イスタンブール旅行記(ブログ) 一覧に戻る
次はイズニックタイルの内装が素晴らしいリュステムパシャ・モスクの紹介です。スレイマン1世の娘婿だった大宰相のリュステム・パシャの死後に建てられたモスクです。その後、ローマ時代の競馬場跡、ヒポドゥロームを見学しました。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

2008秋、トルコ旅行記2(33/47):10月19日(6):イスタンブール、リュステムパシャ・モスク、ヒポドゥローム

2いいね!

2008/10/14 - 2008/10/21

3976位(同エリア4785件中)

旅行記グループ 2008秋、トルコ旅行記2(下巻)

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

次はイズニックタイルの内装が素晴らしいリュステムパシャ・モスクの紹介です。スレイマン1世の娘婿だった大宰相のリュステム・パシャの死後に建てられたモスクです。その後、ローマ時代の競馬場跡、ヒポドゥロームを見学しました。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

同行者
一人旅
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
その他
  • 『リュステム・パシャ・モスク(Rüstem Pasha Mosque、トルコ語: Rüstempaşa Camii)』の紹介です。トルコ、イスタンブールのエミノニュ(Eminönü)地区にあるモスクです。オスマン帝国時代のオスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520~1566年)の『スレイマン1世(1499~1566年)』の時代に建造されました。スレイマン1世は、46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導きました。(同上)

    『リュステム・パシャ・モスク(Rüstem Pasha Mosque、トルコ語: Rüstempaşa Camii)』の紹介です。トルコ、イスタンブールのエミノニュ(Eminönü)地区にあるモスクです。オスマン帝国時代のオスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520~1566年)の『スレイマン1世(1499~1566年)』の時代に建造されました。スレイマン1世は、46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導きました。(同上)

  • スレイマン1世は、英語圏では『壮麗帝(the Magnificent)』のあだ名で呼ばれ、日本では、しばしば『スレイマン大帝』と称されています。トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから『立法帝(カーヌーニー):トルコ語: Kanuni)』のあだ名で知られています。(同上)

    スレイマン1世は、英語圏では『壮麗帝(the Magnificent)』のあだ名で呼ばれ、日本では、しばしば『スレイマン大帝』と称されています。トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから『立法帝(カーヌーニー):トルコ語: Kanuni)』のあだ名で知られています。(同上)

  • 名前の『スレイマン(Süleyman)』は、ユダヤ教やキリスト教と共にイスラム教でも聖典とされる旧約聖書に記録された古代イスラエルの王の『ソロモン王』のアラビア語形である『スライマーン(Sulaymān)』のトルコ語発音です。(同上)<br />*写真は、色彩を抑えたステンドグラスの光景です。

    イチオシ

    名前の『スレイマン(Süleyman)』は、ユダヤ教やキリスト教と共にイスラム教でも聖典とされる旧約聖書に記録された古代イスラエルの王の『ソロモン王』のアラビア語形である『スライマーン(Sulaymān)』のトルコ語発音です。(同上)
    *写真は、色彩を抑えたステンドグラスの光景です。

  • オスマン帝国の歴史において『スレイマン』の名を持つ最初の皇帝であることから『スレイマン1世』と呼ばれますが、まれにバヤズィト1世がアンカラの戦いでティムールに敗れた直後にエディルネで君臨した、バヤズィト1世の長男スレイマン・チェレビーを1世に数えることがありますので、その場合は『スレイマン2世』と呼ばれることもあるようです。(同上)<br />*写真は、色彩を抑えたステンドグラスのズームアップ光景です。

    オスマン帝国の歴史において『スレイマン』の名を持つ最初の皇帝であることから『スレイマン1世』と呼ばれますが、まれにバヤズィト1世がアンカラの戦いでティムールに敗れた直後にエディルネで君臨した、バヤズィト1世の長男スレイマン・チェレビーを1世に数えることがありますので、その場合は『スレイマン2世』と呼ばれることもあるようです。(同上)
    *写真は、色彩を抑えたステンドグラスのズームアップ光景です。

  • リュステム・パシャ・モスクは、大宰相『リュステム・パシャ(Rüstem Pasha):スレイマン1世の娘ミフリマー(Mihrimah)の婿)』のために、オスマン帝国の建築家ミマール・スィナン(Mimar Sinan)が設計したものです。1561年7月のリュステム・パシャの死後、モスクは1561年から1563年頃にかけ建築されました。(同上)<br />*写真は、モスク内の装飾文様のピックアップ光景です。

    リュステム・パシャ・モスクは、大宰相『リュステム・パシャ(Rüstem Pasha):スレイマン1世の娘ミフリマー(Mihrimah)の婿)』のために、オスマン帝国の建築家ミマール・スィナン(Mimar Sinan)が設計したものです。1561年7月のリュステム・パシャの死後、モスクは1561年から1563年頃にかけ建築されました。(同上)
    *写真は、モスク内の装飾文様のピックアップ光景です。

  • このモスクは、商店街の2階に建てられていて、商店街に入居している店舗の賃料は、モスクの維持に役立てられているようです。Hasırcılar通りに面したアーチをくぐり、細く、曲がりくねった階段を上ると、モスク横の広い中庭へと続いています。二つあるモスクの入口には、五つのドーム状の庇があります。(同上)<br />*写真の装飾は、イズニット・タイルが使用されているようです。

    イチオシ

    このモスクは、商店街の2階に建てられていて、商店街に入居している店舗の賃料は、モスクの維持に役立てられているようです。Hasırcılar通りに面したアーチをくぐり、細く、曲がりくねった階段を上ると、モスク横の広い中庭へと続いています。二つあるモスクの入口には、五つのドーム状の庇があります。(同上)
    *写真の装飾は、イズニット・タイルが使用されているようです。

  • リュステム・パシャ・モスクは膨大な量の優美なイズニックタイルで知られています。多種に渡る美しい花柄や幾何学模様によって、ポーチの前面だけでなく、ミフラーブ、ミンバル、壁、円柱、ポーチの外側にいたるまで覆われています。これらのタイルには、イズニック陶器の特徴となるトマトレッドの初期の使い方を見ることができるようです。(同上)

    リュステム・パシャ・モスクは膨大な量の優美なイズニックタイルで知られています。多種に渡る美しい花柄や幾何学模様によって、ポーチの前面だけでなく、ミフラーブ、ミンバル、壁、円柱、ポーチの外側にいたるまで覆われています。これらのタイルには、イズニック陶器の特徴となるトマトレッドの初期の使い方を見ることができるようです。(同上)

  • 特にポルチコからメインエントランスにかけての大きなパネルには、初期のダマスカス陶器の配色の特徴である、セージグリーンやダークマンガンパープルで装飾されています。このようなタイルを惜し気なく使い作られたモスクは、イスタンブールにおいて他にはありません。(同上)

    特にポルチコからメインエントランスにかけての大きなパネルには、初期のダマスカス陶器の配色の特徴である、セージグリーンやダークマンガンパープルで装飾されています。このようなタイルを惜し気なく使い作られたモスクは、イスタンブールにおいて他にはありません。(同上)

  • 大宰相の『リュステム・パシャ(1500頃~1561年)』についての紹介です。オスマン帝国のクロアチア人政治家で、スレイマン1世の大宰相を務めました。リュステム・パシャはダマト・リュステム・パシャと呼ばれることもあります。『ダマト」という形容辞は『義理の息子』を意味します。彼がスレイマンの娘ミフリマーフと結婚し、オスマン家の婿となっていたことによります。(同上)

    大宰相の『リュステム・パシャ(1500頃~1561年)』についての紹介です。オスマン帝国のクロアチア人政治家で、スレイマン1世の大宰相を務めました。リュステム・パシャはダマト・リュステム・パシャと呼ばれることもあります。『ダマト」という形容辞は『義理の息子』を意味します。彼がスレイマンの娘ミフリマーフと結婚し、オスマン家の婿となっていたことによります。(同上)

  • 大宰相のリュステム・パシャについての紹介が続きます。彼は、現クロアチアのスクラディンの、クロアチア人家系に生まれました。子ども時代にイスタンブールに連れてこられて、軍人・官僚としての経歴を残しています。1539年11月26日、スレイマン1世とロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)皇后との間の一人娘のミフリマーフ・スルタンと結婚しました。写真は、床一面に敷かれたトルコ絨毯です。(同上)

    大宰相のリュステム・パシャについての紹介が続きます。彼は、現クロアチアのスクラディンの、クロアチア人家系に生まれました。子ども時代にイスタンブールに連れてこられて、軍人・官僚としての経歴を残しています。1539年11月26日、スレイマン1世とロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)皇后との間の一人娘のミフリマーフ・スルタンと結婚しました。写真は、床一面に敷かれたトルコ絨毯です。(同上)

  • リュステム・パシャは、大宰相の地位に二度就きました。一度目は1544年から1553年で、二度目は1555年から1561年の死までの期間です。大宰相としての任期期間に、彼は莫大な資産を得ました。そして公共の建物、モスク、慈善財団にかなりの財を費やしています。1561年7月10日にコンスタンティノープルで水頭症が原因で死去しました。(同上)

    リュステム・パシャは、大宰相の地位に二度就きました。一度目は1544年から1553年で、二度目は1555年から1561年の死までの期間です。大宰相としての任期期間に、彼は莫大な資産を得ました。そして公共の建物、モスク、慈善財団にかなりの財を費やしています。1561年7月10日にコンスタンティノープルで水頭症が原因で死去しました。(同上)

  • 彼が亡くなった時、個人資産には、ルメリアとアナトリアに815の土地、476の工場、1,700人の奴隷、2,900頭の軍馬、1,106頭のラクダ、800のクルアーンなどが含まれていたとされます。このモスクは、オスマン時代の建築家ミマール・スィナンが大宰相リュステム・パシャのために設計、1561年から1563年にかけて建設されたものです。(同上)

    彼が亡くなった時、個人資産には、ルメリアとアナトリアに815の土地、476の工場、1,700人の奴隷、2,900頭の軍馬、1,106頭のラクダ、800のクルアーンなどが含まれていたとされます。このモスクは、オスマン時代の建築家ミマール・スィナンが大宰相リュステム・パシャのために設計、1561年から1563年にかけて建設されたものです。(同上)

  • 話題は代わって、スレイマン1世治下のオスマン帝国の状況についての紹介です。スレイマン1世の治世でオスマン帝国は更に拡張しましたが、それは限界を迎えていました。度重なる遠征で財政は枯渇しかかっていて、新たな領土も維持費が莫大にかかるからです。ハンガリー・エジプト・イエメン・地中海沿岸はあまりにも中央から遠いため間接統治となり、総督が現地の募兵と守備兵で軍事力を担うことになりました。また、海賊を取り込む方法で地中海を確保しましたが、陸軍を主眼に置いていたため補助戦力としかなりえず、ポルトガルとの争いで遅れを取っていました。(同上)

    話題は代わって、スレイマン1世治下のオスマン帝国の状況についての紹介です。スレイマン1世の治世でオスマン帝国は更に拡張しましたが、それは限界を迎えていました。度重なる遠征で財政は枯渇しかかっていて、新たな領土も維持費が莫大にかかるからです。ハンガリー・エジプト・イエメン・地中海沿岸はあまりにも中央から遠いため間接統治となり、総督が現地の募兵と守備兵で軍事力を担うことになりました。また、海賊を取り込む方法で地中海を確保しましたが、陸軍を主眼に置いていたため補助戦力としかなりえず、ポルトガルとの争いで遅れを取っていました。(同上)

  • 一方、内政で法と官僚機構の整備が整えられ、地方の法を編集して地方法令集を生み出し、合わせて中央官僚の統制と帝国支配の要として統治法令集も編纂されました。法を宗教の観点から見た場合違反かどうかの判定も行われ、その担当であるウラマーの教育課程及び上下関係も定めると共に、ウラマーの最高権威としてシェイヒュルイスラーム(イスラームの長老)という職種がスルタンの側近として重んじられるようになりました。スレイマン1世の治世でエブッスード・エフェンディという人物がこの職業を務め、法の編纂とイスラム法による正当性を保障、文官として重要な役割を果たしました。(同上)

    一方、内政で法と官僚機構の整備が整えられ、地方の法を編集して地方法令集を生み出し、合わせて中央官僚の統制と帝国支配の要として統治法令集も編纂されました。法を宗教の観点から見た場合違反かどうかの判定も行われ、その担当であるウラマーの教育課程及び上下関係も定めると共に、ウラマーの最高権威としてシェイヒュルイスラーム(イスラームの長老)という職種がスルタンの側近として重んじられるようになりました。スレイマン1世の治世でエブッスード・エフェンディという人物がこの職業を務め、法の編纂とイスラム法による正当性を保障、文官として重要な役割を果たしました。(同上)

  • スレイマン1世は哲学などの学問や芸術を好み、詩作を行う詩人でもありました。建築の分野ではミマール・スィナンを登用し、帝国全土のモスク、墓廟、橋梁、上水道など、建築物の建設・修復の任務を与えました。スィナンがスレイマン治世下で建設した代表的な建物はシェフザーデ・ジャーミイやスレイマニエ・ジャーミイ等があります。1566年9月7日にハンガリー遠征の陣中で死去しました。(同上、以上)

    スレイマン1世は哲学などの学問や芸術を好み、詩作を行う詩人でもありました。建築の分野ではミマール・スィナンを登用し、帝国全土のモスク、墓廟、橋梁、上水道など、建築物の建設・修復の任務を与えました。スィナンがスレイマン治世下で建設した代表的な建物はシェフザーデ・ジャーミイやスレイマニエ・ジャーミイ等があります。1566年9月7日にハンガリー遠征の陣中で死去しました。(同上、以上)

  • 『イズニックとイズニック・タイル(その1)』:鮮やかなブルーのイズニックタイルで世界的に名を馳せた町が、イズニックです。イスタンブールのブルーモスクやリュステム・パシャ・モスクをはじめ、世界遺産として残る数多くのモスクや、トプカプ宮殿に使われている、有名なタイルの生産地です。イズニックは古代、ニカイアとよばれた街です。(同上)

    『イズニックとイズニック・タイル(その1)』:鮮やかなブルーのイズニックタイルで世界的に名を馳せた町が、イズニックです。イスタンブールのブルーモスクやリュステム・パシャ・モスクをはじめ、世界遺産として残る数多くのモスクや、トプカプ宮殿に使われている、有名なタイルの生産地です。イズニックは古代、ニカイアとよばれた街です。(同上)

  • 『イズニックとイズニック・タイル(その2)』:イズニックの街には、キリスト教の権力者が集まり、教義などを審議する公会議が行われる重要な都市でした。陶器の町の称号は、キュタフヤの町に譲ってしまいましたが、イズニックは古の首都であり、キリスト教公会議が開催され、聖書にも名を残す歴史ある町です。イスタンブールからほど近い場所にあるイズニックです。(同上)

    『イズニックとイズニック・タイル(その2)』:イズニックの街には、キリスト教の権力者が集まり、教義などを審議する公会議が行われる重要な都市でした。陶器の町の称号は、キュタフヤの町に譲ってしまいましたが、イズニックは古の首都であり、キリスト教公会議が開催され、聖書にも名を残す歴史ある町です。イスタンブールからほど近い場所にあるイズニックです。(同上)

  • 『イズニックとイズニック・タイル(その3)』:世界最古の手工芸品の一つとして世界中の人々から愛されるトルコ伝承のタイル装飾『イズニックタイル』は、宮殿やモスクを彩り、絵皿や器は宮殿で愛用されてきました。現在もインテリアや食器として幅広く使われています。イズニックタイルはオスマン帝国の建築に不可欠で、白地に鮮やかな青を中心とした色で描かれる草花や果物の絵は大人気です。(同上)

    『イズニックとイズニック・タイル(その3)』:世界最古の手工芸品の一つとして世界中の人々から愛されるトルコ伝承のタイル装飾『イズニックタイル』は、宮殿やモスクを彩り、絵皿や器は宮殿で愛用されてきました。現在もインテリアや食器として幅広く使われています。イズニックタイルはオスマン帝国の建築に不可欠で、白地に鮮やかな青を中心とした色で描かれる草花や果物の絵は大人気です。(同上)

  • モニュメントが展示されている『コンスタンティノープル競馬場』についての紹介です。東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあったキルクス(競馬や戦車競走を行う施設)です。現在はスルタンアフメト・メイダヌ(スルタンアフメト広場、またはアト・メイダヌ(馬の広場)と呼ばれる広場になっています。単にヒッポドロームとも呼びます。本来の構造で現存している部分はごくわずかです。『ヒッポドローム (hippodrome)』は古代の競馬場を意味します。(同上)

    モニュメントが展示されている『コンスタンティノープル競馬場』についての紹介です。東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあったキルクス(競馬や戦車競走を行う施設)です。現在はスルタンアフメト・メイダヌ(スルタンアフメト広場、またはアト・メイダヌ(馬の広場)と呼ばれる広場になっています。単にヒッポドロームとも呼びます。本来の構造で現存している部分はごくわずかです。『ヒッポドローム (hippodrome)』は古代の競馬場を意味します。(同上)

  • コンスタンティノープル競馬場(Hippodrome of Constantinople)にある、『蛇のオベリスク』です。新たな首都のイメージを高めるため、コンスタンティヌス1世とその後継者(特にテオドシウス1世)は帝国全土から芸術作品を集め、コンスタンティノープルを飾りました。競馬場では特にスピナ(spina:背骨)と呼ばれるトラックの中央の障壁に設置されました。その中でも現在「蛇の柱」と呼ばれている記念碑はプラタイアの三脚台と呼ばれる祭壇で、元々は紀元前5世紀にペルシャ戦争の一部であるプラタイアの戦いの戦勝を記念して作られたものです。(同上)

    イチオシ

    コンスタンティノープル競馬場(Hippodrome of Constantinople)にある、『蛇のオベリスク』です。新たな首都のイメージを高めるため、コンスタンティヌス1世とその後継者(特にテオドシウス1世)は帝国全土から芸術作品を集め、コンスタンティノープルを飾りました。競馬場では特にスピナ(spina:背骨)と呼ばれるトラックの中央の障壁に設置されました。その中でも現在「蛇の柱」と呼ばれている記念碑はプラタイアの三脚台と呼ばれる祭壇で、元々は紀元前5世紀にペルシャ戦争の一部であるプラタイアの戦いの戦勝を記念して作られたものです。(同上)

  • 『蛇のオベリスク』のズームアップ光景です。コンスタンティヌス1世は、デルポイのアポローン神殿からこれを持ってくるよう命じ、競馬場の中央に設置させました。この柱の頂上部には3匹の蛇の頭に支えられた金のボウルがありました。このボウルは第4回十字軍の最中に破壊または略奪されました。オスマン帝国時代の細密画には蛇の頭部が描かれていて、少なくとも17世紀末ごろまで蛇の頭部がありました。この蛇の頭の一部は復元され、イスタンブール考古学博物館に展示されています。デルポイの三脚台で現存しているのは土台部分のみで、『蛇の柱』や『蛇のオベリスク』と呼ばれています。(同上)

    『蛇のオベリスク』のズームアップ光景です。コンスタンティヌス1世は、デルポイのアポローン神殿からこれを持ってくるよう命じ、競馬場の中央に設置させました。この柱の頂上部には3匹の蛇の頭に支えられた金のボウルがありました。このボウルは第4回十字軍の最中に破壊または略奪されました。オスマン帝国時代の細密画には蛇の頭部が描かれていて、少なくとも17世紀末ごろまで蛇の頭部がありました。この蛇の頭の一部は復元され、イスタンブール考古学博物館に展示されています。デルポイの三脚台で現存しているのは土台部分のみで、『蛇の柱』や『蛇のオベリスク』と呼ばれています。(同上)

  • 同じく、コンスタンティノープル競馬場に展示されている『テオドシウスのオベリスク』です。390年、テオドシウス1世はエジプトからオベリスクを取り寄せ、競馬場のトラックの内側にそれを建てさせました。赤みがかった花崗岩を彫ったもので、元々は紀元前1490年、トトメス3世の時代にルクソールのカルナック神殿に建てられたものです。テオドシウス1世は、このオベリスクを三つに分割してコンスタンティノープルまで運ばせました。その先端部分の光景です。(同上)

    同じく、コンスタンティノープル競馬場に展示されている『テオドシウスのオベリスク』です。390年、テオドシウス1世はエジプトからオベリスクを取り寄せ、競馬場のトラックの内側にそれを建てさせました。赤みがかった花崗岩を彫ったもので、元々は紀元前1490年、トトメス3世の時代にルクソールのカルナック神殿に建てられたものです。テオドシウス1世は、このオベリスクを三つに分割してコンスタンティノープルまで運ばせました。その先端部分の光景です。(同上)

  • 同じく、『テオドシウスのオベリスク』の中間から下部の部分の光景です。エジプト文字らしいものが刻まれていました。元々はエジプトのトトメス3世のオベリスクだったものです。トトメス3世(英:Thutmose III)は、古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(在位:紀元前1479年4月~紀元前1425年3月)で、およそ54年のトトメス3世の統治の中での最初の22年間は、継母であり叔母であるハトシェプストとの共同統治でした。(同上)

    同じく、『テオドシウスのオベリスク』の中間から下部の部分の光景です。エジプト文字らしいものが刻まれていました。元々はエジプトのトトメス3世のオベリスクだったものです。トトメス3世(英:Thutmose III)は、古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(在位:紀元前1479年4月~紀元前1425年3月)で、およそ54年のトトメス3世の統治の中での最初の22年間は、継母であり叔母であるハトシェプストとの共同統治でした。(同上)

  • 記念碑は灰色、高さは18.74メートルで、四方に象形文字があります。その基壇部分です。石碑が建てられている高さ約3メートルの基壇の光景です。基壇は白い大理石で、浮き彫りに囲まれています。帝室の庭でのテオドシウス1世とその家族の活動を描いています。南では彼と彼の家族は競馬を見ています。東では彼は箱の中に座っています。(同上)

    記念碑は灰色、高さは18.74メートルで、四方に象形文字があります。その基壇部分です。石碑が建てられている高さ約3メートルの基壇の光景です。基壇は白い大理石で、浮き彫りに囲まれています。帝室の庭でのテオドシウス1世とその家族の活動を描いています。南では彼と彼の家族は競馬を見ています。東では彼は箱の中に座っています。(同上)

  • 同じく、基壇部分のレリーフ光景です。レースの勝者に与える準備ができると、彼は月桂樹の冠を被って、北での式を主宰し、西では敵から賛辞を受けました。台座もギリシャ語とラテン語で刻まれていて、彼が記念碑を建てた理由を説明しています。ラテン語では記念碑を建てるのに30日しかかからなかったとされますが、ギリシャ語では32日と記されているようです。(同上)

    同じく、基壇部分のレリーフ光景です。レースの勝者に与える準備ができると、彼は月桂樹の冠を被って、北での式を主宰し、西では敵から賛辞を受けました。台座もギリシャ語とラテン語で刻まれていて、彼が記念碑を建てた理由を説明しています。ラテン語では記念碑を建てるのに30日しかかからなかったとされますが、ギリシャ語では32日と記されているようです。(同上)

  • 同じく、コンスタンティノープル競馬場に展示されている『コンスタンティノス7世のオベリスク』です。10世紀の皇帝コンスタンティノス7世は、もう一つのオベリスクを競馬場の反対側の端に建てさせました。元々は金メッキされた青銅製の板で覆われていましたが、第4回十字軍に略奪されました。石積みの中核部分が現存していて 『Walled Obelisk』 と呼ばれています。(同上)

    同じく、コンスタンティノープル競馬場に展示されている『コンスタンティノス7世のオベリスク』です。10世紀の皇帝コンスタンティノス7世は、もう一つのオベリスクを競馬場の反対側の端に建てさせました。元々は金メッキされた青銅製の板で覆われていましたが、第4回十字軍に略奪されました。石積みの中核部分が現存していて 『Walled Obelisk』 と呼ばれています。(同上)

  • コンスタンティノープル競馬場についての補足説明です。現在の正式名称は『スルタンアフメト・メイダヌ(広場)』です。トルコ当局が管理しています。かつての競技トラックは、舗装で示されていますが、実際のトラックは、その地下2メートル ほどのところにあります。写真紹介はできませんでしたが、八角形ドームが懸かったネオ・ビザンティン様式のドイツの泉は、ドイツ政府が1900年に建設したものです。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が1898年にイスタンブールを訪問したことを記念したものです。広場の北の入口付近、ブルー・モスク正面右にあります。(同上)

    コンスタンティノープル競馬場についての補足説明です。現在の正式名称は『スルタンアフメト・メイダヌ(広場)』です。トルコ当局が管理しています。かつての競技トラックは、舗装で示されていますが、実際のトラックは、その地下2メートル ほどのところにあります。写真紹介はできませんでしたが、八角形ドームが懸かったネオ・ビザンティン様式のドイツの泉は、ドイツ政府が1900年に建設したものです。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が1898年にイスタンブールを訪問したことを記念したものです。広場の北の入口付近、ブルー・モスク正面右にあります。(同上)

  • コンスタンティノープル競馬場についての補足説明が続きます。1950年と1951年、考古学者 Rüstem Duyuran(後のイスタンブール考古学博物館館長)の指揮で発掘調査が行われました。1980年代にはスフェンドン(曲線を描いた端の部分)の周囲の住宅が撤去され、その構造が見やすくなりました。1993年、スルタンアフメト・モスク付近に新たに公共の建物を建設するため重機で掘り返したところ、かつての競馬場の観客席や柱の遺構が見つかりました。調査はそれ以上行われませんでしたが、出土した座席と柱は、イスタンブール市内のいくつかの博物館に収められました。(同上)<br />(追記):競馬場(の現在の風景)は、1953年から1976年まで発行されていた500トルコリラ紙幣の裏面に描かれていました。

    コンスタンティノープル競馬場についての補足説明が続きます。1950年と1951年、考古学者 Rüstem Duyuran(後のイスタンブール考古学博物館館長)の指揮で発掘調査が行われました。1980年代にはスフェンドン(曲線を描いた端の部分)の周囲の住宅が撤去され、その構造が見やすくなりました。1993年、スルタンアフメト・モスク付近に新たに公共の建物を建設するため重機で掘り返したところ、かつての競馬場の観客席や柱の遺構が見つかりました。調査はそれ以上行われませんでしたが、出土した座席と柱は、イスタンブール市内のいくつかの博物館に収められました。(同上)
    (追記):競馬場(の現在の風景)は、1953年から1976年まで発行されていた500トルコリラ紙幣の裏面に描かれていました。

  • 『スルタンアフメト・メイダヌ(広場)』から眺めた、4本のミナレットが建つ、アヤソフィアの遠景です。現在の撮影位置は、ブルーモスクを背にして、アヤソフィアとの中間地点の広場になるようです。この場所から東北がアヤソフィアで、西南がブルーモスクになるようです。今見えているアヤソフィアは、西南面の光景になるようです。(同上)

    『スルタンアフメト・メイダヌ(広場)』から眺めた、4本のミナレットが建つ、アヤソフィアの遠景です。現在の撮影位置は、ブルーモスクを背にして、アヤソフィアとの中間地点の広場になるようです。この場所から東北がアヤソフィアで、西南がブルーモスクになるようです。今見えているアヤソフィアは、西南面の光景になるようです。(同上)

  • 本日の予定の見学場所は、すべて完了しましたが、明日の予定だったブルー・モスクのすぐ近くまでやって来ていましたから、そちらも見学することになりました。見学時間は十分にありそうです。(同上)<br />*写真は、金文字のアラビア文字が記された建物壁面の光景です。その背後にドーム屋根が見えました。建物名は特定できませんでした。

    本日の予定の見学場所は、すべて完了しましたが、明日の予定だったブルー・モスクのすぐ近くまでやって来ていましたから、そちらも見学することになりました。見学時間は十分にありそうです。(同上)
    *写真は、金文字のアラビア文字が記された建物壁面の光景です。その背後にドーム屋根が見えました。建物名は特定できませんでした。

この旅行記のタグ

2いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

トルコで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
トルコ最安 429円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

トルコの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから海外旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP