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旧東海道の名城巡り、駿府城紹介の締め括りです。江戸時代260年余の基礎造りをした家康公の紹介も締め括りです。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、駿府城関連公式サイト)

2017初夏、旧東海道の日本百名城(12/14):駿府城(3完):東御門、内堀、弥次喜多像、外堀

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2017/07/14 - 2017/07/14

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旅行記グループ 2017夏、東海道の百名城巡り

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旅人のくまさん

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旧東海道の名城巡り、駿府城紹介の締め括りです。江戸時代260年余の基礎造りをした家康公の紹介も締め括りです。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック、駿府城関連公式サイト)

交通手段
新幹線

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  • ◆本能寺の変と家康:神君伊賀越え<br />〇6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起きました。家康の供は小姓衆など少人数で、極めて危険な状態でした。一時は信長の後を追おうとするほどでしたが、本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻りました(神君伊賀越え)。(同上)

    ◆本能寺の変と家康:神君伊賀越え
    〇6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起きました。家康の供は小姓衆など少人数で、極めて危険な状態でした。一時は信長の後を追おうとするほどでしたが、本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻りました(神君伊賀越え)。(同上)

  • ◆本能寺の変と家康(2):天正壬午の乱、北条氏との和睦<br />〇帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしましたが、鳴海で秀吉が光秀を討った報を受けて引き返しました。<br />〇織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来しました。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走しました。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入りました(天正壬午の乱)。<br />〇徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈しましたが、北条軍は、雪斎を使者として家康に和睦を求めました。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものでした。こうして、家康は5か国を領する大大名になりました。(同上)

    ◆本能寺の変と家康(2):天正壬午の乱、北条氏との和睦
    〇帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしましたが、鳴海で秀吉が光秀を討った報を受けて引き返しました。
    〇織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来しました。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走しました。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入りました(天正壬午の乱)。
    〇徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈しましたが、北条軍は、雪斎を使者として家康に和睦を求めました。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものでした。こうして、家康は5か国を領する大大名になりました。(同上)

  • ◆豊臣氏と家康(1):羽柴秀吉の台頭<br />〇信長死後の織田政権においては、織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老だった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、勝家と手を結んだ信長三男・織田信孝を自害させることで、さらに影響力を強めました。(同上)

    ◆豊臣氏と家康(1):羽柴秀吉の台頭
    〇信長死後の織田政権においては、織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老だった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、勝家と手を結んだ信長三男・織田信孝を自害させることで、さらに影響力を強めました。(同上)

  • ◆豊臣氏と家康(2):織田信雄の思惑<br />〇天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁した織田信雄が、賤ヶ岳の戦い後の織田政権で信長嫡孫・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗しました。天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清する事件があり、家康は尾張国へ出兵し信雄と合流します。(同上)

    ◆豊臣氏と家康(2):織田信雄の思惑
    〇天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁した織田信雄が、賤ヶ岳の戦い後の織田政権で信長嫡孫・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗しました。天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清する事件があり、家康は尾張国へ出兵し信雄と合流します。(同上)

  • ◆豊臣氏と家康(3):小牧・長久手の戦い、小牧城と犬山城に着陣<br />〇3月17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は28日に尾張国小牧(小牧山)に着陣しました。秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、4月9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退しました(小牧・長久手の戦い)。

    ◆豊臣氏と家康(3):小牧・長久手の戦い、小牧城と犬山城に着陣
    〇3月17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は28日に尾張国小牧(小牧山)に着陣しました。秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、4月9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退しました(小牧・長久手の戦い)。

  • ◆豊臣氏と家康(4):小牧・長久手の戦い、外交戦<br />〇「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と言われた戦いでした。小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対抗するなど、外交戦の様相を呈しました。(同上)

    ◆豊臣氏と家康(4):小牧・長久手の戦い、外交戦
    〇「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と言われた戦いでした。小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対抗するなど、外交戦の様相を呈しました。(同上)

  • ◆豊臣氏と家康(5):小牧・長久手の戦い、和睦<br />〇秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子(徳川側の認識、秀吉側の認識は人質)としました。戦後の和議は秀吉優位でした。佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えますが、家康は承諾しませんでした。(同上)

    ◆豊臣氏と家康(5):小牧・長久手の戦い、和睦
    〇秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子(徳川側の認識、秀吉側の認識は人質)としました。戦後の和議は秀吉優位でした。佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えますが、家康は承諾しませんでした。(同上)

  • ◆豊臣氏の家臣時代(1):秀吉の要請で上洛、浜松から駿府城へ<br />〇天正14年(1586年)11月1日、京へ上り、正三位に叙されます。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返しています。12月4日、17年間過ごした浜松城から駿河国の駿府城に移りました。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を熟知していて、それに備えたとする説があります。(同上)

    ◆豊臣氏の家臣時代(1):秀吉の要請で上洛、浜松から駿府城へ
    〇天正14年(1586年)11月1日、京へ上り、正三位に叙されます。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返しています。12月4日、17年間過ごした浜松城から駿河国の駿府城に移りました。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を熟知していて、それに備えたとする説があります。(同上)

  • ◆豊臣氏の家臣時代(2):秀吉の推挙で権大納言に<br />〇天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれました。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜されました。<br />〇同年12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出されました。(同上)

    ◆豊臣氏の家臣時代(2):秀吉の推挙で権大納言に
    〇天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれました。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜されました。
    〇同年12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出されました。(同上)

  • ◆豊臣氏の家臣時代(3):北条氏との絶縁、秀吉の小田原征伐<br />〇家康の仲介は、ある程度の成果はありましたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じていません。天正18年(1590年)1月、家康は三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせ、改めて秀吉への臣従の意思を明確にして、北条氏と事実上断交しました。これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始します。(同上)

    ◆豊臣氏の家臣時代(3):北条氏との絶縁、秀吉の小田原征伐
    〇家康の仲介は、ある程度の成果はありましたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じていません。天正18年(1590年)1月、家康は三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせ、改めて秀吉への臣従の意思を明確にして、北条氏と事実上断交しました。これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始します。(同上)

  • ◆豊臣氏の家臣時代(4):秀吉の命により、江戸に入府<br />〇天正18年(1590年)8月、秀吉の命により、江戸に入府しました。関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢しました。(同上)

    ◆豊臣氏の家臣時代(4):秀吉の命により、江戸に入府
    〇天正18年(1590年)8月、秀吉の命により、江戸に入府しました。関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢しました。(同上)

  • ◆関ヶ原の戦い(1):秀吉の死、朝鮮から撤兵<br />〇慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れ、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者の豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、家康は五大老の一人となりました。8月に秀吉が死ぬと、五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退しました。(同上)

    ◆関ヶ原の戦い(1):秀吉の死、朝鮮から撤兵
    〇慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れ、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者の豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、家康は五大老の一人となりました。8月に秀吉が死ぬと、五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退しました。(同上)

  • ◆関ヶ原の戦い(2):家康が最高位に、三成襲撃事件<br />〇豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉からの遺言を受けていたため、五大老筆頭と目されるようになりました。<br />〇慶長4年(1599年)3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きました。(同上)

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    ◆関ヶ原の戦い(2):家康が最高位に、三成襲撃事件
    〇豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉からの遺言を受けていたため、五大老筆頭と目されるようになりました。
    〇慶長4年(1599年)3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きました。(同上)

  • ◆関ヶ原の戦い(3):三成挙兵、家康への弾劾状、東軍勝利<br />〇慶長5年(1600年)7月、三成は大谷吉継とともに挙兵し、五大老の一人・毛利輝元を総大将として、13か条におよぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布しました。<br />〇三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城しました(伏見城の戦い)。<br />〇家康は重臣たちと協議し、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「奸臣・三成を討つため」として、家康を総大将とした東軍が結成されました。<br />〇9月15日午前8時頃、美濃国関ヶ原で東西両軍による決戦が繰り広げられました。開戦当初は三成らの西軍が有利でしたが、西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかり、形成が逆転、東軍が勝利しました。(同上)

    ◆関ヶ原の戦い(3):三成挙兵、家康への弾劾状、東軍勝利
    〇慶長5年(1600年)7月、三成は大谷吉継とともに挙兵し、五大老の一人・毛利輝元を総大将として、13か条におよぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布しました。
    〇三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城しました(伏見城の戦い)。
    〇家康は重臣たちと協議し、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「奸臣・三成を討つため」として、家康を総大将とした東軍が結成されました。
    〇9月15日午前8時頃、美濃国関ヶ原で東西両軍による決戦が繰り広げられました。開戦当初は三成らの西軍が有利でしたが、西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかり、形成が逆転、東軍が勝利しました。(同上)

  • ◆征夷大将軍(1):家康・征夷大将軍に任命される<br />〇慶長5年(1601年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白に、九条兼孝が家康の奏上により任じられました。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻りました。<br />〇慶長8年(1603年)2月12日、家康は征夷大将軍に任命されました。(同上)

    ◆征夷大将軍(1):家康・征夷大将軍に任命される
    〇慶長5年(1601年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白に、九条兼孝が家康の奏上により任じられました。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻りました。
    〇慶長8年(1603年)2月12日、家康は征夷大将軍に任命されました。(同上)

  • ◆征夷大将軍(2):将軍職を辞職、秀忠に引き継ぐ<br />〇慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに、朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示しました。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請しましたが、秀頼はこれを拒絶、結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まりました。(同上)

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    ◆征夷大将軍(2):将軍職を辞職、秀忠に引き継ぐ
    〇慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに、朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示しました。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請しましたが、秀頼はこれを拒絶、結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まりました。(同上)

  • ◆大坂の陣(1):方広寺鐘銘事件<br />〇大坂の陣の契機となった方広寺鐘銘事件は、秀吉の発願した方広寺大仏(京の大仏)の再建にあたり発生しました。<br />〇秀吉の追善供養として、慶長12年(1607年)に豊臣秀頼により、片桐且元を奉行として、銅製大仏および大仏殿の再建が企図されました。<br />〇慶長19年(1614年)には梵鐘も完成し、片桐且元は梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に作成させ、梵鐘に銘文を入れました。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めました。問題の箇所は「国家安康」でした。<br />〇大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとされました。(同上)

    ◆大坂の陣(1):方広寺鐘銘事件
    〇大坂の陣の契機となった方広寺鐘銘事件は、秀吉の発願した方広寺大仏(京の大仏)の再建にあたり発生しました。
    〇秀吉の追善供養として、慶長12年(1607年)に豊臣秀頼により、片桐且元を奉行として、銅製大仏および大仏殿の再建が企図されました。
    〇慶長19年(1614年)には梵鐘も完成し、片桐且元は梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に作成させ、梵鐘に銘文を入れました。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めました。問題の箇所は「国家安康」でした。
    〇大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとされました。(同上)

  • ◆大坂の陣(2):慶長19年(1614年)11月~翌1月の冬の陣<br />〇家康は、二条城を発して大坂城攻めの途につき、そして20万人の大軍で大坂城を完全包囲しました。力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めました。<br />〇家康は、午後10時、午前2時、午前6時に大砲を撃たせ、これがきっかけで、和睦交渉が始まりました。和議の条件に反して、内堀までも埋め立てました。(同上)

    ◆大坂の陣(2):慶長19年(1614年)11月~翌1月の冬の陣
    〇家康は、二条城を発して大坂城攻めの途につき、そして20万人の大軍で大坂城を完全包囲しました。力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めました。
    〇家康は、午後10時、午前2時、午前6時に大砲を撃たせ、これがきっかけで、和睦交渉が始まりました。和議の条件に反して、内堀までも埋め立てました。(同上)

  • ◆大坂の陣(3):慶長20年(1615年)の夏の陣<br />〇豊臣氏は、主戦派と穏健派で対立しました。豊臣氏は大坂城からの出撃策をとりましたが、兵力で圧倒的に不利であり、幕府方は各戦闘で勝利を収めました。<br />〇大坂城は、内部の裏切りにより放火もあり落城しました。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは自害、ここに豊臣宗家は滅亡しました。(同上)

    ◆大坂の陣(3):慶長20年(1615年)の夏の陣
    〇豊臣氏は、主戦派と穏健派で対立しました。豊臣氏は大坂城からの出撃策をとりましたが、兵力で圧倒的に不利であり、幕府方は各戦闘で勝利を収めました。
    〇大坂城は、内部の裏切りにより放火もあり落城しました。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは自害、ここに豊臣宗家は滅亡しました。(同上)

  • ◆最晩年:元和2年(1616年)1月21日、鷹狩に出た先で倒れる<br />〇4月17日巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において75歳(満73歳4か月)で死去し、久能山に遺体は移されました。死去に際して幕府は、大名・旗本に対して家康弔問のための下向は無用と伝えています。<br />〇「先にゆき跡に残るも同じ事 つれて行ぬを別とぞ思ふ」(辞世) (以上、同上)

    ◆最晩年:元和2年(1616年)1月21日、鷹狩に出た先で倒れる
    〇4月17日巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において75歳(満73歳4か月)で死去し、久能山に遺体は移されました。死去に際して幕府は、大名・旗本に対して家康弔問のための下向は無用と伝えています。
    〇「先にゆき跡に残るも同じ事 つれて行ぬを別とぞ思ふ」(辞世) (以上、同上)

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