糸数 アブチラガマ
名所・史跡
3.35
糸数 アブチラガマ クチコミ・アクセス・周辺情報
知念・玉城・八重瀬 観光 満足度ランキング 16位
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
南部戦跡を巡るなら必見の場所だと思います
5.0
- 旅行時期 2024/07
- by たびたびさん
糸数 アブチラガマは、沖縄戦、南部戦線の遺構。大きな自然洞窟は地元住民の避難用とされていましたが、南風原陸軍病院の分室とな... 続きを読むると撤退して来る日本兵や負傷兵と雑居状態。そして、事態は悪化し、大勢の瀕死の負傷兵と死体の山。地獄の惨状となっていったのですね。 暗闇の中、懐中電灯だけが頼りの見学は30~40分くらい。ボランティアガイドさんの説明を聞きながら、その厳しい戦争の惨禍を少し垣間見たような気がしました。日本で唯一の地上戦を経験した沖縄。その事実はあまりにも重いもの。戦後の米軍基地の負担も含めて、日本人として、もっともっと理解を深める必要がある。そんな思いでいっぱいになる体験でした。南部戦跡を巡るなら必見の場所だと思います。 なお、ホームページ(https://abuchiragama.com/)に沖縄戦の概要がまとめてありましたので、以下、参考まで。 「沖縄戦とは太平洋戦争の最終段階、1945年3月下旬から7月までの戦いを言います。 1941年に太平洋戦争が勃発し、太平洋の島々で劣勢となった日本軍は、米軍が沖縄に上陸すると見て、米軍を沖縄にくぎづけにする作戦をとります。 それは、本土決戦の準備をするための時間稼ぎであり捨石作戦でした。このため、沖縄は唯一の地上戦の場となります。 米軍は1945年の4月1日に沖縄本島の中部に上陸し、日本軍の指令部のあった首里に向かいます。米軍の圧倒的な戦力に、首里の陥落が目前にせまったところで日本軍は南部へ撤退します。 米軍の上陸地点から首里城指令部までを中部戦線、首里以南を南部戦線と言います。 南部戦線では十数万人の一般住民が巻き込まれ悲惨な結末を迎えることになります。 6月23日、牛島司令官の自決により日本軍の組織的戦闘は終了しますが、その後も各地で戦闘が続ぎ、米軍が作戦修了を宣言したのは7月2日のことでした。 この90日間にわたる沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2干人、一般住民9万4千人が亡くなりました。 当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります。」 閉じる
クチコミ・評判
3.35
(21件のクチコミ)- アクセス:
- 3.46
- レンタカーなら便利/駐車スペース充実 by かみぞーさん
- 人混みの少なさ:
- 4.04
- 要予約/特に修学旅行生の多い時期は by かみぞーさん
- バリアフリー:
- 2.40
- ガマ内に入るのは無理でしょう。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
- 見ごたえ:
- 4.53
- 一部通路は整備されていますがほとんど当時のままです。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
1~20件(全21件中)
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沖縄戦争のガマ
- 3.5
- 旅行時期:2025/06(約7ヶ月前)
- 0
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修学旅行
- 3.0
- 旅行時期:2023/03(約3年前)
- 0
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心にずしりと重い想いが…
- 5.0
- 旅行時期:2022/11(約3年前)
- 0
沖縄戦跡巡り5日目(最終日)に予約無しで寄りました。
訪問時(平日のお昼時)、たまたま他にお客さんがいない時間帯、
ガ... 続きを読むイドされた案内から戻られたタイミングだったので、
待ち時間なくガマに案内となりました。
内部は写真撮影禁止なので写真無し。
1時間ほどガイドさんの説明と共に巡ります。
専属ガイド料:1,500円
【ガイドさんは必ず付けないとダメダメ】
入場料:300円
懐中電灯&軍手:いくらだったかのぉ~
合計:1,900~1,950円だった気がしまする。
それだけの価値はありますね。
で、糸数の壕/アブチラガマのこと、
壕内やガイドさんの説明等を書こうかと思いましたが、
ご自身の目で見て耳で聞いて、
心で感じて下さった方が良いかと。
どのように感じるかは個々人によって異なるでしょうし。
ひとつだけ
毎年、ガマの中でホタルを何度も見掛けるそうなのですが、
今年は1回しか目にしなかったと。
気候の変化なのでしょうかね…と、おっしゃってました。
あぁ、最後に糸数の壕/アブチラガマは
やっぱり強烈でしたが、最後の最後に心に、
脳裏に深く沈みこむような体験、説明をありがとうございました。
詳細はコチラに…
https://ameblo.jp/kamizoh/entry-12774797705.html 閉じる投稿日:2022/11/30
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糸数壕
- 3.0
- 旅行時期:2022/10(約3年前)
- 0
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悲しい気持ちになりました
- 3.5
- 旅行時期:2020/05(約6年前)
- 0
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戦争の悲惨さを伝える
- 3.5
- 旅行時期:2018/07(約7年前)
- 1
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軍民同居
- 4.5
- 旅行時期:2018/05(約8年前)
- 2
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観光気分で訪れる場所ではありません
- 3.5
- 旅行時期:2016/08(約9年前)
- 0
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南風原陸軍病院糸数分室として使われていました。~糸数アブチラガマ~
- 5.0
- 旅行時期:2016/03(約10年前)
- 7
現南城市玉城糸数にある自然洞窟で(ガマ)のひとつである糸数アブチラガマは、沖縄戦に於ける玉城村糸数集落民の指定避難壕でした... 続きを読む。そのうちに陣地構築する部隊が入るなどして、照明が点けられるなどしていたこともありました。
戦況の悪化で南風原陸軍病院糸数分室として使われることになり、ひめゆり学徒16名が学徒看護隊要員として南風原陸軍病院より移動し、同様に移って来た軍医や看護婦、衛生兵とともに傷病兵士の治療にあたります。戦線が南下するに従い収容患者数は爆発的に増加し、270mのガマ内には600名もの患者を収容していたようです。
昭和20(1945)年5月25日軍司令部よりの南部撤退命令を受け、動けるものは手を借りて移動をするものの、自立歩行が困難とされたものは放置されました。その中でなんとか病院に着いて行こうとする重症兵士もいましたが、砲弾が飛び交い泥にぬかるむ悪路に阻まれ、その多くは途中で事切れたものが多かったそうです。
病院の撤退後は住人と生き残りの負傷兵、日本兵の雑居状態となり米軍の攻撃を受けながらも生き残った多くの人達が8月22日の米軍の投降勧告に応じてガマを出て行きました。戦争という背景の中犠牲者が出なかった訳ではないものの、動員されたひめゆり学徒の犠牲者はアブチラガマでは出ていません。
現在この糸数アブチラガマは入壕管理がされており、専属のガイドを伴っての入壕となります。考え方は人それぞれありますが、犠牲になった方もいれば助かった方もいた事実。それを身を以って体験できる場所には違いないと思います。真っ暗なガマの中に差し込む外の光がどのように人々に見えていたのか…、今となっては想像の域を超えることは出来ないもののやはりこの場所でしか出来ない体験が出来たのでは、そう改めて思いました。
閉じる投稿日:2016/03/09
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重症患者や学徒や一般人の墓標でもあるアブチラガマ
- 5.0
- 旅行時期:2015/06(約11年前)
- 0
2015年5月に行きました。わたしは、事前に4冊の 沖縄戦での県立高女&師範学校の本を読んでアブチラガマのことを知り、訪れ... 続きを読むました。合計16名の女子学徒と3名の医師が関わったガマです。現地の人から、アブチラガマに行くのだったらガイドをお願いした方がいいよと教えていただいておりましたので、ガイド代1000円+懐中電灯代100円+入場250円=1350円にてお願いいたしました。南風原陸軍病院の分院であったガマですから、多数のかたが ここで亡くなりました。数少ないアブチラガマ生存者のなかに北海道のかたがいらっしゃいます。日本で唯一の地上戦となった沖縄戦では、軍人軍属ではない普通の人々が巻き込まれ、死にました。死亡者を都道府県別に見ますと、沖縄県の次に多いのは、北海道です。その数は米軍の死者数に匹敵するほどです。日本の端に位置する北海道にとって沖縄で起こったことは、他人事ではありません。北海道の方に是非 訪れていただきたいスポットです。事前勉強したつもりでしたが、ガイドのかたの適切な説明をいただき、本で読んだこととアブチラガマの内外で起こったことが、目の前に見えるような感覚になりました。視聴覚室のDVDを見てください。また、観光センターでは南城市で作製した『糸数アブチラガマ』のリーフレット(1000円)を買い求めてみてください。 閉じる
投稿日:2015/06/07
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戦時の自然洞窟の避難壕
- 3.5
- 旅行時期:2015/04(約11年前)
- 2
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素晴らしいガマなのに
- 3.5
- 旅行時期:2015/02(約11年前)
- 1
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入場券売り場まで出来ていた
- 2.5
- 旅行時期:2014/11(約11年前)
- 0
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本物のガマ
- 4.0
- 旅行時期:2014/09(約11年前)
- 1
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沖縄戦下に病院となった壕です
- 5.0
- 旅行時期:2013/02(約13年前)
- 1
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悲しい歴史を学ぶ場所です
- 4.0
- 旅行時期:2012/11(約13年前)
- 1
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胸が詰まる、陸軍病院の分室となった避難壕
- 4.0
- 旅行時期:2012/04(約14年前)
- 0
「糸数アブチラガマ」は、沖縄本島南部の南城市玉城字糸数にある自然洞窟(ガマ)です。沖縄戦時、もともとは避難壕でしたが、日本... 続きを読む軍の陣地壕や倉庫として使用され、その後、南風原陸軍病院の分室となりました。今は修学旅行の平和学習に利用されることが多いようです。
豪に入ると、本当に暗闇です。懐中電灯(案内所でレンタル可)がないと真っ暗で何も見えません。一時は600名を超える負傷兵がひしめいていたという洞窟にある“病棟”とか“ベッド”、“治療室”、“脳傷患者”、“カマド”、“住民地区”等の標識を見ていると、その当時の兵隊さんや地区の住民の方々のご苦労が偲ばれ、胸が詰まります。こんな洞窟に無慈悲に非人道的な攻撃を加えた、米軍の所業は絶対に許せません。
閉じる投稿日:2012/12/23
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過去を忘れずに
- 4.0
- 旅行時期:2010/10(約15年前)
- 2
南城市玉城にある自然洞窟で、第二次世界大戦時の時に避難壕として利用され、今は修学旅行の平和学習に利用されているようです。
... 続きを読む
私は、母校のホームページの修学旅行の内容で、この糸数アブチラガマをはじめて知りました。戦争の時、大変な暮らしをしていたのかと思い訪問をしてきました。
豪への入場には、南部観光総合案内センターで入場券(250円)を購入。そして、懐中電灯のない人には100円で貸していただけます。私の場合、ひとりで行ったため、予備の懐中電灯を貸していただきました。
豪に入ると、ひんやりとして本当に暗闇です。懐中電灯がないと真っ暗で何も見えません。懐中電灯を消して、どのような暮らしをしていたのかと少し考えると複雑な気持ちになりました。また、静かにしているとコウモリが飛んだいるのもわかり怖かったです。
豪のところどころには、病院として利用していたので病棟があったという看板。また、暮らしていたことを示す、井戸、かまどの跡があります。こんなところに暮らしていたのは、さど大変だったのでしょう。地上戦で米軍が来た時は、とても怖かったことでしょう。
いろいろ考えると、冷や汗を掻いてしまいました。
もうこんな戦争はしちゃいけませんと思わせられました。 閉じる投稿日:2010/11/05
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当時を体感できる貴重な戦跡
- 5.0
- 旅行時期:2010/09(約15年前)
- 3
南部の玉城村(現南城市)糸数にある自然壕。糸数壕とも言う。
壕内は文字通り漆黒の闇。照明は一切無しである。入口横の南部観... 続きを読む光総合案内センターで入場料を払う際、懐中電灯も一緒に借りよう。100円程度だったと思う。
入口はいきなりの縦穴で、かなり急だ。懐中電灯だけの明かりで歩く全長270mはとてつもなく長い。 入ってすぐ、懐中電灯の先に浮かび上がる遺品の数々。
入口周辺を抜けると、いよいよ本格的に避難壕の様相を呈してくる。
「病棟」とか「脳傷患者」の標識にはヒヤリ。何せまわりは真っ暗なのだ。
最初は地下陣地として設営された壕だったが、その後陸軍病院の分院が開設され、あのひめゆり学徒の一部も移ってきた。一時は600名を超える負傷兵がひしめいていたと言う。
1945年5月25日に南部への撤退命令のあと、一人歩きできない重傷患者は、自決用の手榴弾や青酸カリが配られ置き去りにされた。その後もこのガマには傷病兵と避難民が雑居することとなる。
壕内には泉(井戸)もあり、今でも湧き水が出ていて小さな流れを作っている。
また、かまどの跡もあり、その生活感が悲しみを倍加するようだ。
巻き添えを食った住民への追悼はもちろんだが、洞口から爆雷や火炎放射を浴びせ、空気穴からガソリンを流し込み黄リン弾を投げ込んだ米軍の所業も忘れてはならない。
出口付近には慰霊の千羽鶴と戦没者慰霊碑。
不謹慎だが、この暗闇でこの光景はやはり背筋が凍る。
壕内はぬかるんでいる場所もあり、何より足場が悪いので、間違ってもパンプスや草履で行かないこと。 閉じる投稿日:2012/05/29
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とにかく怖い
- 5.0
- 旅行時期:2002/06(約24年前)
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1件目~20件目を表示(全21件中)
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- 2
投稿写真
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糸数 アブチラガマについて質問してみよう!
知念・玉城・八重瀬に行ったことがあるトラベラーのみなさんに、いっせいに質問できます。
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