沖縄県営平和祈念公園
公園・植物園
3.98
沖縄県営平和祈念公園 クチコミ・アクセス・周辺情報
糸満・ひめゆり 観光 満足度ランキング 2位
沖縄戦終焉の地となった摩文仁の地にある県営公園。園内に建設された沖縄県平和祈念資料館・敵味方の区別なく沖縄戦で戦死した23万余の犠牲者の名を刻んだ平和の礎・国立戦没者墓苑がある。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
広々とした 沖縄県営平和祈念公園
4.0
- 旅行時期 2023/05
- by Tom Sawyerさん
沖縄バスの南部戦跡バスツアーに参加申込みをして、沖縄県立平和祈念公園に行くことできました。 レンタカーを借りないとなかな... 続きを読むか訪問するのは難しくと思います。 海沿いで広大な敷地です。 巡回バス100円で乗れるので、歩くのがイヤな場合は利用すると良いと思います。 平和の礎・国立戦没者墓苑は。沖縄戦戦没者の方のお名前が日本人外国人にかかわらず、全員載っているとのこと。 検索機能の機械も設置されています。 閉じる
クチコミ・評判 15ページ目
281~300件(全469件中)
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摩文仁の丘都道府県別慰霊塔の一番手前に位置します。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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島守の塔隣りにある栃木の塔は、栃木のご出身で沖縄戦を含む南方諸地域に於いて戦没された31,495名を祀っています。南方諸地... 続きを読む域30,819名、沖縄戦676名が合祀されている琉球王朝の?玉稜?の形式を取り入れた沖縄の伝統的墓型の一種である破風墓を模した墓はあまりにも沖縄の景色に同化し過ぎており、摩文仁の丘にある慰霊塔の中ではそれが逆に違和感を感じるところもあります。
主碑には琉球大理石トラバーチンが、副碑や踏み石に現地産の足尾産庚申御影石と大谷石がそれぞれ用いられており、その建立には現地の方の指導を仰ぐなどして、より沖縄に同化しているものとなっています。
私の場合祖父の出身が栃木なので、来る度に訪れていた場所ではあるものの、なぜこの場所に建立されたのかは知らないことでした。しかし今回の旅で知った終戦間際の混乱期に島田叡知事とともに沖縄県民のために奔走した荒井退造沖縄県警察本部長のご出身が栃木だということで納得しました。
兵庫県ご出身の島田叡知事の?のじぎくの塔?と?栃木の塔?、それに平和の礎とお参りする場所が増えたことにひとつ知識が増えたように思えます。 閉じる投稿日:2016/05/23
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主碑を両手で抱え込む姿をしています。
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- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘を登っていくとりんごの碑があるみちのくの塔の隣にある?岡山の塔?は、先の大戦に於ける岡山県ご出身の戦没者の方々3... 続きを読む3,799名を祀る慰霊塔として昭和40(1965)10月21日に建立されました。沖縄戦戦没者1,578名と南方緒地域戦没者32,221名を合祀する慰霊塔は、中心部の戦没者の御霊を両手で抱え込むような形をしています。
慰霊塔建立後毎年この場所での追悼式を行っていることを書かれている数少ない都道府県別慰霊塔のひとつであり、沖縄地域戦没者慰霊巡拝団を編成し、現地において追悼式を執り行っています。戦後70余年が過ぎ遺族の顔ぶれも変わってきている時代、慰霊巡拝団を結成されることは、遺族の気持ちを後の世代に引き継ぐには一番良い手段のように思えます。かたちだけの平和学習より余程効果的なように思えてなりません。
閉じる投稿日:2016/05/23
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りんごの碑が目印の慰霊塔です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘を登っていくと向かって左側にある最初の慰霊碑がみちのくの塔、即ち青森県の慰霊塔になります。青森ご出身の沖縄を含む... 続きを読む南方戦没者19,847名の慰霊のため、青森県の秀峰岩木山の原石を航路で運び、昭和39(1964)年11月11日に建立されました。?みちのくの塔?と刻まれている主碑のまわりを囲んでいる6枚の副碑は、戦没された場所を分けた6つの地域に見立てて作られています。諸地域別の戦没者?中部太平洋、日本近海、南西諸島方面(5,527柱)(※うち沖縄本島及び周辺地域544柱)、?ニューギニア、ニューブリテン・セレベス、ソロモン方面(1,217柱)、?比島、レイテ方面(8,053柱)、?マレーシア、スマトラ、ジャワ、ボルネオ方面(1,508柱)、?仏印、ビルマ方面(541柱)、?中国大陸、台湾、香港方面(2,455柱)がそれぞれの副碑に祀られています。
由来文の碑の建立は平成9(1997)年11月11日であり、世代交代が進むご時世に於いて?みちのくの碑?が建立された経緯を伝える重要性を挙げておられることは、県民からも多くの犠牲者を出した?戦争?というものを風化させない心意気が感じられます。慰霊塔入口には?りんごの形?をした碑があるため、多くの人々がビジュアル的にわかるようになっています。
閉じる投稿日:2016/05/23
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歓迎するわけではありませんが、秘密兵器と模った碑を持つ慰霊の碑です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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沖縄師範健児之塔へと向かう道中にある独立臼砲第一連隊戦没英霊之碑は、昭和13(1938)年に正式制定され、関東軍使い始めた... 続きを読む大威力奇襲兵器?98式臼砲?を模った慰霊碑です。昭和15(1940)年8月に満州公主嶺にて創設された対ソ連戦の部隊で、頑丈なソ連のトーチカを破壊するべく開発された?98式臼砲?が最初にあてがわれた部隊でもあります。
満州からガダルカナルへ転戦した後、そのまま戦機を逃し終戦を迎えた隊もあるものの主力部隊は昭和19(1944)年8月に沖縄へと移動し、翌年に始まった沖縄での地上戦に参戦しました。
秘密兵器とされた98式臼砲によって、一定の戦果は上がったものの物量に大きな開きがあるアメリカとの戦いは、日に日に不利な戦況になっていきました。そして昭和20(1945)年6月16日撃つ砲弾もなくなった独立臼砲第一連隊は、斬り込みを敢行したり自決をしたりで玉砕し、組織的戦闘を終えることになります。
所属する隊によっては生存された方も多く、その方々の尽力によって昭和56(1981)8月に独立臼砲第一連隊戦没英霊之碑が建立され、沖縄を含む南方戦線の連隊戦没者を祀っています。
明らかに?兵器?の形をした碑に嫌悪感を抱かれる方もいらっしゃるとは思います。言うまでもないことですが戦争そのものは肯定できるものではありません。しかし?秘密兵器?を預かった兵士の方々の気持ちを考えるとそれはそれでいいのではと思います。賛否両論がでることはわかりますが、毛嫌いして行かないのではなく、行ってみて考えることをすればまた新たな展開が待っている…そう思えてなりません。
閉じる投稿日:2016/05/20
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沖縄戦終戦間近の激戦地摩文仁に残る慰霊塔です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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沖縄師範健児之塔の手前、ちょうどトイレが設けられているあたりに入口がある南冥の塔は、沖縄戦に従軍された日系二世の米軍兵士で... 続きを読むあるヤマモトタツオ氏を中心とし、摩文仁集落の住民が協力しあって集めた約12,000人もの遺骨を集めて建 立された慰霊塔です。
沖縄戦に従軍していたヤマモト氏は、この地で見た母親の遺体にすがる幼児の姿を見たものの職務上見過ごすことしかできず、そのことがずっと心に残っていたそうです。
軍を満期除隊したヤマモト氏はすぐさまその記憶に残る場所に向かいました。収骨もされずに放置されていた多くの遺骨を集めて、この場所に収めたのは昭和29(1954)年9月のことでした。その後多くの遺骨は国立沖縄戦没者墓苑に移されましたが、現在でも分骨が残されています。
訪れる方も少なく静かな場所であるがため、天候によっては潮騒の音が聞こえてきます。すなわち海辺にあるということは、この地で進退極まった兵士住民、そして学徒の多くが追い込まれて自らの命を絶ちました。
魂魄之塔程古くはないものの、都道府県別慰霊塔が建立される前のまだ混乱が残る時期に、コンクリートブロックを積み上げて作られた納骨堂に、塔の建立に携わった人々の忠魂の気持ちの大きさを感じました。
ガイドブックには載らない戦跡のひとつではあるものの、塔隣りにあり火炎放射の跡が残る壕を含めて立ち寄って頂きたい場所のひとつです。 閉じる投稿日:2016/05/19
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神奈川ご出身で沖縄を含む南方諸地域で戦没された方々を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘都道府県別慰霊塔のひとつ神奈川の塔は、沖縄をはじめとした南方諸地域で亡くなられた戦没者40,680名の御霊を祀り... 続きを読む、恒久平和を願うべく、終戦後20年を迎える昭和40(1965)年11月26日に建立されました。県民400万人を超える方々の浄財を集めての建立ではあったものの時の流れには逆らえず経年劣化が進む中で改修工事の話が進み、戦後70年の節目の年を迎える少し前の平成26年(2014)年に3,000万円を超える寄付金が集まり現在のようになりました。
この神奈川の塔ですが、都道府県別慰霊塔には珍しく神奈川県からの情報が発信されているのが確認でき、毎年11月26日に神奈川県主催の南方諸地域戦没者追悼式典が行われているそうです。立派な塔だけを作るのではなく、その追悼式典の情報を容易に知ることができるのは、やはり戦没者慰霊の気持ちが伝わり、悲劇を繰り返さない気持ちの表れだと心から思います。 閉じる投稿日:2016/05/17
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沖縄戦に於いて組織的抵抗が終焉を迎えた場所です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 9
昭和20(1945)5月、首里城地下に司令部壕を構えていた沖縄守備第32軍は、戦況の悪化により首里を放棄し南部へと撤退しま... 続きを読むす。そして摩文仁の丘の壕を最終拠点とし抵抗を続けますが、圧倒的な兵力軍備に勝る米軍の前になす術がなく次第に追い詰められて行きます。6月に入ると海軍司令部壕も陥落し、摩文仁一帯も米軍に取り囲まれて先にも進めず後ろへも戻れない絶体絶命の中で学徒隊の解散が言い渡され、砲弾の飛び交う戦場を彷徨わざるを得なくなった学徒の犠牲者が日に日に増加していきました。
そんな中で昭和20(1945)年6月23日未明(22日説あり)には、最後まで戦い抜くようにと訓示をした第32軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将が摩文仁の丘の司令部壕で自決し、日本軍の組織的抵抗が終焉を迎えました。しかし米軍の掃討作戦は続けられ、最終的にアイスバーグ作戦と呼ばれた沖縄での戦いを終了宣言を出したのは7月2日のことになります。
多数の住民を巻きこんだ沖縄戦。なかでも日本軍最後の砦として軍民問わず多くの犠牲者を出したこの付近一帯を自然公園とする動きは、沖縄が日本に復帰する前の昭和40(1965)10月1日のことになります。その後日本に復帰するにあたり広域公園としての都市計画決定を受けた後事業認可を受け、昭和53(1978)年11月13日に開園しました。
摩文仁の丘にある慰霊碑群を合わせ、所属問わず沖縄戦に於いて戦没した20万人以上の氏名を刻んだ平和の礎。それに平和祈念資料館・平和祈念堂など戦争の悲惨さを後世に伝え、平和の意義を唱える場所として今日に至っています。
平和を願う気持ちは誰しも同じですが、その解釈は人それぞれあって当たり前だと思います。よく目にするこれみよがしに不明瞭な史実をあたかも事実かのように熱弁されている姿は正直見苦しい以外なにものでもありません。
平和教育はなにも答えを与える必要はなく、史実に基づいたことをいかに自分自身で導き出せばいい、それだけに尽きるのでは・・・と残念ながら思います。 閉じる投稿日:2016/05/15
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実は納骨堂があります。
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- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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沖縄師範健児之塔。摩文仁の丘の下にある慰霊碑ですが、沖縄戦末期に動員された沖縄師範学校男子部の生徒により構成された鉄血勤皇... 続きを読む隊の戦没者を祀っています。今回3回目にして初めて知った事実がありました。それは平和之塔の下には納骨堂が存在することでした。
沖縄戦が終わってすぐの混乱期に、少ない資材を使って建立された慰霊碑には、戦没された方々の遺骨を納めるように納骨堂が設けられたものも多く存在しました。時は流れ遺骨収集を国が行うようになると、様々な場所に散在していた遺骨を集めるようになります。摩文仁の丘にある国立沖縄戦没者墓苑がその場所になりますが、やはり亡くなられた場所で眠って頂きたい気持ちがあることも確かで、多くの場所に於いて分骨を残している事実があります。しかしその経緯が最近では不明瞭になっており、私のように納骨堂の存在すら知らなかった者も多いようです。
解散命令が出された鉄血勤皇隊の学徒は、頼るものもなく砲弾の飛び交う戦場に放り出されてしまいます。米軍の執拗な攻撃下で戦死するものや自決するもの、大多数の犠牲者を出しました。特に自決をした多くの学徒は現平和之碑の下に開口するガマで亡くなられたそうです。
確かにガイドブックにも載っておらず情報がなければわからないことかも知れません。しかし間違いなく70余年前にはこの地に学徒はいた・・・。その史実は知らなければならないように思えてなりません。
《追記》この沖縄師健児之塔に祀られている沖縄師範学校男子部生徒によって構成された〝鉄血勤王隊〟。その数少ない〝生き残り〟の一人であった元沖縄県知事の大田昌秀氏が、本日平成29(2017)年6月12日に亡くなられました。昭和元(1925)年6月12日生まれの92歳、本日が誕生日だったそうです。ご冥福をお祈り申し上げます。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-513319.html 閉じる投稿日:2016/05/10
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3回目の訪問です
- 4.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 0
昨年行こうと思ったらちょうど「慰霊の日(6/23)」で地元の方がたくさん歩いて祈念公園の方へ行かれていたので、諦めました。... 続きを読む
その前は冬の寒い日に行ったのですが、駐車場にチェーンがかかっていてお客さんも全然いませんでしたが、今回は修学旅行生や個人のお客さんがたくさんいらっしゃいました。
向かって右の方に各県の慰霊塔がありますが、ちょっと坂になっていて歩くのが大変かもしれません。
園内カート?みたいなのが出ていて1回100円で乗れるようでした。
とても広い公園ですが、芝生もきちんと整備されていてお休みの日にはピクニックで来られるお客さんもいらっしゃるとか。 閉じる投稿日:2016/04/27
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考えさせられます
- 4.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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摩文仁の丘の頂上に建立されている慰霊塔です。~黎明之塔~
- 5.0
- 旅行時期:2016/03(約10年前)
- 10
沖縄戦に於ける戦没者慰霊碑が数多く建立されている沖縄県営平和祈念公園の摩文仁の丘。当時八五高地と呼ばれたこの丘の頂上に一際... 続きを読む目を引く大きな塔が黎明之塔になります。
沖縄守備第三十二軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将は、沖縄戦の終焉が近い昭和20(1945)年6月23日(22日説あり)未明に塔に程近い司令部壕で自決され、それにより日本軍の組織抵抗は終焉を迎えました。
一連の過程に於ける解釈は今なお様々あり、司令官の降伏を許さず最後まで徹底抗戦することを訓示して自決したことにより、降伏できずに多くの犠牲者を出した史実は事実ではあります。しかしそれだけとは言い切れないところもあり、集合体としての組織が崩壊してしまったことに尽きると思えてなりません。悪い意味に捉えられがちな軍隊ではあれど、隊長命令に従えば良いというところはあったに違いありません。学徒隊の犠牲者にしても当てはまるところがあり、もし解散命令を出すタイミングをずらせば結果が変わると判断ができる隊長や指導者がいればどうなったか?変えられるものではないにしろ実例があるだけにやるせない気持ちになります。
またこの黎明之塔ですが、都道府県別慰霊碑よりも早くなおかつ立派で、なによりも平和の礎を見下ろすように建立されていることから、バッシングの標的になることが多いと聞きます。実際に訪れても立地には違和感は感じるものの、ただうわべだけの判断で全てを語ることは解決策には繋がらないでしょう。
史実を直視しどうすれば結果が変わっていたか?また変えられたかといった?史実?に基づく建設的な意見を組み立てることこそが、未来を変えることに繋がるのではないでしょうか?そう思えてなりません。
閉じる投稿日:2016/04/07
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ここは広いです。
- 4.0
- 旅行時期:2016/03(約10年前)
- 0
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戦争の悲惨さを訴える公園
- 4.0
- 旅行時期:2016/01(約10年前)
- 0
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沖縄戦で亡くなった方々の石碑があります
- 5.0
- 旅行時期:2016/01(約10年前)
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平和祈念公園
- 5.0
- 旅行時期:2015/12(約10年前)
- 2
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2015年9月。広大な公園です。すべてを回るには、たぶん、まる1日はかかるでしょう。
- 5.0
- 旅行時期:2015/09(約10年前)
- 0
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2015年6月23日現在、刻銘者数241,336人。県営平和祈念公園内に設置されています。外国出身者の方も刻銘されています。
- 5.0
- 旅行時期:2015/09(約10年前)
- 0
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平和の礎 沖縄
- 5.0
- 旅行時期:2015/08(約10年前)
- 0
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海に面した平和公園
- 4.0
- 旅行時期:2015/07(約11年前)
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20万人を超える名前が刻まれています
- 4.0
- 旅行時期:2015/07(約11年前)
- 0
投稿写真
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糸満・ひめゆりに行ったことがあるトラベラーのみなさんに、いっせいに質問できます。
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