2006/06/05 - 2006/06/06
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ノスタルジアさん
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2006年(平成18年)4月5日(水)?7月15日(土)
ピースボートの地球一周の船旅に参加した。
ツアーの参加者の投稿はネットでも数多くあって評判はすこぶる悪い。中には裁判沙汰にもなっているツアーもある。
自分ももう2度と参加したくないと思っている。その理由については枚挙にいとまがないが、特に最悪だったのは船内のエアコンが制御不能で温度が一定ではなくその上、かび臭さが漂い体調不良者が続出していたのである。
そのせいか自分も乗船して2日目には咳が止まらない、だるいといった風邪の症状が出て診察室に行った。診察室は毎朝行列が並び、船はさながら病院船みたいになっていて、新型インフルエンザやエボラ出血熱の患者が発生すればたちまち蔓延して各国で寄港拒否されてさすらいの航海になっていただろう。
ツアー中、高齢者の男性が船室で病死した、と2回、船内放送があったが、珍しい事ではないらしい。まさに病院船である。
乗船中は体調不良が治まる事は無かったが、寄港地で下船すると体調は良くなったのでる。
元来、旅行社のツアーは性格的に合わないので、旅に出掛ける時は、
いつも自分一人だけで、新婚旅行も出来るなら別々に行きたかった程である。
それなのにこのツアーに参加したのは、地球一周の船旅は他には飛鳥、にっぽん丸だけで、一人参加での相部屋タイプは他になかったからである。
それに飛行機は墜落すると人生それで終わり、なので飛行機には乗らない事にしているので船で行くしかなかったのである。
今回はニューヨーク、5月27日(土)にアイルランドダブリンを出港して9日目の6月5日(月)にニューヨークに入港した。9日間の間、大航海時代に思いを馳せながら、さてニューヨークで何をしようかと考えていたが、元々、都市観光には興味がないので、思いついたのがヤンキースタジアムでの野球観戦だった。
下船して早速、59 Streetにあるヤンキース クラブハウス ショップに向かった。当日、試合があるかどうか心配だったが、伝統のレッドソックス戦だったので喜んだ、ところが切符は売り切れだった。「地球の歩き方」には試合当日でも買える様な事が書いてあったので落胆したが、行くしかないと思ってとにかく行ってみる事にした。
ヤンキースタジアム、選手のデータについてはウィキペディアから引用しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2006年6月5日(月)ニューヨーク 地下鉄マップ
ピースボードの船着き場から最寄りの地下鉄駅は50 street、ヤンキースクラブハウスの最寄り駅は59 Street、ヤンキースタジアムの最寄り駅は161 Street -
2006年6月5日(月)地下鉄切符
ヤンキースクラブハウスの最寄り駅59 Streetからヤンキースタジアムの最寄り駅161 Street午後2時54分に乗車 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
ヤンキー・スタジアムは、ニューヨーク・ブロンクス区にあった野球場。MLBニューヨーク・ヤンキースが本拠地としていた。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム前で
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2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム
開演前のサーカスの様に外から中が少しだけ見える。 -
2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム チケット売り場
チケット売り場で今日のチケットは全て売り切れと言われたが、日本だと必ずダフ屋がいるのでここもいるだろうと思って地下鉄駅に向かって歩いた。 -
2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム 観戦チケット
切符を求めて地下鉄駅に続く立ち並ぶ店でヤンキースの帽子をそれとなく物色していたら後ろから耳元で何か囁かれたが「Ticket,Ticket」だけは聞き取れたので、振り向いたら大柄な黒人男性で「振り向くな!前を見ながら俺の話しを聞け、チケットがあるが買うか?」、「幾らだ?」「19ドル(2014円)の券で90ドル(9,540円)だ。」何と5倍近く吹っ掛けられた。日本のダフ屋だと販売価格より安くなるのが当たり前だが、切符が売り切れているので強気なのである。「60ドルにならないか?」、「嫌ならいい。」、迷ったが、どうしても試合を観たかったので応じた。ダフ屋は人目を気にしていて、自分の横に立ち、同じを様に帽子の物色装いながら二人とも前を向いたままで切符の受け渡しをした。映画のシーンだった。 -
2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム 選手通用口で
選手の到着を待つ熱狂的なヤンキースファン -
2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム近くのスーパーで
特に買いたい物は無かったが試合開始まで時間があったので入ってみた。 -
2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム近くのスーパーで
店内をうろうろしていた時にハッと思った。ダフ屋から買ったチケットが偽造だったらと。こんな事をしている場合ではない、と思ってスタジアムに入る事にした。 -
2006年6月5日(月) ヤンキースタジアム
入場受付で切符を提示し、係員がバーコードリーダーで読み取る時、かなり緊張してゲートを通過した時はほっとした。
座席は3塁側に近いレフトスタンド奥の一番高い(値段ではなく)ところだった。日本でもバックネット裏ではなく選手の動きがよく分る高い席が好きだったので満足した。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
ヤンキースは1913年からポロ・グラウンズをニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と共用していた。
しかし1920年、ベーブ・ルースがレッドソックスからヤンキースに移籍、54本塁打をマークする大活躍で一気にスター選手になり「ルース効果」でヤンキースの年間観客動員が大リーグ史上初めて100万人を突破した。
これに気分を害したジャイアンツのジョン・マグロー監督は「1921年以降はポロ・グラウンズを使うな」とヤンキースに通告した。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
そこでヤンキースは新球場の建設を決めた。最初はマンハッタンへの建設が検討されたがルース効果で儲かっていたヤンキースでさえ手が出せないほどマンハッタンの地価・花崗岩掘削費が高かったため、これは断念せざるを得なかった。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
他の地区を調査したヤンキースは1921年2月6日、ハーレム川を挟んでマンハッタンの反対側に位置するブロンクス区の材木置き場を10エーカー(12,000)坪購入した。そこはポロ・グラウンズからは1マイル(1.6キロ)も離れていない場所だった。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
新球場は、僅か230日で建設され1923年4月18日、ボストン・レッドソックス戦で開場。74,217人の観衆が集まり、さらに20,000人ほどが球場に入りきれなかったという。
こういった建設の経緯から、ヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」との異名をもつ(開場翌日の19日に「ニューヨーク・イブニングテレグラム」のスポーツライターフレッド・リーブが呼んだとされる)。 -
2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム 試合開始前 座席から撮る。
しかし、開場時は左中間が異常に深く(「デスヴァレー」「死の谷」と呼ばれた)、逆にライトポールまでの距離が短かったため「(左の強打者である)ルースのために建てられた家」だという声も存在する。
また、この球場で初の本塁打を放ったのもルースで、「ここで初めてホームランを打ったのは僕だけど最後に打つのは神様しか知らない」と発言した。因みにヤンキー・スタジアム 最後の本塁打を打ったのはホセ・モリーナである。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
ヤンキースの本拠地として、ヤンキー・スタジアムは数々の歴史的場面の舞台となった。客席が増設され一時は82,000人収容になったり1946年には照明灯が導入されるなど、改修もたびたび行われた。
また野球以外にも使用され、1956年から1973年にかけてはNFLニューヨーク・ジャイアンツの本拠地として使用された。さらにプロボクシングのビッグマッチも行われた。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
ちょうど開場50周年となった1973年のシーズン終了後、ヤンキー・スタジアムは老朽化のためいったん取り壊された。
翌2年間新ヤンキー・スタジアム建設工事が行われ、その間ヤンキースはメッツの本拠地シェイ・スタジアムを間借りした。
新球場は1976年4月15日に開場。その姿は、重厚な外観やフィールドの形状などの旧球場の特徴を残していた。ルースが建てた家」を捩り「スタインブレナーが建て直した家」とも呼ばれた新球場で、ヤンキースは1976年からアメリカンリーグを3連覇。1977・1978年にはワールドシリーズも制した。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
1980年代に入るとヤンキースは長い低迷期に入った。当時の球場周辺の治安は悪化の一途を辿り、当時ほどではないが現在でもブロンクス区は治安の悪い地域である。
1996年にヤンキースは15年ぶりのリーグ優勝・18年ぶりの世界一と復活を果たした。1976年以降は20,000人台だった1試合平均の観客動員が、世界一の翌年の1997年からは30,000人を下回らなくなった。2003年以降は観客動員が全30球団中1位となりながらなお伸び続け、球場移転へと至っている。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
2009年には新ヤンキー・スタジアムが完成し、それにともない従来のヤンキー・スタジアムは2008年のシーズンをもって閉鎖されることとなった。現球場最終年となる2008年にはMLBオールスターゲームが7月15日に開催された。試合は現球場との別れを惜しむかのように延長15回まで長引き、オールスターゲーム史上最長の4時間50分にわたって熱戦が繰り広げられた。最後の試合は同年9月21日に開催された。そのあと、11月23日まで球場内を公開するツアーが行われた。ただし、モニュメント・パークの部分の公開は11月9日で終わり、11月12日から新球場への移設工事が行われた。
2009年3月から解体撤去工事が開始された。跡地にはヘリテージフィールドという10エーカーの公園が整備されている。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
ヤンキー・スタジアムは伝統的に「左打者有利・右打者不利」といわれてきた。これは開場時、左中間が500フィート(約152.4メートル)もあった一方、右中間はスタンド裏にニューヨーク市地下鉄の高架線がある関係で429フィート(約130.8メートル)しかなく294.75フィート(約89.8メートル)の右翼ポール際にかけての狭いエリアでホームランの出ることが多かったためである。この形状からヤンキースは歴史上、ベーブ・ルース、ロジャー・マリス、レジー・ジャクソン、ドン・マッティングリー、ジェイソン・ジアンビなど左打ちのパワーヒッターを数多く獲得してきた。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
しかしフィールドの広さは年々変更されていき、閉鎖時には左右両翼共に開場当時よりずいぶん狭くなっていた。特に1976年の改築でフィールド面積は大幅に縮小された。左中間は現在でも399フィート(約121.6メートル)と大リーグ屈指の広さを誇るが、1988年のモニュメント・パーク設置により、センターよりも左中間が深いという特徴的な形状は解消され、常識的な範囲内での変形球場となっていた。
内野の芝は長めにカットされていた。このため打球の勢いが死にやすいので、内野手には強肩が要求された。ファウルグラウンドは狭く、邪飛によるアウトが少なくなるので打者に有利に働いた。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
ヤンキースタジアムで最も本塁打を打ったのはミッキ−・マントルの266本、次いでベーブ・ルースが259本、ルー・ゲーリックの251本である。
ヤンキースのヤンキースタジアム史上観客最少記録は1966年9月22日の対シカゴ・ホワイトソックス戦の413人で、1対4でヤンキースが敗れている。
現職のアメリカ大統領がヤンキースタジアムで始球式を行ったのは2度で、最初は1956年のドワイト・D・アイゼンハワーで、2度目は2001年10月30日に行われた、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのワールドシリーズでジョージ・W・ブッシュ。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
練習中の選手を間近に見る為下の階に下りてうろうろしたが、グランドに一番近い席にはチェーンがあって入れなかった。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
ヤンキースの練習は終っていた。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
レフトスタンドまで318フィートで96.92m -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
外野ファールゾーンがほとんどない。これだとファールフライはは全てスタンド入りになってしまう。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
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2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム 試合開始前 ライトスタンド
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
レッドソックスの選手、誰か分からない。 -
2006年6月5日(月) レッドソックスのエース ジョシュア・ベケット投手
ジョシュア・パトリック・ベケット(1980年5月15日生 )はテキサス州スプリング出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
1980年5月15日にテキサス州スプリングで生まれ、テキサス州スプリング高等学校へ進学。2年次の時には89回を投げ13勝2敗・防御率0.39・178奪三振を記録し、ドラフト指名の可能性を探ったが、父は「彼の人生で最高に楽しい時代を失うかもしれない」と判断し、本人の意思で3年次へ進級。
3年時には10勝1敗・防御率0.46を記録し、USAトゥデイの高校最優秀投手に選出され、ドラフト史上初の高校生右腕として全体1位指名が期待された。
1999年のMLBドラフトで1巡目(全米2位)指名を受けフロリダ・マーリンズへ入団。小学校の入学が1年遅れたため19歳での指名となった。 -
2006年6月5日(月)レッドソックスのエース ジョシュア・ベケット投手
2005年オフ、マーリンズの緊縮財政のためマイク・ローウェル、ギレルモ・モタとともにハンリー・ラミレス、アニバル・サンチェスら3対4のトレードでボストン・レッドソックスへ移籍した。
2006年、16勝・33先発・204.2イニングはいずれも自己最高・チーム1位だったが、防御率5.01は自己最低、被本塁打36はリーグワースト2位。
2007年シーズン終了後にFAとなるベケットに対し、球団は7月19日に3年総額3,000万ドル(4年目の2010年は球団オプション)で契約延長した。 力だけでねじ伏せる投球から2007年はカーブ、チェンジアップを多く織り交ぜるようになった。
スプリングトレーニングでテリー・フランコーナ監督に「あいつはもう準備万端だ。今年は凄いことになるぞ」と言わしめた。4月をベーブ・ルース(1917年)、ペドロ・マルティネス(2000年)に次いで球団史上3人目となる5勝0敗を記録。
また、開幕から5月8日にかけての7戦7勝は球団史上4位タイ。5月13日のオリオールズ戦を4回で降板。翌14日から右手中指の裂傷により15日間の故障者リスト入りとなった。
6月14日にシーズン初の敗戦を喫するまでに9勝を記録。初めて選出されたオールスターでは2回を無失点に抑え、勝ち投手となった。
両リーグ最多の20勝を挙げ、自己最多の194奪三振を記録。ポストシーズンではディビジョンシリーズ、リーグチャンピオンシップシリーズ、ワールドシリーズの初戦に登板。
また、リーグチャンピオンシップシリーズではレッドソックスが3敗と負ければシリーズ敗退となる第5戦に登板。ポストシーズン、計4試合に登板し4勝・2完封を記録。リーグチャンピオンシップではMVPを獲得し、自身2度目のワールドシリーズ制覇に貢献した。
2008年はスプリングトレーニング期間中に腰を痛め日本で行われる開幕戦には同行せずに故障者リスト入りで開幕を迎えた[13]。シーズン初登板は開幕7戦目のブルージェイズ戦。4月27日のレイズ戦では自己最高の13奪三振を記録。
8月29日に右ヒジ痛のため8月18日に遡り故障者リスト入り。9月5日に復帰を果たしたがポストシーズンでは球威がなく、14.1イニングで7本の本塁打を浴びた。 -
2006年6月5日(月)レッドソックスのエース ジョシュア・ベケット投手
195.6 cmの長身を活かした直球が武器で、2006年には球速152.9km/h以上の球を1,072球(両リーグ最多)投じた、メジャーを代表する速球派先発投手の一人。
投球スタイルは全身を無駄無く稼働させたクセの無いフォームだが、長身であるためリリースポイントが打者に非常に近く、球速表示以上に感じる速球を投げる。投球の約7割がストレートと言う豪速球投手。
2007年には、速球のみならず、制球重視の方針を取った。このことが彼に多大な成功をもたらし、同年、20勝を挙げサイ・ヤング賞候補の一人となった。故障がちであったがそれも改善され、アメリカンリーグのみならずメジャーを代表する投手の一人となった。
指にまめができやすく、シーズン中にまめをつぶして離脱したことが度々ある。 -
2006年6月5日(月)レッドソックスの捕手 ジェイソン・バリテック
ジェイソン・アンドリュー・バリテック(1972年4月11日生 )は、ミシガン州出身の元プロ野球選手(捕手)。
2006年は開幕前の3月に、第1回WBCのアメリカ合衆国代表に選出された[3]。しかしレギュラーシーズンでは7月31日にヒザの軟骨損傷[4]で9月3日まで故障者リスト入りとなり、その間チームは11勝22敗と低迷。
肩は強くなかったが、ボールを後ろに逸らさないボールブロックやクロスプレー時のブロックが上手く、メジャー屈指のリードを見せた。
投手から力を引き出すことがうまく、バリテックが守備に就いた時の防御率が他の捕手よりも良かったことで知られる[6]。野茂英雄(2001年4月4日、オリオールズ戦)、デレク・ロウ(2002年4月27日、デビルレイズ戦)、クレイ・バックホルツ(2007年9月1日、オリオールズ戦)、ジョン・レスター(2008年5月19日、ロイヤルズ戦)と、メジャー最多記録となる4度のノーヒットノーランの捕手を務めている[7]。
スカウティングレポートやビデオ資料を重視し、攻守にわたってチームの要であるバリテックだが、ティム・ウェイクフィールドのナックルボールは苦手としていた。2004年のアメリカンリーグ優勝決定戦第5戦で、ウェイクフィールドが登板した際にバリテックは1イニングのちに3個のパスボールを記録した。シーズン中に同投手が登板の際には、バリテックではなく控え捕手のダグ・ミラベリやケビン・キャッシュが出場した。バリテックは「子供の頃から速球を中心として投球を組み立てる投手と組むことが多かったので、ウェイキー(ウェイクフィールド)と組むのはとても大変な仕事だね」と語っている。 -
2006年6月5日(月)レッドソックスの捕手
選手名は分からない。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合前
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 試合開始前
この辺りの座席が一番良いかも。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
いよいよ試合開始、1回の表、レッドソックスの先頭打者はココ・クリスプ、左打者のせいか3塁手A・ロッドが浅めの守備位置、遊撃手ミゲル・カイロは2塁ベースよりで3遊間が大きく空いている。 -
2006年6月5日(月)松井秀喜が出場していない、代わりにレフトはメルキー・カブレラ
松井秀喜はは5月11日に本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の1回表、マーク・ロレッタの放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首を故障。何とか返球こそしたものの、あまりの痛みにうずくまり、そのまま途中交代した。
1イニング守備に就かずに交代したため、巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。ニューヨーク市内のコロンビア大メディカルセンター病院で即日の検査を行った結果、左手首(橈骨)骨折と診断。
翌朝に手術が行われ、DL入りする。チームメイトに与えたショックも大きく、デレク・ジーターは「松井の代わりなんて誰もいない」、ジョニー・デイモンは「本当に痛ましい。何とか(松井抜きで)やっていく道を探らないといけない」と語った。
8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、30日にはフリー打撃を再開した。9月12日のデビルレイズ戦に8番・指名打者で124日ぶりに先発出場。満員の観衆からスタンディングオベーションで迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた。
復帰後は14試合で打率.430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率.302をマークした。チームも9年連続で地区優勝を果たしたが、デトロイト・タイガースとのディビジョンシリーズでは16打数4安打、0本塁打、打点1と目立った活躍が出来ず、チームも2年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。
メルキー・カブレラの2006年はAAA級コロンバス・クリッパーズで開幕を迎え、31試合で打率.385・OPS.996を記録。5月9日に正右翼手ゲイリー・シェフィールドの穴埋めとしてメジャー再昇格を果たす。
5月11日に松井秀喜が左手首を骨折し長期離脱すると、翌12日から松井の代わりに左翼に定着し、バーニー・ウィリアムスと共に故障者続きだったチームの救世主的存在となった。結局、この年は130試合に出場し、打率.280、守備でも12補殺(リーグ2位タイ)と強肩を発揮。
6月6日(自分の観た翌日)のレッドソックス戦でマニー・ラミレスが放った本塁打性の打球をグラブを伸ばして捕球したプレーは、ファン投票で決定される「2006年のベストプレー」に選ばれている。
ジョー・トーリ監督は、これらの活躍を見せたカブレラがヤンキースの地区優勝に不可欠だったという旨のコメントを残している。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
ライトはバーニー・ウィリアムス、1991年から2006年までヤンキース一筋でプレーしたフランチャイズ・プレイヤーとして知られる。背番号は「51」でヤンキースの永久欠番に指定されている。
センターはジョニー・デイモン、2006年はレギュラーシーズン開幕前に2006 ワールド・ベースボール・クラシック・アメリカ合衆国代表に選出された。
5月2日には古巣ボストンのフェンウェイ・パークで先発出場。凄まじいブーイングと大歓声に迎えられ、ヘルメットを振って応えた。
同年は出塁率こそ前年より下がったものの、打率.285・25盗塁、自己最多となる24本塁打を記録し、初めて20本塁打・20盗塁を達成。
デレク・ジーターと共にタブルチャンスメーカーとなり、効率よく得点をあげやすい打線を形成。チームの得点は前年より44点上回りリーグ1位の930得点で、それに対しデイモンを失ったレッドソックスは90点減の820点となった。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム ライトスタンド
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
1塁手はアンディ・フィリップスで2006年はジェイソン・ジアンビら主力選手の故障で出場機会が大幅に増え、主に一塁手で110試合に出場。
6月にはチーム最高の月間打率.333を記録。二塁や三塁も守り、ユーティリティープレイヤーとして活躍した。
2塁手はロビンソン・カノで2006年、オールスター投票では二塁手部門でトップを走り続けていたものの、膝の違和感から故障者リストに載ってしまい、結局出場は果たせなかった。
しかし、怪我から復帰した8月8日以降の成績では打率、二塁打数、打点でリーグトップであった。欠場の影響で欠けていた規定打席数にも9月末に到達し、首位打者争いに絡む活躍を見せた。
また、9月の月間MVPにも輝く。最終的に残した打率.342は同僚デレク・ジーターに1厘差に迫るリーグ3位の数字で、二塁打数もリーグ2位であった。
同年のMVP投票では総合22位に入り、シルバースラッガー賞を受賞。課題であった守備についてはかなりの向上を見せた。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム ライトスタンド
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 3塁側スタンド
レッドソックスの4番打者デビッド・オルティズが座席に立つと観客のブーイングが凄まじかった。全てアウェイだった。
デビッド・オルティズ(1975年11月18日生)は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身。愛称は、ビッグ・パピ(Big Papi)またはクッキーモンスター(Cookie Monster)。
2006年4月10日に4年総額5,200万ドルで契約延長し、この年は自己最多・球団新記録の54本塁打を放ち本塁打王と打点王の2冠に輝き、ハンク・アーロン賞を受賞。2年連続でMVPの有力な候補となったが、守備で貢献しない指名打者であることが影響したとされ、投票結果は2005年はアレックス・ロドリゲスに次ぐ2位で、2006年は3位に終わった。
2006年の投票に関しては、1位のジャスティン・モルノー、2位のデレク・ジーターの2人を、打率以外では圧倒しており、モルノーの守備位置が一塁手だということも考慮すれば、2人との差は所属チームのプレーオフ進出の有無だとも考えられる。
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2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム ぎっしり埋まった3塁側スタンド
デビッド・オルティズの特徴は、爆発的なパワーを生かし、アッパースイングで低目のボールをすくい上げてスタンドに叩き込むローボールヒッター。2004〜2006年は3年連続で40本塁打(球団史上初)、130打点以上を記録し、同僚のマニー・ラミレスと共に驚異的なコンビとして活躍した。
基本的には引っ張って強い打球を放つことが多いが、流し打ってグリーンモンスターに当て二塁打を稼ぐ技術を持つ。また三振は多いが四球も多く選ぶことができ、高い出塁率を誇る。
2008,2009年は大きく成績を落としたが、2010年には復調。以後は往時ほどのパワーは見られず、怪我による離脱は増えたものの、依然として勝負強い打撃を見せている。
特に勝敗がかかるチャンスや土壇場で強く、レギュラーシーズンとポストシーズン通算で13本のサヨナラ本塁打を含む、20本のサヨナラ打を放っている(13サヨナラ本塁打はミッキー・マントルに次いで歴代2位)。
2004年は上述したポストシーズンの神がかり的な活躍を、また2006年は5回もサヨナラゲームを演出した。特に7月24日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では延長10回裏にトム・ゴードンからサヨナラ2ランを、2日後の7月26日(25日は試合無し)には延長12回裏に同じフィリーズのクレイ・コンドリーから再びサヨナラヒットを放ち、2試合連続サヨナラ打でフィリーズのファンを落胆させた。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム ライトから1塁側スタンド
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 1塁側スタンド
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
レッドソックス3塁手はマイク・ローウェル、2006年、ローウェルはレッドソックスで正三塁手としてプレイ。普通の球場だったら本塁打だったレフト方向ライナー性の打球が本拠地のフェンウェイ・パークではグリーン・モンスターに当たり二塁打となった。47二塁打(リーグ3位)を記録し、前年の不振から復活。
2007年にはデビッド・オルティーズらを上回るチーム最多・リーグ5位の120打点を記録した。またポストシーズンでも活躍し、ワールドシリーズでは打率.400を記録してレッドソックスの優勝に貢献、シリーズMVPを受賞した。
シーズン終了後にローウェルはFAとなった。このとき、レギュラーシーズンでMVPを受賞した同じ三塁手のアレックス・ロドリゲスもFAとなっていた。しかしボストンでは、ロドリゲスの獲得は見送ってローウェルと再契約すべきだ、という声が大きかった。
ローウェルのもとにはフィリーズやドジャースから4年総額5500万ドルから6000万ドル規模のオファーが来ていたというが、ローウェルはレッドソックスと3年総額3,750万ドルで新たに契約し残留した。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
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2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム 警察官と球場職員
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2006年6月5日(月)ヤンキース ジェイソン・ジアンビ
ジェイソン・ギルバート・ジアンビ(1971年1月8日生)は、カリフォルニア州ウェストコビーナ出身の一塁手・指名打者。
2001年12月13日、7年総額1億2,000万ドルでニューヨーク・ヤンキースへ移籍。1年目の2002年、開幕10試合で打率.211と不振に陥っていたが、5月17日に本拠地で迎えたミネソタ・ツインズ戦で逆転サヨナラ満塁本塁打を放つ等[14]、徐々に成績を上げ、終わってみれば打率.314、本塁打はヤンキース1年目の選手としてはベーブ・ルースの54本塁打(1920年)に次ぐ41本塁打をマークし、122打点を記録した。シルバースラッガー賞を前年に続き獲得した。
2003年、前半戦は好調を維持したものの、オールスターゲームでは膝を負傷し、後半戦は成績が下降。最終的にチーム1位の41本塁打、107打点は記録したが、打率は.250とレギュラー定着後初めて平均を下回った。
2004年は不振に陥り、シーズン中盤には9年ぶりにマイナーへ降格した。9月14日にメジャーに復帰したが、復帰後も打率.121と低迷。ポストシーズンはロースターから外れた。同年オフにはバリー・ボンズの専属トレーナーが、運動能力向上薬物を提供していたとされるバルコ・スキャンダルに関連してジアンビ本人も連邦大陪審で証言し、アナボリックステロイドの使用を認めていた事が明らかになった。
ヤンキースは契約違反としてジアンビを解雇しようとしたが、法律上不可能だった。
薬物の使用歴を明らかにして迎えた2005年シーズンは、前半を打率1割台、本塁打1桁台と低迷したまま折り返したが、後半からは復調。7月にはミッキー・マントル(1961年7月)に並ぶ球団最多の月間14本塁打を記録し、7月31日には通算300本塁打を達成した[20]。最終的に32本の本塁打を放ち、アメリカンリーグの最高出塁率(.440)を記録、カムバック賞を受賞した。
2006年4月、22試合で打率.344、9本塁打、27打点を記録し、月間MVPに選出された。シーズンでは打率.253、37本塁打、最終的に3年ぶりに100打点を上回る113打点を記録し、メジャー史上マーク・マグワイアに次ぎ史上2人目となる安打が打点以下という珍記録を達成した。
2007年5月30日の試合で本塁打を打った際、走っている最中にかかとの怪我(筋膜炎と部分断裂)に見舞われ、2カ月以上のDL入りを余儀なくされた。
その結果として83試合の出場数に留まり、打撃成績も打率.236、14本塁打、39打点という結果に終わった。
2008年5・6月に3割を上回る打率を記録し、地元ニューヨークで開催されたオールスターゲームでは5人の候補の中から「32人目の選手」を選ぶファン投票(Final Vote)にノミネートされた。しかし、エバン・ロンゴリアが選出されオールスター出場はならなかった。
打率は.247止まりだったものの32本塁打、96打点を記録した。オフの11月4日にヤンキースが契約を破棄し、FAとなった。
抜群の選球眼と2000年に43本塁打をマークしたパワーが魅力であり、この時期を含んだ1999年から2003年までのシーズン30本以上のホームランは印象的と言われる。 ポジションはファーストだが、DHや代打での出場が多い。ファースト以外に、サード・レフトとしてのプレー経験がある。
極端な引っ張り屋で、外角低めの球ですら腕力にものを言わせて強引にライトスタンドへ放り込むため、ジアンビが打席に立つとサードがショート、ショートがセカンド、セカンドとファーストが前後で一塁線を守る、通称「ジアンビ・シフト」が取られる。ただし、2005年はジアンビがなりふり構わず、三塁側にセーフティーバントをして出塁したり、左方向への流し打ちも行っているため極端な「ジアンビ・シフト」は取られなくなってきている。
1996年まで同じアスレチックスに所属していたマーク・マグワイアを師匠と仰ぐ。打席の左右こそ違うが、ジアンビの打撃フォームや打席内での動作にはマグワイアに類似する箇所がいくつか見られる。2001年オフの移籍の際も、マグワイアから彼が所属していたカージナルスへの入団を勧められて迷う時期があったという。 -
2006年6月5日(月)ヤンキース A・ロッド
アレクサンダー・エマニュエル・ロドリゲス(1975年7月27日生)は、ニューヨーク市ブルックリン区出身で愛称はA-Rod(エイ・ロッド)。
1975年7月27日、ニューヨーク市ブルックリン区に生まれる。父親はビクター、母親はローデスで両親は靴屋を営んでいた。兄妹にジョセフとスージーがいる。4歳のときに家族はドミニカ共和国のサントドミンゴに移住した。
父親はそこでドミニカ共和国のマイナーリーグでキャッチャーをしており、息子のアレックスを度々試合に招いた。父親は薬局を営み、最終的にはフロリダのマイアミに落ち着いた。
アレックスが8歳のときに両親は離婚。母親が女手一つで2つの仕事を掛け持ちし、アレックスを育てた。この頃から野球をやる傍ら、メジャーリーグに興味を持ち始める。お気に入りの選手はデール・マーフィーとキース・ヘルナンデス、それにカル・リプケン・ジュニアだった。自身がメジャーリーグにデビューしてからしばらく付けていた背番号3は、デール・マーフィーの背番号に因み、ポジションの遊撃手はカル・リプケン・ジュニアに因むものである。
高校時代はバスケット・ボールではレギュラー、アメリカン・フットボールではクォーターバックとして多くの大学からスカウトの目に留まり、野球では100試合に出場して打率.419、本塁打17、70打点、90盗塁を記録し、1993年オール・アメリカンに選ばれるなど、卓越した運動神経を見せた。
1993年、マイアミ大学への入学書へサインをしていたが、シアトル・マリナーズにドラフト1位(全体1位)で指名され、契約を結びプロ入りを果たした。
その後、レンジャーズを経て2004年2月16日にレンジャーズが1億7900万ドルのうち6700万ドルの年俸を負担することを条件に、アルフォンソ・ソリアーノ、後日発表選手[7]とのトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。
マリナーズとレンジャーズでは遊撃手を務めていたが、ヤンキースにおいてはキャプテンであるデレク・ジーターの守備位置であったため、移籍に伴い三塁手にコンバートされた。それまでつけていた背番号3は、ヤンキースではベーブ・ルースの永久欠番でつけることが許されず、変更を余儀なくされ、NFLマイアミ・ドルフィンズの往年の選手ダン・マリーノにならって13番を選択した。
ヤンキース初年となった2004年は36本塁打、106打点という一定の数字を残したが、期待されていた内容としては物足りないとされた。ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、ゴロを打って1塁へ走る際、自身をタッチアウトにしようとした投手ブロンソン・アローヨのグラブをはたき、守備妨害でアウトになった。
このプレーは波紋を呼び、試合後に「子供じみたプレー」とバッシングを受けた。同シリーズは3連勝後に4連敗という最悪の形で落としている。
2006年開幕前の3月に第1回WBCのアメリカ合衆国代表に選出された。シーズンでは30歳にして通算2000本安打を達成したが、シーズンでは7年ぶりに年間塁打数が300を切るなど不調で、自己ワーストとなる24失策を記録するなど攻守ともに精彩を欠いた。
ジーターやイチローらが両手でバットを振りぬくのに対し、右投げ右打ちだが、ミートしてから右手がバットを離すタイミングが非常に速い。このため左手一本でボールを飛ばしているように見える。NHKでMLBの解説を行っている新井宏昌はこのロドリゲスの打撃フォームを高く評価している。
打球は内野フライのような急角度で上昇し、勢いを失わずにそのままスタンドインするような弾道を描く。バリー・ボンズにはバットスピードでは劣るものの、生来のパワーはボンズ以上とも言われ、フィールドのあらゆるところに打球を運ぶことができる。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム 電光掲示板
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2006年6月5日(月)ニューヨーク ヤンキースタジアム
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2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム 試合終了を告げる電光掲示板
13対5でヤンキースの圧勝、最後にはヤンキースの抑えのエース、マリアノ・リベラが登場して花を添えた。
マリアノ・リベラ(1969年11月29日生)は、パナマ出身の投手で歴代のメジャーを代表するクローザーの一人で通算セーブ数は歴代最多を誇る。
背番号は「42」。この番号はジャッキー・ロビンソンの栄誉を称えメジャーリーグ全球団共通の永久欠番となっているが、この規則が制定された1997年以前から42番をつけている選手に関しては例外としてつけ続けることが認められていた。この特例が適用されている選手として最後までプレーしたのがリベラであり、リベラはメジャーリーグ全球団で最後の背番号42である。2013年に現役を引退。
選手としての特徴は152km/hで20cm)落ちる」、「バットをへし折る電動ノコギリ」ともいわれるカットボールを武器にする。
キャリア全体を見回しても投球の8割以上がこのカットボールであり、現役中はほぼこの球種しか投げていなかった。そのため打者は狙いを絞りやすいが、手元で鋭く変化するので、打者は非常に舌を巻く。
この球種だけで97年から(2002年を除いた)2011年までの14年間で全て30セーブ以上(その内6度は40セーブ以上、2度は50セーブ以上)と驚異的な記録を叩き出した。
カットボールしか投げない、MLB史上を見ても極めて稀な「1球種で成功したピッチャー」である。芯を外す投球に長けたグラウンドボールピッチャーであり、通算被本塁打率0.50は1995年から2013年までの期間で1000投球回以上投げた投手の中で最も低い率である。
4つのコーナー全てに投げ分ける制球力も持ち、真ん中に投げることはほとんどなかった。力みのないモーションで投げるため、腕の故障などとは無縁である。1種類の球種しか投げないので、腕に負担もかかっていなかった。足さばきがうまく、守備力も優れていた。
他にはデレク・ジーターも出ていた。
デレク・サンダーソン・ジーター(1974年6月26日生 )は、ニュージャージー州ペカノック出身。右投右打。ヤンキースの第11代目主将。背番号は「2」。
1995年のデビューから2014年の引退までヤンキース一筋でプレーしたフランチャイズ・プレイヤー。
現役生活20年間で5回のワールドシリーズ優勝、14回のオールスター選出があるほか、通算で3000本安打以上を記録、MLBを代表するスーパースターとして長年活躍した。
学生時代から人柄が良い上、運動神経も高くバスケットボールでも州代表に選ばれるほどだった。1992年の全米ドラフト1巡目(全体6位)でニューヨーク・ヤンキースに入団。
1995年にメジャーデビュー。1996年に新人王に輝いた。
1999年には打率.349、134得点、219安打と、いずれも自己最高の成績を残した。
2003年には第11代ヤンキースのキャプテンに就任する。
2009年9月11日、ルー・ゲーリックの持っていた球団安打記録を更新(2722本)する快挙を成し遂げた。
2011年7月10日、ヤンキース史上初の3000本安打を、ホームランで達成した。
2012年は3年ぶりに3割をマークし、リーグ最多の216安打を記録したが、盗塁はレギュラー定着後初の一桁(9個)に終わる。
2013年はレギュラー定着後では最低の17試合に終わった。
2014年に現役引退を表明。本拠地ヤンキー・スタジアム最終戦でサヨナラヒットを放った。9月28日のボストン・レッドソックスでタイムリーヒットを放った後に代走で交代し、20年間のメジャー生活が終わった。
オールスターゲームとワールドシリーズで、両方のMVPを同じ年に受賞した選手は現在のところジーターのみである。 -
2006年6月5日(月)ヤンキースタジアム 警察官と
左の警官、右手指はいつでも拳銃の引き金に指が掛かる状態だった。 -
2006年6月5日(月)ニューヨーク地下鉄切符 23時9分に乗車
ヤンキースタジアム最寄り駅161 Streetからピースボードの船着き場の最寄地下鉄駅50 streetまで乗車。 -
2006年6月6日(火)ニューヨーク 翌朝、スポーツ新聞を買った。
爆撃隊 ブロンクスでベケット粉砕
Bronx Bombers ブロンクス・ボンバーズ、Bronxにホームグランド「ヤンキーススタジアム」を持つNew York Yankeesの愛称。bombers(爆撃隊)が意味するところは、ヤンキースのホームランバッターたち、または強力打線。 -
2006年6月6日(火)ニューヨーク 翌朝のスポーツ紙の紙面
2回に7点、これってゲーム?多分ね。 -
2006年6月6日(火)ニューヨーク 翌朝のスポーツ紙の紙面
試合が終ってから家に「録画して。」と電話すれば良かったと気付き、スポーツ新聞を買った。 -
2006年6月6日(火)ニューヨーク 翌朝のスポーツ紙の紙面
どうする事も出来ないベケット。 -
2006年6月6日(火)ニューヨーク 翌朝のスポーツ紙の紙面
順位表と昨日の試合結果、マリナーズはロイヤルズに4対1で勝ち、イチローは4打数2安打で打率3割4分1厘。
ちなみにイチローの2006年は5月にメジャー通算200盗塁を達成。オールスターファン投票では3位でオールスターに選出。会見では6年以上連続選出がアレックス・ロドリゲスとマニー・ラミレスだけであったことについて、「残りのひとりになりたいと思う。それは大いにある目標です」と語った。
7月26日には戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274安打を更新。
8月16日にロジャース・ホーンスビーが持つ連続6シーズン最多安打1296本を超え、8月29日にはメジャー通算400単打を928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。
9月には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーの連続6シーズン通算1313安打を抜いた。9月7日にNPB/MLB通算800単打も達成。9日にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317安打を超え、一週間後となった16日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー史上3人目となる6年連続200安打を達成した。
この試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、アメリカンリーグ新記録も達成。満33歳になるこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を残し、盗塁成功率.957を記録した。
最終的に2年ぶりのリーグ最多安打となる224安打とリーグ6位の打率.322を記録したが、8月には自己ワーストとなる月間打率.233の不振に陥り、「あんなに野球が難しいのか、こんなにしんどいのかと何度も思った」と振り返った。
連続盗塁成功は39まで伸ばしたが、ビンス・コールマンのシーズン記録44連続盗塁成功には及ばなかった。その他、メジャー通算100敬遠を達成。この年から創立されたセイバーメトリクスの専門家により選出されるフィールディング・バイブル・アワードの右翼手部門にも選出された。
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