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パッピーさんのトラベラーページ

パッピーさんへのコメント一覧全19件

パッピーさんの掲示板にコメントを書く

  • コメントありがとうございます。

    おくさん 初めまして
    同じ頃に同じような所を旅されたのですね。
    3列独占とは羨ましい限りです。
    2025年12月19日23時44分返信する 関連旅行記
  • 行った所がいっぱい

    こんにちは。最初の写真、すぐオビエドのカテドラルと気付きました。
    観光で行くにはオビエドは珍しいんじゃないですか?
    私も今年オビエドに行ってきましたが、ざんねんながらカテドラルはどこも開いてませんでした。
    私は5月13出発でカタールでしたが行きはマドリッドまでカタールで、帰りはイベリアとの共同運航でドーハまでイベリア、成田まではカタールでした。共同運航便は初めてだったので、先が読めなくて緊張しましたが、案ずるより何とかでした。
    マドリッド空港のイベリアカウンターでドーハ乗り換えのカタール便まで発券して貰えました。おまけに、ドーハからは3列独占の幸運に恵まれてしまいました。
    人生三度目の幸運でした。

    サラマンカ、サンチャゴ・デ・コンポステラ、オビエド、サンティリャーナ・デル・マル。その他にも私が訪れた所がいっぱいでした。
    2025年12月19日19時26分返信する 関連旅行記
  • 江戸城(皇居)は、いつでも行けると思っていたけど、まだ皇居の中を見たことが無い。

    パッピーさん、
    今晩は。いつもおたちよりありがとうございました。

    さて、掲題の兄の回想です。

    【叔母と兄の回想・・・聞き書き】

    【叔父の49日法要(2010年4月29日)の際に叔母から聞いた話と、我が家のゆかりの人々と称する私の一文を読んだ札幌の兄からの電話(5月31日)の聞き書き(纏め)】

    ・・・・・

    2)札幌の兄からの電話:

    叔母から聞いた話を、私が纏めて札幌の兄に送った所、叔母の話に触発され、思わぬことに兄から次のような思い出話を聞くことになった。
    戦後の価値観の様変わりもあって、兄は今まで他に話すことはなかったと言う。

    A)幼少の皇太子(現上皇さま)と遊ぶ。

    これも戦前の事だが、ある時、兄は母に連れられて、皇居に上がり、香淳皇后(こうじゅんこうごう・昭和天皇の皇后。久邇宮家(聖心女子大のキャンパスに名残の建物がある)の出で旧名は良子女王ながこじょおう、1903年3月6日~2000年6月16日・97歳で崩御)の前で、幼少の皇太子と遊んだと言う。
    当時の皇太子、つまり上皇さまは兄の2歳上(昭和8年生まれ)だが、どうも皇太子の遊び友達にしたいという目論見?があったのだそうだが・・。
    母から何と言われていたのか、兄ももう記憶が無いと言う。
    年齢からすれば学齢期以前のことだろうから、母が退官(昭和7年)して数年過ぎた頃の話だろうか、こうした事を聞くと、亡くなった母は上からの信用もあり、可愛がられていた・・・と推測される。

    B)大学卒業を目前にしたころ、皇居の女官長からの連絡で皇居に伺った。

    もうひとつ兄の回想がある。私も初めて聞いて大いに驚いた話である。
    戦後、兄が明治大学を卒業する段になった時、宮内庁から青梅の実家に電話があり、女官長が兄に会いたいと言っている・・と連絡があった。
    その事情が分からぬままに、指定された日時に兄は一人で皇居に向かい、坂下門で面会の手続きをすると、皇宮警察官がお話は聞いております・・と言って、奥(おく・御所の裏手にあったとか)に案内してくれたそうだ。

    兄は女官長との話の内容をもう覚えていないとの事だが、帰りにはお土産に恩寵の煙草と干菓子(ひがし)を頂いたと言う。 

    ここでも推測するばかりだが、女官長には母が仕え、母の亡くなった後も息子の事を気にかけてくださったようである。
    女官長の名前はうろ覚えだが、兄は昭和10年生まれだから大学を出る頃は昭和33年か、34年であろう。

    御所の生活の写真が残っている。昭和3年8月那須の御用邸にて皆さまとの集合写真がある。そこには竹屋志計子(しげこ)女官長心得(後に女官長、子爵家)、皇后宮大夫河井彌八、万里小路(までのこうじ)ソデ女官(伯爵家)、高木御用掛けなどと一緒に母の姿も見える。
    母の御所生活の時期は、竹屋志計子(1876年~1950年)が皇后宮女官長(昭和5年・1930年~昭和13年・1938年)を務めたが、兄が呼ばれたころはもう退官していた。

    うろ覚えながら、この女官長を徳川祥子(とくがわさちこ)女官長と兄は言っていたが、女官長に就任された年を調べてみると、1969年(昭和44年)5月20日であるので、兄がお会いした時はまだ女官長ではなかったと思われる。
    しかも、彼女は昭和10年(1935年)4月26日、19歳のとき北白川宮永久王(ながひさおう)と結婚し、北白川宮永久王妃祥子(きたしらかわのみや ながひさおう おうひさちこ)となっているし、戦後に皇籍離脱した後に女官となっているようなので、母との接点が無いと思われる。
    平成改元後も皇太后宮女官長として香淳皇后に(~1989年1月11日)長く仕えた。兄の徳川義寛(尾張藩分家・とくがわよしひろ)侍従長と共に皇室に深いかかわりを持った方である。

    もう一方は保科武子(ほしなたけこ)女官長である。昭和13年から42年まで女官長であったと言う事なので、時期的には合うのだが、この方も母との接点が見当たらない。13年以前から女官であったならば、母の退職前に接点があったかもしれない。調べてみるすべもなく、よく分からなかった。母の日記に戻らざるを得ないようだ。

                      (2010.06.06.聞き書き編集)

    2025年12月01日02時58分返信する 関連旅行記
  • 江戸城(皇居)は、いつでも行けると思っていたけど、まだ皇居の中を見たことが無い。

    ≪江戸城(皇居)は、いつでも行けると思っていたけど、まだ皇居の中を見たことが無い≫

    ALLONS AU 江戸城のシリーズを一気に拝見しました。
    大変興味深く、様々な城門があり、その中に入ると広大な皇居は迷路のように思えてくるほどです。

    パッピーさんはいつものように、健脚(少々歩き過ぎかと心配ですが)で、驚くほどの好奇心を示して歩き回りましたね。そして、私はとりわけ富士見櫓とか、百人廊下、紅葉山などの景観をとても興味深く拝見しました。

    先ほど、21歳の誕生日を迎えた孫娘(長女宅の長女で我が家の孫のうち2番目の年長)から誕生日祝いのお礼の電話がありました。パッピーさんの皇居参観のシリーズの事を話し、行きたかったのだよと申しましたら、興味深く聞いてくれました。
    スピーカーで聞いていた娘が、早速秋の紅葉の通り抜け参観記事を添付して、一緒に行こうと誘ってくれました(笑)。

    実は「江戸城(皇居)はパッピーさんのように、いつでも行けると思っていたけど、皇居の城門の中を見たことが無いのです。ただ、皇居というと、ドイツ第1回駐在から帰国(1979年夏)した際に家族と訪れた二重橋前広場で、社宅(柏市)の鍵を落としてきた思い出があるだけなのです(苦笑)。

    一度は参観にと思っている内に、足腰が衰えてしまい、もう無理かもしれません。
    三十数年の会社生活は海外(ドイツ・香港の12年)と5年の大阪単身生活を除けば、東京勤務でした。それも大手町でしたから、パレスホテル、二重橋、日比谷公園・公会堂、大手門、坂下門、和田倉噴水公園 、警視庁(当時はドイツ駐在には私自身の無犯罪証明書!が必要で、2度ほどこの建物に入った)といった名前も身近で知っていました。
    思えば、身近なのにいつでも行けると思っていたら、もう無理とは・・・情けないことです。

    皇居が身近であったのは、他にも理由がありました。
    もう昔々の事ですが、後述したように私は赤ん坊の頃、皇居内に勿論母と兄弟と共に入ったことがありました。

    叔母と兄の回想に驚いて、その聞き書きを纏めたことがありました。
    それを家族史・自分史の1編として記録に残してあります。
    2部に分けて、御披露しますので、ご興味あればご一読ください。

    jijidaruma

    ・・・・・・・・・・

    【叔母と兄の回想・・・聞き書き】

    【叔父の49日法要(2010年4月29日)の際に叔母から聞いた話と、我が家のゆかりの人々と称する私の一文を読んだ札幌の兄からの電話(5月31日)の聞き書き(纏め)】

    1)叔母から聞いた話:

    亡くなった母は戦前の結婚前に年長の従姉であった*萩原タケ(ハギワラタケ)女史の推挙で、御所に上り7年2ヶ月間(大正14年3月(1925年:満17歳)~昭和7年5月(1932年:満24歳)務めた。
    大正天皇・昭和天皇と其々の皇后に仕えた。東宮御所と皇居(御所)である。

    *萩原タケ女史は日本赤十字病院看護婦監督を長く務め、大正9年(1920年)、第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞した。ICN(国際看護婦協会)名誉副会長。
    明治6年(1873年)生まれ~昭和11年(1936年)死去;享年63歳、日本赤十字社は盛大な病院葬をもって永年の功績に報いた。
    タケ女史は明治43年(1910年)の日本赤十字病院看護婦監督就任から、昭和11年(1936年) 日赤病院にて死去するまで、28年間を監督として2700人あまりの看護婦の養成・指導にあたった。
    墓はあきる野市(旧五日市町)小和田の名刹広徳寺境内にある。また、あきる野市役所五日市出張所玄関前には「萩原タケ女史 人道のために国家のために」と題した胸像が建てられている。
    (引用:あきる野市デジタルアーカイブ;あきる野市ゆかりの人々より)

    叔父(母の一番下の弟、東京高等師範=>東京教育大(現筑波大)出身で、都立北多摩高の理科の教師、後に東海大学菅生高の副校長を務めた)の通夜の席で叔母が昔を回想して、こんな事を言っていました。

    戦前のことですが、皇后陛下の誕生日にかつての女官(母は女儒(にょじゅ)という資格を得ていた、戦前の御所における下級女官である)を招待したそうです。
    退官(昭和7年5月)後のある日、皇居に招かれた母は、母の父(私の母方の祖父)を一緒に連れて行ったと言います。
    生まれて初めて皇居を訪れた祖父は、皇居内の通路に敷かれた、立派な絨毯(じゅうたん)を見て、おもわず履物を脱いで、足袋になったそうだ。
    しかも会見の場に通された祖父は絨毯の上に正座をしたと言う。
    亡くなった母は大変困ったらしい。
    今では笑い話だが明治生まれの平民(祖父は米と塩の専売業)であった人間が、戦前に皇居に招かれて、恐懼(きょうく:おそれ、かしこまること)している様子に、当時の人にとって、たいへん得難い体験の重みを感じさせるものである。

    また、同じように皇后陛下の誕生日に招待され、江戸褄を着た母にまだ二十歳前であった叔母(一番したの妹)も付き添って、子供三人(兄、姉、私)の子守役で皇居に上がったと・・・。
    東京駅から迎えの車で皇居に入り、控室で叔母は専ら子守をしていたと言っていました。

    *江戸褄(えどづま)とは、女物紋付の模様のおき方のことである。総模様、裾(すそ)模様に対し、着物の上前衿(えり)下あたりから前身ごろまたは後裾の部分にかけて斜めに模様をおいたもの。現在は江戸褄模様も裾模様も共に留袖となり、礼装として用いるようになった。

    以上は戦前の御所、天皇家の家族的な様子が良く分かるような話である。

    ・・・・・
    次のエピソードは次回に。
    2025年11月13日02時48分返信する 関連旅行記

    RE: 江戸城(皇居)は、いつでも行けると思っていたけど、まだ皇居の中を見たことが無い。

    jijidarumaさん、
    お早うございます。
    江戸城シリーズ全部読んで下さり
    有難うございます。
    そしてコメントも有難うございます。
    2度目の皇居散策は気付かない内に
    34,816歩も歩いてしまった。
    確かに歩きすぎでした。
    この頃は外出できるだけで
    ワクワクしていたので。
    今はいつでも出掛けられるので
    その気になれません。
    スペイン旅行で毎日2万歩以上
    歩いていたら、帰国後 羽田空港で転倒した
    ので以後自重しています。
    歩き出すとアドレナリン全開
    してしまいます。
    紅葉の皇居も良いでしょうね。
    お孫さんの助けをかりて
    是非お出かけ下さい。

    jijidarumaさんのように
    流れるようには筆が進まないし
    適切なコメントも出来ませんが
    お許し下さい。
    お母さまがかって女官であったので
    jijidarumaさんが 赤ちゃんの頃
    皇后陛下のお誕生日に
    招待されたエピソード。
    絵本や、子供向け伝記を読み パッピーが
    憧れ、崇拝した フローレンス・ナイチンゲールの
    第1回記章を受賞されたICN名誉副会長さんが
    ご親戚である事。興味深い話です。

    思い入れの強い皇居訪問が叶いますよう
    祈っております。
    パッピー
    2025年11月13日10時43分 返信する
  • 国分寺、思い起こした青春!

    パッピーさん、
    今晩は。何やらアルバム探しで時間をとりました。

    国分寺には高校時代の野球部*、剣道部の友人がいましたから、何度も降りたことがあるのに、こちらの「殿ヶ谷戸庭園」は全然知りませんでした。
    ここは旧三菱財閥岩崎家の別邸だった由、千葉の富里市に旧岩崎久彌末廣農場別邸というものがあって、訪れたことがありました。
    三井家より三菱家は良いものを残していますね。
    *野球部の仲間(T大志望で1年で退部されたが)は、由緒ある武蔵国分寺の住職の弟で、何期か市長をやっていました。
    ご住職の御尊顔をHPで拝見、兄弟だけに実によく似ていました。

    ・・・・
    さて、母校のイメージが良い頃で、有り難いことに文武両道的な意味で、周囲の期待も高かったですね。
    学校群制度で母校は衰退しましたが、皮肉なことにその分、野球部は数十名の部員を擁し、私の代(高14期)の頃の十数人の部員数とは大きな差となりました。
    主将を拝命した2年秋、部員数9名!で都五商、法政一高、桜美林高、日大二高など有力高と練習試合をしていましたから(当時の監督はT大の学生)、今思えばすごい。母校野球部も創部120年、毎年送られてくるOB会名簿も先輩たちが死去されて、高14期はどんどん前に繰り上がっています。

    パッピーさんの旅行記で私共(18年生)と6歳違いの昭和24年生まれだと分かりました。お孫さんの年ごろから推量しておりましたが当たりました。24年は確か人数の多い年で、私の弟(同窓です)や家内の妹も24年生まれなのです。

    思えば、第一の青春はクラスで少数派であった坊主頭で授業中は早飯、その後は熟睡!若しくは硬球の縫い目が破れた部分を手縫いで補修する日々でした!
    先のコメントで英語の先生の話を書かれていましたが、私の英語の先生は野球部の顧問で、出来の悪い私の為に授業中、私の座る席の反対側(廊下側)から常に質問をはじめ、一時間では絶対私の窓際の席まで当たる順が来ませんでした(苦笑)。級友からおかしい!と文句が出たほどでした。
    私にとっては実に良い先生で、放課後になると運動着に着替えて、マウンドに立ってバッティング・ピッチャーをしてくれました。人数が少ない分、大変助かりましたが、ボールが遅いのが難点でした(笑)。
    その後の大学受験、会社生活で英語には泣かされたのは、その報いがあったようです。

    青春小説や漫画では校舎の屋上から、グランドで野球に興ずる主人公に秘かにエールを送るシーンがありますが、現実の世界はあり得ませんでした(´;ω;`)ね。
    ・・・と言いつつも、急に思い出したのは昭和36年(高3)の夏の都予選が終わった頃、4人の女性陣(バレーボール部、テニス部、剣道部といった方々で神宮の試合にも応援に来られた)に、バレー部の方のご自宅に野球部仲間のM君(後に伊豆の踊子の旅に一緒した)と二人で誘われた事がありました。舞い上がった私共は緊張して、父上がお医者さんだというお宅の居間にあがり母上や妹さんに御挨拶した。
    田舎者の私は部屋に置かれたピアノにまず驚き、落ち着きませんでした。4人の女性陣とケーキを食べながら何を話したのか、全く記憶にない。余裕のない3時間を過ごして帰って来た覚えがある。
    野球尽くしの高校生活に、チョッと青春を感じた一時でした。
    (誰の発案で、こうした事が催されたのか?いまだに聞き難くわかりません。バレー部の方は現役で進学し、1年遅れて入学したM君ともども同じ大学になりました。高校の同窓会には、4人の内2人が元気で出てこられます。)
    ・・・・・

    昔話はともあれ、御岳、沢井、軍畑、小金井、国分寺などの名前が御投稿にありますから、都下、西多摩郡内のご出身でしょうか。
    いずれにせよ、我が母校を知って頂いているだけでも、誠に有り難いことです。

    一寸長くなりました。ご容赦ください。
    それではまた。
    jijidaruma

    2025年09月19日00時53分返信する 関連旅行記

    Re: 国分寺、思い起こした青春!

    jijidarumaさん、
    お早うございます。

    昨日久しぶりに弟とランチ。その後片眼が空きづらくなり、
    ネットを控え早寝したものの、眼の状態は変わらず
    鼻水迄でてきたので風邪かな?
    ベッドで思い出しました。ここ数年症状がでなかったので
    忘れていました。花粉症のようです。
    鼻炎の薬を飲むと収まりました。

    私の高校時代は、女性の大卒は嫁の貰い手がないと
    言われていた頃だったのと、父の小さな会社が
    倒産したこともあり、現役で国立以外の進学は
    許されず、滅茶苦茶に勉強しました。
    英語の予習なしで授業に出るなど
    ありえない事でした。その甲斐空しく希望の
    国立に入れず、滑り止めなので受かっても絶対
    行かないと約束していた第二志望の私立大に進学。
    大学時代は授業料を稼ぐのに忙しく
    自分で出した授業料の元を取らねばと
    真面目に勉強しました。
    卒業後は怠けるばかりで英語も辛うじて
    話せる程度。独語、英語をマスターし、
    ドイツ史に精通したjijidarumaさんの
    足元にも及びません。

    わが校の弱い野球部(毎回初戦敗退)は
    高3の夏の都予選では数回勝ち進んだものの、
    私ども級友の大声援空しく都五商に敗退しました。

    それではまた。
    パッピー
    2025年09月20日05時33分 返信する
  • かんぽの宿時代に1度宿泊しました。

    パッピーさん、
    今晩は。
    亀の井ホテル長瀞寄居に3世代で宿泊された由、大勢でしたが
    お孫さんとの交流は楽しかった事でしょう。
    頼りになる孝行息子御二人にお嫁さん二人、かわいい盛りのお孫さん3人、
    全員で9名の大家族、万々歳と言って良いでしょうね。

    さて、かんぽの宿時代に1度宿泊(素泊り)しました。
    それであまり印象が残っておらず、この旅行記でこのような宿だった
    と、再確認しました。もっとも、当時より改装されたのでしょうが。

    飯能に姉夫婦が住んでいましたので、確か、実家の仏事に車に
    同乗してもらうために、前泊したのでした。
    若い頃、長瀞も中学の仲間と何度か来ましたので、懐かしい場所でしたが・・・。
    仏事を控えて、余裕が無かったのは残念でした。

    それではまた。
    jijidaruma
    2025年09月16日01時40分返信する 関連旅行記

    Re: かんぽの宿時代に1度宿泊しました。

    jijidarumaさん、
    今日は。
    コメントありがとうございます。
    寄居のかんぽの宿に宿泊なさったのですね。
    長瀞にも良く足を運ばれたとのこと。
    昔のことを少しは思い出して戴き 嬉しいです。

    我が家は 40年以上前に別メンバーの
    3世代で訪れて以来でした。
    その折はライン下りをしました。
    宿泊は秩父の民宿だったと記憶しています。

    それではまた。
    パッピー
    2025年09月16日09時49分 返信する
  • 奈良井宿の長いこと!

    パッピーさん、
    今晩は。御付き合いでフォロー頂き有り難うございました。
    どうぞ宜しくお願いします。
    (フォローも投稿分を読み込むには、50名以内に抑えていたい方針です。今回、長くホッテ?!置いた方々でお立ち寄りの無い方を整理し、40名を切ったので、新たにまた追加させて頂きました)

    さて、それにしてもパッピーさんはお元気で、好奇心が高いのですね。
    山野辺の道から室生寺、そして奈良井宿を制覇されたのには驚きました。今回は私も行ったことのない奈良井宿なので、一段と興味深く読ませていただきました。
    私の故郷は時々、投稿しています様に、東京は西の果て、旧甲州裏街道の青梅宿です。一応東京都ということもあり、都市化の為、もう<宿>といった雰囲気は皆無ですが。

    奈良井宿は1kmの宿場町だと書かれていましたが、宿場の地図と投稿された写真集を見ると、納得です。しかも宿場らしい雰囲気も残り得難い場所ですね。
    一度ぐらいは、訪ねてみたいものです。

    1kmと聞いて、私の方はドイツの城郭都市Burghausenブルクハウゼンa.d.Salzsachを思い出します。(偶々、絵葉書集を見ていて、ここの絵葉書をスキャンしたばかりでしたから)南ドイツのBerchtesgardenベルヒテスガーデンからPassuパッサウに向かう途中にある町で、その城郭都市はSalzsachザルツアッハ川沿いに、1kmの長さに渡っていると云われています。
    川を渡ってオーストリア側の丘に登ると、その姿が見えますが、壮観ですね。

    それではまた。
    jijidaruma
    2025年09月14日19時36分返信する 関連旅行記

    第二の青春楽しみましょう!

    jijidarumaさん
    お早うございます。
    敬老の日ですね。
    孫からハガキが来て喜んでいたところ
    長女からはクラフトビールが届くそうです。
    そうか! 子供からも敬老のお祝いか
    と少し落ち込んでいたら、
    レイト バースデイ プレゼントだそうです。

    こちらからフォローしたいと思っていたので
    青春時代に憧れた立高生に
    フォローして戴き光栄です。
    出身高の野球部は存続が危ぶまれる程。
    顧問の英語の先生が授業中に
    「勉強でもとても叶わない。
    立高に練習試合で負けるようでは」
    と呆れ果てていたのを思い出します。
    私は 吉永小百合「伊豆の踊り子」を中学時代に
    見に行きました。ので実際に歩かれたブログ
    とても懐かしく楽しみました。
    要所要所は子供が小学生の頃
    夫のドライブで回りましたが、
    jijidarumaさんのブログを読み
    いつか一部でも歩きたいと思っています。
    ブルクハウゼン、ジグマリンゲン等々を
    いつの日か心置きなく訪れられますように!

    奈良井宿 楽しんで戴き、滑らないで
    歩いた甲斐がありました(^^)/
    今日もドジャース勝ってくれますように!
    ではまた。
    パッピー


    2025年09月15日06時54分 返信する
  • 残暑お見舞い:大蔵省のバーバさん、ご活躍、何よりです。

    パッピーさん、
    今晩は。お立ち寄り頂き有り難うございました。

    親子三代の旅、楽しかった事でしょう。
    全員参加が出来ないのも、大勢の日程調整はなかなか難しいから、何事も完璧にはなりませんね。それにしてもお孫さんとの交流は写真を拝見すれば、その楽しさや嬉しさが伝わってきます。この頃が一番良い時かもしれません。
    「ばのちとまります Y」のラインのお手紙、素晴らしいです。
    (我が家のように孫たちが大学生、高校生になってくると、お正月や夏休みに来訪するのがやっとで、一緒に旅をする機会が皆無になるかもしれません)

    さて、涼しいと聞く勝浦、避暑には丁度良い場所でしょうか!
    春に遠見岬神社のお雛様の階段を見に行ったことがありました。その美しさに驚きましたが、6月の時期の神社の佇まいもまた良いもので、なるほど石段の上はこうなっていたのかと・・・。
    伝説好きもあって、お萬の方の伝説、言い伝えも読みました。
    アーこの方は徳川家康の側室で、水戸家の黄門さまの母君だった方と推測して、Wikiを見てみました。あたりました。地元千葉県には結構黄門さまの話やお万(萬)の方御手植えの木の話が残ります。

    それではまた。
    jijidaruma
    2025年08月18日19時40分返信する 関連旅行記

    Re: 残暑お見舞い:大蔵省のバーバさん、ご活躍、何よりです。

    jijidarumaさん
    残暑お見舞い申し上げます。
    夕方になってクーラーをつけずとも凌げるようになりました。
    ご丁寧にお読み下さり有難うございます。
    勝浦には6月末に行きましたが、この日はとても暑かったです。

    10月末にシュツットガルトの友に会いに行きます。
    ついでに、コロナ前に予定して果たせなかったアルザスに行こうか、
    それとも城廻にしようか迷いjijidarumaさんのジクマリンゲン城の
    口コミを読ませて戴きました。今回ホーエンツォレルン城にはバスで行き、
    リヒテンシュタイン城には車で連れて行って貰うことになっています。
    折角なのでジクマリンゲン城も行って見たい。
    散々考えて、やっぱりアルザスにしようと、今日、宿をとりました。
    jijidarumaさんからお便りを読むと、ジクマリンゲン城に、
    又行きたくなりましたが、この次の楽しみにとっておくことにします。
    それでは ドイツのブログ少しずつ楽しませて戴きます。

    パッピー
    2025年08月18日23時27分 返信する

    Re: 残暑お見舞い:ドイツ&アルザス

    パッピーさん、
    ご返信ありがとうございます。

    次回の旅がドイツ、アルザス(ドイツ党の私は此処もドイツと思っています:笑)の事となると、実に羨ましく思います。
    ジクマリンゲン城、ホーエンツォレルン城、リヒテンシュタイン城の3城はドイツ好きだと、必須ですね。後はモーゼルのエルツ城をお訪ねになれば、申し分ないでしょう。

    10月末の旅ならば、アルザスのワイン街道、オー・クニグスブール城など楽しいでしょうね。

    楽しい旅になりますように!
    jijidaruma
    2025年08月19日00時17分 返信する

    Re: 残暑お見舞い:ドイツ&アルザス

    jijidarumaさん、
    お便り有難うございます。

    昨晩は ジクマリンゲン城には行かないと書きましたが、
    予定変更して、ジクマリンゲンの宿を押さえました。
    エルツ城はやはり今回は断念ですが、
    ジクマリンゲン城、ホーエンツォレルン城、リヒテンシュタイン城
    には行けます(^^♪
    オー・クニグスブール城にはどうしても行きたいので 
    セレスタで一泊します。
    jijidarumaさんお薦めのワイン街道、
    コルマールからバスで一日周遊するかもしれません。
    楽しんで来ます。

    パッピー
    2025年08月19日19時03分 返信する
  • 松本城

    パッピーさん おはようございます。
    詳細な松本城の見学記で感心しました。
    女性の方は城に興味を示されることは少ない感じですが、城に興味を持たれて嬉しく感じております。
    日本百名城制覇もいかがでしょうか?

                  【164-165】
    2025年06月17日06時22分返信する 関連旅行記

    Re: 松本城

    164-165さん、初めまして。
    コメント有難うございます。
    ~~制覇とかは少し苦手かな。
    気ままに出かけ、何もかも珍しく
    写真を撮りすぎます。
    復習が沢山になり、
    その内次の旅の準備で忙しくなり、
    旅行記はもういいか、、、となっています。
    秋に百名城ではありませんが、
    米子城に行ければと思っています。
    今後とも宜しくお願いします。

    2025年06月17日08時49分 返信する
  • 沖縄の戦跡

    パッピーさん、こんにちは

    琉球王朝時代の城に着目するとは通ですね
    沖縄は本島や周辺の島も含めると、大小実に多数の城がありますが、残念なことにその多くが戦禍で破壊されたり、自治体の資金不足で放置されていたりで、らしき石垣がわずかに残っているだけの所も多く、せっかく見学に行っても「あれ?」となることも・・・

    戦跡にもご興味がおありのようですが、僭越ながら私のレポートが少しでもご参考になればと思います
    沖縄に何度も通ううちに、琉球時代の文化沖縄戦に関心を持ち、特に戦跡はかなり入れ込んで回った時期がありました
    クルマがないと厳しい場所も多いのですが、公共交通機関で行ける場所もありますので

    https://4travel.jp/travelogue/11175313
    https://4travel.jp/travelogue/11176611
    https://4travel.jp/travelogue/11177753
    https://4travel.jp/travelogue/11186513

    ---------琉球熱--------
    2024年12月20日00時03分返信する 関連旅行記

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