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《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅣ~広島平和記念公園散策・そして淡海へ編~<br /><br />昨年度の資格試験合格実績に味をしめて、今年度の資格試験〝最初〟のターゲットとして選んだ〝第一種衛生管理者〟。昨秋の〝第二種衛生管理者〟は偶々出張試験が行われる時期だったこともあり大阪で受験しましたが、今回は出張試験が行われる時期ではないため、近畿地区の場合は加古川の近畿安全衛生技術センターへと向かわなければなりません。我が街南淡海の国からは2時間強掛かる場所ゆえ、前回訪れた時期すら覚えていない位に久しぶりです。勿論第一目標は試験合格なのですが、ここまで出向いてきたのなら…という思いに駆られ、After Testのお楽しみとして広島行きを胸に秘めて自宅を出発します。二日目もいよいよ終わりに近付き、呉からバスで広島市内へとやって来ました。到着時間が遅れたため日暮れまでの時間との勝負で広島平和記念公園を回って行きます。さあどんなことが待っているのでしょうか?<br /><br />平成29年4月19日水曜日<br />中電前 18:03<br />平和記念公園 18:15<br /><br />  《訪問地:平和の塔・広島平和記念資料館・元安橋・動員学徒慰霊塔・原爆ドーム・相生橋・爆心地・平和の時計塔・平和の鐘・原爆の子の像・平和の池・平和祈念像・平和の灯・原爆死没者慰霊碑・祈りの像・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・嵐の中の母子像・原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑・平和の像若葉・平和記念ポスト・被爆動員学徒慰霊慈母観音像》<br /><br />平和記念公園 19:50<br />中電前電停 20:06<br />                      20:15<br />     《広島電鉄:160円》4480<br />広島駅 20:35<br />広島東郵便局  20:42<br />              20:57<br />マクドナルドJR広島駅店  21:00<br />    《グランベーコンチーズ:520円》5000<br />              21:15<br />広島駅南口バス停 22:05<br />                  22:15<br />    《JAMJAMライナーJX522便3列ゆったりコンビweb割:3,500円》8500<br />    《車中泊》<br /><br />平成29(2017)年4月20日木曜日<br />篠坂パーキングエリア  0:13<br />    《水:120円》8620<br />                      0:37<br />中津モータープール 06:05<br />吉野家桜橋店  06:45<br />    《納豆定食:390円》9010<br />              07:07<br />大阪  07:22<br />      07:28<br />    《JR:730円》9740<br />田舎駅  08:22<br />    《ファミリーマート田舎駅前店:タバコ・コーヒー(553円)》10293<br />        08:40<br />    《田舎の赤バス:230円》10523<br />ド田舎バス停  08:53<br />自宅  08:58//<br /><br />2日目のお小遣い:10,523円<br />総費用:25,409円<br /><br />呉から乗って来たバスを中電前バス停で下車します。約1時間遅れでの広島到着、勿論平和記念資料館は既に閉館していますが予定の組み方が甘かったからのことゆえ仕方がありません。悩んでも事は始まらないので夕暮れの平和大橋を渡って平和記念公園へと歩いて行きます。遅れた結果はイコール日没までの時間の勝負となり、駆け足で回ります。まずは〝平和の塔〟。昭和49(1974)年10月30日に世界連邦広島県・広島市宣言記念塔建設委員会と広島市が 世界連邦都市宣言をしたのを記念して建立しました。塔は一辺が4mの五角錐で、高さは4mあります。5つの面は5大州を表しており、設計者は(故)川村雅美氏、平和への思いを込めてデザインされたものだそうです。管理は広島ディスプレイ協会が行なっており、広島の企業としてとして平和への思いを守り続けるためにも協会のシンボル的な位置づけを持って協会員の協力のもと、この塔を保守することに換えて塔の維持(清掃)活動を行うとされています。<br /><br />そして次に立ち寄ったのは既に閉館している広島平和記念資料館。前回訪れたのは7年前の原爆忌の時でした。展示に対する思いは予想をはるかに超えるものであったため、記憶に残るレベルを通り越してしまったことのみが記憶に残っています。中でも平和監視時計は数少ない記憶に残っているもののひとつではあるものの、最後の核実験からの222日という表示は一年以内の核実験があった事実以外に他なりません。核実験をすることによって国力を誇示するなどという原始的な考え方が、今なお行われていることに憤りを感じずにはいられませんでした。<br /><br />そして公園内を北上するように歩いて元安橋へと向かいます。爆心地から最も近い橋となった元安橋、原子爆弾の特徴とも言える爆風と衝動波によって特異的な壊れ方をしました。結果として爆心地やその高さなどを特定することができた訳ですが、西国街道や國道四号筋といった主要道の一端を担って来たことを考えると、その数奇な運命になんとも言え気持ちになります。取り敢えず今回は現在の元安橋の姿をカメラに収めて、次の目的地へと向かいます。<br /><br />元安橋を渡って辿り着いた先は動員学徒慰霊塔。第二次世界大戦中に日本全国で労働力不足を補うために出された〝学徒勤労令〟によって国民学校高等科以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。その後空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊して防火地帯をつくる建物疎開作業にも多くの生徒が動員されており、被爆当日に広島市内で建物疎開作業に携わっていた国民学校高等科以上の学徒は8,000人以上と言われており、そのうち約6,300人が原爆の犠牲となっています。<br /><br />被爆死した学徒に加え、日本全国で〝勤労奉仕〟に動員されて戦禍に斃れた学徒を合わせた一万余名を祀るために、動員学徒慰霊塔は昭和42(1967)年7月15日に建立されました。今なら〝義務教育〟を受けている年齢がお国のための仕事をし、そして戦禍に斃れた事実は戦後生まれが容易く理解できるものではないでしょう。かと言ってゴタクを並べて語れるものではなく、ひたすら手を合わせて冥福を祈るしかできなかった私には、なんとも言えない〝悔しさ〟が心の中に残りました。<br /><br />学徒動員慰霊碑からも見える広島原爆被害の〝モニュメント〟的な〝原爆ドーム〟。この場所も再訪ではあるのですが、なんとなく〝違うもの〟を感じるところでもあります。確かに〝原爆忌〟に訪れた時とその他の時期であれば、周りの観光客の違いもあるのですが、日暮れ間近の時間ではあれど中学校の修学旅行生が来ていたようです。私自身の修学旅行は小学校が伊勢志摩、中学校が東京、高校は九州だったこともあり、広島を訪れたのは自分自身が〝旅行先〟として選べるようになってからです。そのような理由もあり〝学校行事の一環〟として戦跡を訪ねることにどの程度〝意味合い〟があるのか疑問に思っているのが本音です。スマホに個々の慰霊碑の〝位置〟をプロットし、その慰霊碑の〝謂れ〟を確認しながら写真の撮っている大人の姿がどのように映っているのかはわかりませんが、慰霊碑の反対側に回り込んで写メっている姿はやはり異様に見えるのか、私に尋ねるかの如く〝これって何の碑~〟なんて言っているのを聞いて、反射的に老婆心からわかりやすく答えていた自分に〝精神年齢は変わらないかも…〟なんて思うところもありました。とにかく少なくはない数の人がいるため、写真に写り込まないように間を空けると、次第に暗くなっていくことに気付きます。装備上日が陰ると写真が撮れないので、適当に間合いを取って先を急ぎます。<br /><br />そして原爆が爆発した爆心地。Ground Zeroという言い方が既に定着しているようです。現在では本当に〝ビルの密集地〟となっているため、迷ってしまいましたが、それはスマホナビでカバーします。当時の島病院は建て替えと診療科が変わり、現在では〝島内科医院〟となっています。今の建物が平成初頭に建てられたものらしく〝現代風〟になっているためその面影はありませんが、その道路沿いに設置されている〝爆心地のモニュメント〟に映る写真が唯一往時を偲ばせるものとなっています。裏通りのようにも見えますが、駐車場を利用する車が多く、道路中央部からカメラを構えるだけでも邪魔な様子。ゆっくり碑文を読む時間も取れず退散することにします。<br /><br />一旦相生通へと出て、紙屋町の商店街をふと眺めます。広島の復興と都市化を表現しているこのエリア。一面焼け野原となった土地をここまで変えた広島の方々の心意気には脱帽です。そんなことを考えながら相生橋を渡ります。T字型をした珍しい形をした相生橋は、原爆を投下したB-29エノラゲイの機長〝ポール・ティベッツ〟に〝完璧な照準点だ〟と言わしめた程の上空から見ても目立つものでした。相生橋を目標として投下された原子爆弾〝リトルボーイ〟は300m程流されて〝爆心地〟の上空700mで爆発しました。高熱線を浴び衝撃波で吹き飛ばされた多数の人々は即死状態でした。そんな相生橋の上から元安川下流を眺めると、なんとも言えない素晴らしい景色が広がっていることに気付きます。しかし70余年前には想像もつかない光景が広がっていたことを忘れるわけにはいきません。そんな思いに駆られながらまた歩き始めます。<br /><br />相生橋の東西に架かる併用橋から南北へと架かる連絡橋を経て、広島平和記念公園へと戻って来ました。まずは公園北端にある〝平和の時計塔〟。毎日8時15分にチャイムがなるものでもありますが、その〝形状〟からモニュメントとして見られることから建立時に反対意見もあったようです。結果的には納得して貰えたようで、〝残したい日本の音100選〟にも選ばれて今日に至っています。<br /><br />そして〝平和の鐘〟、表面に国境のない地図が描かれており〝世界はひとつ〟という考えがモチーフとなっています。梵鐘の撞座(つきざ)部分(鐘が打たれるところ)には〝原子力マーク〟が入っており、その反対側には鐘を突く人の己の心を映す鏡が入れられているものとなっています。原水爆禁止の望むモチーフとなっていますが、その大変わかりやすい〝鐘のつくり〟は訪れる方々すべてがその想いに触れられること間違いないでしょう。<br /><br />平和の鐘から元安川へと向かうと、原爆ドームがライトアップされガイドブックにも写真が掲載されている風景は広がります。ただ〝夜〟に訪れたのは初めてであったため、奥に位置する〝おりづるタワー〟がこれほど目立っているとは思いませんでした。確かに高所から平和記念公園を眺める場所としては良いのですが、その存在感があまりにも〝目立ち過ぎる〟のは如何なものでしょうか…。<br /><br />そして〝原爆の子の像〟。二歳で被爆した佐々木禎子さんは被爆直後の検診では問題がなかったにも拘らず、10年後に被爆による白血病を発症し12歳の短い生涯を終えました。当時〝高級品〟であった〝折り紙〟は手に入らず、薬包紙や包み紙を使って8ヶ月の間に1,300羽の千羽鶴を折られたそうです。〝サダコ物語〟として世界中に発信されたこの逸話が発端となって、この原爆の子の像は完成しました。ただ許されざる出来事として〝折り鶴放火事件〟がありました。原状回復をすれば許されるのか?という議論はありますが、まさしくそういう結論になってしまったこの案件。いつの間にか語られることもなくなってしまいました。そういう〝風化〟してしまうことがあってはならないことであり、手を合わせて少なくとも〝私の心〟の中には刻んでおきますと誓い、また歩き始めます。<br /><br />そして平和の灯、両手で包み込むように灯火が燃え盛っている〝モニュメント〟としてよく知られています。灯火をモチーフとして〝平和〟を冠したものはほとんどこの〝平和の灯火〟の分火です。宗教・産業と宮島弥山の〝消えずの霊火〟が合わさっているこの平和の灯ですが、原爆の火は含まれていません。これはまた別の〝平和の灯〟として保存されているものなので注意が必要です。(※http://4travel.jp/travelogue/10991877)<br /><br />平和祈念像(草野心平の詩碑)、若い母親に抱かれた子供が〝平和のラッパを吹き鳴らす〟姿に〝三日月〟が添えられている像は〝原爆死没者慰霊碑〟を見守っています。親から子へ、そして三日月はやがて満月になることを掛けて、新しい未来の開拓への想いが込められています。その建立意図に賛同された草野心平氏が寄せた〝詩〟が像の隣の碑板に刻まれています。<br /><br />原爆死没者慰霊碑 (広島平和都市記念碑)、埴輪型をした慰霊碑は原爆によって被爆死したすべての犠牲者の芳名が刻まれて供えられています。〝安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから〟の碑文は、その解釈を巡って論議を醸し出し、今なおその論争は続いています。捉え方の問題なのかも知れません。しかし被爆による死者の安息の場所となるように建立されたものゆえ、それを騒がせてしまうことは望まれていないのではないかと思います。<br /><br />祈りの像、この像は添えられている〝碑文〟によって解釈が大きく分かれているものでもあります。他の慰霊碑が被爆によって亡くなられた方々、若しくはそれに加え全国の〝戦時中特例法〟によって動員されて戦禍に斃れた方を〝慰霊〟しているのに対し、祈りの像には〝軍人〟を含むすべての戦没者の慰霊と碑文に書かれていることがその理由です。その碑文はすり減ってしまい現在では判別が難しいものとなっているにも関わらず、その建立意図が独り歩きして論議を醸し出しているようにも思えます。しかしこれは内容を〝書き出している〟人達の解釈が含まれており、それによって〝嫌悪感〟を醸し出しているようにも感じます。勿論戦争を肯定することができるわけではありませんが、時代背景を考慮すれば例えどんな考えを持っていても、その時は〝戦争〟に協力しない訳にはいかなかった現実がある筈です。そのことを悔いて家族三人の未来に臨む姿を現していると考えれば、少なくとも〝像〟が訴えかけているものは受け入れられるものではないでしょうか?<br /><br />そして平和記念資料館を通り越し、嵐の中の母子像へとやってきます。これは碑文を読むまでもなく、その建立意図がわかるものとなっています。原爆という物凄い嵐の中で乳飲み子を抱いた母親が取らざるを得なかった姿勢。いつ離れ離れになるかわからない状況で子供をどこまで護れるかを考える母親の極限の心中だったのではないでしょうか。ネグレクトという言葉が当たり前のように語られている今日、それと相反する愛情を偶像化しているようにも思えます。たまたまなのか後方にある噴水が吹き上がって、像の背景を作り出しています。目立つことは良いのかも知れませんが、ちょっと違和感も感じるところではありました。<br /><br />原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑、原爆の子の像同様多くの〝折り鶴〟が供えられています。原爆投下時に於いて広島市内にいた多くは、強制疎開をしていた国民学校初等科3年生以上を除く初等科1・2年生と学徒動員に駆り出された高等科の生徒達でした。それが被爆死した子供達の人数を増やしてしまった原因となっています。正確な数字は今でも不明ですが国民学校の児童生徒約2,000名と教師約200名と言われています。しかしそのうち身元が判明した者は僅か子供885人、教師143人に過ぎません。信頼する大人として教師を頼る子供達と、大人として自らも被爆し手の打ちようがなかった教師の無念さをモチーフとして建立された像は一瞬にして起こった〝被爆〟に対してあまりにも無防備だったことへの憤りみたいなものを感じます。起こるべきして起こったことであればまだしも、何もわからず斃れた子供達と守る手段すら持てなかった教師達〟それぞれの無念さが私の心にも伝わってきました。<br /><br />そして平和記念公園慰霊碑の最後となる平和の像『若葉』・湯川秀樹歌碑へとやってきます。ロータリークラブの創立記念で建立されたものですが、台座にあのノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹博士の短歌が刻まれています。〝まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは〟の短歌には、物理学者としてその原子爆弾の威力を知り、後の水爆実験等が〝理論的〟にわかるものとしての苦悩の叫びのようにも思えます。一説には〝まがつび〟が。災厄を司る〝禍津日神(まがつひのかみ)〟の仕業とする例えに、原爆を神の仕業にするのかというものもあったようです。しかしそうではなく『この場所(平和記念公園)が平和を祈る人しか来ない場所である』ことの例えとなっています。確かに建立後各慰霊碑を〝破壊〟する行為が多々あった事実を考えれば、湯川博士の〝言いたかったこと〟が伝わってきます。多くの被爆による死者が祀られている聖地に、災いをもたらす考えは必要ないとする考えは、私にも間違いなく伝わってきました。<br /><br />平和の像『若葉』を訪れた時間が19:43、この日の広島の日の入り時刻が18:45なので、日没後1時間平和記念公園を回っていたことになります。結構非常識な話ですが、それは仕方がありません。そして最初に訪れた喫煙コーナーを経て平和記念ポストへとやってきます。サンフランシスコ講和条約が発効する昭和27(1952)年に広島市で開催された〝第4回郵便友の会全国大会〟を記念して建立されたもので、戦後日本の主権回復元年にあたる年のことでした。手紙を持つ裸像が乗っているポストはデザインも重みも持ち合わせているものとなっており既に65年の歴史を見てきたことになりますが、今後も広島や日本の発展を見て行くものとなってくれることを期待します。<br /><br />そして元安川をイサム・ノグチ氏がデザインした〝平和大橋〟で渡り、元安川沿いに少し南下し、〝被爆動員学徒慰霊慈母観音像〟へと立ち寄ります。既に19:55となっており、照明のない観音像は、像そのものと碑文がなんとか見える程度の状態であったこともあり、手を合わせてからカメラに収めるものの、写真としては全くわからないものとなってしまいました。この〝被爆動員学徒慰霊慈母観音像〟は昭和41(1966)年7月31日に(被爆)当時の市内21校旧制中学校・女学校生徒遺族有志の集まりである〝被爆動員学徒慰霊慈母観音像奉賛会〟によって建立されました。原爆死没動員学徒6,300余名のう身元が判明した4,000余名の名前が各学校別に縦30cm横50cmの銅板性ネームプレートに刻まれてこの観音像の築山内に収められています。そして台座には〝観音となりて平和を守りゆく 少年学徒のみたま尊し〟と、築山には〝慈母観音に 抱かれ眠る汝が姿 心にえがきてわれら安らぐ〟という追悼の歌碑が刻まれています。<br /><br />学徒動員慰霊碑同様、国民学校高等科・旧制中学校・女学校の生徒達は労働力の不足を補うために〝学徒動員令〟に基づき軍需産業部に於いての勤労奉仕が強制され、空襲による火災の拡大を防ぐための消防道路・防空小空地を造る〝建物疎開〟に従事していました。そして被爆当日の昭和20(1945)年8月6日には広島市内では133ヶ所の建物疎開作業の後片づけに生徒8,000人以上が出動しており、そして被爆により約6,300人が亡くなりました。やはり志半ばで斃れた子供達の安らぎの場として作られた場所、暗くてわからないでは申し訳なく思い、改めての再訪を願いつつ最後に手を合わせて出発します。<br /><br />平和大通りを東進し平和記念公園の最寄りは袋町電停なのかも知れませんが、なんとなく呉からのバスで降り立った〝中電前電停〟へと向かいます。電停付近のローソン広島大手町店で一服し、慣れないと怖い路面電車のホームへと向かいます。ちょうどホームへと出た時に元京都市電1900系1907〝銀閣〟の車両入線してきました。昭和53(1978)年10月1日に廃止され、広島電鉄へとやって来た1900系車両は15両すべてがまだ現役で走っています。既に廃止から39年が経とうとしている中で元気に広島の街中を走る〝元京都市電〟には見ていて元気を与えられます。広島に来たときはいつでも会えることを願って、逆方向へと走って行く車両を見送ります。広島電鉄は電車の行き先と目的地が違うとき、乗り継ぎ券を発行して貰い均一料金で乗車することができます。先に入線した700系の横川行きに乗っても紙屋町東電停で乗り換えられるのですが、なぜか田舎者は臆病になってしまい、次の広島駅行きを待つことにします。やって来たのは5100系で愛称は〝グリーンムーバーマックス〟。なんかネーミングは笑ってしまいますが、国産初のフルフラット超低床電車です。路面電車というよりもは、実家付近を走っているノンステップバスのロングシート版みたいな印象を受けます。連接車ということもあり、比較的揺れは少ないのですが〝路面電車〟というあまり体験しない〝揺れ方〟に乗り鉄はちょっと興奮します(笑)。<br /><br />乗車後約20分で広島駅へと到着し、広島電鉄とお別れします。ただここで広島を甘く見た〝しっぺ返し〟を受けることになります。ブラブラと駅前を歩いているとすぐに21:00となります。政令指定都市広島!なのでお土産を求めて歩きますがほとんどのお店が21:00閉店だということがわかります。おまけに時間を同じくしマツダスタジアムからカープファンが帰ってきます。折しも今日の試合は敗戦試合、おまけに緒方監督が退場処分となっていることがわかりガラの悪さが目立ちます。一旦お店に入ってしまうと長くなることは聞いていたので、さっさと済ませられる食事場所…、結局今夜の晩御飯は〝マックでディナー〟となってしまいます。<br /><br />駅前の広島東郵便局に立ち寄って今回の旅の〝秘密兵器〟としたかった〝写ルンです1600 Hi-Speed〟を現像するためにポストインします。その名の通り昭和の〝代物〟ではあるものの、ISO1600とシャッタースピード1/200、それに加えてストロボ付きという〝アナログカメラ〟は、昨年6月に沖縄で〝壕内部〟を撮影した時に効果を発してくれました。今回も平和記念公園が夜間撮影となることを予想していたため、持ち歩いてはいましたが…後日談ではありますがやはり〝距離〟がある被写体であればあまり効果的でもなかったのが今回の結果でした。<br /><br />それから駅ビルへと入り、埋まる前の〝マクドナルドJR広島駅前店〟に立ち寄ります。仕事帰りのサラリーマンが軽食や一服をするためにそれなりの人はいたものの、空席はあることは確認しました。赤いユニフォーム着用は正にカープカラーではありますが、バッティングするのを避けるため、ささっと済ませることにします。確か最近メニューに加わった〝グランベーコンチーズ〟をチョイス。定番の〝ダブルチーズ〟とはちょっと違った味でしたが、やはり癖になる味かと思います。ただ店の外を通る赤いユニフォーム姿にはゆっくりする気も起こらず、一息ついて店を出ることにします。<br /><br />ここから少し悲劇が始まります。この広島駅の構造は初めて利用の私にとってよくわからないところばかりです。南口と北口はおろかある筈の自由通路すら場所がわかりません。おまけに南北も勘違いしており、わざわざ遠回りをして北口まで出てしまい、夜行バスの乗場すらわからない状態…。おまけに駅前はカープ腐女子の行列となり、人混みを避けるように歩いて行った結果の悲劇となりました(泣)。結局はスマホナビを使えば訳ないことがわかり、かなりの大回りをして元の広島東郵便局前に到着し、出発10分前にバス停に到着しました。呉に到着してから25時間、後は大阪経由で帰るのみとなりました。<br /><br />今年になって夜行バスの利用が増え、行き先の絡みでジェイアールバスの利用が続いていました。今回も広島発の〝山陽ドリーム広島2号〟の予定だったのですが、たまたま見ていたバスサイトで広島~大阪3列独立シートのバスを3,500円で発見し、急いで手配をしています。夜行バスには大きく分けて〝路線バス〟と〝ツアーバス〟がありました。一定の基準を満たすものが路線バスだった時代に〝値段の安さ〟で市民権を得たのが〝ツアーバス〟でした。バス停を持つ路線バスに対し、集合場所しかなかったツアーバスの違いは明らかではありましたが、交通費を安く上げたい若者の利用が増加し、その勢いは路線バスの運行をも圧迫。撤退を余儀なくされた会社も少なくはありません。しかしその安易な選択を揺るがす事故が起こりました。平成24(2012)年4月29日に群馬県藤岡市の関越自動車道上り線藤岡ジャンクション付近にて都市間ツアーバスが防音壁に衝突した〝関越自動車道高速バス居眠り運転事故〟がそれで、乗員乗客46人のうち乗客7人が死亡し2人が重体、12人が重傷、25人が軽傷を負いました。高速道路における単独車両の事故としては前例がない程の死者数であり、この事故を契機に高速ツアーバスは廃止され新高速乗合バスに集約されることになりました。運転士の臨時雇用を含めたバス会社の問題、そして原価を割る金額での旅行会社のバス発注等旅行業界の悪しき習慣から引き起こされた事故であるとも言うことができます。その恩恵を被るべく利用者である〝乗客の過失〟を追求する声もあれど、少なくとも素人目でわかるような問題ではなく、それを隠して運行していた関連業者すべての問題といっても過言ではありません。また旅行会社の主催旅行中に起こった平成28(2016)年1月15日に長野県軽井沢町の国道18号線碓氷バイパスでのスキーバス転落事故。乗員乗客41名のうち乗員乗客15名が死亡し、乗客26人がけがをしました。運転士のスキルが最大の理由だとされているこの事故も、結局はバスを安く買い叩いていた旅行会社やバス手配をするラウンドオペレーターの〝儲け主義〟が引き起こしたことには違いありません。しかしこのふたつのバス事故には共通点があり、運転士の判断でルートを変更していた事実があります。大手バス会社でもルートの変更はされますが、ドライバーの判断だけにはならず、必ずバス会社の〝運行管理者〟の許可のもと変更がされることとなります。もしそれを怠ると道路運送法違反となりドライバーの問題だけではなく会社の問題とされてしまいます。それを踏まえても会社が適当な管理しかしていなかったことは間違いないことであり、死者数を考えても会社が潰れる程度の責任で済まないことだと思います。<br /><br />これだけのことがあり、バス停を管理しなければならないといった負担がバス会社に課せられることとなり、多くのツアーバス会社が撤退を余儀なくされた中で今なお運行を続けている会社は、そういった面では問題ないと考えたことが、今回のバスの選択に繋がっています。JAMJAM LINER、昔から都市間夜行バスとしては有名な名前ですが、運行会社は日本ユース旅行株式会社となっています。愛知県知事登録第2種免許取得をしている旅行会社ですが、新高速バス乗合バスの基準を満たしているとのことで免許取得されていると考えます。しかし以前のように数を運行することができなくなったこともあり、広島線に投入されている車両は〝コンビグレード〟のものとなっています。前方に3列独立シート14席、後方に4列シート6列の24席、計38席という変則なシートパターンとなっていますが、客数は限定されるも3列と4列のそれぞれを望む顧客のニーズに応えられるとの理由で、元ツアーバス会社が最近導入しています。その1席をあてがわれ広島を出ると東福山駅前を経由し、篠坂パーキングエリアともう一ヵ所休憩を取って大阪へと向かいます。既にバス車内はカーテンが閉められており、そのまま寝てしまっても睡眠の妨げにはならないようにされています。4列シートは結構混んでいたようですが3列は一列ひとりのパターン。3Dの3列目運転席側の席について、シートのコンセントでiPhoneを充電します。ドライバー氏曰く東福山までも消灯するとのことだったのでスマホいじりも遠慮し、22:15、出発時間となった広島駅をゆっくりとバスは出発します。いろんな旅行客の想いを乗せて…。<br /><br />1時間半ほどで東福山駅へと到着し、数人の乗車受付をして出発します。日が変わった0:13、岡山県笠岡市の篠坂パーキングエリアに到着しトイレ休憩が取られます。ふと気づいたことがバスにはトイレがついていないことでした。どうやらトイレスペースを座席化していることは想像できますが、そのため2ヶ所のトイレ休憩が設けられています。私が学生の頃はトイレ付き夜行バスでもトイレ休憩がありました。現在では乗務員の仕事を減らすため大手のバス会社でワンマン運行しているところでは、乗務員の仮眠中は下車することができなくなっています。とは言え何もないパーキングエリアでは一服することしかできません。出発は0:35となってはいましたがさっさと戻ってきて、寝る準備をします。間もなく出発すると完全消灯となり、真っ暗闇の車内となりました。もう1ヵ所停まるはずですがそれよりもう起きていられません。気がついたら寝ていたようです。弾丸呉・広島ツアーを何とか遂行させた満足感に抱かれてzzz…そしてバスは西へと走って行きます。<br /><br />平成29年4月20日木曜日<br /><br />到着のアナウンスで目が覚めました。間もなく梅田とのコール。カーテンが閉まっているので外の様子はわかりませんが、信号で停まったりしているのですでに一般道に下りているようです。バックギアに入れる振動で到着を知ります。6:05到着、梅田といっても中津モータープールなので歩くと結構距離があります。バスを降りて荷物を受け取りに行きます。センダーと呼ばれる乗車と下車の案内をするスタッフはいるものの、荷物の出し入れはドライバーの仕事のようです。昨夜高速のインターでのやり取りに一抹の不安はありましたが、まあよく寝て大阪まで帰って来られたことと値段のことを考えれば良き旅だったとすることにします。リュックひとつの荷物では揉めることもありませんが、中にはキャリーバックのハンドルが壊れたのどうのこうの…と言っている人もいました。そのあたりは免責であることはチケットを購入する際に記載されているので、そういう場合は旅行保険の携行品補償に入っておくしかありません。とゴタクを並べている間はなく、さっさと敷地から追い出されます。6:00台というと各方面から大阪行きのバスラッシュの時間でもあり、うろうろすると危険なのでしょう。しか~しここで田舎者の悲しい性が出てしまいます。つまり〝方向〟がわかりません(泣)。誰かにくっついていけばいいと思っていたら、ほとんどは阪急に乗って行くようでその後は独力で行くしかありません。といっても頭はまだ睡眠中ゆえ閃くものもなくただトボトボと歩いて行くとようやく〝Whity梅田〟の表示を見つけます。やっと元気になるとお腹が減ったことに気付きます。なぜかそのまま歩いて行って北新地を越え、四ッ橋筋へと上がってきます。途中コンビニの灰皿を見つけて一服。そして以前にも来たことのある〝吉野家桜橋店〟へと向かいます。朝から元気なお兄さんたちは、昨日の夜から働いていたと見えるホストのよう。その目を見張る食欲に唖然としながら負けじと納豆定食大盛りを注文します。昨日のマックだけではさすがに持たなかった…、そんなこともあってかガッツいて食べてしまいました。そして完食し、満足~っと思った瞬間現実に引き戻されます。〝帰らないと…〟ということに。でもここまで来ればもう大丈夫、苦手な地下を避けて地上を歩き、大阪駅へとやってきます。大阪へと出勤して来るにはまだ早い時間、京都方面の快速が先に入線してきたので座れることを願って乗車します。案の定新大阪を過ぎたあたりで座ることができましたが、そうすると物凄い眠気が襲ってきます。快速といっても米原行き、寝過ごすと致命傷になります。なので眠いのを必死で我慢して起きたまま京都へと到着。さすがに8時台、乗下車ともに結構な数でした。でも後15分では寝る訳にも行きません。ひとつ…ふたつ…とトンネルを越えるとそこは南近江の国、その3つ目の乗降客数だけで〝南近江の国首都駅〟と称してるただの田舎駅に到着。行きと同様馴染みの駅前のファミマに立ち寄り、タバコを購入。禁煙化された場所をスルーして、仕事帰りの一服ステーションで一服を済ませると、田舎の赤バスを待ちます。迎えに来てくれたら…なんて思いますが、あくまでプライベートな旅ゆえそこまでは言えません。どうやらバス停には高校生らしい集団の存在がありました。多分頭の良い学校は始まっている時間なので多分我が家最寄りのバス停の次にある定時制か…ということはすぐにわかったため、ちゃっちゃとバスに乗る準備をしておきます。8:40発バイパス経由のバスは、田舎だけれど国道の迂回路化している我が町の渋滞にあって早着とまではいかなかったもののほぼ時間通りにド田舎バス停に到着。我が家への道程を歩きながら、出発時には桜が咲いていた若木も、47時間で花が散っていることを知ります。桜には本当に縁がないことを知っている私にとって落ち込むまでもありません。そして再び歩くこと数分で我が家に到着。47時間で試験を受けて呉まで行って、必死で呉を歩いたと思ったら広島へと移動。日暮れとの時間の時間の戦いをしながら歩いた旅は、こうして無事終わりを告げました~。ちなみに…なのですが、夜行バスで帰ってきたらまずはひと寝りというのが普通ですが、普通の旅をしない私にとってこの後は仕事です。9:00に帰って来て12:30に出勤し、21:00に帰って来ることは果たしてできたのでしょうか(笑)。<br /><br />長文にお付き合い頂きましてまことにありがとうございます。これにて〝《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅣ~広島平和記念公園散策・そして淡海へ編~〟は終わります。<br /><br />平成29年4月19日水曜日<br /><br />起床 06:56<br />チェックアウト 08:55<br />大和ミュージアム 09:00<br />                  09:15<br />《見学:09:21~11:53(500円)》<br />         12:00<br />BEACON 12:05~12:25<br />《士官のカレー:1,480円》<br />てつのくじら館 12:35~13:33<br />呉中央桟橋ターミナル 13:45<br />《セブンイレブン呉中央桟橋ターミナル店:水(130円)》<br />13:58<br />入船山記念館 14:10《入場料:(JAF割引)200円》<br />15:27<br />《セブンイレブン:水とタバコ(1,140円)<br />長迫公園 16:07《コーヒー:160円》<br />17:00<br />呉本通七郵便局 17:05<br />17:10<br />本通六丁目バス停 17:14<br />17:15<br />呉駅前 17:24 《クレアライン線バス:740円》<br />中電前バス停 18:09<br />平和記念公園 18:15<br />  《》<br />19:50<br />中電前電停 20:06<br />20:15《広島電鉄:160円》<br />広島 20:35<br />広島東郵便局  20:42<br />20:57<br />マクドナルドJR広島駅店  21:00<br />《グランベーコンチーズ:520円》<br />             21:15<br /> JAMJAMライナー広島駅バス停 22:05<br />22:15<br />《JX522便3列ゆったりコンビweb割:3,500円》<br />篠坂パーキングエリア  0:13《水:120円》<br />                      0:37<br />梅田モータープール 06:05<br />吉野家桜橋店  06:45<br />《納豆定食:390円》<br />07:07<br />大阪  07:22<br />      07:28《JR:730円》<br />石山  08:22<br />《ファミリーマート石山駅前店:タバコ・コーヒー(553円)》<br />08:40<br />石山団地中央  08:53《京阪バス:230円》<br />自宅  08:58//<br /><br />2日目のお小遣い:10,553円<br />総費用:25,409円<br />

《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅣ~広島平和記念公園散策・そして淡海へ編~

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2017/04/18 - 2017/04/20

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅣ~広島平和記念公園散策・そして淡海へ編~

昨年度の資格試験合格実績に味をしめて、今年度の資格試験〝最初〟のターゲットとして選んだ〝第一種衛生管理者〟。昨秋の〝第二種衛生管理者〟は偶々出張試験が行われる時期だったこともあり大阪で受験しましたが、今回は出張試験が行われる時期ではないため、近畿地区の場合は加古川の近畿安全衛生技術センターへと向かわなければなりません。我が街南淡海の国からは2時間強掛かる場所ゆえ、前回訪れた時期すら覚えていない位に久しぶりです。勿論第一目標は試験合格なのですが、ここまで出向いてきたのなら…という思いに駆られ、After Testのお楽しみとして広島行きを胸に秘めて自宅を出発します。二日目もいよいよ終わりに近付き、呉からバスで広島市内へとやって来ました。到着時間が遅れたため日暮れまでの時間との勝負で広島平和記念公園を回って行きます。さあどんなことが待っているのでしょうか?

平成29年4月19日水曜日
中電前 18:03
平和記念公園 18:15

  《訪問地:平和の塔・広島平和記念資料館・元安橋・動員学徒慰霊塔・原爆ドーム・相生橋・爆心地・平和の時計塔・平和の鐘・原爆の子の像・平和の池・平和祈念像・平和の灯・原爆死没者慰霊碑・祈りの像・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・嵐の中の母子像・原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑・平和の像若葉・平和記念ポスト・被爆動員学徒慰霊慈母観音像》

平和記念公園 19:50
中電前電停 20:06
20:15
《広島電鉄:160円》4480
広島駅 20:35
広島東郵便局 20:42
20:57
マクドナルドJR広島駅店 21:00
《グランベーコンチーズ:520円》5000
             21:15
広島駅南口バス停 22:05
22:15
《JAMJAMライナーJX522便3列ゆったりコンビweb割:3,500円》8500
《車中泊》

平成29(2017)年4月20日木曜日
篠坂パーキングエリア 0:13
《水:120円》8620
0:37
中津モータープール 06:05
吉野家桜橋店 06:45
《納豆定食:390円》9010
07:07
大阪 07:22
07:28
《JR:730円》9740
田舎駅 08:22
《ファミリーマート田舎駅前店:タバコ・コーヒー(553円)》10293
08:40
《田舎の赤バス:230円》10523
ド田舎バス停 08:53
自宅 08:58//

2日目のお小遣い:10,523円
総費用:25,409円

呉から乗って来たバスを中電前バス停で下車します。約1時間遅れでの広島到着、勿論平和記念資料館は既に閉館していますが予定の組み方が甘かったからのことゆえ仕方がありません。悩んでも事は始まらないので夕暮れの平和大橋を渡って平和記念公園へと歩いて行きます。遅れた結果はイコール日没までの時間の勝負となり、駆け足で回ります。まずは〝平和の塔〟。昭和49(1974)年10月30日に世界連邦広島県・広島市宣言記念塔建設委員会と広島市が 世界連邦都市宣言をしたのを記念して建立しました。塔は一辺が4mの五角錐で、高さは4mあります。5つの面は5大州を表しており、設計者は(故)川村雅美氏、平和への思いを込めてデザインされたものだそうです。管理は広島ディスプレイ協会が行なっており、広島の企業としてとして平和への思いを守り続けるためにも協会のシンボル的な位置づけを持って協会員の協力のもと、この塔を保守することに換えて塔の維持(清掃)活動を行うとされています。

そして次に立ち寄ったのは既に閉館している広島平和記念資料館。前回訪れたのは7年前の原爆忌の時でした。展示に対する思いは予想をはるかに超えるものであったため、記憶に残るレベルを通り越してしまったことのみが記憶に残っています。中でも平和監視時計は数少ない記憶に残っているもののひとつではあるものの、最後の核実験からの222日という表示は一年以内の核実験があった事実以外に他なりません。核実験をすることによって国力を誇示するなどという原始的な考え方が、今なお行われていることに憤りを感じずにはいられませんでした。

そして公園内を北上するように歩いて元安橋へと向かいます。爆心地から最も近い橋となった元安橋、原子爆弾の特徴とも言える爆風と衝動波によって特異的な壊れ方をしました。結果として爆心地やその高さなどを特定することができた訳ですが、西国街道や國道四号筋といった主要道の一端を担って来たことを考えると、その数奇な運命になんとも言え気持ちになります。取り敢えず今回は現在の元安橋の姿をカメラに収めて、次の目的地へと向かいます。

元安橋を渡って辿り着いた先は動員学徒慰霊塔。第二次世界大戦中に日本全国で労働力不足を補うために出された〝学徒勤労令〟によって国民学校高等科以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。その後空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊して防火地帯をつくる建物疎開作業にも多くの生徒が動員されており、被爆当日に広島市内で建物疎開作業に携わっていた国民学校高等科以上の学徒は8,000人以上と言われており、そのうち約6,300人が原爆の犠牲となっています。

被爆死した学徒に加え、日本全国で〝勤労奉仕〟に動員されて戦禍に斃れた学徒を合わせた一万余名を祀るために、動員学徒慰霊塔は昭和42(1967)年7月15日に建立されました。今なら〝義務教育〟を受けている年齢がお国のための仕事をし、そして戦禍に斃れた事実は戦後生まれが容易く理解できるものではないでしょう。かと言ってゴタクを並べて語れるものではなく、ひたすら手を合わせて冥福を祈るしかできなかった私には、なんとも言えない〝悔しさ〟が心の中に残りました。

学徒動員慰霊碑からも見える広島原爆被害の〝モニュメント〟的な〝原爆ドーム〟。この場所も再訪ではあるのですが、なんとなく〝違うもの〟を感じるところでもあります。確かに〝原爆忌〟に訪れた時とその他の時期であれば、周りの観光客の違いもあるのですが、日暮れ間近の時間ではあれど中学校の修学旅行生が来ていたようです。私自身の修学旅行は小学校が伊勢志摩、中学校が東京、高校は九州だったこともあり、広島を訪れたのは自分自身が〝旅行先〟として選べるようになってからです。そのような理由もあり〝学校行事の一環〟として戦跡を訪ねることにどの程度〝意味合い〟があるのか疑問に思っているのが本音です。スマホに個々の慰霊碑の〝位置〟をプロットし、その慰霊碑の〝謂れ〟を確認しながら写真の撮っている大人の姿がどのように映っているのかはわかりませんが、慰霊碑の反対側に回り込んで写メっている姿はやはり異様に見えるのか、私に尋ねるかの如く〝これって何の碑~〟なんて言っているのを聞いて、反射的に老婆心からわかりやすく答えていた自分に〝精神年齢は変わらないかも…〟なんて思うところもありました。とにかく少なくはない数の人がいるため、写真に写り込まないように間を空けると、次第に暗くなっていくことに気付きます。装備上日が陰ると写真が撮れないので、適当に間合いを取って先を急ぎます。

そして原爆が爆発した爆心地。Ground Zeroという言い方が既に定着しているようです。現在では本当に〝ビルの密集地〟となっているため、迷ってしまいましたが、それはスマホナビでカバーします。当時の島病院は建て替えと診療科が変わり、現在では〝島内科医院〟となっています。今の建物が平成初頭に建てられたものらしく〝現代風〟になっているためその面影はありませんが、その道路沿いに設置されている〝爆心地のモニュメント〟に映る写真が唯一往時を偲ばせるものとなっています。裏通りのようにも見えますが、駐車場を利用する車が多く、道路中央部からカメラを構えるだけでも邪魔な様子。ゆっくり碑文を読む時間も取れず退散することにします。

一旦相生通へと出て、紙屋町の商店街をふと眺めます。広島の復興と都市化を表現しているこのエリア。一面焼け野原となった土地をここまで変えた広島の方々の心意気には脱帽です。そんなことを考えながら相生橋を渡ります。T字型をした珍しい形をした相生橋は、原爆を投下したB-29エノラゲイの機長〝ポール・ティベッツ〟に〝完璧な照準点だ〟と言わしめた程の上空から見ても目立つものでした。相生橋を目標として投下された原子爆弾〝リトルボーイ〟は300m程流されて〝爆心地〟の上空700mで爆発しました。高熱線を浴び衝撃波で吹き飛ばされた多数の人々は即死状態でした。そんな相生橋の上から元安川下流を眺めると、なんとも言えない素晴らしい景色が広がっていることに気付きます。しかし70余年前には想像もつかない光景が広がっていたことを忘れるわけにはいきません。そんな思いに駆られながらまた歩き始めます。

相生橋の東西に架かる併用橋から南北へと架かる連絡橋を経て、広島平和記念公園へと戻って来ました。まずは公園北端にある〝平和の時計塔〟。毎日8時15分にチャイムがなるものでもありますが、その〝形状〟からモニュメントとして見られることから建立時に反対意見もあったようです。結果的には納得して貰えたようで、〝残したい日本の音100選〟にも選ばれて今日に至っています。

そして〝平和の鐘〟、表面に国境のない地図が描かれており〝世界はひとつ〟という考えがモチーフとなっています。梵鐘の撞座(つきざ)部分(鐘が打たれるところ)には〝原子力マーク〟が入っており、その反対側には鐘を突く人の己の心を映す鏡が入れられているものとなっています。原水爆禁止の望むモチーフとなっていますが、その大変わかりやすい〝鐘のつくり〟は訪れる方々すべてがその想いに触れられること間違いないでしょう。

平和の鐘から元安川へと向かうと、原爆ドームがライトアップされガイドブックにも写真が掲載されている風景は広がります。ただ〝夜〟に訪れたのは初めてであったため、奥に位置する〝おりづるタワー〟がこれほど目立っているとは思いませんでした。確かに高所から平和記念公園を眺める場所としては良いのですが、その存在感があまりにも〝目立ち過ぎる〟のは如何なものでしょうか…。

そして〝原爆の子の像〟。二歳で被爆した佐々木禎子さんは被爆直後の検診では問題がなかったにも拘らず、10年後に被爆による白血病を発症し12歳の短い生涯を終えました。当時〝高級品〟であった〝折り紙〟は手に入らず、薬包紙や包み紙を使って8ヶ月の間に1,300羽の千羽鶴を折られたそうです。〝サダコ物語〟として世界中に発信されたこの逸話が発端となって、この原爆の子の像は完成しました。ただ許されざる出来事として〝折り鶴放火事件〟がありました。原状回復をすれば許されるのか?という議論はありますが、まさしくそういう結論になってしまったこの案件。いつの間にか語られることもなくなってしまいました。そういう〝風化〟してしまうことがあってはならないことであり、手を合わせて少なくとも〝私の心〟の中には刻んでおきますと誓い、また歩き始めます。

そして平和の灯、両手で包み込むように灯火が燃え盛っている〝モニュメント〟としてよく知られています。灯火をモチーフとして〝平和〟を冠したものはほとんどこの〝平和の灯火〟の分火です。宗教・産業と宮島弥山の〝消えずの霊火〟が合わさっているこの平和の灯ですが、原爆の火は含まれていません。これはまた別の〝平和の灯〟として保存されているものなので注意が必要です。(※http://4travel.jp/travelogue/10991877

平和祈念像(草野心平の詩碑)、若い母親に抱かれた子供が〝平和のラッパを吹き鳴らす〟姿に〝三日月〟が添えられている像は〝原爆死没者慰霊碑〟を見守っています。親から子へ、そして三日月はやがて満月になることを掛けて、新しい未来の開拓への想いが込められています。その建立意図に賛同された草野心平氏が寄せた〝詩〟が像の隣の碑板に刻まれています。

原爆死没者慰霊碑 (広島平和都市記念碑)、埴輪型をした慰霊碑は原爆によって被爆死したすべての犠牲者の芳名が刻まれて供えられています。〝安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから〟の碑文は、その解釈を巡って論議を醸し出し、今なおその論争は続いています。捉え方の問題なのかも知れません。しかし被爆による死者の安息の場所となるように建立されたものゆえ、それを騒がせてしまうことは望まれていないのではないかと思います。

祈りの像、この像は添えられている〝碑文〟によって解釈が大きく分かれているものでもあります。他の慰霊碑が被爆によって亡くなられた方々、若しくはそれに加え全国の〝戦時中特例法〟によって動員されて戦禍に斃れた方を〝慰霊〟しているのに対し、祈りの像には〝軍人〟を含むすべての戦没者の慰霊と碑文に書かれていることがその理由です。その碑文はすり減ってしまい現在では判別が難しいものとなっているにも関わらず、その建立意図が独り歩きして論議を醸し出しているようにも思えます。しかしこれは内容を〝書き出している〟人達の解釈が含まれており、それによって〝嫌悪感〟を醸し出しているようにも感じます。勿論戦争を肯定することができるわけではありませんが、時代背景を考慮すれば例えどんな考えを持っていても、その時は〝戦争〟に協力しない訳にはいかなかった現実がある筈です。そのことを悔いて家族三人の未来に臨む姿を現していると考えれば、少なくとも〝像〟が訴えかけているものは受け入れられるものではないでしょうか?

そして平和記念資料館を通り越し、嵐の中の母子像へとやってきます。これは碑文を読むまでもなく、その建立意図がわかるものとなっています。原爆という物凄い嵐の中で乳飲み子を抱いた母親が取らざるを得なかった姿勢。いつ離れ離れになるかわからない状況で子供をどこまで護れるかを考える母親の極限の心中だったのではないでしょうか。ネグレクトという言葉が当たり前のように語られている今日、それと相反する愛情を偶像化しているようにも思えます。たまたまなのか後方にある噴水が吹き上がって、像の背景を作り出しています。目立つことは良いのかも知れませんが、ちょっと違和感も感じるところではありました。

原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑、原爆の子の像同様多くの〝折り鶴〟が供えられています。原爆投下時に於いて広島市内にいた多くは、強制疎開をしていた国民学校初等科3年生以上を除く初等科1・2年生と学徒動員に駆り出された高等科の生徒達でした。それが被爆死した子供達の人数を増やしてしまった原因となっています。正確な数字は今でも不明ですが国民学校の児童生徒約2,000名と教師約200名と言われています。しかしそのうち身元が判明した者は僅か子供885人、教師143人に過ぎません。信頼する大人として教師を頼る子供達と、大人として自らも被爆し手の打ちようがなかった教師の無念さをモチーフとして建立された像は一瞬にして起こった〝被爆〟に対してあまりにも無防備だったことへの憤りみたいなものを感じます。起こるべきして起こったことであればまだしも、何もわからず斃れた子供達と守る手段すら持てなかった教師達〟それぞれの無念さが私の心にも伝わってきました。

そして平和記念公園慰霊碑の最後となる平和の像『若葉』・湯川秀樹歌碑へとやってきます。ロータリークラブの創立記念で建立されたものですが、台座にあのノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹博士の短歌が刻まれています。〝まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは〟の短歌には、物理学者としてその原子爆弾の威力を知り、後の水爆実験等が〝理論的〟にわかるものとしての苦悩の叫びのようにも思えます。一説には〝まがつび〟が。災厄を司る〝禍津日神(まがつひのかみ)〟の仕業とする例えに、原爆を神の仕業にするのかというものもあったようです。しかしそうではなく『この場所(平和記念公園)が平和を祈る人しか来ない場所である』ことの例えとなっています。確かに建立後各慰霊碑を〝破壊〟する行為が多々あった事実を考えれば、湯川博士の〝言いたかったこと〟が伝わってきます。多くの被爆による死者が祀られている聖地に、災いをもたらす考えは必要ないとする考えは、私にも間違いなく伝わってきました。

平和の像『若葉』を訪れた時間が19:43、この日の広島の日の入り時刻が18:45なので、日没後1時間平和記念公園を回っていたことになります。結構非常識な話ですが、それは仕方がありません。そして最初に訪れた喫煙コーナーを経て平和記念ポストへとやってきます。サンフランシスコ講和条約が発効する昭和27(1952)年に広島市で開催された〝第4回郵便友の会全国大会〟を記念して建立されたもので、戦後日本の主権回復元年にあたる年のことでした。手紙を持つ裸像が乗っているポストはデザインも重みも持ち合わせているものとなっており既に65年の歴史を見てきたことになりますが、今後も広島や日本の発展を見て行くものとなってくれることを期待します。

そして元安川をイサム・ノグチ氏がデザインした〝平和大橋〟で渡り、元安川沿いに少し南下し、〝被爆動員学徒慰霊慈母観音像〟へと立ち寄ります。既に19:55となっており、照明のない観音像は、像そのものと碑文がなんとか見える程度の状態であったこともあり、手を合わせてからカメラに収めるものの、写真としては全くわからないものとなってしまいました。この〝被爆動員学徒慰霊慈母観音像〟は昭和41(1966)年7月31日に(被爆)当時の市内21校旧制中学校・女学校生徒遺族有志の集まりである〝被爆動員学徒慰霊慈母観音像奉賛会〟によって建立されました。原爆死没動員学徒6,300余名のう身元が判明した4,000余名の名前が各学校別に縦30cm横50cmの銅板性ネームプレートに刻まれてこの観音像の築山内に収められています。そして台座には〝観音となりて平和を守りゆく 少年学徒のみたま尊し〟と、築山には〝慈母観音に 抱かれ眠る汝が姿 心にえがきてわれら安らぐ〟という追悼の歌碑が刻まれています。

学徒動員慰霊碑同様、国民学校高等科・旧制中学校・女学校の生徒達は労働力の不足を補うために〝学徒動員令〟に基づき軍需産業部に於いての勤労奉仕が強制され、空襲による火災の拡大を防ぐための消防道路・防空小空地を造る〝建物疎開〟に従事していました。そして被爆当日の昭和20(1945)年8月6日には広島市内では133ヶ所の建物疎開作業の後片づけに生徒8,000人以上が出動しており、そして被爆により約6,300人が亡くなりました。やはり志半ばで斃れた子供達の安らぎの場として作られた場所、暗くてわからないでは申し訳なく思い、改めての再訪を願いつつ最後に手を合わせて出発します。

平和大通りを東進し平和記念公園の最寄りは袋町電停なのかも知れませんが、なんとなく呉からのバスで降り立った〝中電前電停〟へと向かいます。電停付近のローソン広島大手町店で一服し、慣れないと怖い路面電車のホームへと向かいます。ちょうどホームへと出た時に元京都市電1900系1907〝銀閣〟の車両入線してきました。昭和53(1978)年10月1日に廃止され、広島電鉄へとやって来た1900系車両は15両すべてがまだ現役で走っています。既に廃止から39年が経とうとしている中で元気に広島の街中を走る〝元京都市電〟には見ていて元気を与えられます。広島に来たときはいつでも会えることを願って、逆方向へと走って行く車両を見送ります。広島電鉄は電車の行き先と目的地が違うとき、乗り継ぎ券を発行して貰い均一料金で乗車することができます。先に入線した700系の横川行きに乗っても紙屋町東電停で乗り換えられるのですが、なぜか田舎者は臆病になってしまい、次の広島駅行きを待つことにします。やって来たのは5100系で愛称は〝グリーンムーバーマックス〟。なんかネーミングは笑ってしまいますが、国産初のフルフラット超低床電車です。路面電車というよりもは、実家付近を走っているノンステップバスのロングシート版みたいな印象を受けます。連接車ということもあり、比較的揺れは少ないのですが〝路面電車〟というあまり体験しない〝揺れ方〟に乗り鉄はちょっと興奮します(笑)。

乗車後約20分で広島駅へと到着し、広島電鉄とお別れします。ただここで広島を甘く見た〝しっぺ返し〟を受けることになります。ブラブラと駅前を歩いているとすぐに21:00となります。政令指定都市広島!なのでお土産を求めて歩きますがほとんどのお店が21:00閉店だということがわかります。おまけに時間を同じくしマツダスタジアムからカープファンが帰ってきます。折しも今日の試合は敗戦試合、おまけに緒方監督が退場処分となっていることがわかりガラの悪さが目立ちます。一旦お店に入ってしまうと長くなることは聞いていたので、さっさと済ませられる食事場所…、結局今夜の晩御飯は〝マックでディナー〟となってしまいます。

駅前の広島東郵便局に立ち寄って今回の旅の〝秘密兵器〟としたかった〝写ルンです1600 Hi-Speed〟を現像するためにポストインします。その名の通り昭和の〝代物〟ではあるものの、ISO1600とシャッタースピード1/200、それに加えてストロボ付きという〝アナログカメラ〟は、昨年6月に沖縄で〝壕内部〟を撮影した時に効果を発してくれました。今回も平和記念公園が夜間撮影となることを予想していたため、持ち歩いてはいましたが…後日談ではありますがやはり〝距離〟がある被写体であればあまり効果的でもなかったのが今回の結果でした。

それから駅ビルへと入り、埋まる前の〝マクドナルドJR広島駅前店〟に立ち寄ります。仕事帰りのサラリーマンが軽食や一服をするためにそれなりの人はいたものの、空席はあることは確認しました。赤いユニフォーム着用は正にカープカラーではありますが、バッティングするのを避けるため、ささっと済ませることにします。確か最近メニューに加わった〝グランベーコンチーズ〟をチョイス。定番の〝ダブルチーズ〟とはちょっと違った味でしたが、やはり癖になる味かと思います。ただ店の外を通る赤いユニフォーム姿にはゆっくりする気も起こらず、一息ついて店を出ることにします。

ここから少し悲劇が始まります。この広島駅の構造は初めて利用の私にとってよくわからないところばかりです。南口と北口はおろかある筈の自由通路すら場所がわかりません。おまけに南北も勘違いしており、わざわざ遠回りをして北口まで出てしまい、夜行バスの乗場すらわからない状態…。おまけに駅前はカープ腐女子の行列となり、人混みを避けるように歩いて行った結果の悲劇となりました(泣)。結局はスマホナビを使えば訳ないことがわかり、かなりの大回りをして元の広島東郵便局前に到着し、出発10分前にバス停に到着しました。呉に到着してから25時間、後は大阪経由で帰るのみとなりました。

今年になって夜行バスの利用が増え、行き先の絡みでジェイアールバスの利用が続いていました。今回も広島発の〝山陽ドリーム広島2号〟の予定だったのですが、たまたま見ていたバスサイトで広島~大阪3列独立シートのバスを3,500円で発見し、急いで手配をしています。夜行バスには大きく分けて〝路線バス〟と〝ツアーバス〟がありました。一定の基準を満たすものが路線バスだった時代に〝値段の安さ〟で市民権を得たのが〝ツアーバス〟でした。バス停を持つ路線バスに対し、集合場所しかなかったツアーバスの違いは明らかではありましたが、交通費を安く上げたい若者の利用が増加し、その勢いは路線バスの運行をも圧迫。撤退を余儀なくされた会社も少なくはありません。しかしその安易な選択を揺るがす事故が起こりました。平成24(2012)年4月29日に群馬県藤岡市の関越自動車道上り線藤岡ジャンクション付近にて都市間ツアーバスが防音壁に衝突した〝関越自動車道高速バス居眠り運転事故〟がそれで、乗員乗客46人のうち乗客7人が死亡し2人が重体、12人が重傷、25人が軽傷を負いました。高速道路における単独車両の事故としては前例がない程の死者数であり、この事故を契機に高速ツアーバスは廃止され新高速乗合バスに集約されることになりました。運転士の臨時雇用を含めたバス会社の問題、そして原価を割る金額での旅行会社のバス発注等旅行業界の悪しき習慣から引き起こされた事故であるとも言うことができます。その恩恵を被るべく利用者である〝乗客の過失〟を追求する声もあれど、少なくとも素人目でわかるような問題ではなく、それを隠して運行していた関連業者すべての問題といっても過言ではありません。また旅行会社の主催旅行中に起こった平成28(2016)年1月15日に長野県軽井沢町の国道18号線碓氷バイパスでのスキーバス転落事故。乗員乗客41名のうち乗員乗客15名が死亡し、乗客26人がけがをしました。運転士のスキルが最大の理由だとされているこの事故も、結局はバスを安く買い叩いていた旅行会社やバス手配をするラウンドオペレーターの〝儲け主義〟が引き起こしたことには違いありません。しかしこのふたつのバス事故には共通点があり、運転士の判断でルートを変更していた事実があります。大手バス会社でもルートの変更はされますが、ドライバーの判断だけにはならず、必ずバス会社の〝運行管理者〟の許可のもと変更がされることとなります。もしそれを怠ると道路運送法違反となりドライバーの問題だけではなく会社の問題とされてしまいます。それを踏まえても会社が適当な管理しかしていなかったことは間違いないことであり、死者数を考えても会社が潰れる程度の責任で済まないことだと思います。

これだけのことがあり、バス停を管理しなければならないといった負担がバス会社に課せられることとなり、多くのツアーバス会社が撤退を余儀なくされた中で今なお運行を続けている会社は、そういった面では問題ないと考えたことが、今回のバスの選択に繋がっています。JAMJAM LINER、昔から都市間夜行バスとしては有名な名前ですが、運行会社は日本ユース旅行株式会社となっています。愛知県知事登録第2種免許取得をしている旅行会社ですが、新高速バス乗合バスの基準を満たしているとのことで免許取得されていると考えます。しかし以前のように数を運行することができなくなったこともあり、広島線に投入されている車両は〝コンビグレード〟のものとなっています。前方に3列独立シート14席、後方に4列シート6列の24席、計38席という変則なシートパターンとなっていますが、客数は限定されるも3列と4列のそれぞれを望む顧客のニーズに応えられるとの理由で、元ツアーバス会社が最近導入しています。その1席をあてがわれ広島を出ると東福山駅前を経由し、篠坂パーキングエリアともう一ヵ所休憩を取って大阪へと向かいます。既にバス車内はカーテンが閉められており、そのまま寝てしまっても睡眠の妨げにはならないようにされています。4列シートは結構混んでいたようですが3列は一列ひとりのパターン。3Dの3列目運転席側の席について、シートのコンセントでiPhoneを充電します。ドライバー氏曰く東福山までも消灯するとのことだったのでスマホいじりも遠慮し、22:15、出発時間となった広島駅をゆっくりとバスは出発します。いろんな旅行客の想いを乗せて…。

1時間半ほどで東福山駅へと到着し、数人の乗車受付をして出発します。日が変わった0:13、岡山県笠岡市の篠坂パーキングエリアに到着しトイレ休憩が取られます。ふと気づいたことがバスにはトイレがついていないことでした。どうやらトイレスペースを座席化していることは想像できますが、そのため2ヶ所のトイレ休憩が設けられています。私が学生の頃はトイレ付き夜行バスでもトイレ休憩がありました。現在では乗務員の仕事を減らすため大手のバス会社でワンマン運行しているところでは、乗務員の仮眠中は下車することができなくなっています。とは言え何もないパーキングエリアでは一服することしかできません。出発は0:35となってはいましたがさっさと戻ってきて、寝る準備をします。間もなく出発すると完全消灯となり、真っ暗闇の車内となりました。もう1ヵ所停まるはずですがそれよりもう起きていられません。気がついたら寝ていたようです。弾丸呉・広島ツアーを何とか遂行させた満足感に抱かれてzzz…そしてバスは西へと走って行きます。

平成29年4月20日木曜日

到着のアナウンスで目が覚めました。間もなく梅田とのコール。カーテンが閉まっているので外の様子はわかりませんが、信号で停まったりしているのですでに一般道に下りているようです。バックギアに入れる振動で到着を知ります。6:05到着、梅田といっても中津モータープールなので歩くと結構距離があります。バスを降りて荷物を受け取りに行きます。センダーと呼ばれる乗車と下車の案内をするスタッフはいるものの、荷物の出し入れはドライバーの仕事のようです。昨夜高速のインターでのやり取りに一抹の不安はありましたが、まあよく寝て大阪まで帰って来られたことと値段のことを考えれば良き旅だったとすることにします。リュックひとつの荷物では揉めることもありませんが、中にはキャリーバックのハンドルが壊れたのどうのこうの…と言っている人もいました。そのあたりは免責であることはチケットを購入する際に記載されているので、そういう場合は旅行保険の携行品補償に入っておくしかありません。とゴタクを並べている間はなく、さっさと敷地から追い出されます。6:00台というと各方面から大阪行きのバスラッシュの時間でもあり、うろうろすると危険なのでしょう。しか~しここで田舎者の悲しい性が出てしまいます。つまり〝方向〟がわかりません(泣)。誰かにくっついていけばいいと思っていたら、ほとんどは阪急に乗って行くようでその後は独力で行くしかありません。といっても頭はまだ睡眠中ゆえ閃くものもなくただトボトボと歩いて行くとようやく〝Whity梅田〟の表示を見つけます。やっと元気になるとお腹が減ったことに気付きます。なぜかそのまま歩いて行って北新地を越え、四ッ橋筋へと上がってきます。途中コンビニの灰皿を見つけて一服。そして以前にも来たことのある〝吉野家桜橋店〟へと向かいます。朝から元気なお兄さんたちは、昨日の夜から働いていたと見えるホストのよう。その目を見張る食欲に唖然としながら負けじと納豆定食大盛りを注文します。昨日のマックだけではさすがに持たなかった…、そんなこともあってかガッツいて食べてしまいました。そして完食し、満足~っと思った瞬間現実に引き戻されます。〝帰らないと…〟ということに。でもここまで来ればもう大丈夫、苦手な地下を避けて地上を歩き、大阪駅へとやってきます。大阪へと出勤して来るにはまだ早い時間、京都方面の快速が先に入線してきたので座れることを願って乗車します。案の定新大阪を過ぎたあたりで座ることができましたが、そうすると物凄い眠気が襲ってきます。快速といっても米原行き、寝過ごすと致命傷になります。なので眠いのを必死で我慢して起きたまま京都へと到着。さすがに8時台、乗下車ともに結構な数でした。でも後15分では寝る訳にも行きません。ひとつ…ふたつ…とトンネルを越えるとそこは南近江の国、その3つ目の乗降客数だけで〝南近江の国首都駅〟と称してるただの田舎駅に到着。行きと同様馴染みの駅前のファミマに立ち寄り、タバコを購入。禁煙化された場所をスルーして、仕事帰りの一服ステーションで一服を済ませると、田舎の赤バスを待ちます。迎えに来てくれたら…なんて思いますが、あくまでプライベートな旅ゆえそこまでは言えません。どうやらバス停には高校生らしい集団の存在がありました。多分頭の良い学校は始まっている時間なので多分我が家最寄りのバス停の次にある定時制か…ということはすぐにわかったため、ちゃっちゃとバスに乗る準備をしておきます。8:40発バイパス経由のバスは、田舎だけれど国道の迂回路化している我が町の渋滞にあって早着とまではいかなかったもののほぼ時間通りにド田舎バス停に到着。我が家への道程を歩きながら、出発時には桜が咲いていた若木も、47時間で花が散っていることを知ります。桜には本当に縁がないことを知っている私にとって落ち込むまでもありません。そして再び歩くこと数分で我が家に到着。47時間で試験を受けて呉まで行って、必死で呉を歩いたと思ったら広島へと移動。日暮れとの時間の時間の戦いをしながら歩いた旅は、こうして無事終わりを告げました~。ちなみに…なのですが、夜行バスで帰ってきたらまずはひと寝りというのが普通ですが、普通の旅をしない私にとってこの後は仕事です。9:00に帰って来て12:30に出勤し、21:00に帰って来ることは果たしてできたのでしょうか(笑)。

長文にお付き合い頂きましてまことにありがとうございます。これにて〝《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅣ~広島平和記念公園散策・そして淡海へ編~〟は終わります。

平成29年4月19日水曜日

起床 06:56
チェックアウト 08:55
大和ミュージアム 09:00
09:15
《見学:09:21~11:53(500円)》
         12:00
BEACON 12:05~12:25
《士官のカレー:1,480円》
てつのくじら館 12:35~13:33
呉中央桟橋ターミナル 13:45
《セブンイレブン呉中央桟橋ターミナル店:水(130円)》
13:58
入船山記念館 14:10《入場料:(JAF割引)200円》
15:27
《セブンイレブン:水とタバコ(1,140円)
長迫公園 16:07《コーヒー:160円》
17:00
呉本通七郵便局 17:05
17:10
本通六丁目バス停 17:14
17:15
呉駅前 17:24 《クレアライン線バス:740円》
中電前バス停 18:09
平和記念公園 18:15
  《》
19:50
中電前電停 20:06
20:15《広島電鉄:160円》
広島 20:35
広島東郵便局 20:42
20:57
マクドナルドJR広島駅店 21:00
《グランベーコンチーズ:520円》
             21:15
JAMJAMライナー広島駅バス停 22:05
22:15
《JX522便3列ゆったりコンビweb割:3,500円》
篠坂パーキングエリア 0:13《水:120円》
0:37
梅田モータープール 06:05
吉野家桜橋店 06:45
《納豆定食:390円》
07:07
大阪 07:22
07:28《JR:730円》
石山 08:22
《ファミリーマート石山駅前店:タバコ・コーヒー(553円)》
08:40
石山団地中央 08:53《京阪バス:230円》
自宅 08:58//

2日目のお小遣い:10,553円
総費用:25,409円

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
1.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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