2012/01/05 - 2012/01/13
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旅人のくまさんさん
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フェズの旧市街の紹介です。皮なめし工場の見学の後の昼食は、宮殿様式のクラシックな造りのレストランでした。豪族の邸宅跡をレストランに模様替えしたもののようでした。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)
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アマジグ人(ベルベル人)について先に紹介しましたが、『アラブ人』についても紹介しておきます。現在の『アラブ人』は、おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々のことです。(同上)
*写真は、フェズ旧市街の皮なめし工場が見下ろせるお店のベランダです。 -
アラブ人は、アラビア半島を原住地とするセム系民族で、アラビア人とも呼ばれます。セム系民族は、セム系の言語を使用する人々の総称とされます。7世紀に『ムハンマド(マホメット):570年頃~632年』によってイスラーム教が開かれ、中東・北アフリカを中心に勢力を拡大しました。(同上)
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イスラーム教の聖典の『クルアーン(コーラン)』は、創始者のムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉とされているため、イスラム教の拡大によってアマジグ人やエジプト人、そしてメソポタミア人(イラク人)などの近隣の多くの人々が言語的に同化し、アラブ人となりました。(同上)
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『ベドウィン』についても紹介しておきます。アラビア半島において、南端の農耕地帯に余剰人口が生じた時、農耕民の中で進取の気性ある者が耕作不能な土地に家畜を連れて北上したのが、ベドウィンの始まりとされます。ベドウィンを意味するヘブライ語から『アラブ』という語が導かれたとする説もあり、ベドウィンが古くからアラブと呼ばれていたことは多くの碑文や史料に示されています。コーランにおける『アラブ』は、ベドウィンを指していて、『ベドウィンの言葉をコーランの言葉としても、町の住人の言葉としても用いられるものとする』と記されています。このことは、ベドウィンの言葉がアラビア語として最も純粋であるという学説の根拠となっているようです。(同上)
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イスラーム以前のアラブは、ベドウィンの社会をそのまま反映して血縁関係を第一に尊重し、数多くの小部族に分かれて紛争に明け暮れていました。その部族主義を排除して、唯一の神アッラーによる共同体を目指すのがイスラームとされます。預言者ムハンマドは、ベドウィンの伝統に執着する頑迷さを非難もしています。これは、イスラームが商業都市メッカで誕生したため、砂漠で移動生活をしている人々には浸透しにくかったという事情を物語っているようです。ムハンマド以前、アラブ人は統一された社会共同体もなく、部族社会を形成していました。(同上)
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アラブ人の部族は、たびたび水資源や利権を巡って争い、破壊や略奪といった無法な行為を行ってましたが、戦では詩の優劣で勝敗を決めることもあるという、非常に発達した精神文化も備えていました。ムハンマドによるイスラム教の創始以降、イスラーム教のもとでイスラーム文化は最高潮に達し、イスラーム世界では錬金術を原点に各種の科学や数学、哲学が発展し、文学の発展もありました。また、イスラームの禁欲主義・勇敢さ・連帯意識などの価値観は、ムハンマド以前からベドウィンによって培われていたとも考えられています。(同上)
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『アラブ人』という概念は、人種的存在とは言えないようです。むしろセム語(アラビア語)という言語を共有する人々としてであったり、聖書に窺える、ある人物を始祖とするという共通概念で規定されます。アラブ人は、旧約聖書に登場するアブラハムが妻サラの女中であるハガルとの間に生ませた長男のイシュマエルを祖とし、その子孫と称しています。(同上)
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旧約聖書の『創世記』に登場する、アブラハムとサラの子のイサクと、その次男のヤコブです。その子孫であるユダヤ人とは、別の民族になったとしています。民族的概念と人種的概念が一致しないという点で、アラブ人とユダヤ人は共通するといえます。アラブ人が開いたイスラム教では、イサクよりもイシュマエルが重視されます。(同上)
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最初の『アラブ人』は、アラビア半島の住民です。いわゆる『アラビア人』は、イスラム教徒でもある彼等およびその子孫全般のみを指しますが、イスラム教の聖典のクルアーンはムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉とされているため、イスラム教の拡大によってアマジグ人やエジプト人、そしてメソポタミア人(イラク人)などの近隣の多くの人々が言語的に同化し、『アラブ人』となりました。その後、20世紀初頭にオスマン帝国や欧州列強の植民地支配に対する抵抗運動の中で汎アラブ主義が勃興し、アラビア語話者の間に『アラブ人』という民族意識が補強されました。(同上)
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ただし、キリスト教徒のアラブ人には、アラブ人としての民族意識は宗派によってばらつきがあります。東方正教会の信者には、パレスチナ難民内にも多くの信者がいることもあり、有力な汎アラブ主義指導者なる者もいれば、一部は『テロリスト』とされることもありました。その一方で、レバノンのマロン派の信者は古代フェニキアの子孫としての民族意識が、イラクなどのアッシリア人は古代バビロニア、アッシリアの子孫としての民族意識が、エジプトのコプト正教会の信者はコプト語の話者であることから古代エジプトの子孫としての民族意識が強いとされます。(同上)
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イチオシ
現在ではシリア人、パレスチナ人、エジプト人、マグリブのアラビア語系住民、身体的形質の上では黒人とされる人々を含むスーダンやモーリタニアなどの『ブラックアフリカ』におけるアラビア語話者、さらにベルベル系の諸民族やソマリ人などアラビア語以外の言語を母語とする者までが、アラブ人として自己規定する場合もあります。ただし、典型的なコーカソイドのアラブ人は、ネグロイドのアラビア語話者をアラブ人と認めないことが多いとされます。(同上)
*写真は、豪族の邸宅跡とお聞きした建物の装飾です。今日の昼食会場でした。 -
イチオシ
ベドウィンなど、遊牧民や砂漠の民のイメージもありますが、これは一面的な解釈に過ぎません。彼らは多くの穀倉地帯を抱えた農耕民族でもあり、インド洋を股にかけた海洋民族でもあります。イスラーム文化は高度に発達した都市文明の産物であり、西欧を中心に発祥した近代科学にも大きな影響を与えています。(同上)
*写真は、豪族の邸宅跡とお聞きした昼食会場の光景です。 -
遺伝子の面からのアラブ人の紹介です。アラブ人を特徴づける遺伝子は、Y染色体ハプログループJ1とされます。このタイプは現在アラブ人の分布する中東~北アフリカで高頻度にみられます。特に北アフリカではアラブ人の入植により急速にJ1が広まったものと推定されています。(同上)
*写真は、宮殿風の造りの広間の中央部分の光景です。 -
人種的なアラブ人は、以上の通りですが、人種的なアラブ人のアラビア半島出自のアラブ人は、サウジアラビア、オマーン、アラブ首長国連邦(UAE)、カタール、バーレーン、クウェート、ヨルダン(現在パレスチナ系・メソポタミア系の難民が7割を占めます)、エジプト、チュニジア、モロッコ、アルジェリアで多いとされます。(同上)
*写真は、礼拝場所のようです。 -
シリア、イラク、レバノンは、メソポタミア系やイラン・トルコ系、リビアはアマジグ人(ベルベル人)、イエメンは原始アラブ人ですが、文化的にはアラブ人と定義づけられています。(同上)
*写真は、豪族の邸宅跡を改装したレストラン『Palais de Merinides』の光景です。『Palais(パレ)』は、『宮殿』の意味があります。 -
この夜間は、昼食のために利用したものではなく、飾りのために置かれていた、大きな銅製らしいヤカン(薬缶)です。手造りの鍛造製品のように見えました。本来ならば、博物館に展示されるのが相応しい品のようでした。一体になった敷物も、存在感がありました。壁面のアラベスク文様の対ロ装飾にも位負けしていませんでした。(同上)
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時代は特定できませんが、恐らく国王の血筋の豪族か、有力な宰相当たりの邸宅跡のようでした。壁に施設された金属は、今は、使用をしていない水周りの施設のように見えました。『ウドゥ(小浄)』と呼ばれる、礼拝前の洗浄施設かも知れません。(同上)
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旅行計画書には、昼食のメニューは『ケバブ』と紹介されていました。トルコゴノケバブは、『中東とその周辺地域で供される、肉・魚・野菜などをローストして調理する料理の総称』とされます。串に刺した肉のケバブなどが提供されました。中央には、タジンで蒸しあげたようなご飯がたっぷりとありました。その周りには、10種類ほどのおかずもあり、取り分けて頂きました。(同上)
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このレストランにはワインはありませんでしたが、缶ビールが置いてありました。『スペシャル・フラッグ』の文字がありましたから、既に小瓶で飲んだことがあったモロッコ産のビールでした。イスラームの国ですから、ビールが飲めるだけで満足です。(同上)
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豪族の邸宅跡を改装したレストラン『Palais de Merinides』でので昼食を終えて、再びフェズ旧市街の見学です。ここで、史上最も偉大な旅行家の一人と考えられている『イブン・バットゥータ(1304~1369年)』についての紹介です。マリーン朝のモロッコ人です。彼の広範な旅行は、『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』の題名の旅行記に纏められました。(同上)
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バットゥータの旅行記には、30年間をかけた既知のイスラム世界、そして非イスラムの地が紹介されています。彼の旅した地には、北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれます。1325年、21歳の時にメッカ巡礼に出発し、エジプトを経てメッカ(マッカ)を巡礼し、さらにイラン、シリア、アナトリア半島、黒海、ジョチ・ウルス、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワを経て中国に達し、泉州・大都を訪問したとされます。(同上)
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1349年に故郷へ帰還したのちも、さらにアンダルシア(イベリア半島)とサハラを旅し、1354年にマリーン朝の都フェズに帰りました。特にイスラームの境域地帯(スグール)を広く遍歴しました。約30年に亘る大旅行のうち、8年間はインドのトゥグルク朝で法官として封土(5ヶ村)を与えられ、1年近くをモルディブの高官として過ごしています。インドやモルディブなど、12世紀以降にイスラーム王朝の支配が浸透した地域では、支配確立のためにイスラームの中心地帯の統治や法に関する知見を持つ人材が必要とされました。バットゥータのインドにおける奉職も、そうしたニーズに応えるものだったようです。(同上)
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マリーン朝スルターンの『アブー・イナーン・ファーリス』の命令を受けて、イブン・ジュザイイが口述筆記を行ない、1355年に旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(通称Rihla)が完成しました。この旅行記は19世紀にヨーロッパにも紹介され、各国語に翻訳されて広く読まれました。現在、モロッコのタンジェには彼の名を冠した『イブン・バットゥータ通り』や『イブン・バットゥータ国際空港』があり、イブン・バットゥータの墓と伝えられる白亜の廟も建っています。(同上)
*写真は、フェズ旧市街の建物光景です。 -
自叙伝によれば、マリーン朝の治世のモロッコ、タンジェのイスラム法学者、ウラマーの一家に生まれています。彼の家はラワータ(Lawata)として知られるアマジグ人の部族の出身であると記されています。このことから当時北アフリカで優勢だったマーリク学派の法学を修めたものと考えられます。(同上)
*写真は、フェズ旧市街の建物装飾のズームアップ光景です。 -
1325年6月、21歳のときに彼は巡礼、すなわちハッジのためにメッカを目指し故郷を発ちました。本来は往復16ヶ月の道程とされます。しかし、彼が再びモロッコの地を踏むのは24年後となりました。彼は北アフリカ海岸沿いを陸路でメッカを目指しました。ザイヤーン朝、ハフス朝を横断する途上でトレムセン、ベジャイアを通過、チュニスに到着すると、彼はそこで2ヶ月を過ごしました。(同上)
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イチオシ
そして、スファックスで最初の花嫁を娶りました。ここから始まる一連の結婚が彼の旅を特徴的なものにしました。
1326年の早春、3500キロの旅の後バットゥータはバフリー・マムルーク朝治下のアレクサンドリアの港に着きます。そこで2人の禁欲的で敬虔な人物にあっています。その1人、『シャイフ・ブルハヌッディーン』いわく『私にはあなたが世界を旅することが好きな人間におもえる』と予言されました。(同上)
*写真は、旧市街の華麗な装飾の光景です。 -
彼はまた、『あなたはインドにいる私の門弟ファリドゥッディーン、シンドにいるルコヌッディーン、そして中国にいるブルハヌッディーンを訪れるだろう。よろしく伝えておいてほしい』と依頼したと伝わります。彼はイブン・バットゥータが世界の旅人となることを予言していたようです。もう一人の敬虔な人物、シャイフ・ムルシドは、バットゥータの見た夢に対し、彼は世界の旅人になることになっている、と解釈を与えています。(同上)
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彼は数週間をこの付近の観光に費やし、内陸のカイロへ向かいました。マムルーク朝の首都であり、重要な都市です。カイロには約ひと月滞在し、彼は比較的安全なマムルークの領内で、この旅の中で幾度も行われる最初の遠回りを行いました。すなわち通常知られているメッカに向かう三つの道のうち、バットゥータは最も旅行者の少ない、ナイル河谷を遡上し、その後東へ向かい、紅海の港街アイザーブを経由するルートを選びました。しかし街に近づくと反政府勢力に追い返されてしまいました。(同上)
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バットゥータは、カイロに戻り、そしてマムルーク支配下のダマスカスへと2回目の遠回りをしました。1回目の旅で出会った聖人が、バットゥータはシリア経由でしかメッカにはたどり着けないと予言を残していたためでした。この遠回りにはヘブロン、エルサレム、ベツレヘムなど道中に聖地が点在しているという利点もありました。マムルーク朝は巡礼者のための治安確保に骨身を惜しんでいません。この権力の後押しが無ければ身包み剥がされ、殺害される旅行者で溢れていたと想像されます。(同上)
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断食月の1か月をダマスカスで過ごしたのち、彼はキャラバンに参加して1300キロ南の預言者の町マディーナに向かい、イスラム教の預言者ムハンマドの墓を訪れました。そこで4日を過ごしたあと、彼の巡礼の終着点であるメッカへ向かいました。これ以降バットゥータは、イスラーム社会においてハーッジーの尊称を帯びることが許されました。ここで帰路につくより、バットゥータは旅を続けることを選び、次の目的地を北東、モンゴル帝国のイルハン朝に定めました。(同上)
*写真は、ムーレイ・イドレス廟の入り口光景です。イスラーム教徒でなければ、入場はできません。フェズの守護聖人です。
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