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2006年(平成18年)4月5日(水)~7月15日(土)<br />ピースボートの地球一周の船旅に参加した。<br /><br /> 今回はリビア、今回の旅行で行きたかった国の一つだったが、<br />滞在が1日で7時入港、23時出港の極めて短い時間だったので<br />やむを得ず「レプティス・マグナのローマ遺跡」はオプショナルツアー<br />を申し込んだ。<br /><br />遺跡説明文のほとんどはウキペディアから引用しました。

地球一周の船旅 vol.12 もう2度と行く事は出来ないだろう リビア 「トリポリ~世界遺産レプティス・マグナのローマ遺跡」

43いいね!

2006/05/10 - 2006/05/10

8位(同エリア49件中)

旅行記グループ 地球一周の船旅vol.1

0

143

ノスタルジア

ノスタルジアさん

2006年(平成18年)4月5日(水)~7月15日(土)
ピースボートの地球一周の船旅に参加した。

 今回はリビア、今回の旅行で行きたかった国の一つだったが、
滞在が1日で7時入港、23時出港の極めて短い時間だったので
やむを得ず「レプティス・マグナのローマ遺跡」はオプショナルツアー
を申し込んだ。

遺跡説明文のほとんどはウキペディアから引用しました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
  • ピースボート地球一周の船旅の日程表<br />2006年(平成18年)4月5日(水)〜7月15日(土)<br /><br /> ピースボートの地球一周の船旅に参加した。<br />ツアーの参加者の投稿はネットでも数多くあって評判はすこぶる悪い。<br />中には裁判沙汰にもなっているツアーもある。<br />自分ももう2度と参加したくないと思っている。<br />その理由については枚挙に遑がないが、<br />特に最悪だったのは船内のエアコンが制御不能で<br />温度一定ではなくその上、かび臭さが漂い体調不良者が<br />続出していたのである。<br /> 自分も乗船して2日目には咳が止まらない、だるいといった<br />風邪の症状が出て診察室に行った。<br />乗船中は体調不良が治まる事は無かったが、寄港地で下船すると体調は<br />良くなったのでる。<br />診察室は毎朝行列が並び、船はさながら病院船みたいなもので、<br />新型インフルエンザやエボラ出血熱の患者が発生すればたちまち蔓延して<br />各国で寄港拒否されてさすらいの航海になってしまうだろう。<br />ツアー中、高齢者の男性が船室で病死した、と2回、船内放送があったが、<br />珍しい事ではないらしい。まさに病院船である。<br /><br /> 元来、旅行社のツアーは性格的に合わないので、旅に出掛ける時は、<br />いつも自分一人だけで、新婚旅行も出来るなら別々に行きたかった程で<br />ある。<br /> それなのにこのツアーに参加したのは、地球一周の船旅は<br />他には飛鳥、にっぽん丸だけで、一人参加で相部屋タイプは<br />他になかったからである。<br />それに飛行機は墜落すると人生それで終わり、なので飛行機には<br />乗らない事にしているので船で行くしかなかったのである。

    ピースボート地球一周の船旅の日程表
    2006年(平成18年)4月5日(水)〜7月15日(土)

    ピースボートの地球一周の船旅に参加した。
    ツアーの参加者の投稿はネットでも数多くあって評判はすこぶる悪い。
    中には裁判沙汰にもなっているツアーもある。
    自分ももう2度と参加したくないと思っている。
    その理由については枚挙に遑がないが、
    特に最悪だったのは船内のエアコンが制御不能で
    温度一定ではなくその上、かび臭さが漂い体調不良者が
    続出していたのである。
     自分も乗船して2日目には咳が止まらない、だるいといった
    風邪の症状が出て診察室に行った。
    乗船中は体調不良が治まる事は無かったが、寄港地で下船すると体調は
    良くなったのでる。
    診察室は毎朝行列が並び、船はさながら病院船みたいなもので、
    新型インフルエンザやエボラ出血熱の患者が発生すればたちまち蔓延して
    各国で寄港拒否されてさすらいの航海になってしまうだろう。
    ツアー中、高齢者の男性が船室で病死した、と2回、船内放送があったが、
    珍しい事ではないらしい。まさに病院船である。

     元来、旅行社のツアーは性格的に合わないので、旅に出掛ける時は、
    いつも自分一人だけで、新婚旅行も出来るなら別々に行きたかった程で
    ある。
     それなのにこのツアーに参加したのは、地球一周の船旅は
    他には飛鳥、にっぽん丸だけで、一人参加で相部屋タイプは
    他になかったからである。
    それに飛行機は墜落すると人生それで終わり、なので飛行機には
    乗らない事にしているので船で行くしかなかったのである。

  • 平成18年5月10日の日の出<br />リビア トリポリ

    平成18年5月10日の日の出
    リビア トリポリ

  • たった16時間の滞在、いかにして有意義な時間を過ごすか。

    たった16時間の滞在、いかにして有意義な時間を過ごすか。

  •  自由行動はおすすめできません。<br />と書いてあるが、新宿歌舞伎町辺りの方がよっぽど危ないのではないか、<br />という感じであった。

     自由行動はおすすめできません。
    と書いてあるが、新宿歌舞伎町辺りの方がよっぽど危ないのではないか、
    という感じであった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上で<br /><br /> トリポリは、リビアの首都でリビアの北西部に位置し、地中海に面した<br />港町である。人口はおよそ170万人で、リビア最大の都市である。<br /> 都市名はギリシア語で「3つの都市」を意味する Tripolis に由来し、<br />同語源で同名の都市にレバノンのトリポリやギリシャのトリポリがある。<br /> 都市名は紀元前7世紀にカルタゴによって建設されたフェニキア人の<br />植民都市「オエア」「サブラタ」「レプテイス」3つを総称してギリシア語で<br />「3つの都市」を意味する Tripolis という名で呼ばれたことに由来する。<br /> 現在のリビア北西部を「トリポリタニア(Tripolitania)」と呼ぶのは、<br />トリポリに因んでいる。<br /> アラビア語ではタラーブルスといい、レバノンにある同名の都市<br />トリポリ(タラーブルス)と区別してタラーブルス・アル ガルブ<br />「西のトリポリ」の意)とも呼ばれる。<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上で

     トリポリは、リビアの首都でリビアの北西部に位置し、地中海に面した
    港町である。人口はおよそ170万人で、リビア最大の都市である。
     都市名はギリシア語で「3つの都市」を意味する Tripolis に由来し、
    同語源で同名の都市にレバノンのトリポリやギリシャのトリポリがある。
     都市名は紀元前7世紀にカルタゴによって建設されたフェニキア人の
    植民都市「オエア」「サブラタ」「レプテイス」3つを総称してギリシア語で
    「3つの都市」を意味する Tripolis という名で呼ばれたことに由来する。
     現在のリビア北西部を「トリポリタニア(Tripolitania)」と呼ぶのは、
    トリポリに因んでいる。
     アラビア語ではタラーブルスといい、レバノンにある同名の都市
    トリポリ(タラーブルス)と区別してタラーブルス・アル ガルブ
    「西のトリポリ」の意)とも呼ばれる。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ タグボート<br /><br /> ヴァンダル王国の時代にリビア地域の中心都市として発展し、<br />645年にイスラム帝国に併合されたのちは、シチリア王国に一時占領された<br />時期を除いてチュニジアやエジプトのムスリム(イスラム教徒)諸勢力の<br />支配下にあった。<br /> 1510年にスペインによって征服され、1530年からマルタ騎士団の支配下に入ったが、1551年にオスマン帝国が征服し、西トリポリ州の州都に定められた。<br />西トリポリ州は1711年から1835年までカラマンリー朝がオスマン帝国の<br />宗主権下に地方世襲政権を立てたほかは、1911年にイタリアによって<br />占領されるまでオスマン帝国の直轄統治下に置かれた。<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ タグボート

     ヴァンダル王国の時代にリビア地域の中心都市として発展し、
    645年にイスラム帝国に併合されたのちは、シチリア王国に一時占領された
    時期を除いてチュニジアやエジプトのムスリム(イスラム教徒)諸勢力の
    支配下にあった。
     1510年にスペインによって征服され、1530年からマルタ騎士団の支配下に入ったが、1551年にオスマン帝国が征服し、西トリポリ州の州都に定められた。
    西トリポリ州は1711年から1835年までカラマンリー朝がオスマン帝国の
    宗主権下に地方世襲政権を立てたほかは、1911年にイタリアによって
    占領されるまでオスマン帝国の直轄統治下に置かれた。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上から<br /><br /> その後、イタリアの植民地支配から、第二次世界大戦中の1943年の<br />イギリス軍による占領を経て1951年に独立したリビアの首都となり、<br />同国最大の都市として政治、経済、文化の中枢に発展した。<br />1986年にはカダフィ大佐の暗殺を狙い、アメリカ空軍および海軍が空爆した。<br />2011年の内戦では8月に戦闘が発生し、8月23日には反体制派により制圧された。<br />2015年1月27日、中心部のコリンシア・ホテルがISILトリポリ支部の襲撃を<br />受け8人が死亡。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上から

     その後、イタリアの植民地支配から、第二次世界大戦中の1943年の
    イギリス軍による占領を経て1951年に独立したリビアの首都となり、
    同国最大の都市として政治、経済、文化の中枢に発展した。
    1986年にはカダフィ大佐の暗殺を狙い、アメリカ空軍および海軍が空爆した。
    2011年の内戦では8月に戦闘が発生し、8月23日には反体制派により制圧された。
    2015年1月27日、中心部のコリンシア・ホテルがISILトリポリ支部の襲撃を
    受け8人が死亡。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上から<br /><br /> トリポリは地中海に臨むサハラ砂漠の端に位置する。<br />チュニジアから約200km離れており、リビア第2の都市ベンガジとは<br />スルト湾を間に挟む。300kmにわたる海岸はオアシス、砂漠、潟が交互に続く。<br />地中海性気候だが、最高気温は7月から10月が27度Cから30度C、<br />12月から3月が18度Cから23度Cの間である。4月から9月の降雨が少なく、<br />とくに7・8月はゼロである。11月から1月は70mm〜90mm、<br />年間合計は400mmを下回る。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上から

     トリポリは地中海に臨むサハラ砂漠の端に位置する。
    チュニジアから約200km離れており、リビア第2の都市ベンガジとは
    スルト湾を間に挟む。300kmにわたる海岸はオアシス、砂漠、潟が交互に続く。
    地中海性気候だが、最高気温は7月から10月が27度Cから30度C、
    12月から3月が18度Cから23度Cの間である。4月から9月の降雨が少なく、
    とくに7・8月はゼロである。11月から1月は70mm〜90mm、
    年間合計は400mmを下回る。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上から<br /><br /> リビア国、通称リビアは、北アフリカに位置する共和制国家。<br />東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、<br />北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国の<br />イタリアが存在する。<br />首都はトリポリである。<br /> アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合と<br />アラブ連盟に加盟している。<br />アラブ・マグレブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上から

     リビア国、通称リビアは、北アフリカに位置する共和制国家。
    東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、
    北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国の
    イタリアが存在する。
    首都はトリポリである。
     アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合と
    アラブ連盟に加盟している。
    アラブ・マグレブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上から<br /><br /> Libya は、ギリシャ神話の登場人物リビュエーに由来し、古代ギリシアで<br />北アフリカの地中海沿岸地域(エジプトより西)をまとめて<br /> Libya と呼んでいたことに由来する。<br />さらにこの語は、アフリカ大陸全体を指す場合もあったが、<br />現在この意味では使用されていない。<br /> その後、現在のリビアの領域はイフリキアと呼ばれ、北西部が首都トリポリ<br />(アラビア語名:タラーブルス)の名をとってトリポリタニア(タラーブルス)、<br />北東部がバルカ(太古の時代からの呼称、キュレナイカとも呼ばれた)、<br />南部内陸部がフェッザーンなどの地域からなっており、16世紀にこの地を<br />併合したオスマン帝国はこの地域全体を西タラーブルス州としていたが、<br />1911年にイタリア王国がオスマン帝国からこの地を奪った際に、<br />古名を復活させリビアとした。<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上から

     Libya は、ギリシャ神話の登場人物リビュエーに由来し、古代ギリシアで
    北アフリカの地中海沿岸地域(エジプトより西)をまとめて
    Libya と呼んでいたことに由来する。
    さらにこの語は、アフリカ大陸全体を指す場合もあったが、
    現在この意味では使用されていない。
     その後、現在のリビアの領域はイフリキアと呼ばれ、北西部が首都トリポリ
    (アラビア語名:タラーブルス)の名をとってトリポリタニア(タラーブルス)、
    北東部がバルカ(太古の時代からの呼称、キュレナイカとも呼ばれた)、
    南部内陸部がフェッザーンなどの地域からなっており、16世紀にこの地を
    併合したオスマン帝国はこの地域全体を西タラーブルス州としていたが、
    1911年にイタリア王国がオスマン帝国からこの地を奪った際に、
    古名を復活させリビアとした。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上から<br /><br /> 古代リビュアはフェニキア人、カルタゴ、古代ローマ、東ローマ帝国の支配を<br />受けた。<br /> 7世紀にアラブ人のウマイヤ朝に征服され、イスラム教が広がった。<br />その後16世紀にオスマン帝国に併合された(オスマン・トリポリタニア)。<br />1711年に土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、<br />カラマンリー朝が成立した。<br /> 19世紀初頭にカラマンリー朝はアメリカ合衆国と第一次バーバリ戦争を<br />繰り広げた。<br />その後イギリスとフランスによるこの地への干渉が始まったため、<br />オスマン帝国はリビアを再征服し、1835年にカラマンリー朝は滅亡した。<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上から

     古代リビュアはフェニキア人、カルタゴ、古代ローマ、東ローマ帝国の支配を
    受けた。
     7世紀にアラブ人のウマイヤ朝に征服され、イスラム教が広がった。
    その後16世紀にオスマン帝国に併合された(オスマン・トリポリタニア)。
    1711年に土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、
    カラマンリー朝が成立した。
     19世紀初頭にカラマンリー朝はアメリカ合衆国と第一次バーバリ戦争を
    繰り広げた。
    その後イギリスとフランスによるこの地への干渉が始まったため、
    オスマン帝国はリビアを再征服し、1835年にカラマンリー朝は滅亡した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上から<br />ベネチアのサン・マルコ広場に似ていると思った。<br /><br /> 20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを<br />植民地化した。<br />植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールや<br />ベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられ、<br />1926年からイタリアのロドルフォ・グラツィアーニによる厳しい弾圧が<br />行われたが、特にフェザーンでの抵抗は激しく、リビアの完全平定は<br />1932年にまでもつれこんだ。<br /> 第二次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・<br />ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。<br />イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされた。<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上から
    ベネチアのサン・マルコ広場に似ていると思った。

     20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを
    植民地化した。
    植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールや
    ベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられ、
    1926年からイタリアのロドルフォ・グラツィアーニによる厳しい弾圧が
    行われたが、特にフェザーンでの抵抗は激しく、リビアの完全平定は
    1932年にまでもつれこんだ。
     第二次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・
    ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。
    イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされた。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上から<br /><br /> 1949年の国際連合の決議により、1951年にキレナイカ首長国(キレナイカ)、<br />トリポリタニア、フェッザーンの3州の連邦制によるリビア連合王国として<br />独立した。<br />キレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が<br />国王に即位した。1963年に連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。<br /> 1969年9月1日、ナーセル主義者だった27歳のムアンマル・アル カッザーフィー<br />(カダフィ)と同志の青年将校たちによるクーデターにより、<br />トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、カダフィを事実上の<br />元首とする共和国が成立した。<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上から

     1949年の国際連合の決議により、1951年にキレナイカ首長国(キレナイカ)、
    トリポリタニア、フェッザーンの3州の連邦制によるリビア連合王国として
    独立した。
    キレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が
    国王に即位した。1963年に連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。
     1969年9月1日、ナーセル主義者だった27歳のムアンマル・アル カッザーフィー
    (カダフィ)と同志の青年将校たちによるクーデターにより、
    トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、カダフィを事実上の
    元首とする共和国が成立した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 船上から<br /><br /> その後はイスラーム主義や社会主義やナーセル主義やカダフィが著した<br />『緑の書』に基づく国家を建設を目指し、対外的にはソビエト連邦に接近して<br />援助を受けた。<br /> 1970年代から1990年代まで数々のテロを支援したため、アメリカ合衆国や<br />イギリスなどの欧米諸国と敵対した。1985年に発生した西ヨーロッパでの<br />一連のテロ事件により経済制裁を受け、1986年にはアメリカ軍によって<br />リビア爆撃されたが、その報復として1988年にパンナム機を爆破した。<br /> 2001年の同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、<br />成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトし、<br />アフリカ連合内で主導権を握ろうとしていた。<br /> 2011年、カダフィ打倒を旗印にしたリビア国民評議会とカダフィ政権側の間で<br />内戦が勃発した。一時期はカダフィ政権側が評議会側の拠点だった<br />ベンガジ進攻寸前まで至ったが、NATO(北大西洋条約機構)などから軍事的な<br />支援を受けた評議会軍が同年8月23日に首都トリポリを制圧した。<br />10月20日にカダフィが最後の拠点スルトで殺害され、42年間続いた政権は<br />崩壊した。<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 船上から

     その後はイスラーム主義や社会主義やナーセル主義やカダフィが著した
    『緑の書』に基づく国家を建設を目指し、対外的にはソビエト連邦に接近して
    援助を受けた。
     1970年代から1990年代まで数々のテロを支援したため、アメリカ合衆国や
    イギリスなどの欧米諸国と敵対した。1985年に発生した西ヨーロッパでの
    一連のテロ事件により経済制裁を受け、1986年にはアメリカ軍によって
    リビア爆撃されたが、その報復として1988年にパンナム機を爆破した。
     2001年の同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、
    成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトし、
    アフリカ連合内で主導権を握ろうとしていた。
     2011年、カダフィ打倒を旗印にしたリビア国民評議会とカダフィ政権側の間で
    内戦が勃発した。一時期はカダフィ政権側が評議会側の拠点だった
    ベンガジ進攻寸前まで至ったが、NATO(北大西洋条約機構)などから軍事的な
    支援を受けた評議会軍が同年8月23日に首都トリポリを制圧した。
    10月20日にカダフィが最後の拠点スルトで殺害され、42年間続いた政権は
    崩壊した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br />「レプティス・マグナのローマ遺跡」はオプショナルツアーの申込書<br />自由行動はおすすめできません。<br />寄港地プログラム(オプショナルツアー)への参加をおすすめします。<br />との事だったので申し込んだが、タクシーで行けば良かったと思った。<br />と云うのもトリポリをバスは9時に出発し、遺跡に着いたのは11時、12時から<br />13時まで昼食、15時に遺跡を発ってトリポリに戻ったのが17時、<br />遺跡にいたのはたった3時間しかなかった。<br /> それについて同乗の添乗員に不満を言うと「実はこのツアーについての<br />現地調査は行っていなく、机上プランだけだったのでこの様になってしまった、<br />自分も滞在時間が短すぎると思う。」と申し訳なさそうに答えた。<br />この程度というか、ピースボートの旅行代理店であるジャパングレース社は<br />自分に言わせれば素人集団なのである。<br /> こんな事なら7時にタクシーで遺跡に向かい、17時に遺跡を出てもトリポリには<br />19時に着くので、23時の出港には十分間に合ったと思った。<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ
    「レプティス・マグナのローマ遺跡」はオプショナルツアーの申込書
    自由行動はおすすめできません。
    寄港地プログラム(オプショナルツアー)への参加をおすすめします。
    との事だったので申し込んだが、タクシーで行けば良かったと思った。
    と云うのもトリポリをバスは9時に出発し、遺跡に着いたのは11時、12時から
    13時まで昼食、15時に遺跡を発ってトリポリに戻ったのが17時、
    遺跡にいたのはたった3時間しかなかった。
     それについて同乗の添乗員に不満を言うと「実はこのツアーについての
    現地調査は行っていなく、机上プランだけだったのでこの様になってしまった、
    自分も滞在時間が短すぎると思う。」と申し訳なさそうに答えた。
    この程度というか、ピースボートの旅行代理店であるジャパングレース社は
    自分に言わせれば素人集団なのである。
     こんな事なら7時にタクシーで遺跡に向かい、17時に遺跡を出てもトリポリには
    19時に着くので、23時の出港には十分間に合ったと思った。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br />各オプショナルツアーのバスの運転手兼ガイドたち<br /><br /> 今日はツアーなのでリビアの人たちと接する機会が少ないと思い、<br />積極的に話しかけた。<br />皆から俺のバスに乗れ、と言われた。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ
    各オプショナルツアーのバスの運転手兼ガイドたち

     今日はツアーなのでリビアの人たちと接する機会が少ないと思い、
    積極的に話しかけた。
    皆から俺のバスに乗れ、と言われた。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br />各オプショナルツアーのバスの運転手兼ガイドたち

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ
    各オプショナルツアーのバスの運転手兼ガイドたち

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br />各オプショナルツアーのバスの運転手兼ガイドたち

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ
    各オプショナルツアーのバスの運転手兼ガイドたち

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br />各オプショナルツアーのバスの運転手兼ガイドたち<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ
    各オプショナルツアーのバスの運転手兼ガイドたち

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリからレプティス・マグナの遺跡に向かうバスの車窓から<br />トリポリを出るとすぐに自然の風景に変わった。<br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリからレプティス・マグナの遺跡に向かうバスの車窓から
    トリポリを出るとすぐに自然の風景に変わった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリからレプティス・マグナの遺跡に向かうバスの車窓から<br />トリポリを出るとすぐに自然の風景に変わった。<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア トリポリからレプティス・マグナの遺跡に向かうバスの車窓から
    トリポリを出るとすぐに自然の風景に変わった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 道の駅の売店の親爺たちと

    平成18年5月10日
    リビア 道の駅の売店の親爺たちと

  • 平成18年5月10日<br />リビア 道の駅の売店の親爺たちと

    平成18年5月10日
    リビア 道の駅の売店の親爺たちと

  • 平成18年5月10日<br />リビア 道の駅の売店の親爺たちと<br />木陰で涼しく快適で1日中休憩しているようだった。

    平成18年5月10日
    リビア 道の駅の売店の親爺たちと
    木陰で涼しく快適で1日中休憩しているようだった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 道の駅の売店の親爺と

    平成18年5月10日
    リビア 道の駅の売店の親爺と

  • 平成18年5月10日<br />リビア 道の駅の売店の親爺と

    平成18年5月10日
    リビア 道の駅の売店の親爺と

  • 平成18年5月10日<br />リビア 道の駅に面している道路

    平成18年5月10日
    リビア 道の駅に面している道路

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    平成18年5月10日
    リビア 道の駅に面している道路

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ<br /><br /> レプティス・マグナは、リビアの首都トリポリの東130kmに位置する<br />アル・クムス市 (Al Khums) にある古代ローマ時代の傑出した都市遺跡。<br />トリポリタニアの三都のひとつであったと同時に、アフリカ初のローマ皇帝<br />セプティミウス・セウェルスを輩出した都市として知られ、その治世に<br />絶頂期を迎えた。<br />「マグナ」は「偉大な」という意味だが、チュニジアにもレプティスという町が<br />あったことから、区別するために付加されていた。<br />北アフリカ屈指のローマ都市遺跡として、1982年にはユネスコの世界遺産に<br />登録された。<br /> <br /> この都市は紀元前4世紀にカルタゴが地中海の一大勢力となるまで<br />無名だったが、元々紀元前1100年頃にフェニキア人の入植者が<br />建造したようである。実質的に紀元前200年頃から独立してはいたが、<br />紀元前146年の第三次カルタゴ戦争終結までは名義上カルタゴ領に属し、<br />以降は共和政ローマ領となった。<br /> 名目的な支配は帝政ローマのティベリウス帝の時代まで続いたが、<br />そのときに公式にアフリカ属州の一部として帝国領に編入された。程なくして、<br />アフリカ属州の中心都市のひとつでもあり主要交易拠点ともなる都市に成長した。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

     レプティス・マグナは、リビアの首都トリポリの東130kmに位置する
    アル・クムス市 (Al Khums) にある古代ローマ時代の傑出した都市遺跡。
    トリポリタニアの三都のひとつであったと同時に、アフリカ初のローマ皇帝
    セプティミウス・セウェルスを輩出した都市として知られ、その治世に
    絶頂期を迎えた。
    「マグナ」は「偉大な」という意味だが、チュニジアにもレプティスという町が
    あったことから、区別するために付加されていた。
    北アフリカ屈指のローマ都市遺跡として、1982年にはユネスコの世界遺産に
    登録された。
     
     この都市は紀元前4世紀にカルタゴが地中海の一大勢力となるまで
    無名だったが、元々紀元前1100年頃にフェニキア人の入植者が
    建造したようである。実質的に紀元前200年頃から独立してはいたが、
    紀元前146年の第三次カルタゴ戦争終結までは名義上カルタゴ領に属し、
    以降は共和政ローマ領となった。
     名目的な支配は帝政ローマのティベリウス帝の時代まで続いたが、
    そのときに公式にアフリカ属州の一部として帝国領に編入された。程なくして、
    アフリカ属州の中心都市のひとつでもあり主要交易拠点ともなる都市に成長した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ<br /><br /> レプティスの絶頂は、この町の出身者セプティミウス・セウェルスが<br />アフリカ出身で初のローマ皇帝となった西暦193年に訪れた。<br />彼が全ての属州の都市のなかでレプティスを最優遇し、惜しげもなく財を投入し、<br />建築事業を推進した結果、レプティスはカルタゴ、アレキサンドリアに次ぐ<br />アフリカ第三の大都市となったのである。<br />205年に、セプティミウス・セウェルスとその一族がこの町を訪れたときには、<br />盛大な喝采を送られた。<br /> しかし、交易が急激に減少した「3世紀の危機」を通じて、レプティスも<br />没落し、都市の大半は廃れてしまった。<br />テオドシウス1世の治世に小規模な再興が行われはした。<br /><br />439年には、トリポリタニアの残りとレプティスは、西ローマ帝国からカルタゴを<br />奪って拠点としたヴァンダル族の王ガイセリックの支配下に置かれた。<br />レプティス・マグナの歴史にとっては不幸なことに、住民がヴァンダルの支配に<br />反抗する意志を喪失するようにと、ガイセリックは都市の防御力の低下のために<br />城壁の破壊を命じた。しかし、これはレプティスの住民にとってもヴァンダルの<br />支配層にとっても、重い代償を払うことにつながった。<br />523年にベルベル人が容易に侵攻し、都市を略奪したからである。<br /> 10年後にベリサリウスがローマの名の下にレプティスを奪還し、<br />534年にはヴァンダル王国を滅ぼした。<br />レプティスは、東ローマ帝国の属州の州都のひとつになったが、ベルベル人の<br />破壊から立ち直り、往時の繁栄を取り戻すには至らなかった。<br />アラブ人がトリポリタニアを征服する650年代までに、東ローマ軍の駐屯地を<br />除いて、都市は廃れてしまっていた。<br />ほどなくして砂に埋もれてしまい、1921年になって再発見された。<br />今日、レプティス・マグナの遺跡は、北アフリカにおけるローマ都市遺跡の<br />中でも屈指の印象深さを誇るものとして佇んでいる。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

     レプティスの絶頂は、この町の出身者セプティミウス・セウェルスが
    アフリカ出身で初のローマ皇帝となった西暦193年に訪れた。
    彼が全ての属州の都市のなかでレプティスを最優遇し、惜しげもなく財を投入し、
    建築事業を推進した結果、レプティスはカルタゴ、アレキサンドリアに次ぐ
    アフリカ第三の大都市となったのである。
    205年に、セプティミウス・セウェルスとその一族がこの町を訪れたときには、
    盛大な喝采を送られた。
     しかし、交易が急激に減少した「3世紀の危機」を通じて、レプティスも
    没落し、都市の大半は廃れてしまった。
    テオドシウス1世の治世に小規模な再興が行われはした。

    439年には、トリポリタニアの残りとレプティスは、西ローマ帝国からカルタゴを
    奪って拠点としたヴァンダル族の王ガイセリックの支配下に置かれた。
    レプティス・マグナの歴史にとっては不幸なことに、住民がヴァンダルの支配に
    反抗する意志を喪失するようにと、ガイセリックは都市の防御力の低下のために
    城壁の破壊を命じた。しかし、これはレプティスの住民にとってもヴァンダルの
    支配層にとっても、重い代償を払うことにつながった。
    523年にベルベル人が容易に侵攻し、都市を略奪したからである。
     10年後にベリサリウスがローマの名の下にレプティスを奪還し、
    534年にはヴァンダル王国を滅ぼした。
    レプティスは、東ローマ帝国の属州の州都のひとつになったが、ベルベル人の
    破壊から立ち直り、往時の繁栄を取り戻すには至らなかった。
    アラブ人がトリポリタニアを征服する650年代までに、東ローマ軍の駐屯地を
    除いて、都市は廃れてしまっていた。
    ほどなくして砂に埋もれてしまい、1921年になって再発見された。
    今日、レプティス・マグナの遺跡は、北アフリカにおけるローマ都市遺跡の
    中でも屈指の印象深さを誇るものとして佇んでいる。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> セプティミウス・セウェルス(146年4月11日 - 211年2月4日)は、<br />ローマ帝国の皇帝(在位:193年4月9日 - 211年2月4日)である。<br />セウェルス朝の創始者であり、アフリカ属州生まれ(属州民ではない)の<br />皇帝となった。<br /> セウェルスはアウレリウス帝とコンモドゥス帝の親子二代に仕え、<br />ローマの貴族階級における典型的な経歴を歩んだ。<br />ネルウァ アントニヌス朝断絶後の騒乱(五皇帝の年)で頭角を現して<br />有力な皇帝候補となり、ペルティナクス帝の死後に実権を掌握した。<br />彼は存命中の皇帝であったディディウス・ユリアヌスを失脚させて<br />自らが皇帝に即位した。<br /> 皇帝となった後、クロディウス・アルビヌスとペスケンニウス・ニゲルという<br />二人の僭称帝との戦いが始まると、セウェルスはイッススの戦いで<br />まずペスケンニウスを破り、続いてクロディウスをルグドゥヌムの戦いで<br />打ち破った。また合わせてオスロエネ王国に対する外征にも勝利して、<br />ローマ領を東方へ拡大した

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     セプティミウス・セウェルス(146年4月11日 - 211年2月4日)は、
    ローマ帝国の皇帝(在位:193年4月9日 - 211年2月4日)である。
    セウェルス朝の創始者であり、アフリカ属州生まれ(属州民ではない)の
    皇帝となった。
     セウェルスはアウレリウス帝とコンモドゥス帝の親子二代に仕え、
    ローマの貴族階級における典型的な経歴を歩んだ。
    ネルウァ アントニヌス朝断絶後の騒乱(五皇帝の年)で頭角を現して
    有力な皇帝候補となり、ペルティナクス帝の死後に実権を掌握した。
    彼は存命中の皇帝であったディディウス・ユリアヌスを失脚させて
    自らが皇帝に即位した。
     皇帝となった後、クロディウス・アルビヌスとペスケンニウス・ニゲルという
    二人の僭称帝との戦いが始まると、セウェルスはイッススの戦いで
    まずペスケンニウスを破り、続いてクロディウスをルグドゥヌムの戦いで
    打ち破った。また合わせてオスロエネ王国に対する外征にも勝利して、
    ローマ領を東方へ拡大した

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> 体制を固めたセウェルスはより大胆な外征を計画、パルティア戦争で<br />敵国の首都クテシフォンを占領するなど大勝を得て、ティグリス川沿いまで<br />領土を拡張した。<br />同時に属州アラビア・ペトラエアに建設されていた城壁「リーメス・アラビクス」<br />の補強を進め、東方属州の拡大と強化に熱意を注いだ。<br />自らの故郷である属州アフリカでも外征を行い、ガラマンテス族を破って<br />「リメス・トリポリタヌス」を南の砂漠地帯にまで広げた。<br /> 治世後半も戦いに明け暮れる日々を過ごし、北方はブリタンニアでピクト族との<br />戦争に従事しつつハドリアヌスの長城を補修した。<br />セウェルスの死もそうした戦いの最中で起き、ブリタニア遠征中にエボラクムで<br />病没した。死後は二人の息子カラカラとゲタが継承した為、新たな王朝として<br />セウェルス朝が成立した。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     体制を固めたセウェルスはより大胆な外征を計画、パルティア戦争で
    敵国の首都クテシフォンを占領するなど大勝を得て、ティグリス川沿いまで
    領土を拡張した。
    同時に属州アラビア・ペトラエアに建設されていた城壁「リーメス・アラビクス」
    の補強を進め、東方属州の拡大と強化に熱意を注いだ。
    自らの故郷である属州アフリカでも外征を行い、ガラマンテス族を破って
    「リメス・トリポリタヌス」を南の砂漠地帯にまで広げた。
     治世後半も戦いに明け暮れる日々を過ごし、北方はブリタンニアでピクト族との
    戦争に従事しつつハドリアヌスの長城を補修した。
    セウェルスの死もそうした戦いの最中で起き、ブリタニア遠征中にエボラクムで
    病没した。死後は二人の息子カラカラとゲタが継承した為、新たな王朝として
    セウェルス朝が成立した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> セプティミウス・セウェルスは父プブリウス・セプティミウスと<br />母フルウィア・ピーアの子としてレプティス・マグナに生まれた<br />プブリウス・セプティミウスは騎士であり、ポエニ戦争時代に軍功を上げて<br />領地を与えられた歴史を持つ、騎士達の中でも名門に属していた一族の出身で<br />あった。<br />父プブリウスは政治的な地位を持たず、本国の上流貴族からすれば<br />ただの田舎貴族でしかなかった。<br />しかし親族にあたるプブリウス・セプティミウス・アペルとガイウス・セプティミウス・セウェルスという二人の人物がアントニウス・ピウス帝の治世下で<br />臣下に迎えられ、総督などの重職を務めていた。<br /> 母フルウィアはイタリア本土出身の由緒正しい血筋であった。<br />恐らく彼女はローマの古参氏族で、帝政時代にはプレブス階級に没落していた<br />フルウィウス氏族の末裔であると見られており、親類に近衛隊長や執政官を<br />務めたガイウス・フルウィウス・プラウティアヌスがいる。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     セプティミウス・セウェルスは父プブリウス・セプティミウスと
    母フルウィア・ピーアの子としてレプティス・マグナに生まれた
    プブリウス・セプティミウスは騎士であり、ポエニ戦争時代に軍功を上げて
    領地を与えられた歴史を持つ、騎士達の中でも名門に属していた一族の出身で
    あった。
    父プブリウスは政治的な地位を持たず、本国の上流貴族からすれば
    ただの田舎貴族でしかなかった。
    しかし親族にあたるプブリウス・セプティミウス・アペルとガイウス・セプティミウス・セウェルスという二人の人物がアントニウス・ピウス帝の治世下で
    臣下に迎えられ、総督などの重職を務めていた。
     母フルウィアはイタリア本土出身の由緒正しい血筋であった。
    恐らく彼女はローマの古参氏族で、帝政時代にはプレブス階級に没落していた
    フルウィウス氏族の末裔であると見られており、親類に近衛隊長や執政官を
    務めたガイウス・フルウィウス・プラウティアヌスがいる。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> セウェルスは上流文化の本場である本土で育てられず、一貫して故郷の<br />レプティス・マグナで幼少期を過ごした。<br />彼の両親がセウェルスに何を望み、どのような教育や訓練を施したのかは<br />殆ど記録が残っていない。<br />後世に伝えられている事の一つに、母国語であるラテン語や教養とされた<br />ギリシャ語だけでなく、地元に残る在来住民(カルタゴ人)の話すポエニ語を<br />流暢に話したという逸話である。<br />そしてそれは彼のラテン語のアクセントにすら影響を残し、「カルタゴ訛り」と<br />揶揄される要因となった。他にはカッシウス・ディオによると弁論学を学んで<br />おり、17歳の時に公の場で演説を初めて行ったという。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     セウェルスは上流文化の本場である本土で育てられず、一貫して故郷の
    レプティス・マグナで幼少期を過ごした。
    彼の両親がセウェルスに何を望み、どのような教育や訓練を施したのかは
    殆ど記録が残っていない。
    後世に伝えられている事の一つに、母国語であるラテン語や教養とされた
    ギリシャ語だけでなく、地元に残る在来住民(カルタゴ人)の話すポエニ語を
    流暢に話したという逸話である。
    そしてそれは彼のラテン語のアクセントにすら影響を残し、「カルタゴ訛り」と
    揶揄される要因となった。他にはカッシウス・ディオによると弁論学を学んで
    おり、17歳の時に公の場で演説を初めて行ったという。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> 162年頃、セウェルスは次第に宮廷での仕官を望むようになり、故郷から遠く<br />離れた帝都ローマに向かう決意を固めた。<br />ローマでは親族であるガイウス・セプティミウス・セウェルスの推薦もあり、<br />マルクス・アウレリウス時代の元老院に出入りするようになった。<br />しかし青年期のセウェルスは歴史の表舞台に立つ機会を中々得られなかった。<br />官職の入り口である二十六人官を務めた後[13]、希望していた護民官職は<br />選ばれず、更に財務官についても最低年齢の25歳まで見合わせなければ<br />ならなかった。<br /> 更に間の悪い事に166年に「アントニヌスの疫病」とも呼ばれる天然痘の流行が<br />ローマを襲い、暫くの間はセウェルスは故郷で静養を余儀なくされた。<br />信憑性の薄い「ローマ皇帝群像」は実際には不倫疑惑から逃れるためであると<br />主張している。だが諦めずに169年になって再びローマに戻ると必要年齢を<br />満たした<br />財務官選挙に名乗りを上げ、見事に当選を果たした。<br />12月5日、同職の就任によってセウェルスは元老院の名簿に記載された。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     162年頃、セウェルスは次第に宮廷での仕官を望むようになり、故郷から遠く
    離れた帝都ローマに向かう決意を固めた。
    ローマでは親族であるガイウス・セプティミウス・セウェルスの推薦もあり、
    マルクス・アウレリウス時代の元老院に出入りするようになった。
    しかし青年期のセウェルスは歴史の表舞台に立つ機会を中々得られなかった。
    官職の入り口である二十六人官を務めた後[13]、希望していた護民官職は
    選ばれず、更に財務官についても最低年齢の25歳まで見合わせなければ
    ならなかった。
     更に間の悪い事に166年に「アントニヌスの疫病」とも呼ばれる天然痘の流行が
    ローマを襲い、暫くの間はセウェルスは故郷で静養を余儀なくされた。
    信憑性の薄い「ローマ皇帝群像」は実際には不倫疑惑から逃れるためであると
    主張している。だが諦めずに169年になって再びローマに戻ると必要年齢を
    満たした
    財務官選挙に名乗りを上げ、見事に当選を果たした。
    12月5日、同職の就任によってセウェルスは元老院の名簿に記載された。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> 170年から180年にかけて矢継ぎ早に多くの役職を歴任した事実にも関わらず、<br />セウェルスの元老院時代の記録は殆ど残っていない。<br />「アントニヌスの疫病」は大勢の犠牲者を出し、元老院議員もかなりの議員が<br />病死していた。セウェルスの異例の出世はこうした深刻な人材難による部分が<br />大きかったと見られている。セウェルスは一度目の財務官を終えると<br />今度はヒスパニア・バエティカで職務を継続するように命じられた。<br />父の急死によりレプティス・マグナへ帰省している間にバエティカで動乱が<br />起きて一時的に元老院から皇帝に同地の監督権が移ってしまい、<br />セウェルスは任地に赴けないままに時間を費やした。<br />173年、ガイウス・セプティミウス・セウェルスが属州アフリカの総督に<br />赴任した際、縁者であるセウェルスを自らのレガトゥス・プロ・プラエトル<br />(属州代理官)に指名した。<br />帰国後、セウェルスは護民官の職務を経て元老院での地位を確かなものとした。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     170年から180年にかけて矢継ぎ早に多くの役職を歴任した事実にも関わらず、
    セウェルスの元老院時代の記録は殆ど残っていない。
    「アントニヌスの疫病」は大勢の犠牲者を出し、元老院議員もかなりの議員が
    病死していた。セウェルスの異例の出世はこうした深刻な人材難による部分が
    大きかったと見られている。セウェルスは一度目の財務官を終えると
    今度はヒスパニア・バエティカで職務を継続するように命じられた。
    父の急死によりレプティス・マグナへ帰省している間にバエティカで動乱が
    起きて一時的に元老院から皇帝に同地の監督権が移ってしまい、
    セウェルスは任地に赴けないままに時間を費やした。
    173年、ガイウス・セプティミウス・セウェルスが属州アフリカの総督に
    赴任した際、縁者であるセウェルスを自らのレガトゥス・プロ・プラエトル
    (属州代理官)に指名した。
    帰国後、セウェルスは護民官の職務を経て元老院での地位を確かなものとした。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> セウェルスが結婚したのは当時の慣習より遅い三十台半ばになってからで、<br />175年にパッシア・マルシアナという同郷の女性と結婚したが、<br />彼女はセウェルスとの子を生む事無く亡くなった。<br />パッシアがいかなる人物であったかは今日全く不明であり、人名から恐らくは<br />ポエニ系の一族出身だったのではないかと推測されている程度である。<br />セウェルス自身も後に皇帝となった後、パッシアとの婚暦を公に認めつつも<br />隠すような行動を取った。<br />ローマ皇帝群像はセウェルスにはバッシアとの間に二人の娘がいたと<br />主張しているが、史学上の根拠はない。<br /> 186年に結婚から11年目でパッシアが病死すると、より有力な人物となっていた<br />セウェルスは跡継ぎを欲してすぐに再婚相手を探し始めた<br />(ローマ皇帝群像によればセウェルスは「占いで花嫁を探した」と主張されて<br />いる)。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     セウェルスが結婚したのは当時の慣習より遅い三十台半ばになってからで、
    175年にパッシア・マルシアナという同郷の女性と結婚したが、
    彼女はセウェルスとの子を生む事無く亡くなった。
    パッシアがいかなる人物であったかは今日全く不明であり、人名から恐らくは
    ポエニ系の一族出身だったのではないかと推測されている程度である。
    セウェルス自身も後に皇帝となった後、パッシアとの婚暦を公に認めつつも
    隠すような行動を取った。
    ローマ皇帝群像はセウェルスにはバッシアとの間に二人の娘がいたと
    主張しているが、史学上の根拠はない。
     186年に結婚から11年目でパッシアが病死すると、より有力な人物となっていた
    セウェルスは跡継ぎを欲してすぐに再婚相手を探し始めた
    (ローマ皇帝群像によればセウェルスは「占いで花嫁を探した」と主張されて
    いる)。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> セウェルスは属州シリアにあるエメサ市で、土着信仰である太陽神ヘ<br />リオガバルスを奉じていた神官ユリウス・バッシアヌスの娘ユリア・ドムナと<br />結婚した。後にセウェルス朝で暗躍するこの一族は地元シリアではかなりの資金と<br />地位を持つ豪族でもあったが、ローマ本国では「ただのプレブスでしかなかった」<br />とカッシウス・ディオは伝えている。<br /> バッシアヌスは187年にセウェルスの婚姻提案を受け入れ、翌年の夏に両者は<br />正式に結婚した。以前の妻より恐らくはより博識で野心高いこの妻にセウェルスは<br />常に一目置き、政治的な議題を相談する事もしばしばであったという。<br />跡継ぎについては、結婚から程なくマルクス・アウレリウス・セウェルス・<br />アントニヌス(カラカラ)とプブリウス・セプティミウス・ゲタという<br />二人の息子を授かった。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     セウェルスは属州シリアにあるエメサ市で、土着信仰である太陽神ヘ
    リオガバルスを奉じていた神官ユリウス・バッシアヌスの娘ユリア・ドムナと
    結婚した。後にセウェルス朝で暗躍するこの一族は地元シリアではかなりの資金と
    地位を持つ豪族でもあったが、ローマ本国では「ただのプレブスでしかなかった」
    とカッシウス・ディオは伝えている。
     バッシアヌスは187年にセウェルスの婚姻提案を受け入れ、翌年の夏に両者は
    正式に結婚した。以前の妻より恐らくはより博識で野心高いこの妻にセウェルスは
    常に一目置き、政治的な議題を相談する事もしばしばであったという。
    跡継ぎについては、結婚から程なくマルクス・アウレリウス・セウェルス・
    アントニヌス(カラカラ)とプブリウス・セプティミウス・ゲタという
    二人の息子を授かった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> セウェルスは順調に元老院での出世を重ね、アウレリウス帝死後の<br />コンモドゥス帝からは要地である属州パンノニアの総督に任命されていた。<br />従ってネルウァ アントニヌス朝断絶後の五皇帝の年では<br />重要な役割を担う事ができた。<br /> セウェルスはコンモドゥス暗殺によって帝位を得たペルティナクスが内紛で<br />処刑され、更に後続のディディウス・ユリアヌスが民心を得れていない事を<br />目の当たりにすると、遂に自らも帝位請求に向けて動き出した。<br />ユリアヌス軍を破ったセウェルスは元老院からの支持を取り付け、<br />内乱勃発から三人目の皇帝となった。これに対してセウェルスと平行して帝位を<br />請求していたシリア総督ペスケンニウス・ニゲルと、<br />ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスが抵抗の意図を見せた。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     セウェルスは順調に元老院での出世を重ね、アウレリウス帝死後の
    コンモドゥス帝からは要地である属州パンノニアの総督に任命されていた。
    従ってネルウァ アントニヌス朝断絶後の五皇帝の年では
    重要な役割を担う事ができた。
     セウェルスはコンモドゥス暗殺によって帝位を得たペルティナクスが内紛で
    処刑され、更に後続のディディウス・ユリアヌスが民心を得れていない事を
    目の当たりにすると、遂に自らも帝位請求に向けて動き出した。
    ユリアヌス軍を破ったセウェルスは元老院からの支持を取り付け、
    内乱勃発から三人目の皇帝となった。これに対してセウェルスと平行して帝位を
    請求していたシリア総督ペスケンニウス・ニゲルと、
    ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスが抵抗の意図を見せた。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> セウェルスは地理的に近いアルビヌスと手を結んで彼を副帝に指名して<br />懐柔すると、東方属州へ遠征を開始した。<br />イッススの戦いでニゲル軍を破ると、一年間を費やして東方属州からニゲル派の<br />勢力を駆逐し、また後ろ盾であったパルティア帝国を押さえ込む事に集中した。<br />そして東方の動乱を鎮めると、約束を反故にする形で息子のカラカラを<br />新たな副帝に指名すると宣言、激怒したアルビヌスは再び軍を起こして抵抗した。<br />ルグドゥヌムの戦いはダキア・モエシア・イリュリアの軍勢を中核にした<br />セウェルス軍の前にアルビヌス軍が大敗を喫して、アルビヌスは戦死した。<br /> 一連の戦闘でセウェルスの支配は確実なものとなり、またその息子に帝位が<br />継がれた事で内乱は終結してセウェルス朝が成立した。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     セウェルスは地理的に近いアルビヌスと手を結んで彼を副帝に指名して
    懐柔すると、東方属州へ遠征を開始した。
    イッススの戦いでニゲル軍を破ると、一年間を費やして東方属州からニゲル派の
    勢力を駆逐し、また後ろ盾であったパルティア帝国を押さえ込む事に集中した。
    そして東方の動乱を鎮めると、約束を反故にする形で息子のカラカラを
    新たな副帝に指名すると宣言、激怒したアルビヌスは再び軍を起こして抵抗した。
    ルグドゥヌムの戦いはダキア・モエシア・イリュリアの軍勢を中核にした
    セウェルス軍の前にアルビヌス軍が大敗を喫して、アルビヌスは戦死した。
     一連の戦闘でセウェルスの支配は確実なものとなり、またその息子に帝位が
    継がれた事で内乱は終結してセウェルス朝が成立した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> 197年の初めにセウェルスはローマの宮殿を立ってブリンディジへ向かうと<br />海路でキリキアに進み、そこから陸路で属州シリアへ入った。そしてシリアに辿り着くと軍勢を集め、ユーフラテス川の渡河を開始した。<br />セウェルス軍の前にオスロエネ王国の王アバガル9世はセウェルスに王子達を<br />人質として差し出し、また弓兵隊を援軍に派遣して恭順の意思を示した。<br />またアルメニア王ティリダテス2世も人質を送り、貢物を送って協力を示した。<br /> セウェルス軍はニシビスへ行軍、配下の将軍ユリウス・ラエトゥスの活躍で<br />攻撃を受けていた同地を防衛した。セウェルスは再びシリアに戻って<br />補給を得た後、ペスケンニウス・ニゲルを支援していた東方の大国パルティアへの<br />直接戦争を開始した。戦いはパルティアの首都クテシフォンを陥落させるなど<br />セウェルス軍の圧勝に終わり、講和条約でティグリス川沿いまで領土を拡張した。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     197年の初めにセウェルスはローマの宮殿を立ってブリンディジへ向かうと
    海路でキリキアに進み、そこから陸路で属州シリアへ入った。そしてシリアに辿り着くと軍勢を集め、ユーフラテス川の渡河を開始した。
    セウェルス軍の前にオスロエネ王国の王アバガル9世はセウェルスに王子達を
    人質として差し出し、また弓兵隊を援軍に派遣して恭順の意思を示した。
    またアルメニア王ティリダテス2世も人質を送り、貢物を送って協力を示した。
     セウェルス軍はニシビスへ行軍、配下の将軍ユリウス・ラエトゥスの活躍で
    攻撃を受けていた同地を防衛した。セウェルスは再びシリアに戻って
    補給を得た後、ペスケンニウス・ニゲルを支援していた東方の大国パルティアへの
    直接戦争を開始した。戦いはパルティアの首都クテシフォンを陥落させるなど
    セウェルス軍の圧勝に終わり、講和条約でティグリス川沿いまで領土を拡張した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> またセウェルスは元老院や近衛兵隊に対する粛清を加えつつ、<br />やはり自らの権力基盤として軍を優遇した。属州各地に展開する帝国正規軍の<br />総数は少なければ25個軍団、多いときでも30個軍団だったのが、<br />セウェルスの治世で33個軍団に固定された。その上、軍団兵の給与は<br />年300デナリウスから年500デナリウスへと大幅に引き上げられた。<br />また属州民からなるアウクシリア(補助軍)の増強にも着手し、<br />多くの志願者が主に東方属州から召集された。<br /> 彼の軍制改革はローマを一種の軍事独裁政権へとその色合いを強めさせ、<br />後の軍人皇帝時代への布石となった。<br />しかし民衆は概ね内乱を鎮めて外征に勝利した皇帝に敬意を抱き、<br />セウェルスもパルティア戦争の戦勝を祝ってセプティミウス・セウェルスの<br />凱旋門を建設した。<br />またコモドゥス時代に力を蓄えた汚職役人を粛清した事も<br />人気に繋がっていった。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     またセウェルスは元老院や近衛兵隊に対する粛清を加えつつ、
    やはり自らの権力基盤として軍を優遇した。属州各地に展開する帝国正規軍の
    総数は少なければ25個軍団、多いときでも30個軍団だったのが、
    セウェルスの治世で33個軍団に固定された。その上、軍団兵の給与は
    年300デナリウスから年500デナリウスへと大幅に引き上げられた。
    また属州民からなるアウクシリア(補助軍)の増強にも着手し、
    多くの志願者が主に東方属州から召集された。
     彼の軍制改革はローマを一種の軍事独裁政権へとその色合いを強めさせ、
    後の軍人皇帝時代への布石となった。
    しかし民衆は概ね内乱を鎮めて外征に勝利した皇帝に敬意を抱き、
    セウェルスもパルティア戦争の戦勝を祝ってセプティミウス・セウェルスの
    凱旋門を建設した。
    またコモドゥス時代に力を蓄えた汚職役人を粛清した事も
    人気に繋がっていった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> 202年後半、セウェルスは属州アフリカに対する新たな対外戦争を計画した。<br />命令を受けた第3軍団「アウグスタ」の軍団長クィントゥス・アニシウス・<br />ファウストゥスは「リーメス・トリポリタヌス」を巡ってガラマンテス族と<br />戦い続け、レプティス・マグナから600km以上南へ蛮族を追い払った。<br />また合わせてヌミディア地方でも同じく領域の拡大が進められた。<br />203年までに、優れた将軍達の活躍で北アフリカにおける南部城壁はいずれも<br />劇的に押し広げられ、砂漠地帯でローマを悩ませていた遊牧民はもはや容易に<br />沿岸都市を攻撃できず、サハラ砂漠へと逃げることもできなくなった。<br /> 208年、晩年のセウェルスは自ら久方振りに親征を執り行うべく、<br />属州ブリタニアへと向かった。そこでハドリアヌスの長城の補修を命じて、<br />更にピクト人の領域(カレドニア)に北進した。セウェルス軍はピクト人を破り、<br />カレドニアの北端であるマレー湾にまで到達した210年、軍事的優勢の中で<br />セウェルスはピクト人と和睦を結び、この時決定された領域はブリタニア<br />撤退までの永きに亘って維持される事になる。<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     202年後半、セウェルスは属州アフリカに対する新たな対外戦争を計画した。
    命令を受けた第3軍団「アウグスタ」の軍団長クィントゥス・アニシウス・
    ファウストゥスは「リーメス・トリポリタヌス」を巡ってガラマンテス族と
    戦い続け、レプティス・マグナから600km以上南へ蛮族を追い払った。
    また合わせてヌミディア地方でも同じく領域の拡大が進められた。
    203年までに、優れた将軍達の活躍で北アフリカにおける南部城壁はいずれも
    劇的に押し広げられ、砂漠地帯でローマを悩ませていた遊牧民はもはや容易に
    沿岸都市を攻撃できず、サハラ砂漠へと逃げることもできなくなった。
     208年、晩年のセウェルスは自ら久方振りに親征を執り行うべく、
    属州ブリタニアへと向かった。そこでハドリアヌスの長城の補修を命じて、
    更にピクト人の領域(カレドニア)に北進した。セウェルス軍はピクト人を破り、
    カレドニアの北端であるマレー湾にまで到達した210年、軍事的優勢の中で
    セウェルスはピクト人と和睦を結び、この時決定された領域はブリタニア
    撤退までの永きに亘って維持される事になる。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> 外征での勝利を重ねる一方、国内では元老院との不和を抱えた<br />皇帝の一人でもあった。元々、軍事力で帝位を簒奪したセウェルスに対する<br />反感は、近衛兵隊を使って元老院を恫喝したディディウス・ユリアヌスと<br />比べてもそれほど差のあるものではなかった。そしてセウェルスの側も元老院を<br />皇帝権に逆らう存在として、彼らを軽蔑する事を躊躇わなかった。<br />セウェルスは元老院内に蔓延していた退廃や汚職・謀議の一掃を行い、<br />何十人もの元老院議員を処刑台に送った。そして後任に自らが選抜した者を<br />登用した。<br /> また同時に元老院と並んで本国での権力基盤である近衛兵隊についても粛清を<br />行い、ペルティナクスとユリアヌスの帝位簒奪と暗殺の双方に協力した隊員らに<br />追放を命じた。殆どの近衛兵達が役職を剥奪され、ローマから追放された。<br />もっとも近衛兵隊という制度そのものを廃止した訳ではなく、単に元老院と<br />同じく自らに従順な者で構成させたに過ぎない。事実、粛清後にセウェルスは<br />自らに従い続けてきた古参兵から新たな近衛兵を選んで、アルバノに拠点を<br />移動させた上で身辺を守らせている。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     外征での勝利を重ねる一方、国内では元老院との不和を抱えた
    皇帝の一人でもあった。元々、軍事力で帝位を簒奪したセウェルスに対する
    反感は、近衛兵隊を使って元老院を恫喝したディディウス・ユリアヌスと
    比べてもそれほど差のあるものではなかった。そしてセウェルスの側も元老院を
    皇帝権に逆らう存在として、彼らを軽蔑する事を躊躇わなかった。
    セウェルスは元老院内に蔓延していた退廃や汚職・謀議の一掃を行い、
    何十人もの元老院議員を処刑台に送った。そして後任に自らが選抜した者を
    登用した。
     また同時に元老院と並んで本国での権力基盤である近衛兵隊についても粛清を
    行い、ペルティナクスとユリアヌスの帝位簒奪と暗殺の双方に協力した隊員らに
    追放を命じた。殆どの近衛兵達が役職を剥奪され、ローマから追放された。
    もっとも近衛兵隊という制度そのものを廃止した訳ではなく、単に元老院と
    同じく自らに従順な者で構成させたに過ぎない。事実、粛清後にセウェルスは
    自らに従い続けてきた古参兵から新たな近衛兵を選んで、アルバノに拠点を
    移動させた上で身辺を守らせている。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門<br /><br /> 同時代の歴史家カッシウス・ディオによると[34]、初期の統治を終えた<br />197年頃からセウェルスは古い友人でもある新しい近衛隊長<br />ガイウス・フルウィウス・プラウティヌスに治世を任せて、<br />自らは内政を省みないようになったという。プラウティヌスは国内行政の<br />殆ど全てを一手に握り、セウェルスの政策の多くは彼の手によって差配された。<br />セウェルスはプラウティヌスを寵愛し、彼の娘を帝位継承を約束されていた<br />長男カラカラの后妃として迎えさせた。次期皇帝の養父となり、もはや外戚として<br />プラウティヌス家の権威は絶対的なものとなった。しかしプラウティヌスの権勢は<br />セウェルス晩年の時にあっけなく終わりを迎えた。<br />205年、彼はセウェルスの親族によって暗殺されたという。<br />しかしながらセウェルスが直接統治を執り行う事は無く、<br />アエミリウス・パピニアヌスという法律家に治世が一任された。<br />剣闘士競技における、ドミティアヌス帝が始めた女剣闘士同士による試合を<br />禁止する命令を出している。<br />宗教政策においてはキリスト教の信徒がアレキサンドリアで増加傾向にあった為、<br />197年もしくは198年には大規模な迫害政策が行われた。<br /> カッシウス・ディオによれば、遠征地で危篤に陥ったセウェルスは息子達に<br />平穏に暮らすように言い残した上で、『兵士を優遇せよ。他の者は無視せよ。』と<br />伝えたという。211年、セウェルスが病没すると直ちに皇帝は神として神殿に<br />祭られ、後にカラカラとゲタもこれに加わった。<br />かのポートランドの壺はセウェルスの副葬品が16世紀に彼の墓から掘り出された<br />ものと言い伝えられている。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セプティミウス・セウェルスの凱旋門

     同時代の歴史家カッシウス・ディオによると[34]、初期の統治を終えた
    197年頃からセウェルスは古い友人でもある新しい近衛隊長
    ガイウス・フルウィウス・プラウティヌスに治世を任せて、
    自らは内政を省みないようになったという。プラウティヌスは国内行政の
    殆ど全てを一手に握り、セウェルスの政策の多くは彼の手によって差配された。
    セウェルスはプラウティヌスを寵愛し、彼の娘を帝位継承を約束されていた
    長男カラカラの后妃として迎えさせた。次期皇帝の養父となり、もはや外戚として
    プラウティヌス家の権威は絶対的なものとなった。しかしプラウティヌスの権勢は
    セウェルス晩年の時にあっけなく終わりを迎えた。
    205年、彼はセウェルスの親族によって暗殺されたという。
    しかしながらセウェルスが直接統治を執り行う事は無く、
    アエミリウス・パピニアヌスという法律家に治世が一任された。
    剣闘士競技における、ドミティアヌス帝が始めた女剣闘士同士による試合を
    禁止する命令を出している。
    宗教政策においてはキリスト教の信徒がアレキサンドリアで増加傾向にあった為、
    197年もしくは198年には大規模な迫害政策が行われた。
     カッシウス・ディオによれば、遠征地で危篤に陥ったセウェルスは息子達に
    平穏に暮らすように言い残した上で、『兵士を優遇せよ。他の者は無視せよ。』と
    伝えたという。211年、セウェルスが病没すると直ちに皇帝は神として神殿に
    祭られ、後にカラカラとゲタもこれに加わった。
    かのポートランドの壺はセウェルスの副葬品が16世紀に彼の墓から掘り出された
    ものと言い伝えられている。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場<br /><br /> セウェルスは動乱期のローマ帝国にとって必要としていた、<br />外征に長ける「強き皇帝」であった。彼は幾多の戦いに勝利して、<br />西方属州の国境(ゲルマニア地方)を除く全ての国境線を拡張し、<br />城壁(リーメス)を大幅に補強した。同時に軍を厚遇する事でその士気と<br />精強さも大幅に高めた。セウェルスの死後、ローマ帝国はカラカラ帝から<br />軍人皇帝時代と約70年に及び暴政と内戦、異民族の侵入が吹き荒れる<br />大混乱時代に突入するが、その中でもついに帝国滅亡を防ぎ得た一つの要因を<br />作り出した功績は疑うべくもない。<br /> しかし一方で軍に対する優遇はコモドゥス時代に減らされた軍事費を<br />再び膨大な額へと引き上げる結果となり、既にネルウァ=アントニヌス朝に<br />表面化しつつあった軍事費の増大を決定的なものとした。セウェルスを支持した<br />民衆も、肥大化した軍を支えるために重税を強いられるようになった。<br />また軍を政治的に重んじて自らの権力基盤とする軍事独裁方針は後の<br />軍人皇帝時代に繋がるものでもあり、同時代の歴史家(カッシウス・ディオや<br />ヘロディアヌス)からも既に辛辣な批判が行われていた。<br /> またセウェルスは露骨な身内贔屓でも知られており、彼の治世で立てられた<br />建設物の殆どは故郷のレプティス・マグナに集中した。<br />数少ない例外はセプティミウス・セウェルスの凱旋門だが、<br />セウェルスはレプティス・マグナにも同様の凱旋門を建設する事を忘れなかった。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場

     セウェルスは動乱期のローマ帝国にとって必要としていた、
    外征に長ける「強き皇帝」であった。彼は幾多の戦いに勝利して、
    西方属州の国境(ゲルマニア地方)を除く全ての国境線を拡張し、
    城壁(リーメス)を大幅に補強した。同時に軍を厚遇する事でその士気と
    精強さも大幅に高めた。セウェルスの死後、ローマ帝国はカラカラ帝から
    軍人皇帝時代と約70年に及び暴政と内戦、異民族の侵入が吹き荒れる
    大混乱時代に突入するが、その中でもついに帝国滅亡を防ぎ得た一つの要因を
    作り出した功績は疑うべくもない。
     しかし一方で軍に対する優遇はコモドゥス時代に減らされた軍事費を
    再び膨大な額へと引き上げる結果となり、既にネルウァ=アントニヌス朝に
    表面化しつつあった軍事費の増大を決定的なものとした。セウェルスを支持した
    民衆も、肥大化した軍を支えるために重税を強いられるようになった。
    また軍を政治的に重んじて自らの権力基盤とする軍事独裁方針は後の
    軍人皇帝時代に繋がるものでもあり、同時代の歴史家(カッシウス・ディオや
    ヘロディアヌス)からも既に辛辣な批判が行われていた。
     またセウェルスは露骨な身内贔屓でも知られており、彼の治世で立てられた
    建設物の殆どは故郷のレプティス・マグナに集中した。
    数少ない例外はセプティミウス・セウェルスの凱旋門だが、
    セウェルスはレプティス・マグナにも同様の凱旋門を建設する事を忘れなかった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場<br /><br /> ハドリアヌス(76年1月24日 - 138年7月10日)は、第14代ローマ皇帝<br />(在位:117年 - 138年)。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。<br />帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による<br />帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。<br /> ハドリアヌスはローマで生まれ、トラヤヌスの従兄弟の子である。<br />93年、二十人委員の職に就き、民生関係の修行をした。ついで、パンノニア、<br />下部モエシア及び上部ゲルマニア各属州で高級軍団将校を務める。<br />その後101年、元首財務官に就任、トラヤヌスの秘書を務める。<br />皇帝の演説を元老院で代読したのは、この時のことである。<br />105年護民官に就任、ついで法務官(プラエトル)に任命された。<br />その後、軍団司令官として第2次ダキア戦争に従軍、この戦争で実績を重ね、<br />107年からは属州長官として下部パンノニアを治めた。<br />この属州の長官のときの功績により、108年には数か月間、補充執政官を務めた。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場

     ハドリアヌス(76年1月24日 - 138年7月10日)は、第14代ローマ皇帝
    (在位:117年 - 138年)。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。
    帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による
    帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。
     ハドリアヌスはローマで生まれ、トラヤヌスの従兄弟の子である。
    93年、二十人委員の職に就き、民生関係の修行をした。ついで、パンノニア、
    下部モエシア及び上部ゲルマニア各属州で高級軍団将校を務める。
    その後101年、元首財務官に就任、トラヤヌスの秘書を務める。
    皇帝の演説を元老院で代読したのは、この時のことである。
    105年護民官に就任、ついで法務官(プラエトル)に任命された。
    その後、軍団司令官として第2次ダキア戦争に従軍、この戦争で実績を重ね、
    107年からは属州長官として下部パンノニアを治めた。
    この属州の長官のときの功績により、108年には数か月間、補充執政官を務めた。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場<br /><br /> 114年から開始されたパルティア戦争では軍団の司令官に任命され、<br />参謀本部内でトラヤヌスの補佐役として優れた手腕を発揮した。<br />117年、トラヤヌスは、ハドリアヌスを属州シリアの総督に任命した。<br />病を得たトラヤヌスは、ハドリアヌスをパルティア遠征軍の総司令官に任命し、<br />ローマへ帰国の途につく。しかし、トラヤヌスはキリキア地方のセリヌスで<br />不帰の人となった。死の床でトラヤヌスはハドリアヌスを養子に指名したが、<br />これは皇后プロティナの支持があったからだといわれる。<br /> 8月9日、アンティオキア滞在中のハドリアヌスにトラヤヌスの養子となった<br />旨の書簡が届く。その2日後、トラヤヌス逝去を報ずる書簡が届いた。<br />このとき、ハドリアヌスは配下の軍隊から「インペラトル(皇帝)」と<br />歓呼された。公式にはこの日が「即位の日」とされる。ハドリアヌスは<br />セリヌスへいって弔問したあと、再びシリアへ戻る。<br />その際、東部国境の安定化のため、属州メソポタミアとアルメニアの放棄を<br />決定した。その処理が終わると、蛮族の侵入によって不穏な情勢にあった<br />ドナウ川流域を訪れ、属州ダキアと属州モエシアを再編成し、翌年7月、<br />ようやくローマへ帰還した。<br /> ハドリアヌスの帝位継承については、元老院議員の一部から異論が出るおそれが<br />あった。そのためであろう、かつてハドリアヌスの後見人であった腹心の<br />近衛長官アッティアヌスは予防的措置として、「元老院の命令により」、<br />執政官を経験した有力な元老院議員4名を殺害させた(ハドリアヌスが<br />命じたとする研究者もいる)。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場

     114年から開始されたパルティア戦争では軍団の司令官に任命され、
    参謀本部内でトラヤヌスの補佐役として優れた手腕を発揮した。
    117年、トラヤヌスは、ハドリアヌスを属州シリアの総督に任命した。
    病を得たトラヤヌスは、ハドリアヌスをパルティア遠征軍の総司令官に任命し、
    ローマへ帰国の途につく。しかし、トラヤヌスはキリキア地方のセリヌスで
    不帰の人となった。死の床でトラヤヌスはハドリアヌスを養子に指名したが、
    これは皇后プロティナの支持があったからだといわれる。
     8月9日、アンティオキア滞在中のハドリアヌスにトラヤヌスの養子となった
    旨の書簡が届く。その2日後、トラヤヌス逝去を報ずる書簡が届いた。
    このとき、ハドリアヌスは配下の軍隊から「インペラトル(皇帝)」と
    歓呼された。公式にはこの日が「即位の日」とされる。ハドリアヌスは
    セリヌスへいって弔問したあと、再びシリアへ戻る。
    その際、東部国境の安定化のため、属州メソポタミアとアルメニアの放棄を
    決定した。その処理が終わると、蛮族の侵入によって不穏な情勢にあった
    ドナウ川流域を訪れ、属州ダキアと属州モエシアを再編成し、翌年7月、
    ようやくローマへ帰還した。
     ハドリアヌスの帝位継承については、元老院議員の一部から異論が出るおそれが
    あった。そのためであろう、かつてハドリアヌスの後見人であった腹心の
    近衛長官アッティアヌスは予防的措置として、「元老院の命令により」、
    執政官を経験した有力な元老院議員4名を殺害させた(ハドリアヌスが
    命じたとする研究者もいる)。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場<br /><br /> トラヤヌスは、パルティア戦争開始後、メソポタミア、アッシリア、アルメニア<br />を属州とし、治世末期にはローマ帝国史上最大の版図を実現していた。<br />しかし、東方の隣国であるパルティアとの紛争を収束させていなかった。<br />このような状況に鑑み、ハドリアヌスは外交政策を攻勢から守勢に転換し、<br />ユーフラテス川以東のメソポタミア、アッシリア、アルメニアを放棄して、<br />東方の国境の安定化を図った。<br /> ハドリアヌスは帝国の統一のためには平和が欠かせないことを充分認識して<br />おり、帝国の東部以外でも帝国の防衛力を整備した。<br />軍事的脅威を受けている地方では、防壁(リメス)の構築あるいは天然の要害に<br />よって帝国を防衛することにした。なかでも、カレドニア人との紛争が<br />続いていたブリタンニア北部において防壁を構築した。<br />通常「ハドリアヌスの長城」と呼ばれている。ゲルマン人との境界のライン川や<br />ドナウ川地域、そのほか、アフリカでも防壁が構築されている。<br />そして、皇帝自ら軍紀の徹底を図り、巡察旅行中も現場で兵士の訓練を査察し、<br />直接指示を出したりした。また、軍団に地元の兵士を採用することによって、<br />軍団の徴募を安定化させ、経費の節約を図った。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場

     トラヤヌスは、パルティア戦争開始後、メソポタミア、アッシリア、アルメニア
    を属州とし、治世末期にはローマ帝国史上最大の版図を実現していた。
    しかし、東方の隣国であるパルティアとの紛争を収束させていなかった。
    このような状況に鑑み、ハドリアヌスは外交政策を攻勢から守勢に転換し、
    ユーフラテス川以東のメソポタミア、アッシリア、アルメニアを放棄して、
    東方の国境の安定化を図った。
     ハドリアヌスは帝国の統一のためには平和が欠かせないことを充分認識して
    おり、帝国の東部以外でも帝国の防衛力を整備した。
    軍事的脅威を受けている地方では、防壁(リメス)の構築あるいは天然の要害に
    よって帝国を防衛することにした。なかでも、カレドニア人との紛争が
    続いていたブリタンニア北部において防壁を構築した。
    通常「ハドリアヌスの長城」と呼ばれている。ゲルマン人との境界のライン川や
    ドナウ川地域、そのほか、アフリカでも防壁が構築されている。
    そして、皇帝自ら軍紀の徹底を図り、巡察旅行中も現場で兵士の訓練を査察し、
    直接指示を出したりした。また、軍団に地元の兵士を採用することによって、
    軍団の徴募を安定化させ、経費の節約を図った。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場<br /><br /> パルティア問題を収拾させたあと、帝国内の諸問題に取り組む。<br />まず属州に対する姿勢を変更した。属州の重要性を強調し、開発を推進すると<br />同時にイタリアとの一体化に努力を傾注した。<br />このため、ハドリアヌス自身、2度にわたって長期の巡察旅行に出かけた。<br />この旅行の目的は、帝国防衛の再整備、帝国の行政の調整、統合の象徴としての<br />皇帝の周知、帝国各地(とくにギリシア化していた地域)の巡察にあった。<br />巡察旅行には建設関係者をも随伴していたといわれ、公共工事も行われた。<br /> 次に、ハドリアヌスは統治機構を整備した。彼の構築した官僚機構は<br />以降の帝国の基礎となる。<br /> ハドリアヌスは法制度の整備も推進する。サルウィウス・ユリアヌスに命じて、<br />『永久告示録』と呼ばれる法典を編纂させた(完成は131年頃、6世紀まで<br />使われた)。これは、法務官が出した従来の告示を集大成したものである。<br />ユスティニアヌスの時代には、これらを基に『ユスティニアヌス法典』<br />(別名『ローマ法大全』)が編纂された。<br /> 130年、エルサレム市をローマ風の都市に建設、自らの氏族名アエリウスに<br />ちなんで植民市「アエリア・カピトリーナ」と命名した。<br />そのため、ユダヤ人の大規模かつ組織的な反乱が発生した。<br />バル・コクバの乱と呼ばれる。ハドリアヌスは他の属州からも軍団を動員し、<br />135年にようやく反乱を鎮圧した。3年以上を要したことになる。<br />この戦争の終結を機に、ユダヤ地方は「属州シリア・パレスティナ」と名称が<br />変更され、この地からユダヤの名が消えた。ユダヤ人は離散(ディアスポラ)を<br />余儀なくされ、以後、エルサレム市内への立ち入りも制限された。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場

     パルティア問題を収拾させたあと、帝国内の諸問題に取り組む。
    まず属州に対する姿勢を変更した。属州の重要性を強調し、開発を推進すると
    同時にイタリアとの一体化に努力を傾注した。
    このため、ハドリアヌス自身、2度にわたって長期の巡察旅行に出かけた。
    この旅行の目的は、帝国防衛の再整備、帝国の行政の調整、統合の象徴としての
    皇帝の周知、帝国各地(とくにギリシア化していた地域)の巡察にあった。
    巡察旅行には建設関係者をも随伴していたといわれ、公共工事も行われた。
     次に、ハドリアヌスは統治機構を整備した。彼の構築した官僚機構は
    以降の帝国の基礎となる。
     ハドリアヌスは法制度の整備も推進する。サルウィウス・ユリアヌスに命じて、
    『永久告示録』と呼ばれる法典を編纂させた(完成は131年頃、6世紀まで
    使われた)。これは、法務官が出した従来の告示を集大成したものである。
    ユスティニアヌスの時代には、これらを基に『ユスティニアヌス法典』
    (別名『ローマ法大全』)が編纂された。
     130年、エルサレム市をローマ風の都市に建設、自らの氏族名アエリウスに
    ちなんで植民市「アエリア・カピトリーナ」と命名した。
    そのため、ユダヤ人の大規模かつ組織的な反乱が発生した。
    バル・コクバの乱と呼ばれる。ハドリアヌスは他の属州からも軍団を動員し、
    135年にようやく反乱を鎮圧した。3年以上を要したことになる。
    この戦争の終結を機に、ユダヤ地方は「属州シリア・パレスティナ」と名称が
    変更され、この地からユダヤの名が消えた。ユダヤ人は離散(ディアスポラ)を
    余儀なくされ、以後、エルサレム市内への立ち入りも制限された。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場<br /><br /> ハドリアヌスはその治世を通じ、国内外において目覚しい成果を挙げた。<br />しかし、元老院にはハドリアヌスの政策をよしとしない者がいたことも<br />事実である。<br /> まず、治世当初の執政官経験者4名の殺害はこれを反映している。<br />ハドリアヌスは、防衛に必要な兵力や維持費等の負担増に耐え切れないと<br />判断して、メソポタミア、アッシリア、アルメニアから撤退するという<br />現実路線に切り換えた。ところが、当時の元老院には実際に戦場へ赴いて<br />領土拡大に貢献した者もおり、ハドリアヌスの対外政策には批判的な者がいた。<br />元老院の一部には、激しく反発するものもいたのであろう。これに対して<br />ハドリアヌス擁護派は、反対派の大物4人を粛清するという強硬策に訴えた。<br />治世末期の後継者選びの際にも、意見の不一致から義兄弟ユリウス・ウルスス・<br />セルウィアヌスとその孫ペダニウス・フスクスを自殺に追いこんだ。<br />そのため治世末期、皇帝と元老院の関係は緊張していた。<br />しかし、いくつかのグループとの関係が緊張していたにすぎないと<br />見る向きもある。<br /> 皇帝逝去の後、元老院ではハドリアヌスを神格化し、国家神の列の加えることに<br />反対する動きがあった。神格化されないと、ドミティアヌス帝のように記憶の<br />抹殺が行われ、ハドリアヌスの統治に関する行為はすべて抹消されることになる。<br />後継者のアントニヌス帝は涙を流しながら必死に元老院の説得に努め、<br />ハドリアヌス神格化について元老院の同意を得ることができた。<br />このため、アントニヌスは敬虔なアントニヌスと呼ばれることになった。<br />ローマ皇帝の業績を称える碑が多いローマにおいて、五賢帝の一人とされる<br />ハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていない。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ハドリアヌス帝の浴場

     ハドリアヌスはその治世を通じ、国内外において目覚しい成果を挙げた。
    しかし、元老院にはハドリアヌスの政策をよしとしない者がいたことも
    事実である。
     まず、治世当初の執政官経験者4名の殺害はこれを反映している。
    ハドリアヌスは、防衛に必要な兵力や維持費等の負担増に耐え切れないと
    判断して、メソポタミア、アッシリア、アルメニアから撤退するという
    現実路線に切り換えた。ところが、当時の元老院には実際に戦場へ赴いて
    領土拡大に貢献した者もおり、ハドリアヌスの対外政策には批判的な者がいた。
    元老院の一部には、激しく反発するものもいたのであろう。これに対して
    ハドリアヌス擁護派は、反対派の大物4人を粛清するという強硬策に訴えた。
    治世末期の後継者選びの際にも、意見の不一致から義兄弟ユリウス・ウルスス・
    セルウィアヌスとその孫ペダニウス・フスクスを自殺に追いこんだ。
    そのため治世末期、皇帝と元老院の関係は緊張していた。
    しかし、いくつかのグループとの関係が緊張していたにすぎないと
    見る向きもある。
     皇帝逝去の後、元老院ではハドリアヌスを神格化し、国家神の列の加えることに
    反対する動きがあった。神格化されないと、ドミティアヌス帝のように記憶の
    抹殺が行われ、ハドリアヌスの統治に関する行為はすべて抹消されることになる。
    後継者のアントニヌス帝は涙を流しながら必死に元老院の説得に努め、
    ハドリアヌス神格化について元老院の同意を得ることができた。
    このため、アントニヌスは敬虔なアントニヌスと呼ばれることになった。
    ローマ皇帝の業績を称える碑が多いローマにおいて、五賢帝の一人とされる
    ハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていない。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿<br /><br /> 遺跡に入る前に添乗員からバス毎のグループで見学、時間は12時までとの<br />説明があった。たった1時間しかない、これでは大型観光バス6台で大勢で<br />来ているので、それが一緒に廻れば、折角の遺跡なのに同行の日本人が被写体の<br />邪魔になって、思うような写真は撮れないと思った。<br /> そこで一計を案じ、自分だけ他の見学者とは逆廻りして、急いで写真を撮って<br />最後尾のグループに加わってガイドの説明を聴いた。<br />広大な遺跡はとても1時間では廻りきれず、12時近くなると見学は駆け足状態で<br />急かされて、不満を言っている人も多くいた。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

     遺跡に入る前に添乗員からバス毎のグループで見学、時間は12時までとの
    説明があった。たった1時間しかない、これでは大型観光バス6台で大勢で
    来ているので、それが一緒に廻れば、折角の遺跡なのに同行の日本人が被写体の
    邪魔になって、思うような写真は撮れないと思った。
     そこで一計を案じ、自分だけ他の見学者とは逆廻りして、急いで写真を撮って
    最後尾のグループに加わってガイドの説明を聴いた。
    広大な遺跡はとても1時間では廻りきれず、12時近くなると見学は駆け足状態で
    急かされて、不満を言っている人も多くいた。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフの神殿

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフの神殿

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のニンフ(妖精)の神殿

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝の公会堂

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝の公会堂

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝の公会堂

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝の公会堂

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝の公会堂

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝の公会堂

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム<br /><br /> レプティス・マグナの顔ともいわれる豊穣の神「メデューサ」のレリーフ

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

     レプティス・マグナの顔ともいわれる豊穣の神「メデューサ」のレリーフ

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム<br /><br /> レプティス・マグナの顔ともいわれる豊穣の神「メデューサ」のレリーフ

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

     レプティス・マグナの顔ともいわれる豊穣の神「メデューサ」のレリーフ

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム<br /><br /> 大事な石材が足の踏み場もないほど散乱、放置されていた。<br />これでは監視員が全くいないので不届き者が持ち去ったとしても判らないだろう。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

     大事な石材が足の踏み場もないほど散乱、放置されていた。
    これでは監視員が全くいないので不届き者が持ち去ったとしても判らないだろう。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝の公会堂

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝の公会堂

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 列柱の大通り

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 列柱の大通り

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ セウェルス帝のフォーラム

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 透き通っていた地中海<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 透き通っていた地中海

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 地中海

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 地中海

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ<br /><br /> 日差しは強いのに地中海から吹いてくる風は心地良かった。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

     日差しは強いのに地中海から吹いてくる風は心地良かった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナの遠景

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナの遠景

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナの遠景

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナの遠景

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナの遠景

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナの遠景

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナの遠景

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナの遠景

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ アウグストゥスの神殿<br /><br /> アウグストゥス(紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、<br />ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。<br />志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、<br />地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ<br />(ローマの平和)を実現した。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ アウグストゥスの神殿

     アウグストゥス(紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、
    ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。
    志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、
    地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ
    (ローマの平和)を実現した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ビザンチンゲート

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ビザンチンゲート

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ビザンチンゲート<br /><br /> 二千年前に古人が歩いた同じ石畳みの道を歩いて当時に思いを馳せた。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ビザンチンゲート

     二千年前に古人が歩いた同じ石畳みの道を歩いて当時に思いを馳せた。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ビザンチンゲート

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ビザンチンゲート

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡で

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡で

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡<br /><br /> 紀元前8世紀頃に造られた市場。八角形をした市場でそれぞれ日用品、<br />食料品が売買されていた。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡

     紀元前8世紀頃に造られた市場。八角形をした市場でそれぞれ日用品、
    食料品が売買されていた。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 市場跡

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ティベリウス帝の凱旋門<br /><br /> ティベリウス・ユリウス・カエサル(紀元前42年11月16日 - 紀元後37年<br />3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 - 37年)。<br />初代皇帝アウグストゥスの養子。<br />養子となる以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。<br />なお、イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。<br />イエスの言葉である「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の<br />「カエサル」とは、ティベリウスのことである。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ティベリウス帝の凱旋門

     ティベリウス・ユリウス・カエサル(紀元前42年11月16日 - 紀元後37年
    3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 - 37年)。
    初代皇帝アウグストゥスの養子。
    養子となる以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。
    なお、イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。
    イエスの言葉である「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の
    「カエサル」とは、ティベリウスのことである。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ ティベリウス帝の凱旋門

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ ティベリウス帝の凱旋門

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 野外劇場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ トラヤヌス帝の凱旋門<br /><br /> トラヤヌス・アウグストゥス(53年9月18日 - 117年8月9日)は、<br />ローマ帝国の皇帝(在位:98年 - 117年)で、ネルウァ=アントニヌス朝の<br />第2代皇帝である。文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と<br />領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア・パルティアで功績をあげ、<br />ローマ帝国史上最大の版図を現出した。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ トラヤヌス帝の凱旋門

     トラヤヌス・アウグストゥス(53年9月18日 - 117年8月9日)は、
    ローマ帝国の皇帝(在位:98年 - 117年)で、ネルウァ=アントニヌス朝の
    第2代皇帝である。文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と
    領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア・パルティアで功績をあげ、
    ローマ帝国史上最大の版図を現出した。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ トラヤヌス帝の凱旋門<br /><br /> イタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝でもある。<br />それまでは、首都ローマを含むイタリア本土出身者の最上流貴族しか<br />皇帝に選ばれたことはなかった。<br /> トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受ける<br />ローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。<br />古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、<br />近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している。<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ トラヤヌス帝の凱旋門

     イタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝でもある。
    それまでは、首都ローマを含むイタリア本土出身者の最上流貴族しか
    皇帝に選ばれたことはなかった。
     トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受ける
    ローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。
    古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、
    近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 近くのテント張りのレストランで昼食<br /><br /> 野菜の煮込み料理とパンと果物だっと思うが、<br />昼食時間がもったいないので、少しだけ食べて写真を撮ったりした。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 近くのテント張りのレストランで昼食

     野菜の煮込み料理とパンと果物だっと思うが、
    昼食時間がもったいないので、少しだけ食べて写真を撮ったりした。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ レストラン前の道路で<br />道路を横断している白バイの警察官

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ レストラン前の道路で
    道路を横断している白バイの警察官

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ<br /><br /> BMWの真新しい白バイだった。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

     BMWの真新しい白バイだった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ<br /><br /> BMWの真新しい白バイだった。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

     BMWの真新しい白バイだった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ レストランで<br /><br /> 観光バスの運転手兼ガイドたち

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ レストランで

     観光バスの運転手兼ガイドたち

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ レストランで<br /><br /> 観光バスの運転手兼ガイドたちと

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ レストランで

     観光バスの運転手兼ガイドたちと

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ レストランで<br /><br /> 観光バスの運転手兼ガイドたちと

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ レストランで

     観光バスの運転手兼ガイドたちと

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ<br /><br /> 上の画像右から2人目のガイドから撮った全員の写真を送って欲しいと云われ、<br />切手と名前と住所を書いた封筒を渡された。<br /> 日本から送るので切手は要らないと言ったが、封筒に入れられた。<br />帰国後、写真はちゃんと送ったが、2011年、カダフィ政権崩壊後、混乱に陥り、<br />2014年から内戦状態で、二つの政府・議会が並立し正当性を争う事態となって、<br />事実上の無政府状態となっている。<br /> 彼らの消息、安否が今なお不明で、無事である事を切に願っている。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ

     上の画像右から2人目のガイドから撮った全員の写真を送って欲しいと云われ、
    切手と名前と住所を書いた封筒を渡された。
     日本から送るので切手は要らないと言ったが、封筒に入れられた。
    帰国後、写真はちゃんと送ったが、2011年、カダフィ政権崩壊後、混乱に陥り、
    2014年から内戦状態で、二つの政府・議会が並立し正当性を争う事態となって、
    事実上の無政府状態となっている。
     彼らの消息、安否が今なお不明で、無事である事を切に願っている。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で<br /><br /> 観光バスの運転手兼ガイドと

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で

     観光バスの運転手兼ガイドと

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />奴隷の剣闘士と猛獣の死闘が繰り広げられた円形闘技場は<br />大きな岩盤をくり抜いて紀元後56年に造られた。<br />大きさは66m×40mで、収容人員は約1万5,000人から2万5,000人。

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

    奴隷の剣闘士と猛獣の死闘が繰り広げられた円形闘技場は
    大きな岩盤をくり抜いて紀元後56年に造られた。
    大きさは66m×40mで、収容人員は約1万5,000人から2万5,000人。

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で<br /><br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で

  • 平成18年5月10日<br />リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で<br />リビア人に溶け込んでいる〜<br />

    平成18年5月10日
    リビア 世界遺産レプティス・マグナ 円形闘技場で
    リビア人に溶け込んでいる〜

  • 平成18年5月10日<br />レプティス・マグナからトリポリに戻る車中<br />バスの運転手兼ガイド<br /><br />ガイドさんの話しは面白い、車中で、<br />リビアでは義務教育に限らず、国公立の学校の学費は無償、<br />医療費もリビア人、外国人も全て無料、あなた方外国人旅行者も無料だから、<br />具合の悪い人がいたらこのまま病院に直行するから、と言って笑いを誘っていた。<br />また、円形闘技場で地下の猛獣の檻を案内した時、真っ暗の中、<br />「レディーファースト」、「レディーファースト」と叫んで、<br />怖がる女性たちを先頭に行かせようとしたので思わず笑った。

    平成18年5月10日
    レプティス・マグナからトリポリに戻る車中
    バスの運転手兼ガイド

    ガイドさんの話しは面白い、車中で、
    リビアでは義務教育に限らず、国公立の学校の学費は無償、
    医療費もリビア人、外国人も全て無料、あなた方外国人旅行者も無料だから、
    具合の悪い人がいたらこのまま病院に直行するから、と言って笑いを誘っていた。
    また、円形闘技場で地下の猛獣の檻を案内した時、真っ暗の中、
    「レディーファースト」、「レディーファースト」と叫んで、
    怖がる女性たちを先頭に行かせようとしたので思わず笑った。

  • 平成18年5月10日<br />質問をはぐらかしたバスの運転手兼ガイドと<br /><br /> バスの中でガイドの話しを通訳する日本人添乗員が「どんな質問にも彼は<br />答えると言っているので質問のある方はどうぞ。」と言うので、<br />「ホントに何でも良いのか?」と確認した上で、<br />「カダフィ大佐には何人の奥さんがいるのか?」と質問すると<br />「じゃあ、君は一体何人の奥さんがいれば満足するのか?」と<br />全く予期しない逆質問で答えられず完敗。<br />次に「カダフィ大佐の後継者は決まっているのか?」と質問したが、<br />「日本の首相は小泉だが、次の首相は誰なのか君はしっているのか?」と<br />これも逆質問で見事にかわされてしまって完敗。<br />

    平成18年5月10日
    質問をはぐらかしたバスの運転手兼ガイドと

     バスの中でガイドの話しを通訳する日本人添乗員が「どんな質問にも彼は
    答えると言っているので質問のある方はどうぞ。」と言うので、
    「ホントに何でも良いのか?」と確認した上で、
    「カダフィ大佐には何人の奥さんがいるのか?」と質問すると
    「じゃあ、君は一体何人の奥さんがいれば満足するのか?」と
    全く予期しない逆質問で答えられず完敗。
    次に「カダフィ大佐の後継者は決まっているのか?」と質問したが、
    「日本の首相は小泉だが、次の首相は誰なのか君はしっているのか?」と
    これも逆質問で見事にかわされてしまって完敗。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br /><br />リビアでも「ロレンス、ロレンス」と声が掛かって歓迎された。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

    リビアでも「ロレンス、ロレンス」と声が掛かって歓迎された。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br /><br /> 左の彼が吸っているのは水煙草。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

     左の彼が吸っているのは水煙草。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 豪華なフードコート

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 豪華なフードコート

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 豪華なフードコート

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 豪華なフードコート

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br /><br /> 街の所々にカダフィ大佐のポスターが、至る所ほどではなかった。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

     街の所々にカダフィ大佐のポスターが、至る所ほどではなかった。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br /><br />日本人が珍しいのかキョトンとしていた兄弟。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ

    日本人が珍しいのかキョトンとしていた兄弟。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ<br /> <br /> 本屋で3人は姉弟たちと

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ
     
     本屋で3人は姉弟たちと

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 本屋の親爺さんと<br /><br />べつにカダフィ大佐の写真を持たされて写真を撮ったのではない。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 本屋の親爺さんと

    べつにカダフィ大佐の写真を持たされて写真を撮ったのではない。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 本屋にあったカダフィ大佐の写真<br /><br /> カッザーフィー(1942年6月7日 - 2011年10月20日)は、リビアの軍人、革命家、政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者。<br />称号は「リビア最高指導者および革命指導者」、「敬愛なる指導者」。<br />1969年のリビア革命によって政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり<br />独裁政権を維持したが、2011年リビア内戦によって政権は崩壊、<br />自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された。<br />日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られている。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 本屋にあったカダフィ大佐の写真

     カッザーフィー(1942年6月7日 - 2011年10月20日)は、リビアの軍人、革命家、政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者。
    称号は「リビア最高指導者および革命指導者」、「敬愛なる指導者」。
    1969年のリビア革命によって政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり
    独裁政権を維持したが、2011年リビア内戦によって政権は崩壊、
    自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された。
    日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られている。

  • 平成18年5月10日<br />リビア トリポリ 本屋でお土産用に買った。<br /> <br /> リビアにおいて2011年2月15日に発生したカダフィに対する反政府運動は<br />リビア内戦へと発展し、半年後の8月23日に反カダフィ勢力である<br />リビア国民評議会によって首都トリポリが陥落。<br />大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は事実上崩壊したものの<br />カダフィは潜伏し、徹底抗戦する姿勢を示した。<br />国民評議会が設定した9月9日の投降期限を過ぎても戦闘は続いたが <br />10月20日午前8時、国民評議会がカダフィ勢力最後の拠点となったシルトに<br />攻撃を開始。戦闘は約1時間半で終了し、制圧された。<br /> その際、2か月間シルトに潜伏していたカダフィは南アフリカ人などで<br />構成された護衛が乗った数十台の車列を組み逃亡を試みたが、<br />フランス軍戦闘機やアメリカ軍の無人攻撃機により空爆を受ける。<br />このため車列を離れたが反カダフィ勢力により身柄を拘束された。<br />拘束された際、カダフィは黄金製の拳銃2丁と自動小銃を持っており、<br />カーキ色の制服を着用、頭にはターバンを巻いている姿だった。<br /> この時点では生きていたが、その後負傷し死亡した。69歳であった。<br />なお血まみれとなったカダフィと思われる人物の映像がアルジャジーラなどで<br />放送されたほか、携帯電話でも映像が撮影され、上半身を裸にされ、<br />車で引き回されるカダフィらしき人物の映像が残されている。<br /> 同日、マフムード・ジブリール暫定首相により、検視の結果、<br />カダフィは頭に銃撃を受け死亡したことが確認されたと発表された。<br />またカダフィの血液を採取してDNA鑑定を実施した結果、<br />遺体がカダフィ本人であると確認したとも述べた。<br />10月20日にリビア国民評議会のアブドルハーフェズ・ホガ副議長がカダフィを<br />拘束・殺害したと発表し、トリポリやミスラタでは群衆が歓喜の声をあげ、<br />祝砲が鳴らされた。<br /> 拘束時の発言としては「撃つな」、「何だ、何が起きているんだ」と<br />いったものが伝えられている。反カダフィ勢力の兵士に囲まれた際には<br />「息子たちよ、殺さないでくれ」と命乞いしたと伝えられた。 <br />「恥を知れ」「お前らは罪を犯している」「恥知らずどもめ、<br />こんなことが許されるのか!アラー(神)が許さない!」とも発言したと<br />報道された。

    平成18年5月10日
    リビア トリポリ 本屋でお土産用に買った。
     
     リビアにおいて2011年2月15日に発生したカダフィに対する反政府運動は
    リビア内戦へと発展し、半年後の8月23日に反カダフィ勢力である
    リビア国民評議会によって首都トリポリが陥落。
    大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は事実上崩壊したものの
    カダフィは潜伏し、徹底抗戦する姿勢を示した。
    国民評議会が設定した9月9日の投降期限を過ぎても戦闘は続いたが 
    10月20日午前8時、国民評議会がカダフィ勢力最後の拠点となったシルトに
    攻撃を開始。戦闘は約1時間半で終了し、制圧された。
     その際、2か月間シルトに潜伏していたカダフィは南アフリカ人などで
    構成された護衛が乗った数十台の車列を組み逃亡を試みたが、
    フランス軍戦闘機やアメリカ軍の無人攻撃機により空爆を受ける。
    このため車列を離れたが反カダフィ勢力により身柄を拘束された。
    拘束された際、カダフィは黄金製の拳銃2丁と自動小銃を持っており、
    カーキ色の制服を着用、頭にはターバンを巻いている姿だった。
     この時点では生きていたが、その後負傷し死亡した。69歳であった。
    なお血まみれとなったカダフィと思われる人物の映像がアルジャジーラなどで
    放送されたほか、携帯電話でも映像が撮影され、上半身を裸にされ、
    車で引き回されるカダフィらしき人物の映像が残されている。
     同日、マフムード・ジブリール暫定首相により、検視の結果、
    カダフィは頭に銃撃を受け死亡したことが確認されたと発表された。
    またカダフィの血液を採取してDNA鑑定を実施した結果、
    遺体がカダフィ本人であると確認したとも述べた。
    10月20日にリビア国民評議会のアブドルハーフェズ・ホガ副議長がカダフィを
    拘束・殺害したと発表し、トリポリやミスラタでは群衆が歓喜の声をあげ、
    祝砲が鳴らされた。
     拘束時の発言としては「撃つな」、「何だ、何が起きているんだ」と
    いったものが伝えられている。反カダフィ勢力の兵士に囲まれた際には
    「息子たちよ、殺さないでくれ」と命乞いしたと伝えられた。
    「恥を知れ」「お前らは罪を犯している」「恥知らずどもめ、
    こんなことが許されるのか!アラー(神)が許さない!」とも発言したと
    報道された。

  •  平成18年年5月17日付朝日新聞「天声人語」<br /><br /> 船の図書室で1週間遅れぐらいで日本からの新聞が読めるのだが、<br />リビアを出てからタイミング良くこんな記事が載っていた。<br /><br /> ヘロドトス(紀元前485年頃 - 紀元前420年頃)は、古代ギリシアの歴史家で、<br />今日まとまった形で伝承された最初の歴史書『歴史』により<br />「歴史の父」とも呼ばれる。<br />「平和の時には子が父の葬いをする。しかし戦いとなれば、父が子を葬らねば<br />ならぬ。」は実に重い言葉である。<br />

     平成18年年5月17日付朝日新聞「天声人語」

     船の図書室で1週間遅れぐらいで日本からの新聞が読めるのだが、
    リビアを出てからタイミング良くこんな記事が載っていた。

     ヘロドトス(紀元前485年頃 - 紀元前420年頃)は、古代ギリシアの歴史家で、
    今日まとまった形で伝承された最初の歴史書『歴史』により
    「歴史の父」とも呼ばれる。
    「平和の時には子が父の葬いをする。しかし戦いとなれば、父が子を葬らねば
    ならぬ。」は実に重い言葉である。

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