2012/01/05 - 2012/01/13
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旅人のくまさんさん
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迷路とも言われる、フェズの旧市街の紹介です。狭い通りでの荷物運びは、今もロバさんが担っているようでした。フランス文化の影響を受けて、生きた蝸牛、エスカルゴもお店に並んでいました。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)
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新市街の『ヴィル・ヌヴェル』の紹介です。1912年にモロッコがフランスの保護国とされた後、フランスの都市計画家で、建築家の『アンリ・プロスト(1874~1959年)』の構想に沿った新たな地区の建設が開始され、1916年にフランス人の居住区となる新市街が完成しました。1956年のモロッコ王国の独立後、旧市街の住民はフランス人が引き上げたヴィル・ヌヴェルに移住しました。旧市街南西の平坦な農地ダール・デビバグが新市街の建設場所に選ばれ、平らな地形を活用した競馬場や飛行場が建設されました。(同上)
*写真は、フェズ旧市街の中の建物光景です。 -
フランス風の大通りが地区の中心を走り、街路樹としてオリーブが植えられています。フェズの人口増加に伴って、多くの高層住宅と一戸建ての家屋が建てられ、役所、ホテル、スークが整備されました。ヴィル・ヌヴェルの東にはフェズ大学のキャンパス、軍事基地、病院が置かれています。(同上)
*写真は、路地から出てきた、お仕事中の2頭のロバさんです。 -
新市街に建つチュニス・モスクは、1957年にモロッコ人によって建立されたスンナ・モスクという小さな礼拝所が元になっています。1958年にフェズを訪問したチュニジア共和国の初代大統領ハビーブ・ブルギーバは、モロッコ人によってかつてのフランス人居住区に建てられたスンナ・モスクを見て感じ入り、新市街唯一のモスクであるスンナ・モスクへの寄付を申し出ました。増築に際して、スンナ・モスクが建てられている街区全体が更地にされ、1961年に工事を終えたモスクはブルギーバにちなんで『チュニス・モスク』と改名されました。(同上)
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チュニス・モスクには、モロッコでは珍しい赤レンガ風のタイルが使用されていて、併設されているミナレットは白の素地が赤茶と緑のタイルで縁取られています。入り口には木の扉が取り付けられ、木彫りと漆喰彫り、緑と紺の2色のタイルで装飾されています。旧市街の歴史的なモスクと同じように、チュニス・モスクの天井部分は、ムカルナスで飾られています。1987年完成のユースフ・ベン・ターシュフィーン・モスクは、近隣の住民の礼拝の場となっていたカフェの地下室を前身としています。(同上)
*写真は、フェズ旧市街の光景が続きます。 -
フェズの観光施設の紹介です。
〇『バトハ博物館』:19世紀末にムーレイ・ハッサンによって建設された宮殿を改修した博物館です。陶器、絨毯、民族衣装などのフェズの伝統工芸品が展示されています。ムーア建築に基づいた庭園は、楽園(ジェンナ)をイメージして作られたものといわれています。
〇『武器博物館』: 旧市街北の丘に立つ城砦ボルジュ・ノールを改修した博物館です。刀剣、甲冑、弓矢、大砲などの武器が展示され、国王からの下賜品も含まれます。(同上) -
〇『ネジャリン木工芸博物館』:旧市街のネジャリン広場に面する博物館です。高級宿として使われていたフンドゥク・ネジャリンを1990年から1998年にかけて改修した博物館です。
〇『ブー・ジュルード公園』:旧市街と新市街の間に広がる公園です。サアド朝時代のスルタンの庭園であり、1917年に公園に改修されました。
〇『パレ・ジャメイ』:1930年開業のホテルです。1879年に建てられたアラウィー朝の高官の邸宅を改修したホテルです。広い庭園を有する邸宅はそのまま保存され、プール、テニスコートなどの設備が置かれています。(同上) -
〇『オテル・デ・メリニッド』;旧市街北のギッサ門の外の丘に広がるマリーン朝(メリニッド朝)の王族の墓地の隣に立つホテルです。1990年12月の暴動では暴徒によって放火されました。
*次は、フェズの『教育』についての紹介です。
〇『カラウィーン・モスクに付属するマドラサ(神学校)』:西方イスラム世界で最古のもののひとつであり、歴史家イブン・ハルドゥーンもこの学校で教鞭を執りました。カラウィーン・モスクが高等教育機関としての性質を備えるようになったのは11世紀のムラービト朝の時代からだと考えられています。特に医学の分野で名声を博しました。カラウィーン・モスクは植民地時代に民族主義派の活動の拠点となり、人材の育成、政治綱領・独立宣言の起草もここで行われました。(同上) -
1956年のモロッコ独立後にカラウィーン・モスクは法人化されて教育部門が教育省の管轄下に置かれるようになり、イスラーム諸学とアラビア語の専門家の育成、それらの分野における学術研究の振興を目的としてカラウィーン大学が運営されています。10世紀に建設されたカラウィーン・モスク付属の図書館には1万冊超のアラビア語写本が所蔵され、イブン・バットゥータによる写本も含まれています。(同上)
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個別には識別できませんでしたが、ドライフルーツやナッツがメインのようでした。香辛料などもあるかも知れません。日本のお店で例えるなら、乾物屋さんでしょうか。ナツメヤシの実もあるようでした。(同上)
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色々と工夫して品が並べられていました。手前の方では小皿が堤防になって沢山の量が展示され、後ろの方では、レモンが堤防になっているようでした。その間には見栄えがするように、葉物野菜が間に詰められていました。オリーブや香辛料の店先光景のようです。(同上)
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イチオシ
蕾を食するハーブの『アンティチョーク』のようです。一般的な食べ方は、丸ごとゆでて、鱗のようなガクをむき、ガクの根元についている実を歯でこそげるようにして食べ、加熱して食べるときは、フリット(素揚げ)が定番とされます。和名は、『チョウセンアザミ(朝鮮薊)』です。後ろには、サヤインゲンらしい山がありました。(同上)
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果物類の紹介です。右下のオレンジ色の実は、『柿の実』。その左がバナナですが、名前が分からない果物もありました。モロッコには温室栽培はないようですから、年中旬の果物が店先に並ぶようです。年末には、柿、ミカン、リンゴなどが出回り、1月には、イチゴや西洋ナシが加わります。(同上)
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イチオシ
動き出す食材の『カタツムリ(蝸牛)』です。高級食材の『エスカルゴ』は、フランス文化の影響を受けたもののようでした。食用カタツムリとして流通しているものはほとんどが穀物などの飼料を与えて養殖したものですが、葡萄畑などに生息する食用に適した野生のカタツムリが利用される場合も稀にあるようです。(同上)
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イメージ的には、小さなニンニクのような食材に見えました。日本で普段見掛けるニンニクと比べますと、大きさも色も違っているようでしたが、ほかに思い当たる植物を思い付きません。『スペインのニンニク』で写真検索しましたら、よく似ていましたので、やはり『モロッコのニンニク』と紹介しておきます。(同上)
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大型の葡萄のような大きさと色合いの実の光景です。房状ではないようですから、葡萄とは別種のようです。名前は分かりませんでした。野菜というより、果実のイメージでした。強いて推測するなら、ブルーベリー当たりのようです。(同上)
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イチオシ
ヤシの葉当たりを包装に使った『チーズ』の用です。造りたての真っ白な色をしていました。チーズは大きく8種に分類されるようです。フレッシュチーズ、パスタフィラータチーズ、白カビチーズ、ウォッシュチーズ、シェーブルチーズ、ブルーチーズ、セミハード、とハードチーズです。モロッコのちーでは、ヤギ乳のチーズの情報がありました。(同上)
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ソーセージ屋さんの店先光景です。色違いや、大きさも様々な腸詰めが並んでいました。繋がったままの、まさに作り立てのソーセージの光景でした。クスクス料理やタジン鍋料理をはじめ、各種のモロッコ料理に使われているようです。(同上)
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ぶつ切りの魚の販売です。皮は付いたままで、内臓は取り除いてあるようでした。モロッコは大西洋に面していますから、川魚ではなく、大型の海の魚のようです。焼き魚か、鍋物などの食材にされるように見えました。JETRO統計(2008年)では、モロッコからの水産物は、タコ、クロマグロ、モンゴウイカ、寒天、魚粉、カタクチイワシ加工品、ケーパー、タイが日本に輸入されていました。(同上)
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同じく、ぶつ切りの魚の販売です。この状態を見ただけでも、刺身などの生もので使われることは無いものと、判断が付きました。子らだけの大きさの魚ですが、鱗は付いていない魚のようでした。マグロか、サメクラスの大きさのようです。(同上)
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黄色く熟れた柑橘類の販売光景です。食べるより、香り付けや、酸っぱい味付けに使われる柑橘類のようでした。日本の食品で例えれば、ユズ(柚子)などの使い方をされるように見えました。鍋料理や野菜サラダなどにも使われそうです。(同上)
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店先に積み上げてあった麺類らしい食材の山らしい光景です。材料段階で、そのまま食べるものではないようです。推測ですが、地元のパン化、それに似た食品の材料になるようでした。(同上)
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カラウィーン・モスクに付属するマドラサのところで紹介した、歴史家の『イブン・ハルドゥーン(1332~1406年)』についての補足説明です。中世のイスラーム世界を代表する歴史家、思想家、政治家で、イスラーム世界最大の学者とも呼ばれています。南アラビアのハドラマウト(現イエメン共和国領の都市)出身のアラブ人のワーイル族を祖先とします。ハルドゥーン家の始祖は8世紀にアラブの征服事業の一環であるイベリア半島遠征に従軍し、以降ハルドゥーン家の人間はアンダルスに定住しました。(同上)
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9世紀には、ハルドゥーン家はセビリアの有力貴族として力をつけ、1248年のセビリア陥落直前まで、一族はセビリアを統治したイスラーム系王朝の下で支配貴族の地位を保ちました。セビリア陥落の直前にハルドゥーン家はイフリーキヤ(現在のチュニジア、アルジェリア東部にあたる地域)の『ハフス朝(1229~1574年)』の首都チュニスに亡命しました。(同上)
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チュニスでは、かつてムワッヒド朝でセビリア太守を務めていたハフス朝の創始者『アブー・ザカリーヤー1世(?~1249年)』の庇護を受けました。ハルドゥーンの祖父『ムハンマド(? - 1337年)』は、高位への登用を断り、隠棲して神秘主義(スーフィズム)に没頭し、宗教的な生活を送りました。この祖父の影響を受けてハルドゥーンの父ムハンマド(? - 1349年)も学問に没頭しました。(同上)
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父のムハンマドは、クルアーン、イスラーム法学(シャリーア)、アラビア語文法、作詩の知識を習得しました。ハルドゥーンは、1332年5月27日にハフス朝の首都チュニスで生まれ、少年時代のハルドゥーンは、当時の良家の子弟と同じように、チュニスの学者たちからイスラーム法学、伝承学、哲学、作詩などを学び、政界への進出に必要な教養を習得しました。(同上)
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1347年にチュニスはマリーン朝のスルタン・アブル=ハサンに占領されますが、アブル=ハサンがモロッコより帯同した学者たちとの出会いが、ハルドゥーンの学究心を刺激し、恩師となる哲学者アル=アービリーの教えを受けるきっかけになりました。父ムハンマドは、モロッコの学者と交流し、学者たちが家に出入りしたため、ハルドゥーンは彼らから教えを受けることが出来ました。(同上)
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家に出入りした学者たちの中でハルドゥーンが最も師事したのがアービリーであり、アービリーを中心として行われた読書会に彼も参加した。通常の講義ではただ哲学概論を講義するだけでしたが、読書会ではイブン・スィーナー、イブン・ルシュド、ファフル・アッディーン・アッラーズィーら、イスラームの哲学者の著書を読解する機会を持ち、ハルドゥーンは優れた理解力を示しました。(同上)
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1349年、ヨーロッパと北アフリカ一帯で流行していたペストにチュニスも襲われ、多くの教師たちとハルドゥーンの両親も病に倒れました。1351年にアービリーがモロッコに帰国するまでハルドゥーンは彼の元で研究を続け、1351年4月には『宗教学概論要説』を完成させます。(同上)
*写真は、フェズの迷路は、現地ガイドさんの後に従って全員団体行動でした。 -
アービリーの元での学習を終えたハルドゥーンは、ハフス朝を振り出しに、マリーン朝、ナスル朝、ベジャーヤのハフス朝地方政権といった、地中海世界のイスラム政権の宮廷を渡り歩くことになりました。長兄ムハンマドの働きかけにより、19歳の時にハフス朝の国璽書記官に任ぜられますが、西方への憧れを捨て去ってはいずに、1352年の春に軍を抜け出し、モロッコに向けて旅立ち、知人とハルドゥーン家の縁者の助けを受けながら、テベサ、ガフサ、ビスクラと北アフリカ各地の都市を渡り歩き、戦陣でマリーン朝のスルタン・アブー・イナーンとの出会いがありました。(同上)
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マリーン朝では、アブー・イナーンに近侍する学者の集団に加えられて宮廷に出入りしました。フェズでの権力闘争に関わり、投獄の経験もしました。三度目の仕官先であるナスル朝では、ムハンマド5世の寵臣として重用されますが、宰相との亀裂が生じ、四度目の仕官先である地方都市政権のベジャーヤでは旧知のハフス朝の王子の知遇を得ました。1400年のティムールのシリア遠征によるダマスクス包囲に巻き込まれますが、その名声を聞きつけたティムールによって陣中に招かれ、大いに弁舌を振るって周囲を圧倒しました。64歳のティムールと68歳のハルドゥーンとの陣中での会見でした。ティムールに依頼され、『マグリブ事情』著しました。再びエジプトに帰還した後に何度か大法官を務め、六度目の就任の直後に病を得て歿しました。73歳でした。(同上)
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