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旧東海道の名城巡りの小田原城と北条早雲についての紹介の続きです。早雲は生前に『北条早雲』と名乗ったことはなく、亡くなった後での呼び名です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、小田原城関連公式サイト)

2017初夏、旧東海道の日本百名城(2/14):小田原城(2):常盤木門、天守閣、展示室

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2017/07/14 - 2017/07/14

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旅行記グループ 2017夏、東海道の百名城巡り

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旅人のくまさん

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旧東海道の名城巡りの小田原城と北条早雲についての紹介の続きです。早雲は生前に『北条早雲』と名乗ったことはなく、亡くなった後での呼び名です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、小田原城関連公式サイト)

交通手段
新幹線

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  • 明応2年(1493年)4月、管領・細川政元が明応の政変を起こして10代将軍・義材(後に義稙)を追放し、清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立しました。清晃は還俗して義遐を名乗ります(後に義澄と改名)。権力の座に就いた義遐は母と弟の敵討ちを、幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ宗瑞に命じました。(同上)<br />*写真は、本丸正門の常盤木門です。昭和46年(1971年)に再建された門です。

    明応2年(1493年)4月、管領・細川政元が明応の政変を起こして10代将軍・義材(後に義稙)を追放し、清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立しました。清晃は還俗して義遐を名乗ります(後に義澄と改名)。権力の座に就いた義遐は母と弟の敵討ちを、幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ宗瑞に命じました。(同上)
    *写真は、本丸正門の常盤木門です。昭和46年(1971年)に再建された門です。

  • 宗瑞はこれを受けて、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃し、伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らがいち早く参じました。この事件は『伊豆討入り』といい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられています。後世の軍記物では、宗瑞は自ら修善寺に湯治と称して入り、伊豆の世情を調べたとします。(同上)<br />*写真は、常盤木門の内側の天井光景です。

    宗瑞はこれを受けて、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃し、伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らがいち早く参じました。この事件は『伊豆討入り』といい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられています。後世の軍記物では、宗瑞は自ら修善寺に湯治と称して入り、伊豆の世情を調べたとします。(同上)
    *写真は、常盤木門の内側の天井光景です。

  • 『伊豆討入り』は、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され、上野国の合戦に出て手薄になったのを好機としました。自らの手勢200人と、今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水浦を出港しました。なお、<br />氏親の代に今川氏は守護大名から戦国大名の段階へ移ったと言われます。(同上)<br />*写真は、常盤木門の内側の石垣光景です。<br /><br />

    『伊豆討入り』は、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され、上野国の合戦に出て手薄になったのを好機としました。自らの手勢200人と、今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水浦を出港しました。なお、
    氏親の代に今川氏は守護大名から戦国大名の段階へ移ったと言われます。(同上)
    *写真は、常盤木門の内側の石垣光景です。

  • 宗瑞が、駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸しますと、住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げました。宗瑞の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ちました。茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれたようです。宗瑞は、『伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めました。(同上)<br />*写真は、同じく常盤木門の内側の石垣光景です。落し積のようです。

    宗瑞が、駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸しますと、住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げました。宗瑞の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ちました。茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれたようです。宗瑞は、『伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めました。(同上)
    *写真は、同じく常盤木門の内側の石垣光景です。落し積のようです。

  • 宗瑞は、高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告しましとされます。た。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民は、たちまち彼に従った、とされます。(同上)<br />*写真は、常盤木門の周りの建物光景です。

    宗瑞は、高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告しましとされます。た。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民は、たちまち彼に従った、とされます。(同上)
    *写真は、常盤木門の周りの建物光景です。

  • そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、『伊豆一国は30日で平定された』と言われます。軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は、史書においては堀越御所から逃亡していて、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられ、数年にわたり伊勢氏に抵抗した、とも伝えます。(同上)<br />*写真は、『常盤木門』のタイトルの説明パネルです。

    そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、『伊豆一国は30日で平定された』と言われます。軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は、史書においては堀越御所から逃亡していて、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられ、数年にわたり伊勢氏に抵抗した、とも伝えます。(同上)
    *写真は、『常盤木門』のタイトルの説明パネルです。

  • 宗瑞は、伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1498年)8月に南伊豆にあった深根城(下田市)を落として、5年かかってようやく伊豆を平定しました。なお、同年の8月25日に明応の大地震と津波で伊豆・駿河両国は大被害を受けました。震災で深根城一帯も甚大な被害を受けました。<br />*写真は、『常盤木門』の周りの再建された虎口の光景です。

    イチオシ

    宗瑞は、伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1498年)8月に南伊豆にあった深根城(下田市)を落として、5年かかってようやく伊豆を平定しました。なお、同年の8月25日に明応の大地震と津波で伊豆・駿河両国は大被害を受けました。震災で深根城一帯も甚大な被害を受けました。
    *写真は、『常盤木門』の周りの再建された虎口の光景です。

  • 明応の大地震で、茶々丸は抵抗不可能になりました。宗瑞は、動員可能な少数の手勢で茶々丸を討ち取ったとみられています。この際、茶々丸を擁していた城主の関戸吉信らを皆殺しにしたと伝わります。関戸吉信は、下田市堀ノ内にあった『深根城』という山城の二代目城主でした。(同上)<br />*写真は、『常盤木門』の中から眺めた周りの光景です。

    明応の大地震で、茶々丸は抵抗不可能になりました。宗瑞は、動員可能な少数の手勢で茶々丸を討ち取ったとみられています。この際、茶々丸を擁していた城主の関戸吉信らを皆殺しにしたと伝わります。関戸吉信は、下田市堀ノ内にあった『深根城』という山城の二代目城主でした。(同上)
    *写真は、『常盤木門』の中から眺めた周りの光景です。

  • なお、茶々丸の死去地を甲斐国とし、深根城の皆殺しは別の出来事とする見方もあります。伊豆を平定する一方で、宗瑞は今川氏の武将として、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻し、中遠まで制圧しています。宗瑞は氏親と連携して領国を拡大しました。遠江(とおとうみ)は、現在の静岡県西部です。(同上)<br />*写真は、『常盤木門』の城門のズームアップの光景です。

    なお、茶々丸の死去地を甲斐国とし、深根城の皆殺しは別の出来事とする見方もあります。伊豆を平定する一方で、宗瑞は今川氏の武将として、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻し、中遠まで制圧しています。宗瑞は氏親と連携して領国を拡大しました。遠江(とおとうみ)は、現在の静岡県西部です。(同上)
    *写真は、『常盤木門』の城門のズームアップの光景です。

  • 『二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる』という霊夢を見たという話が、『北条記』に書かれています。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの宗瑞のことです。明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は宗瑞に援軍を依頼しました。扇谷側として宗瑞は、荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙しますが、定正が落馬して死去したことにより、撤兵しました。扇谷家は、相模の三浦氏と大森氏を支柱としていましたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去しました。(同上)<br />*写真は、『常盤木門』の石積光景です。隙間のない、『切込み接ぎ』です。

    『二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる』という霊夢を見たという話が、『北条記』に書かれています。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの宗瑞のことです。明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は宗瑞に援軍を依頼しました。扇谷側として宗瑞は、荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙しますが、定正が落馬して死去したことにより、撤兵しました。扇谷家は、相模の三浦氏と大森氏を支柱としていましたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去しました。(同上)
    *写真は、『常盤木門』の石積光景です。隙間のない、『切込み接ぎ』です。

  • 宗瑞は、茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦いました。同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち、小田原城を奪取しました。『北条記』によれば、宗瑞は大森藤頼に度々進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許すようになったようです。(同上)<br />*写真は、装飾と補強を兼ねた、『常盤木門』の柱下部の金具光景です。

    宗瑞は、茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦いました。同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち、小田原城を奪取しました。『北条記』によれば、宗瑞は大森藤頼に度々進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許すようになったようです。(同上)
    *写真は、装飾と補強を兼ねた、『常盤木門』の柱下部の金具光景です。

  • ある日、宗瑞は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許しました。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した宗瑞率いる伊勢氏の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちました。数万の兵が攻め寄せてきたものと怯えた小田原城勢は、大混乱になりなりました。藤頼は命からがら逃げ出しました。(同上)

    ある日、宗瑞は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許しました。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した宗瑞率いる伊勢氏の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちました。数万の兵が攻め寄せてきたものと怯えた小田原城勢は、大混乱になりなりました。藤頼は命からがら逃げ出しました。(同上)

  • こうして、宗瑞は易々と小田原城を手に入れたといいます。典型的な城盗りの物語です。似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らないとされます。『火牛の計』は、中国の戦国時代に斉の将軍・田単が用いた戦術です。教養を持つ知識層には知られていた可能性があり、これが事実用いられたか、武勇伝作りに利用されたとする説もあります。(同上)

    こうして、宗瑞は易々と小田原城を手に入れたといいます。典型的な城盗りの物語です。似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らないとされます。『火牛の計』は、中国の戦国時代に斉の将軍・田単が用いた戦術です。教養を持つ知識層には知られていた可能性があり、これが事実用いられたか、武勇伝作りに利用されたとする説もあります。(同上)

  • この宗瑞の小田原城奪取は、明応4年(1495年)9月とされていますが、史料によって年月が異なります。駿河台大学教授で歴史学者の『黒田基樹(1965~)』は、明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、山内顕定の書状に扇谷家の守備側として大森藤頼と宗瑞の弟弥二郎の名が見られることを根拠に、年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしています。(同上)

    この宗瑞の小田原城奪取は、明応4年(1495年)9月とされていますが、史料によって年月が異なります。駿河台大学教授で歴史学者の『黒田基樹(1965~)』は、明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、山内顕定の書状に扇谷家の守備側として大森藤頼と宗瑞の弟弥二郎の名が見られることを根拠に、年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしています。(同上)

  • また、『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した、千葉大学教授だった歴史学者の『佐藤博信(1946~)』も黒田と同様の見解を採るとともに、子の幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや、享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、伊勢氏の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定しています。(同上)

    また、『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した、千葉大学教授だった歴史学者の『佐藤博信(1946~)』も黒田と同様の見解を採るとともに、子の幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや、享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、伊勢氏の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定しています。(同上)

  • また、明応10年3月28日(文亀元年/1501年)に、宗瑞が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1か村と交換した文書が残されていて、この時点では伊勢氏が小田原城を既に領有していたとみられています。小田原城奪取など宗瑞の一連の行動は、茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったようです。(同上) *写真は、展示館の建物だったようです。

    また、明応10年3月28日(文亀元年/1501年)に、宗瑞が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1か村と交換した文書が残されていて、この時点では伊勢氏が小田原城を既に領有していたとみられています。小田原城奪取など宗瑞の一連の行動は、茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったようです。(同上) *写真は、展示館の建物だったようです。

  • しかし、近年の研究では義澄・細川政元・今川氏親・宗瑞の陣営と、足利義稙・大内政弘・足利茶々丸・武田信縄・上杉顕定の陣営、つまり明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきています。旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を宗瑞が騙し討ちしたとされますが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返ったためのものと考えられています。(同上)

    しかし、近年の研究では義澄・細川政元・今川氏親・宗瑞の陣営と、足利義稙・大内政弘・足利茶々丸・武田信縄・上杉顕定の陣営、つまり明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきています。旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を宗瑞が騙し討ちしたとされますが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返ったためのものと考えられています。(同上)

  • 明応8年(1498年)、宗瑞は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功しました。なお、茶々丸を討った場所は、伊豆国の深根城とする説もあります。宗瑞は、今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501~1504年)には、三河にまで進んでいます。『柳営秘鑑』によれば、文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城(愛知県岡崎市岩津町)下で松平長親(徳川家康の高祖父)、と戦って敗北しています。(同上)

    明応8年(1498年)、宗瑞は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功しました。なお、茶々丸を討った場所は、伊豆国の深根城とする説もあります。宗瑞は、今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501~1504年)には、三河にまで進んでいます。『柳営秘鑑』によれば、文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城(愛知県岡崎市岩津町)下で松平長親(徳川家康の高祖父)、と戦って敗北しています。(同上)

  • 宗瑞の三河侵攻は、失敗に終わっています。松平方の先陣の酒井氏、本多氏、大久保氏の働きがあったとされます。ただし、徳川実紀では永正3年(1506年)8月20日のこととされている。先ほど紹介した『柳営秘鑑』は、江戸幕府の年中行事、諸士勤務の執務内規、格式、故事、旧例などを記した全10巻の書物です。幕臣の菊池弥門が著し、寛保3年(1743年)に成立しました。(同上)

    宗瑞の三河侵攻は、失敗に終わっています。松平方の先陣の酒井氏、本多氏、大久保氏の働きがあったとされます。ただし、徳川実紀では永正3年(1506年)8月20日のこととされている。先ほど紹介した『柳営秘鑑』は、江戸幕府の年中行事、諸士勤務の執務内規、格式、故事、旧例などを記した全10巻の書物です。幕臣の菊池弥門が著し、寛保3年(1743年)に成立しました。(同上)

  • その後、宗瑞は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出しましたが、伊豆・西相模を失った山内家の上杉顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・宗瑞の政治的な立場が弱くなりました。さらに『細川政元(1466~1507年)』が、今川氏と対立関係にある遠江守護・斯波義寛と顕定の連携を図ったことから、両者の挟撃も警戒されるようになりました。(同上)

    その後、宗瑞は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出しましたが、伊豆・西相模を失った山内家の上杉顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・宗瑞の政治的な立場が弱くなりました。さらに『細川政元(1466~1507年)』が、今川氏と対立関係にある遠江守護・斯波義寛と顕定の連携を図ったことから、両者の挟撃も警戒されるようになりました。(同上)

  • 名前:『アジサイ(紫陽花)』<br />分類:アジサイ科アジサイ属<br />分布:日本原産のガクアジサイが品種改良され、西洋紫陽花になったようです。<br />その他:茜色を帯びた西洋アジサイです。(同上)

    名前:『アジサイ(紫陽花)』
    分類:アジサイ科アジサイ属
    分布:日本原産のガクアジサイが品種改良され、西洋紫陽花になったようです。
    その他:茜色を帯びた西洋アジサイです。(同上)

  • それでも氏親と宗瑞は、今度は義稙-大内陣営に与し、徐々に相模に勢力を拡大していきました。こうした関東進出の大きな画期となったのは、永正元年(1504年)8月の『武蔵立河原の戦い』でした。上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞らの連合軍との間で行われた合戦です。扇谷定正の甥で扇谷家当主上杉朝良に味方した宗瑞は、氏親と共に出陣して勝利しました。(同上)

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    それでも氏親と宗瑞は、今度は義稙-大内陣営に与し、徐々に相模に勢力を拡大していきました。こうした関東進出の大きな画期となったのは、永正元年(1504年)8月の『武蔵立河原の戦い』でした。上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞らの連合軍との間で行われた合戦です。扇谷定正の甥で扇谷家当主上杉朝良に味方した宗瑞は、氏親と共に出陣して勝利しました。(同上)

  • 『武蔵立河原の戦い』での敗戦後、上杉顕定は弟の越後守護上杉房能と同守護代長尾能景の来援を得て反撃に出ました。相模へ乱入して、扇谷家の諸城を攻略しました。翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた朝良は降伏しました。これにより、伊勢氏は山内家、扇谷家の両上杉家と敵対することになります。永正3年(1506年)、宗瑞は相模で検地を初めて実施し、支配の強化を図りました。(同上)

    『武蔵立河原の戦い』での敗戦後、上杉顕定は弟の越後守護上杉房能と同守護代長尾能景の来援を得て反撃に出ました。相模へ乱入して、扇谷家の諸城を攻略しました。翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた朝良は降伏しました。これにより、伊勢氏は山内家、扇谷家の両上杉家と敵対することになります。永正3年(1506年)、宗瑞は相模で検地を初めて実施し、支配の強化を図りました。(同上)

  • 永正4年(1507年)には、管領・細川政元が、排除されたことを恨んだ養子・細川澄之により暗殺されるという「永正の錯乱」が起きます。直後に、政元と結んでいた越後守護・上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される事件が起きます。政元勢力の変動を機とした足利義稙は、永正5年(1508年)、大内義興の軍勢と共に義澄を追って京に返り咲きました。(同上)

    永正4年(1507年)には、管領・細川政元が、排除されたことを恨んだ養子・細川澄之により暗殺されるという「永正の錯乱」が起きます。直後に、政元と結んでいた越後守護・上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される事件が起きます。政元勢力の変動を機とした足利義稙は、永正5年(1508年)、大内義興の軍勢と共に義澄を追って京に返り咲きました。(同上)

  • これらの動きにより、氏親と宗瑞に室町幕府からの圧迫が無くなり、宗瑞は為景や長尾景春と結んで顕定を牽制しました。永正6年(1509年)以降は、今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、相模進出に集中します。ただし、少なくとも永正9年(1512年)頃まで駿府への訪問が確認でき、同年には山内顕定に反抗する長尾景春の駿河亡命に宗瑞が関わったようです。(同上)

    これらの動きにより、氏親と宗瑞に室町幕府からの圧迫が無くなり、宗瑞は為景や長尾景春と結んで顕定を牽制しました。永正6年(1509年)以降は、今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、相模進出に集中します。ただし、少なくとも永正9年(1512年)頃まで駿府への訪問が確認でき、同年には山内顕定に反抗する長尾景春の駿河亡命に宗瑞が関わったようです。(同上)

  • 先ほど紹介した『長尾景春(1443~1514年)』は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将で、白井長尾氏5代当主です。宗瑞と並ぶ関東における戦国武将の一人です。文明5年(1473年)に父・景信が死去すると白井長尾家を継ぎますが、山内上杉家当主・上杉顕定の家宰の地位は叔父で総社長尾氏当主の長尾忠景が継ぐこととなりました。このことに不満を抱き、やがて顕定や忠景を憎悪したようです。(同上)

    先ほど紹介した『長尾景春(1443~1514年)』は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将で、白井長尾氏5代当主です。宗瑞と並ぶ関東における戦国武将の一人です。文明5年(1473年)に父・景信が死去すると白井長尾家を継ぎますが、山内上杉家当主・上杉顕定の家宰の地位は叔父で総社長尾氏当主の長尾忠景が継ぐこととなりました。このことに不満を抱き、やがて顕定や忠景を憎悪したようです。(同上)

  • 永正6年(1509年)7月、山内上杉家11代当主の『顕定(あきさだ:1454~1514年)』は大軍を率いて越後へ出陣しました。宗瑞は、同年8月にこの隙を突いて扇谷上杉家の本拠地・江戸城に迫りました。上野に出陣していた扇谷朝良は兵を返して、翌永正7年(1510年)まで武蔵、相模で戦いました。宗瑞は、権現山城(横浜市神奈川区)の上田政盛を扇谷家から離反させましたが、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城しました。(同上)<br />*写真は、小田原城天守の出入り口付近の光景です。

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    永正6年(1509年)7月、山内上杉家11代当主の『顕定(あきさだ:1454~1514年)』は大軍を率いて越後へ出陣しました。宗瑞は、同年8月にこの隙を突いて扇谷上杉家の本拠地・江戸城に迫りました。上野に出陣していた扇谷朝良は兵を返して、翌永正7年(1510年)まで武蔵、相模で戦いました。宗瑞は、権現山城(横浜市神奈川区)の上田政盛を扇谷家から離反させましたが、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城しました。(同上)
    *写真は、小田原城天守の出入り口付近の光景です。

  • 『小田原城天守図』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。小田原城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいました。難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた堅城です。現在の建物は再建されたものです。(同上)

    『小田原城天守図』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。小田原城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいました。難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた堅城です。現在の建物は再建されたものです。(同上)

  • 三浦義同(道寸)が伊勢氏方の住吉要害(平塚市)を攻略して、小田原城まで迫ったため、宗瑞は扇谷家との和睦で切り抜けました。一方、同年6月20日には越後に出陣していた顕定が長尾為景の逆襲を受けて敗死、死後に2人の養子顕実と憲房の争いが発生しました。古河公方家でも足利政氏・高基父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われました(永正の乱)。(同上)

    三浦義同(道寸)が伊勢氏方の住吉要害(平塚市)を攻略して、小田原城まで迫ったため、宗瑞は扇谷家との和睦で切り抜けました。一方、同年6月20日には越後に出陣していた顕定が長尾為景の逆襲を受けて敗死、死後に2人の養子顕実と憲房の争いが発生しました。古河公方家でも足利政氏・高基父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われました(永正の乱)。(同上)

  • 三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していましたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされました。しかし、傍流は相模の豪族として続き、大きな力を持っていました。この頃の三浦氏は扇谷家に属し、義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)が本拠でした。(同上)<br />*写真は、展示館の入口付近にあった『江戸時代の小田原城』の大きな絵図です。

    三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していましたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされました。しかし、傍流は相模の豪族として続き、大きな力を持っていました。この頃の三浦氏は扇谷家に属し、義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)が本拠でした。(同上)
    *写真は、展示館の入口付近にあった『江戸時代の小田原城』の大きな絵図です。

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