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沖縄県営平和祈念公園

公園・植物園

沖縄県営平和祈念公園 クチコミ・アクセス・周辺情報

糸満・ひめゆり 観光 満足度ランキング 2位

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沖縄戦終焉の地となった摩文仁の地にある県営公園。園内に建設された沖縄県平和祈念資料館・敵味方の区別なく沖縄戦で戦死した23万余の犠牲者の名を刻んだ平和の礎・国立戦没者墓苑がある。

ピックアップ クチコミ

  • 満足度の高いクチコミ

    広々とした 沖縄県営平和祈念公園

    4.0

    沖縄バスの南部戦跡バスツアーに参加申込みをして、沖縄県立平和祈念公園に行くことできました。 レンタカーを借りないとなかな...  続きを読むか訪問するのは難しくと思います。 海沿いで広大な敷地です。 巡回バス100円で乗れるので、歩くのがイヤな場合は利用すると良いと思います。 平和の礎・国立戦没者墓苑は。沖縄戦戦没者の方のお名前が日本人外国人にかかわらず、全員載っているとのこと。 検索機能の機械も設置されています。  閉じる

クチコミ・評判 14ページ目

261~280件(全469件中)

  • 摩文仁の丘慰霊碑群の南南東に建立されている宮城之塔は、沖縄戦戦没者582名を含む南方諸地域戦没者45,500余名を祀る都道...  続きを読む府県別慰霊塔のひとつです。宮城県内を流れる阿武隈川のほとりより運び出し、陸上自衛隊と琉球海運の手によって沖縄へと運ばれたものであり、昭和43(1968)年2月20日に建立され、現在に至っています。

    碑文に書かれている内容は他の都道府県別慰霊碑と同じように、望郷の念にかられながらも遠く戦場の陸・海・空に於いて亡くなられた戦没兵士の御霊を慰めるべく、恒久平和を願いこの?宮城之塔?を建立したと書かれていました。確かに戦地となったすべての場所に慰霊碑を建立するのは物理的にも無理なことであることは容易にわかることだと思います、しかし文面に於いてそのことに触れているものは多くはありません。

    建立時には経済発展を遂げた日本国民の沖縄への渡航が増え、そのことが宮城の塔建立の後押しをした旨が書かれています。その時代は確かにそうだったのかも知れません。しかし現在では観光地化された戦跡はともかく、そうでなければ訪れる方も多くはありません。県民の意向を受け慰霊塔を建立したというのであれば、少なくとも行事予定位は知らせる努力はしてもいいようにも思えます。  閉じる

    投稿日:2016/06/08

  • 平和の礎(いしじ)、先の大戦に於ける沖縄戦戦没者の全芳名が刻まれており、毎年追加記銘者が増加しています。平和の火を中心に同...  続きを読む心円状に広がった黒御影の記銘板は平成7(1995)年に建てられたものです。

    平和の礎そのものも立派なものであり、ひけを取らないものの建立時期が摩文仁の丘に於ける都道府県慰霊塔や軍関係の慰霊塔に比べるとかなり遅かったことが建立当時には論議を醸し出していたそうです。

    身内に戦没者がおられるならば、多分その名前を探して手を合わせるだけで終わってしまうのかも知れません。しかしある程度沖縄戦末期に住民のために奔走された方々のお名前も刻まれています。

    広場にある平和の礎、摩文仁の丘にある慰霊碑群と場所的には離れてはいますが、歴史を知ればその名前を探すことも一興になるかも知れません。この広大な公園内にあるものはすべてが繋がっていることを忘れないで頂きたいと思います。  閉じる

    投稿日:2016/06/03

  • 第62師団、昭和18(1943)年6月に大陸で独立混成第4旅団と独立混成第6旅団の主力によって北満にて編成され、翌昭和19...  続きを読む(1944)年8月に沖縄へと転戦し、隷下に歩兵第63旅団と歩兵64旅団の2個旅団、そして各旅団には独立歩兵4大隊(連隊)を持つ約6万の兵力を持っていたそうです。初代師団長の本郷義夫中将は体調を崩し、沖縄にて藤岡武雄中将と交代され沖縄島中部の防衛に従事しますが、その後第9師団の台湾抽出などもあり配置換えが続き、将兵の士気の低下に悩まされた時期もあったそうです。

    昭和20(1945)年4月1日、米軍が読谷・北谷の海岸に上陸。第32軍司令部は水際作戦を避け一個大隊に遅滞作戦を命令し、4月7日頃からの嘉数の戦いに始まる?熾烈な戦い?を迎え撃ちます。圧倒的兵力火力に勝る米軍を互角以上にまで攻め立てたときもあったものの次第に押されることとなり、徐々に第32軍司令部のある首里へと後退せざるを得なくなります。

    5月末にはほとんど主力部隊が残っていない中で首里司令部が南部摩文仁へと後退、それに同行するように師団司令部他残存部隊も南下します。6月に入ると既に横の繋がりが通信網の途絶によりほとんど不明の状態で戦わなくてはいけなくなり、どの部隊が残存しているかすらわからない状態だったようです。そのような状態の中藤岡師団長と中島旅団長がこの?第62師団慰霊碑?の地で、有川旅団長も米須にて自決。翌6月23日未明には牛島司令官と長参謀長が自決し、日本軍の組織的抵抗は終焉を迎えました。

    この第62師団隷下の部隊には京都と福井(敦賀)の将兵で構成されていたとの記述がされているものが多く存在します。京都3個大隊、敦賀5個大隊がその謂れを指していますが、時期的なこともあり、この敦賀連隊区が一部滋賀県の徴兵を担当していたこともあり、それ故滋賀県ご出身の沖縄戦で戦没された将兵数が多いとされています。勿論多くは…という記述であるがため、沖縄で徴用された防衛隊の方々約10,000人も犠牲者の中に含まれています。その他補充部隊として後々投入された大隊の中には?富山丸事件?によって犠牲となった上に、残存兵士も南部戦線に送られて玉砕された事実も残っています。

    この第62師団慰霊碑は、建立者が石部隊生存者とあるように、元軍人の方々の手によるものであるため、近隣の都道府県別慰霊碑とは趣が異なるように思えるところがあります。しかしそのご遺族からの願いのもと、師団長藤岡武雄中将のご令室豊子夫人の尽力もあり、昭和39(1964)年6月22日に藤岡師団長の命日に建立されたものが?第62師団慰霊碑?になります。

    摩文仁の丘慰霊碑群には、建立者や祀っている戦没者によって色々と趣が異なっているものが並んでいたりすることがあります。見る観点によっては不愉快感を持たれることもあるとは聞いていますが、あくまで犠牲となった戦没者の御霊を祀っていることに違いはありません。先入観で行く行かないを決めるよりは、実際に訪れてみて自分の目で見て、体で感じてからその価値を考えれば良いのではないか…、そう思いました。  閉じる

    投稿日:2016/05/31

  • 三重県ご出身の戦没者を祀っています。

    • 5.0
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 7

    摩文仁の丘慰霊碑群の中腹部にある?三重の塔?は、三重県ご出身の沖縄戦戦没者2,600名と南方諸地域戦没者31,300名、そ...  続きを読むの他地域戦没者19,100名の53,000余名を合祀する都道府県別慰霊塔のひとつとして昭和40(1965)年6月26日に建立されました。

    最近伊勢志摩サミットのニュースなどで三重県が紹介されているので、見る人が見ればすぐに「あっ三重県だ!」とわかる位県の歴史に基づいた造りをされています。伊勢神宮やその周辺をモチーフにした三重の塔敷地、そこに敢えて浮かないように?磨き上げられていない石?の重厚感をあてて全体が纏められています。通常塔の他に付属するものを作れば作る程当初は纏まっていたものがだんだんとまとまり感を失ってくる。それが良しと思って行った改修を行えば行う程にバラバラになってくるように思えます。しかし三重県の場合、次の展開が素人目にもわかるような感じを受け、結果誰が見ても?三重の塔?という印象を受けます。勿論これは伊勢という歴史ある場所を持つ最大のメリットのように思えます。

    そして三重県の場合慰霊塔を管理する三重県遺族会の活動がこまめに報告されており、私と同じ戦没者遺族の孫の世代が遺族会代表に選出されたことなどが書かれていました。故郷を遠く離れて戦没した郷土出身の兵士の御霊を慰霊するため、激戦が行われた沖縄の地に挙って慰霊塔を建てたものの、年月には人間は勝てないという自然の摂理にぶつかり、将来的な慰霊碑の存亡が危惧されているのは確かな話です。そのような中で遺族会の会員不足にならないような活動をしていることは、やはり他の都道府県でも必要となってきているのではないでしょうか。

    しかし活発な活動をされていても、それが逆に目立ってしまい疑問に思うことも出てきます。三重の塔に於ける合祀者数は、他の都道府県別慰霊塔合祀者数に比較するとかなり多いことに気付きます。これを三重県が発表したデータに照らし合わせると、内地戦没者2,194名と外地戦没者44,189名となっています。このデータの違いが何を示しているのかは、その他地域には銃後の市民が含まれていることなどが挙げられます。勿論戦没者慰霊塔である以上戦争によって亡くなられたすべての方々の慰霊をする場所であることには変わらないのですが、やはり例外的な記述をすると正しく書いているのに誇大解釈をされてしまうことはあるように思いました。

    数字の問題はともかく、やはり一見するだけで○○県がわかる慰霊塔には、一度訪ねて同じ体験をして貰いたいと思います。  閉じる

    投稿日:2016/05/31

  • 摩文仁の丘慰霊碑群の中腹にある都道府県別慰霊碑である?岐阜県の塔?は、沖縄戦戦没者907名、南方諸地域戦没者25,924名...  続きを読むの26,831名を合祀しています。

    塔のつくりは非常にわかりやすい合掌をモチーフとしています。形としては根だつものではありませんが、なぜ合掌の姿を取り入れたかを塔の建立由来分に刻まれており大変良くわかるものでした。

    合掌は、人が祈るときのもっとも敬虔な姿であり、
      
      第一に ご英霊の冥福を祈り
      
      第二に 遺芳がいつまでも語り伝えられることを祈り
      
      第三に ご遺族の幸福を祈り
      
      第四に 沖縄との一体化を祈り
      
      第五に 世界の平和を祈る

    という願いが込められている。と書かれていました。

    合掌する姿が?祈り?を表すことは誰にでもわかることですが、それを細分化して説明されるとなにかこう新しい発見をしたような気持になりました。なにか心を洗われた気がする岐阜県の塔でした。
      閉じる

    投稿日:2016/05/30

  • 摩文仁の丘慰霊塔群の中核的存在、それが国によって建立された国立沖縄戦没者墓苑ではないでしょうか。昭和54(1979)年2月...  続きを読む25日に当時の厚生省によって建立され、現在では18万人余りのご遺骨を祀っています。沖縄戦に於ける中心的慰霊塔であるため、規模も大きく敷地面積8,528平方メートルは米須霊域に建立された東京之塔の敷地面積8,000平方メートルを凌いでいます。

    建立から37年が経ち施設の老朽化が進んだことによって、墓苑の参拝所と献花台を担う東屋が老朽化し、改築準備中とのことで現在立ち入りが出来なくなっています。平成28年度中には建て替え工事が終わるとのことですが、現在は納骨堂前にて参拝や献花は行えるようになっています。

    確かに戦争という?国家?の問題に於いて亡くなられた将兵・軍属・住民を祀るということは、国家事業なのかも知れません。しかし史上稀に見る激戦が行われた沖縄の地では、景色が変わり戦前の写真からは全く想像もできないほど景観が変わってしまいました。そこで立ち上がったのは、戦争を生き残った住民の方々でした。戦争によって住む場所を焼かれた上に戦後の米軍統治下の貧しい時代、払い下げのセメントなどを用いてあたり一面に散在していた遺骨を収集し、埋葬したのも他ならぬ沖縄県民の方々の手によるものでした。物資がない中で建立された慰霊碑は、決して豪華なものではありませんでした。しかし心の籠ったものとして数万単位での戦没者のご遺骨が祀られている他に類を見ないものだったに違いありません。確かに遺骨収集活動が進むに従って集められた遺骨の数は増加の一途を辿り、既存の慰霊碑では賄い切れない現実に直面します。そこで昭和32(1957)年、日本国政府が当時の琉球政府に委託し那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設して、個々の慰霊碑に分かれていた遺骨をまとめて納骨することになったものの、次第に収骨数が多くなるに連れ中央納骨所も手狭になってきました。その後昭和47(1972)年5月15日に日本国復帰を果たした沖縄県に対し、昭和54(1979)年に国立沖縄戦没者墓苑が創建され、戦没者中央納骨所に収められていた遺骨を転骨されたことにその歴史は始まったとのことでした。

    この経緯について?国難に準じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきである?との要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられたとの理由が記載されてはいるものの、それを盾にして納骨されている慰霊塔から半ば強制的に転骨が行われたとの話も事実として残されています。お骨を納めていた多くの場所が壕やガマといった?聖なる場所?であった事実は加味するも、戦争を彷彿させる場所を閉鎖する意見もあったことには間違いはありません。納骨されていた場所に建立された慰霊碑が廃棄されたことは、その役目を終えたことによる?理由?に他なりません。

    慰霊碑が建て替えられて新たに納骨堂を持つ慰霊碑の記述に?分骨を納めています?との記述があるのは、やはり国が一方的に国策としたことに対する?最大限の抵抗?のように読み取れるのは、私だけではないことのように思えます。

    分骨の考えには賛否両論あり、現在でも様々な理由で行われているものではあれどひとつとして万人を納得させるものではないように思います。戦場に斃れ野晒しになった期間を経て集められた遺骨の魂には、一度得た?安らぎの場所?を追われることを良しとするものはないように思えてなりません。

    確かに戦没者遺族の一個人が言ったとて変わるものではないことでしょう。しかしこの国立沖縄戦没者墓苑に収められている18万余柱の遺骨の数からは、沖縄戦に於ける戦没者の数とは若干の開きがあることに気付きます。この場所に収められていれている遺骨数は沖縄戦戦没者の約90%と言われており、逆に言えば遺族の手元に戻ったご遺骨は10%程にしかならないという事実です。

    数十年前祖母の納骨の時に初めて祖父のことを知りました。骨壺なのかそのままなのかは聞いてはなかったものの、?沖縄の石ころひとつ?だったことに衝撃を受けた記憶があります。唯一の直血だった母親もなくなり、血筋の問題でこの話を聞くこともできなくなりました。その現実を考えれば唯一顔を知らない祖父に会えるのはこの国立沖縄戦没者墓苑だけということになります。

    琉球石灰岩であるトラバーチン1,000個を積み上げられて琉球王家の墓を模した古来の技法で作られた大変立派なこの国立沖縄戦没者墓苑納骨堂。そしてそのカタカナの?コの字?型に作られていることは、祖国の平和の礎となられた同胞を温かく抱擁していることを意味していますと立派なことが記されていました。そして納骨堂に抱きかかえられるように安置されている石棺は、福島県産の黒御影石でどっしりとした万成御影石の台座にのっており、その石棺の中には沖縄の各戦場の象徴遺骨が白木の箱に分骨して納められているそうです。

    この定義は何によるものなのかはわかりません。しかしたまたま同じ時に国立沖縄戦没者墓苑に晴明祭(シーミー:沖縄の先祖供養の行事)で訪れておられたご夫婦にお会いしました。ご主人のお父さんが沖縄戦で亡くなられたそうですが、若い(?)内地からの訪問者はどうやら珍しい様子でした。一世代違うと年齢もだいぶ変わるということのようでした。

    思うところは多々あり複雑な由来があるこの国立沖縄戦没者墓苑したが、現在ではやはり沖縄戦戦没者の御霊が納められている聖なる場所になっているのに違いありません。過去の問題点を含めても?慰霊の気持ち?だけはどんなことがあっても忘れてはいけない場所には違いありません。  閉じる

    投稿日:2016/05/30

  • 摩文仁の丘慰霊塔群の中腹にある?立山の塔?は都道府県別慰霊塔で富山県のものとして昭和40(1965)年11月5日に建立され...  続きを読むました。立山の塔には、沖縄戦戦没者876名と南方諸地域戦没者13,996名が合祀されています。

    都道府県別というよりは摩文仁の丘に建立されている慰霊塔の中で目を引く存在となって入ることは高さ約10mの斜塔、つまり真っ直ぐではなく斜めに建っている塔のデザインかと思います。先の尖った五角形の斜塔には、故郷や肉親のことを思いつつ南海で散華した将兵の悲しみを表していると書かれています。

    立山の塔前面には富山県の銘石である常願寺川の油石と万成石がはめ込まれており、その他の資材もすべて郷土産の石材が使用されて作られているそうです。県内産の石材を用いて建立されていることは他の都道府県別慰霊塔と同じ考えで建立されているものの、この?斜塔?という他に類を見ないもので建立されたのは、建立に携わった方々の想いがあるものの、多分一般の人間にはわからないことかと思います。経緯はともかく公募で募った富山県の秀峰である立山の名を被せたのは、やはり富山というと立山という概念的なものによるもののように思います。建立の碑文に刻まれている?立山の言葉に県民の強靱、不屈の精神と御霊の悲痛な心情を表現し、全県民の哀悼と平和希求の一念が込められている。?との言葉にはなかなか理解に苦しむところはあるものの、それはやはり富山県民の考えに基づいた理由であることには間違いありません。

    形状で目を引く立山の碑、その視覚的特徴を体験するために尋ねる価値は大いにあるように思います。  閉じる

    投稿日:2016/05/30

  • 摩文仁の丘慰霊塔群の中腹に位置する静岡の塔は、静岡県ご出身の沖縄戦戦没者1,607名と南方諸地域戦没者38,802名の計4...  続きを読む0,409名を合祀し、昭和41(1966)年4月30日に建立された慰霊塔です。

    建立の経緯には他の慰霊塔ではあまり書かれていないことが刻まれており、元々県の方針としては沖縄県護国神社の復元費用の分担を考えており、慰霊碑の建立は当面見合わせるとの意見があったようです。しかし都道府県慰霊碑の建立が進む中やはり静岡県だけは…という遺族や県民の意見にはならず、静岡県戦没者沖縄慰霊塔建立奉賛会の発足とともに慰霊塔建立の話が進み、実現に至りました。

    この静岡の塔ですが、都道府県別慰霊碑の中では具体的にわかる内容が目につき、塔前面に刻まれている?静岡県章?と秀峰富士山だとほぼわかる?山のかたち?をモチーフにしたレリーフがあります。戦没者の御霊をモチーフにそれを守るという象徴的なつくりではないものの、一見して静岡だとわかるように作られていることには、戦争により故郷を遠く離れて亡くなられた戦没者の御霊を?ここだ!?と知らせているように感じました。千差万別色々な考えのもと建立された都道府県別慰霊塔、そのひとつひとつに込められた願いを感じるべく回って行くことも興味深いことでした。
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    投稿日:2016/05/30

  • 群馬県ご出身の戦没者を祀る慰霊塔です。

    • 5.0
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 8

    摩文仁の丘慰霊碑群が立ち並ぶ中間あたりに群馬の塔は建立されています。先の大戦に於ける群馬県ご出身の沖縄戦戦没者847名と南...  続きを読む方諸地域戦没者29,942名の30,771名を合祀し、昭和38年2月1日に建立されました。

    一見するだけでは岩山に石板を合わせたように見えますが、この岩山は沖縄戦戦没者のご遺族から送られた故郷の石を散りばめて造られているものであり、上部の石板は故郷の群馬に向けて手を合わせている姿をモチーフとして建てられたもののようです。

    現在まで4回の改修工事を行っており、最も新しい改修工事碑には、違和感を感じる参拝者に対するお礼の言葉が書かれていました。これも確かに時代背景によって変わってきたもののようには思いますが、元々群馬の塔の建立碑文には特徴的なものがあり、知る人ぞ知るもので有名でした。?大東亜戦争における沖縄での戦いは、当時、日本軍と全沖縄県民が一体となってあたり、その激戦の様相は、非常に凄絶なものがあった。この戦場となった現地に沖縄と南方諸地域などで戦死した群馬県出身の戦没者を慰霊し、併せて世界平和を祈念するため、「群馬の塔」が建立された。?つまり沖縄戦に於いて沖縄県民のことに触れているというものですが、これは当初群馬県と京都府のものだけであったそうです。もっとも群馬の塔の碑文には、軍と沖縄県民の一体感が強調されているのに対し、京都の塔では沖縄県民の被害について共感と友好を強調しているといった対称的な立場で書かれているものであり、全く同じという訳ではありません。

    摩文仁の丘慰霊碑群は、建立者が違うだけで同じものという言い方をされることもあります。しかしその碑文には色々と特徴的なものがあるため、それを知っているといないのとでは大きな開きが出てくるように思います。散歩がてら歩いて慰霊碑群を回ると興味深いことが新たにわかるかも知れません。  閉じる

    投稿日:2016/05/30

  • 「島守の塔」は、平和祈念公園内の霊域ゾーンにあります。沖縄県最後の官選知事であった島田叡知事と荒井退造警察部長ほか戦没した...  続きを読む458人の県庁職員を合祀した塔です。
    島田知事は昭和20年1月、米軍上陸の予想が確定している沖縄県へ知事として、大阪府内政部長より赴任、その島田知事と二人三脚で戦時下の県民の救済に当たったのが荒井退造警察部長です。2人が推し進めた疎開政策で沖縄戦を生き延びた沖縄県民は20万人に達すると言われており、2人の行動は沖縄戦の史実の中で、たいへん評価されるべきできごとです。その後、戦局が日々不利となり軍司令部の南部への撤退と共に島田叡知事と荒井退造警察部長がこの地に移動したが、昭和20年6月消息を断ちました。そのため、この地が二人の終焉の地とされており、島守の塔はその壕の前に建立されています。
    米軍の沖縄上陸が近いことを知って県外へ逃げた泉知事や職員に代わって、県民の救済に尽力したお二人は当時、島田知事は43歳、荒井部長は44歳という若さでした。お二人をはじめ、最後まで逃げずに職務を全うされた職員の方々の胸の内を思うと、私にはとてもできないことで胸が詰まりました。今日の平和と繁栄は、戦争によってかけがえのない命を落とされた人たちの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れてはいけないと考えながら、御霊安らかにとお祈り申し上げました。
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    投稿日:2016/05/29

  • 風部隊とは、戦況気象情報・基地通信・整備・燃料補給・整備といった後方任務に当たっていた部隊でした。昭和19年(1944年)...  続きを読む10月10日の十・十空襲以降第32軍の指揮下に入りました。

    米軍の上陸以降、壊滅的な被害を受けた軍の通信網に代わり大本営や関係部隊に対し戦況を報告するなどの通信関係業務を行っていましたが、戦況の悪化に伴い軍司令部や主力部隊とともに南部へと撤退し、結果最前線にいたことになり多くの将兵が帰らぬ人となりました。

    沖縄戦に於いて多くの民間人が犠牲となったことは周知の事実ではあるものの、通常ならば前線に立つことがないだろう後方部隊には、同じ軍の中でも差別意識があり、戦闘訓練や武器の所持すらままならなかったのも事実です。軍人という括りで十把一絡げにしてしまいがちですが、対抗手段を持たずして最前線に置かれることは、想像を絶する恐怖感を持っていたのではないでしょうか?

    477名の戦没者を祀る一方、運良く助かった生存者からなる航風会が建立し守ってきた風部隊之碑ですが、将来的に必ず起こる会員数の減少による碑の運営問題や無縁化を防ぐべく平成24(2012)年1月に?碑の処分に関する覚え書き?を沖縄県平和記念財団と交わされています。戦後70余年が経ち、人間の命には限りがある現実を目の当たりにしたように感じました。  閉じる

    投稿日:2016/05/29

  • 茨城県ご出身の戦没者を祀っています。

    • 5.0
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 8

    摩文仁の丘都道府県別慰霊塔のひとつ茨城の塔は、沖縄戦戦没者610名と南方諸地域戦没者38,200余名を合祀し、昭和39(1...  続きを読む964)年11月22日に建立されました。

    少し他の都道府県別慰霊塔とは異なる作りがされており、茨城の塔と刻まれた?塔身?の上に?平和?をモチーフとした球が置かれています。塔身はくり抜かれており、銅板で作られたふたつの箱が収められています。中には戦没者名簿や遺品、塔建立時に遺族や県民から寄せられた香華料の封筒などが密封し保存されています。

    作りからすると、戦没者の御霊によって現在未来の平和が支えられていることになるため、製作意図は他の都道府県別慰霊塔とは少し異なるように思います。しかし多くの犠牲者によって平和が保たれているとの考えは、やはり共通したものでしょう。

    製作意図によって表現される形が変わることはやはり興味深いことだと思います。そんなことを考えながら立ち寄りたい場所であるように感じました。  閉じる

    投稿日:2016/05/29

  • 摩文仁の丘にある職種別慰霊塔のひとつです。

    • 5.0
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 7

    逓魂之塔は、沖縄戦に於いて戦没された郵便・通信関係者428名の慰霊塔として昭和40(1965)年6月23日に建立されました...  続きを読む

    昨今の分割民営化の代表的な職種であり、敷地内に植えられた植樹も郵政大臣・総務大臣・電電公社・NTT・日本郵政など様々な代表者の名前が見受けられます。

    戦前・戦中・戦後と目まぐるしく管轄が変わった職種なれど、やはり戦時下という環境下ではなくてはならなかった仕事には違いありません。

    戦没者の慰霊は勿論、その複雑な社名変更も伺い知ることができる・・・そんな不思議な場所のように感じました。  閉じる

    投稿日:2016/05/28

  • 摩文仁の丘中腹部、都道府県別慰霊塔のひとつであるのじぎくの塔は、先の大戦に於ける兵庫県ご出身将兵他3,073名を祀っていま...  続きを読むす。慰霊塔の名前であるのじぎくは、公募で兵庫県県花がのじぎくであるために名付けられました。

    昭和39(1964)年6月13日に建立され、公募によって名付けられました。一般的な塔とは趣が異なるとされていますが、塔基壇に置かれている主碑である球状のみたま石は戦没者を、またみたま石を挟み込む2枚の石板?合掌石?が遺族や県民の手を象徴するものあり、戦没者の芳名が刻まれている背部の石板とともにみたま石、すなわち戦没者を自然の厳しさから守るように建立されている背景は、やはり故郷を遠く離れて亡くなられた御霊を慰霊する他府県の慰霊塔と同じものを感じます。

    最終的な想いは古今東西変わりません。その表現形を知る意味でも訪れてほしい場所です。  閉じる

    投稿日:2016/05/28

  • 摩文仁の丘への登り口途中にある都道府県別慰霊塔のひとつ房総之塔は、先の大戦に於ける沖縄並びに南方諸地域での戦没者35,69...  続きを読む3名を祀っています。うち沖縄戦の戦没者は1,608名で、昭和40(1965)12月3日に建立されました。

    塔中心部の玉魂には建立当初は戦没者の遺品の陶器を散りばめたものでしたが、平成5(1993)9月の台風で破損し、同年12月3日県花の菜の花と千葉県を表現した波をモチーフとした現在の玉魂に改修されました。また旧玉魂は現在では見ることができないものの、塔後方部に埋納されています。

    玉魂という戦没者の魂を両手で包むように守り安らかに眠って頂こうという気持ちと、現世の平和と子孫の繁栄を祈念する願いは、多くの慰霊塔に共通するものです。しかしその表現の方法は個々の慰霊塔ごとに異なっており、その建立背景を含めた経緯を知ることによって一層興味深いものになるように思います。  閉じる

    投稿日:2016/05/28

  • 房総の塔向かいにある愛媛之塔は、愛媛県ご出身の沖縄戦戦没者を祀る都道府県別慰霊塔です。建立当初は2,077名を祀っていまし...  続きを読むたが、後に2,039名に訂正されています。沖縄戦の戦没者が多いのは沖縄戦を戦った主力部隊第24師団隷下の部隊第22連隊が?伊予の肉弾連隊?と呼ばれた愛媛県で結成された精鋭部隊が昭和20(1945)年6月17日に米軍の馬乗り攻撃を受け、真栄里に於いて連隊司令部が玉砕しています。

    その地には栄里の塔が戦後建立され、戦闘に巻き込まれて犠牲となった住民を含めた遺骨12,000余柱が祀られています。連隊旗は後を託された将兵の手によって第24師団司令部壕に運ばれ、やはり玉砕した第89連隊旗とともに奉焼されました。

    戦争の是非論を今更語るのではなく、理由なく慰霊塔が作られたのではないという事実です。現在では風光明媚な場所を背景に建てられてはいるものの、70余年前にはどんな景色が広がっていたかを考え、それを踏まえた上でどうすれはいいのかを考える時期にさしかかっているのではないでしょうか。  閉じる

    投稿日:2016/05/27

  • 摩文仁の丘にある慰霊塔群の中間付近にある福井の塔は、第二次世界大戦に於ける福井県ご出身の戦没者24,507名を祀って昭和4...  続きを読む1(1966)年10月17日に建立されました。うち沖縄戦に於ける戦没者は1,183名と全国平均に比べると高いものになりますが、それは沖縄戦を戦った主力部隊である第62師団隷下の8つの大隊のうち敦賀連隊区管轄が5つを占めていることにも起因します。このあたりは時期によって京都師団区・大津連隊区・敦賀連隊区が行っていた徴兵のエリアが変わっていることもあり、満州に置かれていた独立混成第4旅団に配属になった時期にもよって変わります。

    しかし主力部隊を構成していた都道府県のひとつであった福井県から、沖縄戦に於ける戦没者数が多いことは容易に想像がつきます。同じ理由からやはり犠牲者が多かった京都府は、激戦地であった宜野湾市嘉数に慰霊塔を建立しましたが、福井県は日本軍終焉の地である摩文仁の丘にあります。

    冬になると雪が降りその雪おろしに効果的な?合掌造り?をモチーフとして作られた慰霊塔は、やはり故郷から遠く離れた沖縄の地で亡くなられた方々にいつも見ていた合掌造りを身近に置いて眠りについて頂く願いが伝わってくる・・・そんな感じを受けました。  閉じる

    投稿日:2016/05/24

  • 沖縄工業健児之塔、初めて聞かれる方も多いそうですが沖縄戦に動員された学徒隊のひとつである沖縄縣立工業学校の戦没者を祀ってい...  続きを読むます。上級生は工業鉄血勤皇隊輜重兵(しちょうへい:後方担当の部隊)第24連隊に、下級生は工業通信隊として第5砲兵指令部通信隊として動員されました。後方担当の部隊への配属であれば、戦闘の最前線に出ることはあまりないようにも思うのですが、戦況の悪化とともに前線へと借り出され、砲弾の飛び交う中での伝令や斬り込み隊をはじめとした危険を伴う任務に就き、加えて組織的戦闘が既に終焉を迎えていた時期に出された解散命令により、取り囲まれた米軍の包囲網を突破できずに多くの戦死者を出しました。

    諸説はあるものの学徒97名のうち戦死者85名という実に死亡率90%の学徒が亡くなったことは、戦争の犠牲となった学徒隊の21校の中で最も高いものでありながら知られていない事実だということに理不尽さすら感じます。また敷地内に並んである小さなお墓は、摩文仁で艦砲射撃弾の直撃を受けて亡くなった9名を祀っているものですが、うち5名の名前がわかっていません。

    慰霊塔の後ろには壕があり(未確認)、そこで自決して果てた学徒も多くいたとされていますが、未だその発掘が進んでいないことなど、これからだと思うところも多々ありました。学徒隊はなにもひとつではありません。沖縄県内多くの学校に通っていた少年少女が学徒動員され、未来を絶たれた事実は普遍のものです。平和祈念資料館からもすぐそこに見ることができる沖縄工業健児之塔にもぜひ足を運んで知った貰いたい…そう思います。
      閉じる

    投稿日:2016/05/24

  • 韓国人戦没者を祀る慰霊碑。

    • 5.0
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 8

    平和祈念堂を背景に周辺の慰霊碑とは異なる形状をした韓国人慰霊之塔は、昭和50(1975)年8月に韓国人慰霊塔建立委員会によ...  続きを読むって建立されたものになります。日本の統治下にあった朝鮮半島からは第二次大戦中多くの人が連れてこられ、ハイリスクの仕事を強制され、虐殺も行われたと碑文には書かれていました。犠牲者は1万余名とはあるものの実数は不明です。

    勿論全く事実無根という訳ではないものの、なにかしっくりこないものも感じます。それは朝鮮半島出身の軍人がいたという事実。日本に於いても赤紙で徴兵された兵士の方々のうち従軍することが本望だったかどうかとなるとわからないところはありますが、特攻隊員として散華された方11名の朝鮮半島ご出身の日本軍兵士がいたことには触れられていません。被害者意識を鼓舞するだけならばそれでもいいですが、それでは事実を伝えていないと思います。

    自国内で言う分に関しては関わることのないように思えるものの、それを知識を持たない少年少女達に押しつける?偽善平和ガイド?の行為には閉口します。

    今はその?嘘?を信じるしかない世代も、いつかは事実を知る日が来ると思います。その事実を知ったときに?日本人の大人?の発言がどれだけマイナス因子を与えるのか?それも考えて貰いたいと思います。ヘイトスピーチと漠然と言われますが、人偽的な理由によって出てきていると思うのは私だけでしょうか。  閉じる

    投稿日:2016/05/24

  • 摩文仁の丘慰霊碑群の中間付近にある近江の塔は、滋賀県ご出身の沖縄戦を含む南方緒地域戦没者1,697名を祀っています。戦没者...  続きを読むの内訳は沖縄戦1,202名南方緒地域495名と圧倒的に沖縄戦で戦没された方が多いのは、当時滋賀県は京都師管区が担当しており、徴兵された兵士を満州の独立混成第4旅団へと送っており、その後改変され第62師団として沖縄に送られたためだとされています。

    昭和39(1964)年11月25日に滋賀県と各市町村からの補助金を受けて建立され、その後平成3(1991)年10月22日に改修されています。塔のつくりなどはそれぞれの慰霊塔が持つ特徴として?思いを馳せる?ものとなっています。

    ただ?近江の塔?の碑銘に添えられている写真がなぜに?近江大橋?なのかな?と思うところがありました。近江大橋は昭和49(1974)年9月26日に開通しましたが、同じく琵琶湖を渡る?琵琶湖大橋?は昭和39(1964)年9月28日の開通…。どうせなら琵琶湖大橋の方がいいんじゃないかとも思います。あと余談ではありますが、改修工事をされたときの滋賀県知事であった稲葉稔氏とは同じ町内会だったこともありました。

    歩けなくはない距離ではあるものの、傾斜のある坂道を登ってくるのは結構骨が折れます。1日100円で園内周遊バスが乗り放題なので、体力に自信のない方にはそちらをお勧めします。  閉じる

    投稿日:2016/05/24

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基本情報(地図・住所・アクセス)

施設名
沖縄県営平和祈念公園
住所
  • 沖縄県糸満市摩文仁545
電話番号
098-997-2765
アクセス
那覇バスターミナル バス 85分
予算
【料金】 無料(一部施設を除く)
その他
バリアフリー設備: 盲導犬の受け入れ○
【規模】面積:3.1ha
公式ページ
詳細情報
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 公園・植物園

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