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旧東海道の名城巡り、駿府城紹介の続きです。今川義元に続いて、徳川家康の紹介です。略年表を紹介した後で、特に重要な出来事をピックアップして紹介します。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、駿府城関連公式サイト)
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徳川家康の紹介は、紹介することが多過ぎますので、略年表から始めます。
〇天文11年(1543年):12月26日、三河国岡崎城で誕生。
〇永禄3年(1560年):5月19日(19歳):桶狭間の戦い。
〇永禄5年(1562年):1月15日(21歳):清洲城を訪問し、織田信長と同盟を結ぶ。
〇永禄9年(1567年):12月29日(25歳):藤原徳川氏に改姓。従五位下・三河守。 -
〇元亀元年(1570年):6月28日(29歳):姉川の戦い。
〇元亀3年(1572年):10月16日(31歳):二俣城の戦い。
〇元亀3年(1573年):12月22日(31歳):三方ヶ原の戦い。
〇天正3年(1575年):5月(34歳):長篠の戦い。
〇天正5年(1578年):12月29日(36歳):従四位下・右近衛権少将。 -
〇天正10年 (1582年):6月2日(41歳):本能寺の変、神君伊賀越え。
〇天正11年 (1583年):10月7日(42歳):正四位下・左近衛権中将(遡及)。
〇天正12年 (1584年):3~4月(43歳):小牧・長久手の戦い。
〇天正14年(1586年):10月4日(45歳):権中納言。
〇天正14年(1586年):10月27日(45歳):大坂城で豊臣秀吉に臣従。 -
〇天正15年(1587年):8月8日(46歳):従二位権大納言。羽柴氏を下賜。
〇天正15年(1588年):12月28日(47歳):左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任。
〇天正16年(1588年):1月13日(47歳):左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞。
〇天正18年(1590年):8月(49歳):関東移封。八月朔日、江戸城に入る。
〇天正20年(1592年):9月16日(51歳):豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。 -
〇慶長元年(1596年):5月8日(55歳):正二位・内大臣。
〇慶長5年(1600年):9月15日(59歳):関ヶ原の戦い。
〇慶長7年(1602年):1月6日(61歳):従一位。
〇慶長8年(1603年):2月12日(62歳):右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。
〇慶長8年(1603年):10月16日(62歳):右大臣辞任。 -
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〇慶長10年(1605年):4月16日(64歳):征夷大将軍辞職・源氏長者は留任。
〇慶長19年(1614年):3月8日(73歳):朝廷からの太政大臣(准三后)の内旨辞退。
〇慶長19年(1614~1615年):11~12月(73歳):大坂冬の陣。
〇慶長20年/元和元年(1615年):5月(74歳):大坂夏の陣。
〇元和元年(1615年):7月7日(74歳):武家諸法度制定。 -
〇元和元年(1615年):7月17日(74歳):禁中並公家諸法度制定。
〇元和2年(1616年):3月17日(75歳):太政大臣。
〇元和2年(1616年):4月17日(75歳):死去。
〇元和3年(1617年):3月9日:贈正一位。 (以上、同上)
次に、家康公に関する主な出来事を、ピックアップして紹介します。 -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その1)
〇生い立ち:天文11年(1542年)、岡崎城主松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれました。生母は緒川城主水野忠政の娘・大子(伝通院)、幼名は竹千代(たけちよ)、
3歳のころ、水野忠政没後に当主となった水野信元(大子の兄)が尾張国の織田氏と同盟し、織田氏と敵対する広忠は大子を離縁、竹千代は3歳で母と生き別れ。(同上) -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その2)
〇天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られます。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りで、尾張国の織田信秀へ送られました。しかし広忠は今川氏への従属を貫き、竹千代は人質として2年間尾張国熱田に留め置かれました。(同上) -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その3)
〇熱田で人質の時代、織田信長と知り合ったという伝説があり、小説の題材になっていますが、資料はないようです。近年の研究では、天文16年9月に岡崎城が織田氏により攻略されたとする文書の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上しています。(同上) -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その4)
〇若くして松平広忠(1526~1549年)が亡くなります。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換で竹千代を取り戻しました。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配されました。竹千代は、墓参りと称して岡崎城に帰参した際、本丸には入れず、二の丸に入りました。(同上) -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その5):元服
〇天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜り元信を名乗り、次郎三郎を称しました。弘治2年(1556年)もしくは3年(1557年)頃、今川義元の姪にあたる関口親永の娘(築山殿)を娶りました。弘治4年(1558年)頃、祖父・松平清康の名の一字をとり、元康と改め、仮名も蔵人佐と称しました(同上) -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その6⑦):今川氏と吉良氏との関係
〇吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与えました。松平信忠は吉良義信、松平清康は吉良持清、松平広忠は吉良持広の偏諱を得たと推定されています。今川義元は吉良氏に代わって、安祥松平氏の次期当主に対して自らの偏諱を与え、自らの一門に組み込みました。(同上) -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その7):今川氏と吉良氏との関係
〇吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられます。当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きていました(三河忩劇)。(同上)
*写真は、一休み中の『カルガモ(軽鴨)』さんです。 -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その8):初陣
永禄元年(1558年)2月5日には、今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めました。これがのちの家康となる元康の初陣です。城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めました(寺部城の戦い)。(同上)
*写真は、『フイリギボシ(斑入り擬宝珠)』です。 -
◆幼年期から青年期の主な出来事(その9):初陣
〇寺部城の戦いでの元康の戦功に対し、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈りました。元康は、永禄2年(1559年)に駿府で7か条からなる定書をしたため、岡崎にいる家臣団との間で交わしました。これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と、家臣団との間の主従関係の再確認でした。(同上) -
◆今川方として参戦、桶狭間の戦い(1):大高城
〇永禄3年(1560年)5月、元康は、桶狭間の戦いで今川方の大高城の守備に関わりました。大高城の鵜殿長照が、城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、元康は、大高城への兵糧の補給を命じられました。長照は、狭間の戦い以前から、尾張大高城の城代に任命されていたといわれ、今川氏血縁の上ノ郷城主でした。(同上) -
◆今川方として参戦、桶狭間の戦い(2):大高城
〇しかし、大高城は敵方の織田軍により包囲されていて、兵糧を運び込むには、包囲を突破する必要がありました。5月18日、元康は鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を大高城中に送り込み、全軍無事に引き上げました。家康(元康)の初めての戦功とも言われますが、初陣の時の寺部城の戦いでの戦功もあります。(同上) -
◆今川方として参戦、桶狭間の戦い(3):義元の戦死
〇5月19日昼頃、今川義元は織田信長軍に討たれますた。織田方の武将の水野信元は、甥の元康の元へ、浅井道忠を使者として送りした。同日夕方、道忠は、元康が守る大高城に到着し、義元戦死の報を伝えました。織田勢が来襲する前に退却するようにとの勧めに対し、元康は物見を出して桶狭間敗戦を確認しました。(同上) -
◆今川方として参戦、桶狭間の戦い(4):岡崎へ
〇同日夜半に大高城を退き、岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺の大樹寺に入りました。今川軍は岡崎城を退去し、23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城しました。岡崎城に入る際、大樹寺住職の登誉天室と相談の上、今川氏からの独立を果たそうと考えたとされます。(同上) -
◆岡崎城主として独立(1)
〇永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとしました。4月、元康は東三河における今川方の拠点だった牛久保城(現・豊川市)を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にしました。(同上) -
◆岡崎城主として独立(2):清州同盟
〇永禄4年(1561年)、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあり、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結びました(清洲同盟)。永禄5年(1562年)、家康と信長が会談し、同盟の確認をして関係を固めました。(同上)
*写真は、遺構の堀の石垣等が残った光景のようです。 -
◆岡崎城主として独立(3):元康から『家康』へ
〇永禄6年(1563年)、義元からの偏諱である「元」の字を返上して、元康から『家康』と名を改めました。「家」を選んだ理由はいくつか説があるものの、明確ではありません。ほぼ同じ時期に今川義元に倣った花押の形を変更しています。これも、今川氏から決別したことを示しています。(同上) -
◆岡崎城主として独立(4):松平から『徳川』へ
〇今川氏との間で、宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一しました。永禄9年(1566年)、家康は朝廷から藤原氏として従五位下三河守に叙任され、その直前あるは同時に苗字を『徳川』に改めました。(同上) -
◆岡崎城から浜松城へ(1)
〇永禄10年(1567年)5月、長男竹千代(後の信康)に信長の娘である徳姫と結婚させ、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らさせます。同年6月に家康は、浜松城(浜松市)に移り、岡崎城を長男竹千代に譲りました。竹千代は、7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられ、『信康』を名乗りました。(同上) -
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◆岡崎城から浜松城へ(2):武田氏との同盟
〇同年12月6日、甲斐国の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始しますと、家康は酒井忠次を取次役に、遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結びます。13日、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年しました。武田氏との今川領分割に関して、徳川氏と武田氏の協定が結ばれていました(同上) -
◆岡崎城から浜松城へ(3):武田氏との手切れ
〇武田氏との今川領分割は、大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされます。しかし、永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣の秋山虎繁(信友)による遠江国への侵攻を受け、それ以降、武田氏とは手切れとなりました。(同上) -
◆岡崎城から浜松城へ(4):武田氏との闘い、信長との連係
〇家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していましたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復し、駿河今川領を確保しました。また、信長と反目した将軍・足利義昭が、武田信玄、朝倉義景・浅井長政・石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てました。(同上) -
◆岡崎城から浜松城へ(5):武田氏との闘い、信長との連係
〇信長包囲網では、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めました。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持しました。元亀3年(1572年)10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻を開始しました。これにより武田氏と織田氏は手切となり、徳川軍はほぼ単独で武田軍と戦うこととなります。(同上) -
◆岡崎城から浜松城へ(6):武田氏との闘い、三方ヶ原の戦い、信玄死去
〇信長包囲網に参加のために上洛の途上にあった、信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退しました。家康にとって、生涯最大のピンチの一つとなりました。武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅して、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、浜松城へ逃げ帰りました。(同上)
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