2017/07/14 - 2017/07/14
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旧東海道の名城巡りの小田原城の紹介です。小田原城は明治維新後の明治3年( 1870 年)に廃城となり、天守閣は払い下げられ解体されました。現在の天守は、昭和35年(1960年)に再建されたものです。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、小田原城関連公式サイト)
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小田原城は、室町時代に西相模に進出した大森氏が築いた城郭が前身とされます。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。1500年頃、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。(同上)
*写真は、小田原城天守から眺めた、かつての城下町跡の光景です。 -
小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え、城と城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達しました。しかし、天正18年(1590年)、石垣山(一夜城)の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。(同上)
*写真は、小田原城天守から眺めた、山手方面の光景です。 -
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参陣した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城の一部は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。貞享3年(1686年)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。(同上)
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小田原城は、明治3年(1870年)に廃城となり、明治5年(1872年)までに城内の多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年(1901年)には、二の丸に御用邸が建てられました。しかし、大正12年(1923年)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。(同上) *写真は太平洋が見える南方向の光景です。
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その後、昭和9年(1934年)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960年)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。続いて昭和46年(1971年)3月に常盤木門、平成9年(1997年)10月に銅門、平成21年(2009年3月には馬出門が完成しました。小田原城は、昭和13年(1938年)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959年)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されました。(同上)
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現代までの小田原城の略歴を紹介しましたが、江戸時代の前に遡り、『北条五代』と呼ばれる歴代城主を紹介しておきます。戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。歴代当主五人は、北条五代と呼ばれています。明応4年(1495年)、関東で理想の国家を作ろうと、大森氏を退け、北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆韮山から小田原城に入りました。(同上)
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以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。二代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。(同上)
*写真は、小田原城天守から眺めた太平洋の光景です。 -
そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年(1590年)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は滅亡しました。(同上)
*写真は、小田原城天守から眺めた東方面の小河原城下の光景です。 -
〇『北条五代』の紹介です。最初は『伊勢宗瑞(後の北条早雲)』です。備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた備中伊勢氏の出身です。伊勢宗瑞と名乗り室町幕府に出仕していました。長享元年(1487年)以降は駿河(静岡県)の大名・今川氏に仕え、明応2年(1493年)には、将軍足利義政の甥の茶々丸を堀越御所から追い伊豆(静岡県)へ進出しました。(同上、続く)
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伊豆一国を治める戦国大名となった早雲は、15世紀末期(通説では明応4年(1495年)に相模小田原(神奈川県小田原市)へ進出し、その後相模一国を平定します。なお、早雲には、享年64説と、享年88説があり、決着がついていないようですから、この旅行記では併記して、紹介しています。(同上)
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〇北条氏綱(2代目:1487~1541年):氏綱は早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入ったと見られています。早雲没後本城を小田原城に移し、伊勢から北条への改姓、虎朱印状の創出など、北条氏の基盤を設備した人物です。また、領国を武蔵(東京都・埼玉県)、駿河、下総(千葉県の一部)にまで拡大し、東国の盟主としての地位を確立しました。(同上)
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〇北条氏綱(2代目:続き):『勝って兜の緒を締めよ』の遺言でも知られる賢人です。当初は伊勢氏を称していて、北条氏を称するようになるのは父・宗瑞の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からのようです。宗瑞は北条氏を称することは生涯なかったものの、後北条氏としては氏綱を2代目と数えています。(同上)
*写真は、小田原城天守から眺めた、山並みが見える北方面の光景です。 -
〇北条氏康(3代目:1515~1571年):三代氏康は氏綱の死後家督を継承し、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えたことで知られています。天文15年(1546年)には氏康の名を著名にした河越合戦に勝利することで、山内・扇谷の両上杉氏を関東から排除し、その勢力範囲は上野(群馬県)に拡大しました。(同上)
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〇北条氏康(3代目:続き):関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮しました。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いました。(同上)
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〇北条氏政(4代目:1538/39~1590年):四代氏政は氏康存命中の永禄3年(1560年)に家督を継承しています。永禄4年(1561年)の上杉謙信、永禄12年(1569年)の武田信玄による小田原攻めを退けました。氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高実力者として君臨しますが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの敗北により切腹しました。(同上)
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〇北条氏政(4代目:続き):父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。今川義元の甥にあたる。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたります。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招きました。(同上)
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〇北条氏直(5代目:1562~1591年):五代氏直は氏政存命中の天正8年(1580年)に家督を継承しました。天正10年(1582年)には武田氏が滅亡し、次いで織田信長が亡くなり、上野、下野(栃木県)方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達しました。しかし、小田原合戦の敗北の後、高野山へ追放され、その翌年に亡くなりました。(同上)
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〇北条氏直(5代目:続き):父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院です。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げましたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉しました。生存していれば翌年には秀吉より伯耆一国を与えられ、国持大名としても復活が予定されていたとする説があり、赦免後に元国持大名の旧織田信雄邸を与えられているなどの根拠もあります。(同上)
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北条五代の紹介を終えて、次は、豊織時代から江戸時代にかけての小田原城主の紹介です。その前に、北条五代の前後の歴史を簡単に紹介しておきます。
◆大森時代(応永24年:1417年):上杉禅秀の乱後、関東公方・足利持氏が小田原周辺の領地を駿河(静岡県)の大森頼春に与えました。
〇大森時代(享徳3年:1454年):八幡山に小田原城築城されたようです。(同上) -
◆後北条時代:既に紹介した、伊勢宗瑞(北条早雲)の明応4年(1495年)から始まり、最後の第5代北条氏直の天正18(1590年)の時代です。約95年間でした。
◆小田原北条氏滅亡の1590年から江戸時代初期:前期大久保時代:天正18年(1590年)に、4万5千石で城主となりました。大久保忠隣が文禄3年(1594年)に跡を継ぎましたが、改易になりました。(同上) -
◆城番時代(慶長19年:1614年):小田原城は番城となりました。
〇元和5年(1619年):阿部正次が5万石で城主となりました。
〇元和9年(1623年):再び城代が置かれます。(近藤秀用、高木正成)
〇寛永2年(1625年):小田原城を秀忠の隠居城とする計画がありました。(同上)
*写真は、実物大の木組み模型のようです。 -
◆城番時代から城主となった稲葉時代に代りました。
〇寛永9年(1632年):稲葉正勝が8万5千石で城主となりました。
〇寛永10年(1633年):稲葉正則城主の1月に駿豆相大地震により小田原城に被害。
〇寛永11年(1634年):小田原城の公儀普請、各所に改造を加えました。(同上)
*写真は、先ほど紹介した小田原城天守閣の木組みの説明文です。 -
〇寛永20年(1643年):大手・二の丸・馬屋曲輸の櫓の建造及び天守新築の許可。
〇寛文12年(1672年):小田原城近世化の最終的な計画がなされ、箱根口門、馬出門などの桝形変更や曲輪 石垣積み足しが行なわれました。
〇延宝3年(1675年):小田原城近世化工事が完了しました。(同上)
*稲葉正勝の母は、三代将軍家光の乳母の『春日局』です。 -
◆稲葉時代から、後期大久保時代に代りました。
〇貞享3年(1686年):大久保忠朝が城主となり、加増され10万3千石でした。
〇元禄15年(1702年):曲輸の名称を変更、この頃宮内庁図成立。
〇元禄16年(1703年): 南関東駿豆地震、石垣が崩れ、天守等が類焼。
〇宝永3年(1706年):小田原城の修復が完成。 -
〇宝永4年(1707年):富士山が噴火して火山灰が降下、小田原藩内に甚大な被害。
*大久保忠方から忠興、忠由、忠顕の四代の間、特記事項なし。
〇天明2年(1782年):忠顕の治世時代に武相大地震、天守が傾き石垣崩壊。
〇文化14年(1817年):忠真の治世下、小田原城下に大火、住吉橋が類焼。
*写真は、『摩利支天と天守七尊』の写真と紹介文です。 -
イチオシ
〇天保14年(1843年):忠真の治世下、天保地震。
〇嘉永3年(1850年):韮山代官江川英竜の指導で海岸に台場を築く(嘉永5年完成)
〇嘉永6年(1853年):忠礼の治世下、嘉永大地震、城の各所に被害。(同上)
*写真は、『鉄叩塗雪下胴(安土桃山時代・雪下政真作)』です。米沢藩(山形県米沢市)の上杉家家中に伝来した雪下五枚胴です。 -
イチオシ
『本小刷威腹巻』
〇室町時代後期(末期とも)
〇白、赤、紫糸を使った色々縅です。
〇黒漆塗り
〇奈良小札とも呼ばれる、幅の狭い小札が特徴とされます。 -
『鉄叩塗雪下胴』の説明文です。
〇安土桃山時代(天正14年:1586年)
〇雪下政真作(現存確認された2つの内の1つ)
〇後胴裏に『八幡大菩薩』の神号を刻印。
〇草摺は、11間6段。 -
『本小刷威腹巻』の説明文です。
〇室町時代後期(末期とも)
〇城、赤、紫糸を使った色々縅です。
〇黒漆塗り。
〇奈良小札とも呼ばれる、幅の狭い小札が特徴とされます。 -
イチオシ
『鉄伊予札黒漆塗黒糸素懸威腹巻』
〇室町時代中期
〇鉄伊予札を前立と後立に使用。
〇黒漆塗り。
〇肩上げは、牛の皮を芯。
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