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平和大橋

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IkiruとShinuではちょっと…。

  • 5.0
  • 旅行時期:2017/04(約9年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

広島市 クチコミ:49件

広島平和記念公園南を通る平和大通りに架かる橋である〝平和大橋〟。明治期にはこの地に架けられていた〝新橋〟という名の木橋があったものの昭和20(1945)年原爆被災の際に落橋し昭和27(1952)年に再架橋されています。昭和21(1946)年の〝広島復興都市計画〟によって平和大通りの整備が決定、昭和24(1949)年〝広島平和記念都市建設法〟が公布・施行、米軍からの援助物資を売ったお金元手に国の直轄事業として行い新橋および新大橋の再架橋が決定しています。工事途中の昭和26(1951)年には欄干デザインにイサムノグチが起用されることが決定すると、一般公募された〝新しい橋〟の名称が〝平和大橋〟と〝西平和大橋〟、そして道路は〝平和大通り〟と名付けられました。独特な形状をもつ欄干のデザインを持つ二つの橋は昭和27(1952)年3月31に竣工、同年6月3日に完工式が行われています。

その後広島の発展とモーターリゼーション化によって平和大通りの交通量は増大し、両橋共通して車道・歩道ともに幅員が狭かったことから慢性的な渋滞が発生するようになります。また竣工当時から問題視されていた〝低い欄干〟は毎年行われる〝ひろしまフラワーフェスティバル〟に於いて〝転落事故防止〟のため鉄パイプによる仮欄干の設置ともしもの時のため川にはダイバーが待機している状況にまでなっていました。また経年劣化のため中の鉄筋が露出する状態にまでなったため、昭和58(1983)年補修工事として面を石風塗料でコーティングするものの、欄干デザインをしたイサムノグチ氏はコンクリート製の〝荒々しさ〟がなくなったと残念がったエピソードも残っています。

平成7(1995)年に起こった阪神淡路大震災を受けて耐震強度を計算したところ、その規模の地震によって落橋の危険性があることが判明します。その後平成14(2002)からの〝平和大通りリニューアル事業〟によって架け替えが検討されるも、高額な工事費によってなかなか進まない現状となっています。最終的には交通渋滞の解消も含め〝歩道〟と〝車道〟を分けた橋としての建設が進み、平成30年を目途にした完成が言われています。

欄干をデザインしたイサムノグチ氏は昭和26(1951)年に広島を来訪し、〝6年前の忌まわしい雰囲気が地面に静かに横たわっている。しかしその地上に生活する民の顔は大きな希望に燃えて逞しい〟と賞し、人の生と死をテーマにデザインを決定し、当初は2つの橋について平和公園を基準に以下の命名がなされています。平和大橋:昇る太陽を象徴として〝生きるIkiru(To Live)〟、西平和大橋:沈む夕日は〝別離Shinu(To Die)〟とネーミングされたものの、やはり日本人には誤解を受けると言われることが多く、竣工と同時期に公開された黒澤映画〝生きる〟に影響を受け、それぞれが〝Tsukuru(To Build)〟〝Yuku(To Depart)〟とされて現在に至っています。

勿論イサムノグチ氏が〝原爆を落とした国の人間としての罪悪感〟という言葉を発していることから、安易なネーミングをしたとは思わないものの、やはり被爆側としてはこのストレート過ぎるネーミングには嫌悪感を与えてしまうことは大いに考えられます。そういう意味では無難に片付けたことなのかも知れませんが〝Tsukuru(To Build)〟〝Yuku(To Depart)〟で訪れるすべての方々の心に響いている現状はそれはそれで目的の達成はしているようにも思えます。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
広島電鉄中電前・袋町電停から歩いてすぐ。
人混みの少なさ:
3.5
時間にもよりますが夕方夜とも結構多いです。
バリアフリー:
5.0
段差はありません。
見ごたえ:
5.0
イサムノグチ氏の想いのこもった欄干に感動です。

クチコミ投稿日:2017/05/31

いいね!:12

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