2009/04/22 - 2009/04/25
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旅人のくまさんさん
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大連に2泊し、今日は日露戦争時代の激戦地203高地と、水師営の見学です。生憎の雨模様となりましたが、旅には、雨もまたよしです。
- 交通手段
- 観光バス
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大連で2泊したホテルからの眺望です。泊ったホテルは中山大酒店、悪くないホテルでした。外出にも便利な場所に立地していました。
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同じく、中山大酒店からの大連市街の眺望です。38階に回転展望レストランがありました。ツアー料金に含まれていましたから部屋代は分かりませんが、ネット情報では1泊5千円程度、格安なホテルのようです。
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38階の回転展望レストランです。朝食は、このレストランが利用できました。席も混み合ってなく、ゆっくりと食事ができました。
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同じく、38階の回転展望レストランの光景です。作り立ての料理が戴けるコーナーもありました。
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バイキング方式の朝食です。野菜類も揃っていて、朝食としては、まずまずの内容でした。
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今日の最初の見学地は、203高地です。その麓でバスからジープに乗換え、頂上に到着しました。小雨が降り続き、霧も出ていました。
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203高地攻防戦の激戦地の案内看板です。上からロシア軍トレンチ、日式280榴弾砲、ロシア軍重砲陣地と乃木保典戦死の場所です。保典は乃木希典陸軍大将の二男で、戦死当時、陸軍歩兵少尉でした。長兄勝典もこの地で戦死しました。
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203高地の頂上近くにあった、日ロ両軍の戦死者への向けの花です。僅かに咲き残った白い桜の花がありました。
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『重砲観測所』の案内看板です。中国語、ロシア語、日本語の順に記してありました。
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斜め後ろから眺めた大砲(重砲)の光景です。これは日式280榴弾砲の説明書きもありました。日式280榴弾砲は、1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28センチ榴弾砲を参考に試製し、1892年(明治25年)に制式制定、量産されたとされます。
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真後ろから眺めた日式280榴弾砲の光景です。203高地攻防戦では、日式280榴弾砲は最終的に18門が投入され、延べ16,940発が発射されたとされます。(ウィキペディア)
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日式280榴弾砲の筒先方向の光景です。旅順港の方に向いているようでした。日式280榴弾砲の全長は3メートル弱、2863ミリとされます。(ウィキペディア)
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203高地の尾根の様な場所を少しだけ歩き、記念碑がある次の見学場所に向かいました。
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1988年に遼寧省に設置された石碑です。上から、『省級文物保存単位』『旅順口・日ソ戦争遺跡』と『二〇三高地』の文字でした。
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雨で煙った丘の上に建つ砲弾を模した記念碑です。日露戦争が終わった1905年に建設が始まり、1913年に完成しました。
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日本軍による建設当時、忠魂碑と呼ばれた日露戦争の記念碑です。中国の文化大革命時(1966〜1977年)に先端が壊されましたが、その後復元されました。
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『爾霊山』の文字があった記念碑の光景です。『ニ・レイ・サン』と読めます。203高地に掛けた名前は、乃木将軍の命名です。乃木将軍の同名の七言絶句も詠まれています。
爾霊山は嶮なれども 豈攀(よ)じ難からんや
男子功名 克艱(こっかん)を期す
鐵血山を覆うて 山形改まる
萬人齊(ひと)しく仰ぐ 爾霊山(にれいざん) -
慰霊碑の台座部分のアップ光景です。1904年1月28日から12月6日までの203高地攻略戦で、日本軍は約6万4千人を投入し、戦死者5、052名、負傷者11、884名、合計16、936名の犠牲者を出しました。
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雨と霧の中で爾霊山の慰霊碑を見上げるツアー同湖の皆さんたちです。慰霊碑の見学に相応しい天候でした。
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霧の中に霞んで見えた大砲の光景です。車輪らしいものが見えますから、移動式の大砲でしょう。車輪は頑丈な鉄製のようです。
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爾霊山の慰霊碑と旧陣地址の見学を終え、キロに向かう皆さんたちです。
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木の枝に吊り下げられていた説明看板です。中国語で『俄軍150毫米加農法』、ロシア語表示の次に、日本語での『ロシア式150ミリメートルカノン砲』の説明が添え書きされていました。中国語表記の『加農(カノン)』は、長く日本陸軍で使われていました。
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203高地の麓での光景です。石壁に『二〇三景区』の表示がありました。かつての激戦地は、観光地として蘇りましたが、水師営と共に一般開放されたのは、1990年のことです。
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203高地の見学を終えて、次は水師営会見所にやって来ました。その入口光景です。『水師』とは清朝時代に、各地の海岸などに設立されていた水軍を意味し、『営』は軍の駐屯地を指しました。水師営付近の民家は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていましたが、この家屋だけは被害が少なくて済みました。その理由は、日本軍の野戦病院として使われ、赤十字旗を掲げていたからとされます。
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同じく、水師営会見所の入口付近の建物光景です。水師営会見所は農家の建物でした。この場所で、日本代表の第三軍司令官・乃木希典大将、ロシア代表の旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセル中将との間で、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されました。
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ステッセル将軍は愛馬に乗ってこの会見所に来ました。その時に愛馬を繋ぎ留めた樹がこのナツメ(棗)とされます。ただし、この樹は代替わりをしていると現地でお聞きしました。佐々木信綱作詞の『水師営の会見』の第2番の歌詞です。
2 庭に一本(ひともと)なつめの木
弾丸あともいちじるく
くずれ残れる民屋(みんおく)に
いまぞ相見る二将軍 -
『水師営会見所』の文字が刻まれた石碑です。右側の石碑には、大正5年(1916年)10月、満州戦蹟保存会名での水市営での会見の顛末が記されていました。会見から11年ほどあとの記録です。
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左側が『八一水庫』の文字と戦車のイラスト、右側が同じく『八一水庫』の文字とトラックのイラストが刻まれた石碑です。石碑の意味は読み解けていません。
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『包帯所の跡』のタイトルの石碑です。昭和4年(1929年)11月、『満州戦蹟保存会』名です。この場所が明治37年(1904年)7月から明治38年(1905年)1月まで、数次に亘って第1師団衛生隊の包帯所であったことと、会見所がその時の手術室であったことが記されていました。
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水師営会見所の屋根の上にあった煙突の光景です。水師営会見所は、旅順軍攻から北に5キロほどに位置します。乃木将軍の漢詩では、覚えやすい漢詩ですから、『法庫門(ほうこもん)営中の作』を今も諳んじています。明治28年の作です。
東西南北幾山河
春夏秋冬月又花
征戦歳余人馬老
壮心猶是家思
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