞)の紹介が続きます。権現山城での敗戦から体勢を立て直した宗瑞は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、『三浦義同(よしあつ:1415~1555年)』を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落としました。義同は嫡男の『義意(よしおき)』の守る三崎城に逃げ込みました。(同上)
    *写真は、いつの時期の模型か確認していませんが、小田原城天守です。

  • 宗瑞は鎌倉を占領して、相模の支配権をほぼ掌握しました。扇谷上杉家当主の『上杉朝良(ともよし:1473~1517年)』の甥の『上杉朝興(ともおき:1537~1488年)』が江戸城から救援に駆けつけますが、これを退けました。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築きました。義同は、しばしば兵を繰り出して戦火を交えますが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められました。扇谷家も救援の兵を送りますが、ことごとく撃退されました。(同上)<br />*写真は、『小田原城天守の変遷』のタイトルの説明パネルです。

    宗瑞は鎌倉を占領して、相模の支配権をほぼ掌握しました。扇谷上杉家当主の『上杉朝良(ともよし:1473~1517年)』の甥の『上杉朝興(ともおき:1537~1488年)』が江戸城から救援に駆けつけますが、これを退けました。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築きました。義同は、しばしば兵を繰り出して戦火を交えますが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められました。扇谷家も救援の兵を送りますが、ことごとく撃退されました。(同上)
    *写真は、『小田原城天守の変遷』のタイトルの説明パネルです。

  • 永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めますが、宗瑞はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せました。激戦の末に義同・義意父子は討ち死にします。名族三浦氏は滅び、伊勢氏が相模全域を平定しました。その後、上総の真里谷武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦しました。<br />永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去しました。後嗣の氏綱は、2年後に菩提寺として『早雲寺(神奈川県箱根町)』を創建しました。(同上)<br />*写真は、『小田原城天守引図』のタイトルの説明パネルです。

    永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めますが、宗瑞はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せました。激戦の末に義同・義意父子は討ち死にします。名族三浦氏は滅び、伊勢氏が相模全域を平定しました。その後、上総の真里谷武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦しました。
    永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去しました。後嗣の氏綱は、2年後に菩提寺として『早雲寺(神奈川県箱根町)』を創建しました。(同上)
    *写真は、『小田原城天守引図』のタイトルの説明パネルです。

  • 宗瑞は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されています。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となりました。永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施していますが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされています。<br />*写真は、宝永2年(1705)4月、元禄地震に被災した小田原城の再興を記した石碑です。江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、噴火が続発した時期です。本地震の4年後の宝永4年(1707年)にはM 8.4~8.6(Mw 8.7~9.3)と推定される宝永地震、および宝永大噴火も発生しています。

    宗瑞は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されています。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となりました。永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施していますが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされています。
    *写真は、宝永2年(1705)4月、元禄地震に被災した小田原城の再興を記した石碑です。江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、噴火が続発した時期です。本地震の4年後の宝永4年(1707年)にはM 8.4~8.6(Mw 8.7~9.3)と推定される宝永地震、および宝永大噴火も発生しています。

  • 『元禄地震』は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震です。震源は相模トラフ沿いの東経139.8度、北緯34.7度の地点と推定され、房総半島南端の千葉県の野島崎付近に当たります。 地震の規模は、M7.9~8.2と推定されています。(同上)

    『元禄地震』は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震です。震源は相模トラフ沿いの東経139.8度、北緯34.7度の地点と推定され、房総半島南端の千葉県の野島崎付近に当たります。 地震の規模は、M7.9~8.2と推定されています。(同上)

  • 宗瑞は、死の前年から伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになりました。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられました。更にこれを関東の諸勢力(古河公方・両上杉氏など)との対抗上、足利一族である今川氏の権威を必要とし続けていましたが、独自の公権力を発揮し始めたことを示すものとの評価もあります。(同上)

    宗瑞は、死の前年から伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになりました。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられました。更にこれを関東の諸勢力(古河公方・両上杉氏など)との対抗上、足利一族である今川氏の権威を必要とし続けていましたが、独自の公権力を発揮し始めたことを示すものとの評価もあります。(同上)

  • ただし、宗瑞の姉で氏親の母である北川殿はまだ健在(享禄2年:1529年没)であり、宗瑞自身は最後まで今川氏の家臣としての立場を棄てることは無かったようです。<br />宗瑞の後を継いだ嫡男の『氏綱』は、『北条氏(後北条氏)』を称して、武蔵国へ領国を拡大しました。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになります。(同上:以上)

    ただし、宗瑞の姉で氏親の母である北川殿はまだ健在(享禄2年:1529年没)であり、宗瑞自身は最後まで今川氏の家臣としての立場を棄てることは無かったようです。
    宗瑞の後を継いだ嫡男の『氏綱』は、『北条氏(後北条氏)』を称して、武蔵国へ領国を拡大しました。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになります。(同上:以上)

  • 先ほど紹介した木製の標識にあった説明文の紹介です。『小田原城再興天守棟札(小田原市指定文化財)』のタイトルがありました。<br />〇宝永2年(1705年)<br />〇宝永2年(1705年)12月の天守上棟に際して作成された棟札で、藩主・大久保忠増をはじめ、最高工事に携わった諸奉行や諸職人の名前も記されています。表面の中央上部には、国土安全や武運長久などを祈願し、摩利支天を勧請した旨の記述があります。(同上)

    先ほど紹介した木製の標識にあった説明文の紹介です。『小田原城再興天守棟札(小田原市指定文化財)』のタイトルがありました。
    〇宝永2年(1705年)
    〇宝永2年(1705年)12月の天守上棟に際して作成された棟札で、藩主・大久保忠増をはじめ、最高工事に携わった諸奉行や諸職人の名前も記されています。表面の中央上部には、国土安全や武運長久などを祈願し、摩利支天を勧請した旨の記述があります。(同上)

  • 引き続いて、『北条早雲(伊勢宗瑞』の年表を紹介します。(同上)<br />〇永享4年(1432年):1歳:備中国高越城で出生。(享年88説)<br />〇永享10年(1438年):7歳:永享の乱、鎌倉公方足利持氏自害。鎌倉公方一旦滅。<br />〇永享13年(嘉吉元年:1441年):10歳:	嘉吉の乱、将軍足利義教が暗殺される。<br />*写真は、小田原城の年表と、歴代城主です。

    引き続いて、『北条早雲(伊勢宗瑞』の年表を紹介します。(同上)
    〇永享4年(1432年):1歳:備中国高越城で出生。(享年88説)
    〇永享10年(1438年):7歳:永享の乱、鎌倉公方足利持氏自害。鎌倉公方一旦滅。
    〇永享13年(嘉吉元年:1441年):10歳: 嘉吉の乱、将軍足利義教が暗殺される。
    *写真は、小田原城の年表と、歴代城主です。

  • 〇嘉吉3年(1443年):12歳:禁闕の変、神璽が後南朝に奪われる。<br />〇文安6年(宝徳元年:1449年:18歳:足利義政に将軍宣下。鎌倉公方が再興され、持氏の遺児成氏が任命される。<br />〇享徳3年(1454年):23歳:鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉憲忠を謀殺。享徳の乱がはじまる。*写真は、大阪城天守を筆頭にした天守の高さ比べです。

    〇嘉吉3年(1443年):12歳:禁闕の変、神璽が後南朝に奪われる。
    〇文安6年(宝徳元年:1449年:18歳:足利義政に将軍宣下。鎌倉公方が再興され、持氏の遺児成氏が任命される。
    〇享徳3年(1454年):23歳:鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉憲忠を謀殺。享徳の乱がはじまる。*写真は、大阪城天守を筆頭にした天守の高さ比べです。

  • 〇享徳4年(康正元年:1455年):24歳:駿河守護今川範忠の軍勢が鎌倉を占領、成氏は下総古河に逃れる。(古河公方)将軍足利義政と日野富子が結婚。<br />〇康正2年(1456年):25(1)歳:備中国高越城で出生。(括弧内の歳は享年64説)<br />〇禄元年(1457年):26(2)歳:太田道灌、江戸城を築く。将軍足利義政が弟の政知を関東に送る。(堀越公方)長禄の変、後南朝から神璽を赤松家遺臣が奪回。<br />〇寛正2年(1461年):30(6)歳:寛正の大飢饉、洛中の餓死者8万人以上。<br />*写真は、旧天守から降ろされた瓦製の鯱のようです。

    イチオシ

    〇享徳4年(康正元年:1455年):24歳:駿河守護今川範忠の軍勢が鎌倉を占領、成氏は下総古河に逃れる。(古河公方)将軍足利義政と日野富子が結婚。
    〇康正2年(1456年):25(1)歳:備中国高越城で出生。(括弧内の歳は享年64説)
    〇禄元年(1457年):26(2)歳:太田道灌、江戸城を築く。将軍足利義政が弟の政知を関東に送る。(堀越公方)長禄の変、後南朝から神璽を赤松家遺臣が奪回。
    〇寛正2年(1461年):30(6)歳:寛正の大飢饉、洛中の餓死者8万人以上。
    *写真は、旧天守から降ろされた瓦製の鯱のようです。

  • 〇寛正5年(1464年):33(9)歳:この頃に足利義視の近侍となる。	将軍義政の弟義尋、還俗して将軍後継者となる。(足利義視)<br />〇寛正7年(文正元年:1466年):35(11)歳:細川勝元、山名宗全と対立した政所執事伊勢貞親が近江に逃亡。<br />〇文正2年(応仁元年:1467年):36(12)歳:この頃に姉妹の北川殿と駿河守護今川義忠が結婚。応仁の乱勃発。京都で細川方・山名方の軍勢数万が合戦。<br />*写真は、小田原城主の小笠原氏の紋所です。

    〇寛正5年(1464年):33(9)歳:この頃に足利義視の近侍となる。 将軍義政の弟義尋、還俗して将軍後継者となる。(足利義視)
    〇寛正7年(文正元年:1466年):35(11)歳:細川勝元、山名宗全と対立した政所執事伊勢貞親が近江に逃亡。
    〇文正2年(応仁元年:1467年):36(12)歳:この頃に姉妹の北川殿と駿河守護今川義忠が結婚。応仁の乱勃発。京都で細川方・山名方の軍勢数万が合戦。
    *写真は、小田原城主の小笠原氏の紋所です。

  • 〇応仁2年(1468年):37(13)歳:足利義視、西軍(山名方)の大将に迎えられる。<br />〇文明3年(1471年):40(16)歳:備中国荏原荘に「平盛時禁制」を発する。関東管領・山内顕定が成氏の居城古河城を攻略。<br />〇文明5年(1473年):42(18)歳:北川殿が龍王丸(後の今川氏親)を生む。山名宗全、細川勝元が死去。<br />〇文明8年(1476年):45(21)歳:駿河に下向して龍王丸派と小鹿範満派との家督争いを調停。	<br />*写真は、小田原城主の稲葉氏の紋所です。

    〇応仁2年(1468年):37(13)歳:足利義視、西軍(山名方)の大将に迎えられる。
    〇文明3年(1471年):40(16)歳:備中国荏原荘に「平盛時禁制」を発する。関東管領・山内顕定が成氏の居城古河城を攻略。
    〇文明5年(1473年):42(18)歳:北川殿が龍王丸(後の今川氏親)を生む。山名宗全、細川勝元が死去。
    〇文明8年(1476年):45(21)歳:駿河に下向して龍王丸派と小鹿範満派との家督争いを調停。
    *写真は、小田原城主の稲葉氏の紋所です。

  • 〇文明9年(1477年):46(22)歳:東西両軍の和睦がほぼ成立し、応仁の乱終わる。<br />〇文明11年(1479年):48(24)歳:前将軍義政、龍王丸に本領安堵の内書。<br />〇文明13年	(1481年):50(26)歳:文書での「伊勢新九郎盛時」の初見。<br />〇文明14年	(1482年):51(27)歳:金銭貸借を巡り、庄元資の家臣と訴訟沙汰になる。幕府と古河公方足利成氏との和睦が成立、享徳の乱終わる。(都鄙合体)<br />*写真は、小田原城主の小笠原氏(再入部)の紋所です。

    〇文明9年(1477年):46(22)歳:東西両軍の和睦がほぼ成立し、応仁の乱終わる。
    〇文明11年(1479年):48(24)歳:前将軍義政、龍王丸に本領安堵の内書。
    〇文明13年 (1481年):50(26)歳:文書での「伊勢新九郎盛時」の初見。
    〇文明14年 (1482年):51(27)歳:金銭貸借を巡り、庄元資の家臣と訴訟沙汰になる。幕府と古河公方足利成氏との和睦が成立、享徳の乱終わる。(都鄙合体)
    *写真は、小田原城主の小笠原氏(再入部)の紋所です。

  • 〇文明15年(1483年):52(28)歳:将軍足利義尚の申次衆となる。<br />〇文明17年(1485年):54(30)歳:山城国一揆起こる。<br />〇文明18年(1486年):55(31)歳:尼子経久が出雲国富田城を奪回。太田道灌、主君扇谷定正に謀殺される。<br />*写真は、先に紹介した小田原城主と紋所の一覧です。

    〇文明15年(1483年):52(28)歳:将軍足利義尚の申次衆となる。
    〇文明17年(1485年):54(30)歳:山城国一揆起こる。
    〇文明18年(1486年):55(31)歳:尼子経久が出雲国富田城を奪回。太田道灌、主君扇谷定正に謀殺される。
    *写真は、先に紹介した小田原城主と紋所の一覧です。

  • 〇文明19年(長享元年:1487年):56(32)歳:将軍足利義尚の奉公衆となる。駿河に下り、駿河館を襲撃して小鹿範満を討つ。興国寺城主となる。嫡男の伊豆千代丸(北条氏綱)生まれる。「系図纂要」では、この年に北条姓に改めたとする。龍王丸、元服して今川氏親を名乗る。<br />*写真は、相州小田原古絵図(加藤図)です。江戸時代初期のものです。

    〇文明19年(長享元年:1487年):56(32)歳:将軍足利義尚の奉公衆となる。駿河に下り、駿河館を襲撃して小鹿範満を討つ。興国寺城主となる。嫡男の伊豆千代丸(北条氏綱)生まれる。「系図纂要」では、この年に北条姓に改めたとする。龍王丸、元服して今川氏親を名乗る。
    *写真は、相州小田原古絵図(加藤図)です。江戸時代初期のものです。

  • 〇長享2年(1488年):57(33)歳:山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)勃発。<br />〇長享3年(延徳元年:1489年):58(34)歳:日野富子と管領細川政元が清晃擁立を図ったとの風聞。(宗瑞が関与の説) 将軍・足利義尚死去、義視の子義材が将軍に迎えられる。<br />〇延徳2年(1490年):59(35)歳:足利義政死去。(同上)

    〇長享2年(1488年):57(33)歳:山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)勃発。
    〇長享3年(延徳元年:1489年):58(34)歳:日野富子と管領細川政元が清晃擁立を図ったとの風聞。(宗瑞が関与の説) 将軍・足利義尚死去、義視の子義材が将軍に迎えられる。
    〇延徳2年(1490年):59(35)歳:足利義政死去。(同上)

  • 〇延徳3年(1491年):60(36)歳:「伊勢新九郎」の名の最後の文書。明応4年(1495年)までに出家して早雲庵宗瑞を名乗る。足利義視死去。堀越公方足利政知死去。<br />茶々丸が継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を継ぐ。<br />〇延徳4年(明応元年:1492年):61(37)歳:甲斐武田家の武田信縄・信恵兄弟が家督争いを起こす。(同上)

    〇延徳3年(1491年):60(36)歳:「伊勢新九郎」の名の最後の文書。明応4年(1495年)までに出家して早雲庵宗瑞を名乗る。足利義視死去。堀越公方足利政知死去。
    茶々丸が継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を継ぐ。
    〇延徳4年(明応元年:1492年):61(37)歳:甲斐武田家の武田信縄・信恵兄弟が家督争いを起こす。(同上)

  • 〇明応2年(1493年):62(38)歳:伊豆堀越御所の茶々丸を襲撃。(伊豆討ち入り) 明応の政変、管領・細川政元がクーデターを起こして将軍・足利義材を追放。清晃(足利義澄)を擁立する。<br />〇明応3年(1494年):63(39)歳:扇谷方として武蔵国高見原に出兵、扇谷定正の急死により撤退する。今川氏の武将として遠江へ侵攻。三浦氏の家督を継承。(同上)

    〇明応2年(1493年):62(38)歳:伊豆堀越御所の茶々丸を襲撃。(伊豆討ち入り) 明応の政変、管領・細川政元がクーデターを起こして将軍・足利義材を追放。清晃(足利義澄)を擁立する。
    〇明応3年(1494年):63(39)歳:扇谷方として武蔵国高見原に出兵、扇谷定正の急死により撤退する。今川氏の武将として遠江へ侵攻。三浦氏の家督を継承。(同上)

  • 〇明応4年(1495年):64(40)歳:甲斐に出兵して守護武田信縄と戦う。大森藤頼を討ち小田原城を奪取。事件の年次については明応5年(1496年)以降、明応10年(1501年)までの間とする説もある。<br />〇明応5年(1496年):65(41)歳:山内方が小田原城を攻める。日野富子死去。<br />*写真は、先程の絵図のタイトルの『小田原城の最盛期の姿』と説明文です。

    〇明応4年(1495年):64(40)歳:甲斐に出兵して守護武田信縄と戦う。大森藤頼を討ち小田原城を奪取。事件の年次については明応5年(1496年)以降、明応10年(1501年)までの間とする説もある。
    〇明応5年(1496年):65(41)歳:山内方が小田原城を攻める。日野富子死去。
    *写真は、先程の絵図のタイトルの『小田原城の最盛期の姿』と説明文です。

  • 〇明応6年(1497年):66(42)歳:関戸吉信の深根城を落し、伊豆平定。	古河公方足利成氏死去。<br />〇明応7年(1498年):67(43)歳:甲斐で茶々丸を捕えて殺害する。伊豆の深根城で討ち取ったとする説もあり。<br />〇明応8年(1499年):68(44)歳:蓮如死去。

    〇明応6年(1497年):66(42)歳:関戸吉信の深根城を落し、伊豆平定。 古河公方足利成氏死去。
    〇明応7年(1498年):67(43)歳:甲斐で茶々丸を捕えて殺害する。伊豆の深根城で討ち取ったとする説もあり。
    〇明応8年(1499年):68(44)歳:蓮如死去。

  • 〇明応10年(文亀元年:1501年):70(46)歳:今川家の武将として三河に出兵し、松平長親と戦う。<br />〇文亀4年(永正元年:1504年):73(49)歳:扇谷朝良・氏親らと共に立河原の戦いで山内顕定に勝利する。<br />〇永正2年(1505年):74(50)歳:扇谷朝良が山内方に降伏、長享の乱終了。(同上)

    〇明応10年(文亀元年:1501年):70(46)歳:今川家の武将として三河に出兵し、松平長親と戦う。
    〇文亀4年(永正元年:1504年):73(49)歳:扇谷朝良・氏親らと共に立河原の戦いで山内顕定に勝利する。
    〇永正2年(1505年):74(50)歳:扇谷朝良が山内方に降伏、長享の乱終了。(同上)

  • 〇永正3年(1506年):75(51)歳:相模で初めて検地を実施。古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第一次抗争)。高基は下野宇都宮に逃れ岳父宇都宮成綱に庇護される。下野守護宇都宮成綱、高基の古河公方擁立を企て勢力拡大を図る。佐竹義舜、山入氏を滅ぼし、佐竹の乱終わる。<br />〇永正4年(1507年):76(52)歳:管領細川政元が養子細川澄之と家臣薬師寺長忠に暗殺される。細川氏の内訌はじまる。(永正の錯乱) 細川澄元が京を制圧。越後守護上杉房能が守護代長尾為景に殺害される。(同上)

    〇永正3年(1506年):75(51)歳:相模で初めて検地を実施。古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第一次抗争)。高基は下野宇都宮に逃れ岳父宇都宮成綱に庇護される。下野守護宇都宮成綱、高基の古河公方擁立を企て勢力拡大を図る。佐竹義舜、山入氏を滅ぼし、佐竹の乱終わる。
    〇永正4年(1507年):76(52)歳:管領細川政元が養子細川澄之と家臣薬師寺長忠に暗殺される。細川氏の内訌はじまる。(永正の錯乱) 細川澄元が京を制圧。越後守護上杉房能が守護代長尾為景に殺害される。(同上)

  • 〇永正5年(1508年):77(53)歳:今川勢を率いて三河に侵攻するが松平長親に敗れる。前将軍足利義稙が大内義興・細川高国とともに入京。将軍足利義澄は近江に逃亡し、義稙が将軍復帰。甲斐守護武田信虎、叔父の油川信恵一族を滅ぼす。今川氏親、遠江守護に任じられる。古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第二次抗争)。<br />〇永正6年(1509年):78(54)歳:武蔵に出兵して江戸城に迫る。管領山内顕定、越後に出兵し、長尾為景を佐渡に追う。(同上)

    〇永正5年(1508年):77(53)歳:今川勢を率いて三河に侵攻するが松平長親に敗れる。前将軍足利義稙が大内義興・細川高国とともに入京。将軍足利義澄は近江に逃亡し、義稙が将軍復帰。甲斐守護武田信虎、叔父の油川信恵一族を滅ぼす。今川氏親、遠江守護に任じられる。古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第二次抗争)。
    〇永正6年(1509年):78(54)歳:武蔵に出兵して江戸城に迫る。管領山内顕定、越後に出兵し、長尾為景を佐渡に追う。(同上)

  • 〇永正7年(1510年):79(55)歳:上田政盛を扇谷家から離反させ権現山城で挙兵させるが、両上杉方の反攻により敗北する。(権現山城の戦い) 山内顕定が長尾為景に討たれる。(長森原の戦い) 古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第三次抗争)。高基は下総関宿に移る。山内上杉家の上杉顕実・憲房兄弟が家督争いを起こす。(同上)

    〇永正7年(1510年):79(55)歳:上田政盛を扇谷家から離反させ権現山城で挙兵させるが、両上杉方の反攻により敗北する。(権現山城の戦い) 山内顕定が長尾為景に討たれる。(長森原の戦い) 古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第三次抗争)。高基は下総関宿に移る。山内上杉家の上杉顕実・憲房兄弟が家督争いを起こす。(同上)

  • 〇永正8年(1511年):80(56)歳:足利義澄が細川澄元とともに入京を図るが、急死する。船岡山合戦で義稙方が義澄方に勝利。澄元は没落。今川氏親、遠江の刑部城の戦いで尾張守護斯波義達に勝利。(同上)

    イチオシ

    〇永正8年(1511年):80(56)歳:足利義澄が細川澄元とともに入京を図るが、急死する。船岡山合戦で義稙方が義澄方に勝利。澄元は没落。今川氏親、遠江の刑部城の戦いで尾張守護斯波義達に勝利。(同上)

  • 〇永正9年(1512年):8(57)歳:相模の岡崎城と住吉城を攻略、三浦義同・義意父子を三崎城(新井城)に追い込む。足利高基、古河を制圧。足利政氏、下野小山に逃亡。宇都宮成綱、政氏方の家臣芳賀高勝を謀殺し宇都宮錯乱はじまる。山内憲房が山内顕実に勝利し、山内上杉家を継ぐ。顕実は実権を喪失した。(同上)

    〇永正9年(1512年):8(57)歳:相模の岡崎城と住吉城を攻略、三浦義同・義意父子を三崎城(新井城)に追い込む。足利高基、古河を制圧。足利政氏、下野小山に逃亡。宇都宮成綱、政氏方の家臣芳賀高勝を謀殺し宇都宮錯乱はじまる。山内憲房が山内顕実に勝利し、山内上杉家を継ぐ。顕実は実権を喪失した。(同上)

  • 〇永正11年(1514年):83(59)歳:宇都宮成綱、結城政朝の連合軍、竹林の戦いで政氏方の佐竹義舜・岩城由隆連合軍を破る。<br />〇永正12年(1515年):84(60)歳:山内上杉顕実死去。

    〇永正11年(1514年):83(59)歳:宇都宮成綱、結城政朝の連合軍、竹林の戦いで政氏方の佐竹義舜・岩城由隆連合軍を破る。
    〇永正12年(1515年):84(60)歳:山内上杉顕実死去。

  • 〇永正13年(1516年):	85(61)歳:三崎城(新井城)を攻略、相模三浦氏を滅ぼす。相模平定。上総の真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り、翌年まで転戦。宇都宮成綱、縄釣の戦いで政氏方の佐竹義舜・岩城由隆連合軍を破り、追い込む。高基の擁立に成功する。宇都宮成綱死去。(同上)

    〇永正13年(1516年): 85(61)歳:三崎城(新井城)を攻略、相模三浦氏を滅ぼす。相模平定。上総の真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り、翌年まで転戦。宇都宮成綱、縄釣の戦いで政氏方の佐竹義舜・岩城由隆連合軍を破り、追い込む。高基の擁立に成功する。宇都宮成綱死去。(同上)

  • 〇永正14年(1517年):86(62)歳:今川氏親、引馬城を攻略し、遠江を制圧。足利義明が下総小弓御所に入る。(小弓公方)佐竹義舜死去。<br />〇永正15年(1518年):	87(63)歳:家督を嫡男氏綱に譲る。伊勢(後北条)氏、虎の印判状の使用を開始。扇谷朝良死去。<br />〇永正16年	(1519年):88(64)歳:韮山城で死去。<br />*写真は、小田原城天守からの西方面の眺めです。

    〇永正14年(1517年):86(62)歳:今川氏親、引馬城を攻略し、遠江を制圧。足利義明が下総小弓御所に入る。(小弓公方)佐竹義舜死去。
    〇永正15年(1518年): 87(63)歳:家督を嫡男氏綱に譲る。伊勢(後北条)氏、虎の印判状の使用を開始。扇谷朝良死去。
    〇永正16年 (1519年):88(64)歳:韮山城で死去。
    *写真は、小田原城天守からの西方面の眺めです。

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