2012/01/05 - 2012/01/13
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旅人のくまさんさん
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世界文化遺産の古都・メクネスの紹介です。1732年に完成したマンスール門があるエディム広場の紹介です。マンスール門は、北アフリカで最も美しい門と評されています。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)
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史上最も偉大な旅行家の一人とされる『イブン・バットゥータ』紹介に戻ります。
〇『帰郷とペスト』:1346年に泉州に戻ると、バットゥータはモロッコに帰る決心をします。インドのカリカットに着くと、もう一度ムハンマド・ビン・トゥグルクを訪ね慈悲を請うべきかと逡巡しますが、そのままメッカへと向かうことにしました。バスラへ向かう航路でホルムズ海峡を通りました。(同上) -
イチオシ
その時にイルハン朝の最後の君主『アブー・サイード(1304~1335年)』がペルシアで死亡したことを知ります。イルハン朝はこのあとに起こるペルシア人とモンゴル人との間の激しい内戦により崩壊することになりました。1348年、バットゥータは最初のハッジのルートをなぞるつもりでダマスカスに立ち寄ります。そこで彼の父が15年前に他界していたことを知りました。(同上)
*写真は、マンスール門の光景です。 -
そして続く翌年からしばらくの旅は『死』が支配的なテーマとなりました。黒死病の流行が中東を襲い、彼はまさにペストの支配するシリア、パレスチナ、アラビア地域に居合わせていたからです。メッカに到着すると、彼はモロッコへ帰る決断をします。タンジェの家を発ってから実に四半世紀が経とうとしていました。帰り道にサルデーニャへ最後の寄り道をしました。1349年フェズを通ってタンジェへの帰郷を果たします。彼は彼の母もまた数ヶ月前に他界していたことを知りました。(同上)
*写真は、ズームアップしたマンスール門の上部の光景です。 -
〇『アンダルスと北アフリカ』:ついに帰郷を果たしたイブン・バットゥータですが、2、3日も滞在するとすぐにタンジェを離れることになります。これはムーア人の支配するイベリア半島のアンダルスを旅するきっかけとなりました。当時カスティーリャ王『アルフォンソ11世(1311~1350年)』は、ジブラルタルへの攻撃を仄めかしていました。1350年、その攻撃から港を守る目的でイスラム教徒のグループがタンジェを旅立ちました。そこにイブン・バットゥータも参加しました。(同上)
*写真は、マンスール門の紹介が続きます。1732年に完成したもんですから、補修はされていないため、汚れは目立ってきたようです。 -
イチオシ
しかし、彼らが到着するまでにペストがアルフォンソ11世を殺したために侵略の恐れは無くなりました。彼はそのままアンダルスの観光旅行へと目的を変え、バレンシア王国をめぐり、グラナダでアンダルスの旅を終えました。アンダルスを後にした彼は、モロッコを旅する決断をします。家へ帰る途中でしばらくマラケシュに滞在しました。かつての首都マラケシュは、ペストと、フェズへの遷都によりほとんどゴーストタウンのようでした。(同上)
*写真は、マンスール門の中央門の光景です。馬蹄形の堂々とした門です。 -
もう一度彼はタンジェに戻りますが、ほんのしばらく滞在しただけで、また旅にでることになります。時は戻りますが、1324年にバットゥータが初めてカイロを訪れた2年前、西アフリカのマリ王国の皇帝『マンサ・ムーサ』が、まさにその街をハッジのために訪れていました。途方も無い量の金を彼の国から持ち込んだマンサ・ムーサの巡礼は、当時カイロでセンセーションを巻き起こしていました。(同上)
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イブン・バットゥータは、旅行記の中でこのエピソードには触れなかったものの、当時のカイロでマンサ・ムーサの話を耳にしていたとしても不思議ではないようです。彼は、サハラ砂漠を越えた向こう側にあるこのイスラム国家を次の目的地としました。(同上)
*写真は、マンスール門の周りの城壁光景です。漆喰化粧が施されているようです。 -
〇『マリとトンブクトゥ』:1351年の秋にバットゥータは、フェズを出発し、現在ではサハラ砂漠の北限となっている街、シジルマサへ向かいました。この街で彼はラクダを何頭か購入し、4ヶ月を過ごしました。1352年2月、彼はキャラバンを伴って再び出発、25日をかけてタガーザーの塩原にたどり着きます。(同上)
*写真は、同じくマンスール門近くの城壁光景です。 -
この地域では、建物はすべて塩のブロックでできていました。ここではマッスーファ族の奴隷が塩を切り出し、ラクダで運び、建物を造っていました。タガーザーは、交易の要衝でマリで産出される金に溢れていましたが、バットゥータはあまり良い印象を持たなかったようです。ハエに悩まされ、水はショッパイと記録しています。(同上)
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タガーザーに10日滞在したあと、キャラバンはターサラフラー(Tasarahla、おそらくBir al-Ksaib)のオアシスに向かいました。そこで準備のために3日滞在しました。ここから、この広大なサハラ砂漠を縦断する旅で最後の、そして最も難しい区間が始まります。(同上)
*写真は、エディム広場と、その周りの城壁光景です。 -
ターサラフラーから、まずはマッスーファ族の先行隊がウアラタのオアシスに向け出発しました。彼らはそこで水を調達して4日目の地点まで戻り、本体と合流します。ウアラタは、サハラ交易ルートの南の終点で、ちょうどこの頃にマリ帝国の支配下に入っていました。キャラバンはシジルマサから1600キロの行程に2ヶ月を費やしました。(同上)
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ここからバットゥータは、ナイル川と彼が思い込んでいた川、すなわちニジェール川に沿って南西へと旅を続け、マリ帝国の首都にたどり着きます。彼は1341年より在位している『マンサ・スライマーン』に謁見しました。バットゥータは、女奴隷、召使、さらにはスルタンの娘たちまでもが肌の一部を露出させた格好をしていることがムスリムらしくないと、不満をもらしています。(同上)
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2月にはマリの首都を離れ、現地のムスリム商人とともにラクダでトンブクトゥを訪れました。トンブクトゥは翌15世紀、16世紀にはこの地域でもっとも重要な都市となりますが、バットゥータが訪れたこの時はまだ小さな街でした。この旅でバットゥータは、生まれて初めてカバを目にしました。(同上)
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カバは、地元の人達から怖れられていて、丈夫な綱が取り付けられた槍で狩られる、と記録しています。トンブクトゥに少し滞在した後、彼はピローグという丸木舟でニジェール川を下り、ガオを訪れました。当時のガオは、重要な交易の要衝でした。(同上)
*写真は、マンスール門の中段から見下ろしたエディム広場の光景です。 -
ガオでひと月を過ごした後、彼は大きなキャラバンに参加してタカッダー(タケッダ)のオアシスを目指しました。砂漠を越える旅の中で、彼はモロッコの第12代スルターンの『アブー・イナーン・ファーリス(在位:1348~1358年)』からのメッセージ、『家に帰るようにとの命令』を受け取りました。(同上)
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彼は1353年の9月に、600名の女奴隷を輸送する巨大キャラバンとともにシジルマサへ向けて出発しました。そして1354年の初旬にモロッコに戻っています。バットゥータのこのアフリカの旅の記録は、イスラム教が西アフリカへと波及していく過程を覗かせてくれる貴重な資料となっています。(同上)
*写真は、マンスール門から見下ろしたエディム広場の光景が続きます。 -
〇『旅行記』:1354年に家に戻ると、バットゥータはモロッコ、マリーン朝のスルタン、『アブー・イナーン・ファーリス在位:1348~1358年)』の勧めで、イブン・ジュザイイに旅の記録を書き取らせました。イブン・ジュザイイは、学者でイブン・バットゥータとはグラナダで出会っています。彼の書き留めた記録がイブン・バットゥータの旅を知る唯一の資料となっています。(同上)
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原稿は『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』とタイトルが付けられていますが、『リフラ(Rihla、旅の意)』という通称で知られています。29年に及ぶ旅の中でイブン・バットゥータが記録を取っていたという話はでてきません。バットゥータの旅の話を口述筆記するという話になると彼の記憶と先人の旅行家たちの記録だけが頼りです。(同上)
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ダマスカス、メッカ、メディナなどの中東地域の記述では、明らかに150年ほど前に書かれたイブン・ジュバイルの旅行記から引用しているようです。同様にほとんどのパレスチナの記述は13世紀の旅行家『ムハンマド・アル=アブダリ・アル=ヒヒ』の記述からの引用です。東洋学者たちは、彼が記録したすべての街を訪れたとは信じていません。イスラム世界に関する記述に説得力を持たせるために噂に聞いた話や、先人たちの残した記録を使って潤色を加えたものとして議論をしています。(同上)
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例えば、サライからブルガールまでヴォルガ川を上ったという事実は、まずありえないと考えられています。その他にも、たとえばイエメンのサヌア、ホラーサーンのバルフからバスタムへ至る旅、アナトリアの旅など、深刻な疑惑を抱える記述も見られるようです。中には本当は中国にすら行っていないのではないかと疑う学者もいます。インド以東の旅行記には、巨鳥や犬頭人の記述、歴史との相克など数々の疑問点が存在します。しかし、たとえこの旅行記が厳密に著者の個人的な体験に沿ったものでないにしても、14世紀の世界を描写した重要な資料となっています。(同上)
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旅の中でバットゥータは、たびたびカルチャーショックを受けています。正統なイスラム文化をバックグラウンドに持つ者にとっては、イスラム化されて間もない地域の人々と価値観が合わないことが屡々あったようです。たとえば彼はテュルク系民族やモンゴル人の女性の享受している自由や社会的地位に驚いています。(同上)
*写真は、エディム広場の売店光景です。 -
バザールでみたトルコ系のカップルに関して、男の方はまるで奴隷のように見えたが実は旦那だったというエピソードを書き残しています。服装に関しても、モルディブやサハラ以南は肌を露出しすぎると言及しています。1355年の旅行記完成以降、イブン・バットゥータの生涯はほとんど知られていません。(同上)
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歴史家イブン・アル=ハティーブは、イブン・バットゥータがラバト近郊のターマスナーで法官のムタワッリー(意見のまとめ役)を務め、1368年/69年に在職中に没したことを伝えています。旅行記完成後、13年後のことになります。(同上)
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〇『原稿と出版』:19世紀の初頭にドイツの探検家ウルリッヒ・ヤスパー・ゼーツェンが中東で94ページのイブン・ジュザイイの原稿の要約版を手に入れるまで、イスラム世界を除いてはイブン・バットゥータは知られていませんでした。1808年、ゼーツェンは入手した不完全な写本に基づいて、その大まかな内容をヨーロッパに報告しました。(同上)
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ゼーツェンが入手した写本は、1818年にドイツの東洋学者ヨハン・コーゼガルテン が3冊の抄本として出版し、訳文もつけました。また、門下のアペッツが翌年に4冊目の補編を出版しました。東洋学者シルヴェストル・ド・サシが学術紙に長い論評を寄せると、フランスの学者たちはフランスでの出版を期待して色めき立ったとされます。(同上)
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モロッコ在住の女性の方のブログを参照しながら、モロッコの野菜事情の紹介です。曽於の方は、『体の6割がモロッコ野菜でできている』と自己紹介されていました。砂漠の国のモロッコのイメージですが、『野菜大国』、『人口の40%が農業に従事』等とも紹介されていました。カレーが好きで、自炊でよく作られるようです。写真は、モロッコのカボチャでしょうか。(同上)
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更に、『モロッコでは国内の人々が十分に消費できるだけの野菜が生産されていて、出来のいい農産物を西ヨーロッパ向けに輸出していることも有名な話です』とも紹介されていました。野菜の値段は安く、買うことのできる場所は主に二種類あり、一つ目が日本で言う八百屋さん、二つ目はスーパーマーケットと紹介されていました。写真は巨大なシシトウか、パプリカ当たりでしょうか。(同上)
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子の方がリストにされていたモロッコの野菜です。『トマト、じゃがいも、なす、キャベツ、にんじん、ピーマン、レタス、タマネギ、長ネギ、かぼちゃ、ズッキーニ、にんにく、かぶ、サヤインゲン、アーティチョーク、スラウィア、きゅうり、コリアンダーなどです。写真は、真っ赤なパプリカのようですが、ピーマンで流通しているかも知れません。(同上)
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日本では珍しい野菜の『スラウィア』は、写真入りで紹介されていました。モロッコで生産されるウリ科の植物で、色の薄い、キュウリのような外観ですが、先端は細くなっていませんでした。珍しい野菜としては、フェンネル(仏語:Fenoil)、コワン(仏語:Coing)も紹介されていました。写真の野菜も、日本ではあまり見かけないようですが、いくつかは赤カブに似ていました。(同上)
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日本では、さやいんげんに似た『モロッコインゲン』が流通していますが、モロッコには、『モロッコ豆』は無いそうです。モロッコに来て、『モロッコ豆下さい』とはくれぐれも言わないようにお気をつけ下さいと、締めくくられていました。台湾に行って『台湾ラーメン』、中国に行って『天津飯』がないのと同じことかも知れません。どちらも日本の料理です。(同上)
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