2008/10/14 - 2008/10/21
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旅人のくまさんさん
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ボスフォラス海峡のクルージングの続きです。往きは欧州側を主体に、戻りはアジア側を主体に見学しました。海峡の西側に位置する欧州側は、北側の新市街と、南側の旧市街、そして、東側のアジアサイドの見学です(トルコおすすめ観光案内:ターキッシュ・カルチャークラブ)。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
- 同行者
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- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
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- 観光バス 船
- 旅行の手配内容
- その他
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ボスフォラス海峡クルージングでの、イスタンブールの新市街の見学です。一番の見どころは、『ドルマバフチェ宮殿』でした。全長600mの巨大な宮殿の全貌は、ボスポラス海峡クルーズの船上からしか見ることができません。この宮殿は、来賓が船で宮殿を訪れることを前提に建設され、ポスポラス海峡側が正面として建てられ、庭園や桟橋がボスポラス海峡側に作られています。海側からの出入りです。(同上)
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イチオシ
ボスポラス海峡に面するトプハーネ地区に1826年に完成した、『ヌスレティイェ・モスク』の光景です。当時、国の西洋化を試みていたオスマン帝国第30代皇帝のマフムト2世は、反西洋化改革勢力であったイエニチェリ(オスマン帝国常備軍歩兵)の廃止に成功しました。この出来事を『勝利(ヌスレテェイエ)』とし、モスクにもこの出来事に因んだ名が付けられました。モスクの設計は、クリコル・バルヤンに任されました。クリコルは、イスタンブールのアジア側を代表する宮殿、ベイレルベイ・サラユなどの設計も手掛けた実力者です。その腕前はこのモスクの細部にも発揮されています。西洋の宮殿のようなバロック様式の美しいデザインのモスクです。『ドルマバフチェ宮殿』の敷地の一番端に位置しています。(同上)
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次は、『ドルマバフチェ宮殿』の紹介ですが、その宮殿が見える前に説明を始めます。ドルマバフチェ宮殿が完成した1856年に、皇帝アブドゥルメジッド1世がトプカプ宮殿から移り住みました。その後、5人の皇帝がドルマバフチェ宮殿に住み、オスマン帝国の中心地でした。しかし実際は、皇帝は近くに建設した小宮殿で暮らし、ドルマバフチェ宮殿は迎賓館として使われていたようです。(同上)
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海沿いにポールが立ち、柵になっている部分が、『ドルマバフチェ宮殿』のエリア境になるようです。後の1922年11月1日に、スルタン制度が廃止されてから、皇帝はイスラム教の指導者・カリフを名乗るようになりました。皇帝の後を引継いだカリフ・アブドゥルメジットがこの宮殿で生活するようになりました。ドルマバフチェは『埋め立てられた庭』と言う意味です。(同上)
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写真は、『ドルマバフチェ宮殿』の建物光景です。海峡のフェリーから宮殿に向かって、左端部分です。ヨーロッパから取り入れたバロック様式と、伝統のオスマン様式を折衷した豪華な宮殿です。外観や装飾は近代西洋風ですが、建物の内部は男性向けの空間と女性のみの空間(ハレム)に二分割され、ハレムには多くの侍女や宦官も勤務しました。(同上)
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写真は、ドルマバフチェ宮殿の中心施設です。周りより高く、造りも豪華です。ボスポラス海峡に向かう面は、海側に門と桟橋を備え、宮殿から公道に出ずに、船でイスタンブール市内を自由に行き来できるようになっています。宮殿の面積は45,000平方メートルで、285の部屋、46のホール、6箇所の浴場(ハマム)、68箇所のトイレがあります。(同上)
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イチオシ
ドルマバフチェ宮殿の中心施設のズームアップ光景です。現在の宮殿の状況についての説明です。オスマン帝国の皇帝がいなくなった後も、政府の迎賓館として使われています。トルコ共和国の初期にはイスタンブールにおける大統領の執務所として用いられました。1938年に初代大統領・ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、この宮殿で亡くなりました。(同上)
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アタテュルクが亡くなった、9時5分で時計が止まっています。その時計は、アタテュルクが使っていた執務室の隣の寝室にあります。初代トルコ共和国大統領『ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881年5月19日~1938年11月10日)』は、ドルマバフチェ宮殿のハレムだった居室で執務し、そこで没しました。現在も『アタテュルクの部屋』として、そのときのまま保管され、公開されています。(同上)
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『アタテュルク』の名前は、議会から贈られた称号の『父なるトルコ人』を意味します。現在もアタテュルクの命日である11月10日の9時5分になると、ドルマバフチェ宮殿にとどまらず、トルコ全土が一斉に止まります。9時5分になるとトルコ全土でサイレンが鳴らされ、国民全員が1分間の黙祷を捧げます。通勤中や仕事中、学校の授業中でも関係なく、トルコ国民全員が手を止めて黙祷を捧げます。(同上)
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『ドルマバフチェ宮殿』の前は通り過ぎましたが、もう暫く宮殿についての紹介を続けます。広大な緑地に建てられたドルマバフチェ宮殿には、建物に負けないぐらい立派な庭園があります。ヨーロッパ様式の庭園には、池と噴水、彫刻、壺や街灯が幾何学的に配置されているのが特徴です。大きく四つのエリアに分かれ、それぞれの庭園にはアジア、欧州、アメリカ等の珍しい植物が植栽されています。(同上)
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『ドルマバフチェ宮殿の庭園(その1)』:ハスバフチェ(男性の庭園):
〇宮殿の敷地内で一番大きな庭園がハスバフチェです。この庭は宮殿入口の財宝の門から本殿までの間に位置していて、大きな正方形型をしています。
〇庭園の中央部には円形の池があり、その池を囲むように歩道が作られています。中心には、白鳥の形をした噴水があります。(同上) -
『ドルマバフチェ宮殿の庭園(その2)』:クシュルク(鳥の庭園):
〇クシュルクはハスバフチェとハレムガーデンの間に位置します。
〇高い壁によって他の庭園とは隔てられ、日陰が多く落ち着いた雰囲気です。
〇庭園内のガラスパビリオンの入り口には、イスタンブールで最も古い桐の木が植えられています。(同上) -
『ドルマバフチェ宮殿の庭園(その3)』:ハレムガーデン(女性の庭園):
〇ハレムガーデンは、宮殿のL字型構造部分にあるハレムの前に広がる庭です。
〇楕円形の池を中心として、幾何学的に植物などが配置されています。
〇ヨーロッパにある宮殿の庭園と同じ様式で作られているのが特徴です。(同上) -
『ドルマバフチェ宮殿の庭園(その4)』:クラウンガーデン(皇帝の庭園):
〇宮殿内で一番小さい庭園がクラウンガーデンです。
〇クラウンガーデンはハレムガーデンと繋がっていて、立派なあずま屋(キオスク)や熱帯植物のための温室があります。(同上) -
『ドルマバフチェ宮殿の敷地内にある建造物(その1)』:財宝の門:
〇宮殿を見学する際は、財宝の門を通り男性の庭園を抜けて、本殿に至ります。
〇財宝の門はアーチ構造をしていて、両脇2本の柱の間には鉄の扉があります。
〇門の上部にある円形のレリーフには、ドルマバフチェ宮殿に初めて住んだ皇帝アブドゥルメジッド1世のモノグラムがあります。(同上) -
『ドルマバフチェ宮殿の敷地内にある建造物(その2)』:ボスポラス海峡への門:
〇宮殿の正面にアクセスする桟橋に作られた門が、ボスポラス海峡への門です。
〇この門はクルーズ船の上からも見ることができます。
〇陸地の宮殿側から見ると、海峡を行き交う船をまるで額縁に納めたかのようなパノラマ写真を撮ることができます。(同上、以上) -
イチオシ
『オルタキョイ・ジャーミー』の光景です。オルタキョイ・ジャーミー(モスク)は、イスタンブールにあるモスクで、新市街側のボスポラス海峡沿いにあります。手元のガイドブックには、1854年にオスマン帝国の第31代皇帝の『アブドゥルメジト1世(1823~1861年)』の命により建てられたと紹介されていました。父マフムート2世に続く開明的な君主で、その治世はます。タンジマート(タンズィマート)とは、『タンジマーティ・ハイリエ』の略語で、『恩恵改革』を意味します。(同上)
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同じく、場所を変えて眺めた『オルタキョイ・ジャーミー』の光景です。ネット情報のいくつかで、その内部光景を見ることが出来ましたが、実に明るい室内で、装飾も軽快で、これがモスクとは信じられないほどの内装でした。建築家の方のネット情報では、『ヨーロッパ的な雰囲気が漂う華麗な内部空間』、と評されていました。光をよく透過させるステンドグラスと、巨大なシャンデリア群、トルコ絨毯が敷き詰められた床など、見所が一杯でした。(同上)
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『第1ボスポラス大橋』の橋脚(主塔)のズームアップアップ光景です。第2大橋ができるまでは、『ボスポラス大橋』等と呼ばれていたようです。ボスポラス海峡への架橋は、1957年に当時のアドナン・メンデレス首相によって決定されました。完成は1973年10月30日、トルコ共和国建国50周年記念日の翌日のことです。主な諸元は、次の通りです。
〇全長:1,510m
〇中央支間長:1,074m
〇幅員:39m(6車線)
〇高さ:64m
〇主塔の高さ:105m (同上) -
『トルコ海峡危機問題(その1)』:歴史的経緯:
〇『トルコ海峡危機(Turkish Straits Crisis)』は、東西冷戦(米ソ冷戦:大戦後約44年間)中の、トルコとソビエト連邦の間で起きた領土問題です。
〇トルコは第二次世界大戦中のほとんどの間、公式には中立を維持していました。
〇海峡危機問題は、後のトルーマン・ドクトリンの決定要因ともなりました。(同上) -
『トルコ海峡危機問題(その2)』:歴史的経緯(続き):
〇大戦が終わると、トルコは黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡とダーダネルス海峡をソ連の船舶が自由に通れるよう、ソ連政府から圧力をかけられました。
〇トルコは、それに応じず、地域での緊張が高まりました。(同上)
*写真は、『宮殿跡』のような建物でしたが、名前を特定できませんでした。 -
『トルコ海峡危機問題(その3)』:歴史的経緯(続き):
〇海峡危機が最高潮に達すると、トルコはアメリカ合衆国に保護を、北大西洋条約機構(NATO)には機構への加盟を求めました。
〇ソ連とトルコの対立は、第二次世界大戦直前及び大戦中の両国の関係に端を発しています。(同上) -
『トルコ海峡危機問題(その4)』:歴史的経緯(続き):
〇1930年代後半までは、両国関係は友好的で幾分兄弟のようでした。
〇トルコとソ連のそれぞれの前身である、トルコ大国民議会政府と、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は、1921年のモスクワ条約において、互いに協力することを約束していました。(同上) -
『トルコ海峡危機問題(その5)』:トルコ海峡の重要性:
〇トルコ海峡(ダーダネルス・ボスポラス両海峡)の重要性は、先に紹介しましたが、黒海から世界中の港へ通じる交易路として、トルコとその近隣の黒海諸国すなわちソ連・ルーマニア・ブルガリアにとって非常に重要であり、これら3か国は全て軍事的に連携していました。
〇トルコ海峡は、軍事戦略の重要な要素でもあり、海峡の交通を支配していた者は誰でも、海峡を黒海に行き来する海軍力の出入口として利用することができました。(同上) -
『トルコ海峡危機問題(その6)』:背景:政治面:
〇1936年にスイスのモントルーで結ばれたモントルー条約では、オーストラリア・ブルガリア王国・フランス・ドイツ・ギリシャ・日本・ソ連・トルコ・イギリス・ユーゴスラビア王国の各国が参加し、トルコ海峡を軍事的・規制的両方の手段にて処理することが決定されました。(同上、続く) -
『トルコ海峡危機問題(その7)』:背景:政治面(続き):
〇その条約は、海峡に関するいくつかの交渉のなかで最新のものであり、それまでの条約や会議は19世紀から20世紀にかけて実現しました。
〇この問題は、ファシスト党のイタリア王国の台頭とその拡大政策、そしてブルガリアがこの海峡の再軍備に乗り出す懸念により再燃していました。(同上、続く) -
『トルコ海峡危機問題(その8)』:背景:政治面(続き):
〇1936年7月20日に調印された条約により、トルコは海峡の再軍備と規制を認められ、その条約は黒海沿岸のどの国にも属さない船舶による海峡の横断も明確に禁止しました。
〇1930年代後半から1940年代にかけて、ヨシフ・スターリンはモントルー条約で達した合意に対し再三に亘り異議を唱え、1939年には代替案を求めました。
〇彼はトルコとソ連による海峡の共同管理を提案しました。
〇ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相はナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結した際、海峡を強制的に管理してその付近に軍事基地を設置したいという意向をドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相に伝えました。 -
『トルコ海峡危機問題(その8)』:緊張激化:
〇第二次世界大戦中にナチス・ドイツやファシスト・イタリアなどの海峡通過をトルコが認めたことを廻り、ソ連とトルコの間では緊張が高まりました。
〇1946年、ソ連はトルコに対し、黒海沿岸諸国の安全保障上の利益を代表していないと述べた書簡を提出しました。(同上) -
『トルコ海峡危機問題(その9)』:NATOのトルコ支援と、緊張緩和:
〇1946年の夏から秋にかけてソ連は黒海での海軍力を増強し、トルコ沿岸でソ連艦による演習を実施し、かなりの数の地上部隊がバルカン半島に派遣されました。
〇ソ連からの高まる圧力に屈し、トルコはアメリカへ支援を求めました。
〇アメリカは海軍をトルコに派遣し、ソ連は軍事力の大半を撤収しました。(同上) -
『トルコ海峡危機問題(その10)』:現在のトルコとロシア連邦の関係:
〇ヨシフ・スターリンの死後、ソ連政府内では体制変革の機運が低下し、1953年5月にモロトフはボスポラス海峡とダーダネルス海峡をめぐるソ連の主張、ならびにトルコ・アルメニア・グルジア国境でのその他の領土問題の関与を否認しました。
〇現在トルコとロシア連邦では改訂・モントルー条約が結ばれています。(同上)
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