2005/03/11 - 2005/03/18
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旅人のくまさんさん
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<2005年3月14日(月)>
夜のシャワーはお湯が出ませんでしたが、朝はちゃんとお湯が出ました。昨晩、竹村さんはシャワーのことで皆さんに電話をされたようです。私の場合は想定内でしたから、その旨電話でお答えしておきました。
この日のメモからです。6時前に起床、8時前に朝食。出発8時45分でした。起きた後、7時丁度にモーニングコールがありました。これは承知のことですから、全員が保険の積りで頼んでおきました。
<グラナダの交通ラッシュ>
泊まった日本人観光客は8組だとお聞きしました。20人平均だとすれば160名、25名平均だと200名にも上ります。多くの人が湯船にお湯をためようとしたら、たちまち給湯設備はお手上げです。これが、昨日想定していた内容です。それにしても、ホテルの中は日本人観光客ばかりでした。
ホテルの前にはバスが止まるスペースは1台分だけかありません。逸れも歩道を削って作ったスペースだけでした。朝のラッシュには、長い時間停めておけばたちまち渋滞となります。それで、この駐車場を使う団体ごとに時差を調整されたようです。その結果、われわれの組が最後の出発となりました。行程的に余裕があり、早い時間の出発でなくとも良かったようです。
そのバスの運転手さんは、一緒にコルドバから来てくれた人です。物静かなで、紳士的な人でした。竹村さんは「シャイな人」といった言葉を使って表現していました。その運転手さんが迎えの時間に遅れないよう、早く来てくれたのでしょう、交通警察官にその場所を一旦離れるよう指示されたようでした。
それで、交通渋滞の中を、付近をもう一回りしてきました。渋滞がひどいようで、暫くバスを待ちました。やって来た時に、直ぐに荷物を積み込めるよう、歩道にスーツケースが並べられました。それだけで、今度は歩道が通行支障になるような状況でした。
コルドバの現地ガイドさんは、斉藤さんと言われる日本人の女性ガイドさんでした。詳しくお聞きしたわけではありませんが、結婚されてこの地に住んでいる感じの方でした。敬語の使い方等が、少しぎこちない日本語でした。
<アルハンブラ宮殿見学>
アルハンブラ宮殿はイスラム教支配の数百年間に増改築されたものです。今日、その美しい姿を見ることが出来るのは、15世紀にキリスト教支配に代わった時、無血開城が行われたためです。ガイドブックやインターネット情報を元に、簡単のその歴史から纏めておきます。
グラナダはイスラム教徒によるイベリア半島支配の中心地でした。その支配は8世紀から15世紀に及びました。無血開城は1492年のことです。その最後の王朝は、ナスル朝(1238〜1492年)でした。
アルハンブラ宮殿は異なる時代の建築物の集合体です。その原型は9世紀のアルカサーバ(砦)とされます。宮殿が大きく拡張されたのは、ナスル朝の13世紀です。その後も増改築が進められました。大きな変貌を遂げたのは、ユーフス一世とその息子のムハンマド五世の時代とされます。
アルハンブラ宮殿の建物は、白を基調としていますが、語源は「アル(赤い)」「ハラム(物)」です。なぜ、赤い宮殿と呼ばれたのかは諸説あります。イブン・アルハティブは「アルハンブラ宮殿増築の時、夜を徹して篝火を燃やして工事したため、グラナダ平野から見上げた宮殿は赤く染まって見えたことから、このように呼ばれた」と言う説を唱えました。これが一般的な説のようです。「城が建つサビーカスの赤土が赤い城の由来」との説もあります。現地ガイドさんからは、「鉄分を多く含む赤い土」のこともお聞きしました。
アルハンブラ宮殿は、城塞の機能も有していたとされます。その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園と言った様々な施設を備えていました。
アルハンブラ宮殿は、18世紀の初め頃まで城代に管理を任せていたとされますが、カルロス五世の時代には、いくつかの改築が行われました。カルロス五世の噴水や、カルロス五世の宮殿です。しかし、宮殿は完成することはありませんでした。モスクは、教会へ変えられ、礼拝堂や修道院も造られました。
この宮殿は実に見応えがありました。壁に施された文様は精緻を極め、全体の建物の調和も見事でした。中庭の素晴らしさも特筆に値します。その中で、少し違和感を持ったのが、後代に作られたキリスト教建築物でした。
あるホームページに辿り着いた時、宮殿の素晴らしい建物や庭園の紹介のBGMに「アルハンブラ宮殿の思い出」が流されていました。タルレガ作曲の名曲です。そのトレモロ奏法は、この宮殿の精緻な文様、見事な透かし彫りのシルエット等から発想されたものではないかと、直感しました。この直感は違っているかも知れませんが、その思いが過ったのは事実です。
アルハンブラ宮殿の名前を世界に喧伝したのは、アメリカの作家ワシントン・アーヴィング(1783〜1859年)による「アルハンブラ物語」の紀行文学だとも言われています。あるホームページには、入場には2、3時間待ちのこともあると、書き込まれていました。今日は、多少込んではいても、待ち時間無しでこの宮殿の見学ができました。素晴らしい快晴に恵まれたことと合わせ、幸いでした。
<昼食の店、学生の流し>
昼食の店はアルハンブラ宮殿のある丘を下ったグラナダの郊外でした。ビルの中にあるお店でした。イカの墨煮がこの日のメインディッシュでした。
イカ墨料理はイタリアのベネチアでも食べたことがあります。イカ墨を使ったスパゲッティ料理でした。イカ墨の風味と軽い甘味が堪(こた)えられない料理です。ベネチアの時は、ロゼワインを飲みましたので、今回も竹村さんにお願いしてロゼワインにしました。
このとき飲んだワインはメモしていません。ハーフボトルではなく、グラスワインだったからです。軽い酸味がイカ墨に合って、つい、もう一杯注文しました。
このお店では、学生さんのギター流しがやって来て、演奏を始めました。曲目は、予想通り「アルハンブラ宮殿の思い出」が1曲ありました。もう1曲はベサメムーチョでした。この曲は、ラテンナンバーの曲の中で、最も親しまれ、世界で一番有名な曲とも称されています。作者はメキシコのピアニスト&ソングライターのコンスエロ・ベラスケスという女性です。曲名の意味は、「もっと、キスして」です。おヒネリの代わりに、自分達の曲が入ったCDを、1枚10ユーロで販売していました。
<セビリアへ>
食事の後は、セビリアまで245kmのバスの旅です。ここでもスペインの国土の広さと、自然の厳しさを実感しました。しかし、印象としては、ラ・マンチャ地方よりは自然の厳しさは感じませんでした。
景色にも山並が見え、変化がありました。ユーカリも疎らではなく、密度濃い植林があり、ほかの樹種もありました。しかし、日本の自然と比べると、その厳しさは格段です。日本と比べて、約1.3倍の面積に、約1/3の人口ですから、人口密度はざっと1/4となります。水と緑に溢れる日本の自然に、改めて感謝しました。
バスでの移動途中で、サーカスのテントを見かけました。その周りには沢山のトラックが駐車してあり、各地を回って公演をしているようでした。その話題の時に「サーカスのトラックに出会ったら、予定通りに走ることはできません。遅れること間違いなしです」といった話が出ました。
猛獣などをトラックに積んでいますから、ゆっくり走ることが義務付けられているようです。「そんなトラックが30台も列を作ったら、追い越しもできません。諦めて後ろをついて行くだけです」と言った経験話でした。セビリアは地元ではセビージャと発音しているようで、「バスの運転手さんもセビージャと発音していました」とも紹介してくれました。
竹村さんは、次の見学地セビリアのことを、マイクを使って説明してくれました。残念ながら、旅の疲れで眠ってしまった人も多かったようです。子守唄に聞こえた皆さんも多かったのでしょう。詳しいことは、翌日記しますが、メモしながらお聞きしたキーワードを並べておきます。
イザベル女王、アラゴン王国、ハプスブルグ家、西ゴート王国、フェルナンド三世、スペインのイスラム=日本の隠れキリシタン、カスティーリャ王国等々でした。そろそろ、私も睡眠薬が効いてきたようです。
テントは見ましたが、幸い前を走るサーカスの車の列には出会いませんでした。ジプシーキングのCDを聞きながら、順調に走って、明るいうちにセビリアに到着しました。今夜の楽しみはフラメンコのディナーショウです。
<フラメンコショウのディナー>
セビリアに早く着きましたので、フラメンコのディナーショウまでは、ゆっくりできました。ホテル出発は、18時のロビー集合になりました。しかし一寸困った状況がありました。それは、エレベーターの故障です。泊まった部屋が5階でしたから、1階のロビーとの行き来にはかなり苦労しました。普段なら、大した階数ではありませんが、右膝を痛めていましたからです。おまけに1階が地階ですから、6階と同じ階数です。今回の旅行で、宿で苦労したのは、この時だけです。
予定通りの時間にバスでホテルを出発しました。まだ明るい時間でした。フラメンコディナーショウのお店の名前は、エル・パラシオ・アンダルース(読み方は、不確かです)でした。
月並みな表現ですが、目の前で見た本場のライブショウは、テレビで見たり、映画で見たりしたフラメンコとは大違いの迫力でした。独演があったり、ペアーでの踊りや、グループでの踊りもありました。手に付けたカスタネットのリズムと緩急、タップを踏む大迫力の音は、その場にいなければ、実感はできません。指先の動きも、その繊細さが初めて実感できました。ディナーに用意された赤ワインを飲みながらの観劇は、大いに満足できるものでした。
フラッシュを焚いての写真撮影もOKでした。しかし、遠くからのデジカメのフラッシュでは役に立ちません。それぞれのクライマックス場面では、照明が一段と明るくなりましたから、そのタイミングを狙ってシャッターを押しました。しかし、デジカメですから、中々うまくタイミングが取れませんでした。収録した写真は、何とかタイミングが合った時のものです。現場の大迫力をお伝えはできませんが、華麗な服装や、その雰囲気だけでもお伝えできたらと思います。
<閑話休題、信号の話です>
竹村さんか、現地ガイドさんからお聞きした話か、メモには残しておきませんでした。たぶん、現地ガイドさんのお話です。まず、交通マナーの話です。イタリア人の交通マナーが悪いことがEUでは話題になるそうです。するとイタリア人は、「スペインよりは、まだましさ」と応えるそうです。スペイン人の交通マナーが悪いことを指摘すると、「まだ、ポルトガルよりは、いいさ」が答えとなるそうです。私がその順番を間違えたのなら、ポルトガルの方にはお詫びします。ご免なさい。
日本でも交通マナーの悪さがよく言われますが、いつもトップか上位にランクされるのが「三河ナンバー」、「女性ドライバー」「愛知ナンバー」です。「三河」プラス「女性」となったら、一寸怖い気もしますが、これも私の誤解があったり、順位に変動があったら、先にお詫びしておきます。すみません。
次に信号の色の話です。日本と同じ3色ですが、意味は違います。黄色は「注意して、全速力で進め」、赤色は「隙あらば、進め」です。そして青は「注意して、進め」です。とにかく、前向きに「進め」のようです。国民性を現しているのでしょう。
最後は真面目な話です。一応、その前の話にも真面目な部分はあります。EUに統合されてからの車のナンバーの付け方です。5年ほど前からは、全て同じルールで付けられていますから、ナンバープレートの左上部分が青色の場合は、5年以内の新しい車と判断できます。その下に「E」の文字があればスペイン(エスパーニャの頭文字)、「P」の文字があった場合は、ポルトガルとなります。これはお聞きした事ではありませんが、フランスは「F」、ドイツは「D」といった具合でしょう。
スピード規制は市内が50km、市外で80km、高速道路が120kmだそうです。でも、余り守られていないそうです。それでも、最近は取締りが厳しくなってきたようです。1回だけ、一斉検問に出会いました。
<夜の喧騒>
翌朝、Tmさんが話されていたことです。イタリアとスペインの修学旅行の学生さん達が煩くて、ホテルの係りの人も一緒に、何度もその注意のため廊下を見張られていたようです。夜中の3時過ぎまで攻防があったようです。
場所を探し出して注意した2人用の部屋では、出てくるは、出てくるは、15人程が集まっていたそうです。注意して、暫くは大人しくなるものの、暫くすると、また同じことの繰り返しだったようです。修学旅行ではどこの国でも、同じことがあるようです。ホテルが一緒になった場合は、諦めるより仕方がないようです。
殊に、イタリアの学生さん達が煩かったようです。もともとの話声が大きい、との結論でした。何しろ、「シーッ」と言う声自体が大きくて、「シーッ」になっていないと嘆かれていました。カンツォーネの国ですから、発声法自体が他の国の人達とは違うようです。
イタリア語かスペイン語かは知りませんが、部屋へのいたずら電話も多くあったようです。その学生さんたちは3階の部屋でしたから、4階の人たちは大変だったようです。私の場合、その上の階でしたから、最初は少し煩く感じましたが、その内に、オールドパーが眠気を誘ってくれました。それにしても、添乗員さんのお仕事は大変です。竹村さんに同情して仕舞いました。
セビリアへ向かうバスで
疎なる林は続きうたた寝て醒ても続くオリーブ林
アルハンブラ宮殿で
イスラムの細工に妥協の痕はなしアルハンブラに残る技識る
文様と透を暫し眺ればやがて聞ゆるトレモロの音
フラメンコショウのディナーで
手拍子と床踏鳴す強弱のリズム何時しか身体に浸ぬ
ホテルで
旅半ば友なるスコッチ手に包み惜みて飲ぬ一人静に
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 観光バス タクシー
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
ホテルの前にはバス1台しか停めることができません。それも長い時間停めると、直ぐに警察からの指導があるようです。
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一旦ホテルの前に止まったバスは、渋滞の中をもう一回りしてホテル前にやって来ました。道路への荷物出しは、直ぐに積み込める準備でした。
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アルハンブラ宮殿へ向かうバスの中からの撮影です。旗が出されている建物は、公共の仕事をやっていることの標しのようです。
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市街地を離れて、少し郊外に入ったようです。車の流れもスムーズになってきました。まだ、通学や通勤の時間帯のようです。
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アルハンブラ宮殿の駐車場へ到着です。桜が出迎えてくれました。皆さんに遅れないよう、あわてて撮った写真ですから、アーモンドの花だったかも知れません。
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アルハンブラ宮殿は、城砦としての機能も有していたようです。その名残の城壁などを見かけました。
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アルハンブラ宮殿へ向かう登り坂の途中にあった水路です。自然の湧き水か、宮殿の池などで使用済みの水を流しているようでした。
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実際に配備されていた時代もあった大砲でしょう。今は、展示のために、この場所へ運ばれて来た大砲のようです。
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コルドバへは、このアルハンブラ宮殿を見学するためにやって来たようなものです。私も昔聞いたギター曲が頭の中を廻り、楽しみな見学地でした。
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アルハンブラ宮殿の入口近くで日向ぼっこをしていた猫です。Tmさんとは顔見知り?子猫さん、まだ少しばかり眠たそうな顔をしています。
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壁の石にしっかりと固定された取っ手です。単なる飾りではないでしょうが、使用目的は良く分かりませんでした。石に刻まれたエクボも、目を楽しませてくれます。
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いよいよアルハンブラ宮殿への入場です。イベリア半島最後のイスラム王朝、ナサル朝により14世紀に建設されたものです。
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ローマのコロッセオを思い起こさせる円形の建物です。記念撮影のスポットのようでした。ガイドブックには、ルネッサンス様式のカルロス5世の宮殿と説明されていました。
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その石造りのドームを真下から見上げたところです。今日の見学も最高の天気に恵まれました。しかし、イメージしていたアルハンブラ宮殿とは、どこか違いました。
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アルハンブラ宮殿は、どう切り取っても絵になりました。この小冊子の頁の制約で、多くは掲載できませんが、見飽きることのない景色の連続でした。
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アルハンブラ宮殿は、見晴らしのいい小高い丘の上にあり、ここから眺めるグラナダの市街の遠望も見応えがありました。
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遠くに見える山の中腹辺りには、洞窟に住む人達がいるようです。たぶん、ジプシーの人達でしょう。肉眼でも洞窟を見ることが出来ました。
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アルハンブラ宮殿の一角です。この辺りの景観は、優雅な宮殿と言うより、城砦としての趣です。
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苔むした城壁の名残や、建物の基礎のようなものが見えました。再建されずに、そのままに残されている箇所のように感じました。
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繊細な細工を施したアーチ型の窓です。この窓で切り取って見る景色は見事でした。それ以上に、窓のシルエットも素晴らしいものでした。
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パソコンで拡大しながら壁の文様を観察しましたが、実に肌理細かな細工が施されていました。
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別の柱のアップ写真です。細かい部分の文様は、彫刻を施したものではなく、表面に貼り付けたものだとの説明をお聞きしました。その材料には、石膏などのほか、砕いた動物の骨なども使われているようです。
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宮殿内からの町の眺めです。近代的なビルは見当たらず、昔のままの景観が保存されていました。
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同じく宮殿内からの町の風景です。先程よりは右手に振った山麓付近です。矢張りこちらにも、違和感を覚えるようなビルは見当たりません。
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アルハンブラ宮殿の建物の一角を切り取った、幾何学模様を2つ紹介します。何となく弦楽器の胴を連想させる曲線です。
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アルハンブラ宮殿の柱の特徴は、上部が豪華で、足元がスマートなことです。華奢な感じを際立たせる工夫でしょうか。
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池に姿を映すように設計された建物のようです。その2階部分は、修復作業中でした。目立たないように、青いシートが窓の内側に使われていました。
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摘みが付いた蓋のように見えますが、ここから静かに綺麗な水が湧き出していました。器の内側の細工で、綺麗な波紋が立っていました。
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このアーチの先がライオンの泉と呼ばれる中庭、パティオです。人気の場所だけあって、かなり混雑していました。
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同じライオンの泉を、横に回ったところです。陰影がきつくて分かりにくいですが、この辺りの文様は圧巻です。
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