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香港自然史博物館の展示品紹介の締め括りです。日本軍が占領した、1941年12月から、第二次大戦終結に伴う、降伏調印式の写真などが展示されていました。

2013夏、中国旅行記23(22/22:補遺):香港歴史博物館3:日本占領時代、1997年の英国からの香港返還)

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2013/07/19 - 2013/07/22

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旅人のくまさん

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香港自然史博物館の展示品紹介の締め括りです。日本軍が占領した、1941年12月から、第二次大戦終結に伴う、降伏調印式の写真などが展示されていました。

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  • 日本軍に敗れた英軍が香港を引き上げるときの写真のようです。『British forces withdrew and public order was instantly  paralysed.』の説明文がありました。英軍が去った後、公共秩序がすぐに麻痺したようです。

    日本軍に敗れた英軍が香港を引き上げるときの写真のようです。『British forces withdrew and public order was instantly  paralysed.』の説明文がありました。英軍が去った後、公共秩序がすぐに麻痺したようです。

  • 『戦俘(Prisoners of War)]のタイトルがあったパネルと展示品です。香港陥落後に捕虜になった約9千名の守備兵と、2700名の一般人の取り扱いに関する記述です。多くの人が伝染病などで亡くなったようです。<br />(追記)捕虜となったイギリス軍は11,000名、内訳はイギリス人が5千名、インド人が4千名、カナダ人が2千名とされます。(ウィキペディア)<br />

    『戦俘(Prisoners of War)]のタイトルがあったパネルと展示品です。香港陥落後に捕虜になった約9千名の守備兵と、2700名の一般人の取り扱いに関する記述です。多くの人が伝染病などで亡くなったようです。
    (追記)捕虜となったイギリス軍は11,000名、内訳はイギリス人が5千名、インド人が4千名、カナダ人が2千名とされます。(ウィキペディア)

  • 右のパネルのタイトルは、『日本化的教育』、左の写真は登山電車のようです。右のパネルには、1941年当時の香港の生徒数が11万8千人、1945年には4千人に減ったとこが紹介されていました。おそらく中国本土への強制移住が原因でしょう。『大東亜共栄圏』が教育目的であったことも記されていました。

    右のパネルのタイトルは、『日本化的教育』、左の写真は登山電車のようです。右のパネルには、1941年当時の香港の生徒数が11万8千人、1945年には4千人に減ったとこが紹介されていました。おそらく中国本土への強制移住が原因でしょう。『大東亜共栄圏』が教育目的であったことも記されていました。

  • 中央奥のパネルには、『糧食問題(フード・サプライ)』のタイトルがありました。日本軍占領時代の1944年からは、一日一人当たりの白米配給が、6両4銭(242グラム)であったこと等が記されていました。

    中央奥のパネルには、『糧食問題(フード・サプライ)』のタイトルがありました。日本軍占領時代の1944年からは、一日一人当たりの白米配給が、6両4銭(242グラム)であったこと等が記されていました。

  • 『社会及経済状況』のタイトルがあった説明パネルです。香港の戦いでイギリスが日本に降伏した1941年12月25日から、日本のポツダム宣言受諾による降伏後、イギリス軍が香港に再上陸する1945年8月末までの、いわゆる『3年8カ月』の苦難についての記述です。食料が欠乏し、コメ、砂糖、食料油や塩が配給制になったこと等が記されていました。

    『社会及経済状況』のタイトルがあった説明パネルです。香港の戦いでイギリスが日本に降伏した1941年12月25日から、日本のポツダム宣言受諾による降伏後、イギリス軍が香港に再上陸する1945年8月末までの、いわゆる『3年8カ月』の苦難についての記述です。食料が欠乏し、コメ、砂糖、食料油や塩が配給制になったこと等が記されていました。

  • 『日佔時期(The Japanese Occupation)』のタイトルがあった展示です。軍服や武器などの日本軍の装備や、日常生活のランプや酒器類が展示されていました。

    『日佔時期(The Japanese Occupation)』のタイトルがあった展示です。軍服や武器などの日本軍の装備や、日常生活のランプや酒器類が展示されていました。

  • 『日軍攻撃香港(ジャパニーズ・アタック、ホンコン)』のタイトルがあった説明パネルです。1941年12月8日に日本の航空機が来襲し、陸軍が深セン河を渡河して攻め入ったことが記されていました。英軍は九龍から香港島に撤退したものの、更に攻められて日軍に降伏したことも記されていました。

    『日軍攻撃香港(ジャパニーズ・アタック、ホンコン)』のタイトルがあった説明パネルです。1941年12月8日に日本の航空機が来襲し、陸軍が深セン河を渡河して攻め入ったことが記されていました。英軍は九龍から香港島に撤退したものの、更に攻められて日軍に降伏したことも記されていました。

  • 『香港陥落(フォール・オブ・ホンコン)』のタイトルがあった説明パネルです。『陥落』の表現は、易しい字に置き換えました。1941年12月聖誕日(25日)、英軍のクリストファー・マルトビイ少将が日軍に降伏しました。

    『香港陥落(フォール・オブ・ホンコン)』のタイトルがあった説明パネルです。『陥落』の表現は、易しい字に置き換えました。1941年12月聖誕日(25日)、英軍のクリストファー・マルトビイ少将が日軍に降伏しました。

  • 『香港の戦い』の時らしい、戦時中の記録写真です。夫々に説明文がありましたが、読み取れませんでした。

    『香港の戦い』の時らしい、戦時中の記録写真です。夫々に説明文がありましたが、読み取れませんでした。

  • 『侵佔香港(ザ・バトル・フォー・ザ・ホンコン)』のタイトルがあった説明パネルです。1931年の満州事変(中国側の呼称は九一八事変)から、盧溝橋事件から太平洋戦争勃発まで(1937年7月~1941年12月)に日中戦争について述べられていました。

    『侵佔香港(ザ・バトル・フォー・ザ・ホンコン)』のタイトルがあった説明パネルです。1931年の満州事変(中国側の呼称は九一八事変)から、盧溝橋事件から太平洋戦争勃発まで(1937年7月~1941年12月)に日中戦争について述べられていました。

  • タイトルが撮影できませんでしたが、1941年12月25日に英軍に勝利の後、香港に向かう日本兵のようです。

    タイトルが撮影できませんでしたが、1941年12月25日に英軍に勝利の後、香港に向かう日本兵のようです。

  • 『歴史現場(A Glimpse of History)』のタイトルがあった説明パネルです。いわゆる『3年8カ月』の香港の苦難の時の記述です。日本のメディアによるプロパガンダ(政治宣伝)についても触れられていました。

    『歴史現場(A Glimpse of History)』のタイトルがあった説明パネルです。いわゆる『3年8カ月』の香港の苦難の時の記述です。日本のメディアによるプロパガンダ(政治宣伝)についても触れられていました。

  • 壁の右側のパネルのタイトルは、『游撃活動(ゲリラ活動)』でした。日本軍の香港占領に抵抗した香港住民は多く、占領期間中、反日活動は絶えなかったようです。また、香港を脱出したイギリス軍や、中国共産党の支援によるゲリラ活動も行われました。(ウィキペディア)

    壁の右側のパネルのタイトルは、『游撃活動(ゲリラ活動)』でした。日本軍の香港占領に抵抗した香港住民は多く、占領期間中、反日活動は絶えなかったようです。また、香港を脱出したイギリス軍や、中国共産党の支援によるゲリラ活動も行われました。(ウィキペディア)

  • 降伏文書にサイン中の日本代表、藤田類太郎海軍中将です。明治20年(1887年)生まれの愛媛県出身で、38期の海軍兵学校卒です。昭和22年(1947年)に亡くなりました。終戦時には、第2遣支艦隊長官でした。

    イチオシ

    降伏文書にサイン中の日本代表、藤田類太郎海軍中将です。明治20年(1887年)生まれの愛媛県出身で、38期の海軍兵学校卒です。昭和22年(1947年)に亡くなりました。終戦時には、第2遣支艦隊長官でした。

  • 降伏文書の左側に筆書きのサインがあるのが、日本側の代表の藤田類太郎海軍中将、右のサインが副代表の岡田梅吉陸軍少将です。終戦時の香港占領地総督は、第23軍司令官兼任の田中久一陸軍中将、その部下で香港防衛隊長が岡田梅吉少将でした。田中久一陸軍中将はBC級戦犯で1946年に死刑判決を受け、広東で1947年に銃殺刑になりました。

    イチオシ

    降伏文書の左側に筆書きのサインがあるのが、日本側の代表の藤田類太郎海軍中将、右のサインが副代表の岡田梅吉陸軍少将です。終戦時の香港占領地総督は、第23軍司令官兼任の田中久一陸軍中将、その部下で香港防衛隊長が岡田梅吉少将でした。田中久一陸軍中将はBC級戦犯で1946年に死刑判決を受け、広東で1947年に銃殺刑になりました。

  • 机の上に置かれているのは、おそらくコピーでしょうが、サインが済んだ降伏文書です。署名に使ったらしい、筆とペンも置かれていました。壁の写真は、武装解除の儀礼でしょうか、鞘に収めた軍刀を英軍に渡す場面です。

    机の上に置かれているのは、おそらくコピーでしょうが、サインが済んだ降伏文書です。署名に使ったらしい、筆とペンも置かれていました。壁の写真は、武装解除の儀礼でしょうか、鞘に収めた軍刀を英軍に渡す場面です。

  • 『制水的日子(Water Rationing)』のタイトルがあった説明パネルです。水不足のための時間給水の紹介でした。

    『制水的日子(Water Rationing)』のタイトルがあった説明パネルです。水不足のための時間給水の紹介でした。

  • 『天災』とタイトルが付けられた説明パネルです。その中から主なものを箇条書きにしきます。<br />①	1962年台風:130人犠牲<br />②	1971年台風:100人以上犠牲<br />③	1953年聖誕日火災:5万9千人被災<br />④	1972年大雨:100人超生埋め<br />等です。大雨や台風被害が深刻なようです。<br />

    『天災』とタイトルが付けられた説明パネルです。その中から主なものを箇条書きにしきます。
    ① 1962年台風:130人犠牲
    ② 1971年台風:100人以上犠牲
    ③ 1953年聖誕日火災:5万9千人被災
    ④ 1972年大雨:100人超生埋め
    等です。大雨や台風被害が深刻なようです。

  • 左側のパネルは、『葵涌(クワイチン)コンテナ埠頭の落成式』のタイトルです。現在は香港の新界葵涌と青衣島に集中しているコンテナ・ターミナルの最初の落成式です。1973年1月27日のことです。<br />右側のパネルは、『英女王伊利沙伯二世首次訪港』のタイトルです。『伊利沙伯二世』エリザヴェス二世』、『首次』は、『第1回』の意味です。1975年5月4日のことです。<br />

    左側のパネルは、『葵涌(クワイチン)コンテナ埠頭の落成式』のタイトルです。現在は香港の新界葵涌と青衣島に集中しているコンテナ・ターミナルの最初の落成式です。1973年1月27日のことです。
    右側のパネルは、『英女王伊利沙伯二世首次訪港』のタイトルです。『伊利沙伯二世』エリザヴェス二世』、『首次』は、『第1回』の意味です。1975年5月4日のことです。

  • 左側のパネルは、『教宗保禄六世訪港』のタイトルです。『保禄六世』は、第262代ローマ教皇のパウロ六世(1897~1987年)のことです。1970年12月4日の香港訪問です。<br />右側のパネルは、1971年11月19日のクロフォード・マレー・マクレホース第25代香港総督の就任式です。1982年5月まで在任しています。<br />

    左側のパネルは、『教宗保禄六世訪港』のタイトルです。『保禄六世』は、第262代ローマ教皇のパウロ六世(1897~1987年)のことです。1970年12月4日の香港訪問です。
    右側のパネルは、1971年11月19日のクロフォード・マレー・マクレホース第25代香港総督の就任式です。1982年5月まで在任しています。

  • 左側のパネルは、『奥運聖火抵港』のタイトルです。1964年(昭和39年)10月10日から10月24日まで開催された、第18回東京オリンピックの聖火が1964年9月4日に香港に到着した時のセレモニーの紹介です。<br />右側のパネルは、香港最初の通信衛星が稼働した時のセレモニーの紹介です。1969年9月24日のことです。<br />

    左側のパネルは、『奥運聖火抵港』のタイトルです。1964年(昭和39年)10月10日から10月24日まで開催された、第18回東京オリンピックの聖火が1964年9月4日に香港に到着した時のセレモニーの紹介です。
    右側のパネルは、香港最初の通信衛星が稼働した時のセレモニーの紹介です。1969年9月24日のことです。

  • 1960年代頃の香港の日常生活品の展示です。主役は右端近くの壁に据えられたラジオです。棚の上には夜間とグラスが置かれていましたが、グラスが当時の新材料のプラスティックかも知れません。

    1960年代頃の香港の日常生活品の展示です。主役は右端近くの壁に据えられたラジオです。棚の上には夜間とグラスが置かれていましたが、グラスが当時の新材料のプラスティックかも知れません。

  • 『通俗文化・電台広播』のタイトルがあった、1960年代の駄菓子屋さんのお店光景です。

    『通俗文化・電台広播』のタイトルがあった、1960年代の駄菓子屋さんのお店光景です。

  • 『通俗文化・電台広播』のタイトルがあった、1960年代の出来事の説明と写真です。テレビ時代に先駆けるラジオ時代の到来です。

    『通俗文化・電台広播』のタイトルがあった、1960年代の出来事の説明と写真です。テレビ時代に先駆けるラジオ時代の到来です。

  • 『政府宣伝歌曲』のタイトルがあった、説明パネルです。1960年代の香港は、テレビは一般的でなく、ラジの時代であったことなどが紹介されていました。写真は『香港是我家』の政府宣伝、包括交通安全歌(1968年)、公益金歌(1974年)、家庭計画歌(1975年)等が政府宣伝されたようです。

    『政府宣伝歌曲』のタイトルがあった、説明パネルです。1960年代の香港は、テレビは一般的でなく、ラジの時代であったことなどが紹介されていました。写真は『香港是我家』の政府宣伝、包括交通安全歌(1968年)、公益金歌(1974年)、家庭計画歌(1975年)等が政府宣伝されたようです。

  • 左側のガラス容器の中の展示は灯具でした。装飾品の様な灯油ランプの最後の方には、懐中電灯も展示されていました。

    左側のガラス容器の中の展示は灯具でした。装飾品の様な灯油ランプの最後の方には、懐中電灯も展示されていました。

  • 中央上部の赤い看板には、『香港工業産品』の文字がありました。左側のガラス棚は玩具類のようですが、右側のガラス張りの中には時計やカメラの展示がありました。

    中央上部の赤い看板には、『香港工業産品』の文字がありました。左側のガラス棚は玩具類のようですが、右側のガラス張りの中には時計やカメラの展示がありました。

  • 1980年代の、現代香港の写真展示です。1980年代の出来事が7枚の写真で紹介されていました。右上の写真は100万人デモの様子です。1989年に北京で起きた六四天安門事件に関連したデモかも知れません。移民ブームが巻き起黄、大部分の香港移民はイギリス連邦の構成国であるカナダのトロントやバンクーバー、シドニーやシンガポールに向かいました。

    1980年代の、現代香港の写真展示です。1980年代の出来事が7枚の写真で紹介されていました。右上の写真は100万人デモの様子です。1989年に北京で起きた六四天安門事件に関連したデモかも知れません。移民ブームが巻き起黄、大部分の香港移民はイギリス連邦の構成国であるカナダのトロントやバンクーバー、シドニーやシンガポールに向かいました。

  • 香港の主権が、英国から中華人民共和国へ返還されたのは、1997年7月1日のことです。1898年の展拓香港界址専条によって、99年間の租借が決まって以来、その返還期限でした。鄧小平が提示した『一国両制』政策をもとに社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことが約束されました。

    香港の主権が、英国から中華人民共和国へ返還されたのは、1997年7月1日のことです。1898年の展拓香港界址専条によって、99年間の租借が決まって以来、その返還期限でした。鄧小平が提示した『一国両制』政策をもとに社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことが約束されました。

  • 右が、『中華人民共和国香港特別行政区』のマーク、その左の写真が、香港返還を生存中に見たいと願っていたとされる鄧小平(1904~1997年)氏です。

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    右が、『中華人民共和国香港特別行政区』のマーク、その左の写真が、香港返還を生存中に見たいと願っていたとされる鄧小平(1904~1997年)氏です。

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