呉・海田・安浦旅行記(ブログ) 一覧に戻る
《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅡ~軍港呉散策前編~<br /><br />昨年度の資格試験合格実績に味をしめて、今年度の資格試験〝最初〟のターゲットとして3月初旬に選んだ〝第一種衛生管理者〟。昨秋の〝第二種衛生管理者〟はたまたま出張試験が行われる時期だったこともあり大阪で受験しましたが、今回は出張試験が行われる時期ではないため、近畿地区の場合は加古川の近畿安全衛生技術センターへと向かわなければなりません。我が街南淡海の国からは2時間強掛かる場所ゆえ、前回訪れた時期すら覚えていない位に久しぶりです。勿論第一目標は試験合格なのですが、ここまで出向いてきたのなら…という思いに駆られ、After Testのお楽しみとして広島行きを胸に秘めて自宅を出発します。その二日目は、呉と広島を時間の限り見て行きます。いつもながらではありますが今回もほぼ〝ノープラン〟でのスタートです。特にそれぞれの場所間の〝移動手段〟は七転八倒した結果〝気分次第〟ということに決めています(笑)。それでは2日目の朝を迎えます。<br /><br />【平成29年4月19日水曜日】<br />起床 06:56<br />チェックアウト 09:02<br />大和ミュージアム 09:09<br />《見学:09:21~11:53(500円)》<br />         12:00<br />BEACON 12:05~12:25<br /><br />日頃の勤務時間の絡みもあり朝早起きが苦手なのですが、今朝は珍しく6時台に起きました。朝食の時間までスマホナビに訪問地をインポートしていきますが、滞在時間によって行程が大きく変わるため途中で諦め、食事へと行くことにします。11階のレストランは休業中ではあるようですが、宿泊客の朝食会場として使われていました。マウンテンビューのレストランからは海は見えないものの、呉市内が一望できます。そんな中で品の良い和定食を頂き、お腹も膨れたことなので出かける準備をします。9:00前にチェックアウトし、館外へと出ると昨晩見た印象とは全く異なる呉の街が広がっています。<br /><br />快晴の天気の中海方向へと歩いて行きます。呉イチ大きなショッピングセンター〝ゆめタウン呉〟の脇を通過すると、右手奥に大きな建物があります。〝大和ミュージアム〟、愛称の方が断然知られているのですが、正式には〝呉市海事歴史科学館〟といいます。開館時よりなにかと論議を醸し出していたこともありますが、それ以上に〝戦艦大和〟というものに惹かれていた事実もあり、一度は行ってみたいと思っていました。それがやっと叶うことになりました。<br /><br />館の外には連合艦隊司令部付として柱島水道警泊中の昭和18(1943)年6月8日に謎の大爆発を起こして沈没した〝戦艦陸奥〟の構成パーツが展示されています。総員1,471名のうち生存者は僅か350名の大惨事に見舞われた戦艦陸奥は、戦後間もない昭和22(1947)年に初回の引き上げが行われるも、当時の技術では不可能であったため中止となりました。その後20数年が経過した昭和45(1970)年6月から遺族や関係者熱意が実り、引き揚げ作業が再開され、8年もの作業の末乗組員の遺骨・遺品・主砲など艦体の75%が引き揚げられました。その多くは周防大島町の戦艦陸奥記念館に収められていますが、一部がこの大和ミュージアムに寄贈されています。多分写真で切り取っただけでは、それぞれのパーツが陳列されているだけに過ぎないように見えてはくるものの、実物を見ているとこれらが〝なぜここに置かれているのか〟と訴えかけるものを感じました。魂の宿る戦艦陸奥の主要部品に改めて手を合わせて館内へと進みます。<br /><br />そして念願の大和ミュージアムに入館します。自販機で入場券(大人:500円)を購入し中へと入ります。大和ミュージアムの入場券は一日券となっており、チケットさえあればその日であれば何回も再入場は可能です。また裏面には入船山記念館の入場割引券がついており、入場時に提示すると割引料金で入ることができます。<br /><br />大和の1/10モデルが館内中央部に置かれ、その両脇には特殊潜航艇〝海龍〟と零式艦上爆撃機六二型が陳列されています。その他歴代の艦船や戦闘機、それに纏わる海軍軍人のことをわかりやすく説明されているこの大和ミュージアム。館長氏曰く〝歴史上の解釈は来場者に委ねる〟との発言をされているため敢えて内容の詳細には触れませんが、戦争に纏わる題材を主としている資料館とは違って、良いとか悪いということは勿論のこと、ただ事実を解りやすく説明することに徹していることは、やはり〝押しつけがましい〟といった印象は受けず、ひとつひとつの〝歴史の生き証人〟である品物の数々を見て・聞いて・考えることができるようになっています。<br /><br />また海事歴史科学館との名称通り、子供が楽しめる〝船の科学〟を楽しむスペースもあります。テスト形式で問題を解くとその点数によって〝船長〟以下の認定書が貰えます。子供用ということもありましたが、たまたま遭遇しなかったため、ついついネタ作りにやってしまいました。結果一問間違えて〝副船長〟、これでは引き下がれません。次回の来訪時には〝目指せ船長〟というミッションが既に出来上がりました(笑)。<br /><br />色々な展示物をゆっくりと見ながら歩いているとすぐに時間は経ってしまいます。あらかたの見学主要時間は1~2時間とは言われていますが、気が付けば2時間半が経過していました。<br /><br />今回開催日を勘違いをしてしまった〝海底の戦艦大和‐呉市潜水調査の成果‐〟は絶対に見逃せません。なにがなんでも行くので、できなかったこと・見落としたことはその時にキッチリと解決してきます♪そのくせ4月26日~と4月16日~とを勘違いしていましたが…。<br /><br />これで〝《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅡ~軍港呉散策前編~〟は終わります。<br /><br />《次編に続く》

《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅡ~軍港呉の街散策前編~

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2017/04/18 - 2017/04/20

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅡ~軍港呉散策前編~

昨年度の資格試験合格実績に味をしめて、今年度の資格試験〝最初〟のターゲットとして3月初旬に選んだ〝第一種衛生管理者〟。昨秋の〝第二種衛生管理者〟はたまたま出張試験が行われる時期だったこともあり大阪で受験しましたが、今回は出張試験が行われる時期ではないため、近畿地区の場合は加古川の近畿安全衛生技術センターへと向かわなければなりません。我が街南淡海の国からは2時間強掛かる場所ゆえ、前回訪れた時期すら覚えていない位に久しぶりです。勿論第一目標は試験合格なのですが、ここまで出向いてきたのなら…という思いに駆られ、After Testのお楽しみとして広島行きを胸に秘めて自宅を出発します。その二日目は、呉と広島を時間の限り見て行きます。いつもながらではありますが今回もほぼ〝ノープラン〟でのスタートです。特にそれぞれの場所間の〝移動手段〟は七転八倒した結果〝気分次第〟ということに決めています(笑)。それでは2日目の朝を迎えます。

【平成29年4月19日水曜日】
起床 06:56
チェックアウト 09:02
大和ミュージアム 09:09
《見学:09:21~11:53(500円)》
         12:00
BEACON 12:05~12:25

日頃の勤務時間の絡みもあり朝早起きが苦手なのですが、今朝は珍しく6時台に起きました。朝食の時間までスマホナビに訪問地をインポートしていきますが、滞在時間によって行程が大きく変わるため途中で諦め、食事へと行くことにします。11階のレストランは休業中ではあるようですが、宿泊客の朝食会場として使われていました。マウンテンビューのレストランからは海は見えないものの、呉市内が一望できます。そんな中で品の良い和定食を頂き、お腹も膨れたことなので出かける準備をします。9:00前にチェックアウトし、館外へと出ると昨晩見た印象とは全く異なる呉の街が広がっています。

快晴の天気の中海方向へと歩いて行きます。呉イチ大きなショッピングセンター〝ゆめタウン呉〟の脇を通過すると、右手奥に大きな建物があります。〝大和ミュージアム〟、愛称の方が断然知られているのですが、正式には〝呉市海事歴史科学館〟といいます。開館時よりなにかと論議を醸し出していたこともありますが、それ以上に〝戦艦大和〟というものに惹かれていた事実もあり、一度は行ってみたいと思っていました。それがやっと叶うことになりました。

館の外には連合艦隊司令部付として柱島水道警泊中の昭和18(1943)年6月8日に謎の大爆発を起こして沈没した〝戦艦陸奥〟の構成パーツが展示されています。総員1,471名のうち生存者は僅か350名の大惨事に見舞われた戦艦陸奥は、戦後間もない昭和22(1947)年に初回の引き上げが行われるも、当時の技術では不可能であったため中止となりました。その後20数年が経過した昭和45(1970)年6月から遺族や関係者熱意が実り、引き揚げ作業が再開され、8年もの作業の末乗組員の遺骨・遺品・主砲など艦体の75%が引き揚げられました。その多くは周防大島町の戦艦陸奥記念館に収められていますが、一部がこの大和ミュージアムに寄贈されています。多分写真で切り取っただけでは、それぞれのパーツが陳列されているだけに過ぎないように見えてはくるものの、実物を見ているとこれらが〝なぜここに置かれているのか〟と訴えかけるものを感じました。魂の宿る戦艦陸奥の主要部品に改めて手を合わせて館内へと進みます。

そして念願の大和ミュージアムに入館します。自販機で入場券(大人:500円)を購入し中へと入ります。大和ミュージアムの入場券は一日券となっており、チケットさえあればその日であれば何回も再入場は可能です。また裏面には入船山記念館の入場割引券がついており、入場時に提示すると割引料金で入ることができます。

大和の1/10モデルが館内中央部に置かれ、その両脇には特殊潜航艇〝海龍〟と零式艦上爆撃機六二型が陳列されています。その他歴代の艦船や戦闘機、それに纏わる海軍軍人のことをわかりやすく説明されているこの大和ミュージアム。館長氏曰く〝歴史上の解釈は来場者に委ねる〟との発言をされているため敢えて内容の詳細には触れませんが、戦争に纏わる題材を主としている資料館とは違って、良いとか悪いということは勿論のこと、ただ事実を解りやすく説明することに徹していることは、やはり〝押しつけがましい〟といった印象は受けず、ひとつひとつの〝歴史の生き証人〟である品物の数々を見て・聞いて・考えることができるようになっています。

また海事歴史科学館との名称通り、子供が楽しめる〝船の科学〟を楽しむスペースもあります。テスト形式で問題を解くとその点数によって〝船長〟以下の認定書が貰えます。子供用ということもありましたが、たまたま遭遇しなかったため、ついついネタ作りにやってしまいました。結果一問間違えて〝副船長〟、これでは引き下がれません。次回の来訪時には〝目指せ船長〟というミッションが既に出来上がりました(笑)。

色々な展示物をゆっくりと見ながら歩いているとすぐに時間は経ってしまいます。あらかたの見学主要時間は1~2時間とは言われていますが、気が付けば2時間半が経過していました。

今回開催日を勘違いをしてしまった〝海底の戦艦大和‐呉市潜水調査の成果‐〟は絶対に見逃せません。なにがなんでも行くので、できなかったこと・見落としたことはその時にキッチリと解決してきます♪そのくせ4月26日~と4月16日~とを勘違いしていましたが…。

これで〝《April.2017》あみんちゅ試験・移動・そして学びの旅そのⅡ~軍港呉散策前編~〟は終わります。

《次編に続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • お世話になりました、ビューポートくれホテル♪

    お世話になりました、ビューポートくれホテル♪

    ビューポートくれホテル 宿・ホテル

    呉の穴場ホテルでしょう。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 次回に立ち寄る予定(?)の海軍さんの麦酒館。

    次回に立ち寄る予定(?)の海軍さんの麦酒館。

    海軍さんの麦酒舘 グルメ・レストラン

  • 今日の最初の目的地である大和ミュージアムへとやってきました♪

    今日の最初の目的地である大和ミュージアムへとやってきました♪

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 通称の大和ミュージアムとして知られていますが、正式名称は呉市海事歴史科学館といいます。

    通称の大和ミュージアムとして知られていますが、正式名称は呉市海事歴史科学館といいます。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 建物の外には、戦艦陸奥の装備品が並べられています。主錨とフェアリ一ダ一。<br /><br />※フェアリーダーとは…艦船を港に係留するときにロープや鎖などを通すもの。大和のものは〝菊花御紋章板〟と一体になっています。

    建物の外には、戦艦陸奥の装備品が並べられています。主錨とフェアリ一ダ一。

    ※フェアリーダーとは…艦船を港に係留するときにロープや鎖などを通すもの。大和のものは〝菊花御紋章板〟と一体になっています。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 戦艦陸奥の主砲身(四番砲塔左砲)。

    戦艦陸奥の主砲身(四番砲塔左砲)。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 4つのうちのひとつ、スクリュープロペラ。

    4つのうちのひとつ、スクリュープロペラ。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 戦艦陸奥の主舵。

    戦艦陸奥の主舵。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • ~戦艦『陸奥』41センチ主砲身(4番主砲塔左)~<br /><br />【41センチ主砲身の製造について】<br />戦艦『陸奥』に搭載された41センチ砲は呉海軍工廠で開発したもので『陸奥』の建造当時は世界最大の艦載砲であった。<br />呉海軍工廠砲熕(ほうこう)部が大正7(1918)年に量産初号砲を完成させ、以降74門製造した。<br />大正9(1920)年からは北海道室蘭に於いて日本製鋼所も生産を開始し24門製造した。<br />ここに展示されている砲は日本製鋼所の2号砲で大正10(1921)年に完成したもので戦艦『陸奥』には昭和11(1936)年に搭載された。<br /><br />この主砲身の砲尾に『室2』が刻印されています。<br /><br />銘板寄贈 株式会社日本製鋼所

    ~戦艦『陸奥』41センチ主砲身(4番主砲塔左)~

    【41センチ主砲身の製造について】
    戦艦『陸奥』に搭載された41センチ砲は呉海軍工廠で開発したもので『陸奥』の建造当時は世界最大の艦載砲であった。
    呉海軍工廠砲熕(ほうこう)部が大正7(1918)年に量産初号砲を完成させ、以降74門製造した。
    大正9(1920)年からは北海道室蘭に於いて日本製鋼所も生産を開始し24門製造した。
    ここに展示されている砲は日本製鋼所の2号砲で大正10(1921)年に完成したもので戦艦『陸奥』には昭和11(1936)年に搭載された。

    この主砲身の砲尾に『室2』が刻印されています。

    銘板寄贈 株式会社日本製鋼所

  • 戦艦「陸奥」関連展示<br />※戦艦陸奥(最終改装後)<br />●基準排水量:39.130t<br />●主要寸法:全長224.94m×幅34.60m×喫水9.46m<br />●エンジン:蒸気タービン4基4軸 出力:82000PS<br />●速力:約25.3kt<br />●航続力:10090浬(16k航行時)<br />●乗員:約1500名<br />●主要装備:45口径41センチ砲×8門 14センチ副砲×18門 12.7センチ高角砲×8門 25ミリ機銃×20挺<br />●水上偵察機3機搭載<br />戦艦「陸奥」は、1921年10月24日に竣工した戦艦「長門」型2番艦。 <br />横須賀海軍工廠で建造されましたが、主砲身など主要な部材は呉で建造され運搬されました。1943年6月8日正午過ぎ、山口県柱島泊地にて三番砲塔付近で 突如爆発事故を起こし沈没。乗員 1,121名の方が戦死しています。<br />大和ミュージアム・玄関広場のレンガパークには、柱島より引き上げられた戦艦「陸奥」の主砲身(四番砲塔左砲)、主錨、スクリュー、主舵、などが展示してあります。

    戦艦「陸奥」関連展示
    ※戦艦陸奥(最終改装後)
    ●基準排水量:39.130t
    ●主要寸法:全長224.94m×幅34.60m×喫水9.46m
    ●エンジン:蒸気タービン4基4軸 出力:82000PS
    ●速力:約25.3kt
    ●航続力:10090浬(16k航行時)
    ●乗員:約1500名
    ●主要装備:45口径41センチ砲×8門 14センチ副砲×18門 12.7センチ高角砲×8門 25ミリ機銃×20挺
    ●水上偵察機3機搭載
    戦艦「陸奥」は、1921年10月24日に竣工した戦艦「長門」型2番艦。
    横須賀海軍工廠で建造されましたが、主砲身など主要な部材は呉で建造され運搬されました。1943年6月8日正午過ぎ、山口県柱島泊地にて三番砲塔付近で 突如爆発事故を起こし沈没。乗員 1,121名の方が戦死しています。
    大和ミュージアム・玄関広場のレンガパークには、柱島より引き上げられた戦艦「陸奥」の主砲身(四番砲塔左砲)、主錨、スクリュー、主舵、などが展示してあります。

  • それでは入館するとしましょう♪

    それでは入館するとしましょう♪

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 平成28(2016)年度の日本遺産に〝鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~〟として呉・横須賀・佐世保・舞鶴が登録されました。

    平成28(2016)年度の日本遺産に〝鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~〟として呉・横須賀・佐世保・舞鶴が登録されました。

  • 大和ミュージアム入場券、大人500円。<br /><br />一日入場券となっており、入船山記念館入場の際には割引があります♪

    大和ミュージアム入場券、大人500円。

    一日入場券となっており、入船山記念館入場の際には割引があります♪

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 戦艦大和の勇姿。やはり大和というとバルバス・バウになるんでしょうね。

    戦艦大和の勇姿。やはり大和というとバルバス・バウになるんでしょうね。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 呉市海事歴史科学館館内マップ。必需品です。

    呉市海事歴史科学館館内マップ。必需品です。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • ほとんどの観光地図にはこのアングルの写真が使われていますね♪

    ほとんどの観光地図にはこのアングルの写真が使われていますね♪

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 戦艦大和の模型です。

    戦艦大和の模型です。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • なぜか後方に拘ってしまっています(笑)。

    なぜか後方に拘ってしまっています(笑)。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 戦艦大和とたかティムさん♪

    戦艦大和とたかティムさん♪

  • 戦艦大和の〝バルバス・バウ(球状船首)〟。

    戦艦大和の〝バルバス・バウ(球状船首)〟。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 戦艦大和の中央部、艦橋など。

    戦艦大和の中央部、艦橋など。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 戦艦大和の後部。

    戦艦大和の後部。

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  • 戦艦大和全景。

    戦艦大和全景。

  • 戦艦大和とたかティムさん♪

    戦艦大和とたかティムさん♪

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 戦艦武蔵の模型。

    戦艦武蔵の模型。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 93式酸素魚雷と二式魚雷。

    93式酸素魚雷と二式魚雷。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 93式酸素魚雷とは…<br /><br />この魚雷は昭和8(1933)年、酸素を酸化剤とする蒸気レシプロ機関を使用した世界初の実用酸素魚雷として開発、巡洋艦、駆逐艦等に搭載された。<br />93式魚雷以前は、圧縮空気を酸化剤とする空気魚雷または電池魚雷が使用されていた。<br />純酸素を酸化剤とすれば、画期的な性能向上が期待できるが、酸素は燃焼反応性が高く、始動時に爆発する恐れがあるため、実用化は不可能と目されていたが、始動時には空気を使用し、徐々に酸素の比率を高めることによって、この難問を解決した。<br />93式魚雷は、潜水艦用の95式魚雷とともに第二次世界大戦で唯一の酸素魚雷として、世界に卓越した射程、雷速及び破壊力並びに無航跡の威力を発揮した。<br /><br />【性能・要目】<br />直径…61.0cm<br />長さ…9.00m<br />雷速及び航走距離…36kt/40,000m<br />                  48kt/20,000m<br />炸薬量…490kg

    93式酸素魚雷とは…

    この魚雷は昭和8(1933)年、酸素を酸化剤とする蒸気レシプロ機関を使用した世界初の実用酸素魚雷として開発、巡洋艦、駆逐艦等に搭載された。
    93式魚雷以前は、圧縮空気を酸化剤とする空気魚雷または電池魚雷が使用されていた。
    純酸素を酸化剤とすれば、画期的な性能向上が期待できるが、酸素は燃焼反応性が高く、始動時に爆発する恐れがあるため、実用化は不可能と目されていたが、始動時には空気を使用し、徐々に酸素の比率を高めることによって、この難問を解決した。
    93式魚雷は、潜水艦用の95式魚雷とともに第二次世界大戦で唯一の酸素魚雷として、世界に卓越した射程、雷速及び破壊力並びに無航跡の威力を発揮した。

    【性能・要目】
    直径…61.0cm
    長さ…9.00m
    雷速及び航走距離…36kt/40,000m
    48kt/20,000m
    炸薬量…490kg

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 93式魚雷の特殊兵器〝回天〟十型(試作型)。

    93式魚雷の特殊兵器〝回天〟十型(試作型)。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 特殊兵器〝回天〟十型(試作型)後部。

    特殊兵器〝回天〟十型(試作型)後部。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 零式艦上戦闘機六二型。通称ゼロ戦。

    零式艦上戦闘機六二型。通称ゼロ戦。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • ゼロ戦を上から見てみました。<br />

    ゼロ戦を上から見てみました。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • ゼロ戦とたかティムさん♪

    ゼロ戦とたかティムさん♪

  • ゼロ戦。スマートですね~♪

    ゼロ戦。スマートですね~♪

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 栄三一甲型エンジン。<br /><br />同スペースに合わせて展示されている零式艦上戦闘機六二型のエンジンとして用いられたものであり、予定では〝水メタノール噴射装置〟を備えた栄三一型を装備する予定が、開発遅延のため〝水メタノール噴射装置〟を除いた〝栄三一甲/乙型〟エンジンとして搭載されることになりました。<br /><br />大型爆弾を搭載しての急降下にも耐えられるように水平尾翼の内部構造強化や胴体下面の外板厚増加も実施されており、250kg爆弾の懸吊架(落下増槽(燃料の予備タンク)懸吊架兼用)を設けた戦闘爆撃機型であり、特攻機として使用された機体には500kg爆弾を搭載可能にしたものもあったようです。航空機を作っていた<br />三菱と中島での生産数は曖昧なところもあれど500機程度とされており、これが零戦の最終量産型となりました。<br />

    栄三一甲型エンジン。

    同スペースに合わせて展示されている零式艦上戦闘機六二型のエンジンとして用いられたものであり、予定では〝水メタノール噴射装置〟を備えた栄三一型を装備する予定が、開発遅延のため〝水メタノール噴射装置〟を除いた〝栄三一甲/乙型〟エンジンとして搭載されることになりました。

    大型爆弾を搭載しての急降下にも耐えられるように水平尾翼の内部構造強化や胴体下面の外板厚増加も実施されており、250kg爆弾の懸吊架(落下増槽(燃料の予備タンク)懸吊架兼用)を設けた戦闘爆撃機型であり、特攻機として使用された機体には500kg爆弾を搭載可能にしたものもあったようです。航空機を作っていた
    三菱と中島での生産数は曖昧なところもあれど500機程度とされており、これが零戦の最終量産型となりました。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • もう一枚、ゼロ戦とたかティムさん♪

    もう一枚、ゼロ戦とたかティムさん♪

  • 零式艦上戦闘機六二型のスケルトン模型。

    零式艦上戦闘機六二型のスケルトン模型。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 火星二一型エンジン。一式陸攻(一式陸上攻撃機)の双発エンジンとして使われた高出力エンジンは、スミソニアン博物館から譲り受けた本物です。

    火星二一型エンジン。一式陸攻(一式陸上攻撃機)の双発エンジンとして使われた高出力エンジンは、スミソニアン博物館から譲り受けた本物です。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 〝零戦と呉海軍航空隊〟<br />〝零戦と広海軍工廠〟<br />〝零式艦上戦闘機六二型(中島82729)〟

    〝零戦と呉海軍航空隊〟
    〝零戦と広海軍工廠〟
    〝零式艦上戦闘機六二型(中島82729)〟

  • 2階から眺めた〝ゼロ戦〟と〝海龍〟。<br />

    2階から眺めた〝ゼロ戦〟と〝海龍〟。

  • 海龍(後期量産型)。これも最後は蛟龍や回天のように特攻に用いられました…。

    海龍(後期量産型)。これも最後は蛟龍や回天のように特攻に用いられました…。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 海龍。<br /><br />海軍の有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器として開発されたもので開発段階では機密を図るために〝SS金物〟と呼称されていました。豆潜水艦としての機能はなかなかだったようで、操縦に使うジョイスティック装置は現代潜水艦の標準的な操縦装置となっています。<br /><br />しかし雷装をするにも安定性には欠けており、一発の魚雷を発射するとバランスを崩すのが当たり前で加えて衝撃や轟音の対策など課題は山積みだったようです。兵器として正式採用されたのは昭和20(1945)年5月末のことであり、既に敗戦が決定的なものになっている戦況下では魚雷ではなく、艇首の燃料タンクの代わりに火薬を積んだ爆装仕様となり、燃料を減らした結果行動範囲が僅か100km程しかない文字通り〝片道切符の特攻兵器〟となりました。<br /><br />日本軍が人命軽視の特攻兵器を作ったことはこの海龍のことでもわかることですが、加えて一回の航海に対し8時間の充電が必要で、必ず整備兵の支援が必要となり、また水上航走する際にスピードが出ると〝俯角(水平線と進行方向との間に生ずる角度)〟を取って水中に潜ろうとする傾向があり、この際に気がつかなければ吸排気口から海水が流入しました。姿勢保持をするのに艇長が掛り切りになる中で、慌ててエンジンを切らずに吸排気筒を閉めた場合、エンジンが艇内の空気を全て吸入してしまい真空状態となりました。その窒息による殉死者が続発したという事実は〝命の価値〟をどのように考えていたのかを開発者に問い質したいと思ったのは私だけでしょうか?<br />

    海龍。

    海軍の有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器として開発されたもので開発段階では機密を図るために〝SS金物〟と呼称されていました。豆潜水艦としての機能はなかなかだったようで、操縦に使うジョイスティック装置は現代潜水艦の標準的な操縦装置となっています。

    しかし雷装をするにも安定性には欠けており、一発の魚雷を発射するとバランスを崩すのが当たり前で加えて衝撃や轟音の対策など課題は山積みだったようです。兵器として正式採用されたのは昭和20(1945)年5月末のことであり、既に敗戦が決定的なものになっている戦況下では魚雷ではなく、艇首の燃料タンクの代わりに火薬を積んだ爆装仕様となり、燃料を減らした結果行動範囲が僅か100km程しかない文字通り〝片道切符の特攻兵器〟となりました。

    日本軍が人命軽視の特攻兵器を作ったことはこの海龍のことでもわかることですが、加えて一回の航海に対し8時間の充電が必要で、必ず整備兵の支援が必要となり、また水上航走する際にスピードが出ると〝俯角(水平線と進行方向との間に生ずる角度)〟を取って水中に潜ろうとする傾向があり、この際に気がつかなければ吸排気口から海水が流入しました。姿勢保持をするのに艇長が掛り切りになる中で、慌ててエンジンを切らずに吸排気筒を閉めた場合、エンジンが艇内の空気を全て吸入してしまい真空状態となりました。その窒息による殉死者が続発したという事実は〝命の価値〟をどのように考えていたのかを開発者に問い質したいと思ったのは私だけでしょうか?

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  • 海龍。<br /><br />縦舵上部が欠損しています。

    海龍。

    縦舵上部が欠損しています。

  • 海龍とたかティムさん♪

    海龍とたかティムさん♪

  • 戦艦扶桑(ふそう)<br /><br />大日本帝国海軍最初の超弩級戦艦で、扶桑型戦艦の1番艦。第三号戦艦として明治45(1912)年3月11日に呉海軍工廠で起工された。大正3(1914)年に進水、翌年11月8日に竣工した。<br /><br />大正13(1924)年9月1日に発生した関東大震災に、東京出身の海軍兵学校学生を乗せて東京へと向かっています。<br /><br />第二次世界大戦までに二度の近代化改装を行い、真珠湾攻撃にも参加しています。昭和19(1945)年10月25日未明よりのレイテ沖海戦に於いて米軍潜水艦の雷撃を受け、弾火薬庫の誘爆を惹きおこし真っ二つに折れて沈没しました。

    戦艦扶桑(ふそう)

    大日本帝国海軍最初の超弩級戦艦で、扶桑型戦艦の1番艦。第三号戦艦として明治45(1912)年3月11日に呉海軍工廠で起工された。大正3(1914)年に進水、翌年11月8日に竣工した。

    大正13(1924)年9月1日に発生した関東大震災に、東京出身の海軍兵学校学生を乗せて東京へと向かっています。

    第二次世界大戦までに二度の近代化改装を行い、真珠湾攻撃にも参加しています。昭和19(1945)年10月25日未明よりのレイテ沖海戦に於いて米軍潜水艦の雷撃を受け、弾火薬庫の誘爆を惹きおこし真っ二つに折れて沈没しました。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 戦艦陸奥(むつ)<br /><br />大日本帝国海軍の戦艦であり、長門型戦艦2番艦です。大正7(1918)年6月1日に横須賀海軍工廠にて起工。大正9(1920)年5月31日に進水し、その際には貞明皇后や皇太子裕仁親王他皇族や政財界・陸海軍首脳が立ち会っています。<br /><br />建造途中であった翌年には、ワシントン海軍軍縮条約に於ける〝未完成艦は廃艦とする〟との条件のもと、米英から廃艦を主張されますが、日本側は〝完成艦〟として存続を要求します。結果として陸奥の保有は認められますが、駆け引き論で米英の戦艦建造条件を緩和させてしまったことを連合艦隊司令長官だった山本五十六海軍大将が回想をしています。<br /><br />未完成のまま海軍に引き渡された戦艦陸奥の完成度は85%程だったとされていますが、紆余屈折を経て竣工した40cm砲搭載戦艦が〝世界のビッグ7〟と呼ばれるものとなり、日本海軍では長門と陸奥が名を連ねていました。<br /><br />就航当初は1番艦の長門と交互に連合艦隊旗艦の任にあったため、知名度も高く日本の〝力の象徴〟として捉えられていました。<br /><br />幾多の改装をしながら第二次世界大戦を迎えますが、他の戦艦部隊同様温存されていましたが、昭和18(1943)年6月8日山口県柱島沖に停泊中に原因不明の爆発を起こし、まっ二つに折れて沈没しました。爆発の要因には諸説ありますが、事故の数年前に誤って敷設してしまった機雷をそのまま放置していたものが、陸奥のスクリュープロペラの発する〝波動〟によって爆発。それが第三主砲火薬庫内の誘爆を引き起こし、結果大爆発を起こしたという説が現実的なように思います。日本の戦艦の中で唯一戦闘以外の理由で沈没したのは他ならぬ戦艦陸奥でした。<br />

    戦艦陸奥(むつ)

    大日本帝国海軍の戦艦であり、長門型戦艦2番艦です。大正7(1918)年6月1日に横須賀海軍工廠にて起工。大正9(1920)年5月31日に進水し、その際には貞明皇后や皇太子裕仁親王他皇族や政財界・陸海軍首脳が立ち会っています。

    建造途中であった翌年には、ワシントン海軍軍縮条約に於ける〝未完成艦は廃艦とする〟との条件のもと、米英から廃艦を主張されますが、日本側は〝完成艦〟として存続を要求します。結果として陸奥の保有は認められますが、駆け引き論で米英の戦艦建造条件を緩和させてしまったことを連合艦隊司令長官だった山本五十六海軍大将が回想をしています。

    未完成のまま海軍に引き渡された戦艦陸奥の完成度は85%程だったとされていますが、紆余屈折を経て竣工した40cm砲搭載戦艦が〝世界のビッグ7〟と呼ばれるものとなり、日本海軍では長門と陸奥が名を連ねていました。

    就航当初は1番艦の長門と交互に連合艦隊旗艦の任にあったため、知名度も高く日本の〝力の象徴〟として捉えられていました。

    幾多の改装をしながら第二次世界大戦を迎えますが、他の戦艦部隊同様温存されていましたが、昭和18(1943)年6月8日山口県柱島沖に停泊中に原因不明の爆発を起こし、まっ二つに折れて沈没しました。爆発の要因には諸説ありますが、事故の数年前に誤って敷設してしまった機雷をそのまま放置していたものが、陸奥のスクリュープロペラの発する〝波動〟によって爆発。それが第三主砲火薬庫内の誘爆を引き起こし、結果大爆発を起こしたという説が現実的なように思います。日本の戦艦の中で唯一戦闘以外の理由で沈没したのは他ならぬ戦艦陸奥でした。

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  • 戦艦伊勢<br /><br />当初は扶桑型戦艦3番艦として建造される予定であったが、扶桑型戦艦の〝問題点〟が判明したことにより再設計されることとなり、伊勢型戦艦1番艦となる。その後改造が行われ軽空母並みのAir forceを持つ航空戦艦へと改装される。<br /><br />昭和20(1945)年7月24・28日の呉軍港爆撃によって大破着底し、終戦後引き上げられた船体は仮設住居として利用された後解体された。

    戦艦伊勢

    当初は扶桑型戦艦3番艦として建造される予定であったが、扶桑型戦艦の〝問題点〟が判明したことにより再設計されることとなり、伊勢型戦艦1番艦となる。その後改造が行われ軽空母並みのAir forceを持つ航空戦艦へと改装される。

    昭和20(1945)年7月24・28日の呉軍港爆撃によって大破着底し、終戦後引き上げられた船体は仮設住居として利用された後解体された。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 戦艦榛名。<br /><br />金剛型戦艦の3番艦。昭和20(1945)年7月28日の呉軍港空襲で大破着底。

    戦艦榛名。

    金剛型戦艦の3番艦。昭和20(1945)年7月28日の呉軍港空襲で大破着底。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

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  • 戦艦長門。<br /><br />長門型戦艦1号艦。第二次世界大戦を生き抜くが、敗戦の戦後処理に於いて米軍に接収され、昭和21(1946)年7月29日にアメリカの原爆実験の標的とされ、ビキニ環礁にて沈没する。

    戦艦長門。

    長門型戦艦1号艦。第二次世界大戦を生き抜くが、敗戦の戦後処理に於いて米軍に接収され、昭和21(1946)年7月29日にアメリカの原爆実験の標的とされ、ビキニ環礁にて沈没する。

    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館

    なにも大和だけではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 航空母艦赤城。<br /><br />天城型巡洋戦艦2番艦として起工されるも、ワシントン海軍軍縮条約の締結により巡洋戦艦ではなく航空母艦(空母)として完成する。昭和17(1942)年6月5日、ミッドウェー海戦にて大破炎上し、翌6月6日第四駆逐隊によって雷撃処分される。

    航空母艦赤城。

    天城型巡洋戦艦2番艦として起工されるも、ワシントン海軍軍縮条約の締結により巡洋戦艦ではなく航空母艦(空母)として完成する。昭和17(1942)年6月5日、ミッドウェー海戦にて大破炎上し、翌6月6日第四駆逐隊によって雷撃処分される。

  • 戦艦金剛(こんごう)<br /><br />太平洋戦争で日本海軍が使用した〝唯一の外国製日本戦艦〟であった金剛は、昭和19(1944)年10月25日のレイテ(サマール)沖海戦にてこれまでにない損害を被るも日本本土への帰還が決定し、フィリピンやボルネオを転々とした後11月21日未明台湾沖基隆沖50マイル付近で米海軍潜水艦シーライオンから2発の雷撃を受け沈没します。艦齢30数年と老朽化が進んでいたこともあり、また台風に遭遇してしまったことも理由にはあれど、乗組員のまさか雷撃二発で沈むとも考えていなかった〝油断〟のため、被雷から2時間もの時間が沈没まであったにもかかわらず損害の軽視と総員退艦の判断の遅れが引き金となり、第三戦隊司令官・艦長以下1,300名の命が失われました。輝かしい戦歴はあれど最後は〝人災〟で沈没した〝金剛〟になにか因縁めいたものを感じるのは私だけでしょうか。

    戦艦金剛(こんごう)

    太平洋戦争で日本海軍が使用した〝唯一の外国製日本戦艦〟であった金剛は、昭和19(1944)年10月25日のレイテ(サマール)沖海戦にてこれまでにない損害を被るも日本本土への帰還が決定し、フィリピンやボルネオを転々とした後11月21日未明台湾沖基隆沖50マイル付近で米海軍潜水艦シーライオンから2発の雷撃を受け沈没します。艦齢30数年と老朽化が進んでいたこともあり、また台風に遭遇してしまったことも理由にはあれど、乗組員のまさか雷撃二発で沈むとも考えていなかった〝油断〟のため、被雷から2時間もの時間が沈没まであったにもかかわらず損害の軽視と総員退艦の判断の遅れが引き金となり、第三戦隊司令官・艦長以下1,300名の命が失われました。輝かしい戦歴はあれど最後は〝人災〟で沈没した〝金剛〟になにか因縁めいたものを感じるのは私だけでしょうか。

  • 戦艦金剛の〝ヤーロー式ボイラー〟。<br /><br />英国ヴィッカース社で大正2(1913)年8月16日、巡洋戦艦として竣工した〝金剛〟には36基のヤーロー式ボイラーが搭載されていました。昭和3(1928)年からの横須賀海軍工廠に於ける近代化改装の際に撤去され、戦前は東京の海軍技術研究所、戦後は科学技術庁の金属材料科学研究所の建物暖房用ボイラーとして平成5(1993)年まで使用されていたものです。<br />英国から日本へ、海から陸へ、戦艦から建物へと経緯についても大変興味深く、また海軍に於けるボイラー開発、建物構造物の中の空調設備としても大きな影響を与えています。<br /><br />このボイラーは、平成19(2007)年度に経済産業省の近代化産業遺産、平成20(2008)年度に国立博物館の重要科学技術史資料に登録されています。

    戦艦金剛の〝ヤーロー式ボイラー〟。

    英国ヴィッカース社で大正2(1913)年8月16日、巡洋戦艦として竣工した〝金剛〟には36基のヤーロー式ボイラーが搭載されていました。昭和3(1928)年からの横須賀海軍工廠に於ける近代化改装の際に撤去され、戦前は東京の海軍技術研究所、戦後は科学技術庁の金属材料科学研究所の建物暖房用ボイラーとして平成5(1993)年まで使用されていたものです。
    英国から日本へ、海から陸へ、戦艦から建物へと経緯についても大変興味深く、また海軍に於けるボイラー開発、建物構造物の中の空調設備としても大きな影響を与えています。

    このボイラーは、平成19(2007)年度に経済産業省の近代化産業遺産、平成20(2008)年度に国立博物館の重要科学技術史資料に登録されています。

  • 【呉鎮守府の開庁】<br />明治19(1886)年4月22日、〝海軍条例〟において全国に五つの海軍区を定め、各区の軍港に鎮守府を置くことになり、5月4日に第二海軍区(範囲:紀伊国南牟婁郡界より石見長門国界に至り筑前遠賀宗像郡より九州東海岸に沿い日向大隅国界に至るの海岸海面及四国ノ海面並内海)を所管する鎮守府は呉港に置くことが定められました。<br /><br />その後用地買収、建築工事が進められ、明治23(1890)年3月末までに建築工事の大部分が完成ました。呉鎮守府の開庁は明治22(1889)年7月1日付で告示がなされ、開庁式は1890年4月21日に明治天皇臨席のもとに挙行されました。<br /><br />また〝鎮守府官制〟によって鎮守府の組織として〝参謀部〟〝軍医部〟主計部〝造船部〟〝兵器部〟〝建築部〟〝軍法会議〟〝監獄署〟などが置かれました。昭和20(1945)年の終戦時に廃止されましたが、戦後海上自衛隊が呉地方隊として継承し、現在も〝呉鎮(くれちん)〟という愛称で今なお親しまれています。

    【呉鎮守府の開庁】
    明治19(1886)年4月22日、〝海軍条例〟において全国に五つの海軍区を定め、各区の軍港に鎮守府を置くことになり、5月4日に第二海軍区(範囲:紀伊国南牟婁郡界より石見長門国界に至り筑前遠賀宗像郡より九州東海岸に沿い日向大隅国界に至るの海岸海面及四国ノ海面並内海)を所管する鎮守府は呉港に置くことが定められました。

    その後用地買収、建築工事が進められ、明治23(1890)年3月末までに建築工事の大部分が完成ました。呉鎮守府の開庁は明治22(1889)年7月1日付で告示がなされ、開庁式は1890年4月21日に明治天皇臨席のもとに挙行されました。

    また〝鎮守府官制〟によって鎮守府の組織として〝参謀部〟〝軍医部〟主計部〝造船部〟〝兵器部〟〝建築部〟〝軍法会議〟〝監獄署〟などが置かれました。昭和20(1945)年の終戦時に廃止されましたが、戦後海上自衛隊が呉地方隊として継承し、現在も〝呉鎮(くれちん)〟という愛称で今なお親しまれています。

  • 駆逐艦〝楓(かえで/かへで)〟の軍艦旗。<br /><br />大日本帝国海軍の駆逐艦。松型(丁型)の17番艦。昭和19(1944)3月4日に〝丁型一等駆逐艦第5505号艦〟として横須賀海軍工廠で建造されました。7月25日の進水式を経て10月30日に就役します。訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入された後瀬戸内海に回航されて訓練をした後、昭和20(1945)年1月20日付で第三十一戦隊第五十二駆逐隊に編入されて1月22日に門司を出発するモタ33船団を護衛して台湾に向かいました。<br /><br />この頃第五十二駆逐隊の〝杉〟と〝樫〟が空襲により損傷して後方に下がるため、その代役として台湾来航が待ち望まれていた。1月27日に基隆に到着後第四十三駆逐隊の指揮下に入って〝梅〟〝汐風〟とともに高雄に向かった。<br /><br />1月31日朝9時〝梅〟〝汐風〟とともに高雄を出撃してルソン島最北端のアパリへ〝パトリナオ輸送作戦〟と〝アパリ防衛〟のための高雄陸戦隊や燃料・車両・弾薬を乗せて向かう。高雄出航2時間後、偵察のB-24 に発見され、対空砲火で追い払ったものの更なる空襲は必至となった。15時頃台湾最南端ガランピ岬南方20海里において第14航空軍所属のP-38 ライトニングに護衛された第38爆撃航空団所属のB-25 ミッチェル12機と第35戦闘航空団所属のP-47 サンダーボルト4機の空襲を受ける。一番砲後部に被弾して一番砲は使用不能となり、艦橋下部構造物は大破する。艦前部が大きく浸水して大火災も発生し、便乗者を含め54名が戦死したが、応急措置により危地を脱出して沈没は免れた。〝梅〟は3発被弾の上機械室が破壊され航行不能となり、〟汐風〟の砲撃によって処分された。その〝汐風〟も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する。その結果輸送作戦は中止となり高雄に帰投した。<br /><br />高雄と基隆で応急修理が行われた後、2月18日に基隆発のタホ船団を護衛して出港。2月19日未明に爆撃を受けた後、船団と分離して単独で呉に向かい2月23日に帰投、4月26日まで修理を受ける。復帰後は〝柳〟〝橘〟に代わって、〝竹〟とともに〝回天目標艦〟として光、大津島方面で行動した。8月15日の終戦を航行可能状態で迎え、10月5日に除籍された。<br /><br />昭和20(1945)年12月1日付で特別輸送艦となり復員輸送に従事する。昭和22(1947)年7月6日に上海で中華民国に賠償艦として引き渡され、接二号と仮命名された後、衡陽(ホン・ヤン)と正式に命名された。国共内戦中の1949年5月に淡水に移動し、10月1日に訓練艦隊に編入されて練習艦となったものの、機関の状態がよくなく放置され、再武装されることもなく昭和35(1960)年に除籍され解体された。

    駆逐艦〝楓(かえで/かへで)〟の軍艦旗。

    大日本帝国海軍の駆逐艦。松型(丁型)の17番艦。昭和19(1944)3月4日に〝丁型一等駆逐艦第5505号艦〟として横須賀海軍工廠で建造されました。7月25日の進水式を経て10月30日に就役します。訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入された後瀬戸内海に回航されて訓練をした後、昭和20(1945)年1月20日付で第三十一戦隊第五十二駆逐隊に編入されて1月22日に門司を出発するモタ33船団を護衛して台湾に向かいました。

    この頃第五十二駆逐隊の〝杉〟と〝樫〟が空襲により損傷して後方に下がるため、その代役として台湾来航が待ち望まれていた。1月27日に基隆に到着後第四十三駆逐隊の指揮下に入って〝梅〟〝汐風〟とともに高雄に向かった。

    1月31日朝9時〝梅〟〝汐風〟とともに高雄を出撃してルソン島最北端のアパリへ〝パトリナオ輸送作戦〟と〝アパリ防衛〟のための高雄陸戦隊や燃料・車両・弾薬を乗せて向かう。高雄出航2時間後、偵察のB-24 に発見され、対空砲火で追い払ったものの更なる空襲は必至となった。15時頃台湾最南端ガランピ岬南方20海里において第14航空軍所属のP-38 ライトニングに護衛された第38爆撃航空団所属のB-25 ミッチェル12機と第35戦闘航空団所属のP-47 サンダーボルト4機の空襲を受ける。一番砲後部に被弾して一番砲は使用不能となり、艦橋下部構造物は大破する。艦前部が大きく浸水して大火災も発生し、便乗者を含め54名が戦死したが、応急措置により危地を脱出して沈没は免れた。〝梅〟は3発被弾の上機械室が破壊され航行不能となり、〟汐風〟の砲撃によって処分された。その〝汐風〟も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する。その結果輸送作戦は中止となり高雄に帰投した。

    高雄と基隆で応急修理が行われた後、2月18日に基隆発のタホ船団を護衛して出港。2月19日未明に爆撃を受けた後、船団と分離して単独で呉に向かい2月23日に帰投、4月26日まで修理を受ける。復帰後は〝柳〟〝橘〟に代わって、〝竹〟とともに〝回天目標艦〟として光、大津島方面で行動した。8月15日の終戦を航行可能状態で迎え、10月5日に除籍された。

    昭和20(1945)年12月1日付で特別輸送艦となり復員輸送に従事する。昭和22(1947)年7月6日に上海で中華民国に賠償艦として引き渡され、接二号と仮命名された後、衡陽(ホン・ヤン)と正式に命名された。国共内戦中の1949年5月に淡水に移動し、10月1日に訓練艦隊に編入されて練習艦となったものの、機関の状態がよくなく放置され、再武装されることもなく昭和35(1960)年に除籍され解体された。

  • 大和の概要<br /><br />戦艦大和<br /><br />大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦であり大和型戦艦1番艦でもある。起工は昭和12(1937)年11月4日に呉海軍工廠で行われ、進水は昭和15(1940)年8月8日、就役は昭和16(1941)年12月16日、その後連合艦隊旗艦となり、昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦で初陣を飾ります。その後同型艦〝武蔵〟に旗艦任務を譲ってドック入りし、修理後昭和19(1944)年の渾作戦・マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦に参加します。<br /><br />沖縄戦が始まった後の昭和20(1945)年4月6日夕刻、〝天一号作戦〟の沖縄海上特攻作戦によって徳山沖を出航した大和は、翌7日午後鹿児島県徳之島坊ノ岬沖で米軍機動部隊に遭遇し撃沈されました<br /><br /><br />進水	1940年8月8日n<br />就役	1941年12月16日<br />除籍	1945年8月31日[1]<br />最後	1945年4月7日沈没<br />要目<br />排水量	64,000トン (基準)<br />69,000トン (公試)<br />72,809トン (満載)<br />全長	263.0m<br />水線長	256.0m<br />幅	38.9m<br />吃水	10.4m<br />ボイラー	ロ号艦本式缶12缶<br />主機	艦本式タービン4基4軸<br />出力	153,553馬力<br />最大速力	27.46ノット[2](公試成績)<br />航続距離	16ノットで7,200海里(13,334km)<br />乗員	竣工時:2,500名<br />最終時:3,332名<br />兵装	<br />新造時<br />45口径46cm3連装砲塔[3]:3基<br />60口径15.5cm3連装砲塔[4]:4基<br />40口径12.7cm連装高角砲:6基<br />25mm3連装機銃:8基<br />13mm連装機銃:2基<br />最終時<br />45口径46cm3連装砲塔:3基<br />60口径15.5cm3連装砲塔:2基<br />40口径12.7cm連装高角砲:12基<br />25mm3連装機銃:52基<br />25mm単装機銃:6基<br />13mm連装機銃:2基<br />装甲	舷側 410mm<br />甲板 200mm~230mm<br />主砲防盾 650mm<br />艦橋500mm<br />搭載機	7機(カタパルト2基)<br />

    大和の概要

    戦艦大和

    大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦であり大和型戦艦1番艦でもある。起工は昭和12(1937)年11月4日に呉海軍工廠で行われ、進水は昭和15(1940)年8月8日、就役は昭和16(1941)年12月16日、その後連合艦隊旗艦となり、昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦で初陣を飾ります。その後同型艦〝武蔵〟に旗艦任務を譲ってドック入りし、修理後昭和19(1944)年の渾作戦・マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦に参加します。

    沖縄戦が始まった後の昭和20(1945)年4月6日夕刻、〝天一号作戦〟の沖縄海上特攻作戦によって徳山沖を出航した大和は、翌7日午後鹿児島県徳之島坊ノ岬沖で米軍機動部隊に遭遇し撃沈されました


    進水 1940年8月8日n
    就役 1941年12月16日
    除籍 1945年8月31日[1]
    最後 1945年4月7日沈没
    要目
    排水量 64,000トン (基準)
    69,000トン (公試)
    72,809トン (満載)
    全長 263.0m
    水線長 256.0m
    幅 38.9m
    吃水 10.4m
    ボイラー ロ号艦本式缶12缶
    主機 艦本式タービン4基4軸
    出力 153,553馬力
    最大速力 27.46ノット[2](公試成績)
    航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)
    乗員 竣工時:2,500名
    最終時:3,332名
    兵装
    新造時
    45口径46cm3連装砲塔[3]:3基
    60口径15.5cm3連装砲塔[4]:4基
    40口径12.7cm連装高角砲:6基
    25mm3連装機銃:8基
    13mm連装機銃:2基
    最終時
    45口径46cm3連装砲塔:3基
    60口径15.5cm3連装砲塔:2基
    40口径12.7cm連装高角砲:12基
    25mm3連装機銃:52基
    25mm単装機銃:6基
    13mm連装機銃:2基
    装甲 舷側 410mm
    甲板 200mm~230mm
    主砲防盾 650mm
    艦橋500mm
    搭載機 7機(カタパルト2基)

  • 大和の建造計画。<br /><br />昭和9(1934)年の軍縮条約の失効を見据えて、日本海軍は造船技術の粋を集めた史上最大最強の設計を開始しました。

    大和の建造計画。

    昭和9(1934)年の軍縮条約の失効を見据えて、日本海軍は造船技術の粋を集めた史上最大最強の設計を開始しました。

  • 大和の建造。<br /><br />戦艦大和型は構造が極めて複雑で、予定通にり工事を完成させるには緻密な計画が必要でした。<br /><br />また機密保持にも最新の注意が払われました。

    大和の建造。

    戦艦大和型は構造が極めて複雑で、予定通にり工事を完成させるには緻密な計画が必要でした。

    また機密保持にも最新の注意が払われました。

  • 大和の建造。<br /><br />大和の完成時に携わっていた呉海軍工廠長・呉海軍工廠設計部長・呉海軍工廠造船部設計主任と進水式の模様。

    大和の建造。

    大和の完成時に携わっていた呉海軍工廠長・呉海軍工廠設計部長・呉海軍工廠造船部設計主任と進水式の模様。

  • 大和の建造。<br /><br />大和の艤装(ぎそう:各種装備などを船体や車体に取り付ける工程)とそれに携わった船穀工場主任・呉海軍工廠製鋼実験部部員・艦政本部第一部製図工場長。<br /><br />姉妹艦の武蔵、そして姉妹艦になる予定だった空母信濃。

    大和の建造。

    大和の艤装(ぎそう:各種装備などを船体や車体に取り付ける工程)とそれに携わった船穀工場主任・呉海軍工廠製鋼実験部部員・艦政本部第一部製図工場長。

    姉妹艦の武蔵、そして姉妹艦になる予定だった空母信濃。

  • 大和の技術。<br /><br />大和は国力面におけるアメリカ側の〝量〟的優位に対し、日本が〝質〟で対抗しようとした艦であり、当時の最新技術の結晶といえるものでした。<br />その技術は戦後の日本復興と高度成長を支え現代にも受け継がれています。

    大和の技術。

    大和は国力面におけるアメリカ側の〝量〟的優位に対し、日本が〝質〟で対抗しようとした艦であり、当時の最新技術の結晶といえるものでした。
    その技術は戦後の日本復興と高度成長を支え現代にも受け継がれています。

  • 大和の主砲塔。<br /><br />大和に搭載されていた当時世界最大の46cm砲は、それまでの41cm砲を凌駕するものでした。射程距離42.026mは同世代戦艦のそれを上回ってはいたものの、実質的な射程距離は変わらなかったとされています。また故障も少なからずあったようで、故障なく使えたことが話題になるような代物でもあったようです。<br />

    大和の主砲塔。

    大和に搭載されていた当時世界最大の46cm砲は、それまでの41cm砲を凌駕するものでした。射程距離42.026mは同世代戦艦のそれを上回ってはいたものの、実質的な射程距離は変わらなかったとされています。また故障も少なからずあったようで、故障なく使えたことが話題になるような代物でもあったようです。

  • 戦艦大和型150cm探照灯反射鏡。<br /><br />探照灯とはサーチライトのことである。90~150cmのものがあり、この150mの物は大和型戦艦だけに搭載されていた。夜戦・夜襲といった日本海軍のお家芸をサポートし、数的劣勢のもとに優勢なる敵艦隊の迎撃を行う〝戦術的シナリオ〟で訓練を行っていた。<br /><br />従来の軍艦には必須の設備ではあれど電探(レーダー)が装備されている現代の軍艦では意味がなくなり、その後見られなくなりました。<br /><br />アーク灯を光源としていた探照灯は、炭素棒に+・−の電流を流すことで役割を果たすのですが、発光により炭素棒が溶解し調整をしながらでないと使い続けられないものでした。また強力な光を発する故にターゲットとして捉えらている敵機〝以外〟からは格好の標的になってしまい、探照灯によるメリット以上のデメリットをはらむこととなり、沈没した艦艇もありました。

    戦艦大和型150cm探照灯反射鏡。

    探照灯とはサーチライトのことである。90~150cmのものがあり、この150mの物は大和型戦艦だけに搭載されていた。夜戦・夜襲といった日本海軍のお家芸をサポートし、数的劣勢のもとに優勢なる敵艦隊の迎撃を行う〝戦術的シナリオ〟で訓練を行っていた。

    従来の軍艦には必須の設備ではあれど電探(レーダー)が装備されている現代の軍艦では意味がなくなり、その後見られなくなりました。

    アーク灯を光源としていた探照灯は、炭素棒に+・−の電流を流すことで役割を果たすのですが、発光により炭素棒が溶解し調整をしながらでないと使い続けられないものでした。また強力な光を発する故にターゲットとして捉えらている敵機〝以外〟からは格好の標的になってしまい、探照灯によるメリット以上のデメリットをはらむこととなり、沈没した艦艇もありました。

  • 戦艦大和の生い立ちについて。

    戦艦大和の生い立ちについて。

  • 戦艦大和を取り巻く環境、その①。<br /><br />初代艦長は艤装員長を兼ねた宮里秀徳大佐で昭和16(1941)年9月に任命されるも、竣工前に少将となり呉鎮守府に出仕し退艦されました。<br /><br />2代目は昭和16(1941)年11月1日に就任した高柳儀八大佐。翌年5月には少将になるも6月のミッドウェー海戦に参加し、大和自身は戦闘には参加してはいないものの空母4隻を失うという憂き目にあいます。8月のガダルカナル海戦では工業力に勝る米軍に太刀打ちできずら徐々に撤退する方向へと傾いていきます。そんな中昭和17(1942)12月7日付で第一艦隊参謀長に転任することが決まります。砲術の専門家として教育に携わり、軍令部次長まで登りつめて終戦を迎えられました。

    戦艦大和を取り巻く環境、その①。

    初代艦長は艤装員長を兼ねた宮里秀徳大佐で昭和16(1941)年9月に任命されるも、竣工前に少将となり呉鎮守府に出仕し退艦されました。

    2代目は昭和16(1941)年11月1日に就任した高柳儀八大佐。翌年5月には少将になるも6月のミッドウェー海戦に参加し、大和自身は戦闘には参加してはいないものの空母4隻を失うという憂き目にあいます。8月のガダルカナル海戦では工業力に勝る米軍に太刀打ちできずら徐々に撤退する方向へと傾いていきます。そんな中昭和17(1942)12月7日付で第一艦隊参謀長に転任することが決まります。砲術の専門家として教育に携わり、軍令部次長まで登りつめて終戦を迎えられました。

  • 戦艦大和を取り巻く環境、その②。<br /><br />3代目は松田千秋大佐。昭和17(1942)年12月に戦艦日向の艦長から異動となりました。やはり砲術の大家として、戦術家として知られている以上に海軍大学教官としての経験を生かし、大和甲板にて行われる講義は〝大和大学〟として大変好評だったとされています。昭和18(1943)年5月には少将となります。同年10月には対空兵装強化改装のため呉に帰還します。改装を済ませた後昭和18(1943)年8月には再びトラック泊地に到着します。その後第四航空戦隊司令官として比島沖海戦に参加し、横須賀航空隊司令官として終戦を迎えられました。<br /><br />昭和18(1943)年9月7日に大和4代目艦長に就任したのは大野竹二大佐。重巡洋艦鈴谷の艦長からの転任でした。艦長に就任するも海戦に参加することもなく11月には少将となります。翌12月には横須賀に帰還した後陸軍部隊を乗せて再びトラック泊地に戻ります。この際に初めて雷撃を加えられた大和でしたが、バルジ部分が30m程破壊されていた程度であり、雷撃を加えられたことすら気づいていない乗組員も多々いたそうです。このことから余計に大和は〝不沈艦〟と思われるようになったようです。11月には少将となりました。翌昭和19(1944)年1月には大和は再び修理のため呉に帰還します。その最中に異動があり僅か4ヵ月の大和艦長を退くこととなり、軍令部第三部長を経て、海軍省人事局長で終戦を迎えられました。

    戦艦大和を取り巻く環境、その②。

    3代目は松田千秋大佐。昭和17(1942)年12月に戦艦日向の艦長から異動となりました。やはり砲術の大家として、戦術家として知られている以上に海軍大学教官としての経験を生かし、大和甲板にて行われる講義は〝大和大学〟として大変好評だったとされています。昭和18(1943)年5月には少将となります。同年10月には対空兵装強化改装のため呉に帰還します。改装を済ませた後昭和18(1943)年8月には再びトラック泊地に到着します。その後第四航空戦隊司令官として比島沖海戦に参加し、横須賀航空隊司令官として終戦を迎えられました。

    昭和18(1943)年9月7日に大和4代目艦長に就任したのは大野竹二大佐。重巡洋艦鈴谷の艦長からの転任でした。艦長に就任するも海戦に参加することもなく11月には少将となります。翌12月には横須賀に帰還した後陸軍部隊を乗せて再びトラック泊地に戻ります。この際に初めて雷撃を加えられた大和でしたが、バルジ部分が30m程破壊されていた程度であり、雷撃を加えられたことすら気づいていない乗組員も多々いたそうです。このことから余計に大和は〝不沈艦〟と思われるようになったようです。11月には少将となりました。翌昭和19(1944)年1月には大和は再び修理のため呉に帰還します。その最中に異動があり僅か4ヵ月の大和艦長を退くこととなり、軍令部第三部長を経て、海軍省人事局長で終戦を迎えられました。

  • 佐藤真砂子さんから大和第6代艦長有賀(あるが)幸作大佐に贈られた千人針人形〝龍子ちゃん〟、実物は大和と運命をともにしましたためありませんが、レプリカが寄進されています。<br /><br />また有賀艦長から佐藤さんに感謝の意を込めた礼状もあります。<br />※手紙などは写真撮影が禁止されているものもあるため、わざと解像度を落としています。

    佐藤真砂子さんから大和第6代艦長有賀(あるが)幸作大佐に贈られた千人針人形〝龍子ちゃん〟、実物は大和と運命をともにしましたためありませんが、レプリカが寄進されています。

    また有賀艦長から佐藤さんに感謝の意を込めた礼状もあります。
    ※手紙などは写真撮影が禁止されているものもあるため、わざと解像度を落としています。

  • 大和を取り巻く環境、その③。<br /> <br />次いで昭和19(1944)年1月25日付で大和第5代艦長に就任したのは、戦艦榛名の艦長から転任した森下信衞大佐でした。水雷一筋である森下艦長の訓練は大変厳しいもので、艦長就任まもない頃はそれを嫌う乗組員からの評価は低かったようですが、野武士的な豪放さから次第に信頼を得ていったそうです。<br /><br />昭和19(1944)年10月15日付で少将となり、10月22日にはレイテ湾奪回作戦である〝捷(しょう)一号作戦〟が発動され、第一遊撃部隊として大和をはじめとする戦艦7隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦19隻がレイテへと向かいました。<br /><br />10月23日には雷撃を受け愛宕や摩耶が沈没、高雄も航行不能に陥ります。翌24日には戦艦を標的にした雷撃や爆撃が加えられ、姉妹艦の武蔵が沈没します。本来なら目立つ〝大型戦艦〟が標的になりますが、海軍屈指の操艦の名手であった森下艦長は、敵艦隊と遭遇し総艦が一斉に回頭した際に回頭が遅れた武蔵と衝突しかかったものの、慌てることなく操舵を引き受けて回避します。多くの艦艇が多数の爆撃や雷撃を加えられ、沈没もしくは航行不能となる中で、一番狙われやすい防空指揮所で防弾チョッキすら着用せず、くわえ煙草のままで指揮をとった逸話が残っています。その結果被弾は僅か3発の軽微なものだけだったとされ、諸説には1発だけだったとの証言もあります。しかし僅か数mでかわした雷跡、絃側数mの至近弾は数え切れないとされており、7万t超の戦艦を練達なる回避運動をしながらの適切なる戦闘指揮により窮地を脱した森下艦長の手腕を〝神業〟と称するに値するものでした。また戦艦大和の象徴である46cm砲を最初に放ったことでも知られています。昭和19(1944)年11月25日、第2艦隊参謀長となりますが、第6代大和艦長となる有賀幸作大佐が着任する12月10日までは兼任をされており、有賀艦長の着任後も第2艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦されています。そして天一号作戦の沖縄海上特攻に於いて坊ノ岬沖海戦で大和が沈没した際も生還されています。大和の爆破沈没に運良く巻き込まれなかったものの、生き抜いたことはたまたま意識を失っていたためであり、本望ではなかったとされています。その後佐世保の海軍病院に運ばれて入院を余儀なくされ、戦後呉海兵団長に就任するも予備役となり、その後呉地方復員局長官に任ぜられるも自ら依願退官されました。<br /><br />森下艦長の後を引き続き、大和第6代艦長に就任したのは有賀幸作大佐。実践畑を歩んできたもののデング熱に罹患し内地へと帰還後、横須賀の水雷学校の教頭に就任しますが、机上の学問を教授しなければならないこの仕事は本望ではなかったようです。故に大和艦長への就任は久しぶりの海上勤務でもあり、その喜びを海兵団にいた長男に伝えています。豪放磊落な性格は大和乗組員にすぐに受け入れられ、また連日の訓練にも常に先頭に立ち、防寒コートや手袋もせずに艦橋に立つ有賀艦長の姿は畏敬の念で見られたそうです。〝戦闘中でも決して慌てなかった〟〟笑っているが締めるところは締める人〟などと戦争が終わってからも高く評価されていることも多く、忍耐力と決断力があり、爆弾・魚雷に対する回避運動に優れ臨機応変に対応する実戦型指揮官だったと回想されている事実もあります。<br /><br />一説には巨大艦艇の操艦に慣れていない有賀艦長だったことにより多くの魚雷を被雷したことが大和沈没の理由とされているものもありますが、実際にはレイテ沖海戦で巧みな操艦によって被害を出さなかった森下参謀長でも変わらなかったとされる説が有力となっているようです。<br /><br />大和艦長に補された人物全てに言えることは、小さいことに捉われず全体を見て、最良とされる結論を導き出せることができ、同時に人の命をなによりも大切にされていたことが挙げられます。人命軽視の軍隊と十把一からげに言われることが多いようですが、そうではない人物もいたことも間違いではない事実だと思います。大和の沈没で多くの犠牲者を出しました。しかしその反面第2艦隊司令長官伊藤整一中将をはじめとした幹部の命令によって退艦し、生きて終戦を迎えられている若者もいる事実を知って欲しいように思います。

    大和を取り巻く環境、その③。

    次いで昭和19(1944)年1月25日付で大和第5代艦長に就任したのは、戦艦榛名の艦長から転任した森下信衞大佐でした。水雷一筋である森下艦長の訓練は大変厳しいもので、艦長就任まもない頃はそれを嫌う乗組員からの評価は低かったようですが、野武士的な豪放さから次第に信頼を得ていったそうです。

    昭和19(1944)年10月15日付で少将となり、10月22日にはレイテ湾奪回作戦である〝捷(しょう)一号作戦〟が発動され、第一遊撃部隊として大和をはじめとする戦艦7隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦19隻がレイテへと向かいました。

    10月23日には雷撃を受け愛宕や摩耶が沈没、高雄も航行不能に陥ります。翌24日には戦艦を標的にした雷撃や爆撃が加えられ、姉妹艦の武蔵が沈没します。本来なら目立つ〝大型戦艦〟が標的になりますが、海軍屈指の操艦の名手であった森下艦長は、敵艦隊と遭遇し総艦が一斉に回頭した際に回頭が遅れた武蔵と衝突しかかったものの、慌てることなく操舵を引き受けて回避します。多くの艦艇が多数の爆撃や雷撃を加えられ、沈没もしくは航行不能となる中で、一番狙われやすい防空指揮所で防弾チョッキすら着用せず、くわえ煙草のままで指揮をとった逸話が残っています。その結果被弾は僅か3発の軽微なものだけだったとされ、諸説には1発だけだったとの証言もあります。しかし僅か数mでかわした雷跡、絃側数mの至近弾は数え切れないとされており、7万t超の戦艦を練達なる回避運動をしながらの適切なる戦闘指揮により窮地を脱した森下艦長の手腕を〝神業〟と称するに値するものでした。また戦艦大和の象徴である46cm砲を最初に放ったことでも知られています。昭和19(1944)年11月25日、第2艦隊参謀長となりますが、第6代大和艦長となる有賀幸作大佐が着任する12月10日までは兼任をされており、有賀艦長の着任後も第2艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦されています。そして天一号作戦の沖縄海上特攻に於いて坊ノ岬沖海戦で大和が沈没した際も生還されています。大和の爆破沈没に運良く巻き込まれなかったものの、生き抜いたことはたまたま意識を失っていたためであり、本望ではなかったとされています。その後佐世保の海軍病院に運ばれて入院を余儀なくされ、戦後呉海兵団長に就任するも予備役となり、その後呉地方復員局長官に任ぜられるも自ら依願退官されました。

    森下艦長の後を引き続き、大和第6代艦長に就任したのは有賀幸作大佐。実践畑を歩んできたもののデング熱に罹患し内地へと帰還後、横須賀の水雷学校の教頭に就任しますが、机上の学問を教授しなければならないこの仕事は本望ではなかったようです。故に大和艦長への就任は久しぶりの海上勤務でもあり、その喜びを海兵団にいた長男に伝えています。豪放磊落な性格は大和乗組員にすぐに受け入れられ、また連日の訓練にも常に先頭に立ち、防寒コートや手袋もせずに艦橋に立つ有賀艦長の姿は畏敬の念で見られたそうです。〝戦闘中でも決して慌てなかった〟〟笑っているが締めるところは締める人〟などと戦争が終わってからも高く評価されていることも多く、忍耐力と決断力があり、爆弾・魚雷に対する回避運動に優れ臨機応変に対応する実戦型指揮官だったと回想されている事実もあります。

    一説には巨大艦艇の操艦に慣れていない有賀艦長だったことにより多くの魚雷を被雷したことが大和沈没の理由とされているものもありますが、実際にはレイテ沖海戦で巧みな操艦によって被害を出さなかった森下参謀長でも変わらなかったとされる説が有力となっているようです。

    大和艦長に補された人物全てに言えることは、小さいことに捉われず全体を見て、最良とされる結論を導き出せることができ、同時に人の命をなによりも大切にされていたことが挙げられます。人命軽視の軍隊と十把一からげに言われることが多いようですが、そうではない人物もいたことも間違いではない事実だと思います。大和の沈没で多くの犠牲者を出しました。しかしその反面第2艦隊司令長官伊藤整一中将をはじめとした幹部の命令によって退艦し、生きて終戦を迎えられている若者もいる事実を知って欲しいように思います。

  • 戦艦大和の戦い<br /><br />昭和20(1945)年3月19日、軍港呉が初空襲を受けました。岩国沖の柱島水域に停泊していた戦艦大和は、呉を空襲した米軍機に対し主砲を発射して応戦します。その後一旦呉に入港し3月28日に佐世保への回航を命じられ出港しました。そして米軍機動部隊接近の報を受けた3月29日未明回航は中止され、徳山沖にて待機となります。翌3月30日には呉軍港・広島湾に米軍によって敷設された機雷によって入港ができなくなり、27日には関門海峡がやはり機雷によって封鎖されていました。<br /><br />4月6日に発令された天一号作戦。これにより沖縄へと向かうことが決定し、停泊していた徳山沖を出発します。日が変わって4月7日、豊後水道を通過し鹿児島沖を航行中坊ノ岬沖で米軍機動部隊の攻撃を受けました。大和も応戦はするものの多勢に無勢、結果は明らかなことでした。命中魚雷10発、命中爆弾5発を浴びた戦艦大和は14:23に完全に転覆すると同時に大爆発を起こし真っ二つに折れました。日本の未来を担う戦艦として建造された大和は、伊藤整一第二艦隊司令長官・有賀幸作艦長以下2,740名とともに海へと消えてしまいました。<br /><br />一説には有賀艦長が海へと投げ出され、漂流しているところを見かけた乗組員が声をかけたところ、海へと沈んだまま上がってこなかったという説があります。頭ごなしに否定することができなくもない話ですが総員退去用意が14:20に発令され大和沈没が14:23だとすると、退去用意を発令した際には艦橋に於いて相談がなされていたことになり、有賀艦長が羅針盤を握ったまま海中に没したという説はともかく、艦橋にいて森下参謀長のように運良く大和内部に流れ込んだ海水が引く際に吸い出されたケースはあれど、失神する位大きな衝撃を受けていることは容易に想像ができます。同じ艦橋にいた有賀艦長も仮に吸い出されたにしても同じく失神しているならばわかるのですが、〝泳いでいた〟となると意識がある中での行動になってしまいます。状況証拠だけで断定はできないものの話に矛盾が生じ、結果として成り立たないように思えます。

    戦艦大和の戦い

    昭和20(1945)年3月19日、軍港呉が初空襲を受けました。岩国沖の柱島水域に停泊していた戦艦大和は、呉を空襲した米軍機に対し主砲を発射して応戦します。その後一旦呉に入港し3月28日に佐世保への回航を命じられ出港しました。そして米軍機動部隊接近の報を受けた3月29日未明回航は中止され、徳山沖にて待機となります。翌3月30日には呉軍港・広島湾に米軍によって敷設された機雷によって入港ができなくなり、27日には関門海峡がやはり機雷によって封鎖されていました。

    4月6日に発令された天一号作戦。これにより沖縄へと向かうことが決定し、停泊していた徳山沖を出発します。日が変わって4月7日、豊後水道を通過し鹿児島沖を航行中坊ノ岬沖で米軍機動部隊の攻撃を受けました。大和も応戦はするものの多勢に無勢、結果は明らかなことでした。命中魚雷10発、命中爆弾5発を浴びた戦艦大和は14:23に完全に転覆すると同時に大爆発を起こし真っ二つに折れました。日本の未来を担う戦艦として建造された大和は、伊藤整一第二艦隊司令長官・有賀幸作艦長以下2,740名とともに海へと消えてしまいました。

    一説には有賀艦長が海へと投げ出され、漂流しているところを見かけた乗組員が声をかけたところ、海へと沈んだまま上がってこなかったという説があります。頭ごなしに否定することができなくもない話ですが総員退去用意が14:20に発令され大和沈没が14:23だとすると、退去用意を発令した際には艦橋に於いて相談がなされていたことになり、有賀艦長が羅針盤を握ったまま海中に没したという説はともかく、艦橋にいて森下参謀長のように運良く大和内部に流れ込んだ海水が引く際に吸い出されたケースはあれど、失神する位大きな衝撃を受けていることは容易に想像ができます。同じ艦橋にいた有賀艦長も仮に吸い出されたにしても同じく失神しているならばわかるのですが、〝泳いでいた〟となると意識がある中での行動になってしまいます。状況証拠だけで断定はできないものの話に矛盾が生じ、結果として成り立たないように思えます。

  • 第二艦隊司令長官伊藤整一の第一種軍装上衣。

    第二艦隊司令長官伊藤整一の第一種軍装上衣。

  • 戦艦大和の戦い、その②。<br /><br />坊ノ岬沖海戦では〝天一号作戦〟により沖縄海上特攻に出向いた第2艦隊第1遊撃部隊第1航空戦隊の戦艦大和(沈没)、第2水雷戦隊軽巡洋艦矢矧(沈没)、第41駆逐隊冬月(帰還)・涼月(帰還)、第17駆逐隊磯風(自沈)・浜風(帰還)・雪風(帰還)、第21駆逐隊朝霜(沈没:推定)・初霜(帰還)・霞(自沈)という結果に終わりました。<br /><br />第2艦隊司令長官伊藤整一中将は長官室に閉じこもり、有賀幸作大佐は艦橋で、航海長茂木史朗中佐は掌航海長(特務士官)花田泰祐中尉とともに艦橋の主羅針盤に体をくくりつけて、哨戒長の臼淵磐大尉は配置場所近くに直撃弾を受けて即死。そして大和とともに海中へと沈んでいきました。<br />

    戦艦大和の戦い、その②。

    坊ノ岬沖海戦では〝天一号作戦〟により沖縄海上特攻に出向いた第2艦隊第1遊撃部隊第1航空戦隊の戦艦大和(沈没)、第2水雷戦隊軽巡洋艦矢矧(沈没)、第41駆逐隊冬月(帰還)・涼月(帰還)、第17駆逐隊磯風(自沈)・浜風(帰還)・雪風(帰還)、第21駆逐隊朝霜(沈没:推定)・初霜(帰還)・霞(自沈)という結果に終わりました。

    第2艦隊司令長官伊藤整一中将は長官室に閉じこもり、有賀幸作大佐は艦橋で、航海長茂木史朗中佐は掌航海長(特務士官)花田泰祐中尉とともに艦橋の主羅針盤に体をくくりつけて、哨戒長の臼淵磐大尉は配置場所近くに直撃弾を受けて即死。そして大和とともに海中へと沈んでいきました。

  • 『大和』に乗っていた人々、その①。<br /><br />乗組員たちは沖縄特攻に際し、遺書・手紙・葉書などに家族への思いを託し出撃して行きました。<br /><br />こちらでは伊藤整一中将他第二艦隊司令部幕僚が紹介されています。

    『大和』に乗っていた人々、その①。

    乗組員たちは沖縄特攻に際し、遺書・手紙・葉書などに家族への思いを託し出撃して行きました。

    こちらでは伊藤整一中将他第二艦隊司令部幕僚が紹介されています。

  • 『大和』に乗っていた人々、その②。<br /><br />こちらには第二艦隊士官室士官と一次士官室士官が紹介されています。<br />

    『大和』に乗っていた人々、その②。

    こちらには第二艦隊士官室士官と一次士官室士官が紹介されています。

  • 『大和』に乗っていた人々、その③。<br /><br />こちらでは第二艦隊二次士官室士官と準士官室士官が紹介されています。二次士官室士官とは少尉候補生・少尉・中尉の集まる待機室、同じように准士官室士官とは准士官(兵曹長)の集まる待機室と階級によって分けられていました。<br />

    『大和』に乗っていた人々、その③。

    こちらでは第二艦隊二次士官室士官と準士官室士官が紹介されています。二次士官室士官とは少尉候補生・少尉・中尉の集まる待機室、同じように准士官室士官とは准士官(兵曹長)の集まる待機室と階級によって分けられていました。

  • 『大和』に乗っていた人々、その④。<br /><br />こちらでは呉下士官兵集会所における第七分隊員と航海科に配属された第四期予備学生(学徒出陣)について紹介されています。<br />

    『大和』に乗っていた人々、その④。

    こちらでは呉下士官兵集会所における第七分隊員と航海科に配属された第四期予備学生(学徒出陣)について紹介されています。

  • 『大和』に乗っていた人々、その⑤。<br /><br />こちらでは岩佐尚歯科軍医大尉の進級記念と医科衛生部員について紹介されています。<br /><br />

    『大和』に乗っていた人々、その⑤。

    こちらでは岩佐尚歯科軍医大尉の進級記念と医科衛生部員について紹介されています。

  • 『大和』に乗っていた人々、その⑥。<br /><br />こちらでは飛行甲板に於ける飛行科整備員と航空格納庫に於ける25mm機銃第12群指隊員について紹介されています。このあたりだと兵若しくは下士官なので、若者がたくさん写っています。<br />

    『大和』に乗っていた人々、その⑥。

    こちらでは飛行甲板に於ける飛行科整備員と航空格納庫に於ける25mm機銃第12群指隊員について紹介されています。このあたりだと兵若しくは下士官なので、若者がたくさん写っています。

  • 『大和』に乗っていた人々、その⑦<br /><br />こちらでは航空格納庫に於ける25mm機銃第12群機銃員と生還者について紹介されています。<br />

    『大和』に乗っていた人々、その⑦

    こちらでは航空格納庫に於ける25mm機銃第12群機銃員と生還者について紹介されています。

  • 大和の現在、その①。<br /><br />昭和60(1985)年、平成11(1999)年、平成28(2016)年の3回にわたる潜水調査により『大和』を知る多くの手がかりが得られました。<br /><br />『海の墓標委員会』による潜水調査<br /><br />昭和60(1985)年8月、イギリスの潜水艇を使った探索で、初めて海底に眠る『大和』の姿をとらえることに成功しました。<br />

    大和の現在、その①。

    昭和60(1985)年、平成11(1999)年、平成28(2016)年の3回にわたる潜水調査により『大和』を知る多くの手がかりが得られました。

    『海の墓標委員会』による潜水調査

    昭和60(1985)年8月、イギリスの潜水艇を使った探索で、初めて海底に眠る『大和』の姿をとらえることに成功しました。

  • 大和の現在、その②。<br /><br />『大和プロジェクト‘99』による潜水調査<br />平成11(1999)年8月、『タイタニック』の海底探査を成功させた『オーシャン・ボイジャー号』のクルーにより『大和』の探査が行われました。

    大和の現在、その②。

    『大和プロジェクト‘99』による潜水調査
    平成11(1999)年8月、『タイタニック』の海底探査を成功させた『オーシャン・ボイジャー号』のクルーにより『大和』の探査が行われました。

  • 大和の現在、その③。<br /><br />徳之島ノ西方二十哩ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス<br />水深四百三十米<br />今ナホ埋没スル三千ノ骸<br />彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何<br /><br />吉田満著『戦艦大和の最後』より

    大和の現在、その③。

    徳之島ノ西方二十哩ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス
    水深四百三十米
    今ナホ埋没スル三千ノ骸
    彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何

    吉田満著『戦艦大和の最後』より

  • 大和の現在、その④。<br /><br />呉市による潜水調査<br />平成28(2016)年5月、呉市は潜水調査を実施しました。この調査によって、『大和』の位置を正確に把握し、現状を高解像度で撮影。主要部分については計測を行いました。<br /><br />この調査結果のまとめが平成29(2017)年4月27日から特設展が行われています。これには是非とも行きたいと思っています。<br />

    大和の現在、その④。

    呉市による潜水調査
    平成28(2016)年5月、呉市は潜水調査を実施しました。この調査によって、『大和』の位置を正確に把握し、現状を高解像度で撮影。主要部分については計測を行いました。

    この調査結果のまとめが平成29(2017)年4月27日から特設展が行われています。これには是非とも行きたいと思っています。

  • 大和の現在、その⑤。<br /><br />潜水調査によってわかったこととして、大和が沈没と同時に大爆発を起こしたことを証明するものが発見されています。船体は大きく破損し、多くの艤装品が船体から離れた場所で見つかりました。しかし砲身はいまだ見つかっていないようです。

    大和の現在、その⑤。

    潜水調査によってわかったこととして、大和が沈没と同時に大爆発を起こしたことを証明するものが発見されています。船体は大きく破損し、多くの艤装品が船体から離れた場所で見つかりました。しかし砲身はいまだ見つかっていないようです。

  • 89式飛行艇<br /><br />昭和4(1929)年に広海軍工廠で開発を始め、翌年に試作機が完成する。製造数は20期にも満たないものの性能は良好であり上海事変や日中戦争初期まで使用され、その後練習機となった。<br />

    89式飛行艇

    昭和4(1929)年に広海軍工廠で開発を始め、翌年に試作機が完成する。製造数は20期にも満たないものの性能は良好であり上海事変や日中戦争初期まで使用され、その後練習機となった。

  • 91式飛行艇<br /><br />89式飛行艇に代わる新型中型飛行艇として、広海軍工廠にて昭和6(1931)年に開発を始め、翌年試作機が完成する。数種類の仕様の期待が試された後水冷式エンジンを搭載した〝91式一号飛行艇〟、その後設計を変更し空冷式エンジンを搭載してパワーアップした〝91式二号飛行艇〟が開発され、1930年代の日中戦争の第一線や後方での輸送・哨戒に使用されるも旧式化に伴い昭和12(1937)年に生産を打ち切りました。<br />

    91式飛行艇

    89式飛行艇に代わる新型中型飛行艇として、広海軍工廠にて昭和6(1931)年に開発を始め、翌年試作機が完成する。数種類の仕様の期待が試された後水冷式エンジンを搭載した〝91式一号飛行艇〟、その後設計を変更し空冷式エンジンを搭載してパワーアップした〝91式二号飛行艇〟が開発され、1930年代の日中戦争の第一線や後方での輸送・哨戒に使用されるも旧式化に伴い昭和12(1937)年に生産を打ち切りました。

  • 九二式艦上攻撃機<br /><br />日本海軍の艦上攻撃機のひとつである九二式艦上攻撃機は、八九式艦上攻撃機の後継機として開発されました。昭和8(1933)年に正式採用され、さほど多くない生産数ではあったものの、日中戦争での成果はそれなりにはあったとされています。<br /><br />後継機種の早期実用化を望む海軍は、作成を三菱・中島の両者に支持しつつ、海軍航空廠でも独自に後継機の開発を進めた。最終的に旧式となっていた一三式艦上攻撃機を改修した工廠製は採用にはなりますが、エンジントラブルが多かったようで部隊配置後も不調に悩まされることになったそうです。制式採用後は航空母艦鳳翔や龍驤に搭載されるようになり、日中戦争ではそれなりの成果は残しています。また前期型は2枚翅だったが後期型は改修され4枚翅になっている特徴もあります。

    九二式艦上攻撃機

    日本海軍の艦上攻撃機のひとつである九二式艦上攻撃機は、八九式艦上攻撃機の後継機として開発されました。昭和8(1933)年に正式採用され、さほど多くない生産数ではあったものの、日中戦争での成果はそれなりにはあったとされています。

    後継機種の早期実用化を望む海軍は、作成を三菱・中島の両者に支持しつつ、海軍航空廠でも独自に後継機の開発を進めた。最終的に旧式となっていた一三式艦上攻撃機を改修した工廠製は採用にはなりますが、エンジントラブルが多かったようで部隊配置後も不調に悩まされることになったそうです。制式採用後は航空母艦鳳翔や龍驤に搭載されるようになり、日中戦争ではそれなりの成果は残しています。また前期型は2枚翅だったが後期型は改修され4枚翅になっている特徴もあります。

  • 97式艦上攻撃機<br /><br />昭和10(1935)年に十式艦攻として開発が始まった日本海軍の艦上攻撃機。中島飛行機と三菱重工業の競争試作を行い、両者の間に決定的な性能の差がなかったため昭和12(1937)年にどちらも採用されました。<br /><br />中島製が国産単発機初の引込脚を用いた九七式艦上攻撃機一一型(九七式一号艦上攻撃機)、三菱製が九七式艦上攻撃機一二型(九七式二号艦上攻撃機)と後に改称されますが、中島製では〝発動機〟を乗せ換えた九七式三号艦上攻撃機として採用された後は生産が中島製中心となり、昭和15(1940)年には二号の生産が終了します。一・三号機の1,400機の作成に対し、二号機は僅か150機だったとされています。<br /><br />採用後まず大陸戦線に投入された後、真珠湾攻撃にも参加しています。その後対戦中期までは主に航空母艦搭載機として運用され、後継機の天山が登場してからは陸上基地を拠点とし、レーダーを追加装備して対潜哨戒や輸送船団護衛にも就いたりしています。大戦末期には特攻出撃もあり、昭和20(1945)年8月下旬には占守島に残存していた北東航空隊所属の数機が陸軍機とともに出撃し、北千島へ侵攻してきたソ連軍上陸船団に対して爆撃を加えており、日本海軍艦上攻撃機最後の戦闘に携わった息の長い戦闘機のひとつとなりました。

    97式艦上攻撃機

    昭和10(1935)年に十式艦攻として開発が始まった日本海軍の艦上攻撃機。中島飛行機と三菱重工業の競争試作を行い、両者の間に決定的な性能の差がなかったため昭和12(1937)年にどちらも採用されました。

    中島製が国産単発機初の引込脚を用いた九七式艦上攻撃機一一型(九七式一号艦上攻撃機)、三菱製が九七式艦上攻撃機一二型(九七式二号艦上攻撃機)と後に改称されますが、中島製では〝発動機〟を乗せ換えた九七式三号艦上攻撃機として採用された後は生産が中島製中心となり、昭和15(1940)年には二号の生産が終了します。一・三号機の1,400機の作成に対し、二号機は僅か150機だったとされています。

    採用後まず大陸戦線に投入された後、真珠湾攻撃にも参加しています。その後対戦中期までは主に航空母艦搭載機として運用され、後継機の天山が登場してからは陸上基地を拠点とし、レーダーを追加装備して対潜哨戒や輸送船団護衛にも就いたりしています。大戦末期には特攻出撃もあり、昭和20(1945)年8月下旬には占守島に残存していた北東航空隊所属の数機が陸軍機とともに出撃し、北千島へ侵攻してきたソ連軍上陸船団に対して爆撃を加えており、日本海軍艦上攻撃機最後の戦闘に携わった息の長い戦闘機のひとつとなりました。

  • <br />零式水上偵察機<br /><br />十二試三座水上偵察機として愛知航空機により開発され、昭和15(1940)年12月に海軍に兵器採用された水上偵察機のことを指し、名称が似通っている零式小型水上偵察機と区別するため零式三座水上偵察機とも表記されます。九四式水上偵察機の後継機の開発を支持された川西航空機製作所と愛知航空機ではあったものの、愛知航空機は他の業務で手いっぱいだったこともあり、試作機の納期に間に合いませんでした。しかし研究資料として制作を続行し、昭和14(1939)年1月に1号試作機が完成しています。本来なら試験飛行に用いられた川西製の機体が採用されることになるのでしょうが、昭和14(1939)年6月にその川西製の機体が空中分解する事故で失われたため、急遽愛知製の機体を受領し横須賀で試験を行いました。その結果飛行性能優秀ということで採用内定となり、昭和15(1940)年12月に正式採用されました。海軍は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に水上偵察機を搭載し偵察の要として運用する準備を重ねており、その総仕上げとして零式水上偵察機の配備を考えており、昭和16(1941)年には艦船や基地への配備が本格化し、第二次世界大戦開戦時には海軍の主力艦には本機が搭載されており艦隊や外地の基地の目として盛んに活動しています。しかし前機種であった九四式水上偵察機(川西航空機製)より130km/hも速い上に航続距離は1,000km以上伸びたという実績を以てしても、昭和18(1943)年以降は水上機特有の速度不足・加速力不足が主因となって空母の艦載機や迎撃戦闘機が充実した敵方の艦隊や基地の情報を詳細に入手することは困難になってきます。そのような現実的な理由で偵察任務は徐々に艦上機に移行していくことになります。これらの諸事情により昭和17(1942)年に採用されたものが艦上爆撃機彗星であり、それを〝二式艦上偵察機〟としても採用しています。実際にミッドウェーやマリアナ沖の海戦に於いて空母に搭載された二式艦上偵察機が搭載され運用されていました。<br /><br />実際に専門の艦上偵察機として導入されたのは、第二次世界大戦で唯一〝艦上偵察機〟として開発された名機としての呼び名が高い〝彩雲(さいうん)〟でした。昭和19(1944)年9月に採用されたことになっていますが、量産型機の配備は既に6月頃から始まっていました。スピードと航続距離は格段に伸びましたが既に搭載できる空母はなく、陸上偵察機としての任務が主流だったようです。偵察任務についていた時の〝我ニ追イツクグラマン無シ〟の一文は、米軍のF-06Fヘルキャットが追い付けず振り切ったことを記録していますが、彩雲が空母搭載時にあげた戦果はなく、マリアナ諸島東方哨戒や房総半島東南方哨戒於いて陸上偵察機としての任務でした。高速度飛行による彩雲の〝強行偵察〟によって敵艦隊の位置を知る手段にはなりますが、戦況の悪化とともに戦略・戦術偵察の任務は減って、そのかわりに戦果確認や編隊誘導の任に就くことが多くなりました。結局は投入した時期が遅く、ほとんど活躍する場面がなかったのではと考えるのが正しいように思います。そういった現実的な理由もあり、不利であると承知しつつも水上偵察機の出番はなくならず、連合艦隊が壊滅した後も本土近海の哨戒任務や輸送船団の上空援護に運用され続けられました。<br /><br />平成4(1992)年鹿児島県吹上浜沖にて不時着沈没した零式水上偵察機が引き上げられました。現存する日本で唯一のものであり、平成23(2011)年12月に日本航空協会の『重要航空遺産』に認定されました。この零式水上偵察機が6件目の認定になります。


    零式水上偵察機

    十二試三座水上偵察機として愛知航空機により開発され、昭和15(1940)年12月に海軍に兵器採用された水上偵察機のことを指し、名称が似通っている零式小型水上偵察機と区別するため零式三座水上偵察機とも表記されます。九四式水上偵察機の後継機の開発を支持された川西航空機製作所と愛知航空機ではあったものの、愛知航空機は他の業務で手いっぱいだったこともあり、試作機の納期に間に合いませんでした。しかし研究資料として制作を続行し、昭和14(1939)年1月に1号試作機が完成しています。本来なら試験飛行に用いられた川西製の機体が採用されることになるのでしょうが、昭和14(1939)年6月にその川西製の機体が空中分解する事故で失われたため、急遽愛知製の機体を受領し横須賀で試験を行いました。その結果飛行性能優秀ということで採用内定となり、昭和15(1940)年12月に正式採用されました。海軍は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に水上偵察機を搭載し偵察の要として運用する準備を重ねており、その総仕上げとして零式水上偵察機の配備を考えており、昭和16(1941)年には艦船や基地への配備が本格化し、第二次世界大戦開戦時には海軍の主力艦には本機が搭載されており艦隊や外地の基地の目として盛んに活動しています。しかし前機種であった九四式水上偵察機(川西航空機製)より130km/hも速い上に航続距離は1,000km以上伸びたという実績を以てしても、昭和18(1943)年以降は水上機特有の速度不足・加速力不足が主因となって空母の艦載機や迎撃戦闘機が充実した敵方の艦隊や基地の情報を詳細に入手することは困難になってきます。そのような現実的な理由で偵察任務は徐々に艦上機に移行していくことになります。これらの諸事情により昭和17(1942)年に採用されたものが艦上爆撃機彗星であり、それを〝二式艦上偵察機〟としても採用しています。実際にミッドウェーやマリアナ沖の海戦に於いて空母に搭載された二式艦上偵察機が搭載され運用されていました。

    実際に専門の艦上偵察機として導入されたのは、第二次世界大戦で唯一〝艦上偵察機〟として開発された名機としての呼び名が高い〝彩雲(さいうん)〟でした。昭和19(1944)年9月に採用されたことになっていますが、量産型機の配備は既に6月頃から始まっていました。スピードと航続距離は格段に伸びましたが既に搭載できる空母はなく、陸上偵察機としての任務が主流だったようです。偵察任務についていた時の〝我ニ追イツクグラマン無シ〟の一文は、米軍のF-06Fヘルキャットが追い付けず振り切ったことを記録していますが、彩雲が空母搭載時にあげた戦果はなく、マリアナ諸島東方哨戒や房総半島東南方哨戒於いて陸上偵察機としての任務でした。高速度飛行による彩雲の〝強行偵察〟によって敵艦隊の位置を知る手段にはなりますが、戦況の悪化とともに戦略・戦術偵察の任務は減って、そのかわりに戦果確認や編隊誘導の任に就くことが多くなりました。結局は投入した時期が遅く、ほとんど活躍する場面がなかったのではと考えるのが正しいように思います。そういった現実的な理由もあり、不利であると承知しつつも水上偵察機の出番はなくならず、連合艦隊が壊滅した後も本土近海の哨戒任務や輸送船団の上空援護に運用され続けられました。

    平成4(1992)年鹿児島県吹上浜沖にて不時着沈没した零式水上偵察機が引き上げられました。現存する日本で唯一のものであり、平成23(2011)年12月に日本航空協会の『重要航空遺産』に認定されました。この零式水上偵察機が6件目の認定になります。

  • 艦上攻撃機彗星<br /><br />海軍の艦上爆撃機として採用されました。開発開始は昭和13(1943)年頃とされ、昭和15(1940)年に試作機が完成する。昭和17(1942)年5月に偵察機に改造されていた試作機が貸与されるも不調続きで前線まで到着するのに時間が掛かり実戦投入はされていません。同年8月には飛行試験中のに空中分解するも、通常の飛行には差し支えないとされ、二式艦上偵察機として採用されています。<br /><br />昭和18(1943)年6月から機体強度を向上させた艦上爆撃機型も、彗星一一型として量産に移り、同年後半のソロモン海戦から実践投入される。マリアナ沖海戦時には母艦航空隊、基地航空隊とも艦爆隊の主力を占める様になったものの、既に制空権がアメリカ軍の手に握られていた上に、彗星自体の稼働率も低かったため目立った戦果はあげられなかった。スマートといわれる彗星には水冷エンジンが用いられており、次に性能向上のためにエンジンを開発して乗せ換えて作られた試作機は、エンジンの供給が間に合わなかったため、空冷式エンジンを載せた派生モデルが作られることになりました。空冷式の金星エンジンは直径が少し大きかったこともあり、首が太くなったことが特徴でした。水冷式エンジン搭載の彗星一二型と空冷式エンジン積載の彗星三三式が量産されることになりますが、戦況の悪化とともに〝特攻機〟に改修した四三型が作られるようになり、操縦席と燃料タンクの防弾仕様が付加された他は、後部座席を撤去し単座機化、機銃類も外す等爆弾倉の800kg爆弾〝だけ〟という装備でした。<br /><br />実戦には彗星四三型は投入が間に合わなかったと言われており、また艦上爆撃機として開発された〝はず〟の彗星は、三三型より着艦フックを無くし、陸上爆撃機となっています。また大戦末期には多くの彗星三三型・四三型が特攻機として使われました。<br /><br />この四三型は中途半端のままであったと書かれているものも多いのですが、終戦の日昭和20(1945)年8月15日に第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将が複座型の四三型(操縦員席に中津留達雄大尉、偵察員席に宇垣中将と遠藤秋章飛曹長)に搭乗し沖縄の米艦隊に特攻出撃をした際に搭乗した機としても知られています。この時に使われた彗星は三三型機という説もありますが、後部に機銃が見られないこと、そして800kg爆弾を搭載して出撃したことから〝特攻武装した彗星四三型〟との結論を出しています。もっともこの〝最後の特攻〟の際に機長である中津留大尉は、自機である彗星三三型のエンジンの不具合に気づき、搭乗機の変更をしています。事実この中津留機はエンジン不調のため不時着し、搭乗員は生還しています。

    艦上攻撃機彗星

    海軍の艦上爆撃機として採用されました。開発開始は昭和13(1943)年頃とされ、昭和15(1940)年に試作機が完成する。昭和17(1942)年5月に偵察機に改造されていた試作機が貸与されるも不調続きで前線まで到着するのに時間が掛かり実戦投入はされていません。同年8月には飛行試験中のに空中分解するも、通常の飛行には差し支えないとされ、二式艦上偵察機として採用されています。

    昭和18(1943)年6月から機体強度を向上させた艦上爆撃機型も、彗星一一型として量産に移り、同年後半のソロモン海戦から実践投入される。マリアナ沖海戦時には母艦航空隊、基地航空隊とも艦爆隊の主力を占める様になったものの、既に制空権がアメリカ軍の手に握られていた上に、彗星自体の稼働率も低かったため目立った戦果はあげられなかった。スマートといわれる彗星には水冷エンジンが用いられており、次に性能向上のためにエンジンを開発して乗せ換えて作られた試作機は、エンジンの供給が間に合わなかったため、空冷式エンジンを載せた派生モデルが作られることになりました。空冷式の金星エンジンは直径が少し大きかったこともあり、首が太くなったことが特徴でした。水冷式エンジン搭載の彗星一二型と空冷式エンジン積載の彗星三三式が量産されることになりますが、戦況の悪化とともに〝特攻機〟に改修した四三型が作られるようになり、操縦席と燃料タンクの防弾仕様が付加された他は、後部座席を撤去し単座機化、機銃類も外す等爆弾倉の800kg爆弾〝だけ〟という装備でした。

    実戦には彗星四三型は投入が間に合わなかったと言われており、また艦上爆撃機として開発された〝はず〟の彗星は、三三型より着艦フックを無くし、陸上爆撃機となっています。また大戦末期には多くの彗星三三型・四三型が特攻機として使われました。

    この四三型は中途半端のままであったと書かれているものも多いのですが、終戦の日昭和20(1945)年8月15日に第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将が複座型の四三型(操縦員席に中津留達雄大尉、偵察員席に宇垣中将と遠藤秋章飛曹長)に搭乗し沖縄の米艦隊に特攻出撃をした際に搭乗した機としても知られています。この時に使われた彗星は三三型機という説もありますが、後部に機銃が見られないこと、そして800kg爆弾を搭載して出撃したことから〝特攻武装した彗星四三型〟との結論を出しています。もっともこの〝最後の特攻〟の際に機長である中津留大尉は、自機である彗星三三型のエンジンの不具合に気づき、搭乗機の変更をしています。事実この中津留機はエンジン不調のため不時着し、搭乗員は生還しています。

  • 局地戦闘機紫電改<br /><br />戦争が後半に突入すると初期には機動性で優位に戦いを進めていたゼロ戦でしたが鹵獲されたことで連合国軍に弱点が露見したことで活躍することができなくなってきました。加えて後継機となる〝烈風〟の開発が遅れていたことによって、日本海軍はF6Fなどの米軍機に太刀打ちすることができる〝高性能戦闘機〟を早急に開発する必要がありました。そこで川西航空機製の水上戦闘機〝強風〟の機体を流用し、短期間で陸上戦闘機を開発することにしまし、その結果製造されたのが、局地戦闘機〝紫電〟になります。しかし結果として脚部の軟弱性・視界不良などの問題に直面し、加えて技術の未熟なパイロットでも容易に操縦できるように導入された自動空戦フラップは、故障続きで使い物になりませんでした。初の実戦でも撃墜より損失の方が多いという残念な結果で終わってしまいます。紫電の改良を命じられた川西飛行機は、機体の主翼配置を低翼へ、胴体をエンジンに合わせて細くスマートに設計し直し、それによって脚部の不具合も改善され、部品の数も減り製造単価も下がりました。加えて自動空戦フラップも改善され、最高速度も20km/h程上昇しました。<br /><br />昭和19(1944)年2月10日の初陣を飾った後の昭和20(1945)年2月10日、硫黄島攻略戦の前哨戦として米軍艦載機が関東地区へと侵入したものを迎撃、4機の紫電改、3機の試作紫電改が零戦48機・雷電・紫電11機と共に迎撃し、米軍機編隊を撃退した上で9機を撃墜。零戦は11機、紫電は1機が失われたものの紫電改隊は無事帰還しています。<br /><br />剣部隊と称された343海軍航空隊が松山に創設、紫電改・紫電と彩雲が装備されます。熟練操縦者の集まりだったとされる343空でしたが、そんなことがある訳もなく、指揮指令系統が整っており、また戦闘401飛行隊等〝若年搭乗員の練成飛行隊〟として迎え入れたことも事実です。沖縄戦を迎えるにあたり昭和20(1945)年4月1日に第5航空艦隊に編入、菊水作戦に参加、特攻機の前路哨戒や制空戦闘を実施した。通常の援護機とは違って343空は、制空権を確保して突撃啓開することで経路を確保する戦法をとっていた。<br />同年4月25日に大村基地に移動した際に343空にも特攻参加の話が来たらしいものの、司令自らの上申もあり、その後は話は来なかったとされています。沖縄の組織的抵抗が終わった昭和20(1945)年6月23日、菊水作戦の終了が告げられます。<br /><br />7月24日の呉軍港空襲に於いて米軍艦載機を迎撃。16機を撃墜するも6名の隊長級を失うことになる。そして8月9日、たまたま休養日で登山をしていた343空隊員達は、長崎市への原爆投下を目の当たりにする。特攻そのものに否定的だった司令も〝第三の原爆はあってはならぬ〟。その際は自分自身が特攻し、分隊士に二番機を務めてくれと伝えたことがありました。この分隊士の少尉は広島の原爆投下を空のから見ていた一人であり、その衝撃で500mの急降下を経験したひとりでもありました。〝紫電改で出撃していたらなんとでも阻止できた〟との発言は、できるできないはともかくとして、航空兵としての原爆の凄さを知り、それ故にこれ以上は〝させない〟という意気込みがあったのではないかと思います。結局終戦を迎えて343空は解隊となりました。<br />

    局地戦闘機紫電改

    戦争が後半に突入すると初期には機動性で優位に戦いを進めていたゼロ戦でしたが鹵獲されたことで連合国軍に弱点が露見したことで活躍することができなくなってきました。加えて後継機となる〝烈風〟の開発が遅れていたことによって、日本海軍はF6Fなどの米軍機に太刀打ちすることができる〝高性能戦闘機〟を早急に開発する必要がありました。そこで川西航空機製の水上戦闘機〝強風〟の機体を流用し、短期間で陸上戦闘機を開発することにしまし、その結果製造されたのが、局地戦闘機〝紫電〟になります。しかし結果として脚部の軟弱性・視界不良などの問題に直面し、加えて技術の未熟なパイロットでも容易に操縦できるように導入された自動空戦フラップは、故障続きで使い物になりませんでした。初の実戦でも撃墜より損失の方が多いという残念な結果で終わってしまいます。紫電の改良を命じられた川西飛行機は、機体の主翼配置を低翼へ、胴体をエンジンに合わせて細くスマートに設計し直し、それによって脚部の不具合も改善され、部品の数も減り製造単価も下がりました。加えて自動空戦フラップも改善され、最高速度も20km/h程上昇しました。

    昭和19(1944)年2月10日の初陣を飾った後の昭和20(1945)年2月10日、硫黄島攻略戦の前哨戦として米軍艦載機が関東地区へと侵入したものを迎撃、4機の紫電改、3機の試作紫電改が零戦48機・雷電・紫電11機と共に迎撃し、米軍機編隊を撃退した上で9機を撃墜。零戦は11機、紫電は1機が失われたものの紫電改隊は無事帰還しています。

    剣部隊と称された343海軍航空隊が松山に創設、紫電改・紫電と彩雲が装備されます。熟練操縦者の集まりだったとされる343空でしたが、そんなことがある訳もなく、指揮指令系統が整っており、また戦闘401飛行隊等〝若年搭乗員の練成飛行隊〟として迎え入れたことも事実です。沖縄戦を迎えるにあたり昭和20(1945)年4月1日に第5航空艦隊に編入、菊水作戦に参加、特攻機の前路哨戒や制空戦闘を実施した。通常の援護機とは違って343空は、制空権を確保して突撃啓開することで経路を確保する戦法をとっていた。
    同年4月25日に大村基地に移動した際に343空にも特攻参加の話が来たらしいものの、司令自らの上申もあり、その後は話は来なかったとされています。沖縄の組織的抵抗が終わった昭和20(1945)年6月23日、菊水作戦の終了が告げられます。

    7月24日の呉軍港空襲に於いて米軍艦載機を迎撃。16機を撃墜するも6名の隊長級を失うことになる。そして8月9日、たまたま休養日で登山をしていた343空隊員達は、長崎市への原爆投下を目の当たりにする。特攻そのものに否定的だった司令も〝第三の原爆はあってはならぬ〟。その際は自分自身が特攻し、分隊士に二番機を務めてくれと伝えたことがありました。この分隊士の少尉は広島の原爆投下を空のから見ていた一人であり、その衝撃で500mの急降下を経験したひとりでもありました。〝紫電改で出撃していたらなんとでも阻止できた〟との発言は、できるできないはともかくとして、航空兵としての原爆の凄さを知り、それ故にこれ以上は〝させない〟という意気込みがあったのではないかと思います。結局終戦を迎えて343空は解隊となりました。

  • 局地戦闘機秋水、ロケットエンジンノズル。<br /><br />大戦末期に試作されたロケット局地戦闘機秋水。昭和20(1945)年7月7日の試験飛行時に墜落しました。

    局地戦闘機秋水、ロケットエンジンノズル。

    大戦末期に試作されたロケット局地戦闘機秋水。昭和20(1945)年7月7日の試験飛行時に墜落しました。

  • 第十一海軍航空廠とは…<br /><br />広海軍工廠の航空機部が独立して第十一海軍航空廠が設置され、総務部・器材部・飛行機部・発動機部・兵器部・会計部・医務部が置かれていた。1945年(昭和20年)4月には空襲に備えた地下の疎開工場として岩国に分工場(のち岩国支廠)を設置した。<br /><br />1945年(昭和20年)3月以降しばしば米軍の空襲を受けるようになり、5月5日には広工廠とともに猛爆撃を受け壊滅的な損害を被ったそのため6月26日に広工廠は十一海軍航空廠に吸収合併され、敗戦時には総務部・会計部・医務部・補給部・飛行機部・発動機部・素材部・兵器部・造機部・機関実験部・工作機械実験部・鋳物実験部の12部体制となっていた。<br /><br />戦後占領軍は10月6日に広湾に入港し、翌日に兵員約2万人が上陸します。GHQ管理下で10月31日に第十一海軍航空廠は閉鎖され、3年半という短い歴史を閉じました。現在その跡地は主として在日米軍の広弾薬庫となっているようです。

    第十一海軍航空廠とは…

    広海軍工廠の航空機部が独立して第十一海軍航空廠が設置され、総務部・器材部・飛行機部・発動機部・兵器部・会計部・医務部が置かれていた。1945年(昭和20年)4月には空襲に備えた地下の疎開工場として岩国に分工場(のち岩国支廠)を設置した。

    1945年(昭和20年)3月以降しばしば米軍の空襲を受けるようになり、5月5日には広工廠とともに猛爆撃を受け壊滅的な損害を被ったそのため6月26日に広工廠は十一海軍航空廠に吸収合併され、敗戦時には総務部・会計部・医務部・補給部・飛行機部・発動機部・素材部・兵器部・造機部・機関実験部・工作機械実験部・鋳物実験部の12部体制となっていた。

    戦後占領軍は10月6日に広湾に入港し、翌日に兵員約2万人が上陸します。GHQ管理下で10月31日に第十一海軍航空廠は閉鎖され、3年半という短い歴史を閉じました。現在その跡地は主として在日米軍の広弾薬庫となっているようです。

  • 連合艦隊司令長官山本五十六の短冊。<br /><br />空晴れて 家紋を護る 勝武太刀<br />         五十六<br /><br />昭和十八年四月十八日山本元帥がラバウル西飛行場よりブインへご出発の際、山元和一君に書き興へられたる絶筆なり<br />~海軍ラバウル方面会会長 草鹿任一~

    連合艦隊司令長官山本五十六の短冊。

    空晴れて 家紋を護る 勝武太刀
             五十六

    昭和十八年四月十八日山本元帥がラバウル西飛行場よりブインへご出発の際、山元和一君に書き興へられたる絶筆なり
    ~海軍ラバウル方面会会長 草鹿任一~

  • 回天の開発。<br /><br />国を思い 死ぬに死なれぬ 益荒雄が<br />友々よびつつ 死してゆくらん<br />黒木博司大尉辞世の句 昭和十九年九月六日<br /><br />〝回天の開発と作戦〟<br />さらに戦況が悪化するに連れ、人間魚雷のような生還を期することのできない特攻兵器が開発され、実戦に起用されました。<br /><br />元々二人の海軍士官が考案した人間魚雷回天。血書を携えて開発を上申するも、軍令部長からの回答は〝それはいかん〟。しかしマーシャル諸島失陥やトラック島空襲によって著しい戦局悪化を辿っていた日本海軍は、昭和19年2月26日に〝乗員の脱出装置をつけなければ兵器採用はしない〟という条件付きで海軍工廠魚雷実験部に施策を命じます。結局脱出装置の話も含めうやむやのまま、発進すれば生還不可能・必死必殺の特攻兵器となって、同年8月1日海軍大臣によって正式に日本軍の兵器として採用されることになります。<br />特攻部長が躍起になって正式に命名した〝回天〟。その基地が山口県大津島に9月1日に作られました。9月5日からは全国からの志願者を集めて本格的な訓練が始まります。しかし回天生みの親である大尉が翌日訓練に出た時に事故が発生し、艇内に10時間閉じ込められた末酸欠死するという事態が起こります。その後生みの親のもう一人である中尉は、自らが発進するまでは残された問題の解決に没頭したとあるものの、解決できた問題はほとんどありませんでした。そんな中連合艦隊司令長官からは〝玄作戦〟という名の回天特攻作戦名を、特攻部隊は〝菊水隊〟と名付けられて同年11月8日伊-47を母艦としてウルシー環礁へ向けて出発します。名付け親の中尉は同年11月20日午前3時50分に発進、午前5時過ぎに大尉の遺骨を抱いたまま米輸送艦ミシシネワへ特攻・戦死しました。当時最新鋭の大型タンカー〝ミシシネワ〟を沈没させたことは結果がなかった軍部にとって〝成功〟として取り上げられたのでしょう。しかし前途ある若者の命を奪う〝特攻兵器〟は勿論、現在だと〝環境論〟まで引き合いにされるようなことをしていたことは、理由はどうあれ許されることではありません。<br /><br />海軍首脳部で特に〝特攻〟をすることによって自分の名前を高めようとした軍令部部長、問題解決をせず兵器採用した海軍大臣、部隊名をつけた連合艦隊司令長官などは、戦後も生きて悪びれることもありませんでした…。そういうお国柄だから〝人間性〟が否定される特攻が〝自発的に行われた〟なんて言えるのかも知れません…。

    回天の開発。

    国を思い 死ぬに死なれぬ 益荒雄が
    友々よびつつ 死してゆくらん
    黒木博司大尉辞世の句 昭和十九年九月六日

    〝回天の開発と作戦〟
    さらに戦況が悪化するに連れ、人間魚雷のような生還を期することのできない特攻兵器が開発され、実戦に起用されました。

    元々二人の海軍士官が考案した人間魚雷回天。血書を携えて開発を上申するも、軍令部長からの回答は〝それはいかん〟。しかしマーシャル諸島失陥やトラック島空襲によって著しい戦局悪化を辿っていた日本海軍は、昭和19年2月26日に〝乗員の脱出装置をつけなければ兵器採用はしない〟という条件付きで海軍工廠魚雷実験部に施策を命じます。結局脱出装置の話も含めうやむやのまま、発進すれば生還不可能・必死必殺の特攻兵器となって、同年8月1日海軍大臣によって正式に日本軍の兵器として採用されることになります。
    特攻部長が躍起になって正式に命名した〝回天〟。その基地が山口県大津島に9月1日に作られました。9月5日からは全国からの志願者を集めて本格的な訓練が始まります。しかし回天生みの親である大尉が翌日訓練に出た時に事故が発生し、艇内に10時間閉じ込められた末酸欠死するという事態が起こります。その後生みの親のもう一人である中尉は、自らが発進するまでは残された問題の解決に没頭したとあるものの、解決できた問題はほとんどありませんでした。そんな中連合艦隊司令長官からは〝玄作戦〟という名の回天特攻作戦名を、特攻部隊は〝菊水隊〟と名付けられて同年11月8日伊-47を母艦としてウルシー環礁へ向けて出発します。名付け親の中尉は同年11月20日午前3時50分に発進、午前5時過ぎに大尉の遺骨を抱いたまま米輸送艦ミシシネワへ特攻・戦死しました。当時最新鋭の大型タンカー〝ミシシネワ〟を沈没させたことは結果がなかった軍部にとって〝成功〟として取り上げられたのでしょう。しかし前途ある若者の命を奪う〝特攻兵器〟は勿論、現在だと〝環境論〟まで引き合いにされるようなことをしていたことは、理由はどうあれ許されることではありません。

    海軍首脳部で特に〝特攻〟をすることによって自分の名前を高めようとした軍令部部長、問題解決をせず兵器採用した海軍大臣、部隊名をつけた連合艦隊司令長官などは、戦後も生きて悪びれることもありませんでした…。そういうお国柄だから〝人間性〟が否定される特攻が〝自発的に行われた〟なんて言えるのかも知れません…。

  • 呉と原爆。<br /><br />広島に原子爆弾が投下され、呉からもきのこ雲が確認されました。呉からは救援隊や調査団が派遣されました。

    呉と原爆。

    広島に原子爆弾が投下され、呉からもきのこ雲が確認されました。呉からは救援隊や調査団が派遣されました。

  • 航空戦艦日向軍艦旗と航海灯。<br /><br />大日本帝国海軍の戦艦で伊勢型戦艦の2番艦。大正6(1917)年1月27日に進水し、大正7(1918)年4月30日に〝軍艦 日向〟として就役した。第一艦隊第一戦隊に配備され、、昭和15(1940)年6月22日から7月10日にかけて、満州国康徳帝(愛新覚羅溥儀)訪日の際の座乗艦としても使用されています。太平洋戦争開戦時は伊勢と共に第一艦隊第二戦隊に属し、その戦隊旗艦を務めました。二回の砲塔爆発と弾薬庫火災に見舞われて殉職者を出しており、その修理のために呉海軍工廠へと入り第五砲塔を撤去し、代わりに25ミリ3連装機銃を4基搭載した。空母4隻を失ったミッドウェー海戦と同じ時期に事故で第五砲塔を失ったことは、日向と同型間伊勢の運命を大きく変えることになりました。<br /><br />その後2つの主砲と副砲をすべて撤去し、飛行甲板を作るも空母と比較して半分の長さしかなければ艦載機の着艦はできない。飛行甲板はもっぱら航空機整備・発艦作業用のスペースとなり、撤去された主砲弾薬庫の空間には航空機用燃料と武器庫が設けられました。<br /><br />捷一号作戦に参加して日本を出撃するものの、航空戦艦であった日向・伊勢には搭載予定の第634航空隊が先の台湾沖航空戦に於いてフィリピン方面に転用されていたため搭載艦が一機もありませんでした。<br /><br />10月25日のエンガノ岬沖海戦において本隊は空母4隻を失う大損害を被り、その後アメリカ軍機の攻撃は健在な日向と伊勢に集中したが、松田少将発案の航空攻撃回避術、それによる両艦長の巧みな回避運動、さらに航空戦艦に改装された際に大幅に増強された対空火力の効果もあいまってアメリカ軍の攻撃を回避した。アメリカ軍機撃墜6機確実を記録、艦に重大損傷はなく1名が戦死、8名が負傷した。日向は主砲三式弾112発、12.7cm高射砲弾659発、25㎜機銃弾28970発、噴進砲弾250発を発射した。10月29日、日本に戻った。その後昭和20(1945)年2月、戦略物資輸送作戦〝北号作戦〟でカタパルトを撤去、更に機銃を一部撤去して現地部隊に引き渡し、石油・ゴム・錫などの希少な戦略物資を航空機格納庫のスペースを生かして満載した。全艦損害なく日本に戻るという奇跡的な成功を収めたが、物資総量は伊勢や軽巡洋艦大淀が輸送した分を含めても、中型貨物船1隻分に過ぎなかったという。<br /><br />北号作戦を終えた日向は呉軍港に停泊していたが、3月1日に第一予備艦に指定され、直後の3月19日の呉軍港空襲で爆弾3発(二番砲塔左舷後部・左舷缶室・艦後部)が命中した。損傷を受けた日向は4月20日に第四予備艦に指定され、5月1日に特殊警備艦となり、呉港外(情島沖)で浮砲台となった。7月24日の呉軍港空襲でアメリカ軍空母機の波状攻撃を受け日向の草川艦長も戦死しています。7月の時点で乗組員のうち約半数が退艦していましたが、これらの攻撃による乗組員の被害は残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んでいます。7月26日戦艦日向は着底大破しました。

    航空戦艦日向軍艦旗と航海灯。

    大日本帝国海軍の戦艦で伊勢型戦艦の2番艦。大正6(1917)年1月27日に進水し、大正7(1918)年4月30日に〝軍艦 日向〟として就役した。第一艦隊第一戦隊に配備され、、昭和15(1940)年6月22日から7月10日にかけて、満州国康徳帝(愛新覚羅溥儀)訪日の際の座乗艦としても使用されています。太平洋戦争開戦時は伊勢と共に第一艦隊第二戦隊に属し、その戦隊旗艦を務めました。二回の砲塔爆発と弾薬庫火災に見舞われて殉職者を出しており、その修理のために呉海軍工廠へと入り第五砲塔を撤去し、代わりに25ミリ3連装機銃を4基搭載した。空母4隻を失ったミッドウェー海戦と同じ時期に事故で第五砲塔を失ったことは、日向と同型間伊勢の運命を大きく変えることになりました。

    その後2つの主砲と副砲をすべて撤去し、飛行甲板を作るも空母と比較して半分の長さしかなければ艦載機の着艦はできない。飛行甲板はもっぱら航空機整備・発艦作業用のスペースとなり、撤去された主砲弾薬庫の空間には航空機用燃料と武器庫が設けられました。

    捷一号作戦に参加して日本を出撃するものの、航空戦艦であった日向・伊勢には搭載予定の第634航空隊が先の台湾沖航空戦に於いてフィリピン方面に転用されていたため搭載艦が一機もありませんでした。

    10月25日のエンガノ岬沖海戦において本隊は空母4隻を失う大損害を被り、その後アメリカ軍機の攻撃は健在な日向と伊勢に集中したが、松田少将発案の航空攻撃回避術、それによる両艦長の巧みな回避運動、さらに航空戦艦に改装された際に大幅に増強された対空火力の効果もあいまってアメリカ軍の攻撃を回避した。アメリカ軍機撃墜6機確実を記録、艦に重大損傷はなく1名が戦死、8名が負傷した。日向は主砲三式弾112発、12.7cm高射砲弾659発、25㎜機銃弾28970発、噴進砲弾250発を発射した。10月29日、日本に戻った。その後昭和20(1945)年2月、戦略物資輸送作戦〝北号作戦〟でカタパルトを撤去、更に機銃を一部撤去して現地部隊に引き渡し、石油・ゴム・錫などの希少な戦略物資を航空機格納庫のスペースを生かして満載した。全艦損害なく日本に戻るという奇跡的な成功を収めたが、物資総量は伊勢や軽巡洋艦大淀が輸送した分を含めても、中型貨物船1隻分に過ぎなかったという。

    北号作戦を終えた日向は呉軍港に停泊していたが、3月1日に第一予備艦に指定され、直後の3月19日の呉軍港空襲で爆弾3発(二番砲塔左舷後部・左舷缶室・艦後部)が命中した。損傷を受けた日向は4月20日に第四予備艦に指定され、5月1日に特殊警備艦となり、呉港外(情島沖)で浮砲台となった。7月24日の呉軍港空襲でアメリカ軍空母機の波状攻撃を受け日向の草川艦長も戦死しています。7月の時点で乗組員のうち約半数が退艦していましたが、これらの攻撃による乗組員の被害は残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んでいます。7月26日戦艦日向は着底大破しました。

  • 中野探照灯台よりの敵機望見状況(左)と敵機推定行動図(右)。<br /><br />昭和20(1945)年8月6日午前8時14分に、中野探照灯台にあった呉海軍警備隊の隊員が、西条方向に大型機の爆音を聴いて以降、アメリカ軍B229エノラ・ゲイが、広島に原爆を投下し、飛び去るまでの航路などが記されています。

    中野探照灯台よりの敵機望見状況(左)と敵機推定行動図(右)。

    昭和20(1945)年8月6日午前8時14分に、中野探照灯台にあった呉海軍警備隊の隊員が、西条方向に大型機の爆音を聴いて以降、アメリカ軍B229エノラ・ゲイが、広島に原爆を投下し、飛び去るまでの航路などが記されています。

  • 〝新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス〟の至急電報<br /><br />海軍原爆調査団と調査にあたった京都帝国大学荒勝文策教授が、その収集資料により放射能を測定して、科学的に、日本ではじめて原子爆弾と判定した昭和20(1945)年8月15日発信の電報です。

    〝新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス〟の至急電報

    海軍原爆調査団と調査にあたった京都帝国大学荒勝文策教授が、その収集資料により放射能を測定して、科学的に、日本ではじめて原子爆弾と判定した昭和20(1945)年8月15日発信の電報です。

  • 企画展の案内。<br /><br />坊津沖で沈没した戦艦大和の現在の様子を調べてきた呉市潜水調査の成果が企画展で見ることができます。これはもう一度行かねばなりません。

    企画展の案内。

    坊津沖で沈没した戦艦大和の現在の様子を調べてきた呉市潜水調査の成果が企画展で見ることができます。これはもう一度行かねばなりません。

  • というより行きたくて仕方がないというのが本音です!

    というより行きたくて仕方がないというのが本音です!

  • こんな遊び心も体験できます~♪<br /><br />一問間違えたので〝副船長〟さんだそうです(笑)。次回は目指せ船長さん!!

    こんな遊び心も体験できます~♪

    一問間違えたので〝副船長〟さんだそうです(笑)。次回は目指せ船長さん!!

  • 2時間半かけて大和ミュージアムを見学し終え、満足顔のたかティムさん♪

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