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翌日観光予定だったブルーモスクは、時間の余裕が出来ましたので、今日観光することになりました。交通渋滞に巻き込まれず、今日の予定箇所がスムーズに観光できたためです。アヤソフィアと並ぶイスタンブールの観光名所です。残念ながら、6本揃ったミナレットは撮影できませんでした。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

2008秋、トルコ旅行記2(34/47):10月19日(7):イスタンブール、ブルーモスク、ミナレット、大ドーム

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2008/10/14 - 2008/10/21

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旅行記グループ 2008秋、トルコ旅行記2(下巻)

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旅人のくまさん

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翌日観光予定だったブルーモスクは、時間の余裕が出来ましたので、今日観光することになりました。交通渋滞に巻き込まれず、今日の予定箇所がスムーズに観光できたためです。アヤソフィアと並ぶイスタンブールの観光名所です。残念ながら、6本揃ったミナレットは撮影できませんでした。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

同行者
一人旅
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
観光バス
  • 世界で唯一、優美な6本のミナレットを持つ、『ブルー・モスク』の紹介です。直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニック製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しいモスクです。夏には音と光のショーも催され、幻想的にライトアップされた夜の姿も楽しむことができます。ブルー・モスクと呼ばれるモスクには、他にスルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスクがあります。(同上)

    世界で唯一、優美な6本のミナレットを持つ、『ブルー・モスク』の紹介です。直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニック製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しいモスクです。夏には音と光のショーも催され、幻想的にライトアップされた夜の姿も楽しむことができます。ブルー・モスクと呼ばれるモスクには、他にスルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスクがあります。(同上)

  • 正式名は『スルタン・アフメト・モスク(トルコ語: Sultan Ahmet Camii)』で、トルコのイスタンブールを代表するモスクで、世界遺産であるイスタンブール歴史地域の歴史的建造物群の一つです。オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造されました。設計は『メフメト・アー』、『世界で最も美しいモスク』とも評されます。(同上)

    正式名は『スルタン・アフメト・モスク(トルコ語: Sultan Ahmet Camii)』で、トルコのイスタンブールを代表するモスクで、世界遺産であるイスタンブール歴史地域の歴史的建造物群の一つです。オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造されました。設計は『メフメト・アー』、『世界で最も美しいモスク』とも評されます。(同上)

  • モスク(mosque)は英語で、トルコ語ではジャーミィ(camii)です。ブルーモスク内部の壁には、16世紀末から17世紀初めにイズニックで作られた2万枚を超える青を基調にしたタイルが敷き詰められています。また、約260の窓があり、どの窓にもステンドグラスの装飾が施されているのが特徴です。(同上)

    モスク(mosque)は英語で、トルコ語ではジャーミィ(camii)です。ブルーモスク内部の壁には、16世紀末から17世紀初めにイズニックで作られた2万枚を超える青を基調にしたタイルが敷き詰められています。また、約260の窓があり、どの窓にもステンドグラスの装飾が施されているのが特徴です。(同上)

  • 太陽光がこのステンドグラスを通じて淡い青い光となり、ドームの中を照らしてイズニックタイルの色彩の青が強調されて浮かび上がります。その素晴らしい美しさから『ブルー・モスク』の名で呼ばれるようになり、広く愛されています。日本では、『青のモスク』や『青いモスク』とも呼ばれることもあります。(同上)<br />*写真は、大ドームを取り囲む八つの小ドームの一つになるようです。

    太陽光がこのステンドグラスを通じて淡い青い光となり、ドームの中を照らしてイズニックタイルの色彩の青が強調されて浮かび上がります。その素晴らしい美しさから『ブルー・モスク』の名で呼ばれるようになり、広く愛されています。日本では、『青のモスク』や『青いモスク』とも呼ばれることもあります。(同上)
    *写真は、大ドームを取り囲む八つの小ドームの一つになるようです。

  • ブルー・モスクは、直径27.5mの大ドームを中心に、四つの副ドームと30もの小ドームから成り立っています。大理石とタイルで作られた外観は、華やかな派手さはないものの、圧倒されるほど厳格な重厚感を醸しだしています。また、このブルー・モスクの一番の特徴は、ミナレット(尖塔)が6本あることです。ミナレットは、バルコニーのある高い塔で、イスラーム教の信者に1日5回の礼拝を呼びかけるために使用されます。(同上)

    ブルー・モスクは、直径27.5mの大ドームを中心に、四つの副ドームと30もの小ドームから成り立っています。大理石とタイルで作られた外観は、華やかな派手さはないものの、圧倒されるほど厳格な重厚感を醸しだしています。また、このブルー・モスクの一番の特徴は、ミナレット(尖塔)が6本あることです。ミナレットは、バルコニーのある高い塔で、イスラーム教の信者に1日5回の礼拝を呼びかけるために使用されます。(同上)

  • 通常、ミナレットは4本までしか建てることはできないため、このモスクの建造当時に6本のミナレットを有していたのは、聖地メッカのハラム神殿(メスジディ・ハレム)だけでした。このモスク建築時に、スルタンと建築家とのやり取りの中での聞き間違えから、6本になってしまったと言われています。ミナレットの数はモスクの格式の高さを表します。そこで、恐縮したスルタンはメッカに7本目となるミナレットを寄贈したという逸話が残っています。(同上)

    通常、ミナレットは4本までしか建てることはできないため、このモスクの建造当時に6本のミナレットを有していたのは、聖地メッカのハラム神殿(メスジディ・ハレム)だけでした。このモスク建築時に、スルタンと建築家とのやり取りの中での聞き間違えから、6本になってしまったと言われています。ミナレットの数はモスクの格式の高さを表します。そこで、恐縮したスルタンはメッカに7本目となるミナレットを寄贈したという逸話が残っています。(同上)

  • ブルー・モスクのデザインは、オスマン帝国時代のモスク技術と、ビザンティン教会建築の200年に亘る伝統が融合した傑作のモスクと称されているようです。中央の大ドームは、高さ43メートル、直径は23.5メートルの規模で、大ドームの周りには八つのドームがあります。写真は、ブルー・モスクの6本あるミナレットの一つと、中央の大ドームの屋根飾りの光景です。(同上)

    ブルー・モスクのデザインは、オスマン帝国時代のモスク技術と、ビザンティン教会建築の200年に亘る伝統が融合した傑作のモスクと称されているようです。中央の大ドームは、高さ43メートル、直径は23.5メートルの規模で、大ドームの周りには八つのドームがあります。写真は、ブルー・モスクの6本あるミナレットの一つと、中央の大ドームの屋根飾りの光景です。(同上)

  • 写真は、同じくブルー・モスクのミナレットの光景です。6本あるミナレットですが、近寄り過ぎると、6本のミナレットを纏めて撮影することはできないようでした。ブルー・モスクは、オスマン帝国の栄華を伝える遺構の集合体でもあります。モスク以外にも、学校、病院、お墓などが敷地内に建てられています。以前はもっと広い敷地に多くの建物が建てられていたようです。(同上)

    写真は、同じくブルー・モスクのミナレットの光景です。6本あるミナレットですが、近寄り過ぎると、6本のミナレットを纏めて撮影することはできないようでした。ブルー・モスクは、オスマン帝国の栄華を伝える遺構の集合体でもあります。モスク以外にも、学校、病院、お墓などが敷地内に建てられています。以前はもっと広い敷地に多くの建物が建てられていたようです。(同上)

  • ブルー・モスクは、現在残る建物以外にも施設があったようですが、いくつかは現存しないようです。広大な土地に複数の施設を持つ、スルタン・アフメット・ジャーミィは、古代のオスマントルコ建築において、『最後の最高傑作』と評されるようになりました。写真は、ミナレットに設けられたバルコニーの光景です。お祈りを呼び掛けるスピーカーが見えます。(同上)

    ブルー・モスクは、現在残る建物以外にも施設があったようですが、いくつかは現存しないようです。広大な土地に複数の施設を持つ、スルタン・アフメット・ジャーミィは、古代のオスマントルコ建築において、『最後の最高傑作』と評されるようになりました。写真は、ミナレットに設けられたバルコニーの光景です。お祈りを呼び掛けるスピーカーが見えます。(同上)

  • ドームの壁面を飾るアーチ窓の光景です。内面にはステンドグラスが飾られていますので、後ほど紹介します。最初からモスクとして建てられたドームであれば、ステンドグラスを飾る窓は設けられなかったでしょう。キリスト教会からモスクに変更された建物ですから、建て替えない限りは、アーチ窓を取り去ることはできません。内部から見た装飾には、手を加えられたようです。(同上)

    ドームの壁面を飾るアーチ窓の光景です。内面にはステンドグラスが飾られていますので、後ほど紹介します。最初からモスクとして建てられたドームであれば、ステンドグラスを飾る窓は設けられなかったでしょう。キリスト教会からモスクに変更された建物ですから、建て替えない限りは、アーチ窓を取り去ることはできません。内部から見た装飾には、手を加えられたようです。(同上)

  • どこかの外壁で目にした赤い文様の紹介です。この文様のイメージは、キリスト教的なものではなく、アラベスク文様のようです。アラベスクは、アラベスク(arabesque)は、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式です。幾何学的文様を反復して作られています。幾何学的文様の選択と整形・配列の方法は、人物を描くことを禁じるスンニ派のイスラム的世界観に基づいています。(同上)

    どこかの外壁で目にした赤い文様の紹介です。この文様のイメージは、キリスト教的なものではなく、アラベスク文様のようです。アラベスクは、アラベスク(arabesque)は、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式です。幾何学的文様を反復して作られています。幾何学的文様の選択と整形・配列の方法は、人物を描くことを禁じるスンニ派のイスラム的世界観に基づいています。(同上)

  • ブルー・モスクの中心施設の大ドームの外観です。先に紹介したことと、少し重複しますが、ブルー・モスクの歴史紹介です。『ブルー・モスク(スルタンアフメト・モスク)』は、その名の通りオスマン帝国第14代皇帝の『アフメット1世(1590~1617年)』が、トルコ史上最高の建築家である『ミマール・シナン(1489~1588年)』の弟子『メフメット・アー(詳細不明)』に依頼して建てたモスクです。(同上)

    ブルー・モスクの中心施設の大ドームの外観です。先に紹介したことと、少し重複しますが、ブルー・モスクの歴史紹介です。『ブルー・モスク(スルタンアフメト・モスク)』は、その名の通りオスマン帝国第14代皇帝の『アフメット1世(1590~1617年)』が、トルコ史上最高の建築家である『ミマール・シナン(1489~1588年)』の弟子『メフメット・アー(詳細不明)』に依頼して建てたモスクです。(同上)

  • 当時、『アフメット1世(在位:1603~1617年)』は、対サファヴィー朝との戦争に敗れるなど、対外的な実績が振るいませんでした。そこで、帝国の力を証明するためにメフメット・アーにモスクの建築を命じ、1609年~1616年にかけてブルー・モスクが建てられました。『サファヴィー朝(1501~1736年)』は、『ペルシャ(現在のイランを中心)』を支配したイスラーム王朝です。オスマン帝国との間では、『オスマン・サファヴィー戦争』が繰り返されました。(同上)<br />*写真の入口上部の飾りは、立体幾何学装飾の「ムカルナス」です。

    当時、『アフメット1世(在位:1603~1617年)』は、対サファヴィー朝との戦争に敗れるなど、対外的な実績が振るいませんでした。そこで、帝国の力を証明するためにメフメット・アーにモスクの建築を命じ、1609年~1616年にかけてブルー・モスクが建てられました。『サファヴィー朝(1501~1736年)』は、『ペルシャ(現在のイランを中心)』を支配したイスラーム王朝です。オスマン帝国との間では、『オスマン・サファヴィー戦争』が繰り返されました。(同上)
    *写真の入口上部の飾りは、立体幾何学装飾の「ムカルナス」です。

  • 『オスマン建築の歴史:初期(その1)』:オスマン帝国ではじめて作られた建築は、ルーム・セルジューク朝のイスラーム建築を直接の起原としています。1333年にイズニクに建設されたハジュ・オズベク・ジャーミーは、最古のオスマン建築とされています。ドームを扇形のスクィンチで支えるシングル・ドーム形式を採用しています。これは15世紀以降に大規模に用いられるようになりますが、その起原はルーム・セルジューク朝の建築に遡るので、ビザンティン建築の影響を受けたものではありません。また、交差イーワーン・モスクと呼ばれる交差軸上にイーワーンを持ったジャーミーが確認されていますが、これもルーム・セルジューク朝のマドラサにみられる建築手法です。(同上)<br />*写真は、右下がりに取り付けられた『雨樋(あまどい)』のようです。溝の先端が壁から少し離れて開放されていました。

    『オスマン建築の歴史:初期(その1)』:オスマン帝国ではじめて作られた建築は、ルーム・セルジューク朝のイスラーム建築を直接の起原としています。1333年にイズニクに建設されたハジュ・オズベク・ジャーミーは、最古のオスマン建築とされています。ドームを扇形のスクィンチで支えるシングル・ドーム形式を採用しています。これは15世紀以降に大規模に用いられるようになりますが、その起原はルーム・セルジューク朝の建築に遡るので、ビザンティン建築の影響を受けたものではありません。また、交差イーワーン・モスクと呼ばれる交差軸上にイーワーンを持ったジャーミーが確認されていますが、これもルーム・セルジューク朝のマドラサにみられる建築手法です。(同上)
    *写真は、右下がりに取り付けられた『雨樋(あまどい)』のようです。溝の先端が壁から少し離れて開放されていました。

  • 『オスマン建築の歴史:初期(その2)』:『キュッリイェ』と呼ばれる、モスクを中心とした計画都市は、第3代スルタンのムラト1世(在位:1359~1389年)の治世の時に、はじめて建設されました。1366年からブルサ近郊のチェキルゲで起工されたキュッリイェは、ジャーミー、マドラセ、エスキ・カプルジャ、救貧施設(イマーレット)、クルアーン学校(メクテプ)によって構成されています。これらの施設は宮殿に隣接していますが、どれも丘陵地のあちこちに点在していて、系統立てて建設されてはいないようです。(同上)

    『オスマン建築の歴史:初期(その2)』:『キュッリイェ』と呼ばれる、モスクを中心とした計画都市は、第3代スルタンのムラト1世(在位:1359~1389年)の治世の時に、はじめて建設されました。1366年からブルサ近郊のチェキルゲで起工されたキュッリイェは、ジャーミー、マドラセ、エスキ・カプルジャ、救貧施設(イマーレット)、クルアーン学校(メクテプ)によって構成されています。これらの施設は宮殿に隣接していますが、どれも丘陵地のあちこちに点在していて、系統立てて建設されてはいないようです。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:初期(その3』:1391年頃にバヤズィト1世がブルサに建設したキュッリイェも、同様にばらばらの配置ですまし。しかし、バヤズィト1世のキュッリイェでは全ての施設は積石構造となり、随所に仕上げ材として大理石が用いられた。マドラサは、これ以降オスマン帝国のマドラサの典型となるもので、居住房の全面をドームの連続する回廊(リワーク)が取り巻きます。(同上)

    『オスマン建築の歴史:初期(その3』:1391年頃にバヤズィト1世がブルサに建設したキュッリイェも、同様にばらばらの配置ですまし。しかし、バヤズィト1世のキュッリイェでは全ての施設は積石構造となり、随所に仕上げ材として大理石が用いられた。マドラサは、これ以降オスマン帝国のマドラサの典型となるもので、居住房の全面をドームの連続する回廊(リワーク)が取り巻きます。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:初期(その4』:オスマン帝国初期のスルタンは、イスラーム神秘主義教団と密接な関係にあり、このため、初期オスマン建築のキュッリイェには、必ず神秘主義の修行者(ダルヴィーシュ、スーフィー)の宿泊施設が用意されていました。(同上)<br />*写真は、中央にコーランらしいイスラーム文字が記されたドームの光景です。

    『オスマン建築の歴史:初期(その4』:オスマン帝国初期のスルタンは、イスラーム神秘主義教団と密接な関係にあり、このため、初期オスマン建築のキュッリイェには、必ず神秘主義の修行者(ダルヴィーシュ、スーフィー)の宿泊施設が用意されていました。(同上)
    *写真は、中央にコーランらしいイスラーム文字が記されたドームの光景です。

  • 『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その1』:ティムール朝に対する敗戦を契機とする国内の一時的な混乱は、建築活動にも多大な影響を与えましたが、国内の分裂状態は1410年代までには終息し、メフメト1世によって再び建築活動が息を吹き返すことになりました。ブルサの『イェシル・ジャーミー』は、『緑色のモスク』を意味するその名のとおり、見事なタイル装飾を見ることができます。初期オスマン建築の傑作と言われるこのモスク建築複合体は、メフメト1世の命により1412年あるいは1413年から起工され、当時ブルサの知事であった『ハジュ・イワズ』によって設計されました。(同上)

    『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その1』:ティムール朝に対する敗戦を契機とする国内の一時的な混乱は、建築活動にも多大な影響を与えましたが、国内の分裂状態は1410年代までには終息し、メフメト1世によって再び建築活動が息を吹き返すことになりました。ブルサの『イェシル・ジャーミー』は、『緑色のモスク』を意味するその名のとおり、見事なタイル装飾を見ることができます。初期オスマン建築の傑作と言われるこのモスク建築複合体は、メフメト1世の命により1412年あるいは1413年から起工され、当時ブルサの知事であった『ハジュ・イワズ』によって設計されました。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その2』:建物は1420年頃までには建設されましたが、装飾は1424年になって完成しています。このモスクの主要な特徴は、ミフラーブのある礼拝堂室にドームが設けられ、本来中庭となるべき礼拝室の前室にもおなじくドームが架かっていることです。このような空間は、ルーム・セルジューク朝ではまったく見られません。(同上)

    イチオシ

    『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その2』:建物は1420年頃までには建設されましたが、装飾は1424年になって完成しています。このモスクの主要な特徴は、ミフラーブのある礼拝堂室にドームが設けられ、本来中庭となるべき礼拝室の前室にもおなじくドームが架かっていることです。このような空間は、ルーム・セルジューク朝ではまったく見られません。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その3』:タイル装飾は、それまでの伝統的な装飾です、が、イェシル・ジャーミーのミフラーブにみられるタイル装飾は、壮麗さの点ではルーム・セルジューク朝で作成されたものを超越しています。施工上ある程度の未熟さは認められるものの、大理石とタイルの均整がとれた調和した比類なき空間を構成しています。(同上)

    『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その3』:タイル装飾は、それまでの伝統的な装飾です、が、イェシル・ジャーミーのミフラーブにみられるタイル装飾は、壮麗さの点ではルーム・セルジューク朝で作成されたものを超越しています。施工上ある程度の未熟さは認められるものの、大理石とタイルの均整がとれた調和した比類なき空間を構成しています。(同上)

  • ここからは、ブルーモスクに入場しての見学です。外から見たアーチ窓は先に紹介しましたが、今度はステンドグラスが飾られた内側からの光景です。ステンドグラスは、イタリアにあった『ヴェネツィア共和国(697~1797年)』からプレゼントされたものとのネット情報もありました。(同上)

    ここからは、ブルーモスクに入場しての見学です。外から見たアーチ窓は先に紹介しましたが、今度はステンドグラスが飾られた内側からの光景です。ステンドグラスは、イタリアにあった『ヴェネツィア共和国(697~1797年)』からプレゼントされたものとのネット情報もありました。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その4』:オスマン建築の最盛期には、巨大な帝室モスクが建設されるようになりますが、その最初となったのは、『バヤズィト1世』がニコポリスの戦いでの勝利を記念して建設した、ブルサの『ウル・ジャーミー』です。これはルーム・セルジューク朝から続く伝統的な会衆モスクです。<br />*写真は、淡い色彩のステンドグラスのズームアップ光景です。

    『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その4』:オスマン建築の最盛期には、巨大な帝室モスクが建設されるようになりますが、その最初となったのは、『バヤズィト1世』がニコポリスの戦いでの勝利を記念して建設した、ブルサの『ウル・ジャーミー』です。これはルーム・セルジューク朝から続く伝統的な会衆モスクです。
    *写真は、淡い色彩のステンドグラスのズームアップ光景です。

  • 『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その5』:しかし、『ムラト2世』以後の会衆モスクは非常に巨大なものとなり、その内部空間はバヤズィト1世の伝統的な会衆モスクとは基本的に異質なものとなっていきました。ムラト2世が1438年に建設を命じた、エディルネの『ユチュ・シェレフェリ・ジャーミー』は、礼拝空間を巨大な単一ドームで覆った最初のモスクです。(同上)

    『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その5』:しかし、『ムラト2世』以後の会衆モスクは非常に巨大なものとなり、その内部空間はバヤズィト1世の伝統的な会衆モスクとは基本的に異質なものとなっていきました。ムラト2世が1438年に建設を命じた、エディルネの『ユチュ・シェレフェリ・ジャーミー』は、礼拝空間を巨大な単一ドームで覆った最初のモスクです。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その6』:礼拝堂は、アーチが形作る六角形の上にドームを載せた構造で、当時としては大変巨大なものでした。それまでの巨大礼拝堂は、連続したアーチ構造によって形成されていましたので、空間内にはいくつかの柱が立ち上がっていましたが、『ユチュ・シェレフリ・ジャーミー』では柱のない広大な空間への探求が見られます。(同上)

    『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その6』:礼拝堂は、アーチが形作る六角形の上にドームを載せた構造で、当時としては大変巨大なものでした。それまでの巨大礼拝堂は、連続したアーチ構造によって形成されていましたので、空間内にはいくつかの柱が立ち上がっていましたが、『ユチュ・シェレフリ・ジャーミー』では柱のない広大な空間への探求が見られます。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その7』:このモスクの名前の由来である『ユチュ・シェレフェリ』とは、『三つのバルコニーをもつ』という意味とされます。ミナーレも巨大で、その後1世紀の間、これを超える高さのものは建設されていません。(同上)<br />*写真は、ドーム内の照明の光景です。装飾を兼ねたような光景でした。

    『オスマン建築の歴史:危機の時代以降(その7』:このモスクの名前の由来である『ユチュ・シェレフェリ』とは、『三つのバルコニーをもつ』という意味とされます。ミナーレも巨大で、その後1世紀の間、これを超える高さのものは建設されていません。(同上)
    *写真は、ドーム内の照明の光景です。装飾を兼ねたような光景でした。

  • 『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その1)』:1453年、コンスタンティノポリスを陥落させた、『征服王メフメト2世』は、ほとんど廃墟となったこの都市に首都を移転させました。1465年までには『イェニ・サライ(現在のトプカプ宮殿博物館)』が建設されましたが、この宮殿は、後に多くの増改築がなされましたので、現在は新築当時の姿をほとんど停めてはいません。(同上)

    イチオシ

    『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その1)』:1453年、コンスタンティノポリスを陥落させた、『征服王メフメト2世』は、ほとんど廃墟となったこの都市に首都を移転させました。1465年までには『イェニ・サライ(現在のトプカプ宮殿博物館)』が建設されましたが、この宮殿は、後に多くの増改築がなされましたので、現在は新築当時の姿をほとんど停めてはいません。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その2)』:その中で、『チニリ・キョシュク(現在は装飾タイル博物館)』は、メフメト2世時代の建物ではほぼ完全な形で残る唯一の建物です。正面の列柱は18世紀に再建されていますが、当初は木造で作られたペルシャ風のものでした。平面プランについてもペルシャ風で、十字型交差廊の四辺に各部屋が配置され、交差廊上部にはドームが設置され、かつては緑色のタイルで装飾されていました。(同上)

    イチオシ

    『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その2)』:その中で、『チニリ・キョシュク(現在は装飾タイル博物館)』は、メフメト2世時代の建物ではほぼ完全な形で残る唯一の建物です。正面の列柱は18世紀に再建されていますが、当初は木造で作られたペルシャ風のものでした。平面プランについてもペルシャ風で、十字型交差廊の四辺に各部屋が配置され、交差廊上部にはドームが設置され、かつては緑色のタイルで装飾されていました。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その3』:メフメト2世の建立したジャーミーは、『ファーティフ(征服者)・ジャーミー』と、そのキュッリイェです。ファーティフ・ジャーミーは、1470年に、新首都となって間もないイスタンブールに建てられました。設計者の名は『ミマール・スィナン』とされています。このモスクは、ハギア・ソフィア聖堂の影響を直接受けて建てられた初めてのモスクとされます。アティク・シナンは、このファーティフ・ジャーミーの規模をハギア・ソフィア聖堂よりも大きくすることに失敗しました。(同上)

    『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その3』:メフメト2世の建立したジャーミーは、『ファーティフ(征服者)・ジャーミー』と、そのキュッリイェです。ファーティフ・ジャーミーは、1470年に、新首都となって間もないイスタンブールに建てられました。設計者の名は『ミマール・スィナン』とされています。このモスクは、ハギア・ソフィア聖堂の影響を直接受けて建てられた初めてのモスクとされます。アティク・シナンは、このファーティフ・ジャーミーの規模をハギア・ソフィア聖堂よりも大きくすることに失敗しました。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その4)』:このため、メフメト2世の怒りを買い、処刑されたとも両手切断の刑に処せられたとも伝えられます。これも確かなことは不明です。ファーティフ・ジャーミーは、1766年の地震で倒壊しました。倒壊の原因は、大ドームの手前側の補強の欠如だったと指摘されています。もともとの基礎の上に、当初とは著しく異なる姿で再建されたため、今日、創建された当時の姿はありませんが、モスクの当初の姿は、マトラーキーの挿絵やロリックが1559年に描いた彫版画のなかにみることができます。(同上)

    『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その4)』:このため、メフメト2世の怒りを買い、処刑されたとも両手切断の刑に処せられたとも伝えられます。これも確かなことは不明です。ファーティフ・ジャーミーは、1766年の地震で倒壊しました。倒壊の原因は、大ドームの手前側の補強の欠如だったと指摘されています。もともとの基礎の上に、当初とは著しく異なる姿で再建されたため、今日、創建された当時の姿はありませんが、モスクの当初の姿は、マトラーキーの挿絵やロリックが1559年に描いた彫版画のなかにみることができます。(同上)

  • 『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その5)』:研究によれば、そのドームは直径26メートルの大ドームで、それまでのいかなる試みをも超えるものでした。それを頂く正方形のプランで、幾何学性を重んじた造りになっていました。また、キブラ側に大ドームと同径の半ドームを備え、左右の側廊部は大ドーム直径の半分の径をもつ小ドーム3基を備え、それらで当時のモスク礼拝堂を覆っていました。このモスクの礼拝室の設計で注目される、半ドームの使用・また、大・小ドームの秩序立った配置に対応した平面計画は、以後のオスマン帝国のモスク建築の出発点となりました。(同上、続く)

    『オスマン建築の歴史:盛期の建築(その5)』:研究によれば、そのドームは直径26メートルの大ドームで、それまでのいかなる試みをも超えるものでした。それを頂く正方形のプランで、幾何学性を重んじた造りになっていました。また、キブラ側に大ドームと同径の半ドームを備え、左右の側廊部は大ドーム直径の半分の径をもつ小ドーム3基を備え、それらで当時のモスク礼拝堂を覆っていました。このモスクの礼拝室の設計で注目される、半ドームの使用・また、大・小ドームの秩序立った配置に対応した平面計画は、以後のオスマン帝国のモスク建築の出発点となりました。(同上、続く)

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