2012/01/05 - 2012/01/13
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旅人のくまさんさん
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モロッコの首都、ラバトのモハメド五世廟とハッサンの塔の紹介です。未完のミナレットのハッサンの塔は、1195年にムワッヒド朝のヤクーブ・マンスールがモスク建設に着手しましたが、彼の死亡により工事は中断、設計では高さ88メートルでしたが、未完でも44メートルの塔は、世界最大級の高さを持ちます。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)
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〇これまでに紹介したことと重複する部分もありますが、『保護領時代(1912~1956年)』のモロッコの歴史の紹介です。
〇『保護領時代』:1912年にモロッコはフランス保護領モロッコ、スペイン保護領モロッコ、タンジェの3区域に分割され、スルターンの形式的な主権の下で、各国による植民地支配が行われました。(同上) -
〇フランス保護領モロッコの初代総督には、ウベール・リヨテ将軍が就任しました。リヨテは首都をフェスから沿岸部のラバトに移転しました。
〇1915年にアラブ人をシャリーア、アマジグ人(ベルベル人)を慣習法で裁判を行う分割統治を打ち出しました。
〇第一次世界大戦が勃発した後も、マシュリクのアラブ反乱の影響はモロッコには及びませんでした。
〇戦後1920年にリーフ人のアブド・アルカリームがスペイン領モロッコのリーフ地方で反乱を起こし、第三次リーフ戦争が勃発しました。(同上)
*写真は、未完に終わったミナレットの、ハッサンの塔の最上部のズームアップ光景です。 -
〇アルカリームは、1923年にリーフ共和国を建国し、自ら大統領となってソ連の支援を得ながらスペイン軍と戦いました。
〇アルカリームは一時スペイン軍を追いやったものの、介入したフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊しました。
〇アルカリームの抵抗は失敗に終わりましたが、第二次世界大戦後の民族解放運動の先駆けとなった運動でした。
〇1921年にモロッコの人口は3,553,700人に達し、総人口の内、約2.1%がヨーロッパ人でした。また、1923年にタンジェは国際管理都市となりました。(同上)
*写真は、ハッサンの塔の中間部分のズームアップ光景です。 -
〇1930年にはベルベル勅令が発せられ、アラブ人とベルベル人(アマジグ人)の分割統治が更に進みましたが、同時にこの頃から反仏運動が盛んになり始めました。
〇1933年にはアラール・ファーシー、ハサン・ワザーニーらによって国民行動連合が結成され、立憲君主制の導入や議会の設置などを訴えました。
〇1937年にこの組織はファーシーの国民党とワッザーニーの国民運動に分裂しましたが、人民戦線のレオン・ブルム首相は国民党を弾圧しました。
〇一方、スペイン保護領では1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が勃発しました。(同上)
*写真は、ハッサンの塔の中間部分のズームアップ光景です。 -
イチオシ
〇スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が反乱軍側で戦いました。
〇1939年に第二次世界大戦が勃発し、翌1940年にフランスがナチス・ドイツに降伏して第三共和政が崩壊し、当初モロッコはヴィシー・フランスの支配下に置かれました、
〇1942年に連合軍がモロッコに上陸、自由フランスがモロッコを奪回しました。
〇大戦中の1943年1月に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれました。
〇同年6月にはルーズヴェルトとスルターンムハンマド・ベンユースフが会談し、スルターンはアメリカ合衆国大統領に独立運動への理解を求めました。(同上)
*写真は、少し離れた場所からのハッサンの塔の光景です。 -
〇このことがモロッコの独立運動を活性化させ、1943年末にはイスティクラール党(独立党)が結成されました。
〇第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で、1930年代から盛んになっていた独立運動が過熱しました。
〇第四共和政はナショナリズムを鎮めるため、1947年に共同主権案を打ち出しましたが、これはモロッコのナショナリストとヨーロッパ人の双方にとって受け入れ難いものでした。(同上) -
〇スルターンやイスティクラール党、モロッコ共産党などが独立運動を掲げたため、フランスはムハンマド・ベンユースフを廃位し、傀儡のスルターン(ムハンマド・ベン・アラファ)を据えました。
〇このことはモロッコ人の広範な反発を招き、1953年にはゲリラ闘争が始まるまでに至りました。
〇1954年にディエンビエンフーの戦いで敗北し、フランス領インドシナを失っていたフランスはモロッコでも譲歩しました。
〇1955年にムハンマドが復位し、ムハンマドの帰国後、1956年3月2日にモロッコはフランスから独立しました。(同上) -
〇『独立後のモロッコ(1956年-1999年)』:モロッコの独立後、1956年4月7日にスペインはセウタ、メリリャ、イフニの飛び地領」とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄しました。
〇国際管理都市となっていたタンジェも10月にモロッコ領に復帰しました。
〇1957年にスルターン・ムハンマド5世が正式に国王となり、スルターン号が廃止されました。
〇1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還しました。(同上) -
〇1961年にハサン皇太子が、父の死去に伴いハサン2世として即位しました。
〇ハサン2世は、首相を兼任して積極的に親政し、翌1962年6月に憲法が制定され、モロッコは君主の権限が極めて強い立憲君主制国家に移行しました。
〇独立の1963年、モロッコはアフリカ統一機構(OAU)の原加盟国となりました。
〇OAU発足直後の同年10月、同じくOAUの原加盟国だった独立直後のアルジェリアと未確定領土を巡って砂戦争が勃発しました。
〇この戦争はエチオピアのハイレ・セラシエ1世の調停で現状維持のまま停戦しましたが、以降モロッコとアルジェリアの関係は、政治体制の相違もあり、軋みが生じました。(同上) -
〇ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、国民の不満が高まったため1965年6月には戒厳令を敷いて憲法を停止しました。
〇ハサン2世は、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進めました。
〇対外的にはアメリカ合衆国をはじめとした西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持しました。(同上) -
〇1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰しました。
〇1960年代後半からは国王独裁への国民の不満が高まったため、ハサン2世は工業化や土地改革を進めました。
〇1970年8月、自ら主導して新憲法を制定、戒厳令を解除しました。しかし、軍部はハサン2世の統治を不満とし、1971年7月にクーデターが起きました。(同上) -
〇クーデターは未遂に終わり、ハサン2世は暗殺を免れましたが、この事件がハサン2世に与えた動揺は大きかったようです。
〇1972年2月には早くも憲法が改正され、民主化が進みました。
〇しかし、同年8月に空軍が反乱を起こし、ハサン2世の暗殺を謀りました。(同上)
*写真は、廃墟のような、広場の光景です。 -
〇政党のみならず軍部までもが支持基盤から離脱し始めたことは、王制が揺らいでいることを示すものでした、
〇二度の暗殺未遂事件後、国民の支持を得るため、ハサン2世は反対勢力の弾圧の強化、経済ナショナリズムに基づく国有化政策、強硬外交を打ち出しました。(同上) -
〇外交面では第四次中東戦争でシリアに援軍を送り、イスラエルと戦うと共に大モロッコの実現を目指しました。
〇1969年6月には、スペインが「飛び地領」のイフニをモロッコに譲渡しました。
〇スペイン領だった西サハラは、スペインの領有が続いたため、モーリタニアと共にスペイン領サハラの分割を協議しました。
〇1975年11月6日に西サハラに対して35万人の非武装のモロッコ人がハサン2世の号令の下、西サハラの解放を求めて越境大行進を行い、西サハラを実効支配しました(緑の行進)。(同上) -
〇この結果、11月14日にマドリード協定が締結され、スペインが領有権を放棄し、モロッコとモーリタニアによるスペイン領サハラの分割が認められました。
〇スペイン撤退後、1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まりました。
〇同年モロッコと対立関係にあったアルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言しました。
〇西サハラの実効支配によって王制は国民の支持を確立しましたが、その代償は高くつきました。
〇ポリサリオ戦線との激しいゲリラ戦争により軍事支出が増加し、燐の国際価格低下と相俟ってモロッコ経済は低迷しました。(同上) -
〇経済低迷により、1970年代後半から1980年代にかけてストライキや暴動が多発しました。
〇西サハラ問題は、国際的にもモロッコの孤立化を招きました。
〇1979年8月にポリサリオ戦線とのゲリラ戦争に手を焼いたモーリタニアは西サハラの領有権を放棄しましたが、モロッコは実効支配を続けました。
〇西サハラは外交的成功を収め、1982年にOAUが西サハラの加盟を認めました。
〇モロッコはこの事態に抗議して1984年6月にOAUを脱退しました。
〇モロッコは、アパルトヘイト政権下の南アフリカ共和国と共にアフリカ世界から孤立しました。(同上) -
イチオシ
〇1988年5月にようやくアルジェリアと国交を回復しました。
〇1989年2月にはマラケシュでマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印されたが、アラブ・マグリブ連合は西サハラの地位を不問のままにして調印されました。
〇OAUは西サハラの地位を鑑み、1988年の総会で住民投票による帰属の決定を決議しました。
〇1991年には国際連合安全保障理事会の決議の下で住民投票が決定され、西サハラ停戦が成立しました。(同上)
*写真は、モハメド五世廟の衛兵との記念撮影の御家族です。 -
〇安保理決議に基づき国際連合西サハラ住民投票ミッションが現地に派遣されましたが、住民投票は延期され続けて実施されていません。
〇西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題となっている。
〇1990年代に入ると、1992年9月に憲法が改正され、民主化が進みました。
〇『ムハンマド6世時代(1999年~)』:1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位しました。
〇2002年にアフリカ統一機構(OAU)が発展解消し、アフリカ連合(AU)が結成された際も、モロッコは西サハラ問題のためにAUに加盟しませんでした。(同上) -
〇2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生しました。
〇イスラーム主義者を中心に現体制への不満はあるものの、ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、リベラルな改革を進める立場を示しています。(同上) -
〇『ムハンマド6世』:の紹介です。『ムハンマド6世(1963年8月21日~)は、モロッコの現国王(在位:1999年7月23日~現在)で、『モハメド6世』とも表記されます。2002年から発行されている全てのモロッコ・ディルハム紙幣に肖像が使用されています。
〇ハサン2世の長男として生まれ、祖父のムハンマド5世に因んで命名されました。1999年、父王の崩御により即位しました。
〇2002年3月にラーラ・サルマ王妃と結婚、王妃はモロッコ史上初めて公に紹介され、尊称を持って呼ばれています。また王家初の一般女性との結婚となり、ムハンマド6世は、一夫一妻制を維持しています。(同上)
*写真は、白地に金色だけの、モハメド五世廟の内装の紹介です。 -
〇2003年5月8日、長男ムーレイ・ハサン王太子が、2007年2月28日には長女ラーラ・ハディージャ王女が誕生しました。
〇日本食贔屓として知られ、専属の日本人シェフを王宮に招聘しています。
〇また、島根県仁多郡奥出雲町特産の仁多米を気に入り、駐アメリカ合衆国モロッコ領事館を通じて購入しているとされます。(同上) -
ムハンマド6世の略歴です。
〇モロッコ国王(在位 1999~)、本名 葉『Mu?ammad ibn al-?asan(ムハンマド・イブン・アル・ハサン)』です。
〇ラバトのムハンマド5世大学で、1985年に法学の学士号を、1988年に公法の修士号を取得しました。
〇1980年代末にごく短期間、ベルギーのブリュッセルにあるヨーロッパ委員会本部で学びました。
〇フランスのニース大学に入学、1993年に法学博士号を取得しました。(同上)
*写真は、モハメド五世廟の内部を護る衛兵です。 -
〇アラビア語とフランス語で教育を受け、文学と芸術に興味を持つとされます。
〇モロッコの王位継承者として父ハッサン2世の任務を肩代わりするようになり、1990年代に国王が健康を害しますと,内外の政治的な会議や儀礼において国王の名代を務めました。(同上)
*写真は、壁に映し出されたステンドグラスの窓の明かりのようです。 -
紹介が遅れましたが、ラバトは『近代的首都と歴史的都市をあわせもつ遺産ラバト』として、旅行の年(2012年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。モロッコとしては9番目の世界遺産で、全て文化遺産です。ラバトは、モロッコ王国の現在の首都で、大西洋に面し、ブー・レグレグ川の河口に位置します。(同上)
*写真は、緻密でカラフルな室内装飾の光景です。 -
ラバトの市の人口は65万人、都市圏では180万人(2010年)とされます。ラバトとは『駐屯所』の意味です。人口ではモロッコ最大の商業都市カサブランカなどに次ぎ第3位の都市として、また首都としての機能のため、外国公館も存在し来訪者も多い都市です。シェラ(Chellah)と呼ばれるネクロポリス(共同墓地)が、ブー・レグレグ川の両岸に残っています。これらは紀元前3世紀のもので、この頃には既に定住が行われていました。ローマ帝国は紀元40年に現在のモロッコにあたるこの地域をマウレタニア・ティンギタナ属州として帝国内に組み込み、シェラをローマ人の定住地に変え、サラ・コロニアと呼びました。(同上)
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250年まではローマの植民市の状態が続き、その後、ローマはこの地を放棄しました。1146年、イスラム王朝の『ムワッヒド朝(1130~1269年)』の初代アミール(在位:1130~1163年)の『アブドゥルムウミン』は、11世紀に造られたリバートをスペインへの攻撃拠点とするため、大規模な城塞に改築しました。1170年には『勝利の陣屋』と名付けられ、ここから現在の市名が由来します。また、第三代アミール(在位: 1184~1198年)の『ヤアクーブ・マンスール(生年不詳~1198年)』は、都をラバトに移し、城壁やウダーヤのカスバを建設しました。(同上)
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第3代アミールのマンスールは、世界最大級のモスクの建設などにも着手しましたが、マンスールの死によって完成を見ませんでした。世界最高のミナレットも完成せずハサン塔として現存しています。その後、ラバトは低迷期を迎えます。ムワッヒド朝は、イベリア半島の、次いでマグリブでの領地を次々に失い、13世紀には経済の中心もフェズに移りました。(同上)
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1515年、この地を通ったムーア人の探検家は『ラバトには100世帯しか残っていない』と記しているほど、ラバトは衰退しました。17世紀、スペインを追放されたモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)達が入植し、ラバトの復興の土台となりました。1627年、ラバトとサレは『ブー・レグレグ共和国(1624頃~1668/1818年)』を発足させました。(同上)
*写真は、モハメド五世廟から眺めた周りの光景です。 -
この国はコルセア(海賊)によって運営され、ラバトとサレは海賊行為の出撃拠点となりました。1666年、アラウィー朝がモロッコを統一しますが、海賊国家の制圧には失敗し、ブー・レグレグ共和国は1818年まで存続しました。またこの地の海賊も1829年にオーストリア船が海賊に攻撃された報復でオーストリア軍がラバトを砲撃して打撃を与えるまで健在でした。 1912年、フランスがモロッコに侵攻しフランス保護領モロッコにしますと、総督のウベール・リヨテ将軍は政情不安なフェズからラバトに都を移すことを決め、スルターンは遷都しました。(同上)
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1913年、ウベール・リヨテは、フランス人都市計画家のアンリ・プロストに命じ、ラバトの行政地区の都市設計を行わせました。これが現在のラバトの市街地です。1956年、モロッコが独立を成し遂げますと、スルターンのムハンマド・ベンユースフ(ムハンマド5世)は、都をそのままラバトとする決定を行いました。(同上)
*写真は、モハメド五世廟から眺めた周りの光景です。
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