2008/10/14 - 2008/10/21
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旅人のくまさんさん
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トプカプ宮殿見学の続きです。後宮(ハレム)の入口は、外廷の「ドームの間」の側にある「車の門」と、内廷の皇帝の私室の脇にある「クシュハーネ門」があります。参考までに、日本の江戸時代の大奥を紹介しました(オスマンオスマン帝国400年の歴史:by Atsumi)。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
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イチオシ
トプカプ宮殿の一角にある、『ハレム(ハーレム)』のジオラマ展示光景です。今回は見学しませんでしたが、昨年の旅行の時に見学したハレムです。第二中庭からハレムに入れますが、別料金となりますので、入口脇にあるチケット売り場で入場券を購入しました。ハレムは、宮廷の女性たちの生活の場でした。相違点はありますが、日本では江戸時代の『大奥』と例えられることがあります。(同上)
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ハレムの建物は、黒人宦官、女性たち、スルタンの母、スルタン、皇太子、「お気に入りの女性たち」それぞれの住居から成っています。トルコ語のハレムは、アラビア語のハリーム、ないしはアラビア語では聖地を指す語のハラームの転訛とされるようです。ハリーム、ハラームとも原義は、『禁じられた(場所)』という意味とされます。(同上)
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ハレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称とされます。歴史的には、10世紀以降、イスラーム国家の宮廷において、後宮の発達が著しく進んだことに伴い、この呼称も定着したようです。ハレムの習慣は、イスラーム特有の文化ではなく、古代の地中海世界における、富裕な階層における風習が起源ともされるようです。(同上)
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名前:『ゼラニウム』
分類:フウロソウ科テンジクアオイ属
分布:南アフリカ原産
その他:薄いピンクの地に縁取りが入った可愛らしい花です。除虫効果があるようです。西洋の窓辺によく飾られています。(同上) -
名前:『ゼラニウム』
分類:フウロソウ科テンジクアオイ属
分布:南アフリカ原産
その他:ワメイハテンジクアオイ(天竺葵)です。(同上) -
『ティワンの塔』と呼ばれる監視塔です。すぐ傍に、毎週火曜日の礼拝の後に国政会議が行われた『会議の間』があり、監視塔は不審者の侵入を監視していたようです。この国政会議には宰相や高官が出席し、スルタンは、隣接する場所で、密かに傍聴していたようです。しかし、会議参加のメンバーは、そのことを知っていたようです。
(同上) -
イチオシ
『トプカプ宮殿の構造(その1)』:正門の『帝王の門』:
〇トプカプ宮殿の正門は、アヤソフィアの側にある『帝王の門(バーブ・ヒュマーユーン)』です。
〇『帝王の門』を潜ると、『第一の中庭』と呼ばれる空間があり、オスマン帝国時代も現代も一般の人々が自由に出入りできます。
〇『第一の庭』の一角には、東ローマ帝国時代の遺構である聖イレーネ教会(アヤ・イリーニ教会があります。(同上、続く)
*写真は、同じく『ティワンの塔』と呼ばれる監視塔の光景です。 -
『トプカプ宮殿の構造(その2)』:正門の『帝王の門』(続き):
〇『第一の中庭』その他の「帝王の門」内の空間は、君主の庭園や離宮があります。
〇タンジマート(恩恵改革)の指針を宣言するギュルハネ勅令が発布されたギュルハネ庭園もこの一角に残されています。
〇外壁内の宮殿敷地の内側にはある、第二の城壁で囲まれた縦横200m×400mほどの長方形の空間が、君主の私邸であるトプカプ宮殿の本体部分です。(同上) -
『トプカプ宮殿の構造(その3)』:『第一の庭』:
〇「第一の庭」の奥にある『挨拶の門(バービュッセーラム)』が、宮廷の入口で、かつては許された者しか入ることができませんでした。現在は、トプカプ宮殿博物館の入場口となっています。(同上) -
『トプカプ宮殿の構造(その4)』:『第二の庭』:
〇「挨拶の門」の内側は「第二の庭」と呼ばれる公式行事に使われた広場です。これを外廷の施設が取り巻きます。御前会議の開かれた「ドームの間」や国庫はその一角に位置します。かつての国庫は、現在は武具展示室となっています。(同上) -
『トプカプ宮殿の構造(その5)』:『第三の庭』:
〇「第二の庭」の正面奥には『幸福の門(バービュッサーデ)』と呼ばれる門があります。その奥にある『謁見の間(アルズアルズ・オダス)』と呼ばれる建造物を中心とする「第三の庭園」とそれを取り巻く施設群が内廷を構成します。(同上。続く)
*写真は、内廷の正門『幸福の門(バービュッサーデ)』のドーム屋根です。 -
『トプカプ宮殿の構造(その6)』:『第三の庭』(続き):
〇内廷には、君主の私室(ハス・オダ)や、有名な「トプカプの短剣」が展示されている宝物庫があります。
〇トプカプ宮殿の聖遺物(アーサール :イスラム教の聖遺物)は質量ともに有名です。特に「ムハンマドのマント」と「ムハンマドの軍旗」が有名です。(同上) -
『トプカプ宮殿の構造(その7)』:『第三の庭』(続き):
〇内廷では、数百人のイチ・オーランと呼ばれる君主の小姓たちが、私室や財宝庫などの管理役を勤め、君主に奉仕しました。
〇小姓たちはここで幹部候補生として高度な教育を受けて、外廷の職や軍の将校などの要職につけられました。
〇内廷で私室長や太刀持ち役などの皇帝側近の重職に出世すれば、地方総督職などを経て、将来的には宰相にまで出世することが可能な制度が確立されていました。
〇小姓の供給源もイェニチェリと同じく、古くはデヴシルメによっており、カプクルのエリートコースでした。(同上) -
『トプカプ宮殿の構造(その8)』:『第三の庭』(続き):後宮:
〇後宮(ハレム)の入口は、外廷の「ドームの間」の側にある「車の門」と、内廷の皇帝の私室の脇にある「クシュハーネ門」があります。
〇現代にハレムを見学する場合は、前者の「車の門」からハレムに入ります。ただし、この他に宮廷の外とハレムを直接繋ぐ通用門もあります。
〇ハレムは君主の母后、妃、子供たちと、それに仕える多くの女官や宦官が暮らしていて、後には帝位に就いていない皇族である君主の弟や甥たちが暮らす「鳥かご(カフェス)」と呼ばれる部屋も設けられました。(同上) -
『トプカプ宮殿の見どころ(その1)』:『チューリップの宮殿』:
〇アーメッドⅢ世の安定した統治時代に、トルコ国内でチューリップ栽培が普及したため、1700~1730年はチューリップ時代と呼ばれます。
〇イスタンブールでは黒いチューリップが作られました。宮殿の庭園内でもチューリップの栽培が盛んだったため、トプカプ宮殿は「チューリップの宮殿」という愛称でも親しまれています。
〇チューリップの球根は、オーストリアの大使がオランダヘ持ち帰ったのち、オランダから各国へ輸出されましたので、オランダが原産国と思われていますが、実はトルコが原産国の一つです。(同上)
*写真は、プラタナスの大樹です。 -
『トプカプ宮殿の見どころ(その2)』:『アーメッドⅢ世の泉』:
〇宮殿の周りの庭は、スルタンの猟場でしたが、現在は、羊、描、年寄りのラクダが二頭いて、動物園のようになっています。宮殿側には、オリエント急行の駅と兵舎があります。
〇「皇帝の門」は、15世紀に、メーメットⅡ世がこの町を征服してから建てられました。その門の手前、右手に見えるのが「アーメッドⅢ世の泉」という、イスタンブールで一番美しい泉です。
〇宮殿の銀製品のコレクションの中には、この泉の小さい雛型があります。アーメッド(アフメト)Ⅲ世は、オスマントルコの歴史の中で文化的な興隆を見たチューリップ時代のスルタンです。(同上)
*写真は、厨房の煙突の光景です。 -
イチオシ
『トプカプ宮殿の見どころ(その3)』:『死刑執行人の泉』:
〇総門を抜けると第一中庭です。第二中庭に入る前に、ここで入場券を購入します。入場の際にセキュリティチェックもあります。
〇「死刑執行人の泉」は、大臣や首相などの役人が、スルタンの機嫌を損ねたときには、すぐに首を切られ、この泉で洗われてから、さらし台に乗せられました。
〇新任の大臣が命を受けて、トプカプ宮殿へはせ参じたときには、前任者の生首を目にしたとされます。(同上) -
参考までに、日本の江戸時代の『大奥』について、少し詳しく紹介します。
『江戸時代の大奥(その1)』:『大奥(おおおく)』は、江戸城に存在した将軍家の子女や正室・奥女中(御殿女中)たちの居所のことです。大奥という表現は、狭い意味では江戸城本丸大奥のみを指しますが、広い意味では西丸大奥・二丸大奥も含みます。江戸時代の大名家でも、家によっては奥向を大奥と呼んでいました。(同上) -
『江戸時代の大奥(その2)』:呼称の変化:武家の邸宅において、儀礼や政治の場である「表」と日常生活の場である「奥」との区分は、近世以前より存在していました。しかし大奥という呼称は江戸城に初めから存在していた訳ではありません。元和4年(1618年)の「壁書」や、元和9年(1623年)の「御台所法度」では、「奥方」や「奥」といった呼称が用いられていました。(同上)
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『江戸時代の大奥(その3)』:呼称の変化:本丸に関する最古の図面とされるのは、寛永14年(1637年)の「御本丸御奥方御絵図」です。そこでは「御奥方」と呼ばれています。第4代将軍・徳川家綱(在職:1651~1680年)の時代に「大奥」という呼称が登場するようになり、第5代将軍・徳川綱吉(在職:1680~1709年)の時代に、「大奥」の呼び名が定着したようです。(同上)
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『江戸時代の大奥(その4)』:呼称の変化:『大奥』の呼び名は、貞享元年(1684年)に御座之間近くで、下総古河藩の初代藩主で大老の『堀田正俊(1634~1684年)が、美濃青野藩主で若年寄の『稲葉正休(まさやす:1640~1684年)』に殺害されたことで、表と奥の境目が明確化したことによると考えられています。(同上)
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『江戸時代の大奥(その5)』:規則の変化:大奥及び奥女中に対する規則は「壁書」以降、将軍の代替わりごとに確認され改訂されてきたと考えられています。「壁書」で主に規定されていたのは大奥への出入りに関することです。男性の出入りが明確に禁止されているのは、大奥全体ではなく、女中たちの宿舎である長局より奥でした。5年後の「御台所法度」では、医師や大名の使者等の出入りについての記述が加えられました。寛文10年(1670年)には女中たちが守るべき「女中法度」、老女に対する「老中連署条目」が出されています。享保6年(1721年)の「女中法度」では、文通や宿下がり(一時帰宅)で交際が許される範囲や、ぜいたくの禁止等についての条文が加えられました。(同上)
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『江戸時代の大奥(その6)』:構造の変化:大奥の構造は、火災による焼失・再建の度に変化していきました。綱吉の時代までの特徴は、老女や側室の居所が御殿向に点在していたことです。6代将軍徳川家宣の時代以降、側室は女中として長局に居住するようになります。これにより御台所と側室の立場の違いが明確化しました。9代将軍徳川家重の時代に、御鈴廊下が2本になったと考えられています。本丸御殿は計5回焼失していて、文久3年(1863年)に焼失してからは、再建されませんでした。(同上)
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『江戸時代の大奥(その7)』:大奥の終焉(その1):幕末期の大奥には、表の政治問題が波及するようになります。弘化3年(1846年)に、水戸藩前藩主・『徳川斉昭(なりあき:1800~1860年)』が、琉球や蝦夷地に関して12代将軍・『徳川家慶(家慶:1793~1853年)』に訴えかけようとして、上臈御年寄姉小路に書を送っています。その後、安政期の将軍継嗣問題では、南紀派と一橋派が大奥工作を行って政争を展開しました。南紀派は13代将軍徳川家定の生母本寿院や上臈御年寄歌橋を味方に付け、一橋派は正室篤姫を通じて将軍に働きかけました。『徳川家茂(いえもち:在任:1859~1866年)』が14代将軍に就いてからは、大老・井伊直弼(なおすけ:1815~1860年)』らによって、朝幕関係修復のため皇女降嫁が画策されました。(同上)
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『江戸時代の大奥(その8)』:大奥の終焉(その2):慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで15代将軍の『徳川慶喜(のぶよし:1837~1913年)』が敗北し、新政府が慶喜の追討令を出した後、天璋院と静寛院宮はそれぞれ薩摩藩と朝廷に対して嘆願書を送っています。 その後、大奥は幕府始まって以来初めて徳川家中へ向けた御触を発令し、恭順を徹底するよう命じました。同年4月、江戸城開城に先立って静寛院宮と家茂生母実成院は清水邸へ、天璋院と本寿院は一橋邸へ退去しました。(同上)
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『江戸時代の大奥(その9)』:大奥の構造(その1):江戸城内曲輪は、本城(本丸、二の丸、三の丸)、西丸、紅葉山、吹上御庭、西丸下で構成されていました。このうち、大奥が置かれたのは本丸、二丸、西丸の3つの郭です。本丸は将軍夫妻、二丸は将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が住まいとしていました。ただし、本丸の非常時には、二丸や西丸が代わりとして機能しました。図面は江戸城 大奥御殿向惣絵図があります。(同上)
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『江戸時代の大奥(その10)』:大奥の構造(その2):本丸御殿は、先述のように表、中奥、大奥に区分されています。この内、表と中奥は一続きの御殿でした。しかし大奥は表・中奥御殿とは切り離されていて、銅塀で仕切られていました。中奥と大奥を繋ぐ唯一の廊下が、御鈴廊下です。将軍が大奥へ出入りする際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていたことからこの名が付きました。後に火事等の緊急事態を想定して作られたのが「下御鈴廊下」とされます。大奥は大別して広敷向・長局向・御殿向に区画されます。(同上)
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『江戸時代の大奥(その11)』:大奥の構造(その3):
〇広敷向:広敷は大奥の玄関口です。広敷には男性の広敷役人(広敷用人)がいたため、御殿との間の錠口、長局との間の七ツ口によって仕切られていました。七ツ口は、女中たちの部屋方や商人たちが用いていましたが、七ツ時(午後4時)に閉められたためにこの名が付きました。
〇御殿向:将軍の寝所である御小座敷、御台所居所、「千鳥之間」、「呉服之間」などの大奥女中詰所などがありました。御台所の居所は、時代によって「松御殿」、「新御殿」などと呼ばれました。歴代将軍の位牌がある「御仏間」や「御対面所」も、御殿にありました。
〇長局向:奥女中たちの2階建ての居所です。一之側から四之側までの4棟と、東長局、御半下部屋がありました。格式に応じて一之側が上臈御年寄や御年寄、二之側、三之側がその他の御目見以上の女中、四之側がお目見え以下の女中たちに配分されました。(同上) -
『江戸時代の大奥(その12)』:大奥女性の身分:『御台所(みだいどころ)』:
〇大奥の女主であり、主宰者でもあるのが、将軍正室である御台所です。
〇御台所は、3代将軍家光以降は、五摂家(近衛家・九条家・一条家・二条家・鷹司家)か、四親王家(有栖川宮家・桂宮家・伏見宮家・閑院宮家)から迎えるのが慣例でした。
〇11代将軍・家斉の御台所・広大院と13代将軍家定の御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身ですが、縁戚の近衛家に養女となった上で輿入れしました。
〇初代将軍・家康と、8代将軍・吉宗は、将軍就任前に正室を喪い、在任中も新たな正室を迎えなかったため、実際には御台所は空席のままでした。(同上) -
『江戸時代の大奥(その13)』:大奥女性の身分:『側室(そくしつ)』
〇将軍の側室は基本的に将軍付の御中﨟から選ばれます。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には「御小座敷」に待機しました。
〇御台所付き中﨟に拒否権はありましたが、その場合は「永のお暇」となり、辞職して大奥を去る定めでした。(同上)
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