2012/01/05 - 2012/01/13
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旅人のくまさんさん
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モロッコ旅行7日目の朝です。2泊したフェズのホテルを荷物を纏めて出発し、世界文化遺産の古都・メクネスに向かいました。この日は、首都ラバトにも立寄り、最後の宿泊地になるカサブランカに向かいました。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)
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17世紀末からモロッコを統治する王朝の『アラウィー朝』の紹介です。その首都はェズ に始まり、これから見学するメクネス、現在の首都のラバトに変遷しました。アラウィー王朝の精留津は1631年、1956年にフランス統治から独立しました。(同上)
*写真は、2泊したフェズのホテルの出入口光景です。泊まった部屋は416号室、左右に向かう2ルートの避難経路が記されていました。 -
『イブン・バットゥータ(1304~1369年)』の旅行記、『南アジア』の続きです。
バットゥータは、使節としての命を託されました。しかし中国への出発点となる港へ向かう道中、彼の大規模な使節団は山賊の襲撃にさらされます。バットゥータは、一団からはぐれ、身包み剥がされ、あわや命すらも失いかけました。(同上)
*写真は、インポータント(重要)のタイトルがあった注意事項などのようです。 -
苦境に陥りながらも、彼は10日以内に使節団に追いつき、合流を果たすとグジャラート州のカンバートへの旅を続けました。そこから船でカリカット(現在のコーリコード)へ向かいました。2世紀の後に『ヴァスコ・ダ・ガマ』が上陸を果たす地です。カリカット滞在中、バットゥータはこの地の支配者ザモリンに客人として迎えられました。(同上)
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その後コッラムへと船を進めます。南海岸で最も活況を極める港の一つである、カリカットからコッラムまでの日数は10日でした。バットゥータが岸のモスクに立ち寄っているとき、嵐がやってきて2隻の船団のうちの1隻が沈んでしまいました。別の1隻はバットゥータを残して出航しますが、この船は数ヶ月後にスマトラ島の王に拿捕されることとなります。(同上)
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イチオシ
このままデリーに戻った場合に責任を問われることを怖れたバットゥータは、しばらくの間ナワーヤトのジャマール・ウッディーン庇護の下で南インドに留まりました。ナワーヤトは小さいながらも力のあるスルターン国で、アラビア海に面するシャラベイ川河畔に位置します。(同上)
*写真は、2泊したフェズのホテルから眺めた市街光景です。 -
現在はウッタル・カンナダ州ホナバー行政区のホサパタナとして知られる地域にあたります。しかし、やがて起こるこのスルターン王国の転覆の中、バットゥータはインドを去るよりほかなくなりました。中国への旅を続ける決意を固ますが、まずはモルディブへの寄り道からはじめることとしました。彼は当初の予定よりもずいぶんと長い9ヶ月をこの島国で過ごしました。彼は仏教国からイスラム化を果たしたばかりのモルディブにとって貴重な人材でした。(同上)
*写真は、同じく、2泊したフェズのホテルから眺めた市街光景です。 -
半ば強引に滞在を求められてこの国で主任カーディを務め、そしてロイヤルファミリーから伴侶を迎えオマル1世と姻戚関係を持ちました。しかし、次第に彼は政治問題に巻き込まれるようになり、彼の厳格なイスラーム法の執行に対し奔放な気質の島民がいらだちを募らせるようになると、彼はモルディブを発ちました。(同上)
*写真は、フェズのホテルのロビー光景です。 -
彼は旅行記の中で、島の女性たちが上半身裸で街をうろついていること、それに対するバットゥータの不満を現地の人々が歯牙にもかけなかったことを記録しています。モルディブを発った彼はスリランカに向かい、アダムスピークとテナヴァラム寺を訪れました。(同上)
*写真は、ホテルの暖炉光景です。今は飾りだけかもしれません。 -
スリランカを出航すると、すぐに船が沈み始めました。救助にやって来た船は海賊の襲撃に晒されますが、バットゥータは無事でした。彼はスリランカの岸で途方に暮れ、苦労してやっとのことでインドのマドゥライ王国まで戻りました。短命のマドゥライ・スルターン朝、ギヤースッディーンの朝廷にしばらく滞在します。その後彼は、再びモルディブへ渡り、中国のジャンク船に乗りこみました。まだ中国へ向かう使者としての使命を全うする意思を持っていました。(同上)
*写真は、ロビーに飾られていた絵画です。 -
彼は現在のバングラデシュ、チッタゴンの港に上陸します。彼はシャー・ジャラール(スーフィズムの指導者)に会うため、シレットに向かいました。チッタゴンからカマルの山々を越えてシレットに至る1ヶ月の旅路でした。当時のイスラーム世界ではシャー・ジャラールはこの骨折りに値する高名な人物でした。(同上)
*写真は、ロビーに飾られていた絵画です。 -
シレットへの旅の途中、シャー・ジャラールの弟子たち数人に声をかけられました。彼らはイブン・バットゥータを案内するために何日も前から待っていました。1345年のシャー・ジャラールとの面会について、『シャー・ジャラールは背が高く、細身で顔色はよく、洞窟のモスクで暮らしている』と記録されました。(同上)
*写真は、2泊したホテルを出発し、メクネスに向かうところです。 -
また、『ミルク、バター、ヨーグルトのためのひつじを一頭だけ所有し、その他には財を持たないと』と記録しています。また、『取り巻きは外国人であり、強さと勇敢さで知られていました。たくさんの人々が教えを請うためにシャー・ジャラールのもとを訪れる』、等々記しています。バットゥータはさらに北へ向かいアッサム州を訪れた後、中国へのルートに戻りました。(同上)
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〇『東南アジア』:1345年、バットゥータは現在のスマトラ島北部アチェ州に位置するサムドラ・パサイ王国を訪れました。彼は、この国の統治者について触れています。『スルターンの名前はマリク・ザーヒル・ジャマールッディーン、敬虔なムスリムで宗教的義務は最大限熱心に行い、しばしば地域の精霊信仰勢力に対して軍事行動をとっている』、と記しています。(同上)
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彼はスマトラ島について樟脳、ビンロウ椰子、クローブ、スズが豊かな島であると描写しています。バットゥータは、サムドラ・パサイ王国の人々が属する法学派についてはシャーフィイー学派であると記録しています。これは彼が実際に見てきたインド沿岸地域のムスリムに近い学問で、とりわけマラバール海岸のムスリム(マッピラ)もシャーフィイー学派に属していました。(同上)
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当時サムドラ・パサイ王国は、ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)の限界で、これ以上東にムスリムの統治する領域は存在しませんでした。彼はスルタンの客人として、この木製の城壁に守られた街で2週間を過ごしました。スルターンはバットゥータに物資を提供し、スルターン所有のジャンクで彼を中国へ送り出しました。(同上)
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バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かいました。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日を過ごしています。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かいました。(同上)
*写真は、農村の景色から、メクネス郊外の町並み光景に代わりました。フェズとメクネスの距離は53キロほどです。 -
旅行記の中ではカイルカリとして記されていて、ごく短時間ですがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されています。彼女はアラビア書道でバスマラを書いて見せました。アラビア語の定型句のことです。バットゥータは、彼女の一族は元と敵対していると記しています。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たします。(同上)
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〇『中国』:1345年、モンゴル治世下の中国福建省泉州です。バットゥータはまず、現地ムスリムがこの街をザイトゥーン(アラビア語でオリーブ)と呼んでいると言及しています。しかし彼はどこにもオリーブを見つけることはできませんでした。 続いて彼は外国人のポートレートを描いている似顔絵師と、彼らの巧みな技術について触れています。(同上)
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バットゥータは、彼らの描く似顔絵はセキュリティ目的に使われると記しています。彼は、この街の職人と彼らの作る絹織物、磁器、そしてプラム、スイカといった果物、そして紙の通貨の利便性に賛辞を贈っています。また、泉州における巨大船舶の製造工程、さらには中国料理と食材などにも触れています。(同上)
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例えばカエルやブタなど、イヌが食材として市場で売られていること、中国のニワトリが大きいことなどについて書き残しています。泉州では、バットゥータはこの地のカーディー、シャイフ・アル=イスラームに歓待を受けました。更にはイスラム商人のリーダーが旗、太鼓、トランペットと楽団を引き連れてバットゥータに会いに来ました。(同上)
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彼は、『ここ泉州ではムスリムはいくつかのコミュニティに別れて暮らし、それぞれが自分たちのモスクとバザールと病院を持っている』、と記録しています。彼はここ泉州で、2人の高名なペルシア人に会いました。ブルハーヌッディーン・カーゼルーニーとシャラフッディーン・タブリーズィーです。(同上)
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この2人は元史に『至正十七年三月(1357年)』に泉州で反乱を起こした、と記されている『賽甫丁(サイフッディーン)』と『阿迷里丁(アミーリッディーン)』である可能性が指摘されています。(ジェフ・ウェイドによる推測)、滞在中彼は清源山に登り、洞窟に著名な道教の僧侶を訪ねています。(同上)
*写真は、高架道路でしょうか、あるいは効果線路かも知れません。 -
その後彼は、海沿いに南下し広州を訪れ、その街の裕福な商人のもとで2週間を過ごしました。広州から北へ泉州に戻り、福州へと向かいます。バットゥータは、福州で『ザヒールッディーン・クルラーニー』と宿をともにし、セウタ出身のキワームッディーンなる人物と、同様にセウタ出身で中国で財を成した商人ブシリーを訪れます。(同上)
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ブシリーはバットゥータと連れ立って杭州へ向かい、そして元朝の皇帝トゴン・テムルへの贈りものの購入費用を肩代わりしました。バットゥータは、杭州を彼が見てきた中でも最大級の都市とし、そしてこの街の魅力について触れています。『美しい湖を湛え、なだらか緑の丘に囲まれている』、そしてムスリムの居住する一角にも言及しています。(同上)
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彼はエジプトに起源を持つ一家のもとに身を寄せていました。杭州滞在中、『たくさんのよく設計され、きれいに塗装され、色彩豊かな帆を持ち、シルクの日よけをもった木製の船が運河に集まっているのを見て感動した』、ことを記録に残しています。ジャンク船のことのようです。彼は、カータイという名の元朝の地方行政官の晩餐会に呼ばれています。(同上)
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バットゥータによれば、この行政官は現地中国人の召喚魔術に大変興味を持っていたようです。また彼は、太陽神を信仰する現地の人々についても言及しています。召喚魔術は、召喚魔法とも呼ばれ、自分が神と一体化、もしくは自身に神を憑依 させる技法とされます。(同上)
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彼は京杭大運河を小船で上りながら、『畑やラン、黒い絹の衣を纏った商人たち、花柄の絹の衣を纏った婦人たち、やはり絹を纏った僧たちを』目にしました。北京では、バットゥータは、はぐれたデリー・スルターン朝の使節を名乗り、元朝ボルジギン氏、トゴン・テムルの宮廷に招かれます。バットゥータは、トゴン・テムルについて、中国の一部の人々から崇拝されていると描写しています。(同上)
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イチオシ
『大都の宮殿は木造で、統治者の第一夫人(奇皇后)は、彼女を称える行進を行わせた』、と記録しています。バットゥータはまた、泉州から60日のところにゴグとマゴグを防ぐ大城壁があると記しています。これは、万里の長城に関する情報を聞いたバットゥータが、イスカンダル双角王の築いた城壁の伝説と結び付けたものと想定されています。バットゥータは、北京から杭州へ戻り、福州へと旅を進めました。泉州に戻るとすぐにサムドラ・パサイ王国のスルターン所有のジャンクに乗り込み、東南アジアを目指しました。しかし船の乗組員に法外な額の報酬を要求され、彼が中国滞在中に工面した蓄えを、ほとんど失いました。『中国』の旅行記の紹介を終えたところで、小休止して、今見学している『エディム広場とマンスール門』の紹介です。(同上)
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イチオシ
メディナの中心となっているのが『エディム広場』です。広場の中央には三つの噴水があり、広場の周囲には店やカフェなどが並んでいます。広場から北へ入ればスークがあり、広場の南東側には、王都地区への正面入口である「マンスール門」が見えます。後ほど紹介しますが、『北アフリカで最も美しい門』として名高いのが『マンスール門』です。メクネスのシンボルであり、王宮の入り口にあたる巨大な門です。『ムーレイ・イスマイル王(1645頃~1727年)』の命により着工され、息子の代になった1732年に完成しました。完成以後、一度も改修したことがないと伝わる門です。偉大な王朝を象徴するような、大きな馬蹄形の扉、その周りをモザイクタイルやアラベスク模様の彫刻が彩っています。(同上)
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門の設計者のマンスールは、『マンスールが生きているとこの「マンスール門」以上の傑作をどこかで作ってしまう』と思われ、殺されてしまいました。それで『マンスール門』が、マンスールの遺作となりました。この門の別名は、『改宗者の勝利の門』です。これはマンスールが門を作っている最中に、彼がキリスト教からイスラム教に改宗したための命名とされます。(同上)
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