2017/07/14 - 2017/07/14
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旧東海道の名城巡りです。小田原城の次は、駿府城の見学です。将軍職を譲った後も、家康公が大御所として江戸幕府の采配を振るったお城です。その前段として、今川義元を紹介します。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、駿府城関連公式サイト)
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小田原駅から到着した静岡駅の光景です。駅の北側方面にある駿府城に歩いて向かう前に、振り返って眺めた駅舎の光景です。駿府城は、若かりし頃の『徳川家康(1543年~1616年)』が、今川家の人質として過ごしたお城です。征夷大将軍職を秀忠に譲った翌年の慶長11年(1606年)のことです。家康は、隠居城と決めた駿府城を、西国の外様大名を動員して、天下普請で大改修しました。(同上)
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隠居した家康は、大御所と呼ばれましたが、政治権力は持ち続けました。駿府城は、今川氏全盛期9代義元の時代天文18年(1549年)に、家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間を駿府で過ごしたお城です。家康は、戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で、今川家の軍師で、臨済寺の住職も務めた太原雪斎から種々の教えを受けたとも言われ、重要な時期を駿府で過ごしました。(同上)
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駿府城のお堀がある場所に到着しました。先ほどの『太原雪斎(たいげん・せっさい:1496~1555年)』について、もう少し紹介しておきます。雪斎は、戦国時代の武将で政治家、そして禅僧でした。今川義元の家督相続に尽力し、相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げました。1560年の桶狭間の戦いの前に亡くなったのが今川家にとっては不運でした。(同上)
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お堀端の散策をしながら、雪斎の紹介を続けます。父は庵原城主・庵原政盛、母は興津横山城主・興津正信の娘です。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族でした。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し、海賊(水軍)も率いていました。両家とも今川氏の譜代の重臣でした。禅師としては、後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡されています。(同上)
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雪斎が、義元と初めて出会ったのは大永2年(1522年)頃のこととされます。はじめ雪斎は、『九英承菊(きゅうえい・しょうぎく)』と名乗り、駿河富士山麓の善得院(現在の臨済寺)に入寺し、幼名を芳菊丸時代の義元の教育係を務めました。後に京都五山の建仁寺で修行をしました。この頃から、雪斎は秀才として将来を嘱望されていたと言われます。(同上)
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主君の今川氏親から、帰国して今川家に仕えるよう要請されますが、一説にはこの要請を2度までも断ったと伝えられます。享禄3年(1530年)、建仁寺の師である常庵龍崇により『芳菊丸(義元)』が得度の儀式を行い、承芳と名を改めます。2人はさらなる修行のため、大永5年(1525年)と天文2年(1533年)の2度に亘って上洛し、善得院から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移りました。(同上)
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天文5年(1536年)3月、今川氏輝が死去、跡継がいなかったため、氏親の三男・玄広恵探と、氏親の五男の義元のあいだで家督争いが起きました。雪斎は義元の家督相続に尽力し、籠城戦で玄広恵探を自刃に追い込みました。こうして出家していた義元は還俗して11代当主に就任しました。(同上)
*写真は、『二の丸・巽櫓(たつみやぐら』の光景です。 -
義元は、雪斎を厚く信頼し、政治や軍事の最高顧問として重用することになりました。今川家の執権となった雪斎は、僧でありながら全面的に義元を補佐しました。
義元も雪斎に手厚い庇護を与え、今川家は全盛期を迎えます。天文15年(1546年)織田信長の父・織田信秀と激突しましたが、雪斎の活躍がありました。(同上)
*写真は、『二の丸・東御門橋』の光景です。 -
雪斎は、今川軍を指揮して三河田原城を落城させたのち、三河小豆坂で織田軍を破りました。天文18年(1549年)には三河の安祥城を攻撃して織田信広を捕らえ、信秀と交渉して織田家に奪われていた人質・松平竹千代(後の家康)を取り戻しました。今川家は、織田家を抑えて、西三河の支配権を獲得しました。(同上)
*写真は、『駿府城』のタイトルがあった立派な説明看板です。 -
天文19年(1550年)、武田家との政略結婚で迎えられた義元の正室・定恵院が亡くなり、今川家と武田家の婚姻関係が途絶えてしまいました。そのため雪斎の働きにより、武田信玄の嫡子・義信に、義元の長女・嶺松院を正室として嫁がせ同盟関係を維持しました。(同上)
*写真は、『二の丸・東御門橋』と、その先の枡形虎口の光景です。 -
雪斎は、天文23年(1554年)、甲斐・武田家、相模・北条家とともに甲相駿三国同盟を締結しました。これにより今川家は東側に懸念がなくなり、西方面への進軍に集中できるようになりました。今川家の執権として活躍した雪斎ですが、僧侶としても功績を残しました。この後、紹介します。(同上)
*写真は、『二の丸・東御門橋』の先の枡形虎口の光景です。 -
天文14年(1545年)、雪斎は高僧を招いて駿府に臨済寺を開き、2代目の住職に就任しました。また天文19年(1550年)には京都・妙心寺の35代目の住職にも就いています。僧侶としても幅広く活躍しました。雪斎は臨済宗の僧侶として有名ですが、この時代は多くの寺が興され、その中でも妙心寺派が普及したようです。(同上)
*写真は、同じく『二の丸・東御門橋』の先の枡形虎口の光景です。 -
天文22年(1553年)、義元は今川家の分国法『今川仮名目録』33か条に、『仮名目録追加21条』を制定して補訂しました。雪斎はこの制定にも尽力しています。これは今川家と盟友関係だった武田家の分国法『甲州法度次第』にも影響を与えたといわれています。義元に尽くし、今川家になくてはならない存在だった雪斎です。(同上)
*写真は、『二の丸・東御門』から眺めた城内方面の光景です。 -
雪斎は、領内の寺社や宗教を統制して商人を保護する商業政策を行ったり、中国の史書を印刷したりと、雪斎は僧侶の立場からも今川家の最盛期に貢献しました。黒衣の宰相とも言われ、武田家の軍学書『甲陽軍鑑』によれば、武田家の軍師・山本勘助は「今川家は雪斎がいなくてはならない家である」と評価しています。(同上)
*写真は、『東御門』のタイトルがあった、まだ新しい説明看板です。 -
徳川家では、家康は「義元は雪斎と話し合って両国経営しているので家老の威権が弱い。雪斎が亡くなったら国政は整わないだろう」と評したとされます。雪斎は、名だたる戦国武将らも認めた義元の右腕でした。信憑性は問われていますが、雪斎は織田家から今川氏のもとに取り戻した、人質時代の家康の学問・軍学の師匠だったという説があり、最初に少し紹介しました。両国とは、駿河と遠江国です。(同上)
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雪斎の教えは、義元の大名としての心得を示した『御屋形対諸宗礼之事』から窺い知ることができます。雪斎は、徳のある僧侶なら形式など下らないものにこだわらず尊敬するとし、禅師・上人などの号におごって堕落する高僧を非難しています。今川家を支えた雪斎は、外面にこだわらない合理主義者、あるいは本質を見抜いて自ら判断できる人だったかも知れません。(同上)
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雪斎の紹介が長くなってしまいましたが、次は1560年の長篠の戦で信長軍に敗れた、雪斎の主君の『今川義元(1519~1560年)』についての紹介です。締め括りは、『徳川家康(1542~1616年)』の予定です。義元は今川氏第11代当主で、姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたります。(同上)
*写真は、『紅葉山庭園』の光景です。この後も続きます。 -
義元は、『海道一の弓取り』の異名を持つ、東海道の広大な地域の支配者でした。姓名は『源義元』です。寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させました。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させ、戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げました。(同上)
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義元は、永正16年(1519年)、駿河今川家の第9代当主の氏親(1471/73~1526年)の三男として生まれました。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)です。生まれた時、既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝、および彦五郎がいたために4歳で仏門に出されました。駿河国富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられました。(同上)
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享禄2年(1529年)に承舜が没したため、彼の弟子だった九英承菊(後の太原雪斎)がその役割を継承しました。その後、雪斎と共に京都・東山の建仁寺に入り、常庵龍崇
の元で得度し、『栴岳承芳(せんがく・しょうほう)』となりました。さらに雪斎と共に妙心寺で『大休宗休(だいきゅう・そうきゅう:1468~1549年)』に学び、学識を深めました。(同上) -
その後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻りますが、その直後の天文5年(1536年)に、兄で今川家第10代当主の氏輝(1513~1536年)が急死しました。この時点では、まだ兄の彦五郎がいたために継承権はありませんでしたが、兄の彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したため、継承権が巡ってきました。熊しいことは分かりませんが、隠された事情があったかも知れません。(同上)
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氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は、主君である12代将軍・足利義晴から偏諱を賜り、義元と名乗りました。しかし、当主継承は有力家臣の福島氏の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を当主として掲げて反旗を翻し、『花倉の乱(はなくらのらん)』となりました。(同上)
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『花倉の乱』後、義元は家督継承者として『彦五郎』を名乗ったようです。恵探側は、今川館に攻め寄せる等攻勢をみせましたが、太原雪斎・岡部親綱ら義元側の家臣団の奮戦に苦戦が続きました。加えて義元側が伊豆国(静岡県伊豆半島)・相模国(神奈川県西南部)を領する後北条氏からの支援を得ることに成功しました。(同上)
*写真は、紅葉山庭園の池で咲く、睡蓮の光景です。 -
恵探側は、一層敗色が濃厚となり、花倉城の陥落を以って、恵探は自害しました。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は、第11代今川氏当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えました。天文6年(1537年)2月、氏輝期まで抗争状態にあった甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結びました(甲駿同盟)。(同上)
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周囲の守りを固める目的で行われた甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として、自らの当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買うことになりました。同年同月、北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻しました(第一次河東一乱)。花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えず、河東(現在の静岡県東部)を奪われました。(同上)
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義元は、武田の援軍と連帯して領土奪還を試みましたが、花倉の乱で恵探側に組した堀越氏・井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが義元から離反したため、家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥り、河東は北条氏に占領されたまま長期化の様相を見せました。(同上)
*写真は、紅葉山公園内の茶室の光景です。 -
北条氏が関東方面への侵攻に集中したことで徐々に今川氏との緊張関係は和らぎました。一方、三河においては西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れることになりました。この際、護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主・戸田康光が裏切って、竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまう事件が起きています。(同上)
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天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻してきますが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝しました(第二次小豆坂の戦い)。永禄元年(1558年)、義元は氏真に家督を譲り隠居します。義元は新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力を注ぎました。(同上)
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永禄3年(1560年)5月、2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始しました。織田方に身動きを封じられた大高城救援のため、大高周辺の織田方諸砦を落しました。前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させます。しかしその途上、桶狭間山で休息中に織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に討たれました。享年42でした。(同上)
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織田方に討ち取られた首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣・岡部元信と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻りました。義元の戦死により氏真が後を継ぎましたが、この混乱に乗じて松平元康(後の徳川家康)が西三河で自立しました。今川氏は、見る見るうちに衰退し、義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は駿河・遠江を追われ、大名としての今川家は滅亡しました。(同上)
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