呉・海田・安浦旅行記(ブログ) 一覧に戻る
平成29年4月19日水曜日<br /><br /> 昨年度の資格試験合格実績に味をしめて、今年度の資格試験〝最初〟のターゲットとして選んだ〝第一種衛生管理者〟。昨秋の〝第二種衛生管理者〟は偶々出張試験が行われる時期だったこともあり大阪で受験しましたが、今回は出張試験が行われる時期ではないため、近畿地区の場合は加古川の近畿安全衛生技術センターへと向かわなければなりません。我が街南淡海の国からは2時間強掛かる場所ゆえ、前回訪れた時期すら覚えていない位に久しぶりです。勿論第一目標は試験合格なのですが、ここまで出向いてきたのなら…という思いに駆られ、After Testのお楽しみとして広島行きを胸に秘めて自宅を出発します。その二日目後半は大和ミュージアムをじっくりと見学し終えたところから始まります。いつもながら今回もほぼ〝ノープラン〟でのスタートで、呉を発つ時間だけを事前に組んだだけです。気分次第の気まぐれ旅、さあどうなったのでしょうか?<br /><br />大和ミュージアム<br />  《見学:09:21~11:53(500円)》<br />         12:00<br />BEACON 12:05~12:25<br />  《士官のカレー:1,450円》<br />てつのくじら館 12:33<br />  《見学:12:35~13:33》<br />        12:35<br />呉中央桟橋ターミナル 13:45<br />  《セブンイレブン呉中央桟橋ターミナル店:水(130円)》<br />           13:58<br />入船山記念館 14:10<br />  《入場料:(JAF割引)200円》2280<br />       15:27<br />  《セブンイレブン呉市四ツ道路店:水とタバコ(1,140円)<br />長迫公園 16:07<br />  《コーヒー:160円》<br />     17:00<br />呉本通七郵便局 17:05<br />        17:10<br />呉本通六丁目バス停 17:14<br />          17:15<br />呉駅前 17:24<br />  《クレアライン線バス:740円》<br />中電前バス停 18:09<br />平和記念公園 18:15<br /><br />のんびりと2時間半かけて大和ミュージアムを見学し、館外へと出てきました。ちょうどお昼時だったこともあり、一服しながら〝海自カレー〟の提供店を探したところ、大和ミュージアム隣の〝シーサイドカフェBEACON〟が最寄り店舗としてヒットしたため向かうことにします。館内は海図をモチーフとした天井など〝海〟をテーマに纏められており、なかなか良い雰囲気を醸し出しています。護衛艦さみだれの艦長認可の〝さみだれカレー〟の提供をされていますが、ナンで食すさみだれカレーより、ご飯ものの〝士官のカレー〟に惹かれたためそちらをチョイスしました。じっくり煮込んだ牛タンが乗っかった士官のカレー、1,450円は決して安くはありません。しかし〝街おこし〟の一環として、呉に来て食べない訳にはいきません。ただやはりグルメでない私には、〝カレールー〟そのものの味にしか思えない悲しさがありました。お料理は写真で切り取った通りのものでしたが、時間的なこともありゆっくりと寛ぐ訳にもいきません。人気店の宿命〝待たされる〟ことはなかったので、座ってから席を立つまで20分という超速で済ませ、お店を出ることにします。<br /><br />ひとつだけ悪態をつくと、責任者と思しき若い男性が入店から順番に席へと案内をし、オーダーを取っていましたが、身勝手な年寄り集団が順番抜きにして座席を確保しようとする・・・。それを正して待つようにと指示を出すものの、結局は同じことの繰り返し。確かに怒りたくなる気持ちはわかりますが、かといって要領がまだわかっていない若いスタッフに〝あたる〟ような態度は見ていてあまり気持ちのいいものではありません。多分飲食業と物販販売は違うのでしょうが、そう思った客一名がいたことは気を付けて頂きたく思いました。<br /><br />程良くお腹も膨れ、道路を挟んだ場所にある〝鉄のくじら館〟に向かいます。正式名称は海上自衛隊呉資料館と言いますが、現在海上自衛隊の資料館は全国に3つあり、鹿児島県の鹿屋航空基地資料館(航空関係)・長崎県の佐世保資料館(艦艇)そしてここ呉資料館となりますが、それぞれ〝主題〟として取り上げられている内容が異なり、呉の場合は主として〝潜水艦〟と〝掃海任務〟についてわかりやすく説明されています。<br /><br />入口手前にで~んと横たわる巨大な潜水艦。ゆうしお型潜水艦で平成16(2004)年まで現役だった〝あきしお〟です。一部防諜上の理由によりダミーに変わってはいるものの紛れもない〝実物〟です。その下を潜り抜けて入口へと向かいます。海上自衛隊の広報業務のひとつとして旧海軍に始まり、海上自衛隊となった現在までの歴史や装備品の紹介などが展示物やビジュアルで細かく解説されています。<br /><br />1階部分では海上自衛隊の歴史について、2階では機雷の脅威と掃海艇の活躍、3階では潜水艦の活躍について、それぞれ実物・模型・絵図や映像などの資料を用いて紹介しています。掃海任務と言われてもピンと来ないのかも知れませんが、機雷処理のエキスパートのことに他なりません。色々な衝撃によって爆発する機雷を除去する任務は、戦後海上保安庁に掃海部隊置かれたことにはじまります。時代背景は昭和25(1950)年頃の朝鮮戦争、それに加えて第二次世界大戦時に敷設された機雷を含めて除去していく任務を担います。その後海上保自衛隊の発足に伴い、掃海部隊も海上自衛隊へと移管されます。それから60年もの月日が経ち、通常では爆発しなくなっている〝はず〟の第二次世界大戦時の機雷も、一旦爆発すると容易に船を〝沈める〟のに十分な火薬を持ったまま海中に沈んでいるのが現実です。掃海任務そのものに〝戦い〟が直接絡むことはないものの、ひとつ間違うと自らが爆発に巻き込まれる危険な任務についている海上自衛隊掃海部隊の働きには正直頭が下がります。知られている話では自衛隊初の海外派遣となった湾岸戦争後のペルシャ湾掃海派遣任務(湾岸の夜明け作戦)に海上自衛隊があたりました。その当時の掃海隊群司令落合畯(おちあいたおさ)一等海佐にクェート政府から贈られた〝勲章〟が展示品の中でも一際輝いていました。<br /><br />この落合畯氏は知る人ぞ知る第二次世界大戦末期に海軍沖縄根拠地隊司令官として『沖縄県民カクタタカヘリ』の電文を大本営に打電した後に自決された大田実中将の三男です。大田司令官が『沖縄県民…』の電文を打ったことを〝出来過ぎたでっち上げ〟だとバッシングするものが少なからずいました。それが徐々に減ってきたその背景には、大田司令官にはその『沖縄県民の自らを省みないでの戦争協力』を伝えなければならない〝絶対的な理由〟が調査によって明らかになってきたことが理由に挙げられています。それは昭和20(1945)年1月、沖縄県最後の官選知事として赴任した〝島田叡知事〟との関係です。軍人と行政のトップといえば、水と油の関係と取られることが多い時代に、10歳も年が若い島田知事のことを大田司令官は尊敬をしていたことがわかっています。そして電文が打電された6月6日といえば、沖縄守備陸軍第32軍司令部も沖縄県庁もほぼ役割を果たせていない状態に陥っていました。しかし尊敬する島田知事の仕事のひとつでもある〝内務省〟への報告すら通信手段の途絶によってままならない状態になっていることを知っていた大田司令官には見過ごすことはできなかった…。しかし恩着せがましく言うことでもないのは当然わかっていたこともあり、そこから必然的に出てきた言葉が文中に出てくる以下の文言になっています。<br /><br />〝本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ〟<br /><br />大田司令官の〝お人柄〟もあると思うのですが、もしこの打電がなければ沖縄で会った悲劇はどのように伝わっていたのだろう…と考えることがあります。少なくとも現在知られていることすらわからなかったことには違いなかったでしょう。そして電文が送られてから約50年後、三男の落合畯氏が掃海隊群司令としてペルシャ湾へと向かうこととなります。海将補で退官された後にその任務(掃海任務)のことについて以下のようにコメントされています。<br /><br />遠い極東の日本から〝掃海母艦はやせ〟を旗艦としたこんな小さな船でペルシャ湾までやってきて、クウェート国民のために危険極まりない機雷の除去をやってくれた。このことについてクウェート国民は大変感謝しており、心からお礼を申し上げる。しかし日本は第二次世界大戦後45年間戦争をしていない筈だ。にも拘らずその間に戦争を経験している米・英・仏といった先進緒国と同様に、掃海任務という最も難しい技術を持っているのか?それとも日本は隠れて戦争をしていたのか?との質問に対し落合指揮官は、『そうではない。昭和20(1945)年3月、瀬戸内海を中心として日本近海に約1万2千個の機雷が敷設され、日本海軍はその脅威に敢然と挑戦しその機雷掃海作業は終戦後も営々と続けられた。それはやがて海上自衛隊に引き継がれ日本近海に於ける船舶航行の安全確保のために、掃海業務は昭和40年代後半まで継続された。私自身も若い頃その掃海業務に従事した経験がある。第二次大戦以後約45年間も平和が続いた日本の掃海部隊が先進諸国と同等に実任務につけるのは、旧海軍の先輩達が良き伝統を残してくれたお陰であり、それに加えて任務を引き継いだ海上自衛隊の掃海部隊が、堅実に訓練を励行し技量を磨いて来た努力の積み重ねがあったからである。』と答えられています。<br /><br />それは『戦争というものを肯定するのではなく、戦時中に多くの機雷敷設を近海に行われ、そのことによって船舶の航行に著しい障害となった史実をもとに旧海軍の掃海技術が現在の海上自衛隊に引き継がれ、それを堅実に励行し技量を磨いてきた努力の積み重ねによってその技術が生きているということに他ならない』ということは、戦争という〝破壊〟しか生まなかった〝軍隊〟といわれる中で、国民生活に於ける〝障害〟となった〝敷設機雷〟に対し、海軍が持つ〝掃海技術〟を用い可能な限り機雷を除去することによって、国民生活の〝改善〟に尽くしたという〝事実〟があり、今なおなくなることのない戦争時に敷設された〝機雷〟を除去する任務を海上自衛隊が受け継ぎ、世界平和に貢献していることは、疑いのない事実だと考えられます。第二次世界大戦末期に米軍によって敷設された機雷によって、軍民問わず船舶が安全に航行したり港に入ることができなくなりました。そして機雷に触れたことによって多くの船舶が沈没したことは周知の事実です。あの戦艦大和が広島港や瀬戸内海に敷設された機雷によって、母港の呉へと戻れずに徳山沖で停泊を余儀なくされ、そのまま天一号作戦によって沖縄特攻へと向かった史実もあります。<br /><br />掃海というあまり一般的には知られていない任務についている海上自衛隊の部隊ゆえ、知らない方からは〝軍隊〟に違いないと十把一絡げに言われてしまうことは、残念に思えて仕方がありません。今では掃海技術も発展を遂げ、昔のように〝自らが囮〟になって機雷を探すようなことはなくなってはいます。しかしそのような手段でしか探すことができなかった〝ある種の機雷〟を除去する任務は、第二次世界大戦末期に日本軍が〝究極の攻撃〟とした許されざる〝特攻〟となんら変わらぬものでした。戦争が終わっても〝特攻任務〟に就かなければならなかった事実は、やはりもっと多くの人々に知られるべきことのように思えてなりません。<br /><br />海上自衛隊の資料館ということだけで〝嫌悪感〟を持たれる方もいるので、敢えて館内の紹介は控えます。しかし何度も言うようですが〝命を張った〟任務には違いないので、事実を知り〝掃海任務〟による本当の〝価値〟や〝目的〟は知らなければならないことに違いないと改めて思います。<br /><br />一通り見学を済ませてやって来たのは〝広報コーナー〟。呉にある3つの海上自衛隊施設の見学について書かれています。まず江田島の〝海上自衛隊第1術科学校〟、ここでは旧海軍兵学校施設と教育参考館が一般公開されています。平日3回・土休日4回あって所要時間は1時間半となっており、個人の場合は原則予約は不要となっています。そして〝海上自衛隊艦艇〟、日曜日のみ3回行われ所要時間は1時間となっています。場所は係船堀地区(アレイからすこじま)で、人数関係なく予約が必要となっています。後〝呉地方総監部第一庁舎〟、旧海軍呉鎮守府庁舎が公開されており日曜日に2回行われ、所要時間は30分となっています。こちらも人数関係なく予約が必要となっており、見学予約は海上自衛隊呉地方総監部広報係20日前~10日前16:30までの間となっています。申し込みはFAXのみにて受付となっており、もし申込書を打ち出すプリンターや送信するFAXがない場合はネットカフェやコンビニを利用してくださいとのことでした。今回は時間や曜日の関係でどうしても訪れることができませんでしたが、近いうちに必ず訪れたいと改めて思います。<br /><br />掲示板の隣にはショップとカフェが併設されてオープンしています。海上自衛隊オリジナルのグッズ等多々商品を扱っておられるようで、少々値は張るものの目を惹く品物が多いのも確かでした。またこの4月に認定された海上自衛隊カレーのひとつ〝あきしおカレー〟が味わえます。既に退役した〝潜水艦〟である〝あきしお〟なので、海自カレーのシールラリーには参加できなかったと書いてあることがなんか私にとって〝ツボ〟でした(笑)♪潜水艦の形をした〝ごはん〟等、なんかカワ(・∀・)イイ!!と思えてしまい、次回の呉訪問時の〝朝食〟に是非とも訪れたいと心に決めました。<br /><br />本来なら写真をバチバチ撮ってくるのですが、写真に切り取ってしまうともう来ない気がしたので敢えて多くの記録は取りませんでした。1時間程で館内を巡り終え、次の目的地へと向かいます。一旦大和ミュージアムの前を通り、その隣の呉中央桟橋へとやってきます。松山や広島港の他、江田島への航路もあるこの呉港ですがせっかくなので広島へと向かうのに高速艇を利用しようと思いきや〝2,050円〟、フェリーなら〝930円〟。バスでも〝740円〟で行くことができるので時間と予算的にちょっと…。ということでまあ時間には…ということにして、時間のことを気にしながら次の目的地へと向かいます。<br /><br />呉中央桟橋から東進し、海上自衛隊呉教育隊の敷地を回り込むように歩くと、広島電鉄教育隊前のバス停があります。そこを通り過ぎて右に曲がると美術館通りへと入り、呉市立美術館を通り過ぎると入船山公園へと到着します。結構大きな公園である入船山公園ですが、その北側に入船山記念館があります。第42代文武天皇のご時世であった大宝3(703)年にこの地に〝亀山神社〟が創建され長く鎮座していましたが、明治19(1886)年に呉鎮守府が開設されるのに伴って大日本帝国海軍に接収されました。明治22(1889)年この地に洋風木造2階建の軍政会議所兼水交社が建てられ、呉鎮守府開庁式の際には明治天皇の行在所としても使用されており、その後明治25(1892)年以降は呉鎮守府司令長官官舎として使用されることになりました。<br /><br />戦後昭和31(1956)年までイギリス連邦占領軍司令官官舎として使用された後大蔵省の管理下の建物となった後、昭和41(1966)年の旧軍港市転換法に基づき呉市に無償貸与移管され、翌昭和42(1967)年から入船山記念館として一般公開を開始しました。その後平成27(2015)年から指定管理者制度が導入されるに際し〝入船山記念館運営グループ〟が管理者となり、約700m離れた位置にある呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)と一体化した観光展開をして現在に至っています。<br /><br />入口の門を潜ると休憩所がありました。〝旧東郷家住宅離れ〟、木造平屋造瓦葺で建築面積37㎡の8畳と6畳の2間があるこの建物、あの海軍元帥東郷平八郎が海軍大佐の時代に呉鎮守府参謀長として赴任した際に正圓寺の山手付近に居住し、その邸宅の離れであった建物を移築したものになります。呉鎮守府に勤務していた1年7ヶ月をこの屋敷に住まい、残念ながら母屋は明治期の火災によって焼失しますが、この離れだけは運良く残ったそうです。しかし一度移設はされたようですが、そのまま放置されたため荒廃が進んでいたところを創設20周年記念として呉東ロータリークラブが呉市に寄付し昭和55(1980)年に現地に移築復元されました。その後市民や観光客の〝休憩所〟としての役割を果たし、平成9(1997)年5月に国の登録有形文化財に指定され現在に至っています。また離れの目の前に広がる庭園は昭和の〝小堀遠州〟と称された造園家である中根金作氏の監修によるものです。<br /><br />園内へと続く通路は元呉市電として昭和42(1967)年まで走っていた市内電車の礎石が敷かれています。そして入船山記念館のパンフレットには欠かせない〝旧呉海軍工廠塔時計〟が出迎えてくれました。大正10(1921)年6月10日に旧呉海軍工廠造機部の屋上に設置されたこの時計塔、昭和20(1945)年の終戦まで工廠と共にその歴史の時を刻んできました。現在も動いている電動親子式衝動時計としては国産最初のものであり、終戦後旧工廠内にあったものを昭和46(1971)年5月に入船山記念館内に移設展示され、昭和56(1981)年の修理により再び時を刻み始めた塔時計は、同年呉市有形文化財に指定され現在に至っています。<br /><br />そして〝番兵塔〟〝往来安全石灯籠〟〝呉市入船山記念館旧高烏砲台火薬庫(平成23(2011)年10月国の登録有形文化財指定)〟〝要塞地帯標〟等呉の生活や軍の中核都市であったことに由来する品々を眺めながら、チケットブースである郷土館へとやってきます。入場料は250円ですが、当日の大和ミュージアムのチケットを見せると200円となります。勿論JAF会員割引もありました。チケットを購入し、まずは郷土館二階の〝呉鎮守府司令長官官舎〟や〝長官〟に纏わる資料を見学します。更に歩くと記念館の顔である〝呉鎮守府司令長官官舎〟が見えてきます。その前に敷地内にある〝歴史民俗資料館〟に立ち寄って、〝呉鎮守府司令長官官舎〟復元になくてはないものであった〝金唐紙〟等の歴史と現状を眺めながら予備知識を詰め込みました。そしていよいよ旧呉鎮守府司令長官官舎へと入ります。<br /><br />木造平屋建てで建築面積527.1㎡の旧呉鎮守府司令長官官舎は、入船山記念館の本館にあたる建物になります。初代の司令長官官舎は明治38(1905)年6月の芸予地震により倒壊してしまったため、現存するものは同年に崩壊材を一部使用して再建された2代目のものとなっています。設計は呉鎮守府建築課課長の桜井小太郎で、平成3(1991)年から平成7(1995)年にかけて大規模な補修を行いました。平成10(1998)には国の重要文化財に指定され、平成17(2005)年には100周年記念式典が行われました<br /><br />和洋折衷の建物で手前が洋館となっており廊下でつながった奥が和館となっています。洋館部はイギリス風半木骨造(ハーフティンバー様式)で仕上げられており、屋根は宮城県雄勝産の天然粘板岩(スレート)の魚鱗葺き、玄関のステンドグラスはイギリス製、執務室には日本国内に数例しかない金唐革紙が貼られています。当時洋館に執務室や応接室があり家具も英国でしつらえ、いわゆる迎賓館的な役割も果たしていました。一方で住居として使用された和館部分は質素な造りになっています。<br /><br />戦後接収していたBCOF(イギリス連邦占領軍)は壁紙の上からペンキを塗って白壁としていました。平成に入り防衛研究所で初代司令長官官舎の図面が書かれた〝明治38年呉鎮守府工事竣工報告 巻三止〟が発見されたのを機に元の姿に復元することが決定し、館内の装飾として用いられた〝金唐革紙〟も後藤仁氏が中心になり復元されています。<br /><br />洋館部分には至る所に〝英国調〟が取り入れられており、その当時イギリスの建築様式を取り入れることがブームであった名残が残っています。それはそれで往時を知るには貴重な題材ではあるものの、第二次世界大戦後の戦後統治下で接収していたイギリス連邦占領軍が壁紙を〝白く〟塗りました。大日本帝国海軍の象徴のひとつであった〝旧呉鎮守府司令長官官舎〟の特徴を消し去ってしまうことで、連合国支配のイメージを強めようとしたのかも知れませんが、戦いの勝ち負けではなく、文化遺産の取り扱いという点に於いてはあまりにもお粗末な手段であったとしか思えません。もしいにしえの記録がないために、その〝白塗りの長官官舎〟が残ったにしても、今となってはそれはただの〝戦後統治下の廃墟〟にしかなり得らなかったように思えてなりません。最終的には記録が残っていたため往時を偲ぶ姿となって現在に至っていますが、そこまでの考えを占領軍は持ち得ていなかったことは、同様な理由から歴史から消え去ってしまったものがたくさんあるように思えててきます。特に日本遺産を構成するひとつになっている旧呉鎮守府司令長官官舎がそういう扱いを受けていた事実を知ってしまうと…。<br /><br />意外に旧呉鎮守府司令長官官舎というと〝洋風〟という先入観があるのかも知れません。私も事実そう思っていたところもありました。しかし鎖国の時代が終わってそれなりに〝諸外国〟の接待をしなければならなかったこともあり、迎賓館としてはやはり洋式を取り入れざるを得なかったのかも知れません。しかしやはりそこは日本人、生活の場としては〝和式〟が好まれたところが大いにあったことはたやすく想像できることです。インパクトがある洋館部分に対し、落ち着き感を感じる和式部分にそんな気持ちにさせられたのは私だけでしょうか。<br /><br />建物はともかく、やはり旧呉鎮守府司令長官官舎を中心とした資料記念館としての役割を果たすには、それなりの題材を集めなければならなかったのでしょう。文化財指定されているものは大抵移設されたものであり、庭園部分にある水蓄式油槽鉄蓋等も海軍基地にあったものをやはり移設したものとなっています。確かに軍港呉の栄光を現在に伝えるには、より多くの〝品々〟があればある程内容は濃くなるようにも思いますが、ちょっと強引にも思えるところもない訳ではありませんでした。知識をつけて改めて訪れると物の〝見方〟が変わるかも知れません。それを次回以降に期待して初めての入船山記念館めぐりを1時間半で済ませ、いよいよ今回の呉最終目的地を目指すことにします。<br /><br />入船山記念館から四ツ道路方面へと向かい、途中のセブンイレブンで飲み物とタバコを購入した後一服をして、国道185号線を北上します。途中大きなT字路がありました。休山(やすみやま)トンネル西口交差点、平成14(2002)年3月21日暫定供用となった比較的新しいトンネルです。このトンネルの上にある公園こそが旧海軍墓地である現在の長迫公園になります。ただこの順路が非常にわかり辛くあっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返し、到着にまで時間を費やしてしまいました。<br /><br />とにかくやっと辿り着いた旧海軍墓地ですが、到着時に既に呉の予定滞在時間を超過しており駆け足で回ることにせざるを得ませんでした。明治23(1890)年に開設された大日本帝国海軍墓地に歴史が始まります。その後呉鎮守府が管理し毎年慰霊祭が行われていたが、昭和20(1945)年の呉軍港空襲と枕崎台風被害によってこの地は荒廃してしまいます。更に終戦によって慰霊行事自体も廃止され、戦後国有地化されたものの有志のみによる手入れのみが続いていました。昭和40(1965)年頃から所属に纏わる慰霊碑が建立されることとなり、そのことによって建立者の手による慰霊式典が行われるようになりました。昭和61(1986)年旧軍港市転換法に基づき、国から呉市に無償譲与されたことを受けて市が公園として再整備し長迫公園と呼称も変更されました。敷地面積は2.9haあり、所有は呉市であるが管理は公益財団法人呉海軍墓地顕彰保存会が行っていて現在に至っています。敷地内には戦前に建立された墓碑が169基の他〝戦艦大和戦死者之碑〟等80基の合祀碑が建立されています。また映画〝男たちの大和/Yamato〟の撮影が行われた場所としても知られています。<br /><br />アウトラインはともかくこの2.9haもの敷地に建立されている慰霊碑を1時間程掛けて全部回ったつもりではいたのですが、後で確認するといくつかの慰霊碑は訪れていないことが判明します。そのことも含め、機械的に回ったことでは何も吸収できたものがないため、今回は訪れたことだけを記録し、次回訪れた時に旧海軍墓地を訪れて知り得たことを述べることにします。1時間弱で取り敢えず園内を一周し、1時間半遅れで広島へと移動することにしました。<br /><br />わかり辛い旧海軍墓地からの道程を帰りは〝スマホナビ〟に頼って下って行くことにします。途中呉本通七郵便局に立ち寄って旅行貯金を済ませ、呉駅方面へのバス停を探して歩いて行きます。休山トンネル西口交差点を越えるとバス停が見えてきました。呉本通6丁目バス停ですが、一見すると〝街乗り運行〟されているバスとは違う車両が停車していました。どこ行きなのだろう…と思いながら行き先表示板を見ると〝広島バスセンター〟行きとなっています。車内で確認して知ったことなのですが、呉駅周辺から広島へと向かうバスの始発の多くが〝呉本通り6丁目〟始発であることを知りました。しかしそんなことはいざ知らず、それこそ待っ~て!!の状態でなんとか出発には間に合いました。昨晩21時に呉駅に着いてから20時間…。初めての呉探索は終わって、帰路につく前の広島ダッシュ散策へと向かうことになりました。<br /><br />呉駅前を通った際に、駅舎の写真を撮っていなかったことを思い出し慌てて車内から撮影します。そしてバスは呉インターチェンジから広島呉道路(愛称:クレアライン)を経由し、一路広島市街へと向かいます。広島高速という馴染みのない高速を出て、バスは広島市内へと進みます。しかし平日の夕方ゆえ道は結構混雑していました。それでも数分の遅れで中電前バス停へと到着し、今回の旅最終目的地である〝広島平和記念公園〟へと向かいます。<br /><br />《次編へと続く》

《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅢ~軍港呉の街散策後編~

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2017/04/19 - 2017/04/19

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

平成29年4月19日水曜日

昨年度の資格試験合格実績に味をしめて、今年度の資格試験〝最初〟のターゲットとして選んだ〝第一種衛生管理者〟。昨秋の〝第二種衛生管理者〟は偶々出張試験が行われる時期だったこともあり大阪で受験しましたが、今回は出張試験が行われる時期ではないため、近畿地区の場合は加古川の近畿安全衛生技術センターへと向かわなければなりません。我が街南淡海の国からは2時間強掛かる場所ゆえ、前回訪れた時期すら覚えていない位に久しぶりです。勿論第一目標は試験合格なのですが、ここまで出向いてきたのなら…という思いに駆られ、After Testのお楽しみとして広島行きを胸に秘めて自宅を出発します。その二日目後半は大和ミュージアムをじっくりと見学し終えたところから始まります。いつもながら今回もほぼ〝ノープラン〟でのスタートで、呉を発つ時間だけを事前に組んだだけです。気分次第の気まぐれ旅、さあどうなったのでしょうか?

大和ミュージアム
  《見学:09:21~11:53(500円)》
         12:00
BEACON 12:05~12:25
  《士官のカレー:1,450円》
てつのくじら館 12:33
  《見学:12:35~13:33》
        12:35
呉中央桟橋ターミナル 13:45
  《セブンイレブン呉中央桟橋ターミナル店:水(130円)》
           13:58
入船山記念館 14:10
  《入場料:(JAF割引)200円》2280
       15:27
  《セブンイレブン呉市四ツ道路店:水とタバコ(1,140円)
長迫公園 16:07
  《コーヒー:160円》
     17:00
呉本通七郵便局 17:05
        17:10
呉本通六丁目バス停 17:14
          17:15
呉駅前 17:24
  《クレアライン線バス:740円》
中電前バス停 18:09
平和記念公園 18:15

のんびりと2時間半かけて大和ミュージアムを見学し、館外へと出てきました。ちょうどお昼時だったこともあり、一服しながら〝海自カレー〟の提供店を探したところ、大和ミュージアム隣の〝シーサイドカフェBEACON〟が最寄り店舗としてヒットしたため向かうことにします。館内は海図をモチーフとした天井など〝海〟をテーマに纏められており、なかなか良い雰囲気を醸し出しています。護衛艦さみだれの艦長認可の〝さみだれカレー〟の提供をされていますが、ナンで食すさみだれカレーより、ご飯ものの〝士官のカレー〟に惹かれたためそちらをチョイスしました。じっくり煮込んだ牛タンが乗っかった士官のカレー、1,450円は決して安くはありません。しかし〝街おこし〟の一環として、呉に来て食べない訳にはいきません。ただやはりグルメでない私には、〝カレールー〟そのものの味にしか思えない悲しさがありました。お料理は写真で切り取った通りのものでしたが、時間的なこともありゆっくりと寛ぐ訳にもいきません。人気店の宿命〝待たされる〟ことはなかったので、座ってから席を立つまで20分という超速で済ませ、お店を出ることにします。

ひとつだけ悪態をつくと、責任者と思しき若い男性が入店から順番に席へと案内をし、オーダーを取っていましたが、身勝手な年寄り集団が順番抜きにして座席を確保しようとする・・・。それを正して待つようにと指示を出すものの、結局は同じことの繰り返し。確かに怒りたくなる気持ちはわかりますが、かといって要領がまだわかっていない若いスタッフに〝あたる〟ような態度は見ていてあまり気持ちのいいものではありません。多分飲食業と物販販売は違うのでしょうが、そう思った客一名がいたことは気を付けて頂きたく思いました。

程良くお腹も膨れ、道路を挟んだ場所にある〝鉄のくじら館〟に向かいます。正式名称は海上自衛隊呉資料館と言いますが、現在海上自衛隊の資料館は全国に3つあり、鹿児島県の鹿屋航空基地資料館(航空関係)・長崎県の佐世保資料館(艦艇)そしてここ呉資料館となりますが、それぞれ〝主題〟として取り上げられている内容が異なり、呉の場合は主として〝潜水艦〟と〝掃海任務〟についてわかりやすく説明されています。

入口手前にで~んと横たわる巨大な潜水艦。ゆうしお型潜水艦で平成16(2004)年まで現役だった〝あきしお〟です。一部防諜上の理由によりダミーに変わってはいるものの紛れもない〝実物〟です。その下を潜り抜けて入口へと向かいます。海上自衛隊の広報業務のひとつとして旧海軍に始まり、海上自衛隊となった現在までの歴史や装備品の紹介などが展示物やビジュアルで細かく解説されています。

1階部分では海上自衛隊の歴史について、2階では機雷の脅威と掃海艇の活躍、3階では潜水艦の活躍について、それぞれ実物・模型・絵図や映像などの資料を用いて紹介しています。掃海任務と言われてもピンと来ないのかも知れませんが、機雷処理のエキスパートのことに他なりません。色々な衝撃によって爆発する機雷を除去する任務は、戦後海上保安庁に掃海部隊置かれたことにはじまります。時代背景は昭和25(1950)年頃の朝鮮戦争、それに加えて第二次世界大戦時に敷設された機雷を含めて除去していく任務を担います。その後海上保自衛隊の発足に伴い、掃海部隊も海上自衛隊へと移管されます。それから60年もの月日が経ち、通常では爆発しなくなっている〝はず〟の第二次世界大戦時の機雷も、一旦爆発すると容易に船を〝沈める〟のに十分な火薬を持ったまま海中に沈んでいるのが現実です。掃海任務そのものに〝戦い〟が直接絡むことはないものの、ひとつ間違うと自らが爆発に巻き込まれる危険な任務についている海上自衛隊掃海部隊の働きには正直頭が下がります。知られている話では自衛隊初の海外派遣となった湾岸戦争後のペルシャ湾掃海派遣任務(湾岸の夜明け作戦)に海上自衛隊があたりました。その当時の掃海隊群司令落合畯(おちあいたおさ)一等海佐にクェート政府から贈られた〝勲章〟が展示品の中でも一際輝いていました。

この落合畯氏は知る人ぞ知る第二次世界大戦末期に海軍沖縄根拠地隊司令官として『沖縄県民カクタタカヘリ』の電文を大本営に打電した後に自決された大田実中将の三男です。大田司令官が『沖縄県民…』の電文を打ったことを〝出来過ぎたでっち上げ〟だとバッシングするものが少なからずいました。それが徐々に減ってきたその背景には、大田司令官にはその『沖縄県民の自らを省みないでの戦争協力』を伝えなければならない〝絶対的な理由〟が調査によって明らかになってきたことが理由に挙げられています。それは昭和20(1945)年1月、沖縄県最後の官選知事として赴任した〝島田叡知事〟との関係です。軍人と行政のトップといえば、水と油の関係と取られることが多い時代に、10歳も年が若い島田知事のことを大田司令官は尊敬をしていたことがわかっています。そして電文が打電された6月6日といえば、沖縄守備陸軍第32軍司令部も沖縄県庁もほぼ役割を果たせていない状態に陥っていました。しかし尊敬する島田知事の仕事のひとつでもある〝内務省〟への報告すら通信手段の途絶によってままならない状態になっていることを知っていた大田司令官には見過ごすことはできなかった…。しかし恩着せがましく言うことでもないのは当然わかっていたこともあり、そこから必然的に出てきた言葉が文中に出てくる以下の文言になっています。

〝本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ〟

大田司令官の〝お人柄〟もあると思うのですが、もしこの打電がなければ沖縄で会った悲劇はどのように伝わっていたのだろう…と考えることがあります。少なくとも現在知られていることすらわからなかったことには違いなかったでしょう。そして電文が送られてから約50年後、三男の落合畯氏が掃海隊群司令としてペルシャ湾へと向かうこととなります。海将補で退官された後にその任務(掃海任務)のことについて以下のようにコメントされています。

遠い極東の日本から〝掃海母艦はやせ〟を旗艦としたこんな小さな船でペルシャ湾までやってきて、クウェート国民のために危険極まりない機雷の除去をやってくれた。このことについてクウェート国民は大変感謝しており、心からお礼を申し上げる。しかし日本は第二次世界大戦後45年間戦争をしていない筈だ。にも拘らずその間に戦争を経験している米・英・仏といった先進緒国と同様に、掃海任務という最も難しい技術を持っているのか?それとも日本は隠れて戦争をしていたのか?との質問に対し落合指揮官は、『そうではない。昭和20(1945)年3月、瀬戸内海を中心として日本近海に約1万2千個の機雷が敷設され、日本海軍はその脅威に敢然と挑戦しその機雷掃海作業は終戦後も営々と続けられた。それはやがて海上自衛隊に引き継がれ日本近海に於ける船舶航行の安全確保のために、掃海業務は昭和40年代後半まで継続された。私自身も若い頃その掃海業務に従事した経験がある。第二次大戦以後約45年間も平和が続いた日本の掃海部隊が先進諸国と同等に実任務につけるのは、旧海軍の先輩達が良き伝統を残してくれたお陰であり、それに加えて任務を引き継いだ海上自衛隊の掃海部隊が、堅実に訓練を励行し技量を磨いて来た努力の積み重ねがあったからである。』と答えられています。

それは『戦争というものを肯定するのではなく、戦時中に多くの機雷敷設を近海に行われ、そのことによって船舶の航行に著しい障害となった史実をもとに旧海軍の掃海技術が現在の海上自衛隊に引き継がれ、それを堅実に励行し技量を磨いてきた努力の積み重ねによってその技術が生きているということに他ならない』ということは、戦争という〝破壊〟しか生まなかった〝軍隊〟といわれる中で、国民生活に於ける〝障害〟となった〝敷設機雷〟に対し、海軍が持つ〝掃海技術〟を用い可能な限り機雷を除去することによって、国民生活の〝改善〟に尽くしたという〝事実〟があり、今なおなくなることのない戦争時に敷設された〝機雷〟を除去する任務を海上自衛隊が受け継ぎ、世界平和に貢献していることは、疑いのない事実だと考えられます。第二次世界大戦末期に米軍によって敷設された機雷によって、軍民問わず船舶が安全に航行したり港に入ることができなくなりました。そして機雷に触れたことによって多くの船舶が沈没したことは周知の事実です。あの戦艦大和が広島港や瀬戸内海に敷設された機雷によって、母港の呉へと戻れずに徳山沖で停泊を余儀なくされ、そのまま天一号作戦によって沖縄特攻へと向かった史実もあります。

掃海というあまり一般的には知られていない任務についている海上自衛隊の部隊ゆえ、知らない方からは〝軍隊〟に違いないと十把一絡げに言われてしまうことは、残念に思えて仕方がありません。今では掃海技術も発展を遂げ、昔のように〝自らが囮〟になって機雷を探すようなことはなくなってはいます。しかしそのような手段でしか探すことができなかった〝ある種の機雷〟を除去する任務は、第二次世界大戦末期に日本軍が〝究極の攻撃〟とした許されざる〝特攻〟となんら変わらぬものでした。戦争が終わっても〝特攻任務〟に就かなければならなかった事実は、やはりもっと多くの人々に知られるべきことのように思えてなりません。

海上自衛隊の資料館ということだけで〝嫌悪感〟を持たれる方もいるので、敢えて館内の紹介は控えます。しかし何度も言うようですが〝命を張った〟任務には違いないので、事実を知り〝掃海任務〟による本当の〝価値〟や〝目的〟は知らなければならないことに違いないと改めて思います。

一通り見学を済ませてやって来たのは〝広報コーナー〟。呉にある3つの海上自衛隊施設の見学について書かれています。まず江田島の〝海上自衛隊第1術科学校〟、ここでは旧海軍兵学校施設と教育参考館が一般公開されています。平日3回・土休日4回あって所要時間は1時間半となっており、個人の場合は原則予約は不要となっています。そして〝海上自衛隊艦艇〟、日曜日のみ3回行われ所要時間は1時間となっています。場所は係船堀地区(アレイからすこじま)で、人数関係なく予約が必要となっています。後〝呉地方総監部第一庁舎〟、旧海軍呉鎮守府庁舎が公開されており日曜日に2回行われ、所要時間は30分となっています。こちらも人数関係なく予約が必要となっており、見学予約は海上自衛隊呉地方総監部広報係20日前~10日前16:30までの間となっています。申し込みはFAXのみにて受付となっており、もし申込書を打ち出すプリンターや送信するFAXがない場合はネットカフェやコンビニを利用してくださいとのことでした。今回は時間や曜日の関係でどうしても訪れることができませんでしたが、近いうちに必ず訪れたいと改めて思います。

掲示板の隣にはショップとカフェが併設されてオープンしています。海上自衛隊オリジナルのグッズ等多々商品を扱っておられるようで、少々値は張るものの目を惹く品物が多いのも確かでした。またこの4月に認定された海上自衛隊カレーのひとつ〝あきしおカレー〟が味わえます。既に退役した〝潜水艦〟である〝あきしお〟なので、海自カレーのシールラリーには参加できなかったと書いてあることがなんか私にとって〝ツボ〟でした(笑)♪潜水艦の形をした〝ごはん〟等、なんかカワ(・∀・)イイ!!と思えてしまい、次回の呉訪問時の〝朝食〟に是非とも訪れたいと心に決めました。

本来なら写真をバチバチ撮ってくるのですが、写真に切り取ってしまうともう来ない気がしたので敢えて多くの記録は取りませんでした。1時間程で館内を巡り終え、次の目的地へと向かいます。一旦大和ミュージアムの前を通り、その隣の呉中央桟橋へとやってきます。松山や広島港の他、江田島への航路もあるこの呉港ですがせっかくなので広島へと向かうのに高速艇を利用しようと思いきや〝2,050円〟、フェリーなら〝930円〟。バスでも〝740円〟で行くことができるので時間と予算的にちょっと…。ということでまあ時間には…ということにして、時間のことを気にしながら次の目的地へと向かいます。

呉中央桟橋から東進し、海上自衛隊呉教育隊の敷地を回り込むように歩くと、広島電鉄教育隊前のバス停があります。そこを通り過ぎて右に曲がると美術館通りへと入り、呉市立美術館を通り過ぎると入船山公園へと到着します。結構大きな公園である入船山公園ですが、その北側に入船山記念館があります。第42代文武天皇のご時世であった大宝3(703)年にこの地に〝亀山神社〟が創建され長く鎮座していましたが、明治19(1886)年に呉鎮守府が開設されるのに伴って大日本帝国海軍に接収されました。明治22(1889)年この地に洋風木造2階建の軍政会議所兼水交社が建てられ、呉鎮守府開庁式の際には明治天皇の行在所としても使用されており、その後明治25(1892)年以降は呉鎮守府司令長官官舎として使用されることになりました。

戦後昭和31(1956)年までイギリス連邦占領軍司令官官舎として使用された後大蔵省の管理下の建物となった後、昭和41(1966)年の旧軍港市転換法に基づき呉市に無償貸与移管され、翌昭和42(1967)年から入船山記念館として一般公開を開始しました。その後平成27(2015)年から指定管理者制度が導入されるに際し〝入船山記念館運営グループ〟が管理者となり、約700m離れた位置にある呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)と一体化した観光展開をして現在に至っています。

入口の門を潜ると休憩所がありました。〝旧東郷家住宅離れ〟、木造平屋造瓦葺で建築面積37㎡の8畳と6畳の2間があるこの建物、あの海軍元帥東郷平八郎が海軍大佐の時代に呉鎮守府参謀長として赴任した際に正圓寺の山手付近に居住し、その邸宅の離れであった建物を移築したものになります。呉鎮守府に勤務していた1年7ヶ月をこの屋敷に住まい、残念ながら母屋は明治期の火災によって焼失しますが、この離れだけは運良く残ったそうです。しかし一度移設はされたようですが、そのまま放置されたため荒廃が進んでいたところを創設20周年記念として呉東ロータリークラブが呉市に寄付し昭和55(1980)年に現地に移築復元されました。その後市民や観光客の〝休憩所〟としての役割を果たし、平成9(1997)年5月に国の登録有形文化財に指定され現在に至っています。また離れの目の前に広がる庭園は昭和の〝小堀遠州〟と称された造園家である中根金作氏の監修によるものです。

園内へと続く通路は元呉市電として昭和42(1967)年まで走っていた市内電車の礎石が敷かれています。そして入船山記念館のパンフレットには欠かせない〝旧呉海軍工廠塔時計〟が出迎えてくれました。大正10(1921)年6月10日に旧呉海軍工廠造機部の屋上に設置されたこの時計塔、昭和20(1945)年の終戦まで工廠と共にその歴史の時を刻んできました。現在も動いている電動親子式衝動時計としては国産最初のものであり、終戦後旧工廠内にあったものを昭和46(1971)年5月に入船山記念館内に移設展示され、昭和56(1981)年の修理により再び時を刻み始めた塔時計は、同年呉市有形文化財に指定され現在に至っています。

そして〝番兵塔〟〝往来安全石灯籠〟〝呉市入船山記念館旧高烏砲台火薬庫(平成23(2011)年10月国の登録有形文化財指定)〟〝要塞地帯標〟等呉の生活や軍の中核都市であったことに由来する品々を眺めながら、チケットブースである郷土館へとやってきます。入場料は250円ですが、当日の大和ミュージアムのチケットを見せると200円となります。勿論JAF会員割引もありました。チケットを購入し、まずは郷土館二階の〝呉鎮守府司令長官官舎〟や〝長官〟に纏わる資料を見学します。更に歩くと記念館の顔である〝呉鎮守府司令長官官舎〟が見えてきます。その前に敷地内にある〝歴史民俗資料館〟に立ち寄って、〝呉鎮守府司令長官官舎〟復元になくてはないものであった〝金唐紙〟等の歴史と現状を眺めながら予備知識を詰め込みました。そしていよいよ旧呉鎮守府司令長官官舎へと入ります。

木造平屋建てで建築面積527.1㎡の旧呉鎮守府司令長官官舎は、入船山記念館の本館にあたる建物になります。初代の司令長官官舎は明治38(1905)年6月の芸予地震により倒壊してしまったため、現存するものは同年に崩壊材を一部使用して再建された2代目のものとなっています。設計は呉鎮守府建築課課長の桜井小太郎で、平成3(1991)年から平成7(1995)年にかけて大規模な補修を行いました。平成10(1998)には国の重要文化財に指定され、平成17(2005)年には100周年記念式典が行われました

和洋折衷の建物で手前が洋館となっており廊下でつながった奥が和館となっています。洋館部はイギリス風半木骨造(ハーフティンバー様式)で仕上げられており、屋根は宮城県雄勝産の天然粘板岩(スレート)の魚鱗葺き、玄関のステンドグラスはイギリス製、執務室には日本国内に数例しかない金唐革紙が貼られています。当時洋館に執務室や応接室があり家具も英国でしつらえ、いわゆる迎賓館的な役割も果たしていました。一方で住居として使用された和館部分は質素な造りになっています。

戦後接収していたBCOF(イギリス連邦占領軍)は壁紙の上からペンキを塗って白壁としていました。平成に入り防衛研究所で初代司令長官官舎の図面が書かれた〝明治38年呉鎮守府工事竣工報告 巻三止〟が発見されたのを機に元の姿に復元することが決定し、館内の装飾として用いられた〝金唐革紙〟も後藤仁氏が中心になり復元されています。

洋館部分には至る所に〝英国調〟が取り入れられており、その当時イギリスの建築様式を取り入れることがブームであった名残が残っています。それはそれで往時を知るには貴重な題材ではあるものの、第二次世界大戦後の戦後統治下で接収していたイギリス連邦占領軍が壁紙を〝白く〟塗りました。大日本帝国海軍の象徴のひとつであった〝旧呉鎮守府司令長官官舎〟の特徴を消し去ってしまうことで、連合国支配のイメージを強めようとしたのかも知れませんが、戦いの勝ち負けではなく、文化遺産の取り扱いという点に於いてはあまりにもお粗末な手段であったとしか思えません。もしいにしえの記録がないために、その〝白塗りの長官官舎〟が残ったにしても、今となってはそれはただの〝戦後統治下の廃墟〟にしかなり得らなかったように思えてなりません。最終的には記録が残っていたため往時を偲ぶ姿となって現在に至っていますが、そこまでの考えを占領軍は持ち得ていなかったことは、同様な理由から歴史から消え去ってしまったものがたくさんあるように思えててきます。特に日本遺産を構成するひとつになっている旧呉鎮守府司令長官官舎がそういう扱いを受けていた事実を知ってしまうと…。

意外に旧呉鎮守府司令長官官舎というと〝洋風〟という先入観があるのかも知れません。私も事実そう思っていたところもありました。しかし鎖国の時代が終わってそれなりに〝諸外国〟の接待をしなければならなかったこともあり、迎賓館としてはやはり洋式を取り入れざるを得なかったのかも知れません。しかしやはりそこは日本人、生活の場としては〝和式〟が好まれたところが大いにあったことはたやすく想像できることです。インパクトがある洋館部分に対し、落ち着き感を感じる和式部分にそんな気持ちにさせられたのは私だけでしょうか。

建物はともかく、やはり旧呉鎮守府司令長官官舎を中心とした資料記念館としての役割を果たすには、それなりの題材を集めなければならなかったのでしょう。文化財指定されているものは大抵移設されたものであり、庭園部分にある水蓄式油槽鉄蓋等も海軍基地にあったものをやはり移設したものとなっています。確かに軍港呉の栄光を現在に伝えるには、より多くの〝品々〟があればある程内容は濃くなるようにも思いますが、ちょっと強引にも思えるところもない訳ではありませんでした。知識をつけて改めて訪れると物の〝見方〟が変わるかも知れません。それを次回以降に期待して初めての入船山記念館めぐりを1時間半で済ませ、いよいよ今回の呉最終目的地を目指すことにします。

入船山記念館から四ツ道路方面へと向かい、途中のセブンイレブンで飲み物とタバコを購入した後一服をして、国道185号線を北上します。途中大きなT字路がありました。休山(やすみやま)トンネル西口交差点、平成14(2002)年3月21日暫定供用となった比較的新しいトンネルです。このトンネルの上にある公園こそが旧海軍墓地である現在の長迫公園になります。ただこの順路が非常にわかり辛くあっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返し、到着にまで時間を費やしてしまいました。

とにかくやっと辿り着いた旧海軍墓地ですが、到着時に既に呉の予定滞在時間を超過しており駆け足で回ることにせざるを得ませんでした。明治23(1890)年に開設された大日本帝国海軍墓地に歴史が始まります。その後呉鎮守府が管理し毎年慰霊祭が行われていたが、昭和20(1945)年の呉軍港空襲と枕崎台風被害によってこの地は荒廃してしまいます。更に終戦によって慰霊行事自体も廃止され、戦後国有地化されたものの有志のみによる手入れのみが続いていました。昭和40(1965)年頃から所属に纏わる慰霊碑が建立されることとなり、そのことによって建立者の手による慰霊式典が行われるようになりました。昭和61(1986)年旧軍港市転換法に基づき、国から呉市に無償譲与されたことを受けて市が公園として再整備し長迫公園と呼称も変更されました。敷地面積は2.9haあり、所有は呉市であるが管理は公益財団法人呉海軍墓地顕彰保存会が行っていて現在に至っています。敷地内には戦前に建立された墓碑が169基の他〝戦艦大和戦死者之碑〟等80基の合祀碑が建立されています。また映画〝男たちの大和/Yamato〟の撮影が行われた場所としても知られています。

アウトラインはともかくこの2.9haもの敷地に建立されている慰霊碑を1時間程掛けて全部回ったつもりではいたのですが、後で確認するといくつかの慰霊碑は訪れていないことが判明します。そのことも含め、機械的に回ったことでは何も吸収できたものがないため、今回は訪れたことだけを記録し、次回訪れた時に旧海軍墓地を訪れて知り得たことを述べることにします。1時間弱で取り敢えず園内を一周し、1時間半遅れで広島へと移動することにしました。

わかり辛い旧海軍墓地からの道程を帰りは〝スマホナビ〟に頼って下って行くことにします。途中呉本通七郵便局に立ち寄って旅行貯金を済ませ、呉駅方面へのバス停を探して歩いて行きます。休山トンネル西口交差点を越えるとバス停が見えてきました。呉本通6丁目バス停ですが、一見すると〝街乗り運行〟されているバスとは違う車両が停車していました。どこ行きなのだろう…と思いながら行き先表示板を見ると〝広島バスセンター〟行きとなっています。車内で確認して知ったことなのですが、呉駅周辺から広島へと向かうバスの始発の多くが〝呉本通り6丁目〟始発であることを知りました。しかしそんなことはいざ知らず、それこそ待っ~て!!の状態でなんとか出発には間に合いました。昨晩21時に呉駅に着いてから20時間…。初めての呉探索は終わって、帰路につく前の広島ダッシュ散策へと向かうことになりました。

呉駅前を通った際に、駅舎の写真を撮っていなかったことを思い出し慌てて車内から撮影します。そしてバスは呉インターチェンジから広島呉道路(愛称:クレアライン)を経由し、一路広島市街へと向かいます。広島高速という馴染みのない高速を出て、バスは広島市内へと進みます。しかし平日の夕方ゆえ道は結構混雑していました。それでも数分の遅れで中電前バス停へと到着し、今回の旅最終目的地である〝広島平和記念公園〟へと向かいます。

《次編へと続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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